金の衣・夢の灯り(後編) |
そうして、当日を迎えるまで、香鈴は梨映を磨きたて続けた。 香鈴の指導は、なかなかに厳しい。立ち方、座り方、歩き方を重視した。 「手の先まで神経を使いますのよっ」 実際に香鈴は手本を見せて、まねをさせる。 簡単そうに見えて、これらは実は難しい。しかも、身体が痛くなったりもする。 音を上げそうになる梨映を香鈴は叱り飛ばし、励ましながら続けた。逃げ出すことは許さなかった。 「あたしなんかに無理だよっ。香鈴さんみたいにはできないよ」 泣き言を言う梨映に、香鈴は苦く笑う。 「簡単にできないことはわかってますわ。わたくしだって、最初は途方にくれましたもの。でも、できなければ見捨てられるのでは……という思いが怖くて、必死で身につけましたのよ」 香鈴は、自分の素性を話してはいない。だが、元々は、お嬢様でもなんでもなかったのだ、とだけは言ってあった。 「それから、言葉遣いも少し直しましょう。”あたし”よりは、”わたし”の方がよろしいですわ。乱暴な言葉は使わないようになさってね」 梨映の言葉使いは、荒れてはいたが、それほど口汚いものでもなかったので、その点に関しては最小限に留めた。一度に全部はどう考えても無理であるし、大会で重視されるのは、はっきり言って見た目である。本来、中身である教養にまで手を出したいところだが、それは諦めた。また別の機会もあるだろう。 こうして、あっという間に、半月は過ぎた。 連日、夕食を共にすることになり、香鈴は食事にまで気を配った。栄養があり、肌や髪によいものを選んだ。 畑仕事で荒れた手も、毎晩の手入れのため、ざらつきが収まり、幾分白くもなった。 日に焼けた顔も同様である。 香を焚いて眠ることで、深い睡眠が取れ、肌は見違えるほどになった。化粧ののりが段違いだ。 丹念に梳られるようになった髪も、艶を増して輝いた。 仕草も言葉遣いも、少しずつではあったが、変わってきた。 梨映の両親も、娘の変化にさすがに気が付いたが、悪いことではないとむしろ歓迎した。 嫁に出してもおかしくない年頃であるが、十分な嫁入り支度もしてやれない。 内気すぎた娘は、これまで人目から隠れるようにしていたので、縁談そのものもなかった。 だが、このままいけば、いい家に侍女として勤めることができるかもしれない。そうなれば、案外、望まれての輿入れだって、ありえないことではない。 香鈴は、多忙だった。 州牧邸での仕事をこなす一方、梨映の衣装にさらに手を加えていったり、親しい人たちへの贈り物を用意したり。 この時期、 官吏たちは秋祭りの準備に追われている。 州牧である櫂瑜も、その補佐をする燕青も、櫂瑜に学ぶ影月も、州城での泊り込みが増えたが、梨映が毎晩やってくるので、香鈴の寂しさだとか、不満だとかは、幾分、紛らわすことができた。 今では、二人はかなり打ち解け、気安い雰囲気が流れるようになっている。 考えてみれば、香鈴にも年齢の近い同性の友人は少ない。思いつくのが、秀麗と春姫ではあるが、二人ともに単なる友人とは言いかねた。 いつしか香鈴は、梨映の訪れを心から歓迎し、一層梨映を磨きあげることに尽力した。 祭りまであと数日と迫ったある晩、門まで出て梨映を乗せた軒を見送っていた香鈴は、帰宅した影月と顔を合わせた。どうやら、影月ひとりが、先に返されたらしい。 香鈴は、いそいそとお茶の準備をして影月を労った。 ふたりきりになるなど、ずいぶん久しぶりである。 影月の顔には疲労が見えたが、昨年のようにくっきり隈ができるほどではなかった。 香鈴が茶請けに出した胡麻団子を頬張って、影月の笑みがこぼれる。 「なんか、こうして過ごすのって、久しぶりですよねー」 「秋祭りの準備は、進んでますの?」 「はいー。やることが次々見つかって大変ですけど」 「もう少しですわね。今年も、見回りに行かれますの?」 「その予定です。香鈴さん、一緒に行きましょうね」 もとよりそのつもりでいた香鈴である。意地を張りそうになるのを抑えてうなずいた。 「じゃあ、夜になったら、ここまで迎えにきますねー」 「その必要はありませんわ。大会のお手伝いと後片付けで、わたくしも州城にいると思いますから」 「ああ、大会。そう言えば一度お会いしただけですけど、梨映さんはどうですか?」 影月も、香鈴が梨映を大会に出場させるつもりで日々がんばっているのを知っている。帰宅が遅いので会わないだけだ。 「優勝候補に近づいたと思いますわ。楽しみにしてらして」 「……香鈴さんは出場しなくてもよかったんですか?」 香鈴ならば、贔屓目抜きにしても、いいところにいくのはわかっていた。もしかしたら、優勝だってしてしまえるかもしれない。 影月はそう思っていたが、出場して欲しくない、という気持ちも強かった。 州城でも、香鈴は官吏に人気が高い。 きれいで、有能で、上品で。 影月と香鈴のことを知っているひとたちの中には、正直に羨む者もいた。 もし、出場したら、もっと大勢に香鈴が知られてしまう。 影月には香鈴を手放すつもりなどなかったが、色々と悩みもあるお年頃だ。 恋敵が現れないなどと、そうそう楽観もしていられなかった。 「特に、興味もありませんし、お米もお酒もありますし」 「香鈴さんは、きれいな着物はいらないんですか?」 「もちろん、好きですわ。でも、今は着る機会もありませんでしょう?」 「ちょっと、見てみたかったです」 影月が見たいと言ってくれるなら、香鈴も気合が入るというものだ。 「それでは、お正月にでもお見せいたしますわ」 「えっ、香鈴さん、あんな着物持ってるんですか?」 そういえば、影月の前では、盛装などしたことがない。 「ええ。鴛洵様が用意してくださったものがありますの」 香鈴の目が遠くを見つめるものになった。 「――香鈴さん、今、しあわせですか?」 唐突に影月が問う。 今の自分では、香鈴をお姫様のように暮らさせることはできない。そんな負い目もある。 「そうですわね――」 香鈴は、傍らの影月に視線を投げた。 「どなたかがこちらにきちんと戻ってらして、ご一緒にお食事できればもっとしあわせですわ」 影月は少し赤くなり、秋祭りが終わったらと、貴重な約束をくれた。 そのまま、香鈴の隣に座って、手を取って、なんだかいい雰囲気になった途端――。 門の方からざわめきがして、慌ててふたりは離れた。 「じゃ、じゃあ、おやすみなさい」 影月は足早に部屋を出て行き、残された香鈴は、握られた手をそっと胸に抱きしめた。 茶器を片付けて、自室に戻った香鈴は、再び針箱を取り出した。 祭りまで、あと少し――。 秋祭りの前夜、香鈴は、梨映を州牧邸に泊めた。 櫂瑜たちは州城に泊り込みになると最初から告げられていたし、翌日は朝から忙しい。 肌の手入れをして、寝るばかりの準備も早めに済ませる。 ここまできたら、あとは肌の調子を整えるくらいしかすることがない。 二人の娘は、香鈴の部屋でとりとめのない会話をしながら、少しばかり手作業をした。 自分の一張羅に施された刺繍が香鈴の手によるものだと知って、梨映が教えてくれるよう頼んできたので、数日前より簡単な刺繍を始めていた。 以前、秀麗の指導ではじめた時には苦手だった香鈴の刺繍も、今や格段の進歩をとげていた。 今年の贈り物も、刺繍を多用したものにした。 (気に入ってくださればよいのですけど……) 去年とは事情が違うから、今年はなんの屈託もなく受け取ってもらえるはずである。 「梨映さんも、どなたかに贈り物されますの?」 それだったら、作るために必要な時間を香鈴が奪ったことになりかねないと、今更ながらに思った。 「いえ、そんな人いません。香鈴さんには、いらっしゃるんですか?」 毎晩香鈴と会話していたせいか、梨映の言葉使いもていねいになっていた。学ぶというより、うつったという方が正しいだろうが。 所作にも立派なお手本があるわけで、こうして針と格闘する姿も、なかなか淑やかだ。 「そうですわね。たくさんいらっしゃいますのよ」 「えっ?たくさん?」 普通なら、好きな男性にだけ贈るものなのだが、ここ州牧邸では去年より拡大解釈がまかり通っている。香鈴がそう説明すると、梨映はうなずいた。 「そうですね。本来大切なひとって、ひとりじゃありませんし。わたしも来年からそうしようかしら」 「来年までには刺繍の腕もあがってらっしゃるから、きっと喜ばれると思いますわ」 「でも、香鈴さんから贈り物をもらえる方はしあわせですね」 梨映の素直な賞賛の言葉に、香鈴は”本命”を思う。 どんなものにも、どんなことにもしあわせを見つけることができる人だ。きっと喜んでくれるに違いない。 自分にそう言い聞かせると、適当なところで刺繍をやめさせて、早い時間に臥台に追い立てた。豪華な客間にひとりで眠るのは落ち着かないと梨英が言うので、香鈴の部屋で一緒に休むことにしたのだ。 灯りを消した部屋の中で、安眠を誘う香が漂う。 「明日は――」 梨映が緊張した声を出すのを静かになぐさめた。 「大丈夫です。明日は、きっと梨映さんにとって忘れられない一日になりますわ。朝が早いですから、もうお休みになって」 やがて、優しい香りに包まれて、ふたりはぐっすりと眠った。 秋祭り当日――。 この日は朝からさわやかに晴れ上がって、昊は高く、青かった。 気持ちよく朝を迎えたふたりは仲良く食事し、浴室に向かう。梨映をそれこそ爪の先まで磨き上げると、香鈴自身も湯を使った。 部屋に戻って、すっかり晴れ着に生まれ変わった着物をていねいに着せる。 あれからさらに、小さな刺繍を布いっぱいに刺し、琥珀のかけらを組み合わせた小花を散らした。 着物には、品のいい香を燻らしておいたので、動くたびに、ふわりと香った。 やわらかい布で梨映の足に合わせた沓も、今回は間に合った。こればかりは、専門職にまかせたが。 そして、宮女として得た化粧術を駆使して、梨映を飾りたてる。 ほっそりと整えた眉。紅を刷いた唇。頬にも紅を少しのせる。 もともと、顔立ちは悪くなかった梨映だ。化粧ののりもよく、香鈴も腕をふるい甲斐があった。 髪も、艶やかに輝いて、ただ垂らしているだけでも目に快い。 この半月で、梨映に似合う髪形を研究しきった香鈴は、派手すぎず、若々しくなるよう、ちいさく髪を結う。髪紐と生花のかんざしを組み上げて、華やかさを出した。 爪をやわらかな桜色に染める。指の形ばかりはどうにもならなかったが、薄く染まった爪が、ちいさな貝のようにかわいらしい印象を与える。 すっかり支度の整った梨映は、始めて会った時とも、若手官吏に紹介した時とも、比べようがないほど美しかった。 香鈴はできばえに満足して微笑むと、手早く自分の支度を始めた。 数刻後、州牧邸の軒で会場に向かうふたりの姿があった。 軒の中で、香鈴は最後の助言をする。州城に着けば、香鈴は大会の手伝いに奔走することになる。一緒にいてやれるのはこれが最後の機会だった。 「ご自分に自信を持って。うつむいていては、誰にも気付かれません。背筋を伸ばして、堂々としてらっしゃい」 緊張した面持ちで、梨映はうなずいたが、この機会をのがしては、と質問を投げかけた。 「本当に、わたしがあの衣装を気にいったのが嬉しかっただけで、ここまでしてくれたんですか?」 香鈴は少し考えてから口を開いた。 「正直、すべて自分のためだったのですわ。もうひとりの、そうだったかもしれない自分をあなたに重ねたかったのかもしれません」 梨映が、目で理由を問う。 「わたくし、幼い頃に親とも死に別れ、飢え死に寸前のところをある親切な方に拾っていただきましたの。それこそ、お姫様のような暮らしをさせていただいて。 でも、あのまま、あの方にお会いしないまま生き延びていたとしたら、やっぱり、あなたのようにお姫様のような衣装や生活に憧れていたと思います」 香鈴は息を継ぐ。 「努力で得られるものがあることをあなたに知っていただきたかったのも本当ですし、毎晩、あなたが来られるのを楽しみにお待ちしていたのも本当です。――この時期、放っておかれて寂しいというのも、少しはありましたけど……」 そう、どれも本当のこと。理由はひとつではない。特に、これほどまでに梨映と親しくなった後では。 「本当に、楽しんでお手伝いさせていただきましたけど、わたくしにできたのは、あくまでもお手伝い。今日の梨映さんは、あなたの努力が作り出したものです。胸を張っていってらっしゃいませ」 香鈴は、そっと会場に梨映を送り出した。 「嬢ちゃん、あれ、どんな手使った?梨映、ますます美人になってたぞ」 控え室を覗いたらしい燕青が、忙しく最後の飾りつけを指示する香鈴のもとにやって来た。 「女の底力ですわ」 「……女は魔物って、よーくわかったよ」 首を振りながら、燕青は足早に立ち去る。彼とて、今日は忙しい。 「あーっと、時間になったら、ちゃんと影月に迎えに来させっから」 捨て台詞に香鈴の頬は朱に染まった。 だが、お楽しみの前に、まだやるべきことがあった。 (もう少し、がんばりましょう) 自分を励まして、香鈴は作業に戻った。 正午が近づくと、会場になる広場に、会衆を入れる。 審査員を兼ねる観衆は、それぞれ州城の門で小さな木ぎれを渡されていた。 審査方法は簡単だ。 会場には一段高くなった舞台がしつらえてあり、壇上に女たちが並ぶことになる。 審査をする大衆は、順番に、舞台に近づいて、自分が一番と思った出場者の前に置かれたかごの中に木ぎれをいれていくだけだ。それを係の者が集計して優勝者が決まる。 ――正午。広場は人で埋め尽くされていた。上々の盛り上がりだ。 公然の秘密として賭けも行われているようだったが、悪質なもの以外は取り締まっていない。会場の外、州城の門の外にも、入れなかった多くのひとが集まっていた。 大会が終わると、州牧が優勝者を連れて、軒に乗って琥漣内を回るのだが、州城の入り口あたりが、一番よく見えるのだ。 やがて、銅鑼が鳴らされ、開始が告げられた。 控え室で、梨映は必死で緊張と戦っていた。 ひとりずつ番号と名前を呼ばれて、舞台に消えていく。 自分の順番はもうすぐ。 「女は、度胸と愛嬌ですわ」 そう言って送り出してくれた香鈴の言葉を心の中で繰り返す。 控え室にいた女たちは、さすがに皆美しくて、容姿に関して自信など持てそうにはなかった。 だが、別の自信ならあった。 この半月、香鈴と一緒になってがんばったという自信だ。 あの衣装には手が届かないかもしれない。けれど、あの衣装に恥じないだけのことはしてきたのだ、と。 番号と名前を呼ばれた梨映は、背筋を伸ばし、しっかりと前を向いて、教えられた通り、すべるように歩き出した――。 香鈴は舞台脇でその様子を眺めていた。 なかなかの美女揃いだ。 貴陽で、宮城で、香鈴が見知っていた女たちに比べると、いささか見劣りするのは仕方がない。だが、活き活きしているという点では負けてはいなかった。 ひと括りに美女と言っても、それぞれが違った魅力を振りまいている。 皆、精一杯飾り立てているのがわかる。 その中で、梨映は決して目立つ存在ではなかった。 香鈴が尽力したとは言え、衣装だとて派手ではない。もっと高価な衣装の女たちの方が多い。 だが、綺羅綺羅しい衣装と華やかな化粧の中で、ふと梨映を見た時の印象は、決して悪くはなかった。牡丹や薔薇の華やかさではないが、野の百合のような美しさなのだ。 おまけに、何気ない所作も指先まで意識されていて、実に品がよく見えた。 (わたくしなら、間違いなく梨映さんを選びますけれど、どなたが選ばれるかはわかりかねますわね) 審査しようと集まったのは、大半が男性である。 女性と男性では感性が違う。 香鈴にはもちろんそれが判っていた。そして、ある程度は狙っていた。 かつて、彼女がいた王宮にいた宮女たち。それこそ最高級の美女揃いであった。 そして彼女たちは、男を虜にする技術もまた、最高級であった。 香鈴は宮女としては年若くその点に関しては未熟だったが、先輩諸氏からの助言は、今も役立っている。 痩せている梨映に、肉感的な魅力は乏しい。 だが、だからと言って、女らしさを出せないわけではない。 香鈴が狙ったのは、男性の庇護欲をそそる方法だった。元々、内気な梨映には、その素質があった。 一番には選ばれないかもしれないが、多くの男性から好感を得られるであろうと、香鈴は予測した。 (それに……) たとえ優勝できなかったとしても、その時には梨映に”ご褒美”として、自分の秘蔵の衣装の一枚を貸すつもりでいた。 出会った時の梨映には、そこまでするつもりはなかった。 だが、今の梨映であれば、努力の成果として”ご褒美”をあげてもいいと思う。 香鈴は、静かに会場を見守り続けた。 出場した美女たちの前に、すべての札が揃った。出場者と同数の係員が、銅鑼の音に合わせて別の篭の中に入れていく。十や二十ではないので、それなりに時間がかかるが、会衆の前で数えることで、公平さを強調しているのだ。 梨映も、他の美女たちも、目の前の篭から札が取り出され、投げ入れられるのをじっと見つめていた。 百を超えると、札のなくなる者も出始めた。二百を超えると、まだ札の残っている者の方が少ない。あと、わずか五人……。 (まだ、残ってる――) 自分に札を入れてくれるひとがいるだけでも信じられないと思っていたのに、これほどの数のひとが、自分を選んでくれた。 (もう、十分――) 香鈴が言った通り、この日を一生忘れることはないだろう。きっと、たびたび思い出す。 梨映は、集まった人々に向けて、感謝をこめた微笑を送った。 結果が出る前から、香鈴は舞台脇より、州城の入り口に程近い小部屋に移動していた。 優勝した美女は、こちらに案内されて、香鈴の手によって着付けされるのだ。 香鈴は衣装を土台から脱がせて、しわにならないように丁寧に扱う。 香を焚くことはできなかったので、袖の中に香袋を忍ばせる。 卓案の上には、鏡と化粧道具、装身具を使いやすいように並べる。 もう間もなく、琥漣一の美女が現れる。誰であろうと、精一杯美しく装わせること。それが今日の香鈴の役目。 香鈴は、扉が開かれる時を静かに待った。 やがて、ひとりの女が案内され、香鈴の目の前に立つ。 緊張を隠せない女に、まず今着ているものを脱ぐように告げる。震える指先を見かねて、結局、香鈴が手伝った。濡れた手巾で顔を拭かせて、化粧を一旦おとす。 素顔に下着姿の女に、まずは裾をひく下衣を着せた。淡い色の極上の絹が、流れるように肌に沿う。その上から透ける同色の軽い下衣を重ねて付ける。 同じ色目の上衣には、たっぷりとした袖がつく。ぬめるような絹が肌をすべる感触が快い。衿まわりには、透き通った薄い布が首元を飾るようになっている。前を軽く合わせて、胴衣を重ねていく。同系色の少しずつ違う色目が薄い色から濃い色へと重なる。一旦、紐で結び、ようやく表衣にかかる。彩七家の盛装であるから、威厳をかけて、枚数が多いほど良しとされるのだ。 金茶を基本とした表衣は、金糸と同系色の絹糸で小さな牡丹文様の刺繍がふんだんにほどこされている。縁飾りには、紅玉を組み合わせた複雑な文様の刺繍が豪華だ。 帯は、おさえた赤に金糸の刺繍。複雑な決まった結び方をし、長い端は、前に垂らす。 着付けが終わると、衣装に合わせて、化粧にとりかかる。派手すぎず、品よくまとめた。 髪は、大きく結い、若い娘らしさを強調する。金と琥珀と紅玉からなる簪は、琥珀でできた小鳥が紅玉の木の実をつつこうとして揺れていた。 首飾りと耳環りは簪と揃いで、小ぶりな耳環りは、紅玉の木の実。細い首飾りは琥珀の葉と紅玉の花が組み合わされていた。 仕上げに、表衣と同じ色目の絹の布沓を履かせる。実は、沓だけは足に合わせることが重要なので、似た色目の規格違いをいくつか用意してあった。 用意の整った女にも、鏡を手渡して検分させる。その口からこぼれたのは、ただ、ため息だけだった。 まさに、茶家の姫君のできあがりであった。 「さあ、櫂瑜様のところに参りましょう」 香鈴は、女の手をひいて、広場に向かう廊下へと導いた。 素直に歩き出した女だったが、数歩進んだところで立ち止まる。 「大丈夫、素敵なお姫様におなりですわ」 緊張と不安が足を止めさせたのだろうと判断した香鈴は、女を励ました。 だが女は、香鈴から手を離し、ふいに抱きついてきた。 ――”梨映”は、涙をこらえながら告げた。 「わ、わたし、あなたにとても感謝してるわ。言葉にできないくらい。色々なもの、たくさん、あなたからもらったこと、一生、忘れない」 「大げさですわね」 香鈴はなぐさめるように、梨映の背を叩く。梨映は首を振ると香鈴をまっすぐ見つめて言った。 「わたしが男だったら、きっとあなたに恋をしたわ」 「そ、それは……ちょっと……」 ふいにどこからか口をはさまれた。 「影月様……っ!?」 「えーっと、準備が終わったかどうか確認にきたんですけどー」 「今、参りますと、お伝えいただけます?」 「わかりました。香鈴さん、また後でー」 「お待ちしておりますわ」 衣装の重みと慣れない裾さばきのため、ゆっくりとしか進めない梨映と、つきそう香鈴を残して、影月はそのまま立ち去ろうとし、ふと気付いたように振り返った。 「梨映さん、おめでとうございます。とってもおきれいですよ」 かろうじて頭を下げた梨映と香鈴に微笑んで、影月は今度こそ足早に立ち去った。 梨映は、香鈴を顧みて首をかしげた。 「今の方は、前の州牧の……?」 「ええ。影月様ですわ」 「その……、もしかして、あの方が香鈴さんの一番大切な方?」 意外と鋭い梨映に、香鈴はただ、花のように微笑んでみせた。 それを見て、梨映はしみじみと思った。 (香鈴さんが出場してたら、間違いなく優勝できたと思うのに) 「香鈴さん……、今の顔、すっごく、きれい……」 「まあ、ありがとうございます。梨映さんにも大切な方ができたら、もっときれいになれますわ」 そうして二人は、今日の主役を待つ、広場へと向かった。 櫂瑜と、櫂瑜に導かれた梨映によって、始まりが告げられ、その声に応えて、大勢が歓声をあげた。 待ちに待った、祭りの始まりである――。 秋祭りは、本来、収穫を祝う祭りである。琥漣のいたるところに、花と供物に埋まる祠が見かけられた。 街の大通りには、出店が立ち並び、夜の帳が下りるとともに、一斉に灯が灯される。 道をゆくと、陽気なお囃子が耳に入り、うきうきした気持ちで、人々は祭りの空気に浸った。 呼び込みの威勢のいい声、楽しげに語らう声、楽士の奏でる調べ。 「いいお祭りになりましたねー」 のんびりした口調の影月と並んで、香鈴も祭りを楽しんでいた。 祭りそのものももちろん楽しいのだが、こうして影月と過ごせることのほうが、香鈴には重要だった。 しみじみと幸せをかみ締めていると、人ごみに、ふと影月の姿を見失う。小柄な香鈴には、人の壁に囲まれているようなものである。 「え、影月様っ」 心細くなって、小さく叫ぶ。 「こっちですー」 前方から声が聞こえて、香鈴は人波を縫って、必死に進む。 「ああ、よかった。はぐれたかと思いました」 香鈴の姿を見て、影月もほっとしたような声を出し、手をさしのべた。 香鈴は、しっかりとその手をとった。ぬくもりにようやく安堵する。しばらく、二人は無言で歩いた。 やがて、影月がぽつりともらした。 「去年のお祭りを思い出しますよね」 「ええ……」 去年の秋祭り。香鈴が自分の想いを自覚し始めた頃。厳しい占者の託宣と、陽月からの不吉な言葉に揺れ、影月の態度に変化が現れた頃。 「あの晩に、僕にはもう本当に僅かな時間しか残されてないってわかってしまったんです。正直、あんまり楽しめなかったんですよね……」 励ますように握った手に力を入れた香鈴を見下ろして、影月は続ける。 「こうやって、香鈴さんと手を繋いで歩くのは、僕じゃないって、思い知らされたっていうか」 影月は、そっと香鈴の手を握り返す。 「だから、まるで今が夢みたいに、何もかもががきれいに見えて。幸せすぎて死にそうですー」 「こ、こんなことで死なないでくださいっ!影月様には、もっともっと幸せになっていただいて、お祭りだって何度もご一緒して、ずっとずっと手を――」 「はい。繋いでいきましょうね」 こぼれそうになった涙をこらえて、香鈴は影月に笑顔で答えた。 「大会――、梨映さんが優勝して、香鈴さんにとってもすごくよかったと思いますけど」 滅多に見られない香鈴の笑顔に照れた影月は、そっと囁いた。 「大会に出なくても、香鈴さんが琥漣の誰よりもきれいだって、僕がちゃんと知ってますから――」 そのまま二人は仲良く出店を眺めて歩いた。歩き疲れて、茶店に腰をおろす。間もなく、運ばれてきた茶州名産の甘露茶を口にしてから、香鈴は手提げを開ける。 取り出した手巾で、人に押されて茶をこぼした影月の手を拭い、そのまま押し付ける。 「また濡れないよう、持っててくださいませ」 見ると、月を文様化した複雑な刺繍が目に入った。 「香鈴さん、これ――」 「今年も、皆様に刺繍の手巾を差し上げることにしましたの」 ”皆様”の一言に、影月の顔を複雑な表情がよぎる。 それは本当で、香鈴は櫂瑜、燕青、克洵、春姫らにも、手巾を用意していた。万が一、龍蓮がふらりとやってきた場合にも備えていた。龍蓮が香鈴の大切なひとのうちに入るかというと微妙であったが、影月にとって大切なひとであり、どのみち嫌でも長いつきあいになる可能性は高かった。 「ですから――」 香鈴は言葉を継いだ。 「影月様に残りをお渡しするのは、帰ってからにいたしますわね」 「残り、ですかー?」 実は、香鈴が手作りを始めたのは、夏がくる前からであった。あれがいいか、これがいいかと悩みながら作っているうちに、とんでもない量になってしまったのだ。編んだり、縫ったり、刺したりと、持てる技術をすべてつぎ込んで、知らない技術は研究して。 (全部一度にお渡ししたら、影月様、きっと驚かれますわよね?) 楽しい予感に、香鈴の口元はそっとほころんだ――。 櫂瑜とともに、街を練り歩く(軒に乗って、だが)大役を果たし終えた梨映は、街のひとたちのように出店をのぞいたりせず、まっすぐ帰宅した。 姫君のように飾り立てた娘に驚く両親に、大会で優勝してしまったことを告げると、疲れたからと、自室に引きこもる。 着付けの際に香鈴から教えられた通りにすると、半月前、どうやってもほどけなかった帯も、するすると解けた。 脱いでいった衣装をできるだけ丁寧に畳んで、髪をおろし、化粧も落として、夜着に着替える。 臥台に座った梨映は、だがすぐに横たわることなく、ちいさな布を取り出し、教わった刺繍を仕上げた。初心者ならではの簡単な図案、つたない腕ではあったが、心がこもっていることには自信があった。 (明日になったら、また州牧邸を訪ねよう。そうして、これを渡して、今度こそ、香鈴さんに本当の友達になってもらうのだ――。) 上治四年の茶州琥漣の秋祭りの夜は、そうして更けていった。 その後、大会で優勝した梨映の元には、振るように求婚者が殺到することになるのだが、彼女の手を取った幸福な男は、州牧邸で最初に彼女に見とれた生真面目な文官の青年であったという――。 |
(終)
目次
―後記― 『金の衣・夢の灯り』(きんのころも・ゆめのあかり) なんの疑いも持たず、まずえっち話(「早花月譚」ね)から書いてしまったのですが、 その後、同作品のファンサイト様を眺めますと、 しみじみ己の汚れ具合を反省するはめになりました。 そこで、本来萌えたはずの可愛いふたりを書こう、 目標は、ほのぼの・らぶらぶ・甘々だーっ、と考え始めました。 秋祭り、なんてものがありますし、舞台にするには格好です。 今年も手作り(小)物でより甘々なふたりなんていいかも…と ネタをこねくり回してる間に、出来上がったものは。 中華風マイフェアレディ…?しかも、香鈴が教授? おまけに、影月の出番がありません。 なるだけ増やして、すこしでも甘々に…なってるかな? 香鈴が男前です(笑) ラスト、このまま百合ちっくに走ろうかと思ったのは内緒です(苦笑) しかし、当初の予定ではもっと短いはずだったのにな。 衣装に関する記述はでっちあげ。 原作には、ほとんどまったく衣装の仕組みも形も出てきませんし。 おまけに、何より、準禁色が憎いです。 彩七家以外の人間は、どんな色を着ているかさっぱり不明ですし。 官服の色さえわからないのは、お手上げです。 あと、一部風俗に関しても、自己解釈で望みました。 そのあたりも、原作の描写、少なくてねえ。 オリキャラは、本来出したくなかったのですが、出さないと話が転がりませんでした。 そんなわけで梨映(りえい)という女の子をでっちあげたわけですが。 優勝させると話がうますぎるとは思いましたが、 優勝してくれないと衣装の説明ができないので、ご都合主義に走りました……(汗) 梨映はその後、どこかのお家の侍女になって、香鈴と仲良くやっていくみたいです。 お嫁にいくより、香鈴選びかねないのがちょっと……(苦笑) 最後に。 燕青には狂言回しっぽく動いてもらって、非情に申し訳なく思っていることを述べておきます。賢くて、シビアなはずなんだけどなー……。ごめん。私には無理(汗) |