歪んだ鏡は用を為さず (ひずんだかがみはようをなさず) |
茶州州府では前代未聞のことばかり続くのが日常となりつつある。 新州牧の就任は良くも悪くも茶州全体を揺さぶった。 ひそやかに琥蓮に到着したのち、たちまちのうちに茶家の専横を暴いたとしか、何も知らぬ者には思えなかっただろう。 それをまだ十代という若さでやってのけた(ように見えた)二州牧に、琥lの民は喝采を叫び、熱狂的に新州牧を歓迎した。 さて、華々しく就任したニ州牧自身はと言えば、慣れない仕事に振り回されていた。 当然のことだ。何せ実務経験は皆無に近い。 そんな彼らがまず直面することになったのは、横暴の限りを尽くしてきた茶家のお歴々の裁判尽くしであった。証拠は揃っているものの往生際の悪い複数の狸相手は、疲れることこの上もない。 過去の事例を元に判決を降すものの、膨大な資料の山にともすれば押し潰されそうになる。 ただ一つ救いがあるとすれば、それは州牧が二人いると言うことだった。一週間単位で通常の州牧としての業務と裁判中心の業務を交替する。 それでも、どちらの仕事も知りません、判断できません、では済まされない。必要なのはお飾りの州牧でなく、実務をこなせる州牧なのだから。 結局、どちらの事項にも全力で事に当たってもまだ足りない。若きニ州牧の毎日は覚えることと処理すべき業務とに明け暮れていた。 そんなある日、相変わらず仕事漬けだった秀麗と影月の元に妙な噂が報告された。 報告してきたのは州官の一人。 「ここの所毎晩、専属武官を連れたニ州牧が酒家などで豪遊してるって言うんですけどね。でもお二人とも毎晩州城にほぼ泊まりこみで仕事してらっしゃいますよねぇ?」 「何よそれ! 私がもう一人いるんなら仕事手伝わせるに決まってるでしょう!」 「そうですよねー。僕がもう一人いるなら法例探して貰えますよね。いいですよね。僕自身が相手なら遠慮なく仕事分担できてー」 語る影月の瞳に心の底から憧れの色が漂う。そんな彼の目の下の隈が悲しい。 「影月君駄目よ! それはただの現実逃避よ! 私や影月君がもう一人いるんなら自主的に手伝いに来ないはずないんだから!」 答える秀麗の目の下にもくっきりと隈があった。 たまたま今晩も州城で泊り込み予定の二人の着替えを持ってきた香鈴もその場に同席していたが、秀麗と影月が二人ずついたとしても、今と同じように仕事に埋もれているに違いないと思う。 「……にしても。毎晩豪遊ですって? 何でそんなに羽振りがいいのよ! 酒家でご飯するより家で作った方が安上がりだって言うのにっ!」 「毎日そんな贅沢してられませんよねー」 貧乏生活を極めるニ州牧には到底できそうにない行動である。州牧ともなればかなりの高給が支給されているのだが。 噂を語った州官は言いにくそうに付け加えた。 「何でも、新州牧が利用して下さったと感激して、どこの店でも支払いは貰ってないとかで……」 秀麗はその言葉に激怒する。 「そんな見ず知らずの人にたかるような真似、私がするわけないじゃないっ!」 「お店の人だってお仕事なんですし、甘える訳にもいきませんしねー」 それまで黙って聞いていた香鈴だったが、ふつふつと怒りが湧き上がってくるのを抑えられなくなった。 「……つまり、お二人の偽物が無銭飲食しているということですわね? お食事さえゆっくり召し上がる暇もお二人にはありませんのにっ!」 何とか二人にきちんと食事をさせてゆっくり休ませたいと奮闘する香鈴は、指先が白くなるほど手を握りしめた。 この二人が仕事を放り出して豪遊するなど、ありえないではないか! 「人の好意につけ込むなんて悪質よね? 取締らないわけにはいかないわ」 「でも僕も秀麗さんもそんなことに割いてる余裕なんてありませんよ?」 資料越しに顔を見合わせて秀麗と影月はため息をつく。 「そうなのよねー。とてもじゃないけど無理」 もう、黙っていることはできなかった。専門の武官にでも任せれば良いのだろうが、そんなことでは自分が納得できない。よりによって、この二人の偽者の存在など許せるはずもない。気が付けば香鈴は力強く言い放っていた。 「お二方が出られるまでもありませんわ。わたくしにお任せいただけません?」 資料の山を押しのけるように、二人の州牧は同じように慌てて香鈴へと視線を送ってきた。 「香鈴?」 「正式に州牧よりの委任状をいただけませんか? 後、武官の方を何名かお借りできましたら……」 全部言い終わらないうちに、血相を変えた影月が遮る。 「香鈴さん、危ないです!」 (誰のためだと思っていらっしゃいますのっ!) 香鈴はそんな影月を睨んで宣言した。 「お二人の事をよく知りもせずに事を起こした愚かな偽物の化けの皮など、簡単に剥がしてご覧にいれますわ!」 影月とは反対に秀麗はと言えば、香鈴の話をまともに受け取って考え込んでいたようだった。 「ええと、一応燕青と悠舜さんにも聞いていいかしら? 二人が同意してくれるんなら香鈴にお願いしてもいいと思うの」 影月はすぐさま反論する。 「香鈴さんに何かあったら大変です!」 「そのあたりは信頼できる武官をつければ何とかなるんじゃない? それか静蘭についていって貰うとか……」 たまたまこの場にはいなかったが、静蘭とて多忙であると香鈴も知っている。 「いいえ。静蘭様にはお二人をお守りしていただかないといけませんもの。わたくしでしたら大丈夫ですわ」 「でもですねえ……」 食い下がる影月に、香鈴は本気で腹が立ってきた。 「何ですのっ! 影月様はわたくしにこの程度の役割さえ果たせないとおっしゃいますのね!?」 「そ、そうじゃないですけど」 「あ、あなたがそんな風ですから、偽者なんかも現れるんではないんですのっ!?」 「え? そうなんですか? 僕のせいなんですか?」 二人の遣り取りに苦笑しながら秀麗が割って入る。 「香鈴なら任せられると思うわ。何と言っても私の身代わりを勤めてくれた実績もあるし。 そうだわ! 状況によっては私のふりしてもいいわよ? 何だったら蕾を貸してもいいし」 秀麗の髪で、蕾のかんざしが「しゃらん」と鳴る。それを見ながら香鈴はため息をついた。 「……秀麗様、主上よりの花は、そのように軽々しく貸し出すものではございません。必要とありましたら花がなくともわたくしが秀麗様だと信じさせてみせますから!」 力強く拳を握り締めて香鈴は胸を張る。 「まあ確かに、以前だって何も証拠がなくても身代わりやってくれたんだもんね。香鈴なら適任かも」 「…………」 影月は答えなかった。きっと影月はまだ内心反対しているのだろう。 (どうして、どうしてお判りいただけないんですの? あなたの偽者だからこそ許せませんのに) 通じない想いが、香鈴には悲しかった。 意見を求められた燕青と悠舜は、それぞれ笑って香鈴を見つめた。 「いーんでないの? どうせ簡単に判るだろうし、姫さんたちが出るまでもないってのも同意。嬢ちゃんなら二人のこともよく判ってんだし、ボロ出させるのも早いんじゃね?」 「そうですね。香鈴さんであればこちらの事情もご存知ですし。州牧を騙る輩は早めに潰しておくにこしませんし」 それでも念は押された。決して無茶はしないこと。酒家などに被害は出さないこと。危なくなったらまず逃げ出すこと、などなど。 早急に貸し出される武官の一群が手配された。通常であれば部外者の指揮はよく思われないものだが、指揮するのが妙齢の美少女とあって、なにやら張り切り方が違った。 「これなら、いっそ軍の指揮も香鈴さんにお願いすると全軍の士気も向上しそうですねえ」 後ほど、悠舜はそう燕青に笑って話したという。 「それでは決行は明日の夜といたします。 武官の方には酒家と言えど高級な店で、なおかつこれまで使われていなかった店を中心に張り込んでいただきます。 偽物が現れましたら州牧邸に待機しているわたくしに連絡を。すぐさま駆け付けますので。 武官の皆様全員も早急にその店に集まって下さい。相手がぼろを出しましたら合図いたしますので取り押さえていただきます」 十名程度の武官たちを相手に語る香鈴の横顔に迷いはない。 「……やっぱり香鈴適任だわ」 「……そうかもしれませんけど」 影で見守る二州牧は小さくつぶやきあっていた。影月の顔色は冴えないままだ。 「心配なら影月君もついていけば?」 短時間であれば影月が抜けてもどうにかなるのではないか、そのくらいなら自分が補うことはできるだろうと、秀麗は計算を始める。 影月は慌てて手を振る。秀麗が何を考えたかなどすぐに判ることだ。これ以上秀麗に負担はかけられない。 「そうしたいのは山々ですけど、とても動けそうもないですし、第一香鈴さん、絶対怒りますし」 香鈴は怒るだろう。実際、今だって反対する影月に怒っているのだから。危ないことなどして欲しくないだけなのだが、それがどうしても彼女に伝わらない。 「じゃあ諦めて影月君、仕事の続きやっちゃいましょう」 「そうします……」 またこっそりと執務室に戻り、二州牧は資料に向かった。気のせいか、影月の処理はいつもより早いように見えた。 香鈴は翌日、入念に支度をした。最上の衣はあえて避け、下級貴族の娘にでも見える程度とする。だが実際の所、それでも高貴な姫君にしか見えなかったのは育ちのせいというべきか。 夕方近くなって待ちわびた報告がもたらされた。 「酒家、福天苑にそれらしき三人組が入って行ったそうです!」 「すぐに参ります! 武官の皆様もよろしくお願いいたします」 香鈴は留守番役兼連絡係に声をかけて、待たせていた軒に乗り込む。 「見ていらっしゃるとよろしいですわ! 必ず後悔させてみせますから!」 決意漲る香鈴の姿は美姫な風情だけに一層迫力があったという。 福天苑に着いた頃、店の手前あたりに武官の姿がすでに半数ほど見えていた。 香鈴はそのうちの一人を呼び寄せると、矢継ぎ早に命じる。 「店には迷惑をかけないことを約束して、捕物であると告げてから、皆様が揃われましたら半数の方は店内に潜んで下さい。後の方は店の外で待機。裏口や窓にも注意していただいて退路を経って下さい」 (絶対、許しませんのよっ!) 香鈴は武官の動きを眺めながら、決意を新たにした。 店内に入ると店主を呼ぶように命じる。 「こちらに本日新州牧様がいらしているとか。是非お近づきになりたいと思っておりますので、同席させていただきたい旨お伝え願えませんでしょうか」 いかにも育ちの良さそうな香鈴に店主も快く承知する。 間もなく返答がもたらされ、香鈴は酒家の個室へと招かれた。 「初めてお目に掛かります。わたくしは浪家の香鈴と申します。是非州牧のお二方にご指導いただきたいと思いまして。 いかがでしょう? この席はわたくしが持たせていただきますわ」 あいさつをしながら香鈴が顔を上げると三人の人物が席についているのが見えた。 (劣化版……) 香鈴の感想はそれしかなかった。 確かに歳の頃や背格好は近いだろう。だが一番年長の武官仕様の男には美貌もなく、香鈴より年上らしき娘は婀娜っぽい雰囲気の持ち主であり、年下の少年からは粗野な空気が漂っている。着ているものも悪くはないのだろうが組み合わせの趣味が悪いため、派手なだけの安物に見えた。 総じて三者共に本物の持つ品というものも知性も感じられなかった。 「どうして偽者にあっさり騙されてしまうんですのっ!?」 夕べ悠舜に訊ねたところ、確かに州牧就任式には多数の見学者があったが、ごく間近で二州牧を見られた一般人は少ないとのこと。遠目からしか見ていなければ、年齢や性別くらい同じなら騙されることもあるだろうと答えられた。 (これからもっとお二方には表に出るようにしていただかないと) 最も、激務でやつれた二人を見世物にする気もない。せめてもう少し仕事に慣れて余裕ができたら、提案してみようと香鈴は誓った。 「私が紅秀麗よ。歓迎するわ」 「……ありがとうございます」 見れば卓上にはまだ菜は到着していない模様。香鈴は三名に聞こえぬよう店の者に小声で心付とともにいくつかの事を頼んだ。 「お食事が届きます前に、お話をさせていただいてもよろしいですか?」 席に着いた香鈴が切り出すと、酒盃を傾けた女が偉そうに答える。 「うん、かまわないわ」 どうやらこの場を取り仕切っているのは偽秀麗らしい。もうかなりの酒が消費されているらしく、卓上にはいくつかの瓶子が転がっている。 「実はわたくしも秀麗様のように官吏になりたいと思っているのです。家族は呆れておりましたが秀麗様の事を知り、どうやら許して貰えそうなのです」 香鈴は息を継ぐと視線を逸らさずにしっかりと偽秀麗を見据える。 「そこでお聞きしたいのですが、女人であっても科目が減らされたりとかはございませんでしたか?」 「ううん、男と同じ。大変だったのよ」 この程度であれば答えられるかと、香鈴は質問の内容を掘り下げていくことにした。 「そうですか。それでは出題傾向など伺いますが、詩文はどの時代が中心でありましたか? 詩仙・茗茜子などは出題されましたか?」 女は一瞬戸惑いを瞳に写したが、たちまち微笑んで答える。 「……ごめんね、最近忙しくて。あと試験の時は必死すぎて内容をあまりもう覚えてないのよ」 なかなか肝は据わっているようだ。 しかし、国試受験というものは、それほど簡単に忘却できるようなものだろうか。香鈴はこの時点で、偽者が国試に必要な知識を持っていないことを確信した。 「それは……。それでは状元にて合格されました影月様にお尋ねいたします。七経のうち書経についての解釈をお聞かせ願いますか?」 たいていは偽秀麗が答える手筈になっていたのだろう。少年の州牧も珍しいが、女州牧となればもっと珍しい。人々の関心が偽者とはいえ秀麗に集中するだろうことも予想された。 いきなり話題を振られた少年の慌て振りときたら、滑稽なほどである。 「それは……その……」 派手に酒にむせ、袖を濡らすが一向に答えは出てこなかった。 「もう! 食事の時くらい忘れさせてよ!」 偽秀麗が大きく手を振ってさえぎる。その挙措さえ、あまりにも粗雑だ。 「お二人は毎日のお仕事に疲れてられる。あまり無茶を言うな」 崩れた武官風の偽静蘭が割って入る。 (その場合でしたら「疲れておられる」ではないんですの?) 発言を心の中で訂正してやりながら、香鈴は別の方向から攻めることにした。 「気が利かず申し訳ございませんでした。では、お勉強から離れまして楽しいことならよろしいですわね?」 香鈴が手を叩くと店の者がニ胡を持ってきた。 「秀麗様はニ胡の名手とお聞きしました。是非一曲お聞かせ願いませんか」 偽秀麗に二胡を手渡そうとすると、女は慌てて受け取ろうともしない。 「そ、それはただの噂よ!」 「左様でございますか? それでも彩七家の紅家の姫君であらせられるならば、歌舞音曲の類はおさめていらっしゃいますでしょう? 吏部試験でも貴族的教養を求められるとか。ですから、下々からすればかなりの腕前でいらっしゃるかと」 秀麗の事情は特殊ではあるが、彩七家で通常その姫君方に要求される教養について香鈴は詳しい。 (わたくしが身につけている程度も知らずに、秀麗様の名を語っていただきたくはございませんわ!) どう出るかと様子を見ると、女はたまらずといった風に叫んだ。 「手を傷めてるから無理!」 「まあ! それでしたら初めからおっしゃっていただければ、無理は申しませんでしたのに。痛めていらっしゃる手の具合はいかがなのですか? 楽器も持てないとあれば、酒器ひとつでもご負担ではありません?」 さかんに酒を呷る女への皮肉をそうは取れないよう柔らかく、かつ心より心配しているといった声で香鈴は問いかける。何、この程度の腹芸、使えなくては宮廷になど仕えることはできない。 「そ、そこまで心配されるほどではないけど、楽器だとちょっと……」 「ああ、そうですわね! 繊細な演奏には色々不都合もおありでしょうね」 わざと肯定的にうけとってやり、安堵を引き出すと、香鈴は次の攻撃に転じた。 「お三方が主上より賜られた花はどのようなものでございますの?」 香鈴は両手を組んで夢見るような視線で問いかける。 「花? 花、ね……」 王より下賜の花の意味も知らぬのかと、内心の軽蔑の度合いばかりが増幅される。 「今、お持ちでしたら拝見できませんか? 素敵ですわよね。主上からの信頼の証なんて!」 女は逃げ道を見つけたとばかりに曖昧に微笑んでみせる。 「持ってないわ。だって食事するのにいらないもの」 「残念ですわ。何の花でございましたの? 花によってはこめられている意味も変わってまいりますでしょう?」 秀麗と影月に下されたのは蕾だ。開花するまでその花の種類など決まってはいない。 「あんまり言いふらすことじゃないから。ほら、主上からのものだし、用心のためにもね」 やはり答えないかと香鈴は思う。まったく会話に易がない。 「何一つとしてお答いただけませんのね。一体どんなお話でしたら答えていただけるのですか? これではまるで何もご存知でないかとさえ思ってしまいますわ」 「それこそ日常のこととかなら、まあ……。でも、差し支えのあることが多いのよ、州牧なんてものは」 たしかに、それが仕事の内容に密接しているとかであれば、守秘とされることもあるだろう。しかしこれまで香鈴の訊ねたことは、一切業務に触れてはいない。ある程度州牧の個人情報があれば答えられるはずのことばかり。 「それではお食事の後、州城に戻られますわね? 是非送らせていただきたいんですの。もちろん城門の中まで。夜間でも州牧であらせられれば軒で乗り入れましても咎めだてはされませんでしょうし。それくらいでしたらお許しいただけますわね? ああ、もちろん、わたくしの家の者が護衛をつとめさせていただきますから、ご安心くださいませ。屈強の者が揃っておりますの」 いい加減、香鈴は焦れてきた。このままのらりくらりと逃げられるわけにはいかない。無理矢理でも同行させて州城に連れていけば、偽者であると簡単に露見する。 三人の顔色は既に血の気を失っていた。 「それとも行き先は州牧邸の方がよろしいですか? 留守居の方もお待ちでしょうし。州牧が州城や州牧邸に送られることでお困りになるはずなどございませんわね?」 「もう、駄目だよ……」 一番年下の少年がつぶやくと、女の方が慌てて誤魔化そうとした。 「な、何が? ああ、お腹すいたのね。菜、遅いわねえ!?」 だが、少年の方はこれ以上の緊張に耐えられなかったようだ。 「この子、絶対疑ってる!」 当たり前だ。はなから偽者だと承知しているのだから。 「まあ。何か疑われるような事でもございますの?」 香鈴は偽影月に向かって邪気さえ感じられぬ上品な笑顔を向ける。だがもちろん内心は激しい嫌悪感に煮えたぎっていた。 「くそっ! 逃げるぞ!」 劣化版静蘭もどきが立ち上がり叫ぶと、後の二人も慌ててそれに習おうとした。 が。 「今です! お願いいたします!」 香鈴の声と共に五人ばかりの武官がどこからともなく現れて、実に呆気なく三人を捕える。 香鈴は懐から一通の書状を取出すと、捕われの三人に見えるよう広げた。 「茶州州牧、紅秀麗並びに杜影月の名において、身分詐称を為し、琥蓮の民を惑わす者の捕縛をこれなる香鈴なる娘に一任することとする」 署名と押印も鮮やかな委任状である。 「お読みになれまして? この件に関しましてはわたくしに一任されておりますの。それにしましても……」 香鈴はため息と共に捕らわれた三名の偽者を見下ろす。そうして、一人一人に視線を向ける。 「本物の静蘭様でしたら、この程度の人数なら軽く倒しておしまいになりますわ。素晴らしく強くていらっしゃいますの。おまけに知性的でいらっしゃって殿方ですのにお美しくて……」 (本当に何と貧相な……) 身だしなみは武官風であるが、腰に佩いた剣すらきっと扱えはしまい。男の手には剣を使う者特有のたこすらない。 「本物の秀麗様でしたら、ご自身の後輩ができるとあれば、懇切丁寧にどれほど疲れていらっしゃるとしても喜んでお勉強を教えてくださるはずですの。ニ胡であれお菜であれ、刺繍に編物だって教えてくださいますのに」 そう、この忙しい時期だというのに、香鈴にだけでなく柴凛にまで編み物を教えてくれていたりするのだ。それが国試受験のためとあれば、秀麗の熱心さは今の比ではないだろう。 「……そして本物の影月様であれば。 そもそもあなたのように安易な企みに絶対のられたりしませんの! 考えて考え抜いた上で行動なさいますの! 例え困難しか前になくとも諦めたりされませんの! ええ、あなたのように簡単に弱音を吐いたりもなさいません! どんな時だって笑って、最善の方法を選ばれるんですわ! 粗野な言葉遣いなどもされませんの! いつだって卑屈かと見紛うばかりに丁寧で! 状元で合格されたのは運などではなくて実力でいらっしゃいますの! 七経ごとき、すべて諳んじておられて、咄嗟であっても頁までお答えくださいますのよ! なんですの、それなのにあなたは! 偽者と言えど粗悪につきましてよ! お話にもなりませんわ!」 一息でそれだけ捲くし立てた香鈴自身はまったく自覚がなかったのだが、こと偽影月に対する糾弾は激しかった。こんな人物に騙られるなど、許しがたい気持ちで一杯だった。言葉だけでなく、もっと手酷く痛めつけてやりたいとまで思う。 だが、それは香鈴の役割ではない。もし香鈴がそういう行動に出たとしても、影月はきっと喜ぶまい。むしろ悲しませてしまうかもしれない。それはどうあっても避けねばならなかった。 「ともかく。あなた方にはこれより州城へお連れしまして、本物のお二方がどれほど多忙でいらっしゃるか、しっかりご覧いただきますから!」 気を取り直して宣言した香鈴の元に、酒家の店主が現れた。手には重箱のようなものが見える。 「あーお嬢さん? 言われた通りに注文された菜は全部折り詰めにしといたけど?」 香鈴は偽者のことは忘れたように、嬉しげに菜を受け取った。 「ありがとうございます。お代は浪補佐につけておいてくださいませ。……きっと本物のお二方はまだ何も召し上がっていらっしゃらないでしょうし」 武官に縄をうたれた偽者を連行させ、香鈴たちは州城に戻った。 予想通り、州牧室は大量の書類と資料に占拠され、二人の州牧は埋まらんばかりである。 「秀麗様、影月様。お忙しい所申し訳ございませんが不届き者を連行して参りましたの」 香鈴は仕事の邪魔はしたくはなかったが、仕方なしに声を張り上げる。 書籍を掻き分けるように、ふたりの州牧がよろめきながら姿を見せた。 ……本日のやつれようは、また一層すごかった。 (お、お風呂の手配もしなくてはいけませんわね……) 香鈴は心の手帳にそっと書き込む。 「え? もう?」 「はい、扉の前に連行しておりますけど、お会いになられます?」 秀麗はこった肩をほぐしながら扉に近づく。 「うーん、やっぱりちょっと興味あるし。 で、香鈴の目から見て、その偽者とやらは猫の手にでもなりそう?」 「残念ながら教養というものは持ち合わせていらっしゃいませんでしたわ。州牧の身替わりになるにはお粗末なとしか言いようのない程度ですの。事、お二人が現在必要とされています法律関連など門外漢のわたくしにも劣りますのよ!」 同じく現れた影月は、扉の向こうよりもまず香鈴の姿を確認して笑顔を見せた。 「よかったです。香鈴さん怪我もないみたいで」 自分を案じてくれたのは嬉しいのだが、香鈴は顔を背けて言い放つ。 「怪我などするはずもありませんわ! なんですの、影月様はわたくしが酒家で大立ち回りでもすると思ってらっしゃいましたのっ!?」 「え? いや、そうじゃなくて、ほら、とばっちりで危なくなることだってあるじゃないですか」 「それほど愚かではありませんわ!」 慣れた様子で秀麗が遮る。 「はいはい、後にしましょう。影月君もちょっと覗いてみましょうよ」 扉の影で縄に繋がれた三人が立ち尽くしていた。 「ふーん? 年はまあ、近いみたいよね」 「……僕より背が高い……」 いや、それはこの場合問題ではないだろうと、複数の人間が内心で突っ込んだ。 「たまたま年恰好が合わないでもない三兄妹ということですわ。州牧のお顔をはっきり見知ってる者が少ないということで始めたらしいんですの。本当に先のことなど考えてもいなかったらしいですし、おまけにどれほど罪が重いかも聞かされてから驚いていたくらいですのよ!」 帰りの軒の中で問い詰めたことを香鈴は報告する。 「うん、一応っていうか、州牧を騙ったとなるとかなりの重罪になるわね」 秀麗の言葉に三人はますます顔を白くする。 「ただ、やってることが無銭飲食だけならまだなんとか……。ああ! あんたたち、酒家でたかった分は全額店に返しなさいよ」 「ですよねー。好意を踏みにじるようなことはするべきじゃないですしー。もう二度としちゃいけませんよ? 人を困らせることばかりしてると、罪状を軽くすることだってできないんですから」 影月の言葉はこの裁判続きへの感想にも聞こえた。 二州牧の言葉に、偽者たちは激しく、しかしどこかからくり仕掛けででもあるかのように不自然にしきりとうなずいてみせた。 「まあ、琥lの人たちって、私たちのこと過大評価してくれてるとは思うのよ。茶家の手入れだって、燕青と悠舜さんがお膳立てしてくれてたからこそなんだし」 後は任せると武官に挨拶して秀麗は執務室に戻る。三人の姿が廊下に消えた。 「それでも! 茶州に赴任された州牧が別の方でしたら、きっともっと手間取ったに違いありませんわ!」 身贔屓と言われようが、香鈴は疑いなくそう思っている。そもそも二人でなければ生きて琥漣に辿り着くことさえできなかったはずなのだ。 「んー、それも過大評価だとは思うけど、香鈴の気持ちは嬉しいわ」 目元を和ませた秀麗に、この時とばかりに香鈴は重箱を差し出した。 「酒家であの者たちが注文した菜を折詰にしていただきましたの。せめて手を休められた今のうちに召し上がって下さいませ」 「嬉しい! おなかすいてたのよー」 手を叩いて喜色満面となった秀麗は歓声を上げる。だが、せっせと準備する香鈴の手元を見ながら秀麗は顔を引きつらせた。 「ね、……香鈴? この代金まさか……?」 「ご安心下さい。踏み倒したりはしておりませんわ。燕青様にツケさせていただきましたの」 澄ました顔で香鈴が答えると、秀麗は思わずと言った風に噴出し、それから小さく付け加えた。 「……後で燕青に謝らないとね」 慌しく折り詰めの食事を終えて、またすぐ秀麗と影月は仕事に戻っていく。 「……やっぱり、もう一人の僕に手伝わそうってのは無理な話でしたねー」 「他力本願はできないようになってるってことね。ああ! 影月君、とっととこの裁判関係片付けるわよ!」 「はいー。ともかく終わりは見えてきましたし」 折り詰めを片付けている香鈴の傍で、少しばかり愚図ついた影月は、聞き取れないほど小さな声を残して去った。 「偽者が捕まったことより、香鈴さんが無事だったのが一番嬉しいですー」 香鈴は心の中でその声を何度も繰り返す。そしてその度につぶやいてしまう。 「生意気ですわ……」 何度でも。偽者など許さず捕らえてみせようと、香鈴は誓う。 誰も、影月の代わりにはならないのだと。影月の代わりなど必要ないのだと。 影月が影月だからこそ自分は――。 まだ素直になれなくて。だから告げることはできないけれど。 数日後、茶家関連の最後の裁判が開かれた。 「――茶州、虎林郡在住、茶冒。これより柳西邑並びに他二十三件においての不当搾取、架空申し立て、第三者への恐喝、脅迫、暴力等についての判決を言い渡す。 わたくし、茶州州牧紅秀麗及び同杜影月の名において、被疑者茶冒の容疑は疑うことなく事実であると認め、ここに過去の法例を鑑み、全財産の没収と蟄居を申し伝える。今後異議の申し立ては一切まかりならぬ。これをもって本裁判は終了と致す。以上――」 上治三年秋。 茶州に異例の二州牧が就任。横暴を極めた茶家の悪事を暴き、裁き、茶州に安寧をもたらしたという。 その時、二州牧の評判にあやかってその名を騙った者たちがいたことを知る者は少ない。 だが、州府の記録には若干の記述が見られる。 ――これなる三名、被害者への賠償と一時労役をもって更正なさしむ―― 冬までは間のある昊の高い季節のこと。 怒涛の宿命の足音が徐々に近づいてきていることを、渦中に巻き込まれる誰もがまだ知らないでいた――。 |
『歪んだ鏡は用を為さず』(ひずんだかがみはようをなさず) いただいたリクエストが秀麗と(ゆかいな)茶州の仲間たち、 ということで、それ用に冒頭を書き出していきました。 途中で思いついたネタのため、リクエストには沿えなくなってしまいましたが。 ぶっちゃけ、「偽黄門」の世界です(爆) まだ気持ちを言葉にしていない頃の影月と香鈴ですし、 なんと言っても忙しすぎることもあり、 ほとんど絡ませることさえできず淋しいです。 もっと、初心な二人の様子も書いてみたくはあったんですが。 そのあたりはまた。 |