鵲の渡せる橋
(かささぎのわたせるはし)


 繊繊擢素手
 礼礼弄機抒
 終日不成章
 泣涕零如雨


 雨は一向にやむ気配を見せない。
 香鈴は一人窓辺で昼だと言うのに重く暗い昊を見上げる。
「まるで織女(しゅくじょ)の涙のようですわね。自身の涙で天漢(あまのがわ)が溢れなければよろしいのですけれど」
 女性がその裁縫の上達を天上の織女にあやかって願う乞巧奠(きっこうでん)が近いからか、自然香鈴は七夕の織女と牽牛の物語に思いを馳せていた。
「一年に一度しか会えないなどと、天帝はいじわるですわ。わたくしなど、たった五日でも淋しくてなりませんのに」


 この年、上治五年の梅雨は長く続いた。
 琥lの一部に沿うように流れるl珠河(れんじゅこう)。その流れははるか大海まで続いている。常ならば穏やかな流れが、この長雨で様子が変わった。琥l付近では水嵩が上がった程度でしかないが、下流においては堤を切って河が氾濫したと言う。
 大昔には何度も氾濫し、その暴れ振りが知られていたl珠河も、ここ数十年はまったく優等生のごとく、ただおとなしく流れているだけだった。だがそれは仮初でしかなかったのだと、今、人々は思い知らされていた。

「河の堤を何としてでも復元しないと。被害は大きくなるばかりですし」
 五日前、琥l茶州州城にl珠河氾濫の知らせがもたらされた。
 l珠河の下流は肥沃な土壌の広大な農地が広がっている。つまりは茶州の米蔵である。ここが水没するようなことを許せば、この年の茶州の食糧難は目に見えている。
 幸いにも現地からl珠河の増水への懸念の声が早くから届けられて、住民は早々に避難しており人的被害は出ていない。また、近日中に補強工事が始まる予定で堤を補強するための土嚢は準備されていた。ただ人の思惑よりも若干早くl珠河は暴れだしたのだった。
 急遽近隣の民を駆り出して、通常より農地に近い場所に第二の堤を築き始めている。だがもちろんそれだけでは十分ではない。このままでは下流にかかる橋すら流れかねないと、そちらの補強も同時に進められている。橋が流れれば人々の生活にも物流にも影響は大きい。また、避難させた低地住民のために必要な物資も手配しなければならない。

「しばらく州城から帰れないかもしれません。それに、現地に行く必要もあるかもしれませんし」
 知らせを聞いた影月は香鈴にそれだけ告げると、櫂瑜・燕青と共に州城へと慌しく向かった。三名とも高官であるし、その責任は重い。
 送り出す際、無理をせぬよう告げたかったが、影月が自分だけ枕を高くして眠れるような性格でないことはよく判っている。きっと倒れるまで、いや倒れても努力を続けるだろう。
 そして、影月が州牧邸に戻らなくなって、今日で五日が過ぎた。



 香鈴は振り続ける雨を眺めながら何度目かも判らぬため息をつく。
 そんな折、耳慣れぬ音を拾った。窓の向こう、州牧邸の庭院の方からだろうか。
 一度きりであれば幻聴だと思っただろう。だが、その音は断続的に耳に届く。あまりにも気になったので、笠を片手に香鈴は庭院へと向かった。
 回廊さえも長く続く雨のため外にいるのと変わらないありさまで、遮るものもない戸外では雨は一層激しく、香鈴は蓑を纏わなかったことをすぐに後悔する。
 たちまち水を吸って重みを増した裾をからげて、それでも音のする方向に向かって香鈴は進んだ。庭師の芹敦がせっせと手入れしている草木も、今は激しい雨に打たれてうなだれているようだった。音は、そんな木の影から聞こえる。
「鳥……?」
 ついに発見した音の主は、濡れて傾いだ草の上で弱々しく翼を動かしていた。
 一目で怪我をしているとわかる動きに、香鈴は思わず近寄った。しかし、飼われているわけでもない野生の鳥は、そんな香鈴に気がつくと威嚇するように自由な翼を広げて後ずさる。
(どうしましょう?)
 そのまま見捨てる気にもなれず少し考えた末、羽織っていた披巾を広げて鳥にかぶせる。視界を奪われた鳥はたちまちおとなしくなり、香鈴は巾ごと両腕で鳥を抱え上げて、慌てて邸の中に戻った。

「まあ! 香鈴嬢、そんなに濡れてどうしたんです!?」
 雨の吹き込まない場所に着いて香鈴が一息ついていると、家政を預かる文花に見つかった。
「庭院の方から物音がするので様子を見に行きましたの。それで文花様、怪我をした鳥を見つけてしまったんですけれどどうすればよいでしょう?」
 香鈴が両手で抱える布の包みに文花は視線を向けた。
「その巾の中身が鳥なんですね? そう……ともかく私が預かって居間におりますから、あなたはすぐに着替えていらっしゃい」
 香鈴はうなずいて、鳥を巾ごと預けて自室に戻った。

 着替えをし、濡れた髪を拭いて纏めなおした香鈴が居間に行くと、文花ばかりでなく執事の尚大までがそこにいた。
「籠を見つけてきたぞ」
 庭師の芹敦が大きめの籠を持って現れ、文花はその中に何枚もの布を敷く。巾をとりはずして、暴れようとする鳥を抱え込んだ尚大が香鈴に気が付いた。
「ああ、香鈴嬢。どうやら翼が折れているようですね。他は元気そうですし、治るまでお世話されてみますか?」
「よろしいんですの? 櫂瑜様もお留守ですのに」
 香鈴は尚大の横で鳥を覗き込む。
「この雨ですから櫂瑜様も反対はなさいませんよ。おまけに、これが普段であればまず影月様が放っておかれないでしょう?」
 尚大の発言に赤くなりかけた顔を振って、香鈴は精一杯平静を保って答える。
「わたくしも、放っておくなどできませんけれど、どうやって看病すればよろしいんですの?」
 香鈴はこれまで鳥の世話などしたことがない。香鈴の反対側から鳥の様子を見ていた芹敦が口を開いた。
「鳥っていうのは治癒が早いもんだ。放っておいても通常はなんとかなる。怪我で体温が下がっているから温めて、これは羽が折れているようだから翼は固定してしまったほうがいいだろう」
 庭師という職業柄、芹敦は鳥と接点が多い。尚大に抑えさせた鳥の翼を広げて様子を見、畳んで布で固定し始めた。
「食べ物や飲み物はどうすればよろしいんでしょう?」
 香鈴は虫を食べる鳥もいたことを思い出し、途方にくれる。
「こいつなら雑食だから穀類をすりつぶしてやればいいさ」
 穀類で済むならありがたいと正直香鈴は思った。できれば虫は見たくもない。
「芹敦さん、詳しいんですのね。それで。これはなんという鳥ですの?」
「嬢ちゃんは知らなかったのかい? こいつは鵲(かささぎ)だな」
 芹敦の言葉に、香鈴は改めて尚大の腕の中の鳥を見つめる。頭や羽は黒々としているが、肩先と腹が見事に白い。カラスにも似ているがカラスよりはちいさかった。
「わたくし、鵲というのは真っ白な鳥だと思い込んでおりましたわ」
 香鈴の発言に文花が笑った。
「それはきっと天漢を渡すという物語の印象のせいでしょう」
 まったくその通りであったので、香鈴はうなずく。織女は鵲が翼を広げて作る橋を渡って牽牛との逢瀬を果たすのだ。
「七夕の夜までによくなってくれるといいんですけれど」
「だいたい十日前後で飛べるようになるから、間に合うんじゃあないかの」
 芹敦もまた笑いを含みながら治療を終えた。

 鵲は香鈴の室で預かることとなった。芹敦からできるだけ暗く、静かにしているようにとの注意を受け、籠に掛けられる布を用意した。密封できる容器に湯を入れ、敷き布の下に入れる。小皿に水と穀類を入れたものを用意したが、見ている間には口をつけなかった。だが、目を離している間にきれいに平らげてくれていた。
「食欲があるんでしたら、きっと大丈夫ですわね」
 籠を置いた卓子の傍の椅子に腰を下ろして香鈴はつぶやく。
 夜が来ようとしていたが、雨足がゆるむ気配はまったくなかった。



 翌朝から香鈴は早朝に起き出すはめになる。まだ夜明け前と言ってもよい時間に、鵲の泣き声が響くからだ。
 その鳴き声は、「ちちち」とも「かちかちかち」とも「けけけ」とも聞こえる。正直、美しい鳴き声というより騒々しく、同じ室内ではあまり嬉しくなかった。
 浅い眠りから覚めた香鈴は水や餌を与え、汚れた敷き布を交換した。
 鵲はカラスの仲間で頭もたいへん良いという。そのせいだろうか。香鈴が世話をする時も逃げたり暴れたりすることはなくなった。
「折れた翼が治ればすぐに放してさしあげますから。そうしたら織女を牽牛に会わせてさしあげてね。でも、こう雨ばかり続いていると難しいですわね。もっとも、あなたも普段は雨の日でも外で暮らしてるんですから平気かもしれませんけれど。巣は雨がかかったりはしませんの?」
 なんとはなしに鳥に語りかけることが多くなった。もちろん鵲が答えることなどないから、芹敦に話を聞いたり、書庫から本を探し出して読んだりして、香鈴もそれなりに鵲について知るようになった。
「朝から鵲の声を聞くといいことがあるそうですけれど、本当ですの?」
 それならば毎朝聞かされていると香鈴が訊ねても、鵲は知らぬ顔だ。
 それでも、鵲の存在は香鈴の心を慰めた。生き物の気配があるというだけで、虚ろに感じた自室が暖かい。もしかしたらそれがいいことなのかもしれなかった。

 州府からは相変わらず、日々帰れない旨が伝えられるばかり。櫂瑜は無理であっても、燕青か影月、もしくは二人ともが現地にかけつけているのかもしれないが、香鈴に知る手段はなかった。
 州城に出かけていけば様子もわかるかもしれないが、わかったところで手伝いようもない。おまけに連日の雨は琥lの道さえ川のように水を流し、とてもではないが外出すらできそうになかった。少なくとも、櫂瑜の薫陶を受けた家人たちは誰一人として香鈴が外出することを許さないだろう。
 主の不在の州牧邸は活気を失っていた。本来であれば仕えるべき人のためにする仕事すら虚しい。普段は櫂瑜たちと食事をすることになっている香鈴も、この時は家人たちと一緒に取った。だが生憎、誰もが賑やかなたちではない。食事と後片付けを済ませるとすぐに自室に引きこもってしまうような日が続いた。

「鵲さん、あなたはどうして織女のお手伝いをすることになったのかしら? やはり哀れに思われましたの? でもそれでしたら、他の日でも橋をかけることはできませんの?」
 牽牛と会えない日々、織女の胸はどれほど悲しみにみちていることだろう。仕事を疎かにしたことは確かに許されないことかもしれないが、それほどまで互いに一緒にいたいと思えた織女と牽牛が羨ましくもあった。
「だって、ありえませんもの。影月様がお仕事よりわたくしを優先されるようなことは」
 もちろん、仕事熱心なのは良いことだ。仕事を疎かにするような影月なら、きっと香鈴は惹かれたりはしなかった。それでも後回しにされることが続けば、愚痴のひとつも飛び出すと言うものだ。
 そんな時、初めて会った英姫の鴛洵への言葉が思い出される。
「男としては最高。でも恋人とすれば最低。これって影月様も同じですわね」
 いっそ、英姫に愚痴を語ってみたかった。きっと同意は得られるはずだ。それとも、長い年月を鴛洵と添い遂げた英姫であれば、愚かな自分を窘めてくれるかもしれない。けれど、この長雨に同じ琥lにありながら茶家と州牧邸は隔てられていたから、それすらも許されなかった。
「琥lですらこうなんですもの。下流に住む方々はどれほど不安でしょう。どなたも、早く安心できるようになればよいのですけれど」
 恨みを込めて見上げる昊はただ黒く、香鈴の願いは聞き入れられそうになかった。
 香鈴はため息をついて、灯火を引き寄せ、やりかけの刺繍を手にする。
「早く雨がやみますように。早く堤が完成しますように。橋が流れませんように。そして早く――この刺繍が出来上がるより早く、影月様がお戻りになられますように」
 乞巧奠(きっこうでん)に合わせて五色の糸で飾る刺繍は、織女に奉納する予定のもの。香鈴はただ一夜の逢瀬が叶うまで、涙にくれながら機を織っているであろう織女と自分を重ねずにはいられなかった。
 灯りが届かぬよう布を被せられた籠の中で、鵲が身じろぎする音だけが周囲の物音をかき消す雨の中、針を使う香鈴の耳に響いた。



 香鈴がどれほど鬱々と過ごしていようとも、鵲は気にした風もなく元気になっていった。
「もしかして、それで甘えているおつもりなんですの?」
 相変わらず早朝から起こされて、不機嫌な香鈴はやや乱暴に水の深皿を取り替える。鵲は、笑い声にも聞こえるような鳴き声を上げて、無事な片翼を広げてさかんに尾羽を上下させる。馬鹿にされているようでもあるし、甘えられているようでもある。
「あと二、三日というところかな。もう骨はひっついたようだしのう」
 香鈴が芹敦のところまで連れて行くと、庭師は固定した布をほどいて宣言した。鵲は、ゆっくりと不具合のあった翼を広げている。芹敦の言う通り、それでもすぐに飛ぶのは無理なようだった。よたよたと歩くが、飛び上がろうとしては失敗している。
「あと二、三日……」
 鵲と離れる日がそれだけ近づいたということだ。だがそう言われてしまえば、淋しくもある。
「あんまり人に慣れんうちに放した方がいいんだ。こいつらは野生だから自分で餌を取ることを忘れたらおしまいだから」
 香鈴の心情を見透かしたように庭師は言い募る。香鈴とてせっかく助けたのにその後すぐに生きていけなくなるようなことを望んではいない。おまけに、いつまでも面倒を見るのは不可能だろう。所詮、野生の生き物にはそれなりの法則がある。こうして保護したのは仮初のことにすぎない。
「でも、まだ二、三日はあるんですのよね?」
 芹敦は心得た、という表情で香鈴に目をやる。
「そうだの。だがひとつ忠告しとくとだ。こいつは少しなら跳びあがれるようになる。でもって、カラスの仲間だからな。光る飾り物とかには注意しておいたほうがいい」
 その芹敦の忠告を香鈴はすぐにも思い知らされることとなる。

 翌日、ほんの少し香鈴が席をはずした隙に、自室から派手な物音が響いた。
「なんですのっ!?」
 慌てて引き返した香鈴は室内の惨状に呆然とする。鏡台の引き出しが床に落ちていた。そこには、香鈴のいくばくかの装飾品などを収納してあるのだ。隙間からでも光るものが見えたのだろうか。犯人は落ちた引き出しに止まって、くちばしでもって散らばった飾り物をつついていた。
 それだけでも許し難いのに、鵲が今つつこうとしているのは――!
「それは駄目なんですの!」
 香鈴は何も考えずに突進し、鵲から箱を取り上げる。この中には影月から貰った大切な――。
「なんですの! 恩を仇で返すおつもりなんですの!? それだけ元気があるならもう大丈夫ですわね! どうぞ出て行きたかったら出ていってくださいませ!」
 勢いよく閉ざされていた窓を開ける。湿った空気が室に押し寄せ、鵲は顔を上げた。撥ねるように窓に近づき、そうして一瞬、香鈴を窺ったように見えた。だが次の瞬間、鵲は両の翼を広げてそのまま窓の外へと飛び立って行った。
「あ……!」
 その姿を見送って、香鈴はようやく鵲が自分の手から離れたことを悟った。
 のろのろと室を片付け、そうして空になった籠を見つめる。
「まだ、一緒にいられるはずでしたのに。まだあと少し様子を見た方がよろしかったのに。ごめんなさい……」
 少し雨足のゆるんだ昊から、鵲のものらしい「かちかち」と言う声が聞こえた気がした。



 その日から雨は勢いを緩め、降り止む時間も目立つようになった。そうして乞巧奠(きっこうでん)の当日ともなるとようやく鮮やかに晴れあがり、人々の気分すら明るくした。
 鵲を逃がしてしまってますます落ち込む香鈴を慰めようと、州牧邸の女たち―すなわち文花と庖丁人の昭環とは、庭先に机と長椅子を出して織女への供物の準備に香鈴を巻き込んだ。
 酒、肴、果物、菓子、そして花が用意され、中央には五色の糸を通した七本の針が錦の針山に刺されて灯火にきらめいた。

「まあ、香鈴嬢の刺繍の見事なこと! これで更に上達を願えばどうなるのでしょう」
 文花が香鈴の刺した手巾を広げて感嘆する。
「文花様の手も見事ですわ。もっと教えていただかないと」
 実際、文花の刺繍は宮中で見かけたものに劣らない。
「それにくらべて昭環のは、まだまだ上達の余地がありますね」
「わたしは菜が専門ですからかまわないんですよ」
 久々に星の広がった夜昊を見上げて、香鈴は年長の女たちの声を聞くともなしに聞きながら気になっていたことを口にする。
「あの鵲さんは無事でしょうか?」
「もちろんですとも。きっと今頃は天漢の橋の一羽になってがんばっているのですよ」
「先日までと違ってこれだけ晴れれば、織女ももう牽牛と会えたんじゃないですか?」
 文花が、昭環が、口々にそう言ってくれる優しさが香鈴の心に染みた。
「では、願い事をいたしましょう。早々にお三方がお戻りになられるように」
「ええ、そうしましょうねえ」
 二人に誘われるように香鈴もうなずき、そうして織女の星に向かって祈りを捧げる。
(どうぞお早くお戻りになられますように……)

 そうやって女たちが乞巧奠(きっこうでん)の祈りを捧げていると、門の辺りが騒がしくなった。
「なんでしょう?」
 文花が様子を見ようと立ち上がり、香鈴も続こうとした。
 そこに、ひょっこりと影月が顔を出した。
「ただいま帰りましたー。櫂瑜様も燕青さんも今夜は戻ってらっしゃいますよ。僕は一足先にって、帰されちゃったんですけど。で、帰ってきたら、こっちへ行けって言われて」
 香鈴は言葉を発することも忘れて影月を見つめていた。
「まあまあ、それではお迎えの準備をしなくては。昭環、まいりましょう!」
「そうですね、文花さん」
「あのっ! わたくしも!」
 慌てて香鈴も後を追おうとしたが、文花は涼しい顔で決め付けた。
「香鈴嬢はここで影月様をお願いしますね」
 そうしてそそくさと庖丁人と二人してその場を立ち去った。

「えーと、香鈴さん? ただいまですー」
「お、おかえりなさいませ……」
 ようやく影月に声をかけられた香鈴は慌てて長椅子を勧め、茶を用意する。影月は飾られた卓上を珍しげに眺めた。
「今日って何か……? ああ! 七夕の乞巧奠(きっこうでん)だったんですね! どうりで女性ばっかりで。でも、僕がここにいていいんですか?」
「もうほとんど終わっておりましたのよ。さあ、果物もお菓子もございますわ」
 影月に食べさせようと瓜に手を伸ばして、香鈴は気が付く。
「影月様、少しお痩せになられました?」
「ああ、そうかもしれませんー。昨日まで現地にいたんですけど、ろくに食べてる暇もないくらいで」
「で、では! なにかお食事でもお持ちいたしますわ!」
「んー、でも、今は果物の方が嬉しいです」
 香鈴は慌てて手にした瓜を剥いて、影月に差し出した。
「ありがとうございます、美味しいですー」
 手招きされて、香鈴はそっと影月の隣に腰を下ろす。そして気になっていたことを尋ねる。
「あちらは、もう大丈夫なんですの?」
「はい、堤も完成して浸水は食い止められましたし。橋の補強も済んだし、避難してた人たちも自分のうちに戻りましたし」
「よかったですわ」
 心をこめて香鈴が言うと、影月も深くうなずく。
「ええ。早めに手が打てたからなんとかなりましたけど。もう少し遅かったらどうなってたか……。やはり災害への対策は常日頃から進めておかないといけないって、さっきも櫂瑜様とお話してたんですよ。自然って怖いですからね」
「こちらでも雨がずっとやまなくて、外にも出られませんでしたわ」
 香鈴はやまなかった雨を思い出して身震いする。
「出なくて正解です。香鈴さんくらい、簡単に流されちゃいますから」
「流されてませんから!」
 つい、むきになって言い返してしまう。
「ええ、これでせっかく帰ってきたのに、香鈴さんに何かあったとか言われたら、いくら僕でももちませんよ」
 瓜をきれいに食べきった影月は香鈴に視線をやって、少しいたずらっぽく笑う。
「でもさすがに疲れたんで、香鈴さんに甘えたいなーとか思うんですけど」
「あ、甘えるってどう……」
 簡単にうろたえた香鈴に影月は身体を寄せる。
「膝枕とか、駄目ですかー?」
 予想もしていないことを言われて香鈴は焦るが、精一杯平静を保って答える。
「か、かまいませんわ、膝枕くらいでしたら」
「ありがとうございます!」
 影月はそのまま身体を倒して、香鈴の膝に頭を乗せた。そして満足そうな声をあげる。
「気持ちいいですー」
「そ、それはよかったですわ」
 なんとなく視線を合わせられなくて、香鈴は目をそらす。けれど、膝の上の重みが気になってしかたなかった。

「ああ! 星がよく見えますねえ」
 影月の声につられるように香鈴も昊を見上げる。天漢が長く長く昊を横切っていた。
「あれが氾濫しちゃったら大変だろうなあ」
 地上の川の氾濫に苦労したばかりだからか、天漢に向かってつぶやく影月に、香鈴は非難の色を含ませて答える。
「天のことは影月様のお仕事ではありませんのよ」
「そうですね。さすがにそれは天にまかせましょう」
 苦笑しながら影月はそのまま目を閉じ、そうして思い出したように口を開いた。
「そう言えば、今朝、こちらに戻ってくる途中でですねえ、鵲を見たんですよ」
 鵲の一言に香鈴は目を見開いた。
「なんか僕の頭の上をぐるぐる回って。で、琥lの方に飛んでいったんですけどね。考えてみたら七夕にぴったりですよねえ、鵲って。白いお腹がきれいで……って、香鈴さん?」
 影月の話を聞いてるうちに、香鈴の瞳に涙が浮かんだ。そう、影月の見たのは、あの鵲に違いない。恩返しのつもりだろうか。きっと影月を迎えに行ってくれたのだ。
「鵲の橋を渡るのは織女だとばかり思っていたのですけれど」
 牽牛が鵲の橋を渡ったという話は聞かない。だがおそらく、香鈴のために影月を渡らせてくれたのだ。
「香鈴さん?」
 下から手を伸ばして、影月の指が香鈴の涙を拭う。
 香鈴はその手に頬を寄せて目を閉じ、影月が自分の傍に戻ってきてくれたことを実感した。
 影月が身体を起こすのを感じた。目を開いて、すぐ近くに寄せられた心配そうな影月の顔を見つめて、香鈴は泣き笑いしながら改めて口にした。
「おかえりなさいませ、影月様」


(天の織女、あなたも今夜は幸せでいらっしゃいますわね? どうかその幸せが長く続きますように――)
 星の降る七夕の逢瀬に思いを馳せて、地上の恋人たちもまた寄りそう。
(そう、鵲よ、できるならば橋を壊して、織女を牽牛の元からそのまま帰れないようにしてあげて)


 その後、州牧邸の付近では鵲の鳴き声が聞こえてくることがある。その度に香鈴は七夕の夜を思い出す。そうして、まるで一年に一度の逢瀬ででもあるように、愛しい人を心をこめて出迎えるのだった――。

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『鵲の渡せる橋』(かささぎのわたせるはし)


タイトルは大伴家持の
「鵲の渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける」
からきています。
七夕の夜、天の川の上にかささぎが連なって羽をひろげて織姫を渡す橋となるそうです。

天の川と地の川(勝手に名前つけましたよ、もう)、天の織姫と地の香鈴を対比させ、
鵲につないでもらおうと思ったのですが、はてさてどうなったことやら。
しかし、書きながら「いつ雨がやむんだろう」と真剣に困りました。
七夕気分を味わってもらえればそれで成功かと思います。

あえて、天の川を天漢、織姫を織女、彦星を牽牛と表記しました。
読み方はご自由に。
ただ、乞巧奠(きっこうでん)は自分でも読めないので全部にカナを振りました。

冒頭に書き出したのは『文選』から「古詩十九首」の十番目の詩の一部です。
ざっと訳すと、
「(織姫は)手で機を織るが、一日中かかっても模様を織り出すまでいかない。涙は雨のように流れる」
彦星に会えず、ただ悲しみに浸る織姫の様子ですね。
この漢詩は七夕だと、以前から気になってたもの。
声に出して読んでも楽しいリズムのある詩です。全詩を最後に記載します。

古詩十九首之十

 迢迢牽牛星 (ちょうちょうたりけんぎゅうせい)
 皎皎河漢女 (こうこうたりかかんのじょ)
 繊繊擢素手 (せんせんとしてそしゅをあげ)
 礼礼弄機抒 (さつさつとしてきちょをいじる)
 終日不成章 (しゅうじつあやもなさず)
 泣涕零如雨 (なみだのおつることあめのごとし)
 河漢清且浅 (かかんはきよくまたあさし)
 相去復幾許 (あいさることまたいくもとぞ)
 盈盈一水間 (えいえいとしていっすいのへだて)
 脉脉不得語 (ばくばくとしてかたるをえず)