白虎の宿 (びゃっこのやど) |
上治九年の早春のことだった。 黒州州牧に影月が就任してから半年。茶州での経験が物を言ったのか、大禍なく影月は新しい立場に馴染んでいった。 ようやく落ち着いて少しまとまった休みが取れることになった影月は、香鈴を連れて州都遠游を離れ、近郊を訪ねることにした。 「総稜(そうりょう)の街の郊外に砂丘があるそうなんです」 風が砂上に模様を成すことで知られていると言う。 「砂に模様ができるんですの?」 目を瞠る香鈴の様子は愛らしく、影月は自然に微笑む。 「ええ。昔は湖だったんじゃないかって」 「面白そうですわね」 影月にしてみれば妻となった香鈴と出かけられるだけで楽しみだった。まだまだ蜜月。実際、結婚生活はまだ一年にも満たない。 「そうですね」 二人は簡単な旅装を整え、一頭の馬を駆って早朝の遠游より出かけた。 急ぐ訳でもなく、目的地が遠い訳でもなかった為、のんびりと馬を進める。道行く人々に挨拶し、過ぎる風景を楽しみながら、馬上で他愛のない会話を交わす。二人して出かけるのはこの年になってから初めてのことだ。 黒州は小さな湖と山の多い土地。起伏のある街道を行くと、目の前にふいに澄んだ湖などが広がり、香鈴は無邪気にはしゃいでみせた。よほどこの遠出が嬉しいらしい。そんな香鈴を見ているだけで、影月もまた嬉しくてならなかった。 しかし、夕方近くなって急な雨に見舞われた。泊まる予定だった総稜の街はまだ先だ。 「たしか……この先に村があったはずです。無理せずそこで宿を取りましょう」 激しくなる雨足に、影月は馬を早める。間もなく地図で知るより大きな村に辿り着いた。幸い一軒の宿があり、二人は馬を下りて軒下へと駆け込んだ。 「すみません! 今晩の宿をお願いします!」 影月が玄関から声をかけると、まだ若い男が顔を出した。この宿の使用人だろう。 「申し訳ない。この雨で満室になっちゃいまして」 見るからに小さな宿だ。影月たちと同じように急な雨に泊まることにした者たちが何人かいたのだろう。けれど、玄関から振り返ると雨は激しさを増すばかり。次の村や街はまだ遠い。 「納屋でもどこでも構いませんからお願いです!」 影月一人であるなら雨さえ凌げれば馬小屋でもいいと言うところだが、さすがに香鈴をそんな場所で休ませる気にはなれなかった。宿の者も、濡れた巾を頭から被って震えている香鈴に気付いたのだろう。主人に相談してくると姿を消す。間もなく恰幅のよい壮年の男が現れて二人を見下ろしていた。どうやらこれがこの宿の主人らしい。 「雨が避けられればいいんですね?」 影月はうなずく。それを見て主人は先ほどの男に指示を出した。 「……こちらさんを二階の室に」 「え!? でもあそこは!?」 男の抗議を聞き流して、主人はただ短く告げる。 「お通ししろ」 感謝を込めて一礼した影月たちの後ろ姿を見送りながら主人の発した呟きは影月たちには届かなかった。 「雨は避けられるさ。……風は無理かもしれんが」 「いや、室は悪くないんですよ? ただあんまり人を泊めたことのない室でねえ」 室へ案内していく途中で、孫(そん)と名乗った男はさかんに話し出す。元々話好きなのだろう。影月が口を挟む間もない。 「で? 詮索するわけじゃないんですがお客さんら、まさか駆け落ちじゃあないでしょうね? 厄介事は困るんで。前にもあってねえ」 「はあっ!? いや、僕らはちゃんと夫婦ですよ」 これには影月も驚く。駆け落ちと言われたのは初めてだ。 「えらい若い夫婦だねえ」 しみじみと言われて影月は苦笑する。 「……よく言われます」 影月の年ならば所帯を持っている者も少なくはないのだが、香鈴共々小柄なのもあいまって、若いと言われるのが常だった。 室に通されてみれば、確かに悪くはない。むしろ、この宿の中では最上の一室ではないかと思われた。 「ところで、何か食事は出来ますか? 雨に濡れたんで温かいものがあればうれしいんですが」 「そうだねえ……」 面倒だからか、孫という男は口を濁す。 「影月様」 それを見て、小声と共に香鈴から小銭が渡される。影月は合点した。心付けと言うものか。影月から小銭を握らされた男は満面の笑顔を向けた。 「汁物にご飯に漬物くらいなら何とかなるよ! 下はごった返してるからこっちに運んで来ようか?」 「助かります」 きっと下では香鈴はゆっくり食事できないと思われるだけに孫の提案は渡りに船だった。 「他に何か用はあるかい?」 まだ機嫌のよい男に、香鈴が遠慮がちに口にする。 「できましたらお湯を……」 早春の雨は冷たく、身体は芯から冷え切っている。香鈴の希望ももっともだった。 「風呂は無理だよ」 もとより香鈴もそこまで期待はしていない。 「盥で結構ですわ」 再び小銭が用意され、男は勢いよく室を出て行った。 「すぐに用意してくるよ!」 「じゃあ僕は馬屋の小蹄(しょうてい)の様子を見て来ます」 小蹄は結婚祝いに櫂瑜から贈られたものの一つで、以前影月が度々乗った櫂瑜所有の軍馬、風蹄(ふうてい)の子だった。馬屋にて汗と雨を拭いてやり、飼い葉と水を与える。小蹄は頭がいい。不埒な考えを持つ者に対しては毅然とした態度を取る。名にもある蹄を味わわせるのである。なので馬泥棒も怖くない。 「お前は大丈夫だよね?」 影月は小蹄の首を軽く叩いてから香鈴の待つ室へと戻った。 室に戻ると湯が届いていたが、香鈴は髪を拭いただけで湯を使ってはいなかった。 「お湯が冷めるじゃないですか! なんで使わないんですか!?」 「影月様がお先に使われるべきですもの」 「冗談じゃないですよ! 香鈴さん、風邪ひきますから!」 影月の身体は風邪知らずだが香鈴はそうではない。 「旦那様より先に使うなんて出来ません!」 ぷいと横を向いて香鈴は言い切る。 以前からその傾向はあったのだが、晴れて影月の妻になって以来、香鈴は何くれとなく影月を立て、優先する。有り難くないわけではないが、ある意味実際的な影月に取って納得いかない場合も多々あった。例えば今のように。 「駄目です。香鈴さんが先です。ほら、こんなに冷え切ってるじゃないですか!」 「ですけれど!」 引くつもりのないらしい香鈴に、影月はおそらく確実と思われる方法を取ることにした。 「じゃあ、僕が手伝いますよ」 そう言って香鈴の衿元に手を伸ばすと香鈴は慌てて後ずさる。 「じ、自分で出来ますの!」 「うん、それならすぐにお湯を使いましょうね?」 少し後、諦めた香鈴が衝立の陰で濡れた衣を脱ぐ気配を影月は感じていた。 (手伝ってもいいのになあ……夫婦なんだし) 香鈴なりの許せない一線なのだろうとは思うのだが、何とはなしに納得のいかない影月だった。 簡素な食事がやがて運ばれてきた。贅沢を言う気は影月にも香鈴にもない。当初予定していた街の宿ならともかく、村の宿に最初から期待はできない。それに、影月には長年の貧乏暮らしが身についている。雨風が避けられれば十分だ。湯で身体を拭き、乾いた衣類に着替え、温かいものを口にした香鈴の顔色はずいぶんとよくなった。もちろん影月自身もだ。 「明日は、お風呂も使える宿にしましょうね」 「影月様、わたくし贅沢を望んでいるわけではありませんのよ」 そう、香鈴はその気になれば野宿だとて厭わない。ただ、あまり向いていないのも確かだった。無理はさせられない。 「せっかくの遊山なんですし、少しくらいいいじゃないですか」 「それはそうかもしれませんけれど」 まだ反論をしようとする香鈴の口から小さなくしゃみが飛び出す。 「なんだか……寒くはありません?」 「……そう言えば」 影月は室内を見回す。早春のこととて小さな火鉢が用意されてはいたが、それだけでは少しも温かくはなかった。 「今夜は早く寝てしまいましょう」 二人はしっかりと寄り添って眠ったが、影月は一晩中、風の音に悩まされた。 あまり熟睡した気はしなかったが、それでも影月は早くに目覚めた。起き出して窓の外を眺めると雨はやんでいるようだった。 (これなら出発できるな) 振り返って、まだ臥台の中の妻に呼びかける。 「香鈴さん?」 いつもは寝起きのいい香鈴が未だ起き出して来ない。疲れが出たのかと覗き込むと、香鈴の顔は不自然に赤かった。 額に触れてみるとかなりの高熱である。 影月は急ぎ着替えて室を飛び出すと、昨日世話をかけた男を捕まえる。 「すみませんが、盥に水をお願いします!」 「どうしたんですかー?」 影月の慌てぶりと対照的なほど、孫という男はのんびりと構えていた。 「つ、妻が、熱を!」 それを漏れ聞いてか、宿の主人が血相を変えた。 「お客さん、室を見せてもらってかまいませんかね!?」 「は、はい。いいですけど?」 何故室を見る必要があるかはわからなかったが、主人が孫に盥や水差しの用意を命じているのを聞いて、ひとまず影月は安堵した。しかし。 「やっぱり! 一匹足りない!」 室に足を踏み入れると、主人は天井に近い壁を見上げて叫んだ。 (何が?) 主人が見上げたあたりには、何か白い紙が貼られていた。 「ちょっと失礼!」 主人は衝立の向こうにある臥台を覗き込む。普通、女性が寝ている臥台を夫でもない男が見るなど論外である。けれど、この時はそういった無礼とは別のものを影月は感じたため、止めることはしなかった。 「なんてえこった! 奥さん、えらいべっぴんじゃないか!」 愛する妻を褒めてもらえるのは嬉しいが、やはり何となく意味合いが違う気もする。 「そうと知ってりゃ、この室には泊めなかったんだが!」 主人の叫びに影月の中で疑惑が生じる。 「……すみません。説明してもらえますか?」 主人は諦めたように肩をすくめて話し出した。曰く、この室には何故か白虎が憑いているのだという。それも、増える。現在は八匹の白虎がこの室に封じられているという。 「白虎って、神様でしょう? 八匹って?」 「本当のところは正体がわからんが、ちっこい白い虎の形をしてるから昔からここらでは白虎って呼んでいるんで」 白虎と呼ばれるだけあり、この存在のあるところ、風が強く吹くらしい。 「そう言えば、夕べ寒かったですし、一晩中風の音がしてました」 「この室に泊まっても、大抵はそれで済むんです。封印も破れないで」 影月は壁を見上げる。 「でも破れたってことは、封印が弱くなってたんですか?」 いいにくそうな主人の返答は影月の予想を超えていた。 「いや、そうじゃあなくてです。……白虎は面食いなんで」 「……はい?」 自分でも思わず間抜けだと思うような声が、影月の口から漏れた。風を操る白虎が何だって? 「たぶん悪気はないんだが、べっぴんと見るとじゃれていきたがって、その度封印を破って暴れるんです。大抵、気に入られたべっぴんさんは風邪ひきますね」 「……悪気がなくても迷惑です」 雨に濡れたせいでの高熱の疑いももちろんあったが、それに加えての風攻撃である。迷惑この上ない。 「封印を破った一匹が、見えないけど奥さんに纏わりついてるはずです。このままじゃ、宿を移ったとしても奥さんにどこまでもついていきますし、いつまでも風邪は治りません」 風邪は万病の元とも言う。いつまでもそんな状態に香鈴を置いておくわけにはいかない。影月は自分の知識を動員してみたが、こんな場合の対策は見つからなかった。 「どうすればいいんですか!?」 無意識に詰め寄る影月の迫力に押されながらも、主人は益のありそうなことをようやく教えた。 「隣村に堂寺があって、そこに道士のじいさんがいます。いつもそこで白虎封じのお札を頼んでます」 「お札で封じれるんですね!?」 「うちじゃいつもそうしています。ただし、お札を貼ったら、即行で奥さんを室から出さないといけません」 白虎がこの室と目当ての女性に迷っている間に素早く行動することが必要なのだという。 影月は隣村までの道を尋ねると、宿の前を南にまっすぐとのことだった。それならば軍馬である小蹄で駆けつけた方が早い。 「お札は僕が取りに行きます。その間、妻をよろしくお願いします!」 主人は勿論と請け負った。泊めてしまった責任も感じているのだろう。昨日の時点ではそれは好意によるものだっただけに、影月も主人を責める気にはなれなかった。 一旦主人が退席すると、影月は持ち物の中からいくつかの薬草を取り出し、粉末にしたものを水差しの中に溶かした。臥台に寄って行く途中、何かが影月の脇をすり抜ける。半透明のその姿は、主人の言う通り白い虎だった。だが、大きさはせいぜい中型の成犬といったところだ。白虎は臥台に前足をかけて、香鈴の顔を覗きこんでいる。 影月は滅多にないことだが怒りを覚えた。香鈴を苦しませている原因の自覚が足りない白虎に対してだ。例え本物の神だろうと、到底許せない。 「彼女に近づくな!」 思わず一喝すると驚いたように白虎は室の隅へと後退した。 「……えいげつさま?」 かすれた声が影月を呼んだ。 「すみません、香鈴さん。うるさくしてしまって」 身を起こそうとする香鈴の動きを止めて、再び横にならせた。 「わたくし、ご迷惑を……」 「香鈴さんのせいじゃありません」 影月は手にした水差しの中身を呷ると、熱でひび割れた唇へと流し込む。 「……影月さまの、お薬?」 「そうです。もう少ししたら熱が下がると思います」 影月は濡れた巾を額に置いてやり、香鈴の髪を撫でながらできるだけ優しい声を出した。 「僕、少しだけ出てきますけど、香鈴さんは休んでてくださいね?」 「どちらに……行かれますの? わたくし、も……」 縋るような視線に、影月の胸が痛む。知人のいない場所で病に倒れる香鈴の心細さを思い、僅かな時間でも香鈴と離れねばならないのが辛かった。 「無理ですよ。こんなに熱も高いですし。すぐ戻りますから」 影月が髪を撫で続けている間に、香鈴の瞼は落ちていく。 香鈴の寝息を確かめてから、影月は室の隅の白虎をねめつけた。 「彼女にこれ以上害をなしてみろ、許さないから」 小蹄を駆って、影月は教えられた隣村へと急いだ。このあたりはあまり道が整備されていない。役目上の注意を頭の片隅に書き込みながら、ぬかるんだ道を疾走する。小蹄にも影月にも泥が跳ね飛んだが気にしている暇はなかった。 間もなく穀物畑の中の小さな集落の中心に、一際目立つ建物を発見する。堂寺はたいてい同じような作りのためわかりやすい。 「ごめんください! 道士はいらっしゃいますか!?」 馬から下りるのももどかしく、影月は馬上から叫んだ。すぐにしゃがれた声が変える。 「こんな朝からどうされましたかな?」 「道士でいらっしゃいますか?」 白髭の老人が影月の問いにうなずいてみせた。 「僕は隣村の万来(まんらい)という宿に夕べから泊まっている者ですが、白虎が封印を破って暴れだしたんです。お札をお願いします!」 影月の言葉が染みこむまで若干の時間がかかったが、老齢の道士はやがて深く頷いた。 「ああ、あそこか。久しぶりじゃなあ」 その後、道士は続ける。 「お前さん、美人の連れでもいたのかね?」 「……ええまあ。妻が」 道士はそれは気の毒にと影月にそのまま待つよう告げて一旦堂寺の中に入り、すぐに紙束を持って現れた。 「これが札じゃ。もっとも、気休めに過ぎんのだ。あの宿のあの室には白虎を引き付けるもんがあるはずじゃからな。――ところで、奥さんはかなりの美人かね?」 「……僕はそう思ってますが」 「ならば急いで戻らんと。他の白虎の封印も破れとるかもしれん」 道士から八枚の札を受け取った影月は、行きよりも更に激しく小蹄を走らせた。軍馬である小蹄はむしろ喜んでいる。 「あとで、ちゃんと休ませて綺麗にしてやるから」 宿に戻った影月は真っ青になった主人に迎えられた。 「大変だ! お客さんが出かけている間に残りの封印も全部破れてしまったんだ!」 道士の予感は的中したらしい。宿の者は誰も室に入れなくなったという。 「馬の世話をお願いします!」 手綱を渡して飛び降りると、影月は二階の室へと一挙に駆け上がった。 影月が見たのは室内に吹き荒れる竜巻のようなものだった。宿が壊れてもおらず、この一室に竜巻が収まっているのも奇妙なことではある。 「香鈴さん!」 香鈴どころか、臥台の姿すら見えない。影月は後ろに付いてきていた主人に向かって叫んだ。叫ばないと声さえ届かない。 「ご主人! 白虎に消えて欲しいですか!?」 「そりゃもう! 迷惑被ってるなんてもんじゃないですよ!」 「壁、壊します! 後で弁償はしますから! 小蹄はすぐ出発できるよう宿の前で世話しててください!」 それだけ言うと影月は道士から受け取った札を掲げて竜巻の中に飛び込んで行った。 臥台は奇跡的に無事だった。もしかしたら出かける前の影月の恫喝が効いていたのかもしれない。 「香鈴さん!」 臥台に上り、香鈴の肩に手をかける。 「えい、げつさま……、さむい……」 臥台が無事とはいえ、これだけの強風が傍で吹き荒れていれば寒いはずである。影月は主人が用意したのであろう足元に畳まれていた毛布を取り上げて香鈴に掛けてやった。 札を掲げると風が切れることは臥台に辿り着くまでに実証済みだ。影月はその状態でぐるりと身体を回転させる。 「あった!」 堂寺の道士が教えてくれた。白虎がこの室に拘るのは、白虎にとって大事なものがおそらくは壁にでも塗りこまれているのだろうと。札が近づけば何か反応するはずだとも。 壁の一部が淡く光っていた。その場所を狙って、影月は小刀を突き立てる。手の中に転がり込んできたものを懐に仕舞うと、影月は香鈴を毛布でくるんで抱え上げた。 「しばらく我慢してください」 香鈴を抱えた影月は札を手に室を出、竜巻に向かって叫んだ。 「ついて来い! おまえたちの欲しいものは両方僕の手にある!」 そうして階段を駆け下り、宿の前に繋がれていた小蹄に香鈴を押し上げると自分も飛び乗った。 「お客さん!?」 「帰ってきたら説明します!」 影月は小蹄を西に向かって疾走させた。その後を竜巻のようなものが追いかけていくのが見え、人々は腰をぬかしたという。 「えいげつさま、どちら、へ……」 「砂丘です!」 それだけ告げると、香鈴を抱える右手に力を入れた。高熱の治まらぬ香鈴にこの強行は楽ではないはずだ。少しでも温められればと引き寄せる。力の入らないであろう手で必死に縋りつく香鈴に、影月は途切れることのない愛しさを再認させた。 村から西へ。通常であるなら二、三刻はかかる道筋を影月は一刻で駆け抜けた。四方を山で囲まれた窪んだ場所に、この遊山の目的地であった小さな砂丘がある。砂丘を見下ろす崖に辿り着くと、ようやく影月は小蹄の足を止めさせた。 振り返ると、忠実な犬のようにすぐ後ろに竜巻が追ってきている。 「ほら! おまえたちのお宝だ!」 懐から取り出したものをよく見えるように掲げてから、影月はそれを思いっきり砂丘へと放り投げた。影月たちを通り抜けて、風が砂丘へと殺到する。小さなつむじ風が一度馬の傍らで舞ったのは、最初の白虎だったかもしれない。だが、そのつむじ風もやがて砂丘へと消えた。 「影月様」 先ほどまでとはうって変わってはっきりした口調で香鈴が呼びかけた。 「香鈴さん! 無茶してすみませんでした!」 「いいえ。あの、わたくしの熱も、あの竜巻は連れていってしまったようですの」 額に触れてみれば、なるほど確かに熱は下がっている。 「ああ! よかった!」 手綱を放して影月は両腕できつく華奢な香鈴の身体を抱きしめた。香鈴は僅かに痛みに怯んだようであったが、あえて何も言わなかった。影月が心配していたことが十分に伝わってきたからだ。 「影月様? どういうことだったのか説明していただけません?」 「これは隣村の道士のおじいさんの説なんですが」 そう断って、影月は馬上で香鈴を抱きしめたまま説明を始める。 「あの宿のあの室に十年くらい前、おそらく泊り客が持っていた宝を埋め込んだのではないかって。それは白虎たちから奪われた大切な宝物だったみたいで、だからあの室に白虎が居座るようになったというんです。僕が道士から貰ってきたお札は風避けのお札でした。一応、白虎はそれで封じ込められるんですが、その……あの室に美人が泊まると喜んで封印を破って暴れるんだそうです」 香鈴は複雑な表情で影月を見上げ、先を促した。 「道士も、以前から宿に直接行って確かめたかったみたいなんですが、かなりのご高齢なもので無理だったみたいなんですね。実際に調べてみないと宿のご主人に説明もできないし。ただ、いつまでもお札だけじゃ駄目だってことは判ってたそうです。僕に、お札を掲げて室を回ったら何か反応するはずだから、それがなくなれば白虎たちはあの室から出て行って二度と現れないだろうって。だから、ちょっと、お宿の壁、壊しちゃいましたけど」 最後の言葉はやや決まり悪そうに告げられた。 「それで、どうして砂丘なんですの?」 「このあたりの言い伝えでは、砂丘で風が生まれるって言うんだそうです。白虎たちも元々は砂丘から来たと伝わってるみたいで。なら、砂丘に帰ってもらえばいいと思ったんです。あの白虎たちの宝だって、砂丘にある方が安全だと思いましたし」 影月は唐突に口を閉ざし、何に気付いたのか砂丘を見つめて破顔した。 「香鈴さん、見てください!」 「まあっ!」 眼下の砂丘が白虎たちを受け入れたためだろう。そこに紋様が浮き出て見えた。それは日の光を受けることで影を作り、その複雑さを際立たせる。 「きれいですわね」 「そうですねー。見られてよかったです」 元々、これを見ようと遠游を出たのだ。少々順番が狂ったが、それは想像以上に心を震わせるものだった。 思い出したように香鈴は風紋から視線を上げた。 「白虎たちの宝って、何でしたの?」 「おっきな真珠でした。あまりよく見てる暇なかったんですけど、すごく大きくてきれいでした」 このくらい、と影月が親指と人差し指で作った輪を見せる。それだけの真珠となれば、香鈴とて見たことはなかった。人の世にない方がいいだろう。無用の争いを生む原因になったかもしれない。影月が砂丘に帰したことは英断だと香鈴は確信した。 「白虎たちって、本当にきれいなものが好きなんですねえ」 香鈴の髪に顔を埋めた影月の声がくぐもって伝わる。 「この風紋も、真珠も、きれいじゃないですか。それに、すごく香鈴さんのことも気に入ったみたいでしたし?」 それは、暗に影月からの賞賛を含む。香鈴は少しだけ顔が赤くなるのを止められない。影月からの言葉というだけで何年たっても慣れることができないでいた。 「見る目、ありますよね。でも、砂丘も真珠もいりませんけど、香鈴さんはあげられませんから」 影月は背後から香鈴を抱く腕にまた力を入れる。決して失わずに済むようにと。 「一旦、宿に戻りましょう。ご主人にも説明を色々しなくちゃいけないし、香鈴さんも夜着のままってわけにいかないし」 香鈴の首筋に唇を這わせながら、唐突に影月が発言した。 「は、早く戻りましょう!」 自分の格好に思い至って慌てる香鈴を影月は制してもう一度砂丘を見るよう勧める。 「待ってください。もう少しだけ。ほら、よく見てると模様がちょっとづつ変わっていってますよ」 しばし二人はこの贅沢であり素朴でもある芸術を言葉も忘れて見入ったのだった。 自然の神秘、あるいは風神たる白虎の技か、刻々と風が砂丘を動かしていく。 しばらく後には砂丘に描き出された模様は、最初のものとまったく違ったものになっていく。 翌日、もう一度砂丘を再訪したふたりであったが、前日ほど美しい風紋を見ることはなかったという。 |
白虎の宿(びゃっこのやど) これは私が夢でみた影香話を物語に仕立てたものです。 何故いきなり影月が十九かというと、夢の中でそう言っていたから(笑) こちらでは影月の結婚と黒州州牧就任を十八歳で設定しておりますので、 香鈴とは結婚して一年未満。 十分新婚です。 いえ、この二人は万年新婚夫婦になるんですが(笑) で、黒州の設定もほとんどわからない。 しかも現時点の原作から五年も先の話です。 数年前にはやった成分分析ではないですが、 「『白虎の宿』は80%が捏造でできています」という感じです。 それでも、これはやはり影月と香鈴の物語です。 夢を見たその日のうちに書き上げました。 お楽しみいただけると嬉しいです。 |