反 魂 譜
(はんごんふ)

*ゲストオリキャラ(脇役)&微グロ・死ネタ(?)注意



 隠世(かくりよ)の間(あわい)を打ち砕くは
 激しき思慕か妄執か――



「影月様、お願いがございますの」
 夜になっても一向に和らがぬ暑さから逃れようと、涼を求めて庭院に面した露台にいた影月の元に現れた香鈴は、思いつめた表情で切り出した。
 ここ数日、何かに悩む風情であると気が付きながら、香鈴から話してくれるまで待とうと思っていただけに、影月は彼女の緊張をほぐそうとそっと微笑みかけた。
「何ですか? 僕にできることですか?」
「あるお家に行かねばならないんですけれど、一人では行きたくないんですの」

 そうして香鈴は先月の末に会ったというある夫婦の話を始めた。

 庖丁人の昭環に頼まれて、その日香鈴は市へと赴いた。無事用事を済ませて帰路に着くが、市のはずれで立ち往生している夫婦を発見した。
 年の頃は四十を超えたくらいか。身なりも良く、暮らし向きに困っている風ではない。だが、付き従う小者の一人もいないのが妙と言えば妙だった。
 夏の日差しに眩暈でも起こしたのか夫人の方は顔色が青く、意識も失っているようである。見かねた香鈴は声をかけ、近くの家に頼んで水をもらい、夫婦を木陰に誘導した。
 夫人が意識を取り戻すまでは傍についていたが、意識が戻り顔色も平常に戻ったのを確かめて辞去しようとした。
 しかし夫婦はぜひ香鈴に礼をしたいという。使いの途中であるからと香鈴はそれを辞退して州牧邸へと帰った。
 香鈴にとってはそれだけの出来事だった。

 香鈴は常に使いに出るわけではない。
 元々、家政頭の文花のもと、花嫁修業をしているようなもので、使いに出るのは家人たちからの息抜きをしておいでという好意に近い。
 だから香鈴が次に市へと向かったのは、夫婦と会ってから何日もたってからだった。

 その夫婦は香鈴を見つけると嬉しそうに寄って来て、ぜひ我が家に招いて先日の礼をさせて欲しいと言い募った。
 自分は大したことはしていない、と断ってその場は別れたが、それからも市に行く度に夫婦は待っていた。
 市にいつも店を出している者に訊ねると、夫婦は毎日のように現れては待ち続けているのだという。この盛夏に連日、朝から夕方まで、香鈴が誘導したあの木陰で。

「本当にそれほどのことをしたとも思えませんのに、お二人の必死な様子がだんだん気味悪くなってまいりましたの」
 恩人に礼を尽くしたいと思うのは行き過ぎた行為でも何でもないが、夫婦の様子にはどこか切迫したものがあり、それが香鈴を余計に尻込みさせた。
「何度も何度も。わたくしは人に仕える身だからとか、仕事の都合がつかないとか、お断りし続けていたのですけれど、どんな風にお断りしてもまたいらしてるんですの。もうどうお断りしていいかも判らなくなって。お友達がご一緒でもと言われたので、とうとう断りきれず承諾してしまったんですけれど――」
 夫婦は琥lに越して来たばかりで知人もおらず、こちらに来てから初めてのお客様だと、それはもう喜色満面で帰って行ったという。
 香鈴の黒目がちの瞳が不安に揺れて影月を窺う。
「本当は行きたくないんですの。お受けして約束を破るのも失礼ですし、行かねばと思いもするのですけど、でも自分一人だとどうしても行く気になれませんの。
 ですから、どうか影月様、ご一緒にいらしてくださいませんでしょうか?」
 いかにも保護者然とした櫂瑜や年長の家人たちでなく、同行者に他の誰でもなく自分を選んでくれたというのが、それだけ香鈴が自分を頼ってくれているようで影月には嬉しかった。
「そうですねー。はじめてのお家に香鈴さんが不安になるのも判りますし、ちょっと気になる点もあるんで、もちろん僕が付いて行きます。それでいいですか?」
 それを聞いて香鈴はようやく安堵の表情を浮かべた。


 その家、恒(せん)家に向かった日も、影が色濃く落ちる日差しの厳しい暑い日だった。
 指定された住所を辿り影月と香鈴は一軒の邸の前に導かれた。そこは大きめの家が立ち並ぶ邸街の一角にあった。
 門番に誰何され、影月が応える。
「市で会った者とその連れと伝えていただければ判ると思います」
 やがて中に通されるが、母屋に辿り着く前に目に入った庭院では、白から朱までのさまざまな種類の百合が咲き乱れ、強い芳香を放っていた。
 客間に案内されるが、広い邸だというのに使用人の数が妙に少ない。門番と案内の家人以外、母屋の客間に行くまで誰とも出会わなかったほどだ。
(そりゃうちだって、櫂瑜様が厳選されてるだけで、本当はもっとたくさん雇ってても不思議はないんだろうけど)
 通された客間は贅沢なつくりで、飾られた絵や彫刻も値の張りそうなものばかり。それだけでもこの家の主が裕福であることを匂わせる。
 だがそんな装飾品よりも圧倒されるのが室中にこれでもかと大量に飾られた花だ。むせ返るほどの花の香りだった。庭院と同じく百合が多い。そしてそれ以外に飾られているのも匂いの強いものばかりで、入室した二人は思わず袖で鼻を覆った。
(百合が好きなのかな? でもこれじゃやりすぎなような)
 思ってみても客の立場で口にできることではない。その上、影月は主人夫婦と初めて顔を合わすのだから。
 夏だというのに窓も扉もしっかりと閉じられている。風も通らないのだが室内は暑くはない。花同様に随所に氷の塊が置かれて涼を呼んでいた。

「よくお越しくださいました!」
 やがて現れた主人は満面の笑顔で香鈴を迎えるが、影月を見て怪訝そうな顔をする。
「こちらは……?」
「はじめまして。僕は彼女の許婚者(いいなずけ)です。彼女一人で始めてのお宅に伺わせるのが不安だったものですから、あつかましいかと思いましたが同行させていただきました」
 ただ友人であるとか言うよりも効果があるかと、思い切った単語を口にする。
(間違っちゃいないよね? そのつもりではいるんだし……)
 横目で香鈴を窺うと、彼女は頬を染めて袖で顔を隠す。気分を害してはいない様子に影月は胸を撫で下ろした。何しろなかなかに口にし難い言葉だったからだ。
「さ、左様でしたか。もちろん歓迎いたします。さあ、どうぞ」
 少々戸惑った様子の主人はすぐに破顔し、上座の席を進めた。夫人みずから酒肴を運び、二人を接待し始める。卓上はたちまち菜の皿に埋まる。
 この主人夫婦はまったく香りを気にしていないらしい。人間の感覚の中で一番順応が早いのは嗅覚だという。おそらく慣れてしまっているのだろうが、影月には絶え難かった。香鈴も心なしか顔色が悪い。
「お耳汚しですが、琵琶などお聞かせしましょうね」
 夫人が飾られていた琵琶を手にかき鳴らしはじめる。自分では楽器は無縁だが影月の耳は悪くない。夫人の腕はなかなかのものと言えた。
 そうして飲み物などを供されていた影月は、やがて浮遊感のようなものを感じたのだった。



(あれ? 寝ちゃったとか?)
 意識を失ったような記憶の空白があり、あわてて影月は周囲を見回す。隣で同じように香鈴も首を傾げている。
「さあさあ、どんどん召し上がってくださね」
 影月の異変に気付いた様子もなく、主人が瓶子から酌をする。よく冷えた器は汗をかいて、乾ききった喉を誘う。
 何か釈然としないものを感じながら、影月が素直に器に口をつけようとした時だった。

(阿呆! 飲み喰いするな!)
 唐突に頭の中に怒声が響いた。
(いいか! お前らは今、魂だけが現世に似せたあの世に送られてるんだ! そこで出されるものは一切口にするな! 戻って来られなくなるぞ!)
 その声は、決して忘れられない人のもの。もう聞くことができないのではと諦めていた人のもの。
(陽月!?)
(いいか、よく見れば今いるのが現世でないことくらいわかるはずだ。俺のきまぐれを無にする気か? とっとと戻って来い、馬鹿が!)
 それっきり陽月の声は聞こえなくなった。


 陽月は影月の魂があの世に飛ばされたと同時に影月の身体の中で目覚めた。
(やれやれ。こんな風に戻ってくることになるとは。しばらく影月の振りでもしてやるか)
 傍から見れば影月が一瞬でも意識を失ったようには見えなかっただろう。
 隣に座った香鈴の身体が傾ぎ、影月の(今は陽月の)身体にともたれかかってきた。無邪気そうに陽月は声をかける。
「あれ? 香鈴さん、眠ってしまったんですか?」
「それほど強いお酒を勧めたわけではないはずですが」
 この主人が何らかの手段で影月と香鈴の魂を追いやったのは陽月には明白だった。白々しい台詞に白々しい台詞で返答してみる。
「ええ。彼女はお酒にとても弱くて。反対に僕はちょっと強すぎるんですけどー」
 香鈴が酒にそれほど強くないのも、自分が底なしなのも嘘ではないと、内心舌を出す。
「ああ! それではもっと強いお酒を用意させましょう」
「あつかましくてすみません。でも、ちょっと物足りないかなーとか思ってたから嬉しいですー」
 主人夫婦に見られないよう、陽月は内心でほくそ笑む。
(さて。影月が戻ってくるまでせいぜい酒でも味わっておくか)
 陽月の視線が室内を一瞥してある物に目を留める。
(ふーん、琵琶か。まあ、俺には関係のないことだな)
「さあ、どうぞどうぞ!」
 間もなく出された酒は陽月を満足させる高級酒揃い。すっかり陽月の機嫌は上を向く。
(適当にゆっくり戻って来い、影月)
 陽月はそう勝手なことを呟いて、勧められる酒を次々と干していった。


 影月は慌てて杯を卓上に置くと、よろめいた振りをして香鈴の耳元に囁いた。
「何も口にしちゃいけない! 陽月が忠告してくれたんです!」
 影月の言葉に香鈴は過剰に反応し、驚いた表情で杯を下ろす。これほどまでに二人の間で陽月の存在は大きい。
 だが二人の様子にも気付かず、主人夫妻はしきりと飲み物を、菜を勧めてくる。
 一度気付いてしまった喉の渇きは耐え難いほどになっている。隣で香鈴が喉を押さえているのを見ればやはり同じようなものなのだろう。
 この場に残れば嫌でも出された飲み物や菜に目が奪われる。いつまでも断り続けることは難しく思えた。
「あ、あの! お花がすごくきれいに咲いていますよね? お庭院、見せてもらってきてもいいですか?」
 苦し紛れに影月は目前の主人夫妻に申し出る。
「もちろんどうぞ。ですがなるべく早くお戻りを――」
 許可を貰うと取り繕うことも忘れて香鈴の手を取る。そのまま庭院に面した窓を大きく開けて、逃げるように客間から飛び出した。

 手を引いて香鈴を連れ出して影月は客間からなるべく離れようと足を急がせる。
「影月様、陽月様は何と?」
 庭院の奥へと進み、客間のある母屋が見えなくなるとようやく影月は足をゆるめ、香鈴も閉ざしていた口を開いた。
「ここは、あの世らしいんです。魂だけこっちに来ちゃったみたいで。なんでも、こちらで出されたものを飲み食いしちゃうと戻れなくなるんだそうです」
 陽月が教えてくれたのはそれだけだった。帰り方くらいは自分たちで調べろと言うのだろう。
「そう言えば、一瞬眠ってしまったような気がしましたわ。ど、どうしてこのようなことに……」
「それは分かりませんけど、少し探ってみましょう。戻り方、調べないといけませんし」
「影月様……」
 戸惑いと不安に満ちた表情で見上げられ、影月は何よりも香鈴を守ることを優先しようと内心で誓った。
「大丈夫、香鈴さんはちゃんと帰れるようにしますから」
「わ、わたくしが影月様を巻き込んだりしなければ……」
 わずかに青ざめた香鈴を励ますように影月は微笑んでみせる。
「それは違います。僕の知らない所で香鈴さんだけがこんなところに連れていかれたとしたら、僕は正気でいられません。相談してくれて本当に良かったです」
 影月に寄り添いながら、見上げる香鈴の瞳に決意がみなぎる。
「わたくしも、がんばって戻れる方法を探しますわ」
「ええ。二人だからきっと見つけられますよ」
 そう。一人なら無理かもしれない。けれど二人でなら。
 影月はつないだ手に力をこめながら香鈴にそう告げた。


「影月様、あちらから」
 ふいに香鈴が何かを指差した。庭院のさらに奥から琵琶の音色が聞こえてくる。
「行ってみましょう」
 音に導かれるように進むと、瀟洒な東屋に行き会った。
 東屋には香鈴よりもいくつか年上と見られる二人の若い娘の姿。
 琵琶を抱えた娘の方は贅沢な衣に身を包み、いかにも裕福な家の子女と見えた。もう一人は仕女のお仕着せからして侍女と見て間違いがないだろう。

「まあ、流寧(りゅうねい)、見て、お客様よ!」
 影月たちに気付いたらしい娘は撥を動かす手を止めて、傍らの侍女に声をかけて注意を促した。
「お客様なんて久しぶりだわ! さあ、どうぞこちらへ。丁度軽いものをいただこうと思ってたところなんです」
 娘は陽気にはしゃいでみせた。侍女もまた、無言で二人のために席を作った。
「このお茶もお菓子もとっても美味しいんです。さあどうぞどうぞ!」
 娘には悪意があるとは見えなかったが、影月には陽月の忠告を無視する気にはなれない。手をつないだままの指先に力を入れることで香鈴に警告すると、かすかにうなずきが返された。
「せっかくのお誘いですけれど、わたくしたち客間でもういろいろいただいてしまったんですの」
「それで苦しくなって散歩に出たんですよー」
 二人は腰を下ろしもせずに立ったままそんな風に言い訳をする。
「まあ! それじゃあ、父さまと母さまのお客様なのね! ずるいわ! 私に紹介もしてくれないなんて」
 どうやら恒家の娘のようだが、ここにいるからにはやはり死者なのだろうかと影月は訝しんだ。
「こちら、なんて可愛らしい方なんでしょう!」
 娘は立ち上がり、ついっと香鈴の傍に寄ると、開いている手を握ってきた。
「なんて綺麗な肌。なんて綺麗な髪」
 夢見るような視線で娘は香鈴をじっくりと検分する。
 香鈴は物怖じするような少女ではないが、この娘の態度に明らかに戸惑っていた。初対面の相手に対して少々馴れ馴れしい。それは淑女として決して褒められたことではなかった。
「本当に可愛いわ。あなたに似合いそうな衣も私沢山持ってるのよ。よかったら試してみてくれない?」
 娘はまるで影月が目に入っていないかのように、香鈴ばかりに次々と話しかけ、その手を離そうともしない。
 影月とつないだままの香鈴の指先から震えが伝わってきて、香鈴がこの娘に好意を抱いていないのは明らかだった。
「あまり長く客間を空けるわけにもいきませんから、僕たちはそろそろ失礼しますー」
 さりげなく娘から香鈴の手を抜き取って影月は暇を告げた。
「残念だわ。せっかくのお客様なのに」
 だが台詞とは逆に無理に引きとめようとは思っていないらしく、娘はさっさと東屋の椅子に身を沈めた。先ほどまでとあまりに違う態度に、元から甘やかされて育った者特有の気まぐれな性格だろうかと影月は推測する。
「道はわかりますか?」
 それまで一言も発しなかった侍女が二人に向かって口を開いた。
「たぶん、わかる、と思うんですが……」
 途中から琵琶の音色を辿って来たので若干の不安はある。
「お嬢様、私、この方たちを客間にご案内してきます」
「そうね。そうしてちょうだい、流寧。また、お会いしましょうね」
 去り際、娘は香鈴に向かってねっとりとした微笑を向けた。そうして再び撥を握って目の前に誰もいないかのように琵琶を奏ではじめたのだった。



 庭院の木立が東屋を隠し、琵琶の音色がかすかなものになるほど進むと、案内していた侍女が急に余裕のない表情で二人を問い詰めてきた。
「あなたたち、こちらに来て、本当に飲食したんですか?」
「何故そんなことを聞くんですか?」
 この侍女も死者かもしれないと思い、影月は身構える。だが、侍女の答えに肩の力が抜けた。
「もしまだ何も飲食していなければ、現し世(うつしよ)に戻れるからです――」

「……してません。警告を受けたので」
「よかった!」
 侍女の顔に心底安堵が浮かんだのを見て、影月は警戒を緩めた。
「ここがどこか、ご存知ですか?」
 あたりをはばかるような小声で侍女はまた質問をしてきた。
「あの世と……聞きましたが」
 そう聞かなければあのまま現世だと信じて疑わなかっただろう。緑も、昊も、あまりにも変わりがない。
「ええそうです。ここにいるのは死者の魂と傀儡(くぐつ)のみ」
「ではあなたも、あのお嬢さんも……」
 口に出して認めるのが辛いのか、侍女は唇を噛んだ。
「はい。人の世で三月程前にお嬢様は亡くなられたんです」
「あなたはどうなんです?」
 問うには残酷すぎるかとも思ったが、やはり事実は確認しておきたい。
「――私はこちらに来て一月ほどになります」
「お二人とも病で亡くなられたんですか?」
 娘も、侍女も若い。病の可能性は高かったが、立て続けに亡くなるのは不自然な気もした。
「お嬢様は確かに急な病でお亡くなりに……」
「あなたは違うんですか?」
 侍女はそれには答えないまま、反対に質問を返した。
「あなたたちは恒家のご主人に招かれて、こちらに来てしまったんですよね?」
「そうですけど」
 侍女は小さく、やはりと呟くとまた質問を続けてきた。
「客間で、珍しい香に気付きませんでしたか?」
 影月が首を横に振り、香鈴もまたそれに倣った。
「お花の香りばかりが強くてわかりませんでしたわ」
「客間に香炉が隠してあります。その香は、生きている人間の魂を身体から切り離してしまうというものです。
 私も、同じようにこちらに送られてしまったんです――」


「お嬢様が亡くなられて。旦那様方はひどくお嘆きでした。私も幼い頃よりお嬢様の話し相手にとお仕えしていましたので、それはもう悲しくて。ただ私の立場からすれば解雇されるのは目に見えていました。初めのうちは旦那様方もあまりにお嘆きで、私のことなど忘れておられたのでしょう。ずっとお仕えしていたお嬢さまが亡くなられたのは悲しいことでしたが、我が身を思うといつ解雇されるかとそちらの方が怖ろしかったものです」
 ついに足を止めて、桐の木陰で侍女は訥々と語り始めた。
 侍女の気持ちは理解できた。よほど恵まれた環境でもなければ、人は悲しみだけに浸っているわけにはいかない。残された者は生きていかねばならないのだから。
「お嬢様が亡くなられて一月ばかり過ぎたころでしょうか。旦那様方の様子がおかしくなりました。いきなりお邸に怪しい黒装束の男が出入りするようになって。使用人の噂話では道士ということでしたけど。何やらすさんだ感じのする年齢不詳の男で、怖ろしくて私はできるだけ顔を合わせないようにしていました。
 おまけに、急に使用人すべてを集めて、旦那様は邸を引き払って琥lへ引越しをすると発表されました。あれほど可愛がっていらっしゃったお嬢様の思い出が詰まったお邸を手放されるというのは信じられませんでした。けれど、思い出が多すぎて辛いのだと言われれば納得できないこともなかったのです」

「琥lに越して来るのに当たって以前のお邸から連れられてきた使用人は私を含めて僅か三名。他の二名は古くから家に仕えていた古参の家人です。
 解雇されて当然の私が残されるのが不思議で思い切ってお尋ねしたところ、私のことをもう一人の娘のように思っているとおっしゃってくださって。たいへんに感激してそのまま私も琥lに来たのです。
 ただ、もちろんそれだけの使用人で邸は立ち行きませんので、こちらに着いてから数名の使用人が新たに雇われたようです」
「ようです、って、あなたは知らないんですか?」
 いきなり推測の形を取った侍女の言葉に影月は反応する。侍女の瞳に深い諦めの色が滲んだ。
「引っ越した翌日、旦那様方に客間に呼ばれて。気が付いたらこちらにいましたから、直接は知らないのです」
 まさかそんな状態の時に不幸が襲ったとは思わなかった二人は絶句して侍女を見つめた。
「最初は現世にそのままいると信じて疑わなかったのです。ですから、私は勧められるまま飲食しました。
 それがどれほどの間違いであるかも知らずに――」

「いつ、いらっしゃるのがあの世だとお判りになりましたの?」
 慰めの言葉など、彼女は望んでいないようだった。だから香鈴も事実のみを尋ねた。
「亡くなったはずのお嬢様にお会いすれば、嫌でも何かがおかしいとわかりました。それに、この邸の外には、同じように帰れなくなった魂がたくさんいるんです。その人たちが教えてくれました。帰る方法さえも。でももう、私には帰ることができません」
 侍女は堪え切れなくなったのか、一筋涙を流した。死者も生者と同じように泣くのだと、この時影月は初めて知った。
 だがそもそも侍女が、自分たちが何故こんな目に合わされたのかを知る必要があった。
「恒家のご主人は一体何故あなたを?」
「波理鏡(はりきょう)というものをそうした一人が見せてくれました。現世を覗ける鏡です。その鏡を覗いて知ってしまいました。私の魂がこちらに追いやられたのは、お嬢様を現世に戻すため、だということを」
 先ほど会ったばかりの娘の姿が思い起こされる。余程主人夫婦に愛され、甘やかされたと思われる、少々身勝手な娘。
「でもそんなこと、あなたには関係ないことでしょう!?」
 そう。娘が死んだことに侍女は何の責任もない。
「お嬢様が亡くなられて私がこちらに来るまでに約二月。しかも夏に向かっていましたから、お嬢様ご自身の身体はもう使えなくなっていたからのようでした」
「つまりあなたの身体をお嬢さんに使わせようと?」
 随分と計画的だと影月は思う。続ける侍女の言葉がそんな影月の考えを裏付けた。
「そのつもりで準備されてたようです。私の身体にお嬢様の魂が入って。そうしてお嬢様として振る舞い始めれば、あきらかに異常だと周囲に知られてしまいます。そのため、わざわざ知人のいない琥lに引越してまで……」
 道士という男が香を用意して主人夫婦を唆したのだろうか。陽月は特別だとしても縹家の存在と力を目の当たりにした影月には疑う理由がない。香はあの華眞の身体を縹家の少年が使っていた術と似ている気もした。
「でも、さっきお会いしたのがそのお嬢さんなんでしょう? と言うことは、術は失敗したということですか?」
「ええ。理由まではわかりませんけれど、お嬢様の魂はまだこちらに。
 そして、どうやら旦那様方は手段を選ばれなくなってきたようですね。そちらの貴女。旦那様方は貴女の身体をお嬢様の器にするつもりでしょう」
 香鈴が息を呑む。話の流れからそうではないかと危惧していた影月も、明らかにされた理由に拳を握る。
「……香鈴さんは渡しません」
「影月様……」
 二人を見守る侍女の視線が労わりを含んだものになった。
「あなた方ならきっと大丈夫。現世への帰り方を教えてあげますね」
 そうして侍女は具体的に説明を始めた。
「客間に戻ったら、花瓶に隠されている香炉を探してください。そしてそれを壊せば、あなた方の魂はこちらに留まることができずに帰るでしょう。現世に戻ったら、現世の客間の同じ場所にある香炉をやはり壊してください。そうすれば、もうこちらへ魂が送られる危険はなくなります。
 こちらの邸で旦那様方のように見えるのは、道士の作り出した傀儡(くぐつ)にすぎません。けれど、旦那様方の意思が支配していますので、こちらが抵抗しようとするともちろん阻んでくるでしょう。どうか気付かれないようにしてください。
 私が教えられるのはこれだけです」
 影月は手順をしっかりと頭に叩き込むと、最初から気になっていたことをようやく訊ねることができた。
「何故、僕たちに教えてくれたんですか?」
 影月たちに教えたところで、侍女本人はもう帰ることはできないのだ。
「幼い頃から旦那様方に、お嬢様に仕えて来ました。死してなおも逆らうなど怖ろしい。
 けれど、私だって死にたいわけじゃなかった! 恨みがないわけじゃないんです! でも私には表立って何かをすることはできない。それに、死者が生きている人間に何ができます? だからせめて。お嬢様にはこちらに留まっていただきます。あなた方には無事かえってもらいます。これが私にできる唯一の復讐。でも、旦那様方には何よりも堪えるはず」
 一息に捲くし立てた侍女は、復讐と口にしながらもどこかまだ迷っているようにも見えた。
「――僕はあなたに約束します。恒家の主人夫妻には現世での裁きを受けてもらいます、必ず!」

 木立を抜けると母屋があり、出て行った時のまま客間の窓が開いているのが見えた。
「行って――。早く。もう私が戻れないと思い知らせないで!」
「行きましょう、香鈴さん。――流寧さんとおっしゃいましたね? 僕らはあなたを忘れません」
 顔を袖で覆った侍女はもうそれ以上何も答えずに走り去った。
 見送った影月は傍らの香鈴に今のうちにとざっと考えた計画を話す。
「現世に無事戻ったら、香鈴さんはそのまま意識がないふりをしててください。こちら側で術が破れたことをすぐに気付かれないように。僕の身体はたぶん陽月が使ってるから、そのまま動いても不審には思われないでしょうし」
「ええ。あの方の好意を無にしないようにいたしましょう」
 香鈴はそう言って侍女の立ち去った方向を見つめた。その瞳から零れた涙を影月は無言のままそっと指でぬぐった。


 手をつないで客間に戻ると、傀儡だと聞かされた主人夫婦が待ち構えていた。
「おお! お帰りが遅いので心配しておりました。そろそろ迎えに参ろうかと思っていたところです。さあさあ、新しい菜も追加させましたのでどうぞお席へ!」
 絡みつくような視線が目に見えるものならば。それはきっと蜘蛛の糸のようなものに違いない。影月と香鈴に向かって粘りのある白い糸が吐き出されているのだ。
「すみません。お花がきれいで見とれてしまって。ところで、このお室の飾りも見事ですよねえ。拝見させてもらっていいですか?」
 席につかないまま、香炉を探すのための言い訳を影月は口にした。
「もちろんどうぞ!」
 傀儡だと知って眺めると、主人夫妻の姿のありえない歪みが目に入った。
(右手と左手、逆についてないか――?)
 その他にも、よく見渡せば客室の中は戸外よりも余程違和感に溢れていた。妙に質感がないのだ。芝居のために作られた書割の背景を見ている気分になる。奇妙に歪んだ合わせ鏡の世界。そんな風に感じられた。
(ここを現世と思わせたまま、さっさと何か口に入れさせようとするためだけに作られたのかな。ちょっと手抜きだよね)
 室中に飾られた花。その花瓶の辺りをさりげなく探して回る。ちょうど主人夫妻の席の後ろに、ひっそりと煙を燻らせる香炉を発見した。
 影月は香鈴と視線を合わせてうなずくと、香炉を思いっきり床に叩きつけた。
 陶器の壊れる音、そして同時にどこからか琵琶の音色が響いた。




 あの世で香炉を破壊した途端、影月は自分の身体に戻ったことを知った。もたれかかっている香鈴の身体もぴくりと動いたことから、香鈴も無事帰って来たと知れた。
(気の利かない。まだ飲み足りないだろうが)
 身体に戻る寸前、そんな陽月の声が届いた。
(うわっ! 陽月、君、一体どれだけ……!)
 意識を取り戻した影月がまず目にしたのは、夥しい数の酒壜だった。もちろん、中身が入ってるはずはない。どうやら主人夫婦は魂を手放す様子のない影月(実際は陽月だったが)を酔い潰す方針に変更したようであった。陽月はそれを利用して好きなだけ酒を飲んでいたということだろう。
「あー、さすがにちょっと酔ったような気がしますー」
 どれほどの酒豪であっても、空けられた酒量はそう言っても不思議がられる可能性はまったくなかった。強いことで有名な茅山白酒の容器さえあるのは決して見間違いではないだろう。
「飾ってあるお花も綺麗ですよね。近くで見てもかまいませんか?」
 こう言えば、花に近づいても不審がられはしないだろう。元より、酔っ払いだと思われれば油断してくれるはずだ。
「ちょっと足にきちゃったみたいですー」
 影月はよろめいている振りをしながら、さりげなく主人夫婦の後へと移動する。目的の香炉はあの世と同じ場所にあった。
 そしていきなり素早く動いて香炉に手を伸ばして、あの世と同じように床に叩きつけた。

「な、何をする!」
 香炉の割れる音に、それまで影月の動きに警戒していなかったらしい主人が飛び上がる。
「香鈴さん!」
 香鈴は影月が香炉を割った瞬間に身を起こしている。影月は香鈴のそばに駆け戻り、背にかばいながら窓を蹴り開けた。花の香り、そしてそれに隠されていた香が風に吹かれて薄まっていく。
「ど、どうやって戻った!? 戻れないはずだぞ! 何故あの娘に意識が、魂があるんだ!?」
 香鈴が身を起こしたことに余程驚愕したのだろう。主人は襤褸を出す。
「親切な人があちらで戻り方を教えてくれたんです。あなた方が何を目的として執拗に香鈴さんを招待しようとしたかもね」
 影月の顔からは常に浮かべている微笑すら完全に消えていた。
「あなたたちが実際にしようとしたことは実証しようとしても難しいかもしれない。でも、この香炉の中身を調べることはできます。そうすれば、悪意を持って彼女に近づいたことは証明できるでしょう」
 影月は砕けた香炉の脇にしゃがみ、こぼれた灰と残った香を掻き集めて懐紙に包んで懐にしまった。
「何を言ってる!? 君のような子供が」
 狼狽した主人から年若い影月を見下すような発言が洩れる。
「僕は確かに子供ですが、裁きを下す権限を持っていますから」
 影月はじっと主人を見つめる。その真剣な眼差しを主人は逸らして今更のように取り繕おうとした。
「どんな権限だというんです? だいたい私たちは彼女を歓待しようとしただけですよ」
「あえて名乗らずにきましたが、自己紹介します。僕の名前は杜影月。この茶州の州尹です」
「それは何の冗談だね?」
 主人の声に嘲笑を聞き取り、影月の背後に庇われた香鈴が反撃する。
「先年、二州牧として赴任され、現在は州尹でいらっしゃいますの。琥lに住む者は皆知っておりますわ!」
 そう。幸か不幸か影月は琥lではちょっとした有名人である。それを知らないのは琥lに来て間もない人物だからこそだろう。
 影月は香鈴にそっと微笑むが、たちまち真顔になって主人を睨む。
「あなたたちは彼女の名さえ聞かなかった。礼をしたいと言うわりにね。それは彼女がどこの誰とも判らなくても、あなた方の目的には関係がなかったからでしょう。ですが、実際知っておくべきでしたね」
 香鈴からこの夫婦の話を相談された時から妙だと思っていたこと。それは夫婦が恩人であるはずの香鈴の名も、勤め先も、何一つ訊ねてこなかったということだ。名前などまず最初に聞いてしかるべきではないだろうか。そして自ら先方の家を訪問する方が礼にかなってはいないだろうか。
 だから影月は香鈴にも邸では名乗らぬように言い、自分もまた名乗りはしなかった。様子を見て夫婦を観察するためであったのだが、目的がわかれば理由など明白だ。
「彼女に何かあれば茶家が動きます。彼女は茶家の娘ですから。もちろん州尹である許婚者の僕も、彼女の雇い主である州牧も放ってはおきません。あなた方が人の世で生きるつもりであるならば、茶州で生きるつもりであるならば、まずい人選であったと言えるでしょう」
 影月は主人を睨みつけるとどうしても言っておきたかった言葉を続ける。
「お嬢さんを亡くされたそうですね。愛する存在を失って、取り戻したいという感情は理解できます。かつて僕も同じことを望みましたから。だから、その動機に関しては僕は否定はできません。
 ですが! 許せないのはあなた方が自分の目的のために何の罪咎のない人物を犠牲にしようとしたことです! それも、一度では望む結果が得られなかったと二度まで!
 僕たちはこちらに帰って来られたけれど、最初の犠牲者であるこの家の侍女だったあの人は帰って来られなかった。無理矢理身体から魂を追い出して、その身体はどうなりました? 徹底的に調べさせていただきますのでそのつもりでいてください!」

 影月の糾弾はしかし、主人には何ら効果を及ぼさなかった。
「玲鸞(れいらん)は、娘は、死んではいない! 他人などいくら犠牲になってもかまうものか! 玲鸞が私たちのところに戻ってくるのに必要なのだ!」
 この救いようのない男をどう説得すべきかと影月は頭を悩ました。
「どこに戻ると言うんです? 前回失敗したのも、それがこの世の律にそぐわなかったからだったんじゃないですか?」
「くだらん! 単にあの娘では玲鸞の器にふさわしくなかっただけだ!」
「それでは香鈴さんならお嬢さんの器にふさわしいと言うんですか!? ふざけないでください! 彼女は彼女自身のものだ! あなたのお嬢さんのために、犠牲になるために生まれてきたわけじゃない!」
 影月の激昂に、低い笑い声が答えた。とても笑いが出るような状況ではないはずなのに、主人は歪んだ笑いを洩らしていた。
「夜毎、娘が私たちの夢に現れる。帰りたいと、帰れると」
 主人の瞳に狂気のようなものが浮かび上がる。
「そうして私たちに何をすればいいか方法まで教えてくれたのだ!」
 常軌を逸した主人の様子は影月の背筋に冷たいものを走らせた。いつしか客間は奇妙な緊張に包まれていた。



「え、影月様っ!」
 ふいに香鈴が影月の袖を引いて注意を促す。
 客間の、たくさんの花を飾った黒檀の櫃(ひつ)。それが音をたてて揺れていた。
「……あそこの櫃に、何が入っているんですか?」
 影月は主人に向かって詰め寄る。この暑い季節、どんな生き物だとて櫃になど閉じ込められていては堪らないと思ったからだったのだが、返答する主人の口は途端に重くなる。
「あ、あそこ、には……」
 がたん、と一際大きな音がして、櫃の蓋がずらされる。そう、内部から。
「あの中には、何が入っているんです!?」
 再度影月は重ねて問う。主人はのろのろと口を開いた。
「娘が。玲鸞の……」
 その声に応えるように、夫の言動に注意を払うことなくひたすらに琵琶を弾いていた夫人の指先から流れる音が明確に変わった。
「“桐蔭”(とういん)に似ておりますけれど……」
 香鈴が曲名を口にする。琵琶曲としてはよく知られているものだった。涼しい桐の木陰で昼寝をしていると、どこかで檐鐸(えんたく)の鳴る音が聞こえて夢を破られる――そんな内容の詞がついて歌われることもある。
「ですけれど、どこか違っておりますわ……」
 香鈴は少し震えて影月の袖に縋った。そう、どこがおかしいかと問われれば答えられないのだが、夫人の弾く曲には、どこか人を不安にさせるようなところがあった。
「玲鸞……」
 主人がつぶやきながら思わずといった風に櫃にと近寄る。
 黒檀の櫃は一際大きく揺れると横に倒された。そこから転がり出てきたものは――。
「香鈴さん、見ちゃだめです!」
 咄嗟に影月は香鈴を抱え込んで視界をふさいだ。

 途端に異臭が漂った。物の腐った匂い。強烈な不快臭。香の匂いを隠すためだけでなく、この腐敗臭をも隠す意図であったであろう噎せ返るような花の香りさえ消すことができない。影月も香鈴も、咄嗟に袖で鼻を覆う。
「……あなたたちは、お嬢さんを土に返してあげることすらしなかったんですね」
 それは、明らかに死後、期間を経た人間の死体。
 本来は色鮮やかな、若い娘用の晴れ着姿であったのだろう。それはあの世で見た娘が纏っていたものに違いなかった。だが変貌した肉の腐敗が衣に染みをつけ、僅かに特徴が窺えるだけの物と成り果てていた。肉体は言わずもがなだ。腐肉を骨の上にいくらか残したおぞましい姿。それがうごめいている。
 眼球を失ったほの暗い眼窩は虚無を湛え、視力があるかどうかさえも定かではなかった。
 それなのに、立ち上がり、歩こうとしているのか、既に人ならぬものは身体を揺らしながら足を動かす。頭蓋に貼り付いて残っていた頭髪が動きにつられて束で抜け落ちていった。
 だが、骨を繋ぎ支えていた筋は既に朽ちた後。動けるはずも歩けるはずも本来ならありはしない。
「玲鸞、玲鸞なのかい?」
 おぞましい姿に明らかに怯みながらも、主人はその物体に声をかける。
 夫人の方は憑かれたように琵琶を弾く手を止めない。いや、虚ろに定まらない視線はすでに何も写してはいない。そして徐々にではあるが曲調は速さを増していった。

 死体であるはずのものの輪郭に異変が起こり始めた。
 単なる死体ではなく、それは徐々にあの世で見た娘の姿をかたどっていく。汚れた衣さえまるで新品のように。
 そしてついには生きている人間と見まごう姿となった。
「ふふふ。帰って来れたわ、やっと……」
 あちらで聞いたのと同じ声が確かに娘の口から発せられる。
「玲鸞、おまえなのかい!? 戻ってきたんだね!」
 感激の色を隠さない主人は気にも留めていないのかもしれないが、見た目は変わっても腐臭は薄れも消えもしなかった。むしろ娘の身動きと共に強烈な刺激となって振りかかる。
「ああ、父さま! 色々ありがとう。母さまも。ずっと二人に呼びかけていた甲斐があったわ。あのまま死んでるなんて我慢ができなかったのだもの。せっかく戻れる方法も判ったんだし」
「玲鸞!」
 喜色を浮かべて抱きつこうとする父を娘は止める。
「だめよ、この身体じゃ駄目。こんな汚いのはもういらないの。私が欲しいのは……」
 ぐるりと室内を見渡して香鈴を見つけると、娘は壮絶な微笑を浮かべた。
「そう、あの子の身体が欲しいの。若くて、美しくて、健康で。ねえ父さま、私にぴったりよね?」
「ああ、私たちもあの子ならお前が気に入るだろうと一目見て思ったよ」
 影月は腕の中の香鈴を親娘の視線に触れさすまいと咄嗟に背を向ける。
「流寧の時は失敗したけれど構わないわ。だってあの子の方が綺麗なんだもの。嬉しいわ」
 香鈴は娘の声が聞こえる度に目を閉じたまま首を振った。そして強く影月にしがみついた。
 そんな香鈴の動きに娘は気が付いたらしかった。
「その子、何でまだ意識が、魂があるのよ! 嫌だわ、嘘をついたのね。あちらで何も食べなかったんだわ。
 それに、あちらでも思ったのだけど、どうしてそんなに冴えない子供にひっついているの?
 どうやって戻ったかは知らないけれど、ちゃんとまたあちらに送ってあげる。そんなに離れたくないならその子供も一緒でいいわ。そのかわり身体をちょうだいね? 私が使ってあげる。うんと綺麗に飾りたててあげる。そして身も心も私に相応しい男性を選んであげる」
 それまでただ怯えて瞳を伏せていた香鈴はきっと眦を吊り上げて影月の肩越しに娘を睨んだ。
「……さっきから黙って聞いておりましたら、あなた失礼ですわ! わたくしの人生はわたくしのものですの! あなたなんかにわたくしの身体を譲るような筋合いはございませんし、第一! 影月様の価値の判らないような見る目のない方になどとお笑いですわ!」
 そんな場合ではないと承知していながら、影月は耳が熱くなっていくのを感じた。何しろ素直になるのが苦手な香鈴のこと。滅多にこんな言葉は聞けない。
「生意気なことを! どれほど強がって見せても、その身体貰いうけてあげるわ!」
 強気の香鈴の言葉に、娘も強気の発言で返す。視線が絡まって火花を散らすようだった。

 だが、そんな状態は長く続かなかった。
 とろり、という感じで娘の身体が再び崩れ始めたのだ。
「嫌! 父さま、もう一度香を焚いて! 今の姿をもう保てない! 早く! あの子の身体がいるのよ! あの子の魂なんてさっさと追い出してちょうだい!」
 だが主人は首を振る。
「だめだ! 香はその子供が懐にしまってしまった分しかないんだ!」
 娘の姿は死体と二重写しにぶれて見えるようになった。それでも影月を睨んでいるのは確かだった。
「こんな子供からなら取り戻すのだって簡単でしょ!? お寄越し! 早く! この身体はもうもたないんだから!」
 ぶれた輪郭が解けるようにくずれていく。それでも娘は手を影月の方に伸ばす。
「香を! その子を! 早く私に寄越しなさい!」
「娘の言う通りにしないか!」
 影月は香鈴を抱える手に力をこめる。善悪の判断さえ失った利己的な親娘に香鈴を渡すことなどできるはずがない。
「勝手なことを!」
 客間の中央には、依然として贅沢な菜を載せた卓が鎮座している。
(そうだ!)
 影月は奇跡的にまだ封の開いていなかった酒瓶を掴むと乱暴に口を開けて娘に向かって振りかけた。
「いやああああっ!」
 酒は単なる飲み物ではない。それは時に魔を払い、神仏に捧げられる。影月はその効果を期待したのだ。
 果たして効果はあった。娘の姿は偽りの姿を失った。だが酒だけでは十分でなかったのだろう。肉が落ち、欠けた骨だけとなった指先がそれでも影月の懐を、影月の抱えた香鈴を狙って伸ばされる。
「影月様!」
 香鈴は自分よりも影月が危ないと思ったのか、自分の懐から取り出したものを娘の残骸に向かって投げつけた。
「きゃああああっ!」
 白い結晶があたりに舞った。風向きで自分にも少しばかりかかったそれを影月は注視する。
(塩……?)
 塩もまた魔を払い清めると言う。酒と塩の洗礼を受けた娘は苦しそうに床に崩れおち、もがいている。
 すでに声帯を失っているはずのそれの口から洩れる音が言葉にならず耳障りに響く。
「トオサー……、カアサー……」

 急速に娘の身体はただの死体に戻ろうとしている。だが、未だその魂はこの世に残ろうとあがいていた。
 影月は香鈴を抱えたまま室を必死に見回した。
 どこかに、あの世から娘の魂を呼び寄せるための道具があるはずなのだ。
 香鈴の身体を娘の魂の器にするつもりであったなら、やはりこの客室内にあると考えるのが自然だ。遺体すらこの室にあったなら尚更だ。
(何か、何かがあるんだ! 彼女の魂をこの世に留めているものが!)
 影月の焦燥は大きくなる。例え肉体が完全に死体に戻ったとしても、またいつか香鈴を狙うかもしれない者をこのままにしておくわけにはいかない。
(死者は、死者の国でゆっくりと眠っているべきなんだ!)
 影月は娘の身体が動き始める前と後で違っていることはないかと必死に記憶を辿る。
(香炉がまだどこかにあって、そのせいだとか?)
 物語の中に“反魂香”というものが出てきた気がする。影月は手近な花瓶や家具を倒しながら探す。だが一向にそれらしきものは見つからない。特に香炉のようなものは影月が壊した一つきりしかなかった。
「何かが、違うはずなんだ!」
 影月の必死の形相に、庇われた香鈴にも焦りが伝染したようだった。
「な、何がですの!?」
「僕らが最初、この室に招かれた時と、あの人が復活しようとし始めた時と!」
 影月は左手で香鈴を抱えたまま、右手で室内を探すのを止めない。主は、崩れ行く娘の傍でただ呆然としている。邪魔は入らない。だがそれでも見つからない。そんな影月の右手が檐鐸(えんたく)に当たって派手な音をたてた。
「檐鐸? “桐蔭”……。影月様! 琵琶ですわ!」
 香鈴の言葉に影月もはっとする。そう、最初招かれた時、夫人は酒肴を運んだりと甲斐甲斐しく動いていたのではなかったか。だがあの世に送られる前、夫人は琵琶をかき鳴らし初め、戻ってきた時にはその音色を大きく、速くしていかなかったか。

 影月は香鈴の手を引いて、夫人の傍まで駆けつけた。うずくまったままの娘の残骸もその父親すらも目に入らない。
 夫人は――まだ琵琶を弾き続けていた。その音色は、速さは、すでに尋常でないものになっている。その演奏のためか、撥が大きく欠けてさえいた。
(撥を取り上げればいいのか? それとも弦を切ればいいのか!?)
 迷ううちに夫人の演奏はさらに速度を上げ、ついに撥が砕けた。それでも夫人は演奏を止めようとはしない。撥を扱っていたそのままに指で演奏を続けようとしている。
「無茶ですわ!」
 たちまち血の噴出す夫人の手を影月は咄嗟に掴む。女性とは思えぬ力で反撃され、影月は香鈴の手を離して両手で夫人を押さえ込んだ。
「駄目よ! 弾き続けていないと玲鸞がまたあちらに行ってしまうのよ!」
「彼女はもうあちらの人なんです!」
 調子はずれの声が背後から聞こえるが、影月は手を緩めなかった。
「イヤアー……! 父サー、母サー、助ケ……」
 その間に香鈴が琵琶を取り上げ、目に付いた小刃で弦を切った。
「セッカク……アッチデ……帰リカタ……見ツケ……タノニ……」
「玲鸞! 玲鸞!」
 娘はそれ以降、物言わぬ死体でしかなくなった。からん、と音をたてて頭蓋が床に転がった。
 主人が絶望の声を上げる。
「玲鸞!」
 夫人は影月を振りきると打ちひしがれる夫の傍、かつての娘の変わり果てた姿に飛びついた。
 二人して激しく慟哭する姿は鬼気迫るものがあった。


「おまえが、おまえたちが! せっかく娘が帰って来られるはずだったのに!」
 据わった目で主人が娘の変わり果てた頭蓋を抱えたまま、室の片隅にいる影月と香鈴をねめつける。
(駄目だ、もう正気じゃない)
 もうこの夫婦を救う術が失われたと知り、影月の胸に悲しみが走る。それでも影月は言わずにはいられなかった。
「もう諦めてください! 娘さんは帰ってきちゃいけないんです! だから、あなたたちはこちらできちんと罪を償って、一生懸命生きて、そして時が来れば娘さんの所に行けばいいんですから!」
「ふざけるな! どうあっても娘を取り戻す!」
 それは、既に妄執。
 それは、既に狂気。
「お願いですから! どうか目を覚ましてください!」
 かつて同じことを願った。そんな自分だからこそ夫婦の願いが判らないではない。だが、影月の場合には陽月という人ならぬ存在に縋ることができたからこその奇跡。そしてその為に支払った代価は自分の命。決して動機は変わらないはずなのに、他者を犠牲にすることを厭わない夫婦の執念は、影月のものとあまりにも違いすぎた。

 ゆらりと立ち上がった主人の手に光るものが見えた。
「もうこれ以上罪を重ねるのは――!」
 影月に向かって刃物が振り下ろされる。だが武人でもなく、普段から剣など扱ったことはないであろう動きは、影月でさえも避けることが容易だった。それが更に主人を逆上させたのだろう。がむしゃらに剣を振り回す。剣先が室の家具やら飾りやらにぶつかって、壊れたり落ちたりして自分に振りかかろうが、一向に気付かぬままだ。
 香鈴を背に庇ったまま影月は壁際へと追い詰められていった。

 だが、そんな無茶な主人の動きこそが破滅をもたらした。
 昼であってもなおも暗い片隅を照らすための蝋燭までも剣に切られて飛んだ。火の灯されたままの先が、動かなくなった娘の上に落ちる。
 ぽっと、青白い炎が上がった。それはかつての娘の衣の上を這いまわり、やがて忌まわしい身体全体に燃え広がる。
「玲鸞!」
 夫人の叫び声に主人は振り返り、そして炎に包まれていく娘を認めた。
「玲鸞!」
 剣を放り出した主人は娘の元に駆け寄り、必死で火を消そうとし始める。だが。娘の身体にはまだ酒が残っていたのだ。炎は嘲笑うかのように娘の遺体を遅すぎた荼毘に付していく。そうして炎は新たな犠牲を求めて床を這い始めた。
「危ない! 逃げろっ! 火事になる!」
 影月の声が聞こえたのか、扉が蹴破られるような勢いで開かれ、二人の男が室に入ってきた。
「旦那様! 奥様!」
 侍女の他に残されたという古参の家人だろう。慌てて主人夫妻に駆け寄ると燃え盛る固まりから引き剥がす。
「馬鹿者! 離せ! 娘がっ!」
「お嬢様はもう亡くなられています!」
「玲鸞! 玲鸞!」
 泣き叫ぶ夫人を抱えると、一人が窓から飛び出し、もう一人も主人を引きずるように後に続く。
「香鈴さん、僕たちも!」
 袖で顔を覆い、香鈴の手を引いて、影月は百合の咲き乱れる庭院へと駆け出した。

 娘の遺体を苗床にした炎は客間に瞬く間に広がり、やがて母屋をも包んで燃え上がった。家人に井戸の場所を聞いて消火を試みようとした影月と香鈴だったが、とても一人や二人の力で消せる勢いではなかった。
 恒家の敷地は広く、母屋と離れは距離もある。だがこのままでは近隣にも被害が出るかもしれない。早急に周辺の邸にも警告を発しようと影月は香鈴を促して走り出したのだが。

 夏の午後のことだった。先ほどまで晴れていた昊が急速に暗さを増し、激しい雨が叩きつけるように降り始めた。
 たちまちずぶ濡れになった影月たちは、呆然と自然の消火活動を見守った。誰もがその場から動くことも忘れていた。
 火を消すと、用は済んだとばかりに雨は雲と共に足早に移動していった。
 一転して広がるのは青い青い夏の晴れ上がった昊。
 それまで声を潜めていた鳥も蝉も一斉に声を張り上げ出す。

「助かった……」
 影月はようやく安堵の息を吐き、傍らの香鈴を振り返る。
「なんとか、大丈夫、みたいですよね」
 笑いかけると香鈴も表情を緩める。だが、安心したことで逆にこの一連の出来事が思い返されたのか、震えながら影月に縋りついてきた。
「大丈夫です。僕たちこうして生きてますから」
 影月は香鈴を抱きしめてその濡れた髪に顔を埋めて何度も大丈夫、と囁き続けた。
 離れから駆けつけてきた残りの家人たちの、無事を問う声を遠くに聞いた。




「流寧(りゅうねい)さん、どうか安らかに――」
 庭院の百合たちが風に吹かれて揺れていた。
 あれから、やがて近隣の家の者や、火事に気付いた武官なども駆けつけ、恒家の庭先は大騒ぎとなった。

 結局、恒夫妻を司法に委ねることはできなかった。助かっても、夫婦揃って正気を失ってしまっていたからだ。
 古参の家人二人にも事情を問いただしたが、詳しいことはほとんど聞いていなかったようだ。
 聞き取れたのは、娘を亡くしてからの夫婦の言動がおかしくなったこと。毎夜、娘が夢に現れて、自分は死んでいないと告げるのだと言い始めたこと。どこからか道士と名乗る男が現れてしばらく出入りしていたこと。いきなり引っ越した琥lで、着いた翌日に侍女が急死したこと。その死体を主人の命令で庭院に埋めたこと。などだった。
 かろうじて影月が持ち出した香は調査され、夫妻の元に出入りしていた道士が用意したものと思われたが、何でも縹家の秘伝が関わることと横槍が入り、その先を調べることは叶わなかった。

 侍女の墓は庭院の桐の木陰にあった。なんの墓標もない、小さな土饅頭。
 あらかた恒家の事件の片も付き、ようやく余裕のできた影月と香鈴は、恩人とも言うべき侍女の墓に手を合わせるために再び恒家の邸を訪れたのだった。
 火事にあった母屋は取り壊され、家人たちも主人夫妻の療養のためこの邸を去った。琥lから遠く、かつての邸にほど近いところに主人所有の小さな別邸があり、そこで夫妻は療養することになったのだ。
(もう、正気に戻ることはないかもしれないな――)
 最後に見た主人夫婦の様子に、影月はそう診断を下す。
 香鈴は侍女の墓に花を供えていた。百合のように華美でも、香りも強くもない、だが清楚な美しさを感じさせる桔梗の花。

「影月様、反魂譜は本物だったんでしょうか?」
 夫人の懐から、表書きに“反魂譜”と書かれた琵琶の譜面が発見されたのだ。死者の魂を呼び戻す曲と思われたが、肝心の譜面はあの時の雨に濡れて滲み、解読することはできなかった。
「判りません。本物でなかったとも言い切れませんし。僕らがあちらに魂を飛ばされたのは、他に信じる人がいなくとも確かにあったことです。あれは夢じゃなかった。そうですよね?」
 うなずく香鈴を見つめて、考えながら影月は自分の推測を告げる。
「あの時、何度か娘さんは言っていました。あちらで方法を見つけたと。そうして夢で両親にやり方を教えた、という風に僕は受け取りました。この世のものでない世界で見つかった方法があの琵琶曲なら、本物の可能性も高いと思います。でも、僕らにはもうそれを再現する術もない。あれは失われてしまった。もしかしたらあの時の雨こそ、反魂譜をこの世に残さないための天の意志だったのかもしれません」
 あの時、あまりにも都合よく降った雨が、影月にそう思わせたのだ。
「もし、反魂譜がそのまま人の手に残されていたら。同じように愛する人を失った悲しい人が同じようなことを繰り返したかもしれない。いえ、僕だって。もし香鈴さんを失ったとしたら。そしてそんな譜面を持っていたとしたら――」
 考えれば考えるほど、その時、影月は自分がどういう行動に出るか自信はなかった。
 だが香鈴は伸び上がって、影月の耳に内緒話を囁いてきた。
「影月様? ひとつお教えいたしましょう。楽器を教わる際、曲を覚えるのは譜面を見てばかりではありませんの。秘曲と呼ばれるものなどはそもそも譜面がございませんし。そうすると聞いて覚えるしかないんですの。また、一度聞いただけの曲を覚える訓練などもいたしますのよ?」
 顔から血の気が引いていくのを影月は確かに感じた。
「こ、香鈴さん、まさか……!?」
「全部を覚えているわけではありませんの。琵琶も少しは弾けないこともありませんが、筝の方が得意ですし。不完全な曲でも同じ効果があるのか、楽器を変えても同じ効果があるのか、試してみるわけにも参りませんでしょう?
 ですけれどもし。あなたが再びわたくしを置いていかれるようなことがあれば、わたくし、躊躇ったりはいたしませんわね」
 内緒話は終了とばかりに香鈴は墓の周囲をさっさと片付け始めた。
「香鈴さん!」
「心配なさらないで。置いていかれなければ試すことなんてありませんのよ?」
「それでももし僕が先に逝ったとしたら。そんなあなたを置いてあちらに行くことなんてできませんよ。きっとそんな曲がなくたって、香鈴さんの傍から離れられるとは思えません」
 そう。その時には。きっと香鈴こそが影月の最大の未練になるだろう。
「……それではちっとも嬉しくなんてありませんわ」
「そ、そうですか……」
 迷惑と言われたような気がして、影月は少々暗くなる。香鈴は影月の顔を覗き込んで眉をしかめた。
「もう! 何てお顔なさってるんですの!? 生きて、傍にいてくださらないと。約束、してくださったはずですわよね?」
 いつかの約束はまだ続いている。影月は思い出して微笑んだ。
「ええ。そう、約束しましたよね。――あの時の僕の場合はたまたま陽月がいたからこそですけど、もう陽月には頼れないんだから、一緒に生きていけるようにがんばりますからー。
 ああ、でも。今回だって結局彼に助けられちゃったなあ。口ではどう言おうと、陽月って結構僕に甘い気がするんですよね。優しすぎるのかなー」
 香鈴は複雑な表情を浮かべて、それには答えなかった。

「そう言えば、懐にこんなものが入ってたんですよ」
 影月は懐から取り出した書き付けを香鈴に見せた。

 我乞数多美酒
 酔似不醒昼夢

「これは……?」
「陽月でしょうねえ」
 一体、いつの間に書き付けたものやら、鮮やかな墨跡の紙片が、炎からもその後の雨からも守られ無事だった。それこそが奇跡とも言える。
「意外に、達筆でいらっしゃるのね。少し、影月様の手跡にも似てらっしゃるような?」
「僕に字を教えてくれたのは堂主様と陽月の書置きだったりしますから」
「そう……ですの」
 香鈴が浮かべた表情はあまりにも複雑で、いかな状元及第者といえども解くことはできかねた。

 書き付けを懐にしまいながら、ふいにひとつの疑問を思い出して影月は香鈴を見つめた。
「ところで香鈴さん? なんだってあの時、お塩なんて持ってたんです?」
「まあ」
 香鈴は鈴を転がすように愛らしい笑い声をあげ、そしておもむろに澄ました顔で答える。
「ほんのたしなみですわ。もちろん今も持っておりますのよ。いざという時いつでも使えるように」
(たしなみって? 何の……?)
 だが香鈴のたしなみが今回役に立ったのも事実。深く追求はするまいと影月は心に誓った。


「そろそろお暇いたしません?」
「そうですねー」
 二人、自然に伸ばされた指を絡ませる。真夏の暑ささえも、寄り添う幸せの前には遠く霞んだ。
 燕が、雨上がりの昊を飛んでいた。どこかで誰かが琵琶を奏でる音色が聞こえた気がした――。

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『反魂譜』(はんごんふ)


夏だからホラーでも書きたいと考えた話です。
中国(風ファンタジー)でホラーとなると、
脳内から出てきたキーワードはまず、「黄泉戸喫(よもつへぐい)」、
そして「反魂香」でした。

最初は普通に書いてたんです。親馬鹿の話として。
それでほとんど書きあがったかな、と思った時に
題に入れた「譜」が生かされてないのがどうにもこうにも許せなくなってきました。

そこで、偶然ネットで出会った南宋の詩人、陸遊の詩のイメージを取り込んで改訂。
譜は曲譜として扱うことにして。
詩から筝か琴(きん)を扱うつもりが、気が付いたら琵琶になってました。
琵琶なら「琵琶行」だの「夜行杯」とかあるから
そっちから行けばよかったかもしれないけれど。

とかやってるうちに、最初ほとんど出て来ないはずの
死者である娘が壮絶に性格悪くなってきて。
もっとさらっと終わるはずだった話が意外に長くなってしまいました。

陽月を出す予定はまったくなかったのですが、
影月の魂が身体から離れたら当然起きるよな?と気付いてワンポイント出演です。
書き付けの内容は適当に。
「酒寄越せ。気持ちよく酔わせろ」(意訳)という感じで?

最初、主人夫婦もお亡くなりになってもらうつもりで書いてました。
けれど書き直してたら死んでもらうことができなくなりました。
いつか正気に返って。ちゃんと後悔できればいいねえ?

で。どこがホラー風味なのか、とかはつっこんでくださって結構です……。

ラストシーンのイメージのひとつになった陸遊の「夏日昼寝夢遊一院」を参考までに。
夏の日の木陰の昼寝の話。
気持ち良さそうです。

 桐蔭清潤雨余天
 檐鐸揺風破昼眠
 夢到画堂人不見
 一双軽燕蹴筝弦