花待宵月〜立葵の章〜
(はなをまつよいのつき〜たちあおいのしょう〜)




 その花は、枝の下から上に順に花を開いていく。
 咲き始めると梅雨がきて、咲き終わる頃に梅雨が開けるという。
 長い雨が続くと、人の心まで光を失ったような気鬱に駆られる。
 けれどそんな季節にも、太陽に向かってまっすぐ伸びて、鮮やかに花は開き、見る人の心を和ませる。
 “彼”はあの花に似ている――。


 風邪をひいてしまった。
 名ばかりの春に、薄着で髪も十分に乾かさずにいた自分が悪い、と香鈴は臥台の上で自嘲する。
 熱が上がっていっているせいだろう。関節に痛みがあり、身体全体が重い。
 思考も、ともすれば筋道を失って、悪夢になる。
 こんな風に熱を出したときに見る夢は、子供の頃からなぜか変わらない。
 どこか、天井の低い洞窟の中で、恐ろしげな鬼たちに見つからぬよう、小さくうずくまっている夢。
 自分では息を殺して気付かれぬよう隠れているつもりなのだが、彼らは徐々にその輪をせばめて、自分に近づいて来るのだ――!


「香鈴さん? 大丈夫ですか? ずいぶん、うなされてましたよ」
 穏やかな声と、肩にかけられた手に揺さぶられて、香鈴は悪夢から戻ってきた。
「影月さま…」
「お熱、だいぶ上がってきましたね。喉、渇いてませんか?」
 重いまぶたを上げて、影月の手にした吸い飲みを見ると、耐え難い渇きを覚えた。
 香鈴が無言でうなずくと、影月は背中に手を回して、臥台に身体を起こすのを手伝い、震える香鈴の手に吸い飲みを支えながら渡す。
 湯冷ましが喉を通っていくのが心地良かった。かすかに薬特有の味と香りがしたが、気にもならなかった。吸い飲みの中身はあっという間になくなり、香鈴は物足りなさそうな顔をする。
 影月はそんな香鈴を見てふっと笑い、
「少し、待っててくださいね」
 と言うと、臥台脇の卓に近づいて吸い飲みを満たすと、再び香鈴に預けた。
 待ちわびたように吸い飲みに口をつけると、今度は少し甘く、先ほどより熱い液体が流れ込んだ。
 満足した香鈴から吸い飲みを回収すると、影月は香鈴を横たわらせ、額に絞った布をのせた。
「さあ、もう少し眠りましょう」
「影月様、ここにいてくださいます……?」
 先ほどの悪夢を思い出して心細くなった香鈴は、影月を見上げた。
「今日は僕はお休みですから、香鈴さんさえよければ、ずっと傍についていますよ」
 香鈴は手を伸ばして影月の袖を掴む。
「どこにも行かないで……」
「大丈夫。ここにいます」
 少し照れた様子の影月に気付かぬまま、安心した香鈴は眠りに落ちていった。
「ずっと、いますから。早くよくなってくださいね」
 かすかに頬に落とされた柔らかい感触にさえ、気付くことなく――。




 影月の声に安堵して、香鈴は眠りの扉をくぐる。
 そうして、ふと思い返す。
 ――そう言えば。初めて会った時は。




『すべて、わたくしがやりました――』


 香鈴が殺そうとしたその人は、黙って告白に耳をかたむけてくれた。
 責めるでもなく、咎めるわけでもなく。
 ただ、時間をくれと言われた。
 そうして、茶州に同行することも決まった。
 茶州――。あまりの英姫や春姫への扱われように、窮状を訴えるために飛び出した地。
 今、再び茶州へ赴くのは賢い選択ではないだろう。
 だが、もう決めたのだ。
 自分の人生を秀麗に捧げると――。


「静蘭と燕青は事情を知ってるんだけど、もうひとり一緒に行く子は、そもそも私が貴妃になってたなんて知らないのよね。まあ、いろいろ特殊な知り合いのせいで、何かあったんだくらいは察してるとは思うんだけど。
 香鈴との事情を話そうと思ったら、私が貴妃だったことから始めないといけないでしょ? でもって、殺すとか殺されるとか、そういう物騒な話、あんまり吹聴するようなことでもないし。
 だから。私と香鈴は、以前燕青に紹介された知り合い同士で、香鈴は茶家の窮状を訴えにきた侍女――で通すことにするから。多少の前後はあってもこれなら嘘じゃないから、これから出会う他の人にもそう言うことにするわ。……よく覚えておいてね? だから、なるべく、お互い自然に接しましょう」


 そうしてそのまま秀麗の家に連れていかれた。
 秀麗の父である邵可には、『後宮で仕えてくれていた子で、今は茶家にいる子』と簡単に紹介をまとめられてしまった。
 なしくずしに家事を手伝い、出発まで燕青共々居候まですることになって。
 そうして、その夜――。


「ただいま帰りました、秀麗さん。遅くなって、お夕飯の支度、手伝えなくてすみませんでしたー」
「気にしないでいいのよ。今日は私の方が早く終わったし。それに、他に手伝ってくれる子がいたから。ほら、手を洗って席についてよね」
「後片付けはお手伝いしますねー」


 はじめて耳に飛び込んできた声は、まだ大人になりきっていない少年のもの。どこか、のんびりした口調。丁度、庖廚の棚から皿を取り出していた香鈴の視界から姿は見えなかった。
 だが待つほどのこともなく、香鈴は“彼”を見ることになる。
 出来上がった菜を運んでいく秀麗の後を追って、香鈴は食堂に入った。
「秀麗様。盛り付けはこんな感じでよろしいですか?」
「うわあっ、すっごい美味しそう! ありがとう、香鈴」
「いえ。秀麗様のお菜がすばらしいからですわ」
「それは、食べてから言ってね。影月くん、卓にこのお皿置いて」
 ふと視線を感じて、香鈴はそれまでなるべく伏せていた顔を上げる。
 視線は、見知らぬ少年からのもの。きっと先ほどの声の主だろうと香鈴は判断する。
(なんだか、頼りなげな方ですわね――)
 そう。第一印象は決して良くはなかった。
 背も低くて貧相だ。容姿も並で、そこらの子供と言われても納得しただろう。
 特に、静蘭や燕青が横に並ぶとどうしても見劣りがした。
「あ、影月くん。この子は香鈴。やっぱり茶州から来たの。で、一緒に行くことになったから、それまでうちに居候。仲良くしてね?
 香鈴、こっちは影月くん。私の同期で、状元及第して、一緒に茶州州牧を拝命した子よ」
「はじめまして。影月です」
「香鈴と申します」
 自己紹介をした後も、なんとなく影月からの視線を感じた。
(わたくし、何か不自然なのかしら……。それにしても、この方が秀麗様より優秀な成績で及第されて州牧におなりだなんて、とてもそうは見えませんわ――)
 秀麗のことは信頼しているし、燕青のひととなりも知っている。だから大丈夫だとは思うのだが、州牧として戴くには不安が先立つ人事であった。


「やっぱ、姫さんの飯はうまいわ」
 遅れて帰宅した燕青が、しきりと舌鼓をうつ。
 以前、こっそり饅頭のお相伴に預かったことがあるとは言え、香鈴も秀麗の料理の腕がここまでとは思っていなかった。さらに言うなら、仮にも紅家直系の生活ぶりも予想外ではあったが。
「燕青、おまえは遠慮というものを知らないのか」
「だって、本当にうまいしさ。あ、静蘭、それ食わないんならくれよ」
「おまえにやる分などないっ」
 静蘭と燕青のやり取りに、秀麗がため息をついた。
「燕青、茶州州牧だったの嘘でした、なんて今更言わないでしょうね」
「んー、言ってもいいけど? 誰が聞いても冗談にしか思えないしなあ」
「荒れた茶州を十年間支え続けてた有能官吏のはずじゃあないのーっ!? ちょっと、私の尊敬の気持ちを返してよっ!」
 秀麗の気持ちもわかるのだが、共に一月の旅をしてきた香鈴には、燕青の懐の深さや、恐ろしさ、いざという時の判断力は判っていた。だが、表立ってかばおうという気になれないのも、燕青の人となりでもあったので、香鈴は沈黙を守る。

「すみません、あのー」
「なに? 影月くん?」
「結局、茶州に行くのは、秀麗さんと静蘭さん、燕青さんと僕……はわかるんですけど、香鈴さん、一緒に来る方が危なくないですか?」
 いきなり自分の名前が出て、香鈴は内心あわてた。出過ぎぬように、秀麗の役に立つように……それだけを呪文のように自分に課していたからだった。
「たぶん、道中は遠慮なしに凶手さんたちが襲ってくるのは間違いないぞ」
「真っ先に狙われるのはお前だろう」
 放っておくといつまでも憎まれ口の応酬を続けそうな燕青と静蘭の間に、秀麗はさっさと割って入る。
「ええと、でも静蘭は強いし、燕青も強いわよね?」
「それは保証します。腕っぷしで州牧に選ばれた男です」
「まあ、俺と静蘭がいたら、大抵は返り討ちにできると思うし、香鈴嬢ちゃんひとりのために、別の信頼できる護衛を探すのも正直難しいし。だったら、一緒に茶州に行く方が手っ取り早いからな」
「――足手まといにならぬようつとめますので」
「私だって、貴陽を出たこともないし、武器を持って戦ったこともないもの。香鈴と変わらないわ」
 秀麗の言葉に、香鈴の胸は震えた。この方のためにできることを――。

「まあ、心配せずともなんとかなるって。でさ、いろいろ打ち合わせもあるし、明日っから、俺も宮城行くわ」
 人一倍食べて、食後の茶をすすりながら燕青が告げると、秀麗は頭を振ってため息をついた。
「手配のこと考えただけでも頭が痛いわ。みんな宮城に行っちゃうけど、その間、香鈴はどうする? 汚いけど、うちにいる?」
 それでも、秀麗はきちんと香鈴のことまで考えてくれていた。そのことがひたすら申し訳ない。
「邵可様と秀麗様さえよろしければこちらに。家事や旅の支度を整えておきますわ。わたくしの宮城での用事は終了いたしましたから」
「あ、それ助かるかも。家のこととか、つい後回しになっちゃうのよね。ごめんなさい、父さま」
「私は大丈夫だよ。大変なのはわかってるからね。後で困らないように、よく相談してしっかり準備しておきなさい」
「申し訳ありません、旦那様。お嬢様だけでなく私まで――」
「静蘭も偉くなったんだから、気にせずお役目のことを考えていなさい。何かあったら、府庫に来ればいいから。そしてね、皆、一旦旅に出てしまったらゆっくりもできないだろうから、せめて貴陽にいる間くらいは早く寝て、身体をゆっくり休ませておきなさい。いいね?」
 一同は、揃ってうなずいた。
(さすがは、秀麗様のお父君ですわ――)
 香鈴もまた、素直に感心したのだが――。


「兄上。よろしいのですか。仮にも秀麗を殺そうとした娘です。同行させる必要などありません!」
「秀麗が認めたのだから、反対する理由はないよ」
「しかし! あの小娘も小娘です! よくもまた秀麗の前にのうのうと現れて!」
「……黎深」
「兄上は、腹が立たないのですかっ!」
「実際、秀麗には劉輝様がついておられたし、あの娘の稚拙な手で秀麗が危害に合う心配はなかったのだよ」
「万が一、ということもあります! それに今後、またしても悪意を抱かない保証はありません!」
「茶州には唆す古狸がいないから大丈夫だよ。それに、あの娘が同行することで秀麗の安全性も高まる」
「……身代わり、ですか?」
「うん。何しろ、十七歳の少女、としか凶手は知らないわけだから。似た年頃の娘が二人いたら、迷うだろう? おまけに、茶大保はよほどあの娘を大事に育てたらしいからね。“紅家の娘”と言っても通用するだろう。秀麗と並んでいたら、最初に狙われるのはおそらく、あの娘の方だよ」
「そういうことでしたら、仕方ありませんね。秀麗の安全が何より優先ですから」
(それにね――。秀麗は今は迷っているが、いずれあの娘を許して受け入れるだろう。そのことで、あの娘は恩義を感じて、文字通り命がけで秀麗をかばう。なんの見返りも必要とせずにね――)
 ――こんな一幕があったことを誰も知らず、ましてや香鈴が知るはずもなかった。


 夕食後、香鈴は後片付けを率先して初め、秀麗を少しでも休ませるよう庖廚から追いやった。だが先ほど後片付けを手伝うと言ったからと、影月が残った。
「あ、お皿は僕が洗いますから、香鈴さん、拭いていってもらえますか?」
 そう言われてしまっては素直にうなずくしかなく、香鈴は布巾を手にする。しばらく二人は黙々と皿の山と格闘していたが、一段落つくと影月が話しかけてきた。

「香鈴さん、茶州って、香鈴さんの目から見てどんなとこですか?」
「わたくしもよくは知りませんの。去年までずっと貴陽におりましたから」
 実際は、貴陽とてよく知っているわけではない。幼い頃市井で生まれ育ったとはいえ、鴛洵の元にひきとられてからはほとんど茶家の邸宅を出ていない。
 思い返せば、珠翠に連れられての茶州への旅と、燕青と共に貴陽へ戻った旅でしか、香鈴が『外』に触れることはなかった。だから影月に振られた内容にも、答えられるようなことはないと思った。
 しかし影月は何か納得したようににこにこ笑って会話を続ける。
「じゃあ、もともと貴陽の人なんですねー。僕は、黒州の田舎の出身なんで、いまだに貴陽に慣れないんですよ」
「その方がよろしいかもしれません。州都の琥lに住んでおりますが、だいぶ見劣りがいたしますもの」
 香鈴が垣間見た琥lは、貴陽に比べればまるで田舎で。そして、とてもみすぼらしく見えた。
「あ、そういうのが聞きたいんです。知識として勉強はしてますけど、こう、実際に行った事もないとこですから、知ってる人のお話の方がよくわかるっていうか」
 何か自分にも伝えられることがあるかと、香鈴はしばし考えて口を開いた。
「あまり、地元の方とも交流したりもしておりませんが、そうですわね。皆、萎縮した感じに思います。茶家の心ない方たちの専横に怯えている――。だからでしょうか、活気というものをあまり感じませんの。どことなくうらぶれている、という風で。それでも燕青様が州牧になられて、ずいぶんとましにはなったと聞きます」
「燕青さん――なんか、不思議な人ですよねえ。僕、会ったのこの間が始めてなんですけど、なんか、すとんと馴染んでしまう。懐の大きい方なんでしょうねえ」
「わたくしも、琥lから貴陽までご一緒しましたが、どんな時でも安心感を与えてくださる方ですわ」
「そんな人の後任なんて、責任重大ですよね。ものすごーく、がんばらないといけないなあ」
 とても重圧を感じているとは思えないのんびりした影月の口調に、本当に大丈夫だろうかと香鈴も内心危惧を覚えた。しかし――。
「秀麗様もいらっしゃるのですし、きっとうまくいきますわ」
 そう、秀麗が一緒であれば。
 許されることはないかもしれないが、自分はどこまでも秀麗についていく。どこまでも信じていくと決めた。贖罪のためだけではない。そう思わせるだけのものが、秀麗にはあるのだから。
「そうですね。秀麗さんとふたりっていうのは心強いです。僕なんて見た通り子供で、経験もありませんしー」
「ですが、影月様は、状元で合格されましたのでしょう?」
「それは、たくさん、たくさん勉強したからですよ。でも実際に政務につくには、それだけでは足りませんから」
「そのために、燕青様と悠舜様がお付きになられるのですわ」
「そうですね、頼もしいです。早く悠舜さんにもお会いしたいです。香鈴さん、悠舜さんには?」
「あいにく、お目にかかったことはございませんの。ですが、皆の話では穏やかで落ち着いた方のようですわ。――さあ、あとはわたくしがいたしますので、影月様もお休みになってくださいませ。明日も早くから宮城にお出ましになられるのでしょう?」
「じゃあ、お言葉に甘えます。香鈴さんも早く休んでくださいね。おやすみなさい」
「……おやすみなさいませ」




 それが、香鈴と影月の最初の出会い。
 ただ子供っぽく、頼りなくしか感じられなかった。
 特別な人になるなんて、思いもしなかった。
 そうして、それから……。

 香鈴はうつらうつらしながら、記憶をたどった――。




 貴陽にいる間も、実際に旅に出てからも。影月は香鈴をすっかり友人として受け入れたようで、なにくれとなく話しかけてくるようになった。
 秀麗との間には溝がある。親しい友のように振舞うことはできない。
 静蘭と燕青は、ずっと年上で。信頼はしているが、親しい、という関係にはまだなれないでいた。
 だがその点、影月は香鈴よりも年下で、実際一番年も近かった。
 いつも笑顔でのんびりした雰囲気の影月に対して、すぐに香鈴は警戒を解いた。むしろ、あまり要領のよくない影月を見かねて手伝うことも増えた。
 影月の存在は、ともすれば贖罪のみを思いつめていた香鈴にとって、自覚はなかったが救いになっていった。


「何をなさっておいでですの?」
 野宿の支度をするべく、銘々が立ち働いている中、道端にしゃがみ込んでいる影月を発見し、香鈴は声をかけた。
「ああ、薬草を見つけたので、摘んでるんです。咳とか痰とか、風邪の時によく効くお薬になるんです」
 答えながら、影月は手を止めずに作業を続ける。
「この葉っぱですの? これなら、よく見かけますわ」
「ええ。大葉子っていいます。道端によくはえてるんです。葉っぱも種もお薬になるんですよ」
「お手伝いいたしますわ」」
「助かりますー。よくある草なんですけど、摘んで乾燥させとかないといけないんで。使う時には、乾燥させたのを煎じて飲んだりします」
 香鈴も影月と並んで草に手をかける。
「影月様は、そういった薬草とかにくわしくていらっしゃるんですか?」
「僕を育ててくださった人がお医者だったんです。僕も最初はお医者になるつもりだったんで、色々覚えました。官吏になることを選びましたけど、けっこう、役に立ってます」
「育てて……」
「ああ、僕、拾われたんですよ。でも、すごくいい人で。貧乏でしたけど、一緒にいられて幸せでした」
「わたくしも……」
「え?」
「いえ、なんでもありませんわ。――これくらいでよろしいですか? 秀麗様のお手伝いに参りますので」
「ちょうどいいくらいです。一度にあまりたくさんは持ち歩けませんし。ありがとうございました、香鈴さん」
「いえ……。失礼いたしますわね」


 気安くはなったとはいえ、あまり深いところまで話したことはなかった。だが他人に育てられたという共通点が、なんとはなしに嬉しく、つい口をすべらしそうになった。
(今更――、話しても仕方がないのに。それとも、自分の話を聞いて欲しかったのかしら……)
 影月が自分の境遇をどう考えているかも聞いてみたかった。どんなふうに幸せだったか聞いてみたかった。
 そう。香鈴は、“影月”という少年のことを知ってみたいと思うようになっていた。
(いつも笑ってらして。悩みとかもあまりなさそうでいらっしゃるけれど、本当はどうなのかしら?)
 だから影月が薬草を採ったりしているのを見つけると、なんとなく手伝うようになった。
 しかし――。

「あ、香鈴さん、それは違います! お薬にならないんです」
「……芹に似ているように思いましたの」
「ええ。よく似てるんですけど、毒芹って言います。……さわっちゃだめですよ。葉っぱも茎も根も、強い毒があるんです。食べちゃったりしたら、死んでしまう場合もあるんで、気をつけてくださいね」
「お花もかわいらしいのに、毒なんですのね」
「観賞用に植える人もいるらしいです。よく見かける木やお花でも、毒性の高いものがありますね」
「どういったものがございますの?」
「えーっと、八手とか鳥兜とか、夾竹桃とか。木でも、櫟はお薬にもなりますけど、使い方を知らないと危ないです」
 影月はそういった知識に関してであれば、すらすらと答える。思わず、関心して聞き入っていた香鈴の手がたまたま側に生えていた草に当たった。
「あっ!」
「葉で切りました? 見せてください。――傷、洗いますから、少ししみますよ?」
 慣れた手つきで水入れを取り出し、香鈴の傷ついた指先を洗う。
「切り傷にきく塗り薬です。こういう傷って、案外深く切れますから」
 影月は小袋から取り出した薬を塗っていたが、ふいに動きを止めた。そして、自分の手の中にすっぽりおさまった香鈴の小さな手をじっと眺めている。
「なんですの?」
 不審に思って香鈴が問いかけると、我に返ったように影月は苦笑した。
「香鈴さんに薬草採るお手伝いなんか、させちゃいけなかったかなー、なんて」
「わたくしが、役立たずだからですかっ」
「違いますよ。ほら、香鈴さんの手、白くてすべすべで。いいお家で大切に育てられたお嬢さんなんだって、わかりますから。僕の手だったら、今の草くらいならたいしたことにならないんです」
 治療の終わった手をもう片方で包むように隠した。
 すべらかな白い手。貴婦人の手はそうあるようにと教わった。だが、今はそんな自分の手が情けない。
「……これまで、こういったことをしたことがなかったのは本当ですわ。それでも、これからは何でもできるようになって、秀麗様のお役に立ちたいんですの」
「秀麗さんだったら、香鈴さんのそういう気持ちだけでも喜んでくれますよ?」
「あなたには、わかりませんわっ」
「そりゃ、僕は事情を知りませんけど、でも香鈴さんがもっと肩の力を抜いた方がいいってことは、わかります」
「生意気なこと、おっしゃらないでください!」
「すみません。でも香鈴さん、すごく必死で。もちろん、必死で何かすることが悪いっていうんじゃないんです。でも今のままだったら、なんか、ぽきっといってしまいそうっていうか……」
 影月が、心底香鈴を心配してくれていることが伝わった。それを嬉しいと思う自分が、香鈴には許せなかった。そんなことも許されるはずはないのに。
「……されないことを――」
「えっ?」
「なんでもありませんわ。そろそろ馬車にもどりませんと」
 まだ何か言いたげな影月を残して、香鈴は踵を返す。
(影月様といると、忘れそうになる。自分が罪人だということを――)
 夏が訪れようとしているのに、香鈴は寒いと思った。だがそれは、決して心の問題だけではなかったのだ――。




 貴陽と琥lを結ぶ道を旅する時、香鈴の心は常に何かでいっぱいになっていた。
 珠翠と一緒に辿った時は喪失と後悔に喘ぎ、燕青との旅路は時間との戦いで。そうして今回は、秀麗への罪悪感で。
 それらの感情がなければ、姫君のように暮らしていた香鈴にとって耐え難い旅だったであろう。馬車は揺れが激しく節々が痛むし、固い地面に横たわると快適さとは程遠い。疲れているから眠れるけれど、その眠りは十分とは言いかねた。常にはりつめていた心が熟睡を許さない。
 本来、州牧の就任ともなれば、華やかな隊列を組んでゆったりと快適に旅するものだろう。だが、今の自分にはそんな旅は相応しくないと思った。心にも身体にも贅沢を許す気にはなれなかった。だから、これでいい。
 ただ、秀麗にはもっと楽な旅をして欲しいとは思った。秀麗とて貴陽を始めて出る。決して旅慣れているわけではないのだ。
 その秀麗が弱音を吐かないのに、この道を辿るのも三度目という自分が、どうして弱音など吐けよう?

 そうして少しずつ崩れていく体調は、ついに発熱という形であらわれた。
(たいしたことはない、たいしたことはない……)
 呪文のように自分で自分に言い聞かせて。決して皆の――秀麗の足手まといにならぬように。
 自分は、うまくごまかせていたと思った。秀麗も、燕青すらも気付かなかった。
 なのに、どうして影月が気付いてしまうのだろう――!


 あからさまになった体調はもはや隠しようもなく、香鈴は力なく馬車の壁にもたれていた。
「香鈴さん、砂恭の街が見えてきましたよ。もう少し、がんばってくださいね」
 有無を言わさず今度は薬を服用させながら、影月がはげます。
「あなたが、余計なことおっしゃるから――」
 他の誰にも聞き取れないほどの小声で、つい愚痴が飛び出した。
 違う。悪いのは自分なのだ。慌てて言葉を継ぐ。
「いえ、今のは、違います。わたくしが悪いのです。ただ――」
「まあ、僕のせいにしてくださってもかまいませんけどー。でも今のうちにばれちゃって、よかったですよ。もっと熱があがってきたら、とても旅なんてできませんから」
 燕青の言葉に反省もした。秀麗にはひたすら申し訳なかった。そして影月には――。


 香鈴にとって、鴛洵は「すべて」であった。
 秀麗は、今の香鈴にとっては神に等しかった。ただ、がむしゃらな思いだけがあった。
 では、影月は?
 香鈴が思わず他の誰にも言えない愚痴をこぼしたり、八つ当たりまでしてしまう影月とは――?
 振り返る旅の日々。
 香鈴は影月といると呼吸ができる気がした。年下で、小さくて。なのに、香鈴を包み込むような大きさがあった。
(影月様は、そう、まるで大気のような――)
 だが、とりとめのない熱に浮かされた思考は、深く繋ぎとめる前にどこかに流されていった。


 次に気付いた時には、砂恭の宿屋の臥台の上だった。どうやってここまで来たのか、誰かに抱えられたような記憶もある気がしたが、定かではない。
 心配そうな秀麗の顔が視界に飛び込んできて、ただ詫びることしかできなかった。
 身体は辛かったが、それよりも心が悲鳴をあげ続けていた。

「こんな……はずじゃ……なかったのに……」
 秀麗が室を出たあと、思わずこぼれた言葉に聞き慣れた声が答える。
「大丈夫ですよ。誰も怒ってませんし。元気になってから、その分返せばいいんです」
「わ、わかったようなことばかり、おっしゃらないで……!」
 弱音を聞かれたことに動揺して、またしても険のある言い方をしてしまう。
「本当に大丈夫ですって。香鈴さん、ずっとがんばって、いっぱい我慢もしてきたでしょう? 僕にとっては今まで一番楽な旅ですけど、香鈴さんにとっては、きつい往復の旅だったはずですよね」
「きつくなんてありませんわ……」
「そんなはずないですよ。お熱が出たのは、香鈴さんの身体からの警告なんです。これ以上無理しちゃいけないっていう」
 臥台の横に置かれた小卓の上でなにやらしていた影月が香鈴に向き合った。
「すみません、お薬飲んでいただきたいんで、少し身体を起こしてもらえますか?」
 香鈴は重い身体を起こそうとしたが、思う通りにならない身体は、再び臥台にくずれかける。
「と……っ!」
 咄嗟に影月が背中に手を回して支え、なんとか起き上がることができた。だがまるで力の入らない香鈴は、そのまま影月にもたれかかってしまった。
「も、もうしわけ……」
「か、かまいませんよ。このまま僕が支えてますから、お薬飲んでください」
 思っていたよりもはるかに力強い手に支えられて力を抜いた香鈴は、影月の小さな慌てように気付くことはなかった。
 素直に差し出された薬を口にする。
 ……薬というものは、どうしてこう、いつだって苦いのだろう。小さな子供でもないので、苦い薬が嫌だと駄々をこねるようなことはないが、思わず眉間にしわを寄せる。
「すみません、苦いですよね。飴とか、用意すればよかったですねー」
 香鈴の表情を読み取った影月の台詞に、香鈴はむっとする。
「子供扱いは、なさらないでください……!」
 だが小さく弱々しい抗議には、苦笑がかえってくるばかり。薬を飲み終わった香鈴をそっと寝台に横たわらせると、影月は枕のそばにおちた布を拾い上げ、冷たく絞って額の上に乗せる。
「ほらもう、しゃべらずに目を閉じてください。目が覚めたら、ずっと気分がよくなってるはずですから」
 冷たい布は心地よく、意識は急速に失われようとしていた。
「………ますの?」
「はい?」
「目が……覚めたら。まだ……取り返せますの?」
「ええ。きっと――」
 優しく微笑まれた気配が、そっと香鈴を包んだ――。


 だが、まどろみは長くは続かなかった。
 いきなり室に飛び込んできた燕青に掛布にくるまれたかと思うと、影月に押し付けられていた。
 状況がわからず眼差しで問いかけると、影月は指で静かに、という仕草をしてみせた。
 秀麗は臥台の下に押し込まれたらしい。聞こえてきた文句の言葉は、静蘭と燕青に遮られる。
 程なく役人らしき集団が、遠慮もなく踏み込んできたことで、香鈴は状況を悟る。
(追っ手に見つかって……!)
 捕まってしまう、と香鈴の顔から血の気がひいた。
 臥台の前に、かばうように立つ二人の青年。燕青は強い。それは、同行した旅で実感していた。おそらく、静蘭とて相当の腕前のはず。しかし多勢に無勢で、どこまで踏みとどまれるだろう?
 飄々とした燕青の受け答えは、そんな緊張をいくらか緩和させた。しかし――。
 役人のふとした一言がもたらした、二人の青年から発せられた殺気――。香鈴は護られているはずなのにあまりにも恐ろしく、影月にしがみつく。影月からもかすかな震えが感じられた。
(これが、殺気というもの……)
 瞬間、香鈴は察した。この二人は、明確な意思を持って他人の命を奪ったことがあると。それも、一人や二人とは思われなかった。きっと、夥しい血が流されたであろう。
 自分が秀麗に抱いた殺意など、これに比べれば児戯のようなもの。もちろん、許されないことに変わりはないのだが。
 やがて、唐突に殺気は消されたが、香鈴にはその記憶がしっかりと刻まれたのだった。

 そのことに気を取られている間に、抵抗もせず一行は捕縛された。
 当然、香鈴も臥台から引き立てられる。身体に力の入らない香鈴を支えながら、影月は訴える。
「手荒なことはしないでください。この人は病人なんです!」
 そうして影月は、香鈴にはこう囁いた。
「僕によりかかっていいですから」
「申し訳……」
 少し動いただけで息があがった。どこをどう辿ったのか、それすらわからぬまま、室から宿屋から砂恭から追い立てられ、紫州からさえ追い立てられ、そこはもう茶州。崔里の関塞が冷たく待ち構えていた。


 関塞――いわゆる関所は、石造りの堂々とした建物であった。だが、華やかさも居心地の良さとも無縁な、無骨で硬質な印象ばかりが感じられる。
 引き立てられた一行は、関塞に入ったと同時に二組に分けられた。静蘭と燕青。そして、影月と香鈴に――。
「そっちの小僧と娘は、上の室に連れていくようにとの命令だ」
「たしかに具合が悪そうだな。高級な宿のようにはいかないが、食べ物と薬を用意させよう」
 朦朧としていた香鈴は、そんな声を夢うつつに聞きながら、やがて意識を失った。

 次に香鈴が目を覚ました時、そばにいたのは影月ひとりだった。
 秀麗と、燕青と、静蘭と。無事でいて欲しいと心から願う香鈴は、自虐的な発想に捕らわれる。
「わたくしなど……置いて逃げればよろしかったのです……!」
 だが、影月は慰めるでもなく、にこにこと笑って彼特有の口調と論法に引きずり込んだ。つられて笑みをこぼした香鈴は愕然とする。
(笑うなんて……! そんなこと許されるはずも許せる状況でもないのに)
 そんな香鈴の心中を知ってか知らずか、影月は現状を説明する。途中、何故か少し顔を赤らめたのは、気のせいだったのかもしれない。
 自分は秀麗と間違われて捕らわれた。秀麗の身代わり。それを成し遂げることは確実に秀麗への手助けとなる。香鈴はやりとげてみせる、と強く誓う。
 意欲に燃える香鈴だったが、ふいに告げられた影月の台詞に瞬間、言葉を失った。
「香鈴さんは、笑ったほうがずっとずっと素敵ですよー」
 頬を染めながら、照れ隠しの言葉をつぶやいて。そうして思う。
(影月様の前でなら、少しは笑うことも許されるだろうか――?)


 その室への訪問者は、二組いた。
 控えめに扉を叩いて滑り込んできた姿に、香鈴は小さく声をあげた。
「克洵、さま――?」
「君は――っ!」
 その顔は、鴛洵の弟の孫にあたる茶克洵。人の良さそうな青年は、すぐにかぶりを振った。
「……いや、僕は君を知らない。ここにいるのは、州牧のはずだから」
 凡庸という噂はあった。だが、香鈴は鴛洵の孫娘春姫から克洵の人となりを聞いていた。
(克洵様なら、茶家の方たちの中でも話が通じるはず――)
 克洵は、あたりをはばかるように早口でまくしたてた。
「もうすぐ、ここに僕の兄が来る。なるべく、逆らわないほうが安全だから。あと、地下牢の燕青さんと武官の人の様子は確かめて、水とか食料は都合するから。それだけは言っておこうと思って」
「ありがとうございますー。でも、どうして?」
「僕には、それくらいしかできることがないから――」
 自嘲の笑みを浮かべた克洵は、また様子を知らせるとだけ告げて、そっと部屋を抜け出して行った。


「香鈴さん、今の人、ご存知なんですか?」
「はい。亡き茶家当主の弟君、茶仲障様の一番下のお孫さまの克洵様です」
「なんか、あの人は悪い人じゃなさそうな感じでしたけど」
「克洵様は、茶家の中でただお一人、英姫様と春姫様を気にかけてくださっていました。ですが、茶家の中では軽んじる方も多くて――」
「そうなんですか? でも、僕たちには心強いですよね。燕青さんと静蘭さんもごはんが食べられそうですしー」
 牢屋、それも地下牢などというものを香鈴は見たことがない。だがそこが快適とは程遠い場所だということは知っている。貴陽からの旅など、安楽にさえ思えるかもしれない。
「燕青さんも静蘭さんもきっと大丈夫です。人間、ちゃんと食べて寝ていればどうにかなります。だから、香鈴さんも――」
 影月が言葉を終えないうちに、荒々しく扉が開かれ、もう一組の訪問者が現れた。


 入室してきた二人の男を目にした途端、香鈴は臥台に横たわっていることもできずに身体を起こした。
(なんという、禍々しい……!)
 静蘭と燕青の発した殺気を恐ろしいと思った。だが、この男たちは。
 脳裏に、鴛洵の妻、縹英姫の言葉が思い出される。仲障の年長の孫を彼女は『血に飢えた愚かな狂犬』と端的に吐き捨てたものだった。こうして直接対峙した今なら、その言葉の意味もよくわかる。
 そうして、もうひとり。
 口調に荒々しさはない。知性さえ感じさせられるのに、刃を喉元に当てられている気になった。
 名乗りもせずに唐突に、その男は質問を放った。素直に影月は答えていたが、香鈴はそんな法を知らない。
 単なる良家の子女で通すことはできるだろう。彩七家の姫だとて、ほとんどそれに近い育てられ方をした香鈴にとって、むしろ自然に振舞いさえすればいい。だが、香鈴が演じなければならないのは、国試を探花で及第した、紅秀麗なのだ。
(もし、答えられないことを問われたら――?)
 その時点で身代わりは発覚する。香鈴が軽く唇を噛んで、どのように切り抜けようか考えている間に、男の質問がきた。
「では娘、詩仙・茗茜子がその名を高めるきっかけとなった詩の暗誦を」
 咄嗟に頭に浮かんだのは、助かった、ということだった。乾いた唇を開き、香鈴は息を吸って、一挙に詠いあげる。熱のため、声が震える。でも、今声を出さねばどうなるか。香鈴は必死に途切れそうになる声を押し出した。
 とりあえずは本物、という評価を受けて、香鈴はわずかに安堵した。そうして、侵入者の会話に注意を向ける。影月の言った、『金華に連れて行ってくれる人』というのは、おそらく彼らのことだ。だが、会話は思わぬ方向に向かう。
(秀麗様をこの男の弟の正妻にですって――!?)
 無意識に厳しい言葉が飛び出す。
「ありえません!」
 彩七家の直系長姫に、こんな屈辱的な婚姻を許せるはずもない。怒りに震える香鈴の前から、やがて男たちは消え去った。


 草洵と冥祥を言葉もなく見送って。室の中には沈黙だけがあった。しかしそれを打ち消すように、影月は笑いながら香鈴を振り返った。
「はは……緊張しましたよねー。でも、本物だって思ってもらえたみたいだし、金華にもちゃんと連れていってもらえるみたいですし。よかったですよねー」
「結果はそうかもしれませんけど……っ!」
 あまりにのんきな影月の口調に、香鈴は思わず噛み付く。
「かなり、ひやひやしましたけど?」
 そうは思わせない飄々とした様子の影月だったが、ふいに満面の笑顔になる。
「秀麗さんの身代わり、香鈴さん、本当に適任でしたよねー。本当言うと、病気だって言ってごまかそうと思ったんですけど、あの暗誦はすごかったです。あれで、ますます信憑性が出ましたしー」
「たまたま暗誦は得意でしたの」
「ちょっと知ってる人だって、有名どころだけ覚えてるものでしょう? でも、香鈴さん、あれちゃんと百二十行、覚えてますよね? 韻も声調も完璧でしたし。僕、あんなにきれいなこの詩を聞いたのは始めてでした。元気になったら、全部ゆっくり聞かせて欲しいですー」
 そんな場合ではないというのに、香鈴の心に誇らしさが浮かび上がる。
「熱が下がりましたら――。でも、わたくしへの質問が詩の暗誦で正直安心いたしました。影月様への問いにでしたら、わたくし答えられませんでしたもの」
「まあ、国試受験者とかでない限り、知りませんよね。そうすると、あの冥祥って人も、相当勉強してることになりますねー」
 関心するところが違う、と内心香鈴は思いつつ、影月に提案する。
「わたくし、完璧に秀麗様の身代わりを勤めたいと思っております。先ほどの影月様への質問、秀麗様も答えられたはず。もう、質問されたりすることはないかもしれませんけれど、わたくしは答えられなくてはいけませんの。影月様、わたくしに、お勉強を教えていただけますか?」
 影月は、あっさりうなずいてみせた。
「そうですね。お熱の具合を見ながら、少しずつお勉強しましょう。金華まで時間もありますし、僕も復習になって一石二鳥ですね」
 一石二鳥、という言葉に、先ほどの影月の倹約方法を思い出して、香鈴の頬がゆるんだ。
「でも、今日はもう休んでください。僕じゃ頼りないですけど、傍についてますし、香鈴さんのことは、出来る限り守りますから――」
(生意気ですわ――)
 そう口にしかけて、なんとか沈黙を守った香鈴は、素直にうなずいて目を閉じた――。


 崔里関塞での日々は、そうして始まった。
 香鈴の“紅家直系の姫”の演技は、ますます堂に入ってきた。視線、言葉、仕草。どれをとっても、「高貴」「気品」に充ち、日に一度は現れる草洵に向ける視線は、気位の高い姫君のもので。病のやつれが徐々にとは言え払拭されていくと、元々の美貌も冴え渡る。
「また、おいでになったのですか、草洵殿」
 臥台の上からとは言え、見上げる香鈴の視線には侮蔑がこめられている。藍家に次ぐ紅家の姫ならば、格下の茶家など相手にするはずもない。ましてや、草洵は鴛洵の血縁とはいえ直系ですらない。
「いつまでわたくしたちをこのように拘束しておかれるつもりです? このような侮辱を受ける謂れはございません。紅家から手痛い報復を受けられる前に、思い直してくださいませ!」
 香鈴がまくしたてると、すかさず影月がなだめにかかる。
「まあまあ、秀麗さん。草洵さんの僕たちへの扱いは、それほど悪くはありませんよ? そりゃ、紅家での暮らしのようにはいかないでしょうけどー」
「このように弱い身体しか持たぬ我が身が口惜しい……!」
 未だ臥台から起き上がることもままならぬ状態は嘘ではない。微熱の続く身体は重いままだ。だが、高熱から解放されて朦朧とした状態から脱したこともあり、必死で頭を使う。
「決して、あなたのように卑劣な方を兄などとは呼ぶことはございません!」
 香鈴は知っている。貴族の娘、それも大貴族ともなると庶民から見ると呆れるほどの矜持を持つことを。秀麗や春姫はあくまでも例外だ。後宮の女官たちですら、どれほど誇り高かったか。
 紅貴妃としてはじめ香鈴が出会った少女は、楚々とした仕草も美しい淑女で。だがそれだけではないものを感じさせられて、素直に憧れたものだった。
 しかし通常人が思い浮かべる名家の姫であれば、ただ秀麗の――かつての紅貴妃をまねしただけでは納得されまい。誇り高さを強調することで、かえってそれらしく感じられるだろう。
「俺だって、おまえみたいにつんけんして口やかましい、うちのお袋たちみたいな義妹なんざ欲しくねえよ、本当はな」
 草洵の表情は、本当に嫌そうで。茶家直系の母や祖母は、今の香鈴のようであったのだろう。そうしてきっと、軽蔑と嫌悪の眼差ししか、注がれたことはないだろうと簡単に思い当たる。香鈴が秀麗の身代わりを演じているわけでなかったとしても、この男に軽蔑と嫌悪を感じないでいられる自信はまったくなかった。
「じゃあ、弟さんへの縁談でよかったですよねー」
 場違いなほどにこにこと、影月が口をはさむ。途端に、草洵もそれに気付いたとみえ、矛先をおさめる。
「そうだ、俺の嫁にするわけじゃないんだから、金華まで我慢すりゃいいんだよな。ったく、朔洵が自分で迎えに来りゃよかったのによ」
「朔洵さんという人は、草洵さんみたいに強い人じゃないんですかー?」
 のんびりとした影月の口調に、やや苛立ちながら、それでも気をよくした草洵は答える。
「あいつは、人一倍軟弱よ。ツラは、女どもがよろこびそうなおきれいなもんだがな」
「あー、それって、不思議ですよねー? 強い人の方がかっこいいと思うんですけどー」
「まったくその通りだぜ。……お前ら、俺がいなくてもおとなしくしてろよ。まあ、逃げられるわけはないがな」
「たぶん、絶対無理ですねー」
 のほほんとうなずいた影月を軽蔑の眼差しで見返すと、草洵はさっさと室を出て行った。ただし、「また明日来るからな」と言い残して。


「今日もなんとか切り抜けたみたいですねー。香鈴さん、お疲れ様でした」
 影月の笑顔を見て、香鈴は張り詰めていた緊張を解く。
「わたくし、不自然ではありませんでした?」
「とんでもないです。僕の方こそ信じてしまいそうになります。秀麗さんは、ここぞという時の立居振る舞いは本当にきれいだったんですけど普段は庶民的でしたし、紅家直系って聞いて驚いたくらいです。だから、今の香鈴さんだったら、かえって思ってた通りで納得できるっていうかー」
「少し強調しすぎかとも思うのですけど」
「その方が、草洵さんにはわかりやすくていいと思います。あの人は、なんというかあまり深く考えたりしない感じの人ですしー」
「……その通りとは思いますけど」
 いつもの口調ではあるが、意外に影月は草洵に辛辣だった。

 前日も、高貴な姫を演じる香鈴にさんざん苛々させられた草洵に、ひょいっと違う話題を振っていた。
「あの瞑祥ってひと、頭がいいんですねー」
「そりゃそうだ。あいつが、十四年前につぶされた“殺刃賊”を立て直したんだからな」
「はー。僕は、黒州の出なんでよく知らないんですけど、“殺刃賊”って、すごかったんですかー?」
「あたりまえだ! この茶州を恐怖で支配した極悪盗賊集団だぞっ」
 熱意をこめて、草洵はかつての“殺刃賊”の「活躍」を嬉々として語った。聞いていた香鈴は気分が悪くなるような内容だというのに。
 草洵が去ったあと、影月は彼を評して言った。
「まるで――子供がおとぎ話の英雄にあこがれてるみたいですよね。すっごい物騒な英雄ですけど」
 的確だった。
「単純で扱いやすい人ですけど残虐な子供ですから、僕はなるべくおだてあげてみますね。香鈴さんは今の演技を続けてください。香鈴さんに簡単に迎合するような演技してもらったら嘘っぽいし。僕だけでも、気分をよくさせておかないと――あの人は下手に怒らせると後先考えずに暴力を振るうでしょうし」

 そんなやりとりを思い出しながら、香鈴は影月を見上げた。
「あまり無茶はなさらないでください」
「それは、大丈夫ですー。僕は自分で言うのも変ですけど、あんまり人に警戒されないんですよね。特に、あんなふうに力がすべての人からしたら眼中にもないでしょうし」
 そうして、影月は今度は労わるような視線を香鈴に向けた。
「具合はどうですか? お熱はだいぶ下がったようですけど」
「身体がだるくて、力が入りませんの」
「それじゃあ、起き上がるのはまだ待った方がいいですね」
「――影月様、先ほどの八政の続きを教えていただけますか?」
「ちゃんと、横になってくれたら、お話しますー」

 捕らわれた初日に約束した通り、影月は香鈴に勉強を教えはじめた。もちろん、人が何年も必死になって覚える内容だから、一朝一夕に身に付くものでもない。そこで、概略から始めた。国試に必要とされる学問がどのようなものなのか、またそのおおまかな内容を語った。
 何度も何度も影月の中で咀嚼された内容は、それまで縁のなかった香鈴にもわかりやすかった。もっとも、宮女としての選抜試験を潜り抜けた香鈴であったから、国試に必要とされる貴族的な教養などは申し分なかった。
 途中から口頭だけではどうにもならなくなったので、扉の前で見張る役人に頼んで、書物と筆記用具を借り受けた。関所であるだけあって、影月の望む書物はだいたい揃った。
「香鈴さん、すごく覚えが早いですよねー。いっそこの先もお勉強続けて、会試受けて、秀麗さんの後輩目指してみますかー?」
 香鈴の具合を見ながら、勉強は主に昼間行われた。
「無理ですわ」
「でも、暗誦も詩作も完璧ですし、それだけでも強みです。僕はそのあたりに苦労しましたけど。あとは算術と政事とー」
 秀麗の後輩、という言葉にしばし考えるが、脳裏に鴛洵の生き様が思い起こされた。国のために。民のために。どれほど鴛洵は心を砕いていただろう。
「……わたくしは、たぶん、大勢の民のためには生きられません。深く心に留めた方が、ただ幸せになれるよう、その方のお役に少しでもたてるよう。それで精一杯――。官吏になるには、向いておりませんわ」
「無理に勧める気はありません。選ぶのは香鈴さんですし。でもまあ、ちょっともったいないですよね」
 影月の言葉に、香鈴は苦い思いから覚めて微笑んだ。


「しかしおまえら、なんでまた毎日、くそつまんねー勉強なんかしてんだ?」
 例によってずかずかと室に押しかけた草洵は、書物の山に眉をよせる。
「えーと、僕たち、経験も実績もありませんし、僕なんて後見もありませんから、勉強くらいできてないと。それに、他にすることもありませんしー」
「俺は勉強なんざごめんだがな。だが、まあ、騒ぐわけでも逃げ出すわけでもねえし、せいぜい勉強でもしてろって。ああっくそっ! 辛気臭いおまえらの相手なんざ放り出してえよ!」
「毎日お部屋に来ていただかなくても、逃げたりしませんよー? 逃げられるわけもないですし。僕はあなたみたいに強くないですし、秀麗さんはまだ身体がよくないですしー」
「瞑祥に約束させられたんだよ!」
「でも、瞑祥さんって、金華に向かわれたんでしょう? わかんないんじゃないですかー?」
「……それもそうか。――なんだ? 俺にこられると迷惑なのか?」
 珍しく草洵がうがったことを言う。実際は、来られると迷惑、というか寿命が縮む。
「僕はかまいませんけど、あなたがつまらなさそうなんでー」
「まったくだ。おまえらが体力自慢の腕自慢ってタイプなら、もっと楽しめたんだろうけどよ! せめて、燕青の奴をぶっ殺せるんなら我慢もできるんだがな! くそっ、立会いでもしてくるわっ」
 そうして、草洵は足早に室を出て行った。相手をさせられる部下には気の毒だが、正直ほっとする。

「影月様。明日は草洵様、来られないかもしれませんわね」
「来られると緊張しますし、ずっと来ないでいてくれてもいいんですけどー。あんまり来てくれないと、金華に連れてってもらえませんし、それはそれで困るんですよね」
「……無事に、連れていってもらえるでしょうか?」
「あの瞑祥って人には逆らえないみたいだし、一応は大丈夫だと思いますけど、いざとなったら、僕があの人のおじいさんを当主に推してもいいって取れるように、話してみます」
「それはっ! だめですわ! 仲障様は、当主の器ではございません!」
「もちろん、本当に認めたりなんかはしませんけど、向こうが誤解するのは勝手でしょー?」
「……影月様、案外、お人が悪くていらっしゃいますのね」
「それは、まあ、命もかかってますしー。やっと国試も受かってこれからなのに、こんなところで死ぬくらいだったら、どんな策略でもたてちゃいますよ」


 彼が時折漏らす過去の生活は、裕福さとは程遠い。勉強ひとつするにしても、その環境では満足な教育など望むべくもない。どれほどの努力があったのか、計り知れない。
 ようやく、国試に合格して。そう、影月はこれからなのだ。
(わたくし、今まで秀麗様のお役に立てるように、足手まといにならないようにとばかり思っていたのだけれど……)
 秀麗の身代わりをやり遂げることは、影月にとっても重大なことなのだ。そのことを改めて香鈴は胸に刻んだ。


 真夜中、ふと目をさますと、室の中にぼんやりした灯火が浮かんでいる。臥台代わりに影月が使っている長椅子の上で、起き上がって何か考え込んでいる姿が見えた。
 この崔里関塞に捕らわれてから、香鈴は影月が眠っているところをほとんど見たことがない。もちろん体調のせいで気付かないということもあるだろうが、おそらく、影月の睡眠時間は短い。香鈴の看病のため。しかし、それだけとは思えなかった。
「あれ? 香鈴さん目を覚ましちゃいました? 具合、悪くなりました?」
 香鈴の様子に気付いた影月が、長椅子を離れて近寄ってきた。額に手をやり、うなずく。
「お熱はもう大丈夫ですね。今夜はこのままよく眠ってください」
 影月がどんな時でも与えてくれる微笑みに、守られていることをなんとはなしに香鈴は感じた。


 草洵は、確かに丸一日はやって来なかったが、翌々日には再び姿を現した。日に日に、草洵の中で苛立ちが高まっていく。ほんの少しのきっかけで、彼の理性は飛び散るだろう。
 とは言うものの、本物らしく演じ続けるためには、怒らせるのを覚悟しなければならない。
 その日、入室してきた草洵は、たまたま臥台のそばにあった書物を取り上げた。
「こりゃなんの本だ? りょう……りょう・そうざん……?」
「まあ、あなたはかの名詩人、稜筝山もご存知ありませんの? 我が家でしたら五歳の子供でも知っていましてよ」
 稜筝山と言えば、確かに有名な詩人で。貴族なら知っていて当たり前、少しばかりの教養があれば庶民でも知っている者は多い。茶家の他の面々であればやはり知っていただろう。この草洵が、勉強嫌いのために身に付けていなかっただけなのは明白だった。
 香鈴は心からの軽蔑をこめて、草洵を切り捨てる。
「茶家は彩七家のはずですが、お話になりませんわね」
「いつもいつも、むかつく女だなっ!」
 草洵の拳があがる。
(殴られる!)
 身体を硬くした香鈴だったが、咄嗟に影月が草洵と香鈴の間にすべりこむ。
 がっ、と鈍い音がした。
「影月さ……影月殿っ!」
 倒れてきた影月の身体を必死に抱えて、香鈴は叫んだ。
「小僧が、邪魔すんじゃねえっ!」
 香鈴に支えられた影月は、意識をはっきりさせようと首を振り、顔をしかめた。
「こ……、紅家の姫君に手を上げるのはやめたほうがいいです……」
「てめえの指図なんざ受けねえよっ!」
「安全に……彼女を金華に送るって、丁重にって、あの瞑祥って人も……」
「くそったれ!」
 瞑祥との約束を思い出したのだろう。それだけ言い捨てると、乱暴に草洵は室を出て行った。


 影月の頭を抱えた香鈴は、こぼれそうになる涙を必死でこらえた。
「どうして、わたくしをかばったりなさいましたのっ!」
「だって、僕はこれでも男ですから、香鈴さんより丈夫です。あんな拳受けたら、香鈴さんなんて軽く吹っ飛んで、骨くらい折れても不思議じゃないですし」
「こ、紅家の姫なら、あれくらい言って当然だと思ったのですわ……」
「そうですねー。言っても不思議じゃないと思いますー。稜筝山なら言わない方が不自然でしたし」
「でももう、こんな無茶はなさらないでください」
「えー、それはですねー。あんまり約束できないかもですー」
 思わず、香鈴は影月をきっと睨み付けた。
「懲りない方ですわねっ!」
「うーん、そうかもしれませんねー。ああ、でも香鈴さん、だいぶ元気になられてよかったですー。明日くらいには、床から出られますね」
 まったく堪えた様子のない影月に、香鈴の力は抜ける。
「克洵さんが来られたら、もう大丈夫だって言えますね。燕青さんたちもお待ちかねでしょうし」
「そして、皆で金華で合流いたしますのね」
「ええ、金華で」


 その日の夜半、燕青たちは逃げ出し、草洵から克洵が引き継いで二人を金華に連れて行くことになり――。
 次々と浮かぶ思い出の日々は、どれもかけがえのないもの。
 けれど、あの崔里関塞でたったふたり、命の危険を常に感じつつ過ごした七日間は、影月との距離を格段に縮めた。
 あの時、絶望に浸ってもおかしくない状態で、影月からどんな時でも向けられる笑顔は、香鈴に希望を抱かせた。
 そうしてそんな強さが、香鈴に影月を一人の男として意識させはじめたのだから。




 香鈴は、ふいに夢の世界から引き戻された。
 そう、ここはもう崔里関塞ではなくて。あれから一年以上が過ぎて。
 だがまだ夢うつつだった香鈴は、夢の中で気になったことを無意識に口にしていた。
「約束を――まだ果たしていませんでしたわ……」
「なんの約束ですー?」
 自然に答えた影月にうるんだ瞳を向けて香鈴はつぶやく。
「熱がさがったら、茗茜子の詩を暗誦するとお約束しましたのに――」
 少し考えた影月だったが、ぽんと手を打つ。
「あー、そういえば、お願いしましたっけ。崔里関塞で」
 香鈴の額に手を当てて熱の具合を確かめた影月は、
「さっきよりは熱が下がりましたね。お粥をもらってきましたけど食べられそうですか?」
「少しなら……」
 うなずいた香鈴に手を貸して上半身を起こさせると、影月は小卓から盆に載った器を引き寄せる。
「じゃあ、早くよくなって、今度こそ香鈴さんの暗誦を聞かせてくださいね」
 素直に粥を口にしていた香鈴だったが、だんだん頭がはっきりしてくると思い出したことがまたあった。
「影月様?」
「はいー?」
「そう言えば、いつか聞きたいと思っていたことがございますの」
「なんですか?」
 粥の器を遠ざけて、もう食べられないことを示してから、香鈴は続ける。
「始めて貴陽の秀麗さまのお宅でお会いした時のこと、覚えていらっしゃいます?」
「それは、覚えてますけどー?」
 もう、随分昔のことのような気さえする。たった二年足らず前のことなのに。
「あのお夕食の時、影月様、わたくしの方をずっと気にしていらっしゃいましたよね? あれは、どういうことだったんですの?」
「どうって……」
「得体の知れない女がいきなり加わって、危惧でもされてましたの?」
「それは……そういうんじゃなっくって、ですねえ……」
 歯切れの悪い影月の瞳をじっと見返して香鈴は待った。
「あの時、わたくしは確かにかなり思いつめておりました。やはり不穏な印象でしたでしょうか?」
 盆を卓に戻して、やがてあきらめたように影月は口を開く。
「……たんです」
「はい?」
「香鈴さんは、そのー、僕が思い描いていたお姫様そのものでー」 
 影月の瞳がまぶしそうに細められて香鈴を捕らえた。
「あんまりきれいで、ずっと見とれてたんです……」
 たちまち香鈴の頬が朱に染まる。まさかそんな理由だったなど思いもしていなかっただけに。
「あ、でもですねー」
 慌てた影月に見られないよう袖で顔を隠しながら後をうながす。
「……なんですの?」
「あの時の香鈴さんもきれいでしたけど、今の方がずっときれいですからー」
 勝てない、と香鈴は思った。でも負けてばかりも悔しいので、臥台から枕を取り上げて影月の顔にぶつけた。
「生意気ですわ!」
 お得意の台詞に、くぐもった笑い声が返った。


 香鈴の風邪は、きっとすぐよくなるだろう。
 そうしたら、影月に約束の暗誦を聞かせよう。
 香鈴はまた眠りにおちる。
 もう、悪夢は見ない。
 伸ばした手に応えて、つないでくれる手があるから。
 本当の春は、もうそこまで来ていた――。

目次




















―後記―

『花待宵月〜立葵の章〜』
(はなをまつよいのつき〜たちあおいのしょう〜)



影月の香鈴看病話を書こうとして、
そういえば、原作でもあったなあと、茶州行きの旅を思い返したら、
あまりの萌えシチュエーションにくらくらきました。
こんな美味しい状態に何故盲目でいられたのか、と。

命が危険にさらされている場面で、ふたりっきりの男女とくれば、
これはもう、ロマンスの定番(爆)
危機を乗り越えるごとに深まるふたりの絆。
身を挺して女を守ろうとする男。
その男のお荷物にならないよう無理をしてでもがんばる女。

最初、影月視点で始めたら、少しも萌えません。
やっぱり、守るより守られる方が萌えますから、香鈴に視点をチェンジ。
そうしたら、その頃って、香鈴ものすごく暗いんですよね(苦笑)
しかも、うっかり出会いから始めたら、いつまでたっても
そのシーンまでいかないし(苦笑)
いざそのシーンにたどりついたら、ちっとも色っぽくならないし……。


章の名前は当初、芙蓉でした。
夏に咲く花の中から、いくつか候補を上げて。
この花言葉がぴったりで。
「繊細な美」「しとやかな恋人」とかなのです。
花季も夏ですし。美人の形容にも使われますし。

しかし。
視点を香鈴のものに変更したことで、芙蓉は使えなくなりました。
影月は、芙蓉では、絶対、ない(笑)

「梔子」「金糸梅」なども考慮しました。
梔子も良かったのですが、花言葉が「とても幸せです」
…この状態で、それは、ちがうだろう、と。

結果、立葵に。
花季は、6月から8月。花葵、梅雨葵とも呼ばれます。
中国原産で、あちらでは、唐以前には蜀葵と呼ばれたとか。
で、立葵の主な花言葉ですが、
平安・単純な愛・快癒・野望・大志・なぐさめ・温和
などなどです。
また、「責任ある立場になった時、威厳を発揮できる人」とかもありました。
英名の意味は「神聖」と「ぜにあおい」がくっついています。
日本には室町時代に入ってきました。
薬用植物のひとつで、蜂やさそりに刺された時に葉が使えたり、
虫除けになったり、葉はお茶に、花は食用になるそうです。
赤い花は、ミョウバン媒染を加えて、染料としても使えるとか。
明るい褐色に染まるそうです。
なんだか色々お得なところも、影月にふさわしい気がして選びました。


二次創作、というものがどこまで許されるのか、まだよくわかっていません。
いや、本来許されないものなのはわかっているのですが(苦笑)
ただ、原作の台詞そのものを使うことには何故か抵抗があって。
使わずになるだけすませようとしたら、状況説明がまったくできないし。
なので、原作読んでいることを前提とした展開にしかならなくて、
それがこの『花待宵月』の完成をずるずると遅らせました。

考えてみれば、今まで書いたのは後日譚ばかりで、
原作の台詞なんてほとんどありませんでしたし。
なので、筆が進むのは、原作にない台詞をでっちあげる時ばかり。
二次創作って、原作の隙間産業みたいだ…とか思った次第です。