歓びに笛はうたう
(よろこびにふえはうたう)



 ぴょろひろり〜。

 その怪音が聞こえた時、庖廚で点心の生地を作っていた香鈴は、うっかり力が入りすぎて麺棒を俎板から落としそうになった。
(あ、あの音は――っ!)
「龍蓮様っ!」
 粉だらけの手で勢いよく庖廚の窓を開けて叫ぶ。
「どうしていつも、門から入ってらっしゃらないんですっ」

 ぴろりろ。

 短く笛が答える。
「客間に入ってお待ちくださいませっ!」
 それだけ言うと、傍らにあった蒸籠を鍋の上に置く。
「これでは、足りませんわね……」
 櫂瑜の家人に、慌てて夕食の献立を増やす相談をし、手を洗って蒸しあがったばかりの饅頭を皿に取り、茶器を用意して客間に向かった。


 客間に不意の客人は素直に待っていた。何故か窓から半身を乗り出して庭院を見ていたが、放っておいてさっさと盆を置いて茶の支度をする。
「お庭院には、影月様はいらっしゃいませんわよ?」
 音もなく龍蓮は椅子に近づき、さっそく饅頭に手を伸ばす。
「もうすぐお夕飯ですし、その頃には影月様もお帰りですから、あまり召し上がりすぎないでください」
 濃い目に入れた緑茶を龍蓮の前に置く。
 ほかほか湯気をあげるできたての饅頭を一口味わうと、龍蓮はうなずいた。
「うむ。そなたの饅頭も、ほとんど心の友其の一の饅頭に追いついたようだな」
 これが龍蓮なりの褒め言葉なのはわかる。そして龍蓮の舌が肥えているのも事実だった。
「それは……ありがとうございます。でも、秀麗様にはまだかないませんわ」
 ふいに思い出したことがあり、香鈴は断りを入れて一旦中座した。だがすぐに戻ってきたときには――。
(も、もう、お饅頭がございませんわっ)
 早業であった。
 だが、出したときからそうなるのではと思っていたこともあり、何も言わずに取ってきた手巾を手渡した。
「これは何だ?」
「龍蓮様はこの地方の秋祭りの風習をご存知ですか?」
「たしか……手作りがどうとかいう風習か?」
「そうですわ。大切に思う方たちに、手作りの品をお渡しするんですの。それは、わたくしが龍蓮様用に作ったものですの。よろしければお受け取りください」
 正直、龍蓮は今のところ香鈴にとって『大切な人』未満である。だが、どうせこれからも龍蓮は影月のところに出没するであろうし、最近ではだいぶ慣れた自覚もある。
(影月様の大切な方ですから、わたくしにとっても大切な方……になるはずですわ)
 希望は未来に託そうと思う。傍迷惑ではあるが、嫌いなわけではない。
 香鈴の言葉と手にした布に、龍蓮は少し変な顔になった。
 だが、手巾を広げ――。
「ややっ、これは――っ!」
 と一声叫ぶと、やおら笛を取り出し、

 ぷぽぺー。

 と、吹いた。このあたり、さすが常人とは違う。
「ふっ。我が笛も歓びの声をあげておる」
「それは――、お気に召していただいたということですの?」
 笛の音に、あやうく回収しようと手にした皿を落としそうになりながら、香鈴は聞いた。
「そなた、裁縫の腕もさることながら、絵画的素養もあるとみえる」
 たぶん、褒めてくれているのだ。
 そう判断して、香鈴は夕食の支度をするからと、龍蓮を残して客間を辞した。


 その後龍蓮は、当たり前のように帰宅した影月に纏わりつき、人一倍夕食を平らげ、またしても影月の茶請けに用意した饅頭を横取りし、時折怪音を轟かせ、州牧邸にて居候を決め込んだが、数日してあっさりと旅立つ旨を告げた。

「次からは、おいでになる時もお帰りの時も、早くからお知らせくださいませっ!」
 いきなり立つと言われた香鈴はぷんぷんと怒りながら、わざわざ蒸しあげた饅頭を包んで持たせる。
「次回までに、新曲『歓びに笛はおどる』を完成させておくゆえ、そなたに披露しよう」
「……お気持ちだけで結構ですわ」
 ようよう返答した香鈴とは対照的に、
「また来てくださいね、龍蓮さん」
 などと影月は、少し寂しそうに言う。そんなことだから龍蓮がつけあがると思うのだが、香鈴はある意味諦めの境地に達していた。
「必ず訪ねよう、心の友其の二よ。それでは」
 そうして龍蓮は、いづこともなく立ち去った。


 門まで出て龍蓮を共に見送っていた影月がぽつりと言う。
「人間、どんなことにも慣れるもんですねー」
 それは、もちろん龍蓮のことであろうが、周囲を振り回す言動についてなのか、奇抜な衣装についてなのか、はたまたあの迷惑極まりない笛のことなのか、それとも龍蓮の存在そのものについてなのか、香鈴はしばし悩んだ。
「今回龍蓮さん、香鈴さんにすっごく感謝してましたよ」
「そうでしょうか。いつもと変わりはなかったようですけれど」
「龍蓮さん、手作りの物を個人的にもらったことなかったそうなんです。それも嬉しかったみたいなんですけど、僕ももらったって、お互い手巾を見せっこして――」
 ふいに影月は苦笑をこらえるような顔をする。
「あの図案はすごかったですねー。龍蓮さん、大喜びでしたよ。僕は……ちょっと複雑でしたけどー」
 刺繍入りの手巾を影月初めとする数名に配った香鈴だったが、相手によって図案は替えた。それぞれの印象や、好きなものなどを考えて図案にした。その中で一番頭を悩ませたのが、龍蓮用の図案だった。
 あの龍蓮の独特の『風流』感性に合わせようとは思わなかった。合わせることなどできそうにもないが。万一、合ってしまうようなことがあれば、何かに負けたような気になるだろう。
 そんな龍蓮的感性風のものなど、作りたくもないし、仮にも筆頭藍家の御曹司に贈る気にもなれなかった。
「わたくしの知ってる龍蓮様のお好きなものを集めてみましたの」
「きっと龍蓮さん、大切にしてくださいますよ」
 そうであればいいと、香鈴は思った――。


 琥漣からふらふらと道を行き、時に笛を奏でながら進んでいた龍蓮は、ふいに立ち止まって懐に手を入れ、香鈴からの手巾を取り出す。その手つきは、いかにも大切なものを扱うかのようにそっと行われた。
 手巾の四隅には、それぞれ別の図案が刺されていた。
 ひとつは、横笛。
 ひとつは、饅頭。
 そしてあとのふたつには――。
「心の友其の一、其の二よ。共に旅をしよう」
 簡略化されてはいたが、しっかりと特徴を掴んだ秀麗と影月がいた。
 香鈴、渾身の一作である。
「ふむ。次に会う時には、香鈴にも友の称号を授けるべきか。その場合、親しき友でよいだろうか。それとも、心の友其の四を授けるべきか――」
 授けられた方の感想など頓着せず、龍蓮は考える。
 臆面もなく龍蓮を叱りつけるようになり、時に遠慮もなく髪を引っ張り、怒りながらも饅頭や手巾を用意してくれた年下の少女は、やはり怒りながら受け入れてくれるような気がした。


 どこか昊の高いところで、鳶が鳴いていた。
 その声は龍蓮の笛の音に、少し似ていた――。

目次




















『歓びに笛はうたう』(よろこびにふえはうたう)

『葛篭をあけて』同様、『金の衣―』の後日譚です。
せっかく用意したんだから、龍蓮にも渡そう。
でも、龍蓮に渡すならどんな柄?
…と考えたらできた、一発ネタです。

しかし、龍蓮は使いどころがむずかしいわ。

なんだかんだで、龍蓮と香鈴も仲良く(?)なるかな、と。
どちらかといえば、香鈴次第なんですけどね。