氷晶の舞姫
(ひょうしょうのまいひめ)

*ホラー風味、オリキャラ注意。




 すべてはこの連日の暑さが悪いのだ。これほどまで厳しい夏でなければ、涼を求めて出掛けたりしなかった。そうすれば、あんなに恐ろしくも悲しい想いに出会うことさえなかったはずだ。

 それは蝉の声ばかりが席巻する、寝苦しい夜の悪夢に似ていた――


 早雲飛火燎長空  白日渾如堕瓶中
 不到広寒氷雪窟  扇頭能有幾多風



 それはある夏の夜更け。
「次の連休の初日には遊山に出掛けますわよ!」
 居間を出ておやすみの挨拶を交わそうとした影月を遮るように、香鈴はきっぱりと言い切った。
「行く先は決めましたし、お弁当も用意いたしますから。どうぞそのおつもりでいらして!」
「わ、わかりました……」
 勢いに押された影月の返答を香鈴は承諾と受け取った。もとより仕事さえずれ込まねば影月が香鈴の希望に逆らうことはない。優し過ぎる恋人は香鈴には甘い。だから本来であればこれほど強硬に一方的に話を進める必要などないのだが、香鈴にはどうしても影月を連れ出すだけの理由があった。

 太陽が姿を隠した後でさえ地表に篭った熱気は消えることなく居座り続け、日々の眠りを妨げた。―― 熱帯夜である。
 自然は誰にでも平等に真夏の暑気を味わわせてくれたが、受け止める方にはいくばくかの差があった。影月が育ったのは山中の高地。平野部の都で育つのとは訳が違う。つまり。暑さに意外と耐性がなかったのだ。
 意外とあえて言う理由は、彼が常の笑顔を浮かべて平然と見えるよう努力していた為だ。誰もが騙された。辛抱強い影月だからという先入観もあったかもしれない。ましてや身近にその美意識を押し通す事で毅然とした態度を崩さない櫂瑜や、体力自慢で乗り切る燕青がいるのだ。部下や州民の手前、模範的存在であるべき立場なのも無視できない。
 だが努力だけではどうしようもない事だとて存在する。
 さりげない風を装ってはいたが、どれほど窓を開けても風さえそよがぬ日が続くと、影月の眠れぬ夜もまた増えていった。そして確実に彼の体力を奪っていったのである。
 知り合って三度目の夏ともなると、香鈴は影月の笑顔に誤魔化される事はなくなった。
 夏になると影月の食欲は確実に落ちる。もちろん、出されたものは完食するのだが、勧めてもそれ以上は断ってみせた。僅かに充血する目と隈が表すのは睡眠不足以外に考えられない。眠れない上に食欲も落ちているというのに、周囲に気取られないよう努めて、かえって憔悴していく影月の姿に香鈴の胸は痛んだ。
 だからこそ、少しでも恋人に元気を取り戻すために、香鈴は遊山の計画を立てたのだった。



「香鈴さん、そろそろどこへ行くか教えてください」
 約束の休日。早朝から香鈴に先導されて州牧邸を出た影月であったが、まだ行き先を教えられてはいなかった。
 目的地までは徒歩で行く。そのため気温の昇らぬうちに距離を稼ごうと、香鈴はせっせと足を進めていた。
「湖ですわ」
 振り返って少し焦らすように短く答える。
「湖? 琥lに湖なんてありましたっけ?」
「地上にはございませんけれど」
 謎かけの問答のような遣り取りに、影月は少し考え込んでいたがすぐに破顔した。
「ああ! 克洵さんが使ってた洞窟の!」
「そうですわ、恋涙洞の地下の」
 まだ秀麗が茶州にいた頃、龍蓮に連れられて回った奇妙な琥l名所めぐり。その名所のひとつが茶家本邸近くの洞窟。通称、恋涙洞である。
(きっとあそこなら涼しく過ごせるはずですわ)
 そここそが香鈴が影月のために選んだ避暑地だった。

 道中ずっと耳を圧迫するほどの音量となって押し寄せていた蝉の鳴き声も、一歩足を洞窟に踏み入れただけで遠く感じられる。たちまちひんやりとした湿った空気に包まれて、流れていた汗が冷えるのがわかった。どこかで水の滴り落ちる音が響いて、外界から隔絶されているようでもある。
「ああ、随分と外とは違いますねえ」
 影月の声がいくらか反響して届く。その声の調子が嬉しそうなものだった為、香鈴はここに来るよう決めた自分を内心で褒めた。だが口にしたのは別の事だ。
「湖へはこちらでしたわね? きっともっと涼しいはずですの」
 洞窟内はまったくの暗闇ではなかったが、それでも外ほど明るくもない。香鈴は用意していた手燭に火を点す。
「それは僕が持ちます。香鈴さんの手はここに」
 差し出されたのは影月の左手。香鈴に不満のあるはずもない。ふたりはしっかりと手を繋いで洞窟の奥へと向かった。
「なんか、探険してるみたいでわくわくしてきました」
 残念ながら影月の表情までは見てとることが出来なかったが、香鈴には想像がついた。
(男の方って時々子供みたいですわ……)
 影月に限っては違うかもしれないが、口にすると男性は気分を害する類の言葉らしいのであえて胸の内に呟いただけにする。おまけに、そんな様子を自分に見せてくれるのが香鈴には嬉しかった。
(あなたのどんな表情も、どんな仕種も。わたくしの前で隠さずに見せていただきたいんですの)
 鴛洵への想いは恋かどうか判らなかった。初恋と言うにはあまりにも複雑すぎて。けれど、影月への想いは間違いなく恋で。そう自覚してからずいぶんとたつが、想いは深まるばかり。
(わたくし、欲張りになりましたわ……)
 もう、傍にいられるだけで満足など出来ない。影月の心の全てが欲しい。香鈴の全ては影月のものなのに、影月は香鈴ひとりのものではなかったから。
 だが今この場にいる影月は香鈴だけしか知らない。他の誰にも邪魔されることはない。それが嬉しくて香鈴は先導するように繋いだ手を引く。足音さえも気持ちを写したように軽快に洞窟内に木霊していた。


 地底湖へと降りる道は、岩を切った長い階段だった。琥lの住人の大半はこの洞窟のことを知っていても入った者は少ない。さらにこの湖を見た事のある者はいないかも知れなかった。そう、茶家の一部の人間を除けば。克洵の話によるとこの階段も茶家の先祖が作らせたものと言うことだ。
 数年前、龍蓮に連れられて来た時は湖の畔まで行ってすぐに引き返すことになった。あの頃はまだ春にも早く、寒さに耐えかねたのだ。だが、盛夏である今は快適この上ない。
 湖を懐に抱く洞窟は、どこまで続いているかさえわからぬほど巨大だ。高い天井は遠く、その所々から地上からの光が洩れて湖面に反射している。光の届かない場所では湖はどこまでも暗く、その端を目にすることはできなかった。静かな水面は美しいが、反面見つめていると吸いこまれていきそうで少し怖ろしい。視線を湖から離せないまま、香鈴は無意識に影月にしがみついていた。
「香鈴さん? どうしました?」
「な、なんでもありませんの」
 怖がっていることを知られたくなくて強がってみせるが、語尾が震えることまで止められなかった。
「もしかして寒いんですか?」
「違います!」
 ささやかな意地のために香鈴は影月から離れてひとり汀へと進み、ひたひたと岩に打ち寄せる水に手をつける。まず冷たさを爽快に思い、次に感覚が消えうせる。その後に押し寄せたのは指がちぎれるかと思うほどの冷たさだった。
「きゃっ!」
 小さく叫んであわてて手を引き上げる。
「どうしました? 何かいたんですか?」
 警戒する色を見せる瞳に向かって香鈴は首を振った。
「水が痛いくらいに冷たかっただけですの」
 香鈴に危害がないとわかると、たちまち表情をゆるめた影月は、香鈴の背後から同じように水面へと浸した手をすぐに引き上げ、大きく振って水気を飛ばした。
「うわっ、本当ですね! すっごく冷たい。これ、きっと雪解け水ですよ」
「夏ですのに?」
 この季節に聞くとは思わなかった雪という単語に香鈴は首を傾げる。
「琥山は低いから雪は残っていませんけど、千里山脈にあるみたいな高い山だと山頂に夏でも雪が残っていたりします。後、そんな雪解け水が地下に流れていくんです。どこか高山の地下水脈と繋がっているんじゃないでしょうか」
 千里山脈は遠い。だが琥lの外を流れるl珠河だとて長い長い距離を流れている。それならば地下で流れが合流していても不思議はないのかもしれない。もしかしたら影月が育った村から見えていた山からの水がここまで来ているのではないか。
 ――
そう想像してみるのは楽しかった。だから香鈴は無防備に振り向いたりしたのだ。
 息がかかるほど近くに影月の顔を見つめることになった香鈴は飛び上がりそうになるのを必死で抑えねばならなかった。
(湖は広いのに、こんな近くにいらっしゃらなくても! 口から心の臓が飛び出すかと思いましたわ!)
 それなのに影月の方は平然とした顔をしていて、それが少しばかり腹立たしい。動揺を隠すように香鈴はわざと話題を変えた。
「影月様? 朝早く出立いたしましたからまだお昼前ですけれどお弁当にいたしません? ここは涼しいですし、朝から歩きましたから少しは食欲も出ていらっしゃったのではないかと思うんですけれど」

 州牧邸から茶家までは、琥lの上部を西から東にほぼ横断するのに近い。他州に比べると小規模とはいえ琥lはそれでも州都。決して狭いわけではない。優に十里を超える道を進んできた計算だ。朝食を消化するには十分な時間と距離だった。
「暑邪(しょじゃ)に効きそうな菜譜を集めてみましたの」
 影月の同意を得た香鈴は、おあつらえ向きの平たい岩の上に布を敷き、重箱を広げた。
 玉蜀黍の炊き込みご飯。五種類の豆を使って花椒をきかせた煮物。長芋を戻した貝で煮た物。海老と韮の炒め物、牛肉の陳皮炒めなど、体力の回復しそうな菜をぎっしりと詰めた重箱は正直、重かった。
 玉蜀黍の髭根を乾燥させて作った冷茶を添えて差し出しながら、
「しっかり召し上がってくださいませね? 夏はまだ終わらないんですもの。医者の不養生と言いますけれど、影月様の場合当てはまりすぎですわ! 夜だってあまり眠れていらっしゃらないでしょう? このまま倒れたりなさったら皆様のご迷惑になりますのよ?」
 菜を気に入ってもらえるかどうかという不安が少々きつい口調にした。
「何でわかっちゃったんですか? うまく誤魔化せてるつもりだったんですが」
 影月は、香鈴の指摘を否定はしなかった。だが、周囲と同じように誤魔化せると思われてはたまらない。
「そんなこと、影月様を毎日見ていればわかりますわ! さあ、お召し上がりくださいませ」
 素直に菜を口に運んでいた影月は、視線が合うとにっこりと微笑んだ。
「どれもとても食べやすくて美味しいです。なんか久々にちゃんと食べてるっていう気がします」
 言葉だけでなく、実際影月の箸の進み具合は常より早い。幸せそうに菜を口に運ぶ影月の姿に香鈴は胸を撫で下ろしていた。
(これで、少しでもお元気になっていただければ……)

 弁当をすっかり食べきった後、重箱を水ですすいで片付けた。布を敷いた上に再び座って、ふたりして湖を眺めるていると、隣から自嘲の響きを含んだ声が吐き出された。
「かなわないなあ。誰にも気付かれないでいる自信はあったのに。香鈴さんには僕のこと、何でもわかってしまうみたいですね」
 全部わかることなどきっと不可能だと理性では理解していても、それでも想いは暴走する。
「そんなこと、ございませんわ! だって……。どうしたら影月様のお心を全部わたくしの物にできるかわからないんですもの」
 わかるならば教えて欲しいと真剣に香鈴は思う。実際に無理だとしてもせめて夢くらい見たい。
 影月は少し驚いたような顔で隣り合わせに座る香鈴を見つめた。
「僕をこんなに夢中にさせているのに、気付いてない訳ないでしょう?」
「う、嘘ですの。だって、わたくしが想うほど夢中になってくださっていませんもの!」
 思わず告げるつもりのなかったことまで吐露してしまったことに香鈴は動揺し、言い訳しようとするのだが言葉が出て来ない。
「い、今のは、その……」
 もう何度も、影月は愛を告げてくれているというのに、それだけで満足できない自分がひどくあさましいもののように思える。俯いて唇を噛む香鈴の耳元に吐息と共に囁きが届く。
「……そんな可愛いことを言うのはこの唇ですか?」
 いつのまにやら香鈴は影月の腕に包まれていた。指でゆっくりと朱唇をなぞられる。右から左へ、そしてまた右へ。指はやがて香鈴の頤をそっと持ち上げた。
「僕のあなたへの想いだって、決して負けてませんよ。それには自信があります。誰かを好きになるのって、自分ではどうしようもないんですね。僕はもう、信じられないくらいあなたに心を奪われている。今日、ここに来ることにしたのは僕のためでしょう? あなたの優しさがたまらなく愛しくて、もう言葉では表すこともできないくらいです」
 寄せられた唇を抗うことも忘れて、香鈴は瞼を閉じてただ静かに受け入れた――


 幾度も交わされた口づけの後、互いに背に手を回してしっかりと抱き合う。自分より少し高い体温が布越しに伝わってくるのが心地よく、香鈴はうっとりと目を閉じていた。いつまでもそのままでいたいと願っていたのだが、抑えられずにちいさなくしゃみを洩らしてしまう。
「じっとしてると涼しいですね。少し歩きませんか?」
 影月が指差した先は湖の先。そのあたりは光の届かない闇に沈んでいた。手燭の蝋燭がまだ尽きそうにはないのを確認して、ゆっくりと香鈴の手を引いて立ち上がる。
 今ふたりがいる場所はかなり広い。手燭をかざしてみると、そのまま道のように地面が続いている。茶家の先祖がやはり整備させたのかもしれない。このあたりは平坦なので少ない灯りでも大丈夫そうだった。
「この道、下流へ向かってるみたいですね。湖が川に流れ込んでいるんでしょうか。そこまで行ってみましょう」
 そのまま手を繋いでただ歩いた。洞窟内の涼しさは快適で、絡み合う指先から伝わる熱が心地よい。
 ゆるく傾斜した道に沿って進むと、遠くでどどど……と唸りをあげる音が近づいてきた。
「滝があるみたいですね。そこまで行ってみましょうか」
 やがて水音は耳を弄するばかりとなって大音量で洞窟内を支配する。
 いきなり水面が途切れ、そこに白い飛沫を盛んに跳ね上げる滝があった。それほど高さのある滝ではなかったが水量は多く、見下ろすとただ怖ろしくて、香鈴は影月に身を寄せる。その様子に気付いた影月が提案をしてくる。
「迫力あって、ちょっと怖いくらいですねえ。道もここまでのようですし、そろそろ戻りましょうか」

 香鈴は同意の印にうなずいたが、それだけでは影月に見えないと気付いて声を出そうとした時だった。
 滝のあたりは肌寒いほどであったが、香鈴の左手側下方からもっと冷気が吹いてきた。
(何かしら?)
 そちらには壁しかないはずだが、明かりを持っているのは影月なので目をこらしたところで香鈴には目で捉えることができない。左足先で穴でもあるのかと探ってみる。と。
 さらに強い冷気に両足首を包まれたような気がした。
「きゃあ!」
「香鈴さん!?」
 そのまま足首から引きずりこまれるように唐突に香鈴の身体が沈んだ。
 どうやらすっぽりと穴に入り込んだらしい。腰まで埋まってしまった香鈴は、繋いだままの影月の手に必死にしがみついた。
「香鈴さん! 今引き上げますから!」
 落ち込んだ穴は別の空間に繋がっているらしく、そこからの寒風が香鈴へと吹きつけた。
 影月が両腕を差し入れて香鈴を引き上げてくれる。
「大丈夫ですか?」
 助け出された香鈴は、そのまま影月の首に両手を回して抱きつかずにはいられなかった。身体が勝手に震えるのを止めることもできない。突然の事故への恐怖が助かった後になって実感として沸いてくる。もしも穴がもう少し大きければ、香鈴は真っ逆さまに落ちていたのかもしれないのだ。地面に置いた手燭からの灯りだけが何事もなかったかのように揺れていた
 けれど、震えはそのためだけではない。
「とても、寒いんですの」
 香鈴を抱きしめたまま影月は片手を伸ばして手燭で穴を照らした。
「よくわかりませんが、この下にさらに別の洞窟があるみたいですね」
 穴から吹き付ける風から香鈴を庇うように影月は位置を変える。
「僕がもっと足元を照らしていればよかったんです。すみません」
「いいえ。影月様のせいではありませんわ。何だか引きずり込まれたような感じでしたの」
「何も動物とかはいそうにありませんけど、突然のことでしたし」
 労わるような微笑を向けて、影月は香鈴を立たせるために引き上げた。
「そろそろ戻りましょうか。もう十分涼しさは味わえましたよね」
 影月の腰ににしがみつくような体勢になったが、歩きにくいとは一言も彼は洩らさなかった。徐々に落ち着いてくると、香鈴は影月の腕を抱えるに留める。それでも影月から身体を離すのは怖ろしくてできない。
「しかし、あの穴からの風は冷たかったですよねえ」
「ええ。穴の中は冬みたいでしたわ」
 思い出してまた香鈴の身体は少し震える。
「大丈夫ですよ。外に出たらすっごく温かくなりますから」
「外が真夏だなんて忘れかけておりましたわ」
「僕もです。戻るのはちょっと嫌ですけど、でもやっぱりここにずっといるわけにもいきませんよね」

 地底湖から洞窟へと戻る階段の付近に残したままだった荷物を取り上げると、二人は地上に向かった。
 少しずつ、少しずつ、あれほど涼しかった空気がぬるんでいくのが肌で感じられた。
 洞窟から一歩出た途端、むっとするほどの熱気に包まれて香鈴はよろめいた。まるで冬からいきなり夏になったようだ。
「やっぱり暑いですねえ。無理せず木陰を通ってゆっくり帰りましょう。それとも軒を使いましょうか?」
 この距離で軒を使うという発言自体、影月には珍しいことだった。おそらく香鈴を気遣ってだろう。
「いいえ、そこまでは。でも、ゆっくりお願いいたしますわ」
「はい。まだまだ日は高いですし、休みながら行きましょうね」


 木陰や軒下を通って、無理せぬようゆっくりとふたりは道を戻った。洞窟を出たのは昼を少し過ぎたくらいであったが、夕方になる前には州牧邸に戻り、普段どおりの夕食にふたりは参加することができた。
「そうですか。そんな所があるのですね」
 洞窟と地底湖の話を聞いた櫂瑜の声は、僅かに羨ましさをにじませてた。顔には出さないが、高齢の櫂瑜にこの暑さは堪えているはずだ。
「いっそ、夏の間だけでも、州城の執務をそこでやったらいいんじゃねえか? 広さはあるんだろ?」
 暑さにもかかわらず食欲の落ちない燕青は、さかんに飲み食いしながら提案する。
「降り口の階段の下あたりはかなり広いですね」
 香鈴は湖の畔に卓を並べて忙しく仕事をする州官たちの姿をうっかり想像してしまった。あの幻想的な世界がすっかり現実味を帯びてしまう。
「それは魅力的ですねえ」
 ただの仮定の話であるのに生真面目に影月は返答する。
「でも、実際問題として大量の灯りが必要になります。それに少し危ないですし。香鈴さん、穴に落ちちゃって」
「それは大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
 一大事と言わんばかりの櫂瑜に向かって、香鈴は微笑みで無事を知らせる。
「ええ。すぐに影月様が助けてくださいましたし」
「安心いたしました。女性の肌に傷でも残っては大変ですからね」
 香辛料をたっぷりきかせた羹を口に運びながら、燕青は乗り気でなさそうな影月に確認してきた。
「地盤が緩んでんのか?」
「いえ、地面は固かったですから、単に別の洞窟に繋がってるだけみたいでした。あの方角だとおそらく、琥山の真下くらいじゃないかと思うんです。その穴からの風はすっごく冷たかったですねえ」
 燕青は次に骨付きの鶏肉に手を伸ばしながら思い出したようにひとりうなずく。
「そう言えば、琥山の中腹には氷室があっから、もしかしたらそのあたりと繋がってるのかもな」
 氷室があるとは初耳だった。涼を呼ぶために、食材を痛まぬようにするために、夏場でも琥lで使われている氷の出所は意外に近いところにあったものだ。
 そのまま州城避暑対策を皆で好き勝手に提案しながら、賑やかに夕食の時間は過ぎていった。



 その夜も熱帯夜だった。洞窟での涼しさなど、最早冬の記憶のように遠い。
 香鈴は自室の窓を開け放ち、臥台を覆う天蓋に潜り込んだが、とても眠れそうにはなかった。
(影月様はどうしていらっしゃるかしら)
 昼間の涼しさが、却って夜の暑さを耐えられないほどのものに感じさせる。
(あんな所に行かなければ良かったかしら)
 影月のために涼しい所に行きたかった。だがそれで却って影月を苦しめていたらどうしよう?
 悶々と悩みながら、それでも昼の疲れが出たのだろう。香鈴はとろとろと眠りに落ちた。

 どのくらいそうやって眠っていたのか。香鈴は寒さに目を覚ました。
(寒い……)
 そんなはずはないのだ。今は真夏で、そしてここは昼間の洞窟ではない。身体は寝汗に濡れて、夜着がずっしりと重い。だが足元から冷気が押し寄せて、香鈴は寒いとしか思えなかった。
 薄い肌掛けを引き寄せ、香鈴は眠ろうとした。だが、何かが肌掛けに引っかかっているようで、思うように引き上げることができない。
(何ですの……?)
 落ちかかる瞼を無理に開いて、香鈴は足元に視線をやった。やけに臥台の隅が暗いような気がする。最初はそれだけだった。だが見つめているうちに薄闇が薄闇を食らうかのようにどんどんと増殖していき、闇は濃さを増す。触れることさえできそうな闇は生き物のようにわだかまってうぞっと蠢くと、香鈴の足元へとじわじわと押し寄せてきた。
「なっ……!」
 掠れた声で短い悲鳴を上げて、香鈴は足を引こうとした。だが、重みを感じないのにとてつもなく重いものがのしかかっているように動かすこともできない。黒い闇が香鈴の足をすっかりと覆っていたからだ。これまで以上の冷気が一挙に押し寄せ、渦巻く。
「痛っ!」
 氷のようなものが香鈴の足首に触れた。最早、冷たいでなく、痛い。
「嫌っ! 誰かっ!」
 叫んだつもりが声にならない。触れられている足元から強烈な冷気が全身に伝わり、身体中が悲鳴を上げた。
「助けて!」
 影月の名を呼ぼうとして、そのまま香鈴は意識を失った。


 目覚めるといつも通りの朝だった。籠もった熱気の中、香鈴は重い身体を起こす。全身が汗に濡れてたまらなく不快だった。
「嫌な夢を見ましたわ」
 朝の光は夢の中の闇をすっかり払拭し、今日も暑い一日になることを告げていた。
 臥台の横に置いた盥に手巾をひたして身体をぬぐうと少しはすっきりとする。それでも何とはなしに身体が重く、香鈴は眉をしかめた。
(昨日の疲れが取れていないのかしら?)
 振りきるように気合を入れて身支度すると、朝食の手伝いに厨房へと向かった。

「おはようございます、香鈴さん」
「おはようございます、影月様」
 いつもと同じ朝食の席。
「今日は、お庭院で舟遊びをしないかと櫂瑜様が……」
 影月の話を聞きながら、その前に皿を置いたことは覚えている。菜を取ろうと向きを変えた途端、香鈴の身体は大きく傾いだ。急激な眩暈。すっと血の気が引いていくのがわかる。咄嗟に身体を支えようと伸ばした手は何も掴めずに、香鈴は床に崩れおちた。
「香鈴さん!?」
 揺さぶられて眩暈はすぐに治まった。しかし間近で名を呼ばれてもその声が妙に遠く聞こえる。目の前にある影月の胸に顔を埋めると、香鈴は小さく言葉を洩らした。
「……寒いんですの」
「すごい熱です!」
 身体が浮き上がったように感じたのは熱のせいばかりでなく、抱き上げられたせいもあったのかもしれない。
「さむい……」
 背筋から這い登ってくる悪寒に、香鈴は影月に精一杯しがみついた。

 臥台に横たえられ、影月の用意した薬湯を口に含まされたのを途切れがちな意識の下で理解していた。香鈴は影月の腕を信じており、たいていならば影月の薬はすぐに効く。しばらくすると思考を鈍らせる霧が少しは晴れたような気がした。だが、寒さは一向に和らがない。
「えいげつさま……」
「香鈴さん? ここにいますよ」
 影月の手が頬に触れると、香鈴は熱に潤む瞳で訴えた。
「さむいですわ……」
 身体は燃えているように熱くもあり、凍えているように寒くもあった。影月の手を掴もうとしても震えのためままならない。
「大丈夫です」
 香鈴の意を察したのであろう影月が、臥台の中に滑り込んでそっと抱えてくれた。影月にしてみれば真夏の午前中、発熱した香鈴をその腕に抱え込むのは決して楽な行為ではなかったはずだ。それでも彼は恋人のために躊躇う様子もなかった。そしてその胸こそ香鈴をどこより安らがせるあたたかい場所。薬が効き始めたのもあったのか、ようやく香鈴は眠りにおちていった。


『ちょうだい……』
 熱に浮される香鈴の耳に届いたのは微かな声。
『ちょうだい?』
「なにを……ですの?」
 浅い呼吸を繰り返しながら香鈴はようやくそれだけを口にした。
『あなたの両足』
 ぼんやりと自分と歳の頃の変わらない若い女の姿が見て取れた。
『見て? これじゃ踊れないわよね?』
 娘が僅かに裙をめくって足を見せてよこした。両足首にひどい傷がある。
『あたし、舞うことしかできないのに。あの方にお見せしなきゃならないのに、この足じゃ無理なの。……だから、あなたの足を貰うことにしたわ』
 あまりにも身勝手な要求に、香鈴の頭に血が上る。
「か、勝手なこと、おっしゃらないで! 困りますわ!」
『あなたは舞うのが仕事じゃないでしょう? 足が駄目になってもそんなに綺麗なんだし、何にも困らないと思うわ。あなたくらい綺麗だったらお金持ちがすぐに面倒みてくれる。保証するわ。身の回りの事だって全部してもらえばいいし』
「わ、わたくしを何だと思ってらっしゃいますの! 妓女にでも見えるとおっしゃいますの!?」
 恐怖より怒りが勝った。輪郭の曖昧なままの女の姿を香鈴は睨みつけた。
『でも姐さんたちはそうやて落飾(ひか)されて行ったわよ? 綺麗な着物を着て美味しい物を食べて贅沢な暮らしをして、もう働かなくてもいいんだって』
 心底不思議そうに返されてかえって香鈴は返事に困った。同じ年頃かと思ったが実は香鈴より幼いのかもしれない。
「あなたの……おっしゃる環境は特殊だと思うんですの。わたくしはこの州牧邸に勤めておりますが、歩けなくなっては仕事ができません。それに普通は嫁いだならばどんなお家であっても、家事ですとか采配ですとか何らかの仕事がございますから、やはり足は必要ですわ」
『普通ってどういうものかよくわからない。嫁ぐって、男の人に見初められて所有物になることでしょう……?』
「そのような考え方、受け入れるわけには参りません! 少なくともわたくしは自分の意志で選んだ方に添い遂げるつもりでおりますし、物ではない一個の人間として扱ってくださるはずです」
 心に浮かぶのはずっと一緒にいようと誓った恋人の姿。その日はまだ先かもしれないが、いつか必ずやって来る。そう思うと、香鈴は相手が何者であろうと強気で対処できるような気がした。
『あなたのお話、難しい。……よく判んないけど、あたしよりずうっと幸せみたい。だからやっぱり、足、ちょうだいね』
「お断りいたします! あなたの境遇がどうであれ、到底承服できかねますわ!」
 少しも話の通じない相手に、香鈴の理性は切れかかる。
『あんまり意地悪言うんなら、他の所も貰っちゃうよ? そうね、あなたの顔とっても綺麗だし、それならあの方も気に入ってくれそう』
「冗談ではありませんわ!」
『でも今なら足だけで許してあげる。だから、あたしの所まで来てね。場所は判ってるでしょう? 来ないとそのままじゃあなた死んじゃうから。目が覚めたらどういうことかわかると思う。じゃあすぐよ? 待ってるから』


「勝手に決めないで!」
「香鈴さん!?」
 目を開けた途端、真っ先に瞳が捉えたのは臥台の横で心配そうに見つめている影月だった。
「影月様……」
 その姿を見ただけで香鈴の胸に安堵が広がる。
 濡らした手巾で額の汗をぬぐってくれる手は少しばかり不器用で。けれどそれすらも愛おしい。
「ずっと譫言が聞こえてました。苦しいですか?」
「だるくて身体のあちこちが痛みますけれど……」
 それでも頭はずいぶんとすっきりしていた。意識が混濁することもない。
「熱のせいですね。少しは下がりましたけど。昨日の洞窟で風邪をもらってきたのかもしれませんね」
 香鈴は首を振った。風邪などではないことはわかっていた。先ほどの夢がただの夢でない確信が頭を支配する。
「わたくし、行かねばなりませんの……」
 熱でふらつく身体を叱咤して、香鈴は起き上がろうと試みた。
「その身体で何処に行くつもりですか!?」
 身体を動かすと途端に眩暈に襲われる。だが振りきるように臥台から起き上がろうとして、香鈴は異変に気付いた。

「あ……足が!」
「どうかしましたか?」
「足が動かないんですの!」
 影月の表情がすっと医師のものになる。香鈴を押し留めて彼は掛け布を剥いだ。
「指は? 足の指も動かせませんか?」
「膝から下の感覚がまったくございませんの……!」
 冷たくただ重く感覚の消えた香鈴の足に影月は手を伸ばして来る。
「冷たい? そんな……! さっきまで異常はなかったのに! わっ、これはっ!?」
 影月の叫びにつられて自分の足を見た香鈴は嫌悪の声を上げずにいられなかった。
「嫌っ! 気持ち悪いんですの!」
 両足首にくっきりと染みのようについていたのは手形にしか見えなかった。
「血の巡りが悪くて末端が冷たくなることはありますが、ここまで冷たいのは知りません。おまけにこの手形……。ここが一番冷たいです。香鈴さん、何か心当たりありますか?」
 しばらく影月は香鈴の足のあちこちに触れて異常を確かめた。感覚のまったく消え去った足先は、影月の手さえ感じることを拒否している。
「……夢でしたら」
「夢?」
「夕べと先程に……。その、女の方がいらして、わ、わたくしの両足が欲しいと……!」
「それでこんな風になったと? ……人外の仕業?」
 影月が何を考えているのか香鈴には予想がついた。
(陽月様がいらしたなら……と思っていらっしゃるんだわ)
 彼ならば、彼自身が人ではなかった。尊大な態度の影月の半身。
(わたくしがどうしても勝てない好敵手……)
 影月の心の一画をしめつづける一人。だが彼が口にしたのは別の人物だった。
「僕ではその手のことは対処できませんし、ここはやはり英姫さんに相談を……」
「いえ。大奥様ではかえってこじれると思いますの」
  香鈴も真っ先に英姫に相談することを考えた。けれど、それは上手くないと勘が告げる。
「どうしてですか?」
「わたくしの足を欲しがっているのはあの場所柄から言って、茶家に怨みを持つ霊の可能性が高いかと……」
「場所柄って?」
「昨日参りました地底湖の滝のそば、わたくしが落ちた穴の先ですわ」
 はっきり言われたわけではないが、夢の中の女が待つのはそこしか思いつかなかった。おまけに妙に確信がある。わざわざ香鈴の足を動かなくしてみせたのは、夢ではないのだと危機感を煽るためであろうか。それだけの力があると誇示されているようで、改めてそんな相手に対して恐れを抱かずにはいられなかった。



 茶家の側まで軒を借り、そこから影月は足の自由にならない香鈴を背負って恋涙洞へと向かった。
「申し訳ございません……」
 影月の背中に香鈴は詫びる。
「香鈴さんのせいじゃありませんよ」
「ですけれど、わたくしがこのような所に来ようと思いつかなければ……」
 何度も後悔の波が香鈴を襲う。今だとて体力のあまりない影月に迷惑をかけている。
「誰に予想がつきました? 責任の所在を問うならば情けなくも夏バテした僕にあります」
 影月はそうして地底湖が滝となって流れ落ちている場所までゆっくりと進んだ。
「このあたり……でしたよね?」
「ええ。もう少しだけ下りに入った所でしたわ」
 香鈴を背負っているため、手燭を持つことは出来ない。滑りやすく危険な濡れた岩の上を、どこからかわずかばかり差し込む明かりを頼りに影月は、ふたりして滝壷に飛び込まぬよう慎重に歩を進める。
「ここで止まっていただけますか」
 ある地点で香鈴は影月の背中に呼びかける。
「わかるんですか?」
「なんと申しますか。あの方の気配を感じるんですの」
 そこには確かに香鈴の落ちた穴が黒々と口を開けていた。
「でもここから先、どう行きましょう?」
 香鈴は少しばかり目を閉じて考え込む。
「わたくしのはまった穴を使うしかないのかしら……? ともかく一度降ろしてくださいませ」
 穴の側に降ろされると手燭を灯して香鈴は穴を照らしてみた。壁にもたれかかった影月がそれを見守る。
「何か見えますか?」
「いいえ、ほとんど何も……」
 その穴は確かに下へと続いているらしかったが、昨日、華奢な香鈴ひとりが通れなかったくらいだからあまり大きくはない。もっとも、通れたとしても闇雲に深さもわからないような穴に入る気はしない。しばし途方に暮れて、香鈴はただ暗いだけの穴を見つめていた。

「あれ? この壁なんだか……」
 ふいにそれまで香鈴を見守っていた影月が声を上げた。
「影月様?」
「やっぱり。ということはこの辺に……」
 何やらさぐっているらしい気配の後、唐突に岩が転がるような音が響いて壁にぽっかりと穴があいた。
「この壁のこの部分、やけにつるつるしてて人工的だなって。探ったら予想通り開閉するための仕掛がありましたよ!」
 香鈴から手燭を借り受けて、影月は新たな穴を照らした。大の大人であっても通れそうな幅と高さがある。
「ああ、この先が下りの階段になってるんだ。僕、ちょっと様子を見てきますけどその間ひとりでも大丈夫ですか?」
「大丈夫に決まっておりますわ! ……ですけど早く戻ってくださらないと嫌ですの」
 後半、小さく呟いた言葉のせいか、影月が微笑んだ気配が伝わってきた。
「はい。すぐに戻ります」
 灯りと共に影月が姿を消し、薄明かりの洞窟の中にひとり残されると、轟々と滝へと流れる水音ばかりが耳にについて、香鈴は動かない足を引き寄せてできるだけ身体を小さくした。自分が油断していると滝に飲み込まれてしまいそうでただ怖ろしかった。

 そう待つほどもなく戻ってきた影月をなるべく平静な表情を作って出迎える。
「おまたせしました! 下りの階段がこの真下の別の洞窟に続いてます」
「使えそうですの?」
「壁も階段も丈夫です。崩れているところもありませんし」
 影月はしゃがんで背を向け、香鈴に背中に乗るよう身振りをする。香鈴はその背に身を預けながら提案をした。
「手燭はわたくしが持ちますわ」
「そうですね。さすがに灯りがないと危ないですし」
 細い階段を三十段ほどゆっくり降りきると、そこは天井の高い小さな洞窟だった。影月の足が床を踏んだ時に真っ先に香鈴を襲ったのは冷風だった。
「寒い……」
「ええ。ここはある意味、天然の氷室なんです」
 そう広くもない洞窟の奥の壁まで影月は進んだ。
「奥の壁を照らしてみてください」
 素直に影月の言葉に従った香鈴は、手燭の灯りがするどく反射されるのに気付いた。
「氷……!?」
 照らされた壁は一面氷に覆われていた。今が夏であることを考えると、これほど大きな氷は異様である。氷室として人が使う場合は氷が溶けぬように藁で覆うものだが、そんな形跡もない。
「どこからか洩れた水が冬場に凍ってそれが溶けずにいただけ……にしては大規模ですよね。正直、どういう加減でこんなことになったのか判りませんけど」
 影月は片手を香鈴から離して、氷壁の一点を指差した。
「香鈴さん、あなたの夢に出てきたのはこの人じゃないですか?」
 そこには、ひとりの若い娘が透き通った氷壁に浮かぶように閉じ込められていた。

「ええ、多分この方ですわ……。お顔までは見えませんでしたけど」
 夢の影はおぼろげであり、こうして見上げる氷壁の人影も手燭一つではやはりはっきりと見てとることはできない。それでも香鈴は同一人物だと強く確信した。氷の中の娘は静かに目を閉じ、まるで眠っているようにしか見えない。
 影月に背負われたまま手燭を持たない左手を伸ばして、香鈴は氷壁に触れてみた。ざらっとした感触があり、張り付いてしまいそうで慌てて手を離した。間違いなく氷だ。
「それで香鈴さん、これからどうするんです?」
「ここに来るよう告げたのは先方なのですから、あちらから接触があると思ったのですが」
 香鈴とてただこの場所に来ればどうにかなるように思っていただけだった。
「でもこのままここにいても香鈴さんが風邪をひくだけですよ。どうします? 一旦戻って対策を練りますか?」
「ですけれど、わたくしの足を早く元に戻して貰いませんと」
 何故か、焦りが香鈴を支配していた。焦燥に香鈴は首を振る。もうあまり時間は残されていない。戻っている暇はなかった。
「足のことですけど、まだ少しも動きませんか?」
「ええ」
「またちょっとさすってみます」
 影月は腰を落として香鈴を地面に降ろすとそのまま足を伸ばすよう告げた。あらわにされた香鈴の両足を影月は丁寧にさする。
(お医師の目をしてらっしゃるわ……)
 恋人であり医師でもある影月にだからこ許せる行為だった。時にツボを押すように動きを見せる影月の指先がかなりの力を入れているのはわかる。それでも香鈴には足の感覚が戻ってはこないまま。気まずさに香鈴は、
「もうこれ以上は……」
 と申し出た。
「まるでこの壁の氷みたいに冷たいままです」
 傍らの氷壁に目をやって香鈴の裾を直しながら影月は考え込む。
「温めてみたら違うかもしれません。帰ったら温石でも試してみましょう」
「無駄よ」
 その時、ふたり以外の声が割り込んできた。

「その足はあたしが貰うの」
 ふたりのそばに黒い影がいつのまにか現れていた。その姿は古い鏡に写したようにやはりどこかぼんやりとしている。今度は影月にも見えたらしい。とっさに香鈴を背に庇った。振り返って確認しても氷漬けの娘の身体に変化はない。
「やっぱり来てくれたのね。約束だから顔までは取らないでいてあげる」
「足も顔も差し上げるつもりはございません!」
 影を強くにらみつけながら香鈴はきっぱりと言い放った。
「じゃあどうして来たの?」
 香鈴の迫力に動じた様子もなく、一拍置いて不満そうな声が応える。
「この不自由を解消していただくためと、あなたに諦めてもらうよう説得に参りました。一方的に言いたいことだけ言って消えるなんて卑怯ですわ!」
 人にはありえない力を見せ付けられるのは怖ろしい。だが当たり前のはずの自分の主張が理解されないほうが怖ろしいかもしれないと香鈴は思った。
「ちゃんとお願いしたわ」
「わたくしは了承しておりませんの!  あなたでしたらあなたの足がまだ無事な時に、見知らぬ方に足をくれと言われて素直に差し上げますか?」
「できるわけないわ! だってあたしは舞姫なのよ!」
「舞姫でなければ足が必要ないとでも? 他人のものを欲しがるだけでは、それでは自己と他者の区別もない赤ちゃん以下ではありませんの!」
「でも、それでもあたしには足が必要なの!」
 平行線の会話を遮るように影月が身を乗り出して割り込んだ。無意識だろうが香鈴を庇い直す。その行為に香鈴の胸はあたたかくなり、少しばかり冷静さをとり戻した。
「僕からもお願いします。香鈴さんの足を元に戻してください」
 娘の影ははじめて影月に気付いたかのように見つめる。
「ねえ、あなたは彼女の恋人?」
「そうです」
 言い切る影月には迷いがなかった。嬉しさに香鈴の頬が上気する。
「いいなあ。あたしも―― 様の恋人になりたかった……」
 つぶやく娘の声に含まれていたのはただ憧れだけ。それだけを聞いていれば理不尽な要求を突き付ける悪霊とは思えなかっただろう。
「恋人になんて無理。奥さんになんかもっと無理。それはわかってるけど、傍にいていいって。でもそのためには舞えないといけないの。あたしにはそれしか取り得がないし。
 あなたにはもう恋人がいる。あたしもあの方の傍で幸せになりたい。ね、いいでしょう?」
 無邪気に娘は顔の前で両手を合わせてみせた。その姿にほだされそうになるが要求を受け入れるわけにはいかない。
―― どなたに踊ってさしあげますの?」
「それはもちろん―― 様に」
 今度も相手の名前は聞き取れないがこの際問題ではない。香鈴は少女に衝撃を与えるであろう言葉を放った。
「その方はもうこの世にいらっしゃいませんのに?」


「なんでそんな意地悪言うの!?」
 娘の表情が驚きと疑いに染まる。
「では答えてくださいませ。ご自身の生まれた年はおわかりですか?」
 香鈴の問いに娘は首を振る。
「気がついたら一座にいたもの。あたしだけじゃない、誰も知らないわ」
 一座というのは娘が自分を舞姫と主張することから、芸人の一座のことだろうと香鈴は推測した。高名な芸人であれば王侯貴族の前で芸を披露できるものもいる。幼い香鈴のために茶鴛洵が貴陽の茶家本邸に呼んでくれた記憶が蘇った。
「では、わたくしの予測をお伝えいたしますわ。おそらく今は、あなたが生まれてから百年は過ぎております」
「そんなはずないわ! だって目が覚めたの昨日だもの!」
「それではずいぶんと長く眠っていらっしゃったのね」
 同情を幾分込めて、香鈴は娘を見つめる。
「あなたの髪型、古い型なんですもの。わたくし、たまたま後宮で古い資料を拝見したことがございますの。それがちょうど百年くらい前の流行だとかで」
 常に女の美しさを追及する宮女たちの元には髪型や衣装の古今東西の資料が寄せられていた。特徴的な少女の髪型は香鈴の記憶に特に残っていたものだった。
「嘘よ! どうしてあたしを騙そうとするの!?」
「ではお捜しになればよろしいんですわ。あなたの大切な方を。今は上治六年、劉輝陛下の御世。茶家の当主は克洵様ですの」
「茶家のご当主はそんな名前じゃないわ!」
 娘が克洵を知らないのは予想していた。
「どなたですの? 先代は鴛洵様でいらっしゃいました」
―― 様がご当主になられるって……」
「よく聞き取れませんわ。その方のお名前は?」
 舞姫はゆっくりとその名を口にする。このうえもない宝物でもあるかのように。
「茶遼玄(さ・りょうげん)様――

「知ってますか香鈴さん?」
 彼の記憶にはなかったのだろう。香鈴に向かって訊ねてきた。
「たしか―― 鴛洵様の二代か三代前のご当主のお名前かと」
 貴陽の茶家本邸で見せられた家系図を香鈴は思い出す。
「それじゃあ、もうとっくに――
 亡くなっている、と影月が続ける前に、娘は涙混じりの声で叫んだ。
「嘘よ! 嘘! もう許さないんだから!」
 香鈴の身体に向かって娘が手を伸ばしてくる。
「香鈴さん!」
 香鈴を抱きしめて庇おうとする影月を避けるように、霧のように分散した娘の黒い影が、ずぶりずぶりとでも音さえ聞こえてきそうに潜り込んできた。
「嫌ぁっ!」
 叫び声をあげ両手をふりまわしても無駄だった。心の臓を掴まれたような感触を覚えた後、香鈴の意識は沈み込み身体を支配する娘の意識にのみこまれていった――



 ちりちりちり……。
 衣装に冠に付けるだけでなく手足にも巻かれたいくつもの鈴が、動きを止めた後もまだ震えるように音色を響かせてた。一拍置いて周囲は拍手と歓声に沸き返る。舞台の上には幼い少女がひとりきり。色とりどりの細い紐が帯から垂らされた舞姫特有の衣装に身を包んでいる。
「上手だねえ」
「いや、これは天才だろう!」
 周囲の大人たちが口々に誉めそやす。
「これほどの逸材は久々だよ。将来が楽しみだ」
「一座の未来の花形だな」
 六、七歳くらいの幼い少女には理解できない言葉も使われていたが、それでも誉められていることは伝わった。
「もっと舞う?」
 衣装のあちこちに縫いつけられた鈴が身動きする度、ちりちり鳴る。誇らしさに少女は背筋を伸ばす。 
「今日はもういいよ。舞台は終わったからね。次の舞台でまた頼むよ」
 少女は生真面目な表情で頷いて、傍らでおさらいを始めた。
「いやあ、これは次の稼ぎも期待できるな!」
「あんなに小さいのになんて見事に舞うんだろう! あの子には碧仙の加護があるに違いないよ!」

 ―― あの頃は良かった。ただ舞台で舞うだけで称賛はあたしのもので。毎日が楽しかった。誰もが優しくしてくれて辛い稽古だって耐えられた。自分に舞えないものはなかったから、次々と新しい演目を覚えていくのも嬉しかった。世界のすべてだった差し掛け小屋は王宮。舞台は神殿に見えていた。

 ―― 十を過ぎるとそれまでの幸せはあっけなく崩れ落ちる。
 あれほど煌びやかに見えた衣装も天幕も、ただけばけばしいだけの安物だと知ってしまった。どうして気付かずにいられるかしら? 自分でその繕いをしなくちゃならなくなったのだから。
 旅から旅の日々は辛かった。いつだって追い立てられるように町やら村を後にした。誰もが興味と軽蔑の両方をあたしたちにぶつけてきた。そうすることで自分たちが上だと安心するためみたいに。時には石を投げて追い出されることもあった。
「どうして?」
 あたしが尋ねても皆悲しげに首を振るばかり。一座にいるのはたいてい売られてきた子供か流れ者。望んでこの生活を選んだ者はあまりいない。誰もが他に行く所がなかった。
 あたしだってそれは同じ。それでも、あたしには舞いがあったから。―― 舞いしかなかったけれど。
 でも本当に辛かったのはもっと別のこと。年頃になってもあたしがちっとも綺麗にならないことだった。

「やれやれ。何だってこんな地味な顔に育っちまったんだろうね?」
「碧仙の加護を失ってないのが救いだが」
「子供のうちなら小さくて可愛いですんだが、あれではなあ」
「踊ってる時の神懸かりと普段の差がどうにかならんか?」
 ―― 一座の女の子たちは年頃になってどんどん綺麗になっていった。皆、あたしほど踊れないくせに、それでもあたしよりちやほやされる。
「子供の頃はあんたばっかり注目されてずっと面白くなかったから、ざまあみろって感じ?」
 彼女たちはあたしを嘲って、次々と落籍(ひか)されて一座を離れていった。あたしの舞いは更に上手になったし、舞台の上では喝采も受けたけど、舞台を降りたあたしには皆が失望してみせるばかり。
「舞ってる時は天女かと思ったものだが!」
「がっかりだな!」
 ―― でも。あの方だけは違ったの。

「天上の舞姫が人間になったんだね」
 舞台を終えて上座に呼ばれて挨拶をしたあたしに、その人は優しく笑って食べたこともないような甘いお菓子をくれた。雲の上の偉い偉い人。
「また私のために舞っておくれ」
 涙が止まらなかった。ずいぶん長いこと、あたしにそんな優しい言葉をかけてくれた人はいなかったから。胸にすうっと溶けていって、胸が熱くなった。
 たいていの人は、あたしの踊りを喜んでくれるけれど、舞台を降りたあたしを見たら二度目のお呼びはなかった。でもあの方だけは違ったの。その時からあたしはあの方のためだけに舞うことになる。

 一座はあの方のお声がかりで琥lに常設の天幕を張った。
「やれやれ。風変わりな趣味の若様がいてくだすって助かったな」
「あの方は茶家の御曹子だが正妻のお子ではないし、跡取りになるはずもない末っ子だからあの子と通じるものがあったんじゃないかい」
「腐っても茶家だ。花代も期待できる」
「もうちょっとあの子に色気があれば傍女を狙えるんだけどねえ」
「お前には舞しかない。若様を逃したら後はないからな。しっかりお気に召すようがんばれ」
 言われるまでもなかった。もうこんなにまで優しくしてくれる人なんて他にいるはずがない。あたしは必死にあの方のためだけに舞った。そうして舞っていると、今までよりうんと上達していくのが自分でもわかった。意地悪なばかりのまわりの失望の目からあたしを救い出してくれる、お伽話の公子様のために、あたしはひたすら舞った。

 琥lに来て半年くらい過ぎた頃、座長が話を持ち込んだのか、あたしは一座から離れてあの方にお仕えすることになった。
 あたしが育った一座はあたしを残してさっさと琥lを出た。本当はもうとっくに一座はあたしを持て余していたんだろう。芸人に求められるのは舞だけではない。それなのにあたしは舞うことでしか役に立たなかったから。去っていく馬車を見送っても、不思議と悲しいとは思わなかった

「芸人風情がたいしたご面相でもないくせに」
 茶家での暮らしが始まった。侮られて扱いは侍女以下だったけれど、そんなことは気にもならなかった。同じ屋根の下にあの方がいる。それだけで嬉しかったのに、あの方はあたしを度々呼んでくれたから。
 物心ついた頃には一座にいた。たぶん売られたんだろう。それでも小さな頃にはお金持ちになった、顔も覚えていない両親が涙ながらに迎えに来てくれるのを夢見ていた。舞台に上がるようになって誰もが誉めてくれるようになると、いつか王様の前に呼ばれることを。そうして年頃になるとこの境遇から助け出してくれる公子様が現れるのを夢見た。
 公子様ではなかったけれど、彩七家の若様ならほとんど同じだ。お伽噺ならあたしはうんと綺麗になって、あの方と結婚するはずだけど、そこまで夢見られるほどもう子供じゃなかった。普通の家にお嫁に行くのだって芸人にはほとんど無理なのは一座の娘たちを見ていて知っていた。貴族、それも彩七家。天と地がひっくり返っても結婚なんてありえない、遠い遠い人。身分違いという言葉の意味を、あたしはその時はじめて実感した。

 あたし達はそれでも親しくなっていった。人からはままごとに見えたかもしれない。あたしが舞って。その後はお菓子をつまみながら少しだけお話して、それでおしまい。いつもそれだけだった。
 だけど、あたしが茶家に暮らすようになって二月くらいした頃、あの方が望んだのは舞じゃなかった。
「舞わなくていい。今日はただ傍にいておくれ」
 後からあの方のお父さんが亡くなった日だと知ったわ。その少し前に跡継ぎだったお兄さん方が遠い都で相次いで亡くなられたばかりだった。他家との争いが原因、らしい。そうしてそのことで茶家当主のお父さんが寝込んでついに亡くなってしまったのだ。
 それから時々、あの方はあたしを呼んでも舞を頼んでこないことが増えた。話もせずに、ただ黙って傍にいることを求められているんだということはわかった。
「すまない。踊りは君に与えられたの天性の才なのに」
 散々周りから馬鹿にされてきた地味なあたしでもいいのが嬉しかった。
「何故だか落ち着くんだよ、君といると」
 茶家にいる女たちは侍女ですらちょっとした美女揃いで、さかんに秋波をあの方に送っていた。
「若様も変わったご趣味だこと」
「たしかに舞いは見事だけれど、あの程度の御面相の娘を気にかけられるなんて」

 悪口陰口もたくさん叩かれたけれど、気にもならなかった。

 けれどあの方の周囲は大きく代わる。
 まず、ずっとあの方におつかえしていた人たちは大威張りになった。これまであの方が当主になられるなんて誰も思っていなかったから。それ以外にもたくさんの人たちが擦り寄るように現れて、静かだったあの方の離れは急に慌ただしくなった。
 短い時間だったけどあたしは毎晩あの方に呼ばれるようになっていた。
「ずっと傍にいてくれるね?」
 あたしはただうなずく。憧れはとうに――恋になっていた。

「若様がお好きな琥山に咲く野生の蘭の花を飾りたい。おまえが摘んでさしあげたらきっとお喜びになられるから一緒に来なさい」
 あの方の家令がそう言ってきたのは、あたしが茶家に来て半年たった真夏だった。あたしはうなずいて一緒に琥山に登った。中腹くらいに来た時、あたしは尋ねた。
「蘭が咲いているところはまだですか?」
 振り返った家令の目が冷たく光ってあたしを見つめた。
「蘭が咲くのは春だ。そんなことも知らないか」
 あたしはすっと身体が冷えていく感じに思わず後ずさった。家令はそんなあたしの両肩を掴むと、言い聞かせるように話し出した。
「若様が茶家のご当主になられることになったのはお前も知っているね?
 来月に控えたご当主就任と同時に彩七家筆頭藍家より奥方を迎えられる。これ以上ないほどの良縁だ。その方はたいへんに誇り高い姫君の中の姫君で、夫となる方の近辺に女の影があることを良しとされない。――わかるね?」
 わからなかった。だってあたしとあの方は手だって触れたことがない。恋人でさえない。側近く仕えている彼だって知っているはずだった。いつだって厳密にふたりきりになったことなんかなかったのだから。
「女として侍っていないのは私も知っている。だが心のよりどころにしておられる。それはある意味閨でお仕えしているよりもなお悪い。茶家は彩七家において末席。姫君をご不快にするわけにはいかないのだ」
 時間がぐんにゃりと伸びたようだった。家令の手があたしの首に伸びてきたのをただ呆然と見つめるしかできなかった。
「若様のためだ」
 首を絞められているのだとすぐにはわからなかった。息ができなくなって苦しくて、うんと暴れたと思う。足が浮き上がってあたしの下には地面がなかった。それから景色がぐるぐる回って――あたしは何もわからなくなった。

 目が醒めたら、身体を動かすこともできなかった。早く戻ってあたしは大丈夫だって言って、そうして心をこめて踊らなければ。きっとあの方はお優しいから心配していらっしゃるはず。あたしの舞であの方は微笑んでくれるはず。なのに。どうしてあたしの足は動かないの?
 頭の中から知らない声が聞こえて、かわりになる足が近くにあるって教えてくれた。
 一生懸命手を伸ばしたら―― 捕まえた。あなたを。



 一挙に押し寄せた他人の人生に、香鈴は流されそうになった。
 自分はそう。旅芸人の一座の舞姫だったのではなかったか。心密かに想いを寄せていたのは茶家の――。
「香鈴さん!」
 強く掴まれた両肩の痛みにぼんやりと覚醒する。
 香鈴って誰? あたしの名前は――
「香鈴さん!」
 ああこの方は。わたくしの――。
「影月様……」
「さっきの影が香鈴さんの中に入ったきり出てこなくなって、香鈴さんは意識が戻らないしで僕は――
 息が止まりそうなほど強く抱きしめられて、かすかに震える腕がどれほど心配をかけたかを語っていた。
「あた……わたくしは香鈴、ですわね?」
 混乱したままの香鈴に、影月は真剣な瞳で答えてくれた。
「ええ。あなたは僕の大切な香鈴さんです」
 未だ色濃く記憶が残るが、そんな曖昧な他人の自我よりも目の前の少年こそ信じられる存在だった。恋したのは舞姫の言うあの方ではない。姿が目に映るだけで、声が耳を打つだけでただもう愛しさに胸が締め付けられる。他の誰でも代わりにはならないたったひとりの大切なひと。そう。自分自身よりも大切な。
「わたくしは、わたくしです。わたくしの名は香鈴。わたくしの心を追い出そうとしても無駄ですわ!」
 香鈴が心からそう叫んだ途端、まるで追い出されるように黒い影が香鈴の中からはじき出されていった。
「もう少しだったのに……」
 洞窟に響いた声は娘のものでもあったが、同時に知らない複数の男女のものでもあった。天然の氷室である洞窟の気温は低い。だがそれ以上の冷気が目に見えずとも渦巻き、粘るようにねっとりと手足に絡み付いて、そこから体温を奪って行った。
「影月様、お逃げください!」
 娘の狙いは香鈴ひとりのはずだったが、このままでは影月も無事では済まない。
「影月様!」
 しっかりと香鈴を守るその腕を押し退けようとする。だが。
「僕にあなたを置いていくことができるとでも思っているんですか……?」
 それは怒りでも悲しみでもない、ただ事実を述べるだけの静かな言葉だった。
「で、ですけれどこのままでは影月様までが!」
「そうですね。このままだと無事には済まないでしょうね」
 香鈴の脳裏にこのまま影月とはかなくなる情景が浮かんだ。
 しっかりと影月に抱きしめられたまま息絶える―― 。そうなれば影月は香鈴だけのものだ。親しい人達も、仕事も、邪魔するものはここにはない。そうしてやがて氷に閉じ込められて。永遠に影月の腕の中にいられる……。
 甘い誘惑だった。もし影月が普通の人間だったら、香鈴はそのまま誘惑に負けて流されてしまったかもしれない。しかし。
(そうなれば陽月様がお目覚めになってしまわれますわ!)
 そう。物語の心中物のように悲劇に浸ったままでいることはできなかった。
(お目覚めになった陽月様はあっさりと氷から脱出されて、わたくしの遺体をきっと放り出していかれて……)
 香鈴の中の陽月はどうやら冷酷なままらしかった。彼は香鈴を助けたりはしないとの確信がある。
(もちろん影月様のことでは感謝しておりますけれど! それでもわたくしには!)
 影月が聞けば反論したであろうし、陽月本人が聞けば期待に応えるべく振る舞ったかもしれないがともかく、香鈴の中で確立されている陽月像が香鈴を悲劇の主役にする陶酔を振り切らせることとなった。
「どうぞわたくしを置いてお逃げくださいませ!」
「駄目です。僕はまだ諦めてませんから。助かる時にはふたりで助からないと。どちらか一方だなんて選択は僕にはありません。それに。さっき香鈴さん、意識を乗っ取られかけましたよね? 譫言でだいたいの事情はわかりました。でも
 影月は決して引くことなく、ひどく冷静に見えた。それが表面だけのことであると、にっこりと笑いながらの次の台詞が露見させる。
「香鈴さんが香鈴さんでなくなって僕の腕の中で失われてしまうんじゃないかと思ったあの時の恐怖。そのおとしまえもつけてもらわないといけませんよね」
 香鈴の顔から血の気が引く。影月は怒っている。ここまで怒っているとなると香鈴では説得できない。
「それに、考えてたんですけど。偶然が積み重なったにしても不自然なところが気になります。確実にこの場所のことを知っていた人がいるはずなんです。隠し扉に階段は人工のものでした。地底湖に下りる階段同様に茶家の誰かが作らせたとしか思えません。でもここを氷室として使用する必要もない。琥山にちゃんと昔ながらの氷室はあるんですし。涼むだけの場所ならここまで来なくても十分涼しいです。しかも人目につかないような扉の細工。その目的は彼女だとしか思えないんです」
 小さな洞窟には確かに舞姫を閉じ込めた氷壁くらいしか目立つものはなかった。
「ですけれど、何の意味がございますの?」
「誰にも秘密にしたかったのは誰か。人知れず命令して通路を作れるのは誰か。つまり、答えは茶遼玄という人物を指しています」
「通路を作ったりされたのが茶遼玄様であるとして、何がひっかかっていらっしゃいますの?」
「僕が彼の立場だったら呼びかけます。後、氷から出そうとしたりします。氷壁の一部が削られているみたいですし、実際あれこれやったんでしょうね」
 影月の指差した先にはすっかり錆び付いた鶴嘴が転がっていた。
「眠っている時に横で騒がしくされたら目が醒めますよね? 彼女の場合、凍る前に仮死でなく完全に絶命してたようですから当て嵌めるのも強引ですが、どうしてその時に目覚めなかったのに今頃目覚めたんでしょう? 何か目覚めるのに条件でもあったんでしょうか?」
 ひと時共有した娘の記憶を辿るが、そのあたりは覚えがない。影月の発言に香鈴は疑問を持った。
「どうして氷漬けになる前に亡くなっていると思われましたの?」
「頚椎……首の骨が折れています。あれでは助かりません」
 香鈴の目にはそう不自然には見えなかったが影月は医師だ。彼の目なら確かだろうと香鈴は納得した。

 香鈴の中からはじき出された影が、この時になってようやく元の舞姫の姿を取り戻した。
「嘘ばっかり言わないで! あたしも、あの方も死んでなんていないんだから! ちゃんと探して嘘じゃないって教えてあげる! そのためには足がいるわ!」
「まだそんなことをおっしゃってますの!? 足が動かないそうですが今の姿でしたら移動できますでしょう? 夕べ、わたくしの所にいらしたみたいに」
「嫌よ! だって自分じゃないみたいなんだもん!」
「わたくしの足はそもそもあなたの足ではございませんわ!」
 言い争うふたりを影月は遮り、疑問を娘にぶつける。
「あのぅ、話の腰を折るようですけど、どうやって香鈴さんの足を自分のものにするんです? 残念ながら現在の医術では他人の足を縫合しただけで歩けるようにはなりません」
「あたしにはわかんないわ。でも、ここの人たちが知ってるから大丈夫なの」
「ここの、人たちって――」
 厳密に言うとこの場にいるのは影月と香鈴だけ。
あとは少女の霊がいるが、今まで他に気配はなかったと香鈴は思い、そうして否定する。
(先ほど、この方以外のお声を聞いたような気が……。それにこの場に充満しています冷気。もしかして氷のせいだけではありませんの?)
「わからない? たくさんいるのに。あのね、昔っから茶家の人たち、見つかっちゃいけない死体を上の地底湖に流してたみたい。でも死体はそのうち流れていくんだけど、ちょうどこの場所に魂だけが残っちゃったんだって。何百年の間だから、本当にたくさんよ。それでね、今までの人たちはみんな身体が流れちゃってここから出ることもできないんだけど、ほら、あたしには身体があるでしょう? あたしが自分の足でここを出たら、皆も一緒に外に出られるんだって。だから皆あたしに協力してくれてるの」
 娘は力強い味方がいることが嬉しいらしかった。どことなく自慢気だ。
「それは――いいにくいですけど騙されてますよ」
 影月はいたましそうな表情で娘を眺めながら、それでも真実を告げた。
「あなたの身体は仮死じゃなくて本当に絶命してます。足がどうにかなったところで、それは死体が動いていることにしかなりませんよ」
 影月の言葉に僅かばかりの自嘲があったことに、娘は気付いた様子もなかった。
「そりゃあ、首は絞められたわ。でも、ほら、あたしの身体に異常はないもの! 足以外は!」
「首の骨が完全に折れているのに生きている人はいません」
「影月様はお医師でもいらっしゃるからおわかりになるんですの」
 医師という単語に娘の表情がこわばるのを香鈴は見た。
「あなたの身体を氷から出すことができれば該当箇所を説明することができるんですが。あきらかに変形してますから」
 死者にその死体の説明をするという奇妙な立場であるのに、影月は淡々と語る。
「何、それ。あたし、本当に死んでるって、あの時に殺されちゃったって言うの!? 嘘よ! 嘘ばっかり! あなたたちの言うことなんか信じないんだから!」
 娘の叫びがきっかけになったように洞窟内が一瞬激しく揺れたかと思うと、次の瞬間、影月と香鈴は目を瞠った。氷壁の上から下までびっしりと蠢く白い無数の手が生えて蠢いていたからだった。。
「嫌っ!」
 嫌悪感が全身を支配して、香鈴は身動きすら忘れる。
 しがみつく香鈴を両腕に抱え上げて、影月は走りだそうとした。だが行く手をさえぎるかのように、すべての壁から同じように手が生えて、しかも人間の手の長さを超えて不自然に長く伸びながら確実にふたりへと押し寄せて来る。その動きはまるで鎌首をもたげた大蛇のよう。四方からの手は、逃げ道を奪って、ふたりの首に、腕に胴に、足に絡みつく。払っても払っても次の手が絡んで影月から香鈴を引きはがそうとする。この手たちにとって、脱出の機会を与えるのはあくまでも舞姫なのだろう。そして舞姫を動かすために必要な足を持つのが香鈴だから執拗に狙ってくるのだ。
「影月様!」
「大丈夫。絶対、離しませんから」
 影月を巻き込んでしまったことを香鈴は何より悔やんだ。だが今はもう謝っている場合ではない。この状態で足を差し出すことを承知したところで、自分も影月も命のあるままここから出られるとはとても思えなかった。


 ふたりは逃げ回っていた結果、いつしか氷壁の右端へと追い詰められていた。
 その場所は洞窟内の他の場所と違うようには見えない。だが、ぱしっと火花が散って、白い手の群れが弾き返された。
「何かあるんでしょうか?」
 これまでとは違った様子に影月も香鈴も注意深く周囲を見回す。
「あら? 影月様、降ろしていただけません?」
「でも……」
「この場所でしたら大丈夫のようですし、このままでは確かめられませんもの」
 香鈴が見つけたのは鈍い金の光だった。宝飾をあしらった豪華な簪が一本、地面に転がっていたのだ。それは色褪せてはいたが錆びてもおらず、間違いなく貴人のものと思われた。
「影月様、このような場所にこんな簪が……」
 取り上げて香鈴の腰を抱いたままの影月に見せようとした途端、強烈な思念に取り込まれた。
(憎悪?)
 指先から流れ込んできた強い感情が発しているのは憎悪であるとか怨念とでも呼べるものだった。


『憎い……憎い……憎い……』
 香鈴の脳裏に、ひとりの女の姿が浮かび上がる。まだ若い。せいぜい二十歳前というところか。整った顔立ちは美女と呼んでも差し支えなかったが、彼女を支配する感情が美貌さえかき消していた。髪に、耳に、首に、指に、腕に。至るところを飾るのはとりどりの宝石。贅を尽くした衣装の色は――準禁色の藍色。
 藍家の女は、憎々しげに氷壁に閉じ込められている舞姫を、その視線で氷さえ溶かしてしまいそうなほどに睨みつけていた。
『口惜しい。妾がこのような小娘に敵わぬと言うのか!?』
 吐き出される声は本来なら玲瓏と響いたであろう。しかし今は憎しみに彩られてざらついて聞こえる。
『茶家に嫁して二年。彩七家末端の茶家、それも本来嫡男でもない賎しい妾腹の子と娶わせられるとはなんたる屈辱と嘆いたことすら懐かしい。
 けれど背の君は情け深く、知る限り他家の当主にひけを取らぬ立派な方でいらした。我が背の君とはじめて見えた時より妾はこの心までも捧げておる。背の君はお優しい。されど決して妾を心の内に踏み込ませてはくださらぬ。
 もしや他に女でも囲っておられるかと疑いもしたがそのような女の影も見えぬ。妾がお気に召さぬのかとあれこれ心を配ってみても一向に態度を変えられることはない。
 いぶかしんで古参の家人を問い詰めてようやく聞き出したのが、妾が嫁ぐ少し前に姿を消したという背の君が可愛がっていらしたという舞姫のことであった。男と女の関係ではなかったと家人たちは言いおったが――これこの通り。誰にも告げずに時折姿を消されるその後をつけてみれば、このような場所で小娘と向かいあっておられたとは!
 口惜しい。生きている娘であれば妾が優位に立つこともできよう。されど、死者に勝つは難しい。妾の心からの想いを信じてもくださらない今、記憶の中で美化されるばかりの相手にどのように勝てようか。許さぬぞ小娘。許さぬ!』
 袖を噛んで鬼のような形相となった藍家の貴婦人は、ようやく連れの存在を思い出したかのように急に背後を振り返った。
『そなたであれば壁の向こうにまで力を及ばせると聞いておる。どうじゃ、この氷の中の娘の両足首を砕くことはできようか?』
 答えたのはそれまで無言でいた女。顔には一切の表情も浮かんではいない。背筋を伸ばし貴婦人を見返す女の衣は縹色だった。
『できます。しかしお方様、足を砕くだけでよろしいのですか?』
『構わぬ。すべて破壊してやりたいのは山々なれど、そうなれば背の君が悲しまれるであろうから。妾は……背の君を悲しませたくはないのじゃ。勝手な言い分と承知はしておる。なれど何もせずに見て見ぬふりもできぬ』
 苦渋に奥方の口元が歪む。
『足ならば裙の中ゆえ、背の君も気付かれまい。この娘は舞姫とか。ならば身体のどこよりも足を奪われるのが堪えよう。その足では芸への誇りがあればあるほど例え幽霊、あやかしの類いとなっても背の君の御前には現れまい』
『それでは失礼いたします』
 縹家の女は何やら念じはじめ、そう立たぬうちに終わったことを知らせるために一礼した。舞姫の身体に見た目は変化が見られない。だが奥方にはわかったようだった。
『ようやってくれた。縹家の術者は期待を裏切らぬわ』
 少しばかり溜飲を下げたらしい奥方は、改めて氷壁の舞姫を見上げる。
『娘よ、妾はそなたに呪いをかけようぞ』
『それもお手伝いいたしますか?』
『不要。そなたなら妾の中に渦巻く恨みが見えよう。妾とて薄いとは言え王家の流れを汲む者。この恨みの気持ちさえあればたやすいこと。
 よいか娘。妾は背の君を誰とも共有するつもりはない。死したそなたに背の君は渡さぬ。妾こそがずっとお傍にあって何年、何十年かかろうとも真心をこめてお仕えし、振り向いてくださるまで諦めぬ。
 それ故娘よ、名も知らぬ舞姫よ。この簪がこの壁より抜けぬ限りそなたの魂が目覚めること無きよう。背の君がご存命中は元より、天上へと旅立たれてもすぐ追うことのできぬように!

 奥方は髪に挿していた簪を一本引き抜くと氷壁へと突き刺した。簪は、大の男とて不可能と思われるほど厚く閉ざされた氷を易々と貫いて根本まで埋まった。それは激しい嫉妬故の所業であったか。
『妾の呪いのかかり具合はいかほどに?』
『そう百年は――破れることありますまい。しかれどもそれだけのお力、縹家のものとしては惜しくてなりませぬ』
『世辞はいらぬ。縹家の術者に比べれば児戯であろうが。おまけに妾はとうに生娘ではないぞ』
『承知しております、お方様。あなた様が姫君を身篭られましたら必ずや縹家の者がお訪ねいたしますでしょう』
『それでは懐妊と安産の札でも用意するがよい。もっとも。姫であろうとそう簡単には渡しはせぬがな』


 ふっと強烈な記憶から解放されて香鈴はようやく息をつく。
「香鈴さん、今のは――」
「影月様もご覧になられました?」
「はい」
 おそらく香鈴に触れていたため、影月にも伝わったのだろう。
「この簪に奥さんの記憶というか念がこもってたんですね」

 香鈴は手の中の簪に目を落とす。
「死体を傷つける上に呪いをかけるだなんて、それだけならとても怖ろしいことですのに、わたくし、この奥方を責める気にはなりませんの。とてもとても哀しくて……」
 香鈴は知っている。貴族の姫君はたしかに贅沢育てられるが、それはいつか嫁がされる為だけだということを。まったく見知らぬ相手、見知らぬ場所に家のためだけに送られて。先方で愛される保証などどこにもない。この奥方は夫を愛していたようだが、それが幸せなのか不幸せなのかどちらとも言えなかった。
「そうですね。哀しい人でしたね。それを自分でも判っていながら止められなかったんだって伝わってきましたし。
 でも、これでいくつかわかりました。何故今になってあの人が目覚めたのか」
「簪が抜けたから……ですわね」
 香鈴はもうあの強烈な思念を見ることはできない簪を握り締めてうなずく。
「今ですらこの簪のあるところ、白い手は襲い掛かってきません。きっと彼らの妄執よりも奥さんの念が強いんでしょう。
 あと、この洞窟に茶遼玄さんが通っていたこともわかりました。予想通り階段や隠し扉を作らせたのも彼のようですね」
「茶遼玄様は、あの人が眠っているだけだと思っていたのでしょうか?」
「わかりません。ただ、いつ目が覚めても不思議じゃない――と思い込んでいたのかも」
「哀しいですわ、どなたも」
 存在が邪魔だと殺された舞姫も、その舞姫の遺体を眺めていたであろうかつての茶家の当主も、夫の心を得られず苦しんだ奥方も、三者共に悲しすぎた。
「誰もが本当に悪い人じゃないだけに、やりきれませんね。ああして氷の中にいるのが香鈴さんだったら、僕もそう信じ込んだかもしれません。心のどこかでまやかしだと囁く声に耳を塞いで」

「そう、僕なら……」
 影月は言葉を切り、何かを探すように洞窟内を見回しはじめた。時々香鈴に簪を振り回してくれるよう頼み、視界を遮る白い手を追い払ったりした。
「香鈴さん、そのまま簪を持っていてくださいね」
 香鈴を抱き上げて影月は迷うことなく進み、洞窟の片隅の四角い岩の横で立ち止まった。香鈴をそっと降ろすと、取り出した小刀で岩をほじり始める。しばらくすると岩の上部がすべるように床に落ちた。
「櫃……ですの?」
 岩のように見えたのは苔むした櫃であった。開いた内部を覗き込むと、過ぎた時のためか僅かに色を残していた衣が目の前で塵となって砕け散った。
「ええ。僕なら、僕がいなくなった後にこの人が目覚めた時のことを考えて、生きていくのに困らないだけのものを用意しておくはずだと思ったんです。着る物に、お金、そして――」
 櫃の中を探って、影月は何かを取り出した。
「絶対、あると思ったんです」

 それは木を綴った木簡だった。広げると墨の色は読むのに不自由はない程度に残っていた。
 影月は簪に怯えて離れたところから見つめている娘に声をかけた。
「あなたは字が読めますか?」
「あんまり……」
 恥じるように娘は首を振る。貧しい家では今ですら識字率は高くはない。
「じゃあ僕が代わりに読むことを許してください。これは、あなた宛ての手紙です」
 そうして影月は木簡の内容を読み上げはじめた。


 もう間もなく私の時は終わろうとしている。
 いつの間にか君が私の前から消えて五十年になる。茶家の当主となってからも同じだけの時間が過ぎた。

 君と出会った頃の私は誰からも省みられない存在だった。必要とされたくてだが何もできずに焦りばかりがあった。
 君が舞うのをはじめて見た時、奇跡のようだと思った。神仙に愛されている者だけに許された舞。舞台から降りた君はあどけない少女で。だからこそ、天上に攫われずにこの地上に残っていてくれているのだと。

 何の役に立たなくとも茶家の血筋と知れただけで、女たちは目の色を変えて擦り寄ってきた。華やかで美しい女たちは甘い言葉と手管で私を篭絡しようと必死だった。張り付いた偽りの微笑み。正直美女には辟易していた。どうしても彼女たちを信じる気にはなれなかった。
 君に菓子を渡した時、あまりの無邪気な喜びように胸をつかれた。家族も家人も信じることなどできない。中でも一番自分が信用できなかった。それなのに君は信じられると、信じていいのだと私にはわかったのだ。
 貴族として生まれたからには家同士の繋がりのための婚姻は必要なあたりまえのことと言い聞かされて育った。そこに自分の意思が入る余地はないのだと。いつか一族だか父だかに妻たるひとは決められてしまう。それが当たり前で、拒否することなど許されなかった。
 君が幼かったのは救いだった。もし君がもう少し年長であったなら、私は押し付けられる婚姻に対してささやかな抵抗をしようとしたかもしれない。
 妻にはできない。母を見ていた私には君を恋人にも、ましてや愛人になどできはしない。それは君を不幸にするだけだと知っていたから。そしてまた自分に言い聞かせていた。君は年の離れた妹のような存在なのだと。君が年頃になるまでに教養と礼儀作法を教えて、いずれ幸福な結婚が約束されている相手に嫁がせるつもりだと。
 本当のところは手放せたかどうか自信がない。その時が来る前に、君は姿を消してしまったから。誰もが私の結婚が決まったことに遠慮して出て行ったのだろうと口々に言った。肩身の狭い思いをさせていたかと自分の振る舞いを後悔もした。
 だが偶然に君が消えて二年もたってからこの場所で君を見つけた。これでは私の元に帰って来ることはできないはずだ。

 君の目覚めをずっと待った。五十年は決して短い時間ではない。
 藍家から娶った妻も先日他界した。そう。結果的に決して悪い結婚ではなかった。政略の意味しかないはずの相手ではあったが、共に暮らすうちに年月は我々の心を寄り添わさせた。
 君はあの頃のままなのに私は確実に年をとり、老いた。
いまや身体は病魔に冒され、後幾ばくも無く妻の後を追うことになるだろう。ここに通うことすらこれで最後と思う。だから。あの頃言えなかったことを伝えておきたい。

 晶芳(しょうほう)、私は君を愛していたよ――。

 茶遼玄


 影月が手紙を読み上げ終わると、洞窟の中はしばし静まりかえった。それを破ったのは娘のすすり泣きだった。
「遼玄様……。遼玄様! あたしはそのお言葉だけで幸せです……」
 百年の時を超えて伝わったたった一言それだけで幸せに震える舞姫の姿は香鈴の胸を打つ。しばらく涙を流していた娘は視線を感じたのか顔を上げ、それまで見受けられた子供っぽさを払拭した表情で香鈴に告げた。
「ごめんなさい。もうあなたの足が欲しいなんて言って困らせないわ。遼玄様の
お言葉があれば、足なんてなくてもいいって、わかったから」
 彼女はもう受け入れていた。自分と愛しい人の生がとうに終わっていることを。この場所に留まることの無意味ささえも。
「あたし、行くわ。天であの方に会えるかしら?」
「きっと。きっとお会いになれますわ」
 香鈴は力強く請合う。そうあって欲しいと心から思ったからだ。
「ありがとう。ごめんなさい。あたし、この人たちを一緒に連れて行くわ。
 ね、皆。ここに残ってても悲しいだけ。一緒に行きましょう? 本当はそうしたかったんでしょう?」
 氷壁の中の姿がそのまま抜け出してきたように、ずっと曖昧な影だった娘の姿がくっきりと映る
 まるで神仙に仕えるかのように敬虔に、娘は舞いはじめた。
 稀代の舞姫と呼ばれただけはあり、影月も香鈴もその舞いから目を離せない。きっとこの場にいた霊たちもそうなのだろう。彼女が導くように手をひらめかせ袖を振るたびに、周囲の冷気が消えていく。
 どこからか鈴の音が彼女の動きに合わせて届く。
水晶のように煌く氷を背景に舞姫はその真価を発揮し、軽やかに踏み出される足先はゆっくりと地面を離れていった――


 ちりん。
 香鈴の傍に鈴がひとつ転がってきた。拾って、手の中に握りこむ。その頃には舞姫の影はもうどこにも見えなかった。
「行っちゃったみたいですね、あの人も」
 見えるはずもない天上への道行きに目を凝らしていた影月は、振り向いて香鈴を抱えようと手を伸ばす。もうこの場所にいる必要はない。
 影月を制して、香鈴はゆっくりと立ち上がってみせた。
「足が……!」
 静かに香鈴は微笑んで、自分の足で立てることに感謝する。
「約束を守ってくださったみたいですわ」
「ああ、よかった!」
 影月は満面の笑顔で香鈴を持ち上げると、そのまま踊るように回る。だが急に香鈴を離すと氷壁を指差した。
「と。喜ぶのは後みたいです!」

 それまで透き通っていた氷壁に、見る間に蜘蛛の巣のようなひび割れが走りはじめた。初めのうちはぱらぱらと氷のかけらが花びらのように降り注ぐだけだったが、そのかけらは徐々に大きなものへと変わっていき、途切れることなく続いてすぐに危険を覚えるほどの大きさとなった。それに合わせるように、隣の壁から異音が響いたかと思うと壁に亀裂が入り、そこから水が勢いよく押し寄せる。
 鉄砲水は水量を増し、たちまち洞窟の床が川のように渦巻く水に覆われた。慌てて香鈴の手を引いて影月は階段を駆け上るが、水嵩は増してふたりの後を追うように階段を一段一段飲み込んでいく。地底湖の畔に出ても影月は足を止めずにそのまま入り口の階段目指して走りぬけた。
 水は、ついには隠し扉から飛び出して滝へと流れ込んだ。時折、水晶のように光るのは氷のかけらだろう。舞姫の遺体がどうなったのかは知ることもできなかった。半刻もせぬうちに水流は衰え、元の静かな地底に戻る。なんとなくそこまで見守ってから、ふたりはようやく地上に向かった



 外は、すでに夜になっていた。蒸した熱気がふたりを包み込んで迎える。
「とんでもないお休みでしたね」
「もう洞窟はこりごりですわ」
 手を繋いで州牧邸目指して歩き始める段になって、影月は香鈴が左手を不自然に握っているのに気付いたらしかった。
「そっちの手に何を持っているんですか?」
 開いて見せた掌の上には鈴と簪。
「供養をお願いしようと思いますの。あのひと――晶芳さんと、そして奥様の。調べれば奥様のお名前もわかるでしょう。おふたりとも魂が安らかであるように。いつかその魂が地上に戻ってきた時には、今度こそ幸せになれるように」
「そうですね。幸せになれるといいですね」
 去っていった過去の人物に思いを馳せながらしばらく無言で歩いていたが、ふいに影月が歩みを止めて立ち止まる。
「影月様? どうかなさいましたの?」
 影月は満天の星の下、香鈴に笑いかける。
「僕たちも負けずに幸せになりましょうね」
 言ってから慌てて影月が付け足した。
「あ、でも今もすごく幸せなんで、これ以上の幸せってちょっと想像できないんですけど」
「そんなの簡単ですわ」
 香鈴は影月に身体を寄せる。
「今が幸せで。明日も幸せで。そんな日々がずっと続いていくんですの。……いいえ、ずっと続けるんですわ」
 日々は小さな悩みや不満を生むだろうが、共に過ごす幸福の前には隠し味のようなものにすぎない。そして幸福は待っているだけでは得られない。幸せになろうとする意志が結果を導くのだ。
 そのまま影月の頬に口づけると、香鈴は星空の下で煌くような微笑を浮かべた。
「はい、ずっと続けましょうね」
 約束の証に重ねられた唇は最初からひとつのものであったかのようにしっかりと溶け合う。
 ふたりの周りで虫の声が途切れなく続く。この暑さももう間もなく終わると告げるかのように――


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『氷晶の舞姫』(ひょうしょうのまいひめ)


ご都合主義満載の、ホラー風味話です。

冒頭にあるのは金の時代の人、趙元の「大暑」。
<強烈な真夏の太陽の下にいると瓶(かめ)の中で蒸されているみたい。
扇子の風なんてさっぱり役に立たない。
これはもう月の広寒宮の氷雪の洞窟にでも行くしかない>
みたいな詩で、ちょうどこの話と合うなあと引っ張り出しました。


『氷晶の舞姫』という物語、
ストーリーを優先するなら
もっと前半を短くまとめるべきなんですが、
影香色が薄くなるのであえてそのままに。
書き上げてから思ったのですが、
前半の
「夏バテの影月を心配した香鈴が涼しい洞窟に連れていく。
香鈴の気遣いに感謝した影月とらぶらぶ」……だけで
二次の影月と香鈴の話なら十分成立したなあと。
二作分お楽しみいただけるお得な一品……になっているといいのですが。


書いているうちにだいぶ変更したのが舞姫の設定です。
最初は香鈴より年長の二十歳前後の女性のつもりでしたが、
話をさせてみると幼くて。
明確に書いていませんが十五にもなってない少女になりました。
教養もあまりない設定なので回想シーンでの文章に困りました。

流していただければいいことですが、
距離の単位に「里」を使用していますが、中国では一里が500mらしいです。
なので軽く5キロ以上歩いてるんだよ、という。
あと。
薬膳料理って深いわ(笑)
心残りはお弁当だったので汁気の多い冬瓜のメニューを諦めたことでした。

昨年書いた『反魂譜』の反省から次はもっと怖い話を書こうと誓ったのに、
あまり成長がありません。
生きている人間が一番怖いと思っているせいかも? 


しかし毎年この手のトラブルに巻き込まれていては影香もたまりませんね(苦笑)

少しでもお楽しみいただければ幸いです。