光咲く庭院 (ひかりさくにわ) |
月彩花を知っている者は多い。 茶州州花の月彩花は、絵画に彫刻になり、茶州のあらゆる所で見ることができる。 だが、月彩花そのものを見た者は少ない。 それは夏の宵、ただ一夜にだけ花開くのだから――。 ―五日前― 州城には今日も陳情やら嘆願やら諸手続きやらの人々の列が出来ていた。 夏の陽射しが耐え難かろうが、暑さがどれほど体力を奪おうが、しなければならないことはある。 それは茶州に住む誰もがそうである。そしてまた州官たちとて例外ではない。 人々の列に会釈しながら影月がその横を通り過ぎようとしていたのは、昼を回った頃であった。 夏物の官服は冬物に比べると色は薄く、素材は麻を使用している。だが全身を覆うことに違いはなく、汗は絶え間なく流れる。 州城の建物の中に入ると、石造りの建物の作る影と、開け放された扉の間を通り抜ける風が感じられて、影月は一息ついた。 と、そんな影月の袖を引く者があった。 視線を巡らせて、ようやくかなり低い位置に手の持ち主を発見する。 まだ幼い少年が列に並ぶ親から離れて、影月の袖を引いていた。 何故影月だったのか。 それはきっと周囲が大人ばかりであったから。退屈した子供は、官服を着ているとは言え年齢より下に見られがちな影月を遊び相手と見なしたのだろうか。 影月が少年に視線を向けると、その子は欠けた前歯を見せながら笑いかけてきた。 そうして、一転して秘密を囁くように声をひそめて話しかけた。 「あのね。もうすぐ僕の家で月彩花が咲くんだよ」 月彩花、という単語に影月は州城のあちこちを飾る意匠を思い浮かべた。丁度、目の前の手すりにも月彩花の彫刻が施されている。 だが、咲くというからにはそういった作り物のはずはないと、すぐに影月は気が付いた。 「本物の月彩花? すごいね! 僕もまだ見たことないよ」 影月の返答に満足した子供は、更に自慢気に続ける。 「琥lでもあんまりないんだよ」 そう、本当に影月は琥lでさえどこに本物の月彩花があるか知らなかった。他の植物であればたいていあちこちで見ることができるのだが。 幻とまで他州で噂される月彩花には、それだけのわけがある。 「でも咲くまで起きていられる? 月彩花は夜遅くに咲くんだよね?」 花は夜も更けてから咲き始めるのだ。 「起きてられるもん! その日は遅くまで起きてても怒られないんだ!」 この少年が眠気に負けて花を見逃すことがないようにと影月は祈った。 「じゃあ、がんばってね」 階段の上から影月を呼ぶ官吏の声がする。 「今、行きます!」 そう答えてから影月は少年に手を振って別れ、ひとり階段に足をかけた。 登りながらふと思う。 (月彩花か。いいな) その花は夜を光で満たすように咲くのだと言う。 (香鈴さんに見せてあげたいな――) おそらく、香鈴も本物は見たことがないだろう。きっと見せれば喜んでくれる。 その気持ちは影月の中で徐々に大きくなっていった。 「ほら。こちらをご覧なさい、香鈴」 春姫はそう言って指を指す。 茶家本邸の庭院の片隅にその株があった。 濃い緑の葉はやや肉厚で長く上に下に向かって茂っている。その葉から赤味を帯びた茎がいくつか伸びていた。 「これが月彩花ですの? 葉っぱからお花が咲きますの?」 香鈴の反応に春姫は鈴を転がすように笑う。 「変わっておりますでしょう? このままぶらさがるように蕾が大きくなって、咲く時には上を向くんです。ですから、蕾の具合で何日後に咲くかの予想もできるんですよ。この様子でしたら後五日くらいで咲くのではないかしら」 州花にも選ばれた月彩花だ。その美しさは伝え聞くものの、見せられた株そのものも蕾も、とてもそのようには見えなかった。 「このあたりで見かける他の木やお花とも違いますわね」 香鈴は先の尖った蕾をしげしげと眺める。 「ええ。元々とても熱い国のお花だそうですわ。茶家のご先祖のおひとりにお花のお好きな方がいらして。ご自身でも遠方までお花を探しに行かれて持ち帰られたそうなんですの。 ただ、やはり気候が違いますでしょう? ですから苦労して育てられて。ようやく根付いたものを同好の方たちに分けていかれて、茶州中に広まったということです」 春姫は花が咲くのが待ちきれないといった視線を蕾に向ける。 「春姫様は毎年見ていらっしゃるんですのね?」 「それが。幼い頃は眠ってしまって見られませんでしたし、大きくなってからも開花の時期に何やらあったりもいたしましたから、あまり見たことはないのです。でも今年はゆっくりと楽しめるかと思いますのよ」 香鈴は記憶を辿る。あれはまだ、十になるやならぬかの頃。大好きな方が話してくださったこと。 「鴛洵様がお話くださったことがございます。お若い頃、英姫様とお二人だけで明け方まで眺められた月彩花がどれほど見事であったかと」 少し声をおとした香鈴に合わせるように春姫も声を落とす。 「まあ! お祖父様とお祖母様が!」 邸の真の主とも言える英姫は毅然とした女性で、気楽な雑談でさえ気を使う。 「大奥様は今でもお美しくていらっしゃいますけど、お若い頃でしたらどれほどおきれいであられたでしょう。今の春姫様のようでいらしたのかしら」 目前の茶家の若き奥方は咲き初める露を帯びた白い芙蓉のように麗しい。 「香鈴、からかうものではありませんよ。……お祖母様のお若い頃の似姿でしたら以前拝見したことがございます。わたくしと確かに似たところはございますけれど、雰囲気がもうまるで違いますの。こう、とても存在感がおありになって」 優しげな雰囲気の春姫に苛烈なまでの眼光を加えてみたならば、若き日の英姫に近いだろうかと香鈴は想像する。かの鴛洵の愛した女性だ。どれほど魅力的であっただろう。 「確実にその日に咲くと判りましたら、州牧邸にも使いをやりましょう。香鈴にも見せたいですし」 春姫の心遣いはとても嬉しかった。香鈴とて見たいと思っていた花だ。 「いいえ、春姫様。お気持ちは嬉しいのですが、今年は春姫様もどうか克洵様とお二人だけでご覧になって。そうして、鴛洵様と大奥様に負けない思い出を作ってくださいませ。わたくしは、そんな春姫様の思い出話を聞かせていただきたいですわ」 「まあっ、香鈴!」 頬を染めた春姫は、年上の女性なのに可愛らしく、香鈴は自分の提案に満足する。 「……本当によろしいのですか?」 香鈴の提案に心が動いているのは見れば判る。それでも、妹のような香鈴に見せたいという春姫の気持ちにも嘘はない。 「ええ、春姫様」 香鈴は愛情をこめて春姫に微笑んだ。 茶家本邸を辞した香鈴は、まだ見ぬ月彩花を思ってため息をついた。 それは、春姫の誘いを断った後悔ではなく。ただ――。 「……わたくしも、二人で見てみたいんですの」 「燕青さんは月彩花が咲くとこを見たことあります?」 茶州で生まれ育った燕青ならと、執務室での休憩の折に影月は訊ねた。 「おうっ、あるぞ。つっても子供の頃だ。おふくろが好きで育ててたんだ。ただ、俺も子供だったからなあ。眠気に負けてちらっと見たくらいだけどよ」 幼い燕青が眠い目をこすりながら、それでも眠ってしまう様子を想像すると、今とのあまりの違いにただ、微笑ましい。 「琥lで見たことあります?」 「茶家にはあったはずだぞ。でもあそこの庭院は克の当主就任の頃の差し押さえでぼろぼろになったからなあ。残ってるかどうかも怪しいな」 そう。差し押さえの後の茶家の庭院は、あの龍蓮を喜ばせるような、なかなかに寒いものだった。 (やっぱり駄目になっちゃってるかなー) 茶家にあるなら克洵に頼んだら何とかなったかもしれないのだが。 「あ……っ!」 急に燕青が大声を出したので、影月は驚いて燕青を見上げる。 「燕青さん?」 「すまん、ちょっと思い出して。俺が州牧やってた頃、そう言えばもらったことがあるんだ。でも育て方なんか判んねーし、実際悠長に花なんか育てたり眺めたりする暇なくってさ。州牧邸の庭院に転がしといたら気が付いたら枯れてたな、ってちょっと」 気まずそうな燕青を眺めながら影月が思い出したのは琥l入りして始めて見た頃の州牧邸の惨状だった。あれではとても月彩花どころではあるまい。 「何だ? 月彩花がどうかしたのか?」 影月が気落ちしたのを察したのか、燕青は顔を覗き込んでくる。 「ええと、さっき下で会った男の子が、自分の家に月彩花が咲くって教えてくれたんですよ。それで本物の月彩花も琥lじゃ見られるんだって気が付いて。それならどこかで手に入らないかなー、って」 「そんなに見たいか?」 「僕も見たいですけど、どちらかと言うと見せたいというか……」 さすがに素直に香鈴に見せたいのだとは言いかねて語尾をにごすが、 「ああ、嬢ちゃんにだな」 あっさり見破られて、影月は赤面する。 燕青は笑って影月の髪をぐしゃぐしゃとなでた。 「そっかー。月彩花ねえ。琥lでもあんまりなかったとは思うぞ。一応茶州のあちこちで育てられてるらしいけど、なんでもかなり手間だとかでさ。運よく手に入っても俺みたいに枯らすのがほとんどだってさ。でもお前が本当に欲しいなら、まず芹敦(きんこう)のじーちゃんに相談してみな」 「芹敦さんに?」 突然、櫂瑜の家人である庭師の老人の名前を出されて、影月の頭は疑問で一杯になる。 「影月、お前自分で月彩花、育てられる自信あるか?」 「――ないです」 「だろ? 芹敦のじーちゃんなら花育てるのうまいだろうし、じーちゃんが育てられるっつってくれたら安心してまかせられる。手に入れるんなら彰に頼めばどうにかなるだろうしよ」 確かに香鈴に見せたいとばかり考えていたが、育てることを失念していた。 「ありがとうございます、燕青さん。帰ったら芹敦さんに相談してみますー」 「月彩花、と言われましたか――」 帰宅した影月は、食事の後、くつろいでいる芹敦をつかまえてさっそく質問してみた。 趙芹敦(ちょう・きんこう)、職業・庭師。年は六十をいくつか越えたくらいか。寡黙な人物で、話しかければ答えてはくれるが、自分から話しかけてくるようなことはない。影月もあまり会話をした記憶がなかった。いつだって黙々と仕事をこなす姿ばかりを見ていた。だが、木や花を見つめる瞳には愛情が溢れており、影月は好意を持っていた。人と話すのが苦手な職人肌の人物なのだろうと、これまでそう思っていた。が。 にぱっ。 と、音のしそうな笑顔を向けられ、影月は内心で後ずさった。 「月彩花! 育てたいですなあ!」 そうして、芹敦はいきなり捲くし立て始めた。 「月彩花は元々はるかに熱い国のもんでね。茶州に持ち帰った人が根付かせるのに成功したんだが、これがどういうわけか他州の土では絶対育たんのですわ。実は紅州にいた時にツテを頼って葉をとりよせましてね。紅州なら温暖だからどうかと思ったんですよ。結果は……根付かず枯れてしまいました。悔しくてねえ。 儂は、草も木も花も。その土地にあるもので作った庭院が一番だと今は思っとります。ここだと、茶州ならではのものを使ってこそいい庭院になるんですな。ですから、櫂瑜様が次は茶州だとおっしゃった時から、月彩花で一杯の庭院を作ってみたいと思ってまして。月彩花は挿し木で増やすんでこの茶州だと不可能じゃないはずなんです。 というわけで、ぜひ! 手に入れてきてくださったら全力で育てて、月彩花で一杯の庭院を作ってお見せしますとも!」 節くれだった、だが力強い手が影月の手を握りこんで上下に振られた。 ここまでひたすら圧倒されていた影月はようやくうなずくとなんとか答えた。 「ええと、がんばって探しますから、見つけたらよろしくお願いします……」 ―四日前― 春姫と別れて茶家を辞してから、香鈴は影月と二人きりで月彩花を見る方法はないかと折にふれて考えた。 (春姫様が月彩花は挿し木で増やすとおっしゃってましたけど、今から葉っぱをいただいてもお花を咲かせるほどいきなり育ちませんものねえ……) となると。今年は目標達成は難しい。いつでも葉を分けてくれると春姫は約束してくれたから、芹敦に相談して時期を選んで頼もうとは思う。数年後には影月と二人で、という願いだって叶うかもしれない。 (気の長いお話ですわね) だが、月彩花はもう後数日で咲き始めるという。それを知ってしまっては、今年どうにかしたいと思う気持ちは止められなかった。 (二人だけで、は無理でも。影月様に見せてさしあげたいのですわ) 月彩花は、育った茶家の貴陽本邸でも至る所で意匠として見受けられた。そういう形であれば、香鈴も親しく見知っている花と言える。 (絵も刺繍も駄目ですわね。もっと本物に近いような形でお見せできないかしら。でも彫刻はさすがにできませんし――) 立体的なものがいいと思う。造花を作るという手もあるだろうし、それならば自分でも作れそうだとは思う。 (でもそれでしたら、あまり感動はございませんわよね) 夕食の支度を手伝いに、厨房へと向かって歩いていると、場所からの連想が閃いた。 「そうですわ! お菓子で作れませんかしら!」 幼い頃、貴陽の茶家本邸で砂糖菓子の見事な花を見たことが脳裏を過ぎった。美しい花が菓子でできていると教えられて、心から感嘆したものだ。その頃は作り方など知ろうとも思わなかったので、どうやって作るのかは知らない。だが、八州の菜譜を知る昭環ならば? 香鈴は足早に厨房へと走り去った。 「お菓子でお花ねえ。作れないことはありませんけどね」 常であれば陽気な女庖丁人は香鈴の問いに考え込んだ。 「香鈴ちゃんが思い浮かべてるのはたぶん、細工ものでしょう? あれは一朝一夕に作れるものじゃありません。材料は生砂糖と寒梅粉くらいですが、たった数日で作ろうなんて無理ですよ」 「そうなんですの……昭環さんならご存知だと思いましたの。そうしたら教えていただけるかと……」 無理だと言われて香鈴は落胆する。昭環なら大丈夫だと確信していたのだ。 「作り方くらいなら教えてさしあげられますよ? 香鈴ちゃんは器用だし、覚えもいいし、絵画の素養もあるでしょう? ですから練習すれば作れるようにはなるでしょうね。もちろん、ある程度の時間はかかりますけど」 「じゃあ、昭環さんはやっぱりお作りになれますのね?」 希望が再び生まれる。必死で覚えて練習すればなんとかならないものだろうか。 「あんまり大物は無理ですけど。飾りに一部使ったりね。そのうちお教えしましょう。ただし、涼しくなったらですよ?」 「今からではいけませんの?」 素直に疑問を発した香鈴に昭環は子供に諭すように言う。 「香鈴ちゃん。今、季節は何ですか?」 「夏……ですわね」 そう。今もたいへんに暑い。 「お砂糖で作るお菓子に向かないって、お判りですよね?」 「……溶けますの?」 せっかく作った花がどろどろと溶けていく様子が脳裏に浮かび、香鈴は慌てる。 「寒梅粉を使うからまだましでも。ちょっと難しいことになりますねえ」 「そうですの……」 今度こそ落胆してうつむいた香鈴に、ふいに庖丁人は提案してきた。 「香鈴ちゃん、市までおつかい頼んでもいいですか?」 櫂瑜が赴任して以来、州牧邸には毎朝店の方から御用聞きが現れるようになった。夕食の献立は文花の指示を昭環が具体的な菜譜の名を上げて決め、それに沿って肉や魚、野菜などを注文する。米や酒などは十日に一度くらい届けられる。もちろん追加の注文もできる。 そういう仕組みであるから、そうそう外に買出しに行く必要はない。けれど、急に足りなくなったりするものもある。そんな時は香鈴が買い物を引き受けることが多かった。 「行ってまいります」 賑やかな市は眺めているだけでも心が浮き立つ場所だ。きっと昭環は香鈴の気分転換になると思ったのだろう。 昭環の気持ちが伝わって、ほんのり消沈した心が温まった香鈴は、そのまま市へと向かった。 市に向かう道すがらも、香鈴の表情は晴れない。 (お菓子で月彩花は良い案だと思いましたのに――) もっと何ヶ月も前から思いついていれば何か作れたかもしれない。いや、何ヶ月も前なら、本物の月彩花を育てることだってできたかもしれない。だが月彩花に思い至ったのは昨日なのだ。花を咲かせるなどできるわけもない。 (一番憧れるのは鴛洵様のように大切な方と二人だけで。それが叶わないのならば大好きな方たちと一緒に。ずっとずっと後まで、『きれいだった』と語り続けられたらと――) いつかは。願いが叶うならば自分は影月について行くだろう。誰よりも影月を選ぶだろう。けれど。今、共に暮らす人たちとは別れる日を迎える。 常ならば考えない別れの予感に、香鈴は夏だというのに身震いする。失いたくないものが増えて。自分は欲張りになって。でもできることならば、影月のために、大好きな人たちのために、自分のできることで喜ばせたい。 (わたくしにできることがあればよいのですけれど……) 昭環からのおつかいを済ませて、市の喧騒の中、沈んだ気持ちのまま香鈴は力なく歩いていた。 と、何かが香鈴の注意を引いた。 一体何が自分を惹きつけたのかと、香鈴は一軒の露天を覗き込んだ。そこにあったのは、木でできた何かだった。同じようなものが大量に積み上げられている。 「いらっしゃい」 どこか昭環に似た女性が穏やかに声をかけてきた。 「それはね、月餅の型だよ」 「きれいなものですわねえ」 いくつもの木型は、装飾的な文字や花などが彫り込まれている。だが、香鈴の目を惹いたのは、その中のたったひとつ。 「月彩花――」 木型の中に彫り込まれ咲いているのは、間違いなく月彩花だった。 香鈴はその木型を購入してしっかりと抱え、足早に州牧邸に向かった。 (月餅はまだ作ったことはございませんけれど、昭環さんもこれならきっと教えてくださいますわ) まっすぐ厨房に駆け込んで昭環に木型を見せると、女庖丁人は思った通りに満面の笑顔で答えてくれた。 「かわいらしいこと! ええ、月餅でしたら香鈴ちゃんならすぐに作れますよ!」 先ほどまでの気鬱を忘れたかのように、香鈴はにっこりと微笑んだ。 「月彩花、ですか」 芹敦に相談した翌日、州城での執務が終わってから訪ねた柴家で、主の彰は眼鏡を治しながら聞き返してきた。 「ええ。彰さんだったら、どうやって手に入れるかご存知かなって」 手元の紙束に朱を入れながら影月は答える。 訪れた影月にすかさず国試準備の採点を頼んできた彰は、未だ商人の顔を色濃く残している。 「欲しい、という人物は多いですし、他州に持ち出せればいい商売になるはずなんですが――」 彰の表情は浮かない。 「他州の土では根付かないって、庭師の芹敦さんから聞きましたー」 「そうなんです。それが悩みの種でしてね。どうでしょう、学問所でも米や土壌の改良も進められているようですが、月彩花も視野に入れていただけないでしょうか。茶州から輸出できるものがひとつでも増えれば茶州のうるおいにつながりますから」 影月が秀麗と共に提案した茶州の学問所は、医術を初めとして様々な分野で動き始めている。まだどれもが試行錯誤ではあるが、一部利益につながるものも早々に現れている。 その中でも注目株なのが、植物の品種改良や土壌の改良を試みている分野だ。茶州のあまり恵まれぬ土壌を肥えたものにし、州全体の作物収穫の増加を狙っている。琥l郊外に作られた実験場ではいくらか成果が見られるという。 「そうですね。今度提案してみます」 観賞用の花などは、主食である米などより重要視はされていない。 「すぐに成果がなくともよいのです。茶州が他州と肩を並べられるくらい豊かになった時、その時には見入りのよい研究だと認められるでしょうから」 茶州は他州に比べて貧しい。だが、今すぐは無理でも。何年か何十年か後には八州でもっとも豊かになっている可能性があった。その時には、影月も彰もおそらく茶州にはいないだろう。それでも。そんな日のためにと願う心が二人には共にあった。 「まあ、将来的なことは置いておきますが。現在、茶州において、月彩花は商売として成立していません」 元茶州全商連幹部だった男は、難しい顔で告げる。 「え? 茶州内なら育てられるんでしょう?」 律法の回答を見ながらあまりにも意外な返答に影月が疑問を発する。 「育てられますがね。月彩花は挿し木をして増やします。これはご存知でしたか?」 「あ、そう聞きました」 そう。まったく芹敦の夕べの捲くし立てようときたら。 「条件を整えて育てること事態は難しくはないらしいのです。しかしです。茶家の何代か前の人物が遠方より持ち帰った一株から広まったのですが、道楽仲間の好事家に好意で譲っていったとか。それが伝統のようになりまして、今でも好事家から好事家への金銭的取引のない贈り物としてしか入手の仕様がないのです」 「つまり、市場には出回らないんですね?」 官吏の家系に生まれ育ち、商人として名を成した男は、さも許しがたいことであるかのように口にする。 「そうです。好事家なんてものは元から裕福な家の者だったりしますし、月彩花に関しては金銭で贖おうとする者をむしろ軽蔑する傾向がありましてね。たかだか花です。もったいぶる程のことではないと思いますがね、私は」 「はあ……」 それが金持ちの発想だとしたら自分にも判らないと影月は思った。 「残念ながら私には入手できませんが、琥lに住む好事家の一覧を用意いたしましょう。どこかに糸口が見つかるかもしれませんから」 「ありがとうございます。あ、彰さん、採点終わりましたよ」 影月は預かった紙片の束を彰に返す。 「助かりました。いかがでしょうか?」 「ええ。法律も算術もさすがに問題ありませんね。ですが、古典と詩文が少々……」 そのふたつの分野だけは朱が目立っていた。 「やはりそのふたつですか」 「彰さんは現実的に無駄を省こうとされる傾向があって。それは実務では必要な発想なんですけど、会試のお勉強としては方向が違うんです。古典は否定するものじゃなくて、まずありのままを覚えてしまってください。古典が古典として成立している理由は確かにあるんです。実務には使えないかもしれませんが、それが過去の時代で培われた意味もまた大切なんです。 詩文では――燕青さんよりはるかにいいんですけど……」 同じように時折勉強を手伝う相手を思い出して、影月は少し苦笑する。 「浪州尹と比較されるのはいささか不本意ですね」 彰の顔が苦虫を噛み潰したようになり、それでは燕青が気の毒すぎると慌てて影月は言葉を足す。 「燕青さんは燕青さんなりに頑張ってらっしゃるんですけどねー。 で、彰さんの場合は、やや情緒に欠けるきらいがあって。詩文は恋愛とかばっかりじゃないですけど、もう少し素直な目で周りを見ていただくといいと思います。押韻なんかはお上手なんですから、十分上達の余地もありますし」 自分にできる手助けならしたい。彰ならきっといい官吏になる。影月は確信と共に口にした。 「状元及第者に言われてしまっては返す言葉もありませんね。素直に、ですか。あなたのように? 杜州尹?」 見つめる彰の瞳には面白がる色が見えて、影月もまた軽く笑った。 ―三日前― 州城の影月の元に彰から約束の一覧が届いた。 琥lに住む好事家のうち、月彩花を育てている者、約二十名。しかし。生憎影月が知古とする人物の名前はなかった。 (いきなり僕なんかが頼んだって譲ってもらえないだろうな) 州牧補佐という地位にありながら、影月には地位を嵩に来て命令するという発想がない。 (茶家にもやっぱり聞いてみようか。茶家の月彩花が無事なら克洵さんに頼めるとは思うんだけど) 次に会ったら克洵に尋ねてみようと、影月は一覧を仕舞いこんだ。 その機会は意外に早くやってきた。午後になって克洵が州城に書類を抱えて現れたのだ。 仕事が一段落したのを見計らうと、影月は克洵に話を持ちかけた。 「え? 月彩花? うん、あるよ。なんとか古い一株だけは無事だったみたいで。そう言えばあと何日かしたら咲くから、その夜は仕事を早めに切り上げて見ようって、春姫も言ってたし。 影月君も見たいんなら来るかい?」 兄のように年上の友人から寄せられる好意は影月にはこの上もなく嬉しかった。 「見たいですけど、それよりも葉っぱを分けてもらえないかと思って」 「いいよ」 拍子抜けするくらい簡単に克洵は請け負う。 「でも、今年はあまり蕾をつけてなかったから、蕾のついたのをあげられるかわからないんだけど」 今年見られなくてもしかたがない。手に入るのならばいつかは見られる日が来る。 「蕾がついてなくてもいいです。芹敦さんに育ててもらって、来年の楽しみにしますから」 「わかった。近いうちに渡せるようにするね。でも一年くらいで花は無理かもしれないよ?」 予想通りの答えを影月は笑って受け止めた。 「気長に待ちますー」 いつもなら州城から三人の官吏が帰宅してくる頃。玄関先が妙に騒がしくなった。 香鈴は昭環と顔を見合わせて首を傾げる。気になった香鈴は、庖丁人に断りを入れて玄関へと向かった。 騒ぎは玄関の前から聞こえる。香鈴が玄関から出ると、そこに櫂瑜の姿を見つけた。 「まあ! 櫂瑜様、お戻りでいらっしゃいましたのね!」 「たった今帰ったのですよ。ちょうどいいですね。香鈴嬢もこちらにいらっしゃい」 手招きされて香鈴が近づくと、 「重かったーっ!」 庭院の方から燕青の声がする。同じように声を上げているのは武人の慶雲だろうか。 「やれやれ、重たいものですねえ」 そんな騒ぎの只中に、どうやら一人遅れて帰宅したらしい影月が門をくぐって姿を見せた。 「ただいまですー。皆さん、そんなところで何してらっしゃるんですか?」 「おかえりなさいませ。櫂瑜様たちが何か持ち帰って来られたようなんですけど」 まだ何があったのかは知らないと香鈴が続ける前に燕青から呼びかけられた。 「影月! 嬢ちゃん! 早くこっち来い!」 「おおっ! 一体、何鉢あるんだ! ひいふうみい……これはすごい!」 燕青と、いつもは寡黙な庭師までがはしゃいだ声を上げている。 「いえね。先日ある会合で私が月彩花を見たいと申しましたら、今日になって複数の方から送られてきたのですよ」 櫂瑜が庭院を指して、ゆったりと話す。 「月彩花!?」 影月と香鈴は同時に叫び、慌てて庭院を見る。 そこには五つ六つほどの緑を茂らせた鉢が置かれていた。 「どれも蕾を沢山つけて! すぐに植え替えいたしますから! 聞くところによりますと、この状態ならあと三日も待たずに花が見られますよ!」 芹敦が手放しで喜びを表し、忙しく鉢のまわりを飛び回って様子を調べている。 「よかったな! お前らも見たかっただろう?」 屈託なく笑う燕青が影月の背中をどやしつける。 「ええ、まあ」 「そうですわね」 影月も香鈴も微笑んでみせた。 そう。月彩花を見たかった。月彩花を見せたかった。 でもそれは――。 影月は香鈴を、香鈴は影月を盗み見る。 (――に、自分が用意した月彩花を見せたかったのに) そんな想いが二人の微笑みをどこか苦い、曖昧なものにしていた。 ―二日前― 「はい、これが月彩花の葉っぱだよ。刃物で斜めに切って土に埋めるといいって」 克洵がわざわざ州尹室を訪ねて、影月に緑の葉を渡す。それは影月の肘から指の先くらいまである大きな葉だった。 「大きいんですねー」 「古い葉だからね。花をつけるのは古い葉なんだって。これくらいの葉だったら、早く花をつけるそうだよ」 「ありがとうございます。大切に育てますー」 前日、州牧邸に大量の月彩花が届いたことは黙っていた。克洵の好意が嬉しかったし、それを無にしたくはない。それに。 (昨日届いたのは櫂瑜様の月彩花で。これが僕の月彩花) いくつもいくつも蕾をつけて、さっそく芹敦がはりきって世話をはじめた子供の背丈も超えようかという株とは違う。まだ、ただの葉っぱ。 (まるで櫂瑜様と僕みたいだ――) 州牧邸の月彩花はもうすぐ咲く。それは皆で楽しめばいい。自分の月彩花はこれから育つ。 (芹敦さんに教わって僕が育ててみよう。茶州にいなくても育てられるよう色々自分でも調べよう) 何年先に花が咲くかも予想できないけれど、咲いた時には。 (蕾がついたら香鈴さんにあげて。僕の月彩花をふたりで見ることができるように――) 州牧邸に戻った影月は、芹敦にそっと相談して葉を差し出す。 「影月様の月彩花ですな」 庭師はその葉のために小さな鉢を用意してくれながら温かい微笑みを返してくれた。 ―一日前― 明日には月彩花が咲くだろうと芹敦が予想したため、香鈴は昭環に手伝ってもらいながら準備に忙しい。 昨日の試作はうまくいき、昭環からも褒められた。 「本当に香鈴ちゃんは覚えが早いですねえ」 月彩花の咲く晩に皆に月餅を振舞おうと言うのは香鈴の案なので、あくまでも作業の中心は香鈴だ。しかし、大量に作りたいこともあり、香鈴ひとりでは難しかった。 試作を成功させたあと、本番用の生地をさっそく作り始めた。 粉をふるい、そこに昭環があらかじめ作り置きしていた砂糖汁を混ぜる。ただの砂糖ではなく、香料や柑橘類の皮などを加えた特別製である。 「だいたい、半年くらい寝かせておくといいんです。だから、手の空いた時なんかに作り置きするようにしてますよ」 そうして昨夜用意した生地は、今は冷暗所にて寝かせてある。 今日の作業は餡作りだ。 中身の餡は胡桃餡にした。落花生の油と砂糖を加えて何時間も練る。体力のない香鈴にはなかなか辛い作業だった。しかも夏場であるから、厨房の温度もぐんぐん上がる。 「しっかりと練らないとだめですからねえ」 時々香鈴と交代して餡を練る女庖丁人の腕はゆるぎもない。肩で息をする香鈴はそれでも少し休憩しただけで作業に戻る。 「練るのはしばらく私がしますから、餡に加える木の実をお願いしますよ」 それが昭環の心遣いだと判るだけに、香鈴は申し訳なくなる。だが助かるのも事実だった。両腕は既に重い。 胡桃や落花生、巴旦杏を細かく刻んで炒る。香ばしい香りが厨房全体に広がった。 「さて、そろそろいいでしょう。木の実を混ぜましょうね」 火から下ろされた餡はとろりとした艶のあるものだった。州牧邸には男性が多いので加える砂糖はやや控えめにした。 餡が冷めるのを待ちながら香鈴は明日を思う。 (上手に焼けるといいんですけれど) そして何より、影月が喜んでくれるといいのにと思った。 ―花の咲く夜― よく陽の当たる場所に植えられた月彩花たちは、一斉にその蕾をふくらませ顔を上げるように上を向いている。蕾からわずかに白い花びらが見えた。 朝、自信満々に芹敦は本日の開花を宣言した。三人の官吏も今日は早めの帰宅を約束している。 月彩花が来てからというもの、州牧邸の話題は月彩花のことばかりだ。ことに芹敦のはしゃぎぶりが目立つ。 「もうおかしくてねえ。芹敦さんたら、子供みたいにはしゃいじゃって。あんな姿を見るのは白州でやっぱり特別な花を手に入れた時だったかしら。もう誰彼かまわずに月彩花のことを言いまわってるでしょう? おかげで私も月彩花博士になれそうですよ」 厨房で月餅を焼きながら、昭環も楽しそうである。 「昭環さん、焼き具合はこんなものでよろしいんですの?」 生地に餡をくるんで木型にいれ、取り出したものに卵黄を塗って焼く。 「ええ。焦げないように注意してくださったらいいですよ。きれいにできましたねえ」 「どんどん焼いていかないと。間に合いますかしら?」 まだ形になっていない生地や餡を眺めると不安がつのる。 「今くらいの感じでしたら余裕ですよ。でも、いい夜になりそうですねえ」 「今夜はお天気もよろしいようですし」 雨が降らなくて良かったと、香鈴も安堵する。 「実はね」 昭環は内緒話をする少女のような顔になって囁く。 「私はたぶん、皆さんと違った意味で月彩花が咲くのを楽しみにしてるんですよ」 「お花を眺めるだけではないんですの?」 「人に聞いた話なんですけどね、月彩花は食べられるんだそうです」 果物ならともかく、花を食べるという発想のなかった香鈴は素直に驚いた。 「月彩花を……食べるんですの?」 「ええ。花びらをね、こうお湯に通して、酢の物にできるんだとか。萎れたのを使えばいいんですから、色々工夫して明日のお夕食に出せたらいいと思ってます。きっと月彩花が咲いてるのを見てても、私は菜譜を考えてるんじゃないかしら」 「昭環さんったら」 その様子を想像して香鈴もくすくす笑う。 「さあ、あとひとがんばりしましょうね。香鈴ちゃん、きっと皆大喜びしますよ」 「だといいんですけれど」 それでも、昼を過ぎたころには、厨房の卓子の上には完成した月餅が誇らしそうに並んでいた。 香鈴と昭環は試食をして成功を確かめた。 「うん、おいしいですよ」 「昭環さんのおかげですわ」 「これほどたくさんでなかったら、私のお手伝いもいりませんよ。次から月餅は香鈴ちゃんにお願いしましょうね」 自分でもなかなかうまくできたと思った香鈴は、できあがった月餅のいくつかを箱に入れ、茶家にと遣いを出した。 (春姫様と克洵様も素敵な夜を過ごされますように) もともと一つの株から増やした月彩花だ。そのため、不思議なことにどの家の月彩花も同じ日、同じ時間に咲くのだという。 春姫たちも今夜月彩花を眺めて過ごすだろう。在りし日の鴛洵と英姫のように。 (わたくしは、まだそんな夜を過ごせませんけれど) 大好きな人たちと過ごすこの夜も大切な思い出になるだろう。 そして、香鈴には小さな野望ができていた。 (涼しくなったら、昭環さんにお砂糖のお花の作り方を教えていただいて。こっそり練習して真冬に大輪の月彩花を咲かせてごらんいただきますわ) 約束通り、官吏たちは早めに帰宅してきた。 花が咲く前にと、全員を急いで食卓につかせる。菜譜はやや塩気の強いものを少量出した。いつもよりもあきらかに少ない食事に、さっそく燕青から不満があがる。 「嬢ちゃん、昭環のおばちゃん、これなんか少なくねえ?」 答えたのは給仕をしていた文花だ。 「何やら香鈴嬢と昭環がふたりで企んでいるようです。わたくしも教えてもらっていませんけれど、おとなしく待っていらっしゃったらきっと期待は裏切られませんでしょう」 「へー。楽しみだな」 途端に機嫌のよくなった燕青に笑いかけられて香鈴は内心動揺する。 (きっと、たぶん、気に入っていただけるとは思うんですけど――) 食事の後、酒や酒肴、そして肝心の月餅とお茶を用意していると、昭環が笑いながら窓の外を指差す。 「ほら、香鈴ちゃん。芹敦さんに影月様がつかまってますよ。きっとまた飽きもせず月彩花のことを聞かされてるんですよ。あの爺さんときたら、そわそわして食事もろくに摂らなかったんですから」 誰彼かまわずに捕まえては月彩花の話を聞かせる芹敦の姿が、月彩花が届いてから当たり前のように見られた。きっと影月ならにこにこと相槌を打つだろう。格好の聞き手だ。 「誰よりも楽しみにしてらっしゃいましたものね、芹敦さん」 「楽しみにしてるのは皆同じなんですけどねえ」 やがて視界から二人の姿が消えると、香鈴は再び準備を続けた。 「おや、月餅ですか」 昊は徐々に暗くなり、月も昇った。庭院に並べられた椅子に座って、杯を口にしながら開花を待つ男たちの元に香鈴と昭環は月餅と茶を配って歩く。 「ああ、この月餅の模様は月彩花なのですねえ」 目ざとい櫂瑜が素早く気付いたようだった。 「本当ですー! お庭院とお皿とで両方月彩花が見られるんですねー」 香鈴から渡された皿を受け取って、影月も声を上げる。小皿の上の月餅を配られた者たちは熱心に眺め出した。 「これはね、香鈴ちゃんの案なんですよ。作ったのもほとんど香鈴ちゃんですし」 昭環が誇らしげに口にすると、周り中から感嘆の声がする。 「お! うまいな、これ!」 さっそく手を伸ばした燕青は一口で小さな月餅を食べきった。どうやら口には合ったようだが、その食べ方はやはり少々いただけなかった。もっとじっくり味わってもらいたいという気持ちが作り手にはあるものなのだ。だが、まあいいだろう。燕青でさえ満足するほど、沢山作ったのだから。 「とっても香ばしくておいしいですー」 それに、影月が喜んで食べてくれているのだ。十分ではないか。 「たくさん作りましたのでどんどん召し上がってくださいませ」 そうして皆でなごやかに過ごしていると、芹敦の声が響いた。 「月彩花が咲き始めますよ!」 たちまち皆が席を立ち、花の方に向かう。 もちろん、香鈴もそれに倣おうとした。だが、袖を引かれて振り向くと、影月が唇に指をあてて立っていた。 「影月様?」 影月はもう一度唇に指を当てて、静かにという素振りを見せる。そうして香鈴の手をひいて、どこかに連れて行こうとする。 (なんですの?) 瞳で問う香鈴に、影月はいたずらっぽく笑って返しただけだった。 影月に連れられて、まるで隠れるようにこっそりと州牧邸の面々から離れる。 「もう話してもいいですよ」 「一体何ですの? これから月彩花が咲くんですのよ!」 せっかくの機会なのに、見逃してしまいかねない。香鈴は少し面白くない。 「月彩花って、どこのお家のも同じ時間に咲くっていいますから、急がないとって思って」 何を何処に急ぐのだと、疑問に思いながら香鈴は春姫の話を思い出す。 「……同じ株から増やしたからと聞きましたけれど」 「だから。こっちもね、そろそろ咲くはずなんです」 連れられた先は裏庭院。そこには小さな東屋がある。東屋に足を踏み入れた香鈴は小さく叫んだ。 「月彩花……!」 東屋の中ほどに、今まさに花を開かせようとしている月彩花の鉢が置かれていた。 「どうしてこんなところに、それも一鉢だけございますの!?」 先日贈られた月彩花は庭院の一番陽当たりのいい場所に芹敦が全部植え替えたのではなかったか。 「なんというか、芹敦さんの好意なんですよね。 州牧邸にあんなに届けられるとは思ってなくて、僕は僕で月彩花を探してたんです。で、芹敦さんに相談もしてたんですよ。言わなかったんですけど、たぶんばればれだったんでしょうねえ。僕が月彩花を探してるのが香鈴さんに見せたいからだって」 自分に見せたいと思って影月が探してくれたと聞き、香鈴の胸に喜びが湧き上がる。 「一応ね、手に入りはしたんですけど、僕のはまだ葉っぱだけなんです。咲くのは何年も先になります。だから芹敦さん、一鉢だけ植え替えずに別にしててくれたみたいで。さっき、食事の後に教えてくれたんです。一鉢だけ裏庭院に置いてあるから、好きな所で見ればいいって。その――二人で。二人だけで見ればいいって」 影月の顔はそこはかとなく赤い。香鈴もまたつられるように頬が熱くなるのを感じる。まったく州牧邸の人たちときたら、誰もが皆、気がききすぎる。 「ええと、香鈴さん、僕と二人で見るって、嫌ですか?」 嫌なはずがない。それこそが望みだったのだ。 「――せっかく、諦めましたのに。せっかく、皆で眺めても楽しいと思うようになりましたのに」 「えっ!? すみません! じゃ、じゃあ、僕ひとりで盛り上がっちゃって、あの、戻るんでしたら」 影月の言葉をかき消すように香鈴は言葉をかぶせる。 「ですから! 二人だけで眺められないんでしたら、皆で楽しめればいいと思い直したんですの!」 影月は目を見開いて聞き返してくる。 「ええと。嫌じゃ、ないんですか?」 「影月様がお戻りになりたいのでしたらお止めいたしません」 本当に影月が戻ってしまったら、きっと自分は泣いてしまう。でも素直になるのは難しかった。 「え? 僕は香鈴さんと見たくて――」 影月が差し出した手に自分の手を重ねる。 「――わたくしもですわ」 香鈴はようやく素直な気持ちを小さな声で搾り出した。 「あ、香鈴さん、咲きます!」 膨らんだ白い蕾はまっすぐ正面を向いて、身震いするように花びらを開いていく。 「すごい、力強いですねー」 影月の言う通り、株全体を揺らしながら月彩花の花たちは一斉に開き始めた。 たちまち、蕾のうちはまったく感じられなかった強い芳香が漂い始める。 白い、白い花びらが、手を伸ばすように大きく広がっていく。 「まあ……!」 東屋に並んで腰を下ろして、言葉さえ失って。ただ強く握ったお互いの手だけを感じながら、その自然の不思議から目をそらせずにいた。 天上の月を追いかけるように、月彩花が次々に夜の中輝くように辺りを支配する。 「これが、月彩花ですのね――」 月が中天に達する頃、ようやく花は満開となり、その動きを止めた。 同時に、長く息をのんでいた二人もため息をつく。 「お花が素晴らしいとは聞いておりましたけれど、こんなに香りがするなんて知りませんでしたわ」 「僕もですー」 その香りは百合に似ているようにも、薔薇に似ているようにも感じられる。だが、もっと芳醇にあたりを包み込むような強い香りだ。 香鈴は香りに酔ったような気分になった。それは決して不快な酔いでなく、この上もなく快い酩酊に似ていた。 影月はつと立ち上がって株に近づくと、その一輪を折り取る。花を持って戻ると、白い満開の花を香鈴の耳の上に飾った。 「ああ。やっぱりよく似合いますよねー」 顔の傍からも豊かな香りが漂い、影月の言葉と共に香鈴の酔いを深くする。 「ねえ、知ってますか? 芹敦さんのおかげで僕、すっかり月彩花に詳しくなったんですけど。月彩花が強く香るのは、蝙蝠を呼ぶためなんだそうですよ」 「蝙蝠、さん……?」 「ええ。月彩花がもともと咲いていた暑いところには、花の蜜を食べる蝙蝠がいるんだそうです」 「なんだか可愛らしい蝙蝠さんですのね」 思わず微笑んだ香鈴に、影月も満足そうな微笑みを向ける。 「すごく、いい香りですよね?」 「ええ。わたくし酔ってしまいそうですわ」 香りに自らを委ねるように、香鈴は力を抜く。もはや、雲の上を漂っているようだ。 「――僕はもうとっくに酔ってますよ」 夕食の席でもその後でも、影月は唇を湿す程度しか酒を飲んでいなかったはずだ。 「影月様?」 「月彩花が咲く時に上を向くのは、蝙蝠が蜜を食べやすくするためなんです」 影月の手が香鈴の頤にかかる。 「僕は香鈴さんという月彩花の香りに惹かれた蝙蝠ですから」 そうして、持ち上げられた香鈴の顔にゆっくりと唇が近づいてくる。まるで、蜜を求める蝙蝠のように――。 馥郁たる香りに包まれて、恋人たちは酔いしれる。 その夜、琥lの、茶州のあちこちの庭院で、同じように月彩花が咲いた。だがここ州牧邸の裏庭院ほど光輝く場所など、きっとなかった。 ――あなたのために。 月よりも輝いて花が咲き誇る。 ――あなたのためだけに。 ただ、あなたの目に映るためだけに――。 |
『光咲く庭院』(ひかりさくにわ) この話のテーマは、「やさしい気持ちになれるように」 誰かが誰かを想って、誰かのために。 O・ヘンリーの『賢者の贈り物』みたいな話がいいと思いました。 もっとも、私ではこれが精一杯。 茶州州花の月彩花。 原作ではどんな花かも説明されてはいませんが、その名を目にした時から 「ああ、これは月下美人にちがいない」 と思いました。 そんなわけで、ここに出てくる月彩花は月下美人をモデルにしています。 月下美人はメキシコの熱帯雨林を原産地とするサボテンの仲間だそうです。 よく似ているものにクジャクサボテンがあります。 あくまでも、モデルです。 実際の月下美人は一晩だけ咲くわけではないようです。 (でも一輪は一晩だけです) いくつも蕾ができれば蕾の育ち方によっては何日か楽しめますし、 きちんと手入れをしていればまた秋にも咲くそうです。 同じ日の同じ時間にすべての株が咲くというのもデマだそうで、 だいたいそう大きくはずれないようですが、個体差があります。 茶州は決して温暖な地ではなさそうですけれど、 日本にだって根付いたんです。きっと茶州でも大丈夫? 茶州の土でしか育たないというのはまったく私の創造です。 州花なんだからそれくらいでもいいですよね? 作中、香鈴が作りたいと思った砂糖菓子ですが、 日本では今、「工芸菓子」と呼ばれているものです。 中国にあったかどうかは知りません。 あと、日本でも作られ始めたのは江戸時代からです。 工芸菓子だけでなく、今度は胡桃餡の作り方まで覚えましたよ(苦笑) 食べ物が出てくる割合が多いのは、私の食い意地のせいでしょうか……。 読んでくださった方が優しい気持ちになってくだされば最高です。 |
〜芳彩夜香〜 なんという強い香りなのかしら。 白く輝くような花は、夜を圧して静かに咲き誇っていますのに。 あれほど見たいと思っていましたのに。 白い花びらを視野の端に写している気はしますけれど。 わたくしの両の目が見つめてしまうのは。 自分を蜜を好む蝙蝠になぞらえる笑顔ばかり。 ずるいんですわ。 わたくしより年下のはずですのに。 わたくしより恋愛などとは無縁でいらしたはずなのに。 いつのまにそんな甘い台詞を覚えられましたの? そんな甘い囁きで。視線で、指で、唇で。 花びらのように震えるわたくしを溶かしてしまわれるんですもの。 ずるいんですの。 わたくしに見せたかったとおっしゃいましたのに。 口づけでわたくしの目を閉じさせてしまわれるのはどなたですの? もう、少しも花など見えませんわ。 強い香りに包まれて。 強い腕に包まれて。 なのにあなたはわたくしと花の両方を視界に入れて。 いつか思い返すこの夜は。 きっと覚えているのは月彩花の香りとあなただけなんですわ。 月がゆっくりと動いて。もう夜も更けて。 乱れた衣を直して立ち上がろうとするわたくしを 「まだ花は満開ですよ?」 そんな言葉で引き止めて。 まだわたくしという蜜が足りておりませんの? いっそ月彩花が蝙蝠を呼ぶために強く香るように。 あなたひとりを引き寄せるための香りを纏いたい。 あなたが蜜を求めるならば。 わたくしのすべてを甘い蜜に変えて吸い尽くされてもかまわない。 それでも。 覚えていらして。 一夜限りの花でいるつもりはございませんの。 巡る昼も夜も。 あなたを捕らえて離さない、そんな花になってみせますわ。 ですからどうぞ――。 この姿はあなたのため。 この香りはあなたのため。 ただ、あなたのためだけに――。 |