月下遊戯 (げっかゆうぎ) |
花はあたりに咲き乱れ。 李、杏、桃、桜。枝さえ隠す勢いで全てが花に染められる。 そんな爛漫の春、清明の頃。 州牧邸の庭院には一本の桜の古木がある。樹齢は約百年と庭師は言う。若い木々のように沢山の花をつけることこそないが、黒々とした幹も枝も太く、その風格で他を圧倒している。枝は高く伸びて母屋の二階よりまだ高い。二階の窓から外を眺めると、その古木が品よく咲かせた一重の白い花をちょうどよい距離で楽しむことができた。だが地面に近い枝にはあまり花をつけなかった。 その桜の古木の下方の枝に、数十年ぶりと言えそうな花が咲いた。いや、おそらく若木であった頃すら咲かせなかった花を。 清明節を数日後に控えたある日、州牧邸の庭院で武人二人に命じて、櫂愉は桜の古木の枝を確かめさせていた。 「強度はどうですか?」 「十分ですね。私が乗ってもびくともしませんし」 武人の一人、暁明は櫂瑜に答えて枝の上で朗らかに笑う。成人男子の身長よりもまだ高い位置だと言うのに気にした様子もない。 「おい、暁明、そっちに端を渡すからしっかり結べ」 梯子に登った慶雲が色鮮やかな絹糸を編み上げた紐を暁明に向かって投げると、枝の上だというのに易々と受け取って、細身の武人は足元の枝に結んでいく。 二本の紐がそうして枝から長く垂れ下がって風に揺れる。結び目を確かめるように梯子から降りた慶雲が、紐の下部を一枚の架板の両端に結ぶ。 板と言ってもただの板ではなく、よく見ると細かな彫刻が浮き彫りにされている。 「仕上げは私がいたしましょう」 櫂瑜はそう言って、枝から下がるものより細い、けれどやはり鮮やかな紐をいくつもいくつも浮かんだ板の両脇に複雑に飾り結んで、端を長く垂らした。 「なかなか良いではありませんか?」 一人悦に入る櫂瑜の元に、それまでただ眺めるだけだった燕青と影月もようやく近づいていった。 「櫂のじーちゃん、何してるんだ?」 二本の紐にぶら下がるように、賑やかな板が僅かに揺れている。 「ああ、燕青殿。……そうですね、君にはさすがに遠慮してもらわないといけませんねえ。まだ影月君なら少しは試してもらってもいいでしょうけれど」 「これ、何?」 「鞦韆(しゅうせん)ですよ。先日の市の視察で見つけたのですけれど、中々良い品物です。つい懐かしくなって購入したのですが清明節に間に合って良かったですよ」 「櫂瑜様? 鞦韆って、何なんですか?」 燕青もまだ判らないという顔をしているが、影月にもさっぱり判らない。 「女性の運動用の遊び道具、と言っていいでしょうかねえ。ほら、ある程度の家の女性ともなりますと、そう簡単に家の外には出られません。そうなるとどうしても運動不足にもなりますし。ですから、春の気候の良い時にこうして設置して運動してもらうんですね」 「はあ……」 櫂瑜がまだ納得していないらしい影月へ説明を続けている所に、執事の尚大が現れた。 「櫂瑜様、香鈴嬢を呼んでまいりました」 途端に、少年のように顔を輝かせて、櫂瑜は香鈴に向き直った。 「ああ! 香鈴嬢! いかがですか? 年寄りの感傷にお付き合い願えませんかな?」 「まあ、鞦韆ですのね! 清明節ですものね。幼い頃、鴛洵様がわたくしのために……。宮城でも楽しみましたわ」 香鈴の表情に懐かしさが浮かび上がる。 (香鈴さんはこれで遊んだことがあるんだ) そう思うと、影月もまだよく判らないながらに懐かしいような微笑ましい気持ちになった。 「ですけれど櫂瑜様? この邸で使えるのは……」 しかし、香鈴は追想から戻ると心配そうに櫂瑜を窺う。 「ええ。ですからあなたをお呼びしたのですよ。このあたりではあまり見かけないようですし、お友達にも教えてさしあげてください」 どうやらこの邸でこれを使っていいのは香鈴ひとりということらしい。女性のための遊具を用意するのは櫂瑜らしいと、その時影月は感心した。 そんなわけで、州牧邸の庭院の桜の古木にはひと時だけ鮮やかな鞦韆が揺れることになった。 しかし、このような遊具があったところで香鈴しか使えず、その香鈴すら昼間は仕事ということで、住人たちは誰もしばらくは鞦韆が使われるところを見ることもなかった。 影月にしても使っていいと言われたようなものだが、何か知らないもので遊べと言われても遊べるものではない。というより、遊ぶということ事態、彼の過去にはあまりなかったこと。せいぜい山野を走り回るくらいのことで、ましてやこのように贅沢なものを使って遊ぶ子供もいるのかと、まるで別世界のことのように思ったものだった。 庭院に鞦韆を持ち込んだ櫂瑜も、香鈴に、ましてや影月に強制して使わせたりはしなかった。 そんな風に鞦韆が設置されて数日後のこと。 持ち帰った仕事を片付けて影月が一息ついたのは夜も更けようとしている頃だった。 州牧邸の夜は静かだ。広い上に派手に騒ぐような住人もいない。だから、耳を澄ませば聞こえてくるのは風の音。だが今、その風の音の中に別な物音が混じって聞こえた。 (なんだろう?) 仕事が片付いた気楽さで、影月は月に照らされる庭院へと足を踏み入れた。音は桜の古木の方から聞こえる。先ほど聞こえたのは鞦韆が風に揺れる音だったのかと影月は推測した。だから夜間に見る鞦韆はどんなものだろうと、思いついてそちらに向かった。 月光の下、鞦韆には蝶がとまっていた。 「香鈴さん……?」 「え、影月様っ!」 香鈴は慌てて鞦韆の紐にかけていた手を離す。そうして顔を赤くして捲くし立てた。 「も、もう、わたくしの仕事は終わっておりますし! その、今はもう、休む前ですし! ですから!」 「櫂瑜様が香鈴さんに――って用意されたんですから、そんなにムキにならなくても」 「わ、わたくしだけが遊ぶのは――」 州牧邸にいる人間は皆仕事がある。香鈴とて仕事を済ませたからこそここにいるのであろうが、一人遊ぶことに後ろめたさを感じているらしかった。 だが香鈴はきっと鞦韆で遊びたいのだろう。察した影月は助け舟を出すことにした。 「僕、これがどうやって使うものなのかも知らないんです。どうやるんですか?」 香鈴は一旦考え込んで口を開いた。 「これは……。言葉で説明するよりも体験していただいた方が早いですわね」 「両手に一本ずつ紐をお持ちになって。それから足を板の上に乗せてくださいませ」 香鈴は鞦韆の板の上に影月を追いやった。無理矢理乗せられた影月は慣れない状況に戸惑った声を出す。 「あ、安定悪いんですけどー」 「仕方ありませんわ。だって宙に浮いているんですもの。そのまま立ち上がってくださいませ」 だが香鈴はさらに注文を出し、影月は慎重に身体を持ち上げた。 「結構、高いですね」 常の視界よりいくらか高い。横に立つ香鈴がいつもより更に小さく見える。 (えーと、今の状態なら燕青さんより高いかなあ) そんなことをぼんやり考えながら香鈴のつむじなどを眺めていると。 「では最初は押してさしあげますから」 「え!?」 後ろに回った小さな手が影月の背中を押す。突然のことに影月は慌てて紐を握りなおす。紐と板からなる遊具は、前へと押し出され、そうして後ろに戻る。二、三度そうして背中を押した香鈴は横に飛びのき、影月に聞き取れるよういつもより大きな声を出した。 「あとは膝に力を入れて漕ぐんですのよ!」 そう言われても、慣れぬ運動に戸惑いばかりが先立つ。 「って、これって、こんな風に、あのでも、どうやって止めるんですかっ!?」 動き出した鞦韆の上で、影月は両手に紐を握り締めた状態でただ揺られるままになっていた。 「漕ぐのをやめれば、自然に動きがゆるくなりますから、その時に降りればいいんですのよ」 漕ぐ、というのがよく判らなかった影月は、香鈴が押さなくなったことであまり動きが激しくなくなった鞦韆からよろめいて降り立った。 「……すみません。よくわからなくて」 腰に手を当てて香鈴はため息と共に首を振った。 「仕方ありませんわね。でも、わたくしも初めて貴陽のお邸で乗せられた時には怖くて……な、泣いたりまではしておりませんからっ!」 幼い香鈴が初めて見る鞦韆に乗せられた様を想像する。きっと今の影月のように戸惑うばかりであったにちがいない。影月はそう思って、知らず微笑んでいた。 「櫂瑜様は、これが女の人の遊び道具みたいなことおっしゃってましたけど」 「男の方、特に大人になられると鞦韆に乗って遊ばれるというのは聞いたことがございませんわ。ただ、まだ小さい方なら遊ばれることもあるそうですの」 先日の櫂瑜の言葉を思い出して影月は消沈する。 (櫂瑜様……。実は僕のこと思いっきり子供だと思ってられるのかな……) 櫂瑜から見れば回り中子供に見えるのかもしれないと思いなおして、影月は意識を切り替えた。 「大人の、女の人も使うんですか?」 「そうですわね。大抵がお嫁入り前の女性が使いますわね。宮中では、二十歳以下の女性が使っておりましたわ」 なるほど妙齢の女性専用とあれば、櫂瑜が喜んで設置するはずだ。 「宮中にこんなものがあるんですねー」 影月は紐を掴んで軽く振る。しなやかな絹を編み合わせた紐はいかにも女性的だ。 「わたくしが知っております後宮のいくつかの宮の近くに、この季節になると設置されておりました」 香鈴の瞳が痛みを伴ったような追憶に煙る。 「後宮でも香鈴さん、乗ったんですか?」 香鈴が後宮にいたのは確か十二歳くらいであっただろう。まだ幼さが今より残っていたに違いない。 「わたくしが後宮の女官の中では一番幼かったものですから、率先して先輩の皆様が乗るように進めてくださったんですわ。ちょうどこんな――桜の咲く、月の夜に」 王宮の桜なら影月にもかすかに覚えがある。余裕のない日々ではあったが、見事な花を咲かせていた記憶がある。かつて香鈴のいた後宮の桜も、きっと見事なものだったに違いない。 もし運命が香鈴に平穏な生活を与えていたとしたら、影月が進士として王宮を走り回っていた頃も、そして今もまだ、香鈴は後宮に残ってそこにある鞦韆に乗っていたかもしれない。 すれ違ったまま終わっていたかもしれないそんなひとつの可能性を影月は頭から追い払った。 今は。香鈴はここ、茶州の州牧邸の鞦韆に乗ろうとしているのだから。 「夜に乗るものなんですか?」 ひとつ不思議に思って影月は問いかけた。遊具というものは通常なら日中に使うものではないだろうか。 「別に昼でもかまわないのですけれど、昼と夜とでは乗っていると見えるものも違いますし」 「はあ……」 そういうものかとも思うが、ともかく香鈴はこの鞦韆が好きらしいし、それなら楽しんでもらおうと影月は場所を空けた。 「ええと、香鈴さん、僕が来る前に乗ろうとしてたんですよね? 邪魔しちゃってすみません。もし見ててもいいなら乗ってもらえませんか? どんなふうなのかも知りたいですし」 「それでしたら……見本を見せてさしあげますわ」 口実を得た香鈴はいそいそと鞦韆へと手を伸ばす。余程、乗りたかったと見えた。 月夜の花の下。香鈴は身軽に板の上に立った。 「後ろから押した方がいいですか?」 「いえ、大丈夫ですわ」 初めは少し膝に力を入れて中腰に。板が高い位置に向かうと伸び上がって。見る間に速度を角度を上げて、鞦韆は浮かび上がる。 横にいた影月はその勢いに僅かに場所を変えた。 はじめは緊張を隠せなかった香鈴の表情が間もなく高揚したものに取って代わられる。 影月を見下ろして紅潮した顔で香鈴は微笑む。それはとても純粋に素直に向けられたもので、影月は胸が温かくなった。 香鈴はおもむろに昊を見上げて月を目指すかのように一心に力を緩めることもなく漕ぎ続ける。 今や香鈴の身体は高く跳ね上がり、州牧邸の外壁を越えるほどとなっている。 袖が風をはらみ、垂らされた帯が、裳裾が揺れる。鞦韆の両側に飾られた紐も色彩の残像を残しながら通り過ぎていく。 (きれいだけど、そのまま飛んで行ってしまいそうだ……) 鳥のように、伝説の仙女のように月を目指して、影月の手を離れて。 香鈴が楽しそうなだけに水を差す気はないのだが、いくつかのことが影月には気に触った。 「あっ……!」 小さな叫び声に目を向けると、勢いのあまり髪から簪が抜けたようだった。零れ落ちるように黒髪が流れる。髪を押さえようと片手を上げた香鈴の身体が、大きく放り出されそうになった。 「危ないっ!」 飛び出した影月はとっさに手前の紐に手を伸ばした。強い力が反発してくるのを無理矢理押さえ込んでもう片方の紐も掴んだ。 揺れが収まって震える香鈴を抱き下ろした。 「大丈夫ですか? 香鈴さん」 小さく香鈴が頷いた拍子に、垂らされた黒髪が影月の腕に落ちる。 この月明かりの下で簪を探すのは不可能に思えた。 「簪は朝になったら探しましょうね」 幼女のように頼りなげな表情のまま、香鈴は鞦韆を見上げる。それがどこか物足りなさそうに見えて影月は疑いながらも口にした。 「……まさか、まだ乗りたいとか思ってませんか?」 「……少し」 影月は少し呆れて香鈴を見下ろす。 「香鈴さん。今、落ちそうになったって、自覚あります?」 「あ、あれは少しばかり均衡をくずしただけで……!」 香鈴は慌てて弁明するが、影月には効かなかった。 「さっき、あの高さから落ちてたらただじゃすまなかったんですよ?」 おまけにあれだけの速度が出ていたのだ。骨折くらいしても不思議ではない。 「も、もう髪がこれ以上解けることもありませんし……」 影月は意識して笑顔を作ると無言で香鈴の手を引いて鞦韆から離れさせた。 「影月様!」 「今夜はもう駄目です」 「ど、どうしてですの!? 今度はちゃんと注意いたしますし!」 抗議する香鈴を引きずるように影月は庭院から回廊を目指した。 「駄目です」 強引な影月の様に香鈴は軽く頬を膨らます。 「なんですの! 横暴ですわ!」 よく自分が言われているせいかもしれないが、そんな香鈴は小動物のようだと影月は思う。だが、小さくて愛らしいからと言って、それを理由に許せることばかりではなかった。 「横暴でも、今夜は許せません」 だが香鈴には何が影月をそこまで頑なにしているのか判らないのだろう。食い下がって反論してきた。 「ど、どうして影月様がそんなこと決められるんですのっ! だいたい、この鞦韆は櫂瑜様が……!」 「別に、明日の晩とかだったら構いません。あ、お昼もやっぱりやめてもらった方がいいかなあ」 激昂しかけの香鈴とは反対に、影月はのんびりとつぶやくように言葉を発する。 「理由をお聞かせ願えません!?」 母屋と離れをつなぐ回廊に着いた影月は足を止めて香鈴を覗き込んだ。 「んー、お昼の場合でしたら、あの調子で乗ってたら州牧邸の外からでも見えちゃうんですけど、それでも構いませんか?」 香鈴は背後の塀を振り返った。 「……案外、低いんですのね。州牧邸の塀は」 「香鈴さんが育ったっていう貴陽のお邸は、塀が高かったんですか?」 州牧邸の塀を低いと言うからには、香鈴の知っている邸の塀は高いということになる。 「ええ。街中というのもあったかもしれませんけれど。あと、わたくしがおりましたのはお邸の奥まったところでしたし、鞦韆を使うのは裏庭院で、人目にはつかないようになっておりましたの」 「宮中っていうのも、後宮のことですよね? 当然、普通の人の――っていうか、男の人の目に触れないところですよね?」 「ええ」 櫂瑜の説明と香鈴の先ほどの様子から、影月はこれは通常男の目に触れないところで行われる遊戯でないかと推測したのだった。香鈴はそれを裏付けてくれた。 「これでは、お仕事がなくてもお昼間には乗れませんわね。塀の上から姿が見えてしまうなんて、はしたないですもの」 香鈴はため息をついてそれまで反発するように影月の手を振り払おうとしていた力を抜いた。 「僕は、はしたないとかは思いませんけど」 「それでは、どうしてお昼に乗ってはいけないと申されますの?」 理由が女性としてあるまじきこと、といった事態を想定していたのか、香鈴の瞳が丸く驚きに見開かれる。影月は少しきまりが悪そうにしながら、それでも正直に本音を語った。 「たまたま、州牧邸の前を通った人が香鈴さんを見ちゃえるじゃないですか」 「それが――?」 小首を傾げる仕草も愛らしいと思いながら、口にするのはそれ故の独占欲。 「僕が仕事で香鈴さんの顔を見られない時に、よその人が見られるって、なんか悔しいですし」 影月の言葉が浸透していくにつれ、香鈴の頬に朱が上っていく。 「あ、あのっ、それではどうして今夜は駄目なんですの?」 話題を変えようとしたのか、香鈴は焦って言葉を継いだ。 「……鞦韆って、本当に女の人ばかりで遊ぶものなんですねえ」 「影月様?」 これはきちんと言っておくべきかと思いながら、影月は香鈴から視線を逸らした。多少のきまりの悪さがそうさせる。 「言ってもいいですか?」 「ですから何を?」 「さっき、香鈴さんが鞦韆に乗ってる間。僕は香鈴さんの脚をしっかり見させてもらってたんですけど?」 香鈴は見事なまでに固まった。 「そりゃあ、香鈴さんが引き続き僕に鑑賞させてくれるっていうなら……」 あえて続けて言ってみると、香鈴は真っ赤な顔で激しく首を振った。 「い、いたしません! これ以上! 絶対!」 それはそれで残念だと内心影月は思ったが、さすがに口には出さなかった。 「……影月様?」 うつむいて香鈴は影月の袖をそっと引いてきた。 「何ですかー?」 「その……どのくらい、ご覧になられました?」 影月はどう答えようか悩んで、ともかく問題を先送りしてみることにした。 「とりあえず、お室まで送りましょうね」 そのままのらりくらりと答えずに、影月は歩を進めた。 室の前に着くと、香鈴を扉の中に押し込むようにして告げる。 「じゃあ、今度から鞦韆に乗る時には袴みたいなの履くとか、裾を括るとかしてくださいね?」 そのまま去ろうとした影月を香鈴は室内に引き入れると強い調子で詰問してきた。 「まだお答えしていただいておりませんわ!」 自らの暴走を止める機会を失って影月は内心ため息をつき、同時に腹をくくった。 「仕方ないですねー。それじゃそこの長椅子に座ってください」 香鈴を長椅子に腰掛けさせると、影月はその前に跪く。そうして香鈴の長裙に手をかけると、一挙に膝上までたくし上げた。 「え、影月様!」 「これくらい……。あれ、もっとかなあ?」 「も、もう、結構です!」 慌てて裾を下ろそうとする香鈴の手を影月はやんわりと押し留める。 「知りたいって言ったのは香鈴さんですしー」 「誰も、めくって教えてくれなんて申しておりません!」 「え? そうなんですか? だから外ではしなかったんですけどー?」 影月の手が露になった白い脚に触れる。 「ともかく、僕以外の男の目に触れさせちゃったら駄目ですよー?」 華奢な足首を捉えて小さな絹の靴を脱がせると、桜色に磨かれた爪に唇を寄せる。 「きゃっ!」 小さな悲鳴を聞かなかったことにして、影月はそのまま足指を舌でなぞる。 「僕が気がついて言わなかったら、さっきみたいな状態でまた鞦韆に乗るつもりだったでしょう?」 「は、はなして……!」 涙目で自分を見つめる香鈴に向かって影月はにっこりと微笑みかける。せっかく今晩は眠らせておこうと思っていた獣を起こしてしまったのは香鈴だ。 「駄目です。おしおきですから」 指を吸い上げ、足指の間に丹念に舌を這わせる。 真っ赤になった香鈴の顔を窺いながら、影月の手は香鈴の足を掴んで離さない。 「どうしておしおきって言ったか、わかりますよね? 僕以外の男の目に香鈴さんがこの脚を晒そうとしたからなんですよ?」 「そんなつもりはっ!」 「つもりがなくてもそうなるところだったじゃないですか」 影月は抱え上げた片足をゆっくりと上へ辿っていく。脹脛に噛み付くように歯を立て、柔らかい部分を強く吸い上げた。 「たくさん印をつけておいたら、もう忘れませんよね?」 「も、もう絶対、見えないようにいたしますから!」 影月の頭を押しのけようと香鈴が手で押すが、そのくらいの力で影月を動かせるわけもなかった。 「まだ、足りませんよねー」 香鈴の手に逆らいながら、影月は膝と膝裏を責め、やがて桜のようにほのかに色づくなめらかな肌へと沈み込んでいった――。 それから清明節が終わるまで、夜間度々香鈴が鞦韆で遊ぶ姿が見られたが、常にきっちりと裾を結わえた姿であった。 それに気がついてか櫂瑜のどことなく淋しそうな顔を影月は目撃する。 (櫂瑜様、まさか……) 「ほら影月君。女性が鞦韆で遊ぶ姿というのは花と戯れる蝶のように何とも愛らしいものでしょう?」 そ知らぬ顔に戻って、櫂瑜は傍らの影月に語りかけてくる。その様子はとても品があって。とてもそうは見えないけれど――。 (まさか、櫂瑜様に向かってこんなことを思う日が来るなんて……) どうしても打ち消せない疑惑が常にないことを影月に心の中でだが言わせた。 (……櫂瑜様のスケベ爺) 月夜に蝶が舞う。薄絹を羽のように広げて。 だがこの蝶は月を目指して飛び去りはしない。地上に繋ぎ留めるたくさんの契約の証が見えぬ場所に刻まれているから。 月明かりの下、爛漫の花の下。 もうしばらく蝶はこの異形の花に留まり、幾度となく舞ってみせることだろう――。 |
『月下遊戯』(げっかゆうぎ) この解説をするために避けて通れないのが鞦韆(しゅうせん)のことです。 作中で察してくださった方もあるかとは思いますが、 早い話、ブランコのことです。 ええ。中国にも昔からブランコがあったのですよ。 さて、しかし私が最初から鞦韆なんてものを知っていたはずはなく。 この『月下遊戯』の前に書こうとしていた話のため、春をうたった漢詩を探していました。 そうしましたら。 何度も何度も有名な蘇軾の「春夜」が出てくるわけです。 春宵一刻直千金 花有清香月有陰 歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈 しみじみと美しい詩ですよね。 私は第二句が好きです。 香鈴と影月の名前からそれぞれ一字ずつ出てるからとかではないですが(笑) で、この第四句の頭に出てくるのが鞦韆です。 ここで「鞦韆とは何ぞや?」と思ったのがこの話の始まりでした。 訳を見ればブランコだという。 で、確か昔の朝鮮で女性の遊戯としてあったはず、と思い検索すると、 原勝郎氏の「鞦韆考」に辿り着いたのでした。 (これがまた読みにくくて泣きました) 鞦韆に関しましては主に原勝郎の「鞦韆考」(同文館 )を参照し、 また幾分かは私の推測・及び故意の創作が入っています。 春の一時期だけにされた女性のための遊戯であるとか、夜も乗ったらしいというのは本当です。 原田氏の「鞦韆考」により、立ち乗りをさせました。 なお、鞦韆をくわしく描いた唐代の詩人、王建の「鞦韆詞」全文を参考までに。 訳せなんて言わないでください。 私なんて雰囲気だけで理解した気になってるだけですから。 でも、鞦韆の様子が一番わかりやすかったのもこの詞(詩にあらず)でした。 軽々と高く舞い上がってる様子がなんとなく察せられます。 ああ、完全な訳詩が一番欲しかったのはきっと私。 王建<鞦韆詞> 長長継縄紫復碧 嫋嫋横枝高百尺 少年兒女垂鞦韆 盤巾結帯分兩邉 身軽裙薄易生力 雙手向空如鳥翼 下夾立足重係衣 後畏斜風高不得 旁人送上那足貴 終賭鳴當鬪自起 回回若與高樹齊 頭上寶釵從墮地 眼前爭勝難為休 足踏平地看始愁 (注:當は本当は王編に當で「みみだま」、すなわちイヤリングのことですが 漢字表記がどうしてもできませんでした) あ、もうひとつ、清明節について。 いずれこの年の清明節でもうひとつ書くつもりですが、 二十四節気のひとつで、まあ4月上旬と考えていただければいいです。 ちょうど桜の咲く頃だなあ、と。 |