青 嵐 (あおあらし) |
日に日に新緑の鮮やかさが目にまぶしい、そんな季節。 静かな夕べに、ひとり自室で筝(そう)を爪弾いていた香鈴は、ふと顔を上げる。 葉ずれの音が急に激しさを増して耳に届いたからだ。 立ち上がって窓から外を眺めると、時ならぬ強い風が梢を揺らしていた。 「青嵐(あおあらし)、ですわね――」 その風の中、一人庭院に立ち尽くす姿が見えた。 「影月様? こんな夜更けにお庭院で一体――」 踵を返して、香鈴は庭院に急いだ。 月下の恋人の姿が、月をかすめる雲の流れにさっと隠される。 「影月さ……」 呼びかけようとして香鈴は声を失う。 違う。 そこにいるのは――。 「陽月、さま――?」 声に応えるように振り返った双眸は、冷ややかに吊りあがっていた。 「――おまえか。相変わらず勘のいいことだ」 たちまち青ざめた香鈴は必死で問い詰めた。 「え、影月様はどうなさいましたのっ? まさか――っ!」 面倒臭げに“陽月”は髪を掻き揚げる。そんな仕草すらも、影月とは違う。 「安心しろ。影月なら入れ替わりに深く眠っている」 「いつまでですのっ!?」 「朝には影月が目覚めているはずだ。これは、突発的な事故のようなものだな」 香鈴は深く息をついた。知らぬ間に影月が消えてしまったわけではないらしい。 「おまえ、酒は飲めるか?」 唐突な質問に香鈴は目を丸くする。 「え? あの、嗜む程度でしたら」 「――まあいい。酒につきあえ。俺は影月の室にいる」 一人さっさと立ち去る姿を目で追っていた香鈴は、我に返ると庖廚に走り、酒肴を用意して影月の室に急いだ。 「陽月様、お待たせいたしました」 窓辺に佇む陽月の横顔に、我知らず香鈴の胸はしめつけられた。 その、あまりにも孤独な横顔。 そこには、香鈴の知らぬ深い闇があった。 卓上に酒肴を用意していると、振り向いた陽月が話しかけてきた。 「さっき、筝を弾いていたのはおまえか?」 「あ、はい――」 「腕はそれ程悪くないな。持ってきて弾いてみろ」 不思議と従わなければという気持ちになり、香鈴は素直にうなずくと、自室に筝を取りに戻った。 残された陽月は一人つぶやく。 「まさか、筝の音に引きずり出されるとは思わなかった――」 香鈴はやや苦労して筝を運び込むと、手早く準備を整える。 「何をお弾きしましょう?」 「蒼遙姫を――」 黙ってうなずくと、香鈴は弦に向かう。 『蒼遙姫』は二胡で演奏されることが多いが、筝でも好まれる。難曲だが哀愁に溢れた美しい曲だ。先ほど、香鈴が奏でていた曲でもあった。 常に世を憂う鴛洵を慰めようと、嗜みを超えて香鈴は詩歌・奏楽に励んだものだ。中でも、筝の調べは香鈴の得意とするところであった。 黙って杯を傾けながら、目を閉じたまま陽月は聞きいっていた。 (何か、この曲に思い出でもおありなのかしら――?) 筝を爪弾きながら、香鈴はそっと陽月をうかがう。だが、陽月の表情からは何ひとつとして読み取れなかった。 曲が終わると、陽月は香鈴に向かって杯を突き出した。 「筝はもういい。おまえも飲め」 「いただきます――」 陽月のために用意したのは上物の美酒。酒にはうるさい葉医師のお墨付きだ。 香鈴は一気に杯を干すと酒器を取り上げ、陽月の杯を満たす。そうしておもむろに姿勢を正すと、深々と頭を下げた。 「――なんのつもりだ、それは」 「あなたが影月様に与えてくださったすべてに感謝いたします――」 「おまえのためにやったわけじゃない」 「わかっております。けれど、わたくしの陽月様への言葉では言い尽くせぬ感謝の気持ちは変わりませんわ」 「ただのきまぐれだ」 陽月はふいと顔をそむけ、それ以上香鈴も何も言わず、ただ二人は黙々と杯を重ねた。 香鈴はさして酒が強いわけではない。そう時がたたぬうちにほんのり上気した顔で口を開いた。 ずっと胸の奥にくすぶっていた感情を今ならさらけだせる気がした。 「陽月様――」 「――なんだ」 「わたくし、ずっとあなたに嫉妬しておりましたの」 「藪から棒に――」 香鈴は長い睫毛の下から、睨みつけるように陽月を見た。 「影月様のお心には常に、陽月様、あなたへの深い愛がございます。そして、堂主様への――。 わたくしは、何度あなたになりたいと思ったことでしょう。 影月様に命を分けてさしあげることも叶わない、ただ人の自分がどれほど口惜しかったか――!」 陽月は黙って目をすがめて香鈴を見る。 支配下においた影月の感情は、すべて陽月の知るところだった。深い眠りについた後も夢のようにその思いを受け止めている。 今、目の前にいる少女を影月がどれほど愛しく、どれほど大切に思っているかすらも――。 (影月が惚れ、影月に惚れた女、か――) 自分が影月の二度目の願いを叶えた後、影月に残された時間は二年あるかないか。国試に挑んだ影月には余分な時間などさらに一秒もなく。 それなのに。 (まさか奴が女に惚れるとは。いや、それよりも――) 陽月は片割れに選んだ少年を思う。 頭は悪くない。だが、財産も家柄も後ろ盾すらない平凡な、むしろ貧相な少年。 その影月に想いを寄せる女が現れるなど、予想だにしていなかった。 しかも、誰が見ても美しいといえるほどの。 おまけに、失われるはずだった影月を必死で追ってきた根性もある。 「趣味は、悪くない――」 それは、影月に向けてか、香鈴に向けてのつぶやきだったか。 やおら立ち上がった陽月に、香鈴は酒でおぼろになった意識を向ける。 「どうなさいましたの? 陽月様」 自分が怒らせたかと咄嗟に思う。 振り返ればいつだって、自分には不吉な言葉しか告げなかった男。 「筝の、礼だ」 短く答えた陽月は香鈴に近づくと、やけに慣れた様子で頤に手をあて、あっさりと唇を奪った。 「――――!」 無遠慮に入り込んできた舌に、香鈴の身体は硬直する。 影月の唇、影月の舌。 だが、その動きは影月のものではない。 恋人のたどたどしい、けれどやさしい口づけとは違う、荒々しくもっと巧みな舌遣いに、香鈴の思考は途切れた。 長い口づけの後、崩れおちそうになる香鈴を抱え上げ、陽月はその襟元を乱暴に開く。 「置き土産だ。受け取れ――」 白い首筋に顔を寄せてそう囁くと、強く吸い上げた。 「朝までもつかと思ったが、時間切れだ。また、な――」 放心した香鈴の肩に頭を乗せると、陽月は動きを止めた。 「陽月、さま――?」 香鈴の声に応えて顔を上げたのは、“影月”だった。 「陽月――っ!」 ちいさく、もらされた声と、せつないものを孕んだ表情と。 それがあまりにも痛々しくて、香鈴は影月の頭を掻き抱いた。 「影月様……」 「陽月につきあってくれたんですね。ありがとうございます」 頭を巡らした影月の視界に、押し広げられた香鈴の首筋が飛び込む。 白い肌の上に残された、あかい、はなびら――。 あわてて首を隠そうとした香鈴の手をとどめて、どこか複雑な表情で苦く笑うと、影月もまた、そのはなびらに唇を落とした。 「え、影月様――」 影月の顔はうかがうことができなかったが、まるで泣いているように感じて、香鈴はそっと影月を抱きしめた。 くぐもった声がちいさく嘆願する。 「すみません、香鈴さん。今夜はもう少しこのままでいさせてください――」 「朝まで――?」 「ええ、朝まで――」 徐々に昊が白んでいく中、再び深い眠りについた陽月に思いを馳せて、そのまま二人は強く抱き合たまま立ち尽くしていた。 梢を揺らす風の音だけが、ただいつまでも二人の耳に響いていた――。 |
『青嵐』(あおあらし) 陽月×香鈴です。 まあ、最後は影月×香鈴なんですが。 いやあ、この陽月はとっても静かで優等生でした(笑) 鬼畜じゃないし(爆) 人間嫌いの陽月ですが、長い年月の中、 忘れがたいのは華眞と影月だけではないのではないかと。 そんな思い出が詰まった懐かしい曲を聞いて、 ふと浮上してしまった、という設定です。 『蒼遙姫』は、秀麗が朔洵に二胡で弾いたうちの一曲ですが、 まあ、他の楽器で演奏したってかまわないだろうと。 随分印象は変わるかと思いますが。 二胡の音色を始めて聞きましたら、 なんだかヴァイオリンぽいような気もしましたし、 筝は、日本の琴のような音色でしたから。 ここでの「筝」は「古筝」のイメージです。 サイズは163×36×8cmくらいらしいです。 だから、小柄な香鈴が運ぶのはちょっと大変で、 小さい「古琴」とどちらにしようか迷いましたが、 ビジュアル的にこちらに。 楽器としての美しさもさることながら、 演奏の様子が女性らしくしとやかな感じでいいな、と。 「古筝」は、中国では春秋戦国時代の頃にはすでに演奏されていたとか。 日本の琴の先祖にあたるようです。 どうりで音色も似てると思いました。 ちなみにタイトルの『青嵐』ですが、 これは若葉の頃に吹く強い風とのこと。 英語だとspring wind―って、そのままじゃん(苦笑) やはり日本語は美しいですねえ。 |