カエルの王子

お姫様=珠翠 カエル=楸瑛 王様=霄太師


 ある午後、王宮の庭の片隅で、一人のお姫様が途方に暮れておりました。
 大切な方から頂いた大切な金の鞠を井戸に落としてしまったのです。
 井戸はとてもとても深くて、底さえ見えません。

「どうすればいいのかしら?薔君奥様から頂いた大切な鞠なのに……」
 大変に美しいお姫様でしたが、このお姫様には人には言えないような特技がいくつもありました。
 けれど、その特技の中に水泳は含まれておりません。この場合は素潜りと言うべきかもしれませんが。

「これはこれは姫君、一体何をお悩みです?私にできることなら貴女の憂さを晴らして差し上げましょう」
 もしこの気障な発言者が普通の男であればお姫様は無視したことでしょう。
 しかし、この台詞を口にしたのは一匹のカエルだったのです。
「大切な金の鞠を井戸に落としてしまって……」
「それはお困りですね。どうでしょう?私がその鞠を取ってきたら、貴女の皿から食事をし、貴女のベッドで共に休ませて貰えませんか?」
 あまりカエルらしい要求ではありませんが、虫をたくさん集めろと言われるよりはマシに思われました。それに、何より金の鞠が戻ってくる方が重要です。
「いいわ。約束するから鞠を取ってきてちょうだい」
「お任せ下さい、美しい方」
 カエルはそう言うと井戸の中に姿を消しました。
 しばらく待っていると井戸から金の鞠がポーンと投げられてきました。
「ああ!私の鞠!」
 お姫様は大喜びで鞠を受け取ると、そのままお城に戻っていきました。


 さて、その夜の事。
 お姫様は後見人である王様と晩餐の席に着いておりました。
 そこに、どこから入りこんだのか、ぺたりぺたりとカエルが現れました。
 カエルはお姫様のドレスの裾を引っ張って声をあげます。
「美しい姫君、金の鞠を取る代わりに姫君のお皿から共に食事をしてもよいとお約束してくださいましたね?」
 カエルとの約束など本気にしていなかったお姫様は慌てました。
「確かに約束はしましたけれど……」
 改めて考えると、それはあまり楽しい事だとは思えません。
「約束していただきましたよね?」
 カエルは重ねて言います。
「何を約束した?」
 ふいに王様が口をはさんできました。お姫様は昼間の事を話ます。
「ふん、約束したなら守ればいい」
 王様にそう言われてしまってはもう断れません。恐る恐るカエルをテーブルの上まで持ち上げました。
「ありがとうございます。それではご相伴にあずかります」
 丁寧な物言いですがカエルはカエル。長い舌が皿の上に伸びるのを見て、お姫様はすっかり食欲を失ってしまいました。

「私、もう休ませていただきます」
 お姫様が席を立とうとするとカエルが言いました。
「約束ですから一緒にベッドで休ませていただけますね?」
(この両生類っ!)
 内心は不愉快でしたが約束した覚えはありました。
「何だ、それも約束したのか?では叶えてやるといい」
 あまり関心のなさそうな王様の声に送られて、お姫様はカエルを連れてお部屋に戻りました。


 さて、いざベッドに横になろうとしてお姫様は困りました。
「一つ忠告しておきます。私は特殊な教育を受けているので怪しい気配がすると反射的に攻撃する事があります」
 あまりお姫様らしい習性ではありませんが、そう育ってきてしまったのですからしかたありません。
「わかりました。気をつけましょう」
 何故だかカエルは嬉しそうに答えました。

 お姫様はなるべくカエルから離れて眠りました。ぴったりくっついて眠る約束はしていませんから。
 そうしてお姫様がうつらうつらし始めた頃です。
 ぺとり。
 首筋に湿ったものが触れてきました。
 眠りに入りかけていたお姫様に理性はありませんでした。
 それが寝ぼけたカエルだと気がつく前に
「いやーーーっ!」
 と掴んだカエルを力の限り壁に叩きつけたのです。

 自分の声で目が醒めたお姫様は慌てて壁を見つめました。
 気味の悪い両生類とはいえ殺すつもりはありませんでした。それに一応鞠の恩人です。
 けれどお姫様はカエルを見つける事はできなかったのです。


 カエルを投げつけた壁のあたりに怪しい煙が上がっていました。
 煙が晴れるとそこには笑顔をたたえた凛々しい王子様が立っていたのです。
「私は悪い魔女に魔法をかけられていた王子です。魔法を解くには同じ皿で食事し、同じベッドで眠ってくれた姫君に潰されなければならなかったのです。貴女のおかげで魔法は解けました。美しい姫君、どうか私の求婚を受けていただけませんか」
 元カエルの現王子様は爽やかな笑顔を浮かべながら手慣れた様子でお姫様を引き寄せると、おもむろに唇を寄せてきました。
「……こ」
 あまりの展開に呆然としていたお姫様は、ようやく声を絞り出します。
「こ?」
「こーの、ボウフラがっ!!!」

 お姫様はくるりと王子様に背を向けて腕を抱えて腰を落とします。
「そりゃあっ!」
 まったく見事な一本背負いでした。
 その勢いのまま王子様は窓を突き破って遥か下の庭へと落ちていきました。

 お姫様は侍女を呼んでベッドの寝具をすべて取り替えさせました。衛兵を呼んで不振な男が潜入したと告げて警護に当たらせました。自分の身は自分で守れますが、それ以上にとてもとても気持ち悪かったからです。
 鳥肌の立った腕をさすりながらお姫様はつぶやきました。
「あの変態ボウフラ男!今度現れたらきっちりとどめを刺す!」

 さて、庭に墜落した王子様の方ですが、なんとか無事でした。意外と鍛えていたのかもしれません。
 王子様は遥かに上に位置するお姫様の部屋を見上げて不敵に笑います。結構余裕ですね。
「さすがに私の見込んだ姫君だ。いつか必ず貴女の特別な男になりましょう」


 この日から、お姫様とお姫様を諦めずに口説こうとする王子様のいささか不毛な攻防が始まることとなります。

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