空騒ぎ
(からさわぎ)
 



 それは、ほんの他愛のないことが原因だったりする。
 例えば、ちょっとしたクセ。一度気になってしまうと、気になってしかたなくなったりする。
 もしくは、我慢の限界。普段なら流すなりなんなりできることでも、いきなり臨界点を越してしまったりする。
 ふたりの乙女が愛しい相手に切れてしまった理由はそのあたりにある。
 おまけに、その日は朝から猛暑。苛々の増大もいたしかたなかったかもしれない。


 茶家本邸の場合、それは朝食の席で起こった。
 仕事はいつも夜中までかかるは、いざ横になったら寝苦しくて熟睡できないはで、茶克洵氏(十九歳)は朝から元気がない。
「克洵様、しっかり召し上がって、本日もがんばりましょう」
 向かい合って座る妻の春姫(十七歳)は、汁物をすすめながら夫を励ます。
 しかし往々にしてこの夫、暗黒星雲まで勝手に堕ちていってくれる。
「がんばる? 僕ががんばったところでどうにもならないことだってあるさ。そういうことの方が多いんだ。だいたい子供のころから腕っぷしで草兄上、顔や頭や要領のよさは朔兄上にかなわなくて。今だって男として燕青さんや静蘭さんたちよりものすごく格下で」
 克洵の落ち込みはいつものことなので、適当に吐き出させるのも春姫の日課である。
 そうして口でどうこう言いながら、自分がやるべきことは、例え泣きながらであっても、どんなに要領悪くて時間がかかっても、ひとつひとつ確実にやりとげていく。
 春姫はそんな克洵を心から愛していた。
 しかし。
「春姫だって、どうせ選ぶなら燕青さんや静蘭さんにしとけば良かったって、思ったこときっと何度もあるよね」
 その瞬間。何かが切れた、と後に春姫は語る。
 春姫だって、それなりに我慢していることはあるんである。
 毎日よく眠れないのは春姫も同じ。しかもここのところ、夫婦の時間なんてものもほとんどとれない。……いや、まあそれはともかく。
「……つまり、克洵様はわたくしが他の男性に心奪われるような、妻としての資格がない女だとそう思っておられるわけですね」
 その時、克洵は、真夏だというのに強烈な冷気を感じた。
「え、いや、そうじゃなくって」
「克洵様が春姫を信じていただけていないこと、よく判りました。この春姫、それではただ今より州牧邸に滞在させていただき、間近で燕青様その他の素晴らしい男性の男ぶりをとくと確かめて参ります!」
 勢いよく立ち上がった春姫は、そのまま振り返りもせずに足早に室を出た。
 後には克洵の
「春姫ーーーーーっ!!」
 という虚しい叫びだけが木霊していた。


 州牧邸の場合、それは登城を見送る玄関先で起こった。
 杜影月氏(十四歳)は、寝不足の目をしかめながら、昊を見上げた。今日も暑くなりそうである。
 そんな彼を見送る香鈴嬢(十五歳)の目には、心配そうな色が浮かんだ。
「毎日暑くて食欲も落ちてらっしゃるでしょう? 今夜は影月様のお好きなものを用意してお待ちしますわ」
「それは楽しみですー」
 影月はにこにこと微笑み、少し斜めにそれを受ける香鈴も満更でなく。
 そこまでは良かったのだ。
「それでは影月様? 一番お好きなものはなんですの?」
「え? 一番ですか? うーん、香鈴さんが作ってくださるんなら何だって美味しくて好きですけど」
 菜の腕を褒めてくれるのはいい。しかしこの時、香鈴が欲しかったのは具体的な菜名であった。
「ですけど、その中でもやはりお好みのものがございますでしょう?」
「この間のお魚の蒸したのも美味しかったですしー。おとといの鶏と葱のお菜も美味しかったですしー。ゆうべの八宝菜もー」
 たしかに具体的だが、そんな作ったばかりのものを言われても困る。しかも、それでもあまり食が進んでいなかったではないか。
「一番お好きで、最近召し上がっていないものはなんですの?」
「え、やっぱりいきなり一番は決められませんよ」
 影月の好きな菜を作りたいと思うのは、純粋な好意で。喜んでもらいたいし、美味しく食べてもらいたいし、夏ばてなどして欲しくもないし。
 動機は純粋だった。しかし。
「それではお作りすることなんてできませんわっ!」
「えーと。香鈴さんにおまかせというか。あ、香鈴さんの好きなものがいいです!」
 影月は名案とばかりに顔を輝かせた。
 だがその瞬間、香鈴は切れた。
 毎日暑いし、影月の帰宅は変わらず遅いし。公休日だとて、まともに休みだったのはどのくらい前だったか。ましてや二人だけで過ごせた休日など、数えるほどもない。
 そういうのも原因だったろうが、何しろ献立を考えるのに休みはない。
「わたくしが聞きたいのはそういうことではございませんのっ! ……わかりました。影月様が一番お好きな菜を思いつかれるまで、わたくし、茶家にお世話になることにいたします!」
 それだけ言い切ると、香鈴は影月に背を向けて、奥へと突き進んだ。
「えっ!? 香鈴さん、それどういう意味ですかっ!?」
 香鈴の答えはない。
 そこに表から声がかかる。
「おい、影月。そろそろ登城しないとまずいぞ」
「今、行きます」
 燕青に答えた影月は邸に向かって叫んだ。
「香鈴さん、お話は帰ってから――!」
 その声が香鈴に届いたかどうかもわからぬまま、影月は州牧邸を後にした。


 自室に帰り、手荷物を用意しながらも香鈴の苛立ちは止まらなかった。
 ささいなことで自分が怒っている自覚はあるのだが、どうにもこうにも腹が立つ。
 州僕邸の家令に茶家に行く旨伝えると、日よけの布をかぶって歩き出した。さすがに理由が理由であるし、こんなことに州牧邸の軒は頼めない。
 建物の影から一歩踏み出すと、そこは陽炎がたつほど。慌てて日陰を選んで歩き始める。たちまち流れ出す汗に、香鈴はたまらず辟易した。
 州牧邸から茶家に行くには、琥lの街をほぼ突っ切ることになる。腐っても州都。琥lとてそう狭いわけではない。それでも歩いていくのが無理な距離ではなかった。こう、暑くさえなければ。

 香鈴はそれでも、なんとか琥l中心の大通りまで歩いた。怒りも汗で流されてはいたが、もはやこうなると意地である。
「そこにいるのは香鈴ではないですか?」
 ふいに凛とした声が耳に届いて、香鈴は足を止める。そうすると一層暑さが襲いかかった。
「春姫様!? まあ、どうなさいましたの?」
 州僕邸の用事を日々こなす香鈴とは違い、春姫ならば日がな茶家の奥にて過ごしているのが普通だ。しかも共の姿もなく、ただ一人で歩いている。その上、何やら香鈴と似たようないでたちである。
「州牧邸を訪ねるところでしたの。香鈴は買い物ですか?」
「いえ。わたくしは茶家にお邪魔しようかと……」
「それではわたくしに用でもありましたか?」
 香鈴は答えようとしたが、心底暑さに嫌気がさしていた。
「……春姫様。あちらでお話の続きをいたしません?」
 香鈴の指先を追った春姫は深くうなずいた。
「良い案です。さっそく参りましょう」
 軒先に『氷はじめました』の文字が揺れる茶店へと、二人はいそいそと向かった。


 砕いた氷に蜜をかけただけの氷菓だが、なによりの夏のご馳走である。口に含むとすうっと溶けて、甘い液体が喉を潤す。
 二人の少女も夢中でさじを動かしていたが、器の底が見える頃にようやくため息とともに手を止める。
「夏はこれに限りますわね」
「まったくです。幼い頃も克洵様とよくいただいたもの……」
 途中で言葉を切って表情を硬くした春姫に、香鈴の心は騒いだ。
「春姫様? もしや、克洵様と何か?」

「まあ! 克洵様、それはいけませんわ! 春姫様がどれほど克洵様お一人を想っていらっしゃるか、他の殿方など選ばれるはずもないか、この香鈴、よく存じております!」
 香鈴は我が事のように顔を真っ赤にして怒り出した。
 自分のことで他人が同調して怒ってくれた場合、案外本人は冷静になってしまうものだ。
 春姫もまた、自分の怒りが治まってしまったのを感じた。だが、自分のために怒ってくれる香鈴が愛しくて、そっと目を細める。
「香鈴が聞いてくれたので、わたくし、少し落ち着きましたわ。ところで、香鈴の用というのを聞かせてくれませんか?」
 今度は、やや別の意味で顔を赤らめながら香鈴は事情を話した。

「影月様はお優しさから言ってくださったんでしょうけれど、『何でも』とか『おまかせ』とかいうのは確かに許せない時がありますわね」
 春姫がため息とともに感想を漏らすと、香鈴もうなずいた。
「わたくしは、ただ、影月さまが召し上がりたいと思われるものをお聞きしたかっただけなんですの」
 春姫からの同意をうけた香鈴もまた、そっとため息をついた。

「それでは、これからどういたしましょう?」
 氷菓の空の器を卓の端に押しやって、春姫は首をかしげる。
「そうですわね。春姫様が州牧邸に、わたくしが茶家に、というのも変ですわね」
「それにです。克洵様も影月様も、きっと行き先を聞いてそれほど心配はなさってないのではないかしら。もっと別の場所を選んで、少しは心配させてみるのも良いかもしれません」
 春姫の発言になるほどとは思うものの、香鈴は反論する。
「たしかにおっしゃるように少しは心配していただくのも良いかとは思いますし、環境を変えればわたくしたちの気分も晴れるかもしれません。けれど春姫様。あいにく、琥lにそのようにお邪魔できる場所をわたくしは知りませんの」
 春姫もしばし考えるが、彼女とて茶家の外に知人がいるわけでもない。
「以前でしたら柴凛様のところをお訪ねできたのですが」
 柴凛が以前使っていた邸は、彼女が悠舜と共に貴陽に向かって以来、柴彰が使用している。知り合いとは言え、男性の一人暮らしでは訪ねにくい。
「いっそ、宿に泊まるというのはどうでしょう?」
「まあ! 思いつきませんでしたわ」
 いつのまにやら、すっかり倹約精神が身についてしまっていた香鈴だった。
「それでは、どこかよい宿を探すことにいたしましょう」
 二人の相談がほぼまとまり、茶店を出ようと席を立った時、ふいに声がかけられた。
「もしや、春姫様ではいらっしゃいませんか?」
 突然のことに二人は首を巡らせて発言者を見た。
「あなたは――」




「春姫ーーーーー!」
 叫び声と共に軒から転げおちるような勢いで州牧邸に克洵が駆け込んできたのは、すでに夜半を過ぎていた。
 すぐにでも春姫を追って謝りたいのは山々だったが、仕事を放り出すことは克洵にはできなかったのだ。おまけに、今日は通常春姫のこなしていた分の書類まで回ってきて、身動きも取れなかった。
 泣きながら克洵はがんばった。一刻も早く春姫の元へとそれのみ思いつめて。
 克洵は気付いていないが、確実に克洵の仕事処理能力は向上している。ただその分、新しい書類が増やされているので、結果として仕事に裂く時間は変わらないのだった。
「春姫はどこにっ!?」
 必死の形相の克洵に詰め寄られたのは、こちらもようよう仕事を終えて州牧邸に帰還したばかりの影月である。
「えっと、僕も今帰ったばっかりなんで……。ちょっと聞いてきますね」
 州僕邸の家令に尋ねたところ、本日、春姫は訪問していないという。更に、香鈴が朝から出かけたまま帰宅していないとも。
 今度青ざめたのは影月である。
「克洵さん! 茶家に香鈴さん行ってますっ!?」
「ごめんわからない。いつもだったらあいさつしてくれるんだけど、今日はあいさつもされてない――と思う」
 克洵の語尾が小さくなる。何せ本日は自分が食事を取った記憶すらない。
「克洵さんに会わずに、春姫さんと茶家のどこかにいるってありえますよね!?」
「ああ! そうかもしれない!」
 何せ、茶家は広い。本邸の他に離れもたくさんある。その中のひとつにいれば、克洵が気付くこともない。
「すぐ帰って家中探してみるっ!」
「僕も行きます!」
 慌てて軒に取って返そうとする克洵と、同乗を願った影月であったが、そこに涼しい声がかかる。
「お待ちなさい、二人とも。今、家人を茶家に遣いにやりました。春姫嬢と香鈴嬢がおられるか確認させますので、返事があるまでこちらにいらっしゃい」
「櫂瑜さまっ!」
 この暑いのに、少しも崩れたところのない私服姿の櫂瑜は、はるかに年下の若い二人をいざなう。一室に連れ込まれた克洵と影月の前に、ずらずらと食事が並べられていく。
「あなたがたときたら、一番栄養を必要とする時だというのに、食事もとっていないでしょう。きちんと食事を摂り、体力を蓄えて始めて、女性に手を差し伸べることができるのですよ」
 まったくの正論に言葉もなく、二人は気の進まないながら箸を動かす。味はまったくわからなかった。
 それでも、皿の中身をほぼ攻略し終えた頃、遣いに出されていた家人が戻ってきた。
「櫂瑜様、ただいま戻りました」
「ご苦労でしたね。いかがでしたか?」
「はい、茶家中を探していただきましたが、春姫様と香鈴さんはどちらにもいらっしゃいませんでした」
 家人の返答を聞いた二人の顔からは、たちまち血の気が失せた。
「しゅ、春姫ーーーっ!」
 宛てもなく闇雲に飛び出そうとする克洵をとっさに取り押さえながら、影月は家人に問いかけた。
「香鈴さんがここを出られたのはいつですかっ?」
「皆様が出仕されてすぐです」
 影月は克洵に振り返る。
「克洵さん、春姫さんが出ていかれたのはいつですかっ?」
「朝食の席で、だったけど――」
 影月はひとつうなずくと確認する。
「時間的にほぼ同じ頃ですね。となると、それぞれが家を出て落ち合っている可能性は高いです」
「じゃあ、二人は一緒にいるってこと?」
「可能性ですけど」
 再び飛び出していきそうな克洵にしがみついて影月は止める。
「克洵さん! とにかく、僕たちまでが飛び出すわけには行きません! いろんな人に頼んで二人を探してもらいましょう!」
 克洵を押し留めてはいるものの、影月とて焦りで顔色が悪い。
 そこに。
「なんだ? なんの騒ぎだ? あ、克、来てたんだー?」
 棍を担いだ燕青が、室に顔を出した。


「はあ? こんな時間まで春姫と香鈴嬢ちゃんが戻ってないって?」
 その場で食事を摂りながら事情を聞いた燕青は天井を仰ぐ。
「……そら、ちーっとまずいな」
「え、え、燕青さんっ!それはどういうことですかっ」
 半泣きの克洵を見下ろして、燕青は茶をすする。
「まあ、普段でもあの二人ならほっといても男寄ってくるし?」
 それだけで青くなる二人に視線をやりながら、燕青の表情が硬くなる。
「ただ、それだけじゃなくて、今は別の問題もある」
 燕青は、ここしばらく琥lに起こっている「かどわかし」について語った。
 この一月ほど、若い娘が行方不明という届けが次々と州城に集まっていた。
 年の頃は二十歳前後の娘ばかり。一部に目撃者もおり、攫われたというのが大方の見解であった。
「んで、最新情報な。さっき武官から、証拠を押さえたんで根城を包囲するって報告があった。捕物は今夜これから。場所は琥lのはずれ。どうする?」
「つ、連れて行ってくださいっ!」
「僕もお願いします!」
 すっかり食事を終えた燕青は立ち上がるとすぐに動き始める。
「櫂のじーちゃん、そんなわけで俺ら出かけてくっから。克、お前んとこの護衛にお前をしっかり護るように伝えろ。あと、捕物の邪魔はすんなって。影月は俺から離れるな。お前らに何かあっちゃ話にならないからな」
 克洵と影月は深くうなずき、一行は夜の街へと飛び出した。




 今宵の月は朧月。たよりない光の下、ぞくぞくと五十人ほどの武人たちが歩を進める。これ程の人数だというのに驚くほど静かだ。
 目的地が近づくと、武官の要、師団長は一行を停止させる。斥候を出すと、報告あるまで待機との命令が出た。
 琥lはこのところ街全体に活気が出始めていたが、このような郊外まではそれも届いていない。朽ちた建物がいくらか荒れ果てた土地に点在する。なんとも侘しい光景だった。
 根城と目されているのは、その中でも比較的大きな建物で、以前は大きな農場だったという。傾いた梁の下、黄色く灯火が揺れていた。
 風さえも途絶えがちの夏の夜。虫の声だけが耳につく。
 流れる汗は止まることもなく、じっとりとした暑さに身体中が不快でたまらない。
 克洵と影月のような、普段着でさえそうなのだ。しっかりと武装した武官たちの不快さは、影月らの比ではないだろう。それでも誰ひとりとして不平不満は口に出さない。彼らはこれが重大な局面であることを熟知しているのだ。
(香鈴さん、どうか無事で――)
 影月は我知らず祈っていた。

 時間のたつのがとてつもなく遅く感じられたが、やがてひそやかに斥候が戻ってきて報告する。
「賊の数は建物の中に十名ほど。娘たちを閉じ込めていると思われる納屋の前で見張っているのが四名。他に人のいる気配はありません。母屋の連中は少々酒が入っており、横になっている者もおりますが眠っているわけではなさそうです」
 報告を受けた師団長が指示を飛ばした。
「これから、包囲を開始する。一斑、納屋の包囲だ。二班以降は母屋の包囲。包囲が完了したら一斑は見張りを静かに倒せ。何より娘たちの安全を重視しろ。娘たちの確保が終わってから、母屋に一斉攻撃をかける。正面から二班。裏口から三班。四班と五班は左右の窓からかかれ」
 師団長は長く息を吐くと、最後に短く命じた。
「一人も逃がすな」

 影月と克洵は、燕青と共に一団の後方にいた。
「いいか、俺らは余計なことはしない。これは武官の仕事だから奴らに任せるんだ。あいつらが納屋を完全に手中にしてから、そこに向かう。納屋に入るのも母屋の制圧が収まってからだ。でないと足手まといになる。いいな」
 低い声で燕青が問うと、若い二人は真剣な表情でうなずく。もとより武芸のたしなみのない二人だ。加勢するなどとは思いもよらない。
 やがて、視線の先で武官たちが包囲のために動き始めた。


 納屋を押さえるまでにそれほどの時間はかからなかった。
 音もなく倒され、猿轡をかまされた見張りたちが転がる。
 見張りから奪った鍵を開け、何人かが静かに納屋に入り込んだ。
 やがて、合図が送られ、本格的に捕物が開始された。
 凶悪な賊とは言え、訓練された多数の武人が相手では、長くはもたなかった。
 燕青の後をついて納屋に近づいた頃には、ほぼ捕縛が完了していた。
 急ぎ、納屋に飛び込もうとした克洵を引きずり戻すと、燕青の棍が一閃する。
「こら! 手ぇ抜くんじゃねえよ。鼠が残っていやがったぜ!」
 打ち据えられた賊の一人が転がり出てくる。
「すまん! 燕青!」
「馬鹿野郎! とっとと縛っとけ」
 燕青は年下の二人を見下ろした。
「納屋からはもう危険な気配はねえ。けど、気を付けていけよ」

 納屋の中では、灯火があちこちに見えた。娘たちを安心させるためであろうが、危険を見極めるためでもあろう。
 中には、十四、五人の娘たちがいた。縛られていたと思われる縄は、武官たちに切られて足元に転がっている。他に、危害が与えられたような痕跡は見えなかった。
「春姫?」
「香鈴さんっ」
 克洵と影月は娘たちの中に意中の乙女を探す。
 しかし。
 どう探しても二人の姿はそこになかった。

 まず克洵が力を失って座り込み、つられて影月も膝を折った。
 様子を見てとった燕青が武官を捕まえ、捕らえられた賊の頭を連れて来させる。
「ちょっと聞きてえんだけど。今日攫った娘の中に、とびきりべっぴんで上品な二人がいなかったか?」
 猿轡をはずされた頭はしばらくだんまりを決めこんでいたが、燕青がそんな男に抑えた殺気を向けると、顔色を変え、たちまち話はじめた。
「今日は誰も攫ってねえ! そろそろ足がつきそうだってんで、琥lを出る支度してたんだ!」
「しっかり足ついてたけどな」
 頭を連れてきた武官の一人が、何事かを燕青に囁いて紙片を手渡した。「州牧邸から」と聞こえたような気もする。
 紙片に目を落とした燕青は、年下の二人に視線をやると低く呼びかける。
「克、影月。おまえら州牧邸に戻れ」
「燕青さんっ!」
 悲鳴のような二人の抗議は無視された。
「いいか。この場でおまえらができることはもう何にもねえ。手の開いた武官に引き続き捜索を頼むから、連絡あるまで州牧邸で身体を休めてろ」
「燕青さんはどうするんです?」
「俺は並の武官より体力あるから大丈夫。けど、おまえらが倒れたりしたら、今後誰が嬢ちゃんたちを探せる?」
 たちまち手配された馬に乗せられ、二人は州牧邸に戻された。




 戻った州牧邸では燕青からの伝言を受け、問答無用で二人は臥台に追いやられる。
 だが、目を閉じると愛しいひとの最悪の状態ばかりが想像され、結局朝までの短い時間を二人はまんじりともできずに過ごした。
 公休日で仕事がないのはありがたかった。私情を挟むのはもってのほかとは言え、今日の二人に仕事に集中できたかどうかは怪しい。
 魂の抜けたような顔を見合わせて。二人はため息をついた。
「なんか、情けないですよね。なんにもできることがなくって」
 影月の表情も途方に暮れてたよりない。泣き続けた克洵はと言えば、瞼が腫れあがっている。
「ぼ、僕はもう、春姫を怒らせるようなことは絶対言わない。だから……」
「僕だってそうです……」
 誰よりも深く克洵の気持ちがわかる影月も、泣き言を口にしそうになる。
 願うのはただ。
 無事に。
 そして側にいてくれるだけでいいのに。
 やがて現れた櫂瑜は、何も言わずにふたりを朝食の席に向かわせた。そこには、いつ戻ったのか眠そうな顔の燕青もいた。
「眠れたか? ――まあ、無理もねえけど。でも横になってるだけでも違うからな。幸か不幸か今日は休みだし。徹底的にやれることやろうぜ」
 さすがに通夜のような朝食の時間も過ぎ、燕青は櫂瑜に近づいて何事かを囁いた。だが、櫂瑜が静かに首を振ったので、労わるような視線を年下の二人に投げかけて、そのまま室を出て行った。


 そんな折であった。玄関先で何やら声が聞こえたのは。
「ただいま帰りました」
「お邪魔いたします」
 どうしたって聞き間違えのない声に、影月と克洵は飛び上がった。
「春姫ーーーーっ!」
 これが夢でも決して離すものかと、克洵が春姫を抱きしめる。
「克洵様?」
 戸惑う春姫の声を克洵の泣き声が掻き消した。
 香鈴は何事もなかったかのように影月を見上げている。
「影月様?」
 影月は無言で香鈴の両肩を掴むと、いつになく厳しい表情で見つめる。ようやく開かれた口から出たのは――。
「あなたたちはっ! どれほど周りを心配させたと思ってるんです! 小さな子供じゃないんですから、行き先ははっきり告げて! 暗くなる前に帰るのが当たり前でしょう!」
 滅多に見ることのない影月の激昂に、一同は圧倒された。
 しかし、我に返った香鈴は反論を試みる。
「あの、影月様? 一晩空けましたのは申し訳ありませんでしたけれど、わたくしたち、きちんと行き先はお知らせいたしましたわ」
「州牧邸にも茶家にもいなかったじゃないですかっ!」
 香鈴は春姫と目を合わせてから不思議そうに影月を見る。
「いえ、そうではなくて。お昼ごろでしたかしら。琥桃飯店に泊めていただく旨、遣いを出しましたのよ?」
 春姫がうなずいて続ける。
「以前茶家でお祖母様に仕えていてくれていた侍女の曹杏が声をかけてくれて。飯店を始めたから是非にと誘われましたの。わたくしはお祖母様から、香鈴は櫂瑜様から、それぞれゆっくりしてくるようにとのお返事もいただいております」
 香鈴の懐から取り出された書状には見慣れた美麗な書体。
「櫂瑜様っ!?」
「お祖母様……」
 春姫から文を見せられた克洵もまた、力を失ってよろめいた。

「おや、おかえりなさい、香鈴嬢。いらっしゃい春姫嬢」
 そこににこにこと微笑を湛えた櫂瑜が現れた。
「ただいま帰りました、櫂瑜さま。あの……」
 問いかけようとした香鈴の言葉を更なる影月の問いが隠す。
「櫂瑜様っ! 二人の行き先を知ってらしたんですかっ!?」
「さて。寄る年波には勝てませんねえ」
「……櫂瑜様にはその言葉、当てはまらないと思います」
 影月の声は怒りを含んで低い。
「信じていただけないようですね。淋しいことです」
 扇を揺らめかせる櫂瑜は、まったく動じていない。
「捕物など予想外の展開でいささか大事になってしまいましたが、あなたがたにこちらのお嬢さん方がどれほど大切か思い知らすいい機会かと思いましてね」
「だからって、櫂瑜様っ!」
「おまけに、少々観察不足ですよ。これほどの素晴らしいお嬢さん方が本当に行方不明であったなら、私がのんびり手をこまねいていると思いますか?」
 女性至上主義のきらいのある櫂瑜だ。その時には徹底した行動を取るに違いないと、ようやく影月は思い当たった。
「さて、十分反省できましたね? 今後はささいなことで大切な女性の気分を損ねたりしてはなりませんよ。そうそう。もちろん、かどわかしを試みた無粋な輩はきっちり思い知らせるよう手は打ちましたから」
 涼しい顔でそうして櫂瑜は立ち去って行った。

 後に残されたのは戸惑いを隠せない年若い男女四人。
「お祖母様もだいたいおんなじなんだろうなあ……」
 力なくうつむいた克洵の手をそっと春姫が握る。
「ご心配いただいたのですね、克洵様。わたくし、香鈴と共に一晩頭を冷やしまして、克洵様にもっと信じていただけるよう努力しようと思いましたの」
「春姫、僕の方こそ考えなしの言葉で君を傷つけてしまって――」
「もうよろしいのですよ。さあ、克洵様、一緒に帰りましょう」
 うん、とうなずくと、克洵は手を振って、春姫と共に州牧邸を後にした。

 うっかり怒りにまかせてしまった影月は、なんとはなしに気まずい思いで香鈴を盗み見る。
「香鈴さん、その、さっきは怒鳴ったりしてすみません……」
 香鈴はそんな影月を見て、そっと近づく。
「眠っていらっしゃらないんですのね? ひどいお顔ですわ」
 影月は深くため息をついた。
「香鈴さんがとんでもない目にあってたらどうしようかと思って。そうしたら眠るどころじゃなかったですー」
「わたくし、ここにおりますわ」
「はいー。香鈴さん、無事で本当によかった――」
 影月が心からの微笑みを向けてくれたので、嬉しくなった香鈴は少し素直に振舞うことにした。影月の手を掴むと、そのまま奥へと引っ張っていく。
「香鈴さん?」
「お室に戻ってくださいな。少し、お休みください。もうどこにも参りませんから」
 そうします、と影月は素直に答える。
 影月が臥台に横になったのを見届けると、香鈴は窓から光が差し込まぬよう衝立を動かした。
「あの、香鈴さん?」
 眠そうな影月の声がして、香鈴は枕元に近づく。
「なんですの?」
「一番好きなものの話なんですけどー」
「思いつかれました?」
「それどころじゃなかったです。すみませんー」
 香鈴は苦笑しながら横たわった影月を手にした扇であおいでやる。
「いいんですのよ、もう。思いつかれたらまた教えてくださいませ。昨日、琥桃飯店で新しい菜を教えていただいてきましたの。今夜、お夕食にお出ししますわね」
 送られてくる風に目を細めて、影月は香鈴の扇を持たない手を握る。
「楽しみですー。あ、それでですねえ。食べ物じゃないんですけど、僕がやっぱり一番好きなのはどう考えたって香鈴さんかなあって……」
 たちまち顔を赤くした香鈴が何と答えようかと影月を見ると。
 当の相手は大切そうに香鈴の片手を握ったまま、寝息をたてていた。
「あなたときたら……」
 香鈴は起きている影月が滅多に見られないような慈愛のこもった眼差しを注いだ。


 開け放たれた窓と扉の間を風が通り抜けていった。
 厳しい暑さももう僅かの辛抱だ。
 いつしかつられるように眠ってしまった香鈴にも、心地よい風が吹く。
 目が覚めたら、きっとそこに当たり前の、でも何より大切な人の姿を見つけるだろう。
 小さな喧嘩は繰り返されるかもしれないけれど、そんな他愛のない幸せがそこにはあるのだから――。

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『空騒ぎ』(からさわぎ)


明るくて、ちょっとドタバタみたいな話が書きたくて。
そうなると、影月と香鈴だけじゃ淋しい(?)ので、
克洵と春姫も巻き込みました。
茶家の若夫婦も、やっぱり大好きです。
克洵って、夫としてはなかなかいい選択だと私は思っています。


さて。新たに話を書くたびに、でっちあげも増えます。
州牧邸と茶家の場所。
そんなもの知らんがな(笑)
ただ、茶家ほどの大きな邸だと場所も取るから、
街中から少しはずれた所に建てました。
州牧邸は州城からそれほど遠くはないと思っています。

でっちあげその2は。武官の扱い。
州に属する武官の組織、さっぱりです。
ここでは、賊相手ということで、一個師団で50人としましたが、さて?
変でも流していただけると幸い。

説明不足で申し訳ないんですが、燕青は途中で櫂瑜から香鈴たちが無事なことを知らされています。
さぞ、言いたかったでしょうねえ。
櫂瑜も英姫同様、本当は喰えない爺様だと思っております。

ストーリーを優先したので甘々にあまりなりませんで。
そうして、香鈴の最初の怒りの原因ですが、多少弱いかとも思いましたが、主婦の方とか、一人暮らしとか、献立に頭を悩ませる方になら判ってもらえるかと。
ちなみに、私は壊滅的に料理は苦手でほとんどしないんですけど(苦笑)。