初心者的恋愛迷宮
(しょしんしゃてきれんあいめいきゅう)

*『鳴弦抄』の同日後談です。



(まったく、香鈴さんには危機感というものがない)

 影月は、布に包まれた筝を運びながら思う。
 筝は、本体の大部分が桐ということもあり、さほど重い物ではない。
 ただ、それでも自分の身長と大差のない物体が持ち運びに適しているはずはない。
 竹藪の小道は細く、気をつけていないと筝はすぐに周囲の竹にぶつかりそうになる。
 何度か香鈴が手を貸そうとしたが、影月はその度に断った。
 重くはないのだ。持ちにくいだけで。
 香鈴に持たせるなど論外である。
 好きな女の子の前で格好をつけたいと思うのを誰が責められよう? どのみち、州牧邸は遠くない。
 今夜は月が明るいこともあり、足元はぼんやりと照らされていた。ただ、もちろん行きかう人の姿は他にはない。


(香鈴さんみたいなきれいな女の子がこんな寂しい道を一人で歩いていたら、そんな気はなくても悪いこと考えちゃう人とすれ違う可能性だってあるのに。そうしたら、香鈴さんなんて……)
 最悪の想像を影月は頭を振って追い払う。
「影月様?」
 筝を置く台を抱えた香鈴が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫です。ちょっと虫が飛んできちゃっただけです」
 悪い虫が頭の中に沸いてきただけだ。
 黒目がちの大きな瞳を揺らす香鈴は、なんとも愛らしい。
 いっそ筝など放り出して、自分が悪い虫になってやろうか。
「影月様が来てくださって、正直助かりましたわ」
 あ、先手を打たれた。これでは悪い虫にはなれない。それは少し残念かもしれなかった。
「僕が行かなければ、香鈴さん、ひとりで運ぶつもりだったんですか?」
「そこまでは考えておりませんでしたの。でも、あんな寂しい所に残しておくのも忍びないですし、そうですわね。自分で運ぼうとしたと思いますわ」
 無茶だ。どう考えても無茶だ。影月だって楽々と運んでいるのではないのだ。
(香鈴さん、結構無茶するよな……)
 香鈴の細腕では、きっと途中で動けなくなっているだろう。
 想像するだけで心配になった影月は、しっかりと筝を抱えなおすと、憤然と道を歩き出した。とにかく、筝は州牧邸にとっとと運んでしまった方が安全だ。


 やや早足で進みながら、影月はまたしても考え始める。
(あやかしに対する警戒心も薄いんじゃないか?)
 怖がりのくせに。あやかしなんて嫌いのくせに。無害そうな姿をしていたって、人を害するあやかしだっているのだ。
 それは、影月があのあやかしの事情を知ったら、やはり何かしたいとは思っただろう。放っておくことだって出来なかったかもしれない。
 それでも。もし香鈴が取り込まれてしまったら……?


 州牧邸の家人から聞いて駆けつけた竹藪の空家。
 近づくと月にとけるように流れる美しい調べ。
 飛び込んだ家の中で一心に筝を奏でる香鈴を見つけた時、正直影月はこの世のものではないのではと思ったのだ。
(月に住む嫦娥みたいな……)
 あやかしとて、とりこむのであれば、香鈴のように若くて美しくて、そして才に優れた者を喜ぶだろう。
 筝を爪弾く香鈴の肩をつかんで、強引にこちらに戻そうかとも思った。
 自分に相談もなく一人夜道を駆けて行ったことへの苛立ちもあっただろう。
 だがそれでも。
 影月でさえ、聞き惚れずにはいられなかった。最後まで聞きたいと思った。
 奏でられる梅の花。その花より芳しい乙女の姿。
(そりゃ、香鈴さんが教養あるって知ってたけど、あんなに上手いなんて知らなかったし)
 影月は、自分の後を歩く香鈴を盗み見る。
 香鈴はまだあの子に心を寄せているのだろうか。その表情は憂いに満ちている。


(僕が、今だって傍にいるのに、そんな顔しなくっても――)
 抱きしめて、顔を上げさせて、あやかしなんかより自分を見ればいい――。
 そこまで考えて、影月は香鈴を発見してからずっともやもやしていた自分の感情に気が付く。
(あれ? つまり。僕はあのあやかしの子供に嫉妬してたのかな?)
 毎日、香鈴はあの家に通っていたという。
 一つ屋根の下に暮らしながら仕事のある影月には、ゆっくり香鈴と過ごせる時間が少ない。
 たしかにあやかしと約束したせいであったとしても、香鈴だとて淋しくないわけはなく。だからせっせと通っていたのかもしれないけれど。
(淋しいなら僕の所に来てくれればいい。香鈴さんだったら、いつだって来てくれれば嬉しいし。っていうか、むしろ僕が誘えばいいのか。よし、さっそく今日から実行しよう!)


 まずは、帰ったら筝を香鈴の室に運んで。治療もしなくければならない。香鈴の華奢な白い指先が赤く腫れあがっているのはなんとも痛々しい。
(舐めて治るんなら、いくらでも舐めるんだけど)
 つい衝動のまま口に含んだ香鈴の指。
 医師としては、それがいいことではないと知ってはいたけれど。
 咄嗟の行動に狼狽する香鈴が可愛くて、繰り返してみたのだけれど。
(またやったら、あんな可愛い顔してくれるかな?)
 それとも、さすがに今度は怒るかもしれない。
(僕に怒ってくれるんならいいんだけどね)
 そんなことを考えているうちに、州牧邸の門をくぐっていた。




「香鈴嬢、どちらに行かれていたのです?」
「なんだ影月、その荷物は」
 まっすぐ香鈴の室に行くつもりだったが、玄関に着いた途端、櫂瑜と燕青に迎えられ、そのまま影月と香鈴は居間に移動するはめになった。
「申し訳ございません。竹藪のお家に参っておりましたの」
「やっぱりあそこか。って、もしかしてその荷物はチェンチェンの筝? 持ってきても大丈夫なのか?」
 香鈴があの家に通っていたことは燕青も知っていたらしい。なんで自分には話してくれていないんだと、影月はへこむ。
「あの子に託されたんですわ。あのお家ももう使えましてよ」
「まさか、今度は州牧邸に出るとか……」
 その方が香鈴は喜ぶんじゃないだろうかと、影月は香鈴を見守りながらとりあえず筝を下ろした。
「それはございません。あの子は満足してただの筝に戻ってしまいましたの」
「愛らしい幼女でしたのに残念ですね」
 櫂瑜の女性守備範囲は一体どこまで広いのか。それは謎だ。
「それって、チェンチェン丸め込んだってことか。嬢ちゃんすげえな!」
 燕青は本気で感心したようである。普通の人間はそこまでは無理だという。
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでくださいませ!」
 香鈴はその発言に怒ったが、それくらいあの幼女が好きだったのかと影月は何とはなしに面白くない。
「あの子は、ずっと筝を弾く人間としてわたくしを認めて託してくれたのです!」
 香鈴は影月が置いた筝に近づくと大事そうに布の上から触れる。
「それでは、香鈴嬢の筝をこちらで聞けるのですね。どうです? 一曲聞かせていただけませんか?」
「おお! 聞きたい!」
 櫂瑜の燕青の要望に、香鈴はうなずき、支度を始める。影月は手伝いながら複雑な心境だ。
(指……大丈夫なのかな)
 心配する気持ちも大きいのだが、もうしばらくは香鈴の筝を独り占めできるような気になっていたので落胆も伴う。別に香鈴は影月のためだけに弾くなどとは一言も言ってはいなかったのだが。
 ただ、影月が望めばもちろん弾いてくれるだろう。櫂瑜や燕青が望んだ今と同じように。それはそれでまた面白くなかった。


「それでは、まだまだ未熟ではございますが。何かお好きな曲はございますか?」
 淑やかに椅子に腰を下ろした香鈴は、一同を仰ぎ見る。
「そうですねえ。“高山流水”などはいかがです?」
「結構ですわ」
 香鈴は背筋を伸ばして指を走らせる。
 と、たちまち、雄大な自然の景観を想像させる楽の音が響き渡る。高い山。冷たくて澄んだ清流。影月は故郷の千里山脈を思い浮かべた。
「これは……見事なものです」
「いや、見直した。嬢ちゃん芸達者だなあ」
 曲が終わりしきりと香鈴の腕を褒めるふたりの声を影月はどこか遠くで聞いた。
 たしかに素晴らしいと思う。だが、あの空家で聞いた鳥肌がたつほどの演奏には及ばなかった。あれは、香鈴があやかしの幼女を思って心をこめて弾いていたからだろうかと影月は想像した。


 香鈴の演奏の後、櫂瑜は執事の尚大に何やら命じている。まもなく戻ってきた尚大が櫂瑜に手渡したのは、一台の笙だった。黒光りする笙を手に取った櫂瑜は、しばし試し吹きをしていたが、やがて香鈴に向かって微笑みかける。
「いかがでしょう。この老いぼれと一曲お願いできますか?」
「喜んで」
 香鈴も櫂瑜に微笑みかけている。話がまとまったのか、やがて二人が奏で始めたのは“梅花三弄”だった。“梅花三弄”は元々が笛曲だったというし不自然ではないのだが、仲良く合奏する姿に影月は心中がまたもやもやもやするのを止められなかった。


(さっき、あんなに泣きそうな顔で弾いてた曲をどうして今度はそんなに楽しそうに弾けるんだ? っていうか、なんで櫂瑜様にそんなに素直だったり笑ってみせたりするんだ? 櫂瑜様だって、なんだって笙なんか吹けるんだ?)
 この気持ちを翻訳すれば、きっとこうなる。
(僕が代わりたい!)
 しかし生憎、影月に奏楽の嗜みはなかった。どうしたって貴族の楽しみである。詩ならただでも暗誦できるが、楽器はそうもいかない。
 もし今から影月が何やら楽器を学び始めても、香鈴と合奏できるまでに何年かかるか想像もつかない。香鈴の筝の腕前がかなりのものだと判ってしまうだけに尚更だ。
 二人の合奏は、実際素晴らしくて。素直に感心して聞き惚れている自分もいる。早春を彩る花を筝と笙が競い合うように、共に賛美するように歌う。香鈴の筝も見事だが、櫂瑜の笙も達人の域であった。


(あー、なんか落ち込んできたかも)
 香鈴が櫂瑜と仲良く演奏する様は、普通なら微笑ましいで受け取れるのだろう。なんと言っても祖父と孫以上に年齢差のある二人だ。ただ、この二人だとそう簡単には受け取れない。女性遍歴現役の櫂瑜と鴛洵を慕って育った香鈴だから。
(それに、結局今でも鴛洵さんが一番なのかどうか答えてくれなかったし……)
 他者と自分を比較してしまうのは人の常だろう。
 それでも、今まではなんとか、自分は自分と、自分にできる最大限のことをやってきたつもりだ。その上で今の影月がいる。
 しかしそれが恋愛となると、割り切って考えるのは難しい。
 初恋は成就しないなどとよく聞くけれど、成就してしまった今、問題は山積だ。経験値がまったくないために、自分の気持ちだって制御しきれないのが現状だった。


 気が付くと演奏は終わり、いつのまにやら家人たちまで集まって拍手喝采である。
「それでは、今夜はこれで片付けさせていただきますわね」
 香鈴の声に、物思いから覚めた影月は慌てて声をかける。
「あ、僕が運びますから」
 筝を袋に入れるのを手伝って、影月はさっさと抱え上げる。この場には男手が溢れている。影月からあえてその役目を奪おうとは誰も思わないかもしれないが、少し焦っていたのかもしれない。
 居間を出て香鈴の室に向かう道すがら思ったことは、
(僕以外に、香鈴さんの室に入れる男はいないし)
 だった。
 ささやかな優越感はしかし、どこか苦かった。




「影月様、ありがとうございました」
 香鈴の室に着くと、指示に従って筝を立てかける。
「ここでいいんですか?」
「ええ。すぐに弾けるところに置いておきたいんですの」
 居間での演奏中には見せなかった翳りが、かすかに香鈴の横顔に広がる。そんな顔をしたままの香鈴を置いて立ち去ることは影月にはできなかった。ましてや、まだ一緒にいたいと願っている。
「香鈴さん――」
「なんですの?」
 筝から目を離して自分を見上げる香鈴に向かって一歩近づく。
「まだ、あの子のことで頭が一杯ですか?」
 香鈴は長い睫毛を伏せて、首を横に振る。
「少し、落ち着きました。もうあの子に会えないのだと思うと淋しいですけれど、先ほどのように楽しく演奏した方がきっと喜んでくれると思いますし」
 さらにもう一歩距離を詰める。
「あのですね、僕はちょっと物足りないんですよ」
「影月様?」
 手を伸ばせば届く距離まで近づいて、腕の中に香鈴を閉じ込めた。
 これもまた、櫂瑜にはできないこと。あのあやかしにだってもうできないこと。


「あのっ、苦しいですわ」
 いろいろな思いがぐるぐるして、つい力の限り抱きしめていたようだった。
「すみません!」
 慌てて力を緩めるが、香鈴を離さないまま影月はその華奢な肩に顔を埋める。
「影月様? まだ一人で飛び出して行ったことを怒ってらっしゃいます?」
 香鈴の声にはかすかに不安が滲んでいて、影月を怖がっているようにも思えた。怖がらせるつもりなどないのに。
「それはもう怒ってないです。でも、せっかく今日は香鈴さんを独り占めできると思ってたのに、あのあやかしの子に途中で取られてしまって悔しいというか……」
 ついこぼしてしまった本音に香鈴が返した言葉は影月の予想を超えていた。


「影月様、わたくし先ほどあなたに少し怒ってしまいましたのよ」
「えっ!?」
 一体どこで怒らせてしまったのだろう。どう考えても、影月が怒る方が自然ではないだろうか。
「すみません。でもどうして?」
「わたくしがどうして錚錚との約束を破りそうになったのか、お判りになりません?」
「それは――ええと、お昼は二人で出かけてて……」
 その後は州牧邸に帰宅して、でも一緒にいて。一日の様子を影月は回想する。楽しかったはずの休日。
「そうですわ。誰かさんと一緒にいられるのが嬉しくて、それであの子との約束を忘れてしまったのですわ」
 香鈴は顔を逸らして続ける。素直にこちらを向いては話し辛いらしい。
「ええと、つまり、僕と一緒だと嬉しいってことですか?」
「――本気で怒りますわよ」
 影月を睨みつけた香鈴の瞳に走った光は危険なものを孕んでいて、影月は慌てて謝る。
「すみません……」
 腕の中の香鈴が小さくため息を落とす。
「影月様は、もっとご自分に自信を持たれた方がよろしいですわ。少しくらいなら自惚れたっていいと思いますの」
「……普通、自惚れるなと言いません?」
 だいたい、自惚れるという言葉に良い印象はない。
「そうやって、たいそう腰が低くていらっしゃるんですもの。人当たりがよろしいのは影月様のよいところだとは思いますが」
「僕の、よいところ、ですか?」
 男としての自分は足りないところばかりで、よいところなど思いつかない。
「わたくし、よいところのない方と過ごすほど、暇ではないんですのよ」
「ええと、はい……」
 褒めてくれているのだろう、たぶん。素直でない香鈴からすれば最大の褒め言葉ではないだろうか。
「それはもちろん、影月様が鼻に付くほど自惚れ屋になられたとしたら、きっぱりと見切りをつけてさしあげますけれど」
「……むずかしいです」
 香鈴に見切りをつけられるなどと、考えただけでも絶望しそうになって、自然影月の口調は力をなくす。
「では、よく覚えていらして。
 わたくし一生を秀麗様にお仕えするつもりでしたの。それはもう、心に誓っておりましたのよ。
 それなのに、わたくしはどこにおりますの? 今、どなたの傍におりますの?
 わたくしが、自ら立てた誓いを破ってまで秀麗様より選んでしまったのはどなたですの?」
 たたみかけるように香鈴は影月に問う。
 自分の腕の中、これ以上近くにいるのは他に誰もいない。
「それって、自惚れてもいいことなんですか?」
「ご自分でお考えくださいませ! 国試の際に一生分頭を使ってしまったとかおっしゃいませんわねっ」
「でも、勉強なんかとは全然勝手が違うんですよっ!」
 一応、心を確かめ合った恋人同士で、それでも不安は消えないのに。
「一緒にされてはたまりませんわっ!」
 眉を吊り上げた香鈴は、右手をあげるとそのまま影月の頬に触れ、そして――。


「……痛いです、香鈴さん」
 香鈴に向き合った左の頬から、確実に痛みがやってくる。
「つねってるのですから、当然ですわ」
 もちろん、それほどきつくつねられているわけではないのだが、それでも痛いものは痛い。
「なんでつねるんですか」
「どなたかが馬鹿なことばかりおっしゃって、わたくしを怒らせるからですわっ! わたくしだって怒りたくなんてありませんのよっ!」
「香鈴さんは怒ってても可愛いですけど」
 思ったことを素直に口にすると、少し香鈴がひるんだのが判った。彼女の手が自分の頬から離れる前に捕える。
 まだよく判らないことだらけだが、どうやら香鈴への気持ちはそのまま口に出した方がいいのかもしれない。あまり考えすぎずに本能で行動した方がいいのかもしれない。
 指先を掴むと、かすかに香鈴が顔をしかめる。それで影月は思い出す。帰ったらしようと考えていたことを。
「そう言えば、治療するって言ってたのに忘れてましたー」
「……どうして、そこでまた指を咥えるんですのっ」
 上ずった声が抗議をしてくる。三度目はさすがに怒られたか。
「治療にならないんですけど、そうしたかったからです」
 影月は口に含んだ指先に舌を走らせる。ちいさく、香鈴が震えるのが伝わってきた。香鈴を見ると、すでに真っ赤になっている。
(可愛いなあ……)
 影月は先ほどまでとはうって変わって楽しくて仕方なくなってきた。極上の飴でもあるかのように口中の指先を丹念に舐める。
「あ、あのっ! そろそろ離してくださいませんか……」
 抗議の声は弱々しくて、語尾など消えそうなくらいだ。それがまた可愛くてしかたがない。
「や、です」
 指を口に含んだままなので不明瞭な声しか出なかったが、香鈴には十分伝わったようだった。
「離して……」
 羞恥に頬を染め、うるんだ瞳で見返されると、それだけで愛しさが溢れてくる。
 口元から指を解放して、でも決して離さずに唇を指から手のひらに這わせながら香鈴を盗み見る。とまどいに揺れる瞳が、香鈴とて決して恋愛事に慣れているわけでないのだと訴えているようだ。
 彼女の方が年上で、女の子の方が恋愛に詳しくても、実は影月と同様に初心者のはず。今だって、指先を捕らわれているだけでこれほどまでに動揺している。
(可愛いなあ……)
 何度だってそう思う。もっと困らせて、ちょっと泣かせてみたいなんて思ってしまっただなんて、そんなことは言えないけれど。どんな表情も可愛くて、どんな表情も見たい。自分だけが見られるなら最高だと思う。
(すっごい贅沢な感じ?)
 自惚れていいと彼女が言うから、こんな表情は自分にしか見せないのだと自惚れてしまおう。せめて、こうして二人でいる間は。


 そうやってしばらく香鈴の手を掴んだままだったが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
「じゃあ、今夜はこのくらいで。でもせっかくですから、今度から香鈴さんが筝を弾く度にこうして治療してあげますね」
「何が“せっかく”ですのっ! 治療でもなんでもないではありませんのっ!」
 ようやく香鈴の手を離すと、香鈴は急いで袖の下に隠してしまった。ついでに元気も回復したらしい。
「だって毎回そうしてたら、香鈴さんが筝を弾く時にはあの子のことだけじゃなくって、その後に僕がどうするかだって思い出すでしょう?」
 顔を赤くして言葉を失った香鈴を抱きしめて、影月は耳元で囁く。
「僕が傍にいる時は、誰かのことじゃなくてやっぱり僕のこと考えてて欲しいんです。僕が、香鈴さんのことで今頭が一杯になってるみたいに――」


 結局、今夜はどちらが勝ったのか。それとも恋愛に勝ち負けなどないのだろうか。
 それでも影月は、この日を境に二人きりの時には少しばかり自惚れることにした。
 恋愛は自分を戸惑わせることばかりで、上手く振舞える日が来るかどうかもわからないけれど、二人でなら迷いながらでもきっと楽しい。
 香鈴の室に筝が増えた夜。迷宮にただ迷うのではなく、むしろそれを楽しもうと思い始めたそんな夜だった――。

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『初心者的恋愛迷宮』(しょしんしゃてきれんあいめいきゅう)


『鳴弦抄』の同日のその後の話です。
影月、ぐるぐる悩むの巻。
予想より悩まれてしまい、こちらまでへこみましたよ。

で、当初予定のなかった演奏会(?)とか始まって、
「うわっ!今度は笙ですかっ!勘弁、櫂瑜様!」
とか思いました。
笛系がいいとは思ったのですが、龍笛って肺活量がかなり必要なようで、
さすがに櫂瑜には苦しいかと笙にしました。
笙って、吹いても吸っても音が出るので楽そう、かもです。

そして、二人きりになったと思ったら、
今度は香鈴が怒り出します。やっぱり(笑)
びしびしと怒ってくれたので、
「おや?今回は香鈴上位?」とか見守っていましたが、
きっちり締めてくれる、それが影月。

ええと、この話を境に、影月は「対香鈴のたらし度」をアップします。
なんか吹っ切れたらしいです。
がんばれ、香鈴(笑)

この話、仮題でよっぽど通そうかと思いました。
それは、『ぐるぐる影月くんとぷんぷん香鈴ちゃん』です。
でも、このタイトルが目次にあるのを想像したら自分が我慢できませんでした。

あ、『高山流水』も実在の曲名です。