鳴 弦 抄 (めいげんしょう) |
――弾筝奮逸饗,新声妙入神―― 州牧邸近くの空家にあやかしが出るという――。 そんな話題が出たのは公休日の昼過ぎのこと。 いつもは忙しい州牧邸の官吏三人も、香鈴の心づくしのお茶とお菓子でのんびりとしていた。 話の出所は、地元民でもある燕青だ。さすがに彼ほど琥lに詳しいものはそうはいないだろう。 そんないささか唐突な話題に対して、聞かされた三名は三者三様の反応を返す。 「あやかしですか。州都に出るとは、気合の入ったものですねえ。風流でさえあるかもしれません」 櫂瑜は、少年のように瞳を輝かせ。 「それで。何か被害とか出てるんですか?」 影月は生真面目に問い。 「嫌ですわ! ご近所ですの!?」 香鈴の反応は一番普通と言えた。 燕青は苦笑しつつ、西の方向を指差す。 「ほら、この裏に竹藪があるだろ? あの中なんだな」 「それでは本当に近くではございませんのっ!」 香鈴の声は悲鳴に近い。 考え込んだ影月は結論が出たらしく、まっすぐ燕青を見上げた。 「何かあっても困りますし、一度見ておいた方がいいですよね。燕青さん、案内お願いできますか?」 「そうですよねえ。あやかしが美女でないとも限りませんし」 何やら、流れは自然と『お化け屋敷探検』へと傾きつつあった。 「困ると言えば困ってるし、美女と言えば……じーちゃんの判断にまかせる」 単なる噂ではなく、燕青は実地検分を済ませているらしかった。それはつまり。確実に「出る」ということで――。 少し青い顔をした香鈴に気付いて、影月は告げた。 「香鈴さんはよかったらお留守番しててくださいね」 「わ、わたくしも参りますわっ! 怖くなんてありませんのよっ!」 反射でついそう口走ったものの、香鈴は直後に後悔する。そう。香鈴は実はたいへんに怖がりであったのだ。しかし今更引っ込みもつかず、四人はうららかな午後に『お化け屋敷探検』に赴いたのであった。 その小さな家は、本当に竹藪の中にあった。たしかに州牧邸から近いのだが、これまで竹藪で隠されていて気付くこともなかった場所だ。 人の住まない家は荒れる。そして、空家というからには、どことなく空虚な空気が漂う。 (いかにも、出そう、ですわね……) 香鈴の手は、無意識に影月の袖を掴んでいる。影月がくすぐったそうな表情を浮かべたのだが、香鈴は気付きもしなかった。 「誰! ココ、玄爺ノ家!ヨソ者出テ行ク!」 玄関から一歩入った途端、甲高い声が一行を迎えた。 まさしく、その声の主としか思えない三、四歳ばかりの幼女がちいさな両手を精一杯広げてとおせんぼをしている。 「悪いな、チェンチェン。ちょっと調べさせてくれよ」 燕青があっさり幼女をすり抜けて奥に向かう。 「オ前! コノ前モ来タ! 帰レ! スグニ!」 背の高い燕青に一歩も引かずに幼女は抗議する。なんとはなしに微笑ましい。 「……あのう、燕青さん?」 「そ。この子がこの家のあやかし。自称チェンチェンな。一応、この家の中でなら実体があって触れるし」 燕青はあやかしの幼女を抱き上げる。 「何スル! 離セ!」 幼女が叫ぶと同時に、燕青の腕の中に竜巻のようなものが起こり、燕青は慌てて手を離す。 「んで、こんなふうにちょっとしたこともできる。でも家の外には出られないらしい。正体は不明だけど、英姫ばーちゃんに聞いたらほっとけって言われたんだけどな」 あやかしという言葉の印象よりもずいぶんとかわいらしい存在に一行の反応は戸惑うに近かった。 「つまり、この家に入らなければ危なくないんですねー?」 「家を守っているようですし、女性の意思は尊重するべきですよね」 香鈴は黙っていた。あやかしが怖かったわけでも、幼女にほだされたわけでもない。彼女が感じていたのは別のことだった。 「香鈴さん? どうしました?」 押し黙ったままの香鈴を気にして、影月が声をかける。答えようとした香鈴の袖が、たまたま近くの家具に触れる。たちまち、おびただしい埃が舞い、一行は咳き込んだ。 それが、限界だった。 「あなた! チェンチェンさんとおっしゃいましたわね!? この家を守っていらっしゃるということですけど、この状態で守ってると言えますのっ!」 同行の男性陣が驚いたように香鈴を見る。 「わたくし、もう我慢ができませんわ! 待ってらして!」 そう言い残すと、香鈴は走って家を飛び出していった。 「香鈴さんっ!?」 どうしたものかと男たちは逡巡していたが、間もなく香鈴は戻って来た。 その両手に掃除道具一式を持って。 「影月様! 窓を全部開けてくださいませ! 燕青様! 家具を動かしていってくださいませ!」 たすきがけも勇ましい香鈴は、すわった眼差しであやかしを見下ろした。 「僭越ながらお掃除させていただきます!」 その香鈴の勢いに誰も逆らえなかった。幼女でさえ声を失っている。影月は窓を開けに走り、燕青は家具に手をかける。 「それでは、私は何をいたしましょうねえ?」 櫂瑜が香鈴の手から箒を取ろうとすると、香鈴は首を振る。 「いいえ、櫂瑜様はどうぞお戻りを。埃はお身体によくありませんわ!」 香鈴の一歩も譲らない眼差しにやわらかく微笑むと、櫂瑜は従った。 「では、皆さんが帰ってきたら私がお茶を振る舞いましょう。早く帰ってきてくださいね」 櫂瑜が去り、口元を布で覆った香鈴は高らかに宣言した。 「徹底的にやりますわよ!」 家は、厨房を兼ねた土間と、生活の中心になる居間、奥に臥室があるだけの小さなものだった。家の外には小川も流れ、かつては風流な住まいだったと思われる。 運べる家具は燕青が家の外に出して行った。影月はハタキを振って天井や壁の埃を落とし、香鈴は床に水を撒いて掃き清める。 家具を戻す前には、あらゆるところを雑巾で拭いて磨いていく。時折、香鈴の叱責の声が飛ぶ。 「もっと丁寧に! 力を入れて拭いてくださいませ!」 居間と臥室を燕青と影月にまかせて、香鈴は土間と格闘した。 食器や調理器具は驚くほど少なく質素だった。炉も使われなくなって随分たつのか、埃ばかりが積もっている。水がめは空のまま放置され、全体的にもとからあまり使われた形跡を感じない。 (お家で菜とかされない方だったのかしら?) 唯一あった鍋を洗いながら、香鈴はかつての住人に思いを馳せた。不思議と怖いとかは思わない。あのあやかしが一生懸命になるくらいだから、悪い人ではなかった気がするからかもしれない。香鈴は、磨く手に一層力をこめた。 数刻後、見違えるようにきれいになった居間の椅子に脱力して座り込んだ燕青と影月の姿があった。 州牧邸から茶道具を持ち込んだ香鈴は、ようやく火をおこした炉で湯を沸かし、茶を入れる。 「お疲れ様でした。だいぶきれいになりましたわね」 香鈴は自分も湯のみに口をつけながらあたりを見回す。 「そうですねー。これだったらすぐにでも住めると思いますー」 まったく、その通りだった。贅沢さえ言わなければ住むには問題ない。 香鈴は掃除をしながら浮かんだ疑問を燕青にぶつけた。 「燕青様、さきほどあの子が人の名を呼んでおりましたが、この家に縁の方はいらっしゃいませんの?」 「数年前まで玄っつー爺さんがひとりで住んでたんだけどな。穏やかな人だったよ。たった一人の孫娘にも先立たれて身内はもうまったくいないって、生前に聞いたことあるなあ」 燕青の声はどことはなしに好意的で、やはりよい人物だったのだろう。 「空家って、悪い人が入り込んだりしませんか?」 影月は家の中を改めて見回しながら訊ねる。 「普通なら入るだろ。でもここは、ほらあのチェンチェンががんばってたからな」 「それでしたら、燕青様は以前からこの家のこともあやかしのこともご存知でいらしたんですわね?」 「まあ何回かは様子見たりしたぐらいだけど。玄じーさんが亡くなって葬儀出して。気が付いたらあのあやかしが出るようになっててな」 話題の主は香鈴の掃除への気迫に怯えたのか姿を消したままだ。 「この家のことを今頃言い出されたのには何か理由がございますの?」 「ああ。ほら、例の学び舎の件でさ、ぼちぼち研究者が琥l入りしだしてんだけどまだ宿舎が完成してないだろう?宿屋暮らしさせとくのも問題あるし、使える家を探してたらここの名前が挙がってな。今掃除もしたし、家具だってちょこっと修繕すれば使えるし、州牧邸からも近いし、条件として悪くないんだよ」 雨漏りなどもしていないようであるし、人が住めば家も荒れない。 「ああ、つまり問題は……」 「あの子、ですわね」 一行は修繕の必要な家具を確認していった。居間の卓子や椅子は問題ない。箪笥は引き出しの取っ手を付け替えれば問題なく使える。厨房も調理器具と食器を増やせばいい。 香鈴は自分は見ていなかった臥室に入ってみた。 ごくちいさな室には、まず臥台。布団はさすがに駄目になっていたので表に出されていたが、臥台そのものは使えるようだ。あと室にあるのは、書き物をするのに使っていたのであろう卓子と椅子。臥台と卓子の間に、何やら細長い布で包まれたものが立てかけてあった。長さは香鈴の背丈よりあり、影月と同じくらいあった。 「これはなんですの?」 「さっき、お掃除で外に出したんですけど、よくわからなかったんでまた戻しましたー」 香鈴に付いて臥室に入ってきた影月が布包みに触れる。 ちょうどそのあたりの布が弱っていたのだろうが、布が裂けて中身が影月に向けて倒れかかった。 「うわあっ!」 「影月様!」 あやうく下敷きになりそうな影月を救ったのは叫び声に飛んできた燕青だ。しかし、物は無事とは言いかねた。倒れた拍子に、何か音がする。 「オ前タチ! チェンチェンニ触ルナ!」 それまで姿を消していたあやかしが突然現れる。 「ふーん。てことはこれがお前の本性ってわけ?」 倒れないよう支えていた燕青が物に触れると、糸の切れるような音が響いた。するとチェンチェンは悲鳴と共に姿を消した。 「あの子、筝の精だったのですね。それで錚錚(チェンチェン)、なのですわね」 香鈴の目に映ったのは、弦の切れた古びた筝だった。 筝という楽器の名の由来は、”錚錚(チェンチェン)と音を発する”から付けられたという。 あやかしはその後も姿を消したままだった。 一行はその日、夕刻になるまで作業を続け、あらかた家も片付いたので州牧邸に戻った。 翌日。影月たちが出仕している昼間、香鈴はひとり竹藪の家を訪ねた。 弦が切れたせいか幼女のあやかしは出て来ない。 香鈴はまっすぐ臥室に向かうと、幼女の本性である筝を床に下ろした。長さはあるがそれほど重いものではないので、香鈴ひとりでもできることだ。脇で台も発見したのでそれに乗せる。 改めて見ると、その筝は弦のすべてが切れていた。香鈴は切れた弦をすべて取り外すと、おもむろに表面を磨き始めた。胴が顔を写すほどになるまで一心に。 そこまで磨くと本体甲部分は桐、両端は漆塗りの螺鈿細工も見られる優雅な一品であることがわかった。以前はきっと貴族の持ち物であったのだろう。 香鈴は次に糸を張っていく。糸は絹を寄り合わせて丈夫にした弦専用のものだ。十三弦すべて張ると、柱(じ)の場所を動かしながら慎重に調弦をはじめた。 以前、鴛洵の元にいた折、香鈴はいくつかの楽器を学んだ。筝の師匠は厳しく、弦を張ることから調弦に至るまで自分でできるようにと教えられた。今、それが役立っている。 そして長い時間をかけて、ついに音が整った。 途端。 「錚錚ニ触ルナ! 錚錚ニ触ッテイイノ、玄爺ト繚嬢ダケ! オ前、帰ル!」 幼女がどこからともなく姿を現してかみついてくる。 「まあ、お言葉ですこと。誰がここまで磨いて弦まで張り替えたかお判りですの?」 「錚錚ノ手入レ、玄爺ダケスル!」 「その方がいらっしゃるなら、わたくしがするはずありませんわ。どこにいらっしゃるのです?こんなにひどい状態で放って置かれたままで?」 「玄爺モ繚嬢モ帰ッテ来ナイ。錚錚、ズット待ッテル。二人ガ錚錚弾イテ楽シソウニシテクレル。錚錚、待ッテル。ズットズット待ッテル……。待ッテルノニ……」 なんとも切ない表情のまま、あやかしは涙を浮かべたまま姿を消した。 香鈴は筝を用意してきた新しい袋に包んで片付け、そして思わずため息をついた。 その日、夜になると雨が降った。夏も近いというのにやけに冷たい雨だった。 香鈴は気鬱な表情で窓の外を眺める。 (あれでは、まるでわたくしがいじめたようではありませんの) 香鈴は泣きながら消えたあやかしのことが頭から離れないでいた。 (あの子は、ああやって待ち続けるのかしら。もう二度と戻らない人を――) あやかしには人の死が理解できないのかもしれない。置いていかれるということが。 (鴛洵様――) 自然と香鈴は自分を置いていった鴛洵を思い出す。あれほど可愛がってくれたのに、鴛洵は一人で逝ってしまった。香鈴を残して。 「おお、香鈴は筝がずいぶんと上達したようじゃな」 あれは、香鈴が貴陽の茶家本宅に暮らしていた頃。必死で与えられるものを学んでいた頃。 「鴛洵様、わたくし、鴛洵様のお好きな曲を全部弾けるようになりますわ!」 幼い香鈴は習ったばかりの練習曲を弾いてみせる。 「それは楽しみ。じゃが、無理はいけないのう」 鴛洵は香鈴の手を取る。小さな香鈴の指先は、硬い弦を扱うために赤く腫れていた。そうして、鴛洵は香鈴の指に薬を塗ってくれた。 幸せな日々。 鴛洵は香鈴には隠してはいたが、常にはひどく心を痛めていた。王への、そして民への思いで。 香鈴が筝を奏で詩を朗読すると、僅かにその表情がなごむ。 だから、香鈴は一心に練習した。すべては鴛洵のために――。 過去から戻って香鈴は自分の指先に視線を落とす。ほんの数年前までは練習のために硬くなっていた指先が楽器に触れない今、すっかりやわらかい。 そのまま香鈴はしばらく考えこんでいたが、雨よけの笠と手燭をつかむと夜の中に飛び出して行った。 昼でも薄暗い竹藪は、夜ともなると一層暗い。月でもあればまだ視界はましであろうが、雨夜にそれは望めない。好き勝手にうねる根に何度も足をとられそうになりながら、香鈴が小さな家に辿り着いたころには、笠さえも意味のないほど全身が濡れていた。 「錚錚?」 香鈴はそっと呼びかけてから家に入った。土間にも居間にも幼女の姿はない。 だが思った通り、臥室の片隅でちいさくうずくまっている姿を発見した。 「錚錚?」 もう一度呼びかけると、あやかしははっと顔を上げ、 「繚嬢!」 と呼んで香鈴に抱きついてきた。 香鈴は複雑な気分で幼女を抱きしめて髪をなでる。 「繚嬢、ドコイタ? 錚錚、ズット待ッテタヨ?」 「ごめんなさい、錚錚。わたくしは繚嬢ではありませんの」 途端に、錚錚は香鈴を押しのけるように飛びのいた。 「オ前! マタ何シニ来タ!」 その様が痛々しくて、香鈴は膝を折って視線をあわせる。 「わたくし、あなたに謝りに参りましたの」 「謝ル? 錚錚ニ?」 「ええ」 あやかしは、警戒一辺倒だったそれまでと違った表情で香鈴を見た。 「わたくしにもいらしたのです。待っても待っても、もう戻って来て下さらない方が。 あなたのお気持ち、わたくしには判りすぎて辛くて。ですからあなたにやつ当たりのようなことをしてしまって。ごめんなさいね?」 幼女の姿のあやかしは香鈴を見つめつづけていた。だが、やがてちいさくつぶやいた。 「オ腹、スイタ……」 「まあ! 何かお作りしましょうか?」 「錚錚、人ノ食ベル物、食ベラレナイ」 「では何を召し上がられますの?」 「錚錚、筝ノ音、食ベル。長イコト、食ベテナイ」 香鈴はその答えに少し考えこんでいたが、やがて幼女に提案する。 「わたくしにあなたを弾かせていただけますか?」 「オ前、筝、弾ケル?」 「以前はよく弾いておりましたが、ここ何年も触っておりませんから上手くは弾けないでしょうけれど」 「オ前、弾ク。錚錚、聞ク」 「それではお借りいたしますわね」 香鈴は筝を袋から出して台の上に乗せると、椅子を引き寄せる。 宮城に上がった頃からほとんど触れることがなかった楽器だ。気分は初心者である。 「姿勢は必ず正して!」 遠い日の筝の師匠の言葉を思い出す。香鈴は背筋を伸ばして弦に指を走らせた。 しばらくそうやって習ったことを思い出しながら途切れ途切れに音を出した。 あやかしはおとなしく様子を見守っていたが、とことこと香鈴の傍に寄ってきた。 「オ前、名前ハ?」 「香鈴ですわ」 「香鈴、下手。マズイ。錚錚、食ベラレナイ」 これには香鈴も苦笑するしかない。まったくと言っていいほど動かない指に自分でも呆れていたからだ。 「ええ、下手ですわね。ですから、これから毎日練習させてくださいませ。いつまでもあなたのお腹をすかせたままにしておくなんてできませんもの」 「香鈴、毎日、来ル? 毎日、練習スル?」 「ええ。がんばって練習いたしますわね」 「錚錚、待ツ。香鈴、上手クナル。錚錚、オ腹一杯ニナルマデ」 「約束、いたしますわ」 こうして、香鈴はちいさなあやかしと約束を交わした。 毎日、州牧邸の仕事の合間、主に昼間に竹藪の家を訪ねて練習する。 連日指を動かしていると、何かがほぐれるようになめらかな動きが少しずつ取り戻されていった。 まったく初心者でもないので、以前の勘さえ戻ればあとは練習あるのみだ。 「今日、チョットイイ。香鈴ノ音、少シ食ベラレル」 そう言われると上達したと言われたも同じで、香鈴は嬉しくなってますます練習に気合を入れた。 そうして、香鈴がちいさなあやかしと出会って一月ほどした頃。 その日は、影月の公休日であった。 久しぶりに二人で買い物などに出かけ、帰宅しても勢揃いした面々との夕食が待っていた。夕食が終われば、影月とゆったり話を楽しむ。 恋する少女の常として、香鈴の頭の中は影月で一杯で。恋人同士というのに相応しい休日を満喫していた。 傍から見ればじゃれあっているようにしか見えないようなやり取りさえ嬉しくて、隣り合って座っているだけでも幸せだった。 だが、ふいに子供の泣き声が聞こえたような気がして、香鈴は顔を上げる。 (錚錚!) あまりにも楽しくて、香鈴はあやかしとの約束をすっかり忘れていたのだ。 「影月様、わたくし、失礼いたしますわ!」 いきなり会話をさえぎって告げると、香鈴はそのまま走り去った。 「香鈴さん!?」 影月の戸惑う声を残して。 この日は、十六夜。竹藪の小道も慣れた今では夜だとて関係なかった。香鈴は僅かの時間で州牧邸から竹藪の中の家へと駆けつけた。 勢いよく扉を開けて家に入り込む。と。 「香鈴!」 いきなり温かいものに抱きつかれた。 「お待たせしてしまいましたわね。こんなに遅くなってしまって」 「香鈴、繚嬢ミタイニ、モウ来ナイカト思ッタ……」 涙のからんだ幼女の声に香鈴の胸に罪悪感が沸き起こる。香鈴は一度強く幼女を抱きしめると、手を引いて臥室に向かった。 「それでは、今から練習いたしますわね」 深呼吸してから、香鈴は弦に手を伸ばす。 (今日は何を弾きましょう) 左手で弦を押さえ、右手で爪弾いて調子を整えながら、香鈴は曲に入っていく。 間近な夏に思いを馳せて、選んだのは“出水蓮”。 香鈴の眼前に薄く紅色を帯びた睡蓮の蕾が、冷たい水の中でゆっくりと目覚める。まどろみから覚めた花びらが、意志を持つかのように開いていく。 その音色は、夜の中、あたりにしみわたるように響いた。 最後の一音を弾き終え、香鈴は余韻から覚めると傍らのあやかしを振り返る。 「錚錚? 今夜は少しはましに弾けたように思うのですが?」 いつもならすぐに出来を評価するあやかしなのだが、今夜はすぐに答えない。 「錚錚?」 重ねて呼びかけると、あやかしは椅子に座ったままの香鈴に抱きついてくる。 「錚錚、オ腹一杯ナッタ! 今日ノ、トテモ美味シイ!」 それは間違いなく腕を認められたということ。嬉しくなった香鈴はあやかしを膝の上に抱き上げる。 「ずいぶん長い間お腹をすかしてらしたものね。よかったですわ。これからも錚錚がたくさん食べられるようにがんばりますわね」 「コレカラ? ズット?」 腕の中のあやかしは甘えるように頭を摺り寄せる。 あやかしの言葉は、それはいつかの影月との約束を思い出させた。 「そうですわね。たぶん後数年は通えると思いますの」 「ズット、ジャナイ?」 幼女の声があまりにも頼りなく、香鈴の胸に痛みが走る。だが嘘は言えない。 「何年かしましたら、琥lを出て行くと思われますの。そうしたら、こちらには通えなくなりますわね」 「香鈴、来ナクナル? 錚錚、置イテ行ク?」 「置いて行きたくなどはありませんわ。わたくし、錚錚のことを好きになってしまったんですもの」 その言葉は自然に香鈴の唇からこぼれる。あれほど影月には困難だった一言も、素直な子供の前では口に出すのも容易だ。 「錚錚モ、香鈴、好キ」 「まあ!」 愛しさが込み上げて、香鈴はあやかしを抱きしめる。 「香鈴、錚錚、置イテ行キタクナイ?」 「ええ」 「錚錚、香鈴ニ置イテ行カレタクナイ」 あやかしの小さな手が、香鈴の着物を引っ張る。 「錚錚、決メタ。香鈴ト行ク。香鈴、錚錚、持ッテ帰ル。錚錚、何処デモ連レテ行ク」 「それは――わたくしがこの筝をお預かりするということですの?」 「錚錚、香鈴ト一緒ニ行ク。香鈴、イヤ?」 「いいえ。嫌なはずありませんわ。お連れします。一緒に参りましょうね」 香鈴がそう約束すると、幼女は満面の笑顔を向け、そうしてその姿を消した。 「錚錚?」 呼んでも、もうあやかしは姿を現さなかった。 もう、会えないのだ、と香鈴は悟った。満足したあやかしはただの筝に戻ってしまったのだ。 それが判っても香鈴の心には淋しさが沸き起こる。 同じ思いを抱えていた。 抱きしめると子供らしく温かかった。 香鈴はこぼれそうになる涙を拭うと、今一度筝に向かう。 梅の花の姿と香りを表現する古い優雅な曲。せめて、この音色が届くようにと――。 「“梅花三弄”、ですか?」 曲が終わった後にふいに話しかけられて、香鈴の意識は立ち戻る。 そこにはいつからいたのか、複雑な表情を浮かべた影月が壁にもたれるように立っていた。 「影月様――」 影月はふらりと座した香鈴の近くに寄る。 「探しました。いきなり飛び出されてびっくりして追いかけたんですけど、途中で見失っちゃって。一度州牧邸に戻ってみんなに聞いてみたんです。香鈴さん、毎日この家に通ってたんだそうですね。だからここじゃないかって。大当たりでしたね」 なんとはなしに言葉の端に影月らしくない棘を感じて、香鈴はそっと顔を窺う。 「影月様、怒ってらっしゃいます?」 「正直に言うと少し」 それだけで香鈴は思わず身体を縮めた。影月は大抵のことでは怒らない。だからこそ、怖いと思う。 「あのですね、香鈴さん。いくら近くだからって、夜になってから一人でこんな人気のない場所に来ちゃ危ないんですよ? そりゃこの家はあやかしが出るって有名だから人は近づかないかもしれませんけど、道中で事故にあう可能性だってあるんですから」 香鈴は少しもそんなことを考えなかった自分を恥じた。しかも。 (夜に来たのが二度目だなんて影月様には言えませんわね) 香鈴は影月の目をまっすぐ見返す。理由なくここに来たのではないと告げておきたかった。影月ならきっと判ってくれる。 「申し訳ございません。わたくしが浅はかでしたわ。ですけれど、もう少しで約束を破ってしまうと気が付いたら、ここに来ずにはいられませんでしたの」 「約束って、もしかしてあのあやかしとですか?そう言えばあの子はどこに行ったんです?」 「錚錚は――。おそらくもう会えませんの」 そう口にした途端、香鈴の瞳からはらはらと涙がこぼれる。 「香鈴さん!?」 影月の慌てた声を聞きながら、香鈴は涙を止めることができなかった。 「淋しいんですの。ようやく、わたくしに懐いてくれましたのに――」 影月は香鈴の頭を自分の胸に引き寄せる。 「いつの間にあの子と仲良くなったんです? 香鈴さん、だいたいあやかしとか苦手でしょう?」 影月の胸が、頭に乗せられた手が香鈴の心を温めていく。 「以前から親しんできた筝の精だと思うと少しも怖くなかったんですわ」 香鈴は影月の背中に腕を回してしがみついた。すがりつくものが欲しかった。 「あの子、ひとりぼっちでお腹をすかせていましたの。筝の音しか食べられないのに、弾いてくれた大切な方もいなくなってしまって。あの子にとって全てだった方でしたのに。 昔の自分を見ているようで、わたくし、放っておけませんでしたの。影月様でしたら、お判りいただけますわよね?」 「それはまあ……。うん、僕だって放っておけなかったかもしれませんねえ。でもね、香鈴さん?」 影月は香鈴の腕を剥がすと、自分の身体の前で両腕を掴み直す。 「あんまり無茶しちゃいけませんよ。ほら、こんなに指が腫れてるじゃないですか」 掴まれた右手が持ち上げられ、赤く腫れた指先が影月の口に含まれる。 「影月様!」 鈍い痛みと羞恥とで、たちまち顔を赤くした香鈴はたまらず叫んだ。 「帰ったらちゃんとお薬塗りましょうね」 影月は笑ってもう一度指先を吸う。甘い痛みに今度は声も出ない。もしかして、これは先ほど怒らせてしまったことに対する罰なのだろうか、と香鈴はひそかに思った。 「ねえ、香鈴さん? あの子の境遇に自分の過去を重ねちゃったんですよね?」 「ええ……」 「今でも、香鈴さんにとって鴛洵さんは全て、ですか?」 「それは――」 香鈴はどう答えようか少し考えた。影月は本気で言ってるのだろうか。自分にとってまだ、鴛洵が全てだと? それは香鈴をわずかばかり怒らせた。だから、とびきりの微笑みだけで答えてなどやりはしない。 「影月様」 満面の微笑を湛えたまま、香鈴は影月を見上げる。 「この筝を州牧邸まで運ぶのを手伝ってくださいません?」 「それは……かまいませんけど」 はぐらかされた影月はそれでも断りはしなかった。 「あの子、わたくしにこの筝を託してくれたのですわ。ですから、わたくしの室に置こうと思いますの」 「それじゃあ、これからいつでも香鈴さんの演奏が聴けるんですか? さっき初めて聞きましたけど、すっごく上手ですよねえ」 「お望みでしたらいくらでもお弾きいたしますわ。そうすれば、きっともう錚錚がお腹をすかすこともないでしょうし――」 香鈴は自分の物となった筝を愛しむような眼差しで見つめた。 それから。錚錚の筝は香鈴の傍らにある。 折にふれ、香鈴は筝を奏でる。 その音色は深く澄んで響き、誰もが香鈴の腕を絶賛するようになるのだが、それはいくらか先の話。 今はまだ、香鈴の指先からこぼれる音は、あやかしの幼女を想って切なく震えているのだった――。 ――筝風、竹林を渡る(そうふう、ちくりんをわたる) 弾指、絹弦を泳ぐ(だんし、けんげんをおよぐ) 夕べに聞く十三の声(ゆうべにきくじゅうさんのこえ) 蕭蕭と鳴いて友懐かしむ(しょうしょうとないてともなつかしむ)―― |
『鳴弦抄』(めいげんしょう) 先に書いた『青嵐』の中で香鈴に筝(古筝)を弾かせました。 腕もそれなりのように書きました。 しかし、以前は得意としていたとしても、 宮城を出てから弾けるような状態に香鈴はいませんでした。 (まあ、元から原作にない設定ですが) 長い間引かなければ、腕が落ちて当たり前。 どんな楽器でも毎日練習しないとものになりません。 そしてまた、香鈴がどこから筝を入手したのかも説明していませんでした。 『青嵐』の中では余計な説明をはぶいたためですが。 この二つに答えるために、書こうと思った話です。 ネットを漂っていると、 ピアノは弾いたことがあるけれど古筝は初心者の留学生が 一月練習して人前で弾いた、というのを見まして。 初心者じゃないんだったら一月練習したらまた上手くなってるかな、と。 香鈴は器用ではあるかもしれませんが、基本的に努力家だと思っています。 作中のあやかし、錚錚(チェンチェン)は、早い話、付喪神(つくもがみ)です。 年月を経た器物が妖怪になるという、アレです。 『唐宋伝奇集』にもひとつあったので、 日本固有というわけでもないかと設定しました。 錚錚は香鈴を新たな主として認めて満足したので、姿を現すことは今後ありません。 でも、香鈴はこの先、どこに越しても錚錚を連れて行くのです。 末尾にある漢詩もどきは自作です。 一応、五言絶句ぽくは作ったのですが、 押韻?それ何?状態です。 まあ、雰囲気で。 これだけで3日ほど悩んだのですが。 古筝ですが、現在は二十一弦が主流です。 弦も変わって、金属コーティングされているので、 ハープのように美しいです。 十三弦にしたのは、唐代に十三弦(日本に伝わったのも十三弦)だったということで。 作中に出した二曲は実在する筝の古い伝統曲です。 ちなみに、この家はその後、慶張(三太)に割り当てられることになります。 冒頭に持ってきた漢詩は、古筝を調べると必ず出て来る古い詩ですが、 南朝梁代の「文選」に収録された『古詩十九首』の其の四で、作者不詳とのことです。 上述部分だけですと、 「筝は心を奮わせるように楽しげに響き、 その音色は神が宿ったかのようにこの上なく美しい」 といったような内容でしょうか。 適当なので本気にしないでください……。 以下、全文を記します。全文訳は途中で断念しました……。 今日良宴會 |