琥珀寮奇談 (こはくりょうきだん) |
人というものは、いざとなれば正直なもので。関心のないものは残酷なまでに無視するが、ただただ心惹きつけられるものにだけ目を奪われることがある。 たとえば。これはまだ十四歳のある少年の場合。 「あれ? 今朝はまだ羽巧(うこう)さん、いらしてないんですねー」 今年も茶州琥lに秋が訪れようとしていた。秋と言えばここ州城では秋祭に向けて俄然忙しくなることを意味する。 その秋祭を一月後に控えて、まともに休める最後の公休日明けのことだった。登城したばかりの影月は州尹室を覗いて思わずそう洩らしていた。 「どれどれ? うわっ、めっずらしーなあ!」 影月の後にいた燕青もまた、驚きの声を上げる。 「どうしたんでしょう? 具合でも悪いんでしょうか?」 「具合が悪いくらいでこの時間まで来てないってのが、まずありえねーよ。雪でも降るんじゃないか?」 やがて他にも登城してくる官吏の姿は増えたが、話題の主は依然として現れぬまま。誰もが羽巧の不在を知ると驚き、騒ぎは広まった。 「え!? あいつが来てない? 嘘だろう?」 常に誰よりも早く登城し、たとえどれほど体調がすぐれなくとも出仕することで有名な男、洪羽巧(こう・うこう)二十八歳。 彼は燕青が州牧として立った折、同年の自分もと奮起して、国試受験の予定をとりやめて茶州準試を受けたという変り種である。 四角四面というほどでもないが責任感が強く几帳面な彼は、悠舜の下で重宝された官吏で、現在も州尹補佐として腕をふるっている。つまりは燕青と影月の頼もしい部下だ。 就業時間を迎えた頃、本人の代わりにひとつの知らせが州城へと届いた。 ――洪羽巧、原因不明の昏睡のため出仕できず―― それが、始まりだった。 「さっぱり原因がわからないんだ」 その日の夕刻、州城の影月を訪ねてきたのは、かつて秀麗と共に貴陽からやって来た若手医師のひとりだった。今は茶州学院医療部門の精鋭として知られている。 「寮の管理人に聞いても、夕べまで普通だったって言うんだよ。実際に診察してみても悪いところは見当たらないし。何をしても起きないで、ただ眠り続けてるんだ」 羽巧は官吏用の独身寮住まいだと聞いている。 「それは――眠剤をあやまって服用した形跡とかは?」 「まったくなし。そもそも彼は早寝早起きで有名で、寝つきのよさには定評があるらしいから、実際そんな薬は不要の人物だね。 影月君、何かこんな症状に心当たりはないかい?」 伝説級の名医、葉棕庚に学び、『華眞の書』を研究しているとはいえ、行き詰った医師は困りに困って華眞の直弟子である影月を頼ってきたのだ。ちなみに、肝心の葉医師は数日前より金華に滞在中だ。 「そうですねえ。――頭を強く打った様子とかはありませんか?」 「それが、外傷も一切ないんだ」 「でも頭の場合ですと、すぐに症状が出なくても後になって――ということもありますし」 「それじゃあお手上げだよ。何しろ本人から話を聞けないんだから」 しばらく二人で問答をしていたが、まったく埒が明かなかった。影月は引き続き翌日も医師の診察を依頼し、自分も時間の出来次第、羽巧の様子を見に行くことを約束する。 だが、羽巧不在の穴は予想外に大きく、影月は羽巧のもとに行くことはもちろん、州牧邸に帰ることさえできなかった。 そうして事態は予想外の方向に広がっていく――。 「おい、きのうから粧練(しょうれん)も休みみたいだぞ」 「こっちは丹開(たんかい)が休んだらしい」 「なにいっ!? これから秋祭に向けて忙しくなるのがわかってんのに、あいつらいい度胸じゃないか!」 日を追うごとに休む官吏が増えた。羽巧が休んで三日目には、全部で十名が出仕不可能との状態になり、少数精鋭の茶州官吏たちは皺寄せを受けて大忙しだ。 「これは……さすがに無視できねえな」 さしもの燕青も深刻な表情で頬の傷をなぞる。 「燕青さんは休んでいる人、全員、よくご存知ですよね?」 「まあ、それはな」 「何か共通点みたいなものはありませんか?」 「そうだな……。全員、二十代三十代の若手で独り身の奴らばっかだなあ」 そのあたりにあった紙に、燕青が名前を羅列して書き出していくのを眺めて、影月はふと思いつきを口にする。 「――もしかしてこの人たち、寮住まいだったりしますか?」 「ああそうだ! こいつらは全員琥珀寮の住人だ!」 琥珀寮――琥l在住独身官吏のための寮である。寮費は超格安で三食(出仕日は二食)まかない付き。ただし建物の古さは相当のもので、平たく言えばボロい。独身官吏だからと言って全員が寮に暮らすわけではない。商家に下宿したり、自分で家を借りて住んでいる者だっている。後者の代表が茗才だ。現在は名を上げられた十名だけが住んでいる。 状況を理解すると影月は州尹室を飛び出した。 「伝染病の可能性があります! 今すぐ櫂瑜様にお話して、できれば寮の隔離と封鎖を!」 影月の提案に櫂瑜もまた真剣に応じてくれた。 「それは至急対応せねばなりません。影月君、医師としての君の力を貸してもらってよいですね?」 「はい! それと、原因解明のため、学院の医療部門の全面協力を依頼します!」 急遽、会議が行われた。原因についての結論は出なかったが、感染を防ぐため寮の封鎖が決められた。また影月はこれまで診察に当たった医師も寮の敷地内に滞在することを主張した。 「伝染する病なのかどうかもまだ確定ではないですけど、すでに感染している可能性も捨て切れません。これ以上の被害を広めるわけにいきませんし」 「たしか琥珀寮には使ってない離れもあったはずだな。そりゃボロには違いないが雨風が避けられるんなら我慢してもらうか。まだ長雨の季節でなくて良かったな」 燕青が茶化すでもなく感想を述べる。そうして寮の門に立ち入り禁止の札を用意し、物資は門まで運ぶなどと決められていった。現在のところ、寮を封鎖するだけで州城からの告知は出さない方向に話がまとまる。事を大きくして城下の住人の不安を煽るのを避けるためだった。 「とりあえず僕も今晩仕事が終わったら寮に行きます。おそらく僕の身体なら感染しないはずですから。明日、またここで報告します」 陽月によって生かされることになった影月の身体は病知らずだ。元より死者は病にかかるはずもない。多少の経緯を知る櫂瑜と燕青だけが、そう発言する最年少の官吏を痛ましそうに見つめた。だが口にしたのは別のことだ。 「お願いいたします」 「頼む」 茶州のために自分たちが倒れることができないと熟知している二人に向かって、影月はもちろんと笑って請け負った。 「なんか、国試受験で使った十三号棟を思い出すなあ……」 早めに仕事を切り上げて影月はひとり、問題の寮へと足を踏み入れた。 薄れ行く日没の光に浮かび上がる琥珀寮は、鬱蒼とした樹木に囲まれて建っていた。蝙蝠の群れが建物を背景に踊るように飛び、わびしく鴉の鳴き声が響く。雰囲気は満点だ。――お化け屋敷の。 州城の西、官吏街の端に位置し、市も近く場所柄は便利だというのに、人が住んでいるようには見えない。 「うーん、建て替えは必要かも……」 そんな感想を抱いてしまうが、それでも一旦建物の中に入ってしまえば、そこそこ快適そうな空間が広がっていた。調度品などは古いが使い込まれた味がある。 ただし。非常に――男臭い。だがそれは仕方のないことだろう。寮に住むのは二十代から三十代の男ばかりなのだから。 寮の敷地内の離れのひとつには初老の管理人夫婦が暮らしており、影月はまず彼らから話を聞くことにした。 「ええ。最初に羽巧君が起きて来なくて。これは異常事態だと思ったんです」 寮の誰よりも早起きな羽巧は、毎朝管理人夫婦と同じ頃に起き出すという。 休み明けの朝、心配になって室を覗きこんでみるとまだぐっすりと眠っており、珍しいこともあるがまだ出仕時間には間に合うからと、最初は様子を見ていたのだと言う。 「だって、本当にただ眠っているだけで、具合が悪そうには見えなかったんです。彼が寮に住むようになってから初めてのことでしたが疲れでも溜まっていたのかと。もう準備しないと間に合わない時間まで待ってから起こしに行ったんです。ところが声をかけても揺さぶっても起きない。隣の室の粧練君が軽く叩いてくれたんですがまったく反応もなくて。それで、これはおかしいんじゃないかって医師を呼んで。州城には知らせを送ったんです」 その後のことは医師からの報告を影月も受けている。 「それじゃあ前日の羽巧さんの行動なんですが」 「あの日は……午前中は娯楽室で碁を打ったりしていて、午後になって街に買い物に出かけてました。でも夕飯までには帰ってきていましたし、後はもう普通に過ごしていましたよ」 食事や掃除を一手に引き受けているという妻も口を挟んできた。 「あの日も食事は三食ともきっちり食べていましたし、食欲も旺盛で。あ、食べ物もお医師さんには調べてもらったんです。でも私たち夫婦も同じものを口にしているんで異常はなさそうだとか」 話を頭の中で整理しながら影月は考え込む。 (となると、何か街で病をもらってきたとか? でも寮以外にはこんな症状の病人が出たっていう報告は受けてないし。やっぱり問題は寮にあるんだろうか?) だがまだ結論は出せない。 「羽巧さんは手間のかからない人で。具合が悪くても仕事に行ってしまうので叱るくらいで。他の子も、そりゃあ皆、少しばかりお酒がすぎて、たまには壁をぶち抜いたりとか羽目をはずすこともありましたけど、皆いい子なんです」 子供のいない管理人夫妻にとっては、もうかなりいい年の寮官たちも我が子のように思っていることが伝わってくる。今は、数刻ごとに昏睡状態になった病人たちの室をめぐり、水を含ませたりもしているという。 「あの子たちは郷里を離れている子も多くて。先方になんとお知らせしていいものやら」 「連絡はもう少し待ってください。まずは原因を突き止めないと二重三重の悲劇を生み出すことになりかねません。とにかく今夜、僕が寮内で様子をみてみますから」 「お願いします。どうかあの子たちを助けてやってください――」 その真摯な願いに、影月はただ黙って頷いた。 寮の建物は古いが、与えられている室は広々としていた。住んでみれば住み心地も悪くなさそうだ。 どの室も同じような間取りと家具があった。書き物机に椅子。本棚。いくつかの箪笥。長椅子。そして臥台。 (少なくとも、堂寺の方がボロかったなあ) 雨漏りやら隙間風やらで随分と華眞と苦労した記憶がある。 (あと、秀麗さんとこも造りは立派だったんだけどー) しばらく間借りした室は大丈夫だったが、あちこちの補修に静蘭が走り回っていたことが思い出されて影月は薄く笑う。 州牧邸がなければ、影月自身もここに住むことになっていたはずだ。その時はその時で、きっとそこそこ満足して暮らしたことだろう。 ただし――。 (香鈴さんとは一緒に住めないし――) 当たり前であるが、ここに住むのは男ばかり。 もし影月がここに住んでいて、そこに香鈴が訪ねてくるようなことがあれば、きっと彼女は気に入らなかったことだろう。 影月の手が無意識に懐に入れた手紙に触れる。今晩は帰れないという使いを出したその返事だ。流れるような筆跡で書かれた内容は短くそっけないほどだが、どんな顔をして香鈴がそれを書いたのかと思うと、胸が温かくなる。 (僕は大丈夫。出来る限り早く原因をつきとめて、皆を助けて。そうして香鈴さんのところに帰りますから――) 眠る寮生たちを順に診察してみたが、これまでは医師たちからの報告と違ったものは出てこなかった。一見、ただ眠り続けているだけ。数日その状態が続いているせいか、衰弱が目に見えるのが痛々しかった。水だけは含まされてはいるが、食事も取れないのだから仕方がない。 だが、影月はその衰弱のしかたに違和感を覚える。これまで影月は長く食事を取れないような人々も診てきているが、二、三日の絶食で引き起こされるよりも明らかに衰弱が早い。このままではそう遠くないうちに最悪の結末を迎えることになる。 (死臭は感じないんだけど) 死にゆく者特有の気配は感じられなかった。全員がそこはかとなく幸せそうな表情を浮かべている。それなのに、目の前の病人たちは確実に彼岸へと引き寄せられているのだ。 多幸感を与えつつ人を衰弱させる薬も実在するが、これまでのところ寮近辺では発見されていない。また若手医師たちの検査からそのようなものを摂取している兆候もないと言う。 (いったい、何なんだこれは――!?) 泊り込みと言っても、実際に眠る気はなく、夜間の患者に容態の変化がないか夜通し見守るつもりでいた。学院の医師たちには緊急時以外の夜間の診察は避けるよう指示している。これ以上の被害を広めないためだ。しかし、夜間にこそ全員が眠り続ける原因があるのではと影月は疑っていた。 だが真夜中を迎える頃、そうして部屋部屋を回って少し疲れた影月は、羽巧の臥台横の椅子に座って知らず眠りにおちていた。そして、一つの夢をみる――。 影月は上下左右ともにうっすらと色のついた雲に囲まれたような、そんな空間にいた。暗くはないが周囲はほのかに明るい。 (ここ、どこだろう?) 前も後ろも、景色にはまったく変わりない。ただ一本の道のようなものがあり、なんとはなしにそのまま先へと歩いてみた。 しばらくして、影月は道の先から響く音に気付いた。さらに進んでその出所に行き当たる。座り込んだ人影を見つけたのだ。どうやら一人の女が両袖で顔を覆って泣き濡れてるらしかった。 「あの――、どうかしましたか?」 悲しんでいる人がいれば放っておけないのが影月という少年だ。 影月の声に、女は一瞬顔をあげた。妙齢の美女である。だがすぐさま顔を伏せて泣き続ける。 「何か、悲しいことでもあったんですか?」 女はただ首を振る。 「じゃあ、どこか具合が悪いんですか?」 今度は女はうなずいてみせた。 「あの、僕は医術も少しは学んでいます。何か手助けできるかもしれません。話してみてくれませんか?」 ようやく女は口を開いた。その声は僅かにかすれ、どことはなしに絡みつくように甘い。 「胸が……痛くてなりません」 「胸って、心の臓ですか?」 すっかり医師の気分で影月は女の前に膝を落とす。立っていることで患者に圧力を感じさせるのは避けたかった。 「ご家族で同じ症状の方はいらっしゃいますか?」 家族からの遺伝でそういった同じ症状が現れることがあると、影月に教えてくれたのは華眞だった。 「いえ、私だけのようで……」 「そうですか」 数代前の先祖からのものだとしたら、家族とて把握していないこともあるだろうと影月は心の中で思う。だがそれよりも、目の前で胸を押さえて涙を流し続ける女の様子に言わずにいられなかった。 「ちゃんと水分も補給してくださいね? 苦しくて涙が出るんだと思いますが、それだけ泣いてると身体からたくさん水分が失われてるんです。あと――食欲はありますか?」 「とても――喉を通りません」 そんなことは無理だと主張するように女は暗い表情で否定する。もっとも、女の栄養状態は少しも悪くは見えなかった。むしろ頬など健康的な薔薇色だ。だが病によっては血色のよく見えるものがある。影月はそれに関しては判断を避け、現実的な助言を与えた。 「お粥とか雑炊とか汁物でかまわないんで、なるべく食べる努力をしてください。あまりにも食べないでいると、今度は身体が食物を受付けなくなったりもしますし」 だが、女は首を振るばかりでそんな努力をしようとする気配はない。 (困ったなあ。本人が治そうと思ってくれないと悪くなるばっかりなのに) ともかく問診を続けてみることにした。 「夜は眠れますか?」 女はまたも首を振る。食べられない、眠れないではどんなに健康な人物であっても身体がもつはずがない。影月は考え込みながら最良と思われる助言を口にした。 「かかりつけのお医師がいたら、まずその人に相談してみてください。そういう人がいない場合でしたら、学院の医療部門を紹介します」 「あなたが……診てくれないんですか?」 影月が官吏でなく医師であったならもちろん自分で診る。だが、自分の仕事を投げ出すようなことは影月にはできなかった。 「話を聞く限り、あなたの症状は片手間に治療できるようではなさそうですし、あいにく僕には他に仕事がありますから難しいんです。もっと軽い病気ならお薬くらい出しますけど、お薬を処方するのも体質に合うかまず調べないといけません。ことに、心の臓に関するお薬は劇薬に相当するものになりますから慎重にしなければなりませんし」 女は納得したものか上目使いで影月に縋るような視線を送る。 「……わかりました。せめてどうかさすってもらえませんか?」 女の手が影月の手を豊かな胸元へと導く。細い指であったが意外に力があり、影月は振りほどくこともできなかった。 しかし。 「心の臓は右じゃないですよ。場所ももっと下ですし」 間違いを指摘してやり、胸元に押し付けられた左手を取り戻そうとするが叶わなかった。仕方なく空いた手で女のもう片方の手首を握ると脈を計ってみる。 「今のところ、脈に乱れはないようですねえ。右が痛いってことは心の臓でなく別の原因かもしれません」 影月は所見を述べたが、女から返って来たのは苛立ちと戸惑いを宿した声だった。 「……何にも感じないの?」 「はい? それだけ苦しいんだと、しっかりした医療機関で検査が必要です。僕の知る限りでは葉棕庚医師が最高の名医ですね。うん、やっぱり葉医師がいいでしょう。紹介状を書きますから手を離してください」 突然に女の態度が豹変した。 「こんの、朴念仁!」 声と共に怪力でもって大きく影月を振り払い、影月は意識を失った。 「はあ!? うわっ!」 投げ出されるような感覚と共に影月は目覚めた。 「あー、うたた寝しちゃってたんだ。何か変な夢、見た気がするなあ。思い出せないけど」 外を眺めるとまだ暗いところから、眠ってしまったのは一刻かせいぜい二刻くらいのものだろうと思われた。しかも、疲れが取れた様子もない。影月は中途半端な休息でかえって重く感じる身体を引きずって、眠り続ける患者にと向き合った。 ついに何も発見できぬまま影月は朝を迎え、医師と管理人夫婦に任せて州城へと出仕した。しかし、一日中影月の頭の中では何かを見落としている感が抜けなかった。 その夜、再び影月は琥珀寮にいた。頼みの綱の葉医師は捕まらず、若手医師たちは匙を投げて泣きついてくる。眠り続けるまま衰弱していく寮生を見捨てることはそれでもできない。影月は最後まで諦める気はなかった。 羽巧の室で彼の様子を見ながら、影月は愛する堂主の助言を求めて持ち込んだ『華眞の書』を忙しく繰る。外では虫たちが精一杯の声を張り上げていたが、目覚める者が影月ひとりしかいないこの寮の中では、ただただ静寂が辺りを支配し、侘しさを掻き立てた。 だが影月にとってどんなものよりも甘く感じられる声がその静寂を破った。 「影月様……、こちらですの?」 「香鈴さん!? 何しに来たんですか!」 恋人の姿を見た途端、思わず影月は怒鳴りつけていた。 滅多に怒りを見せない影月だからこそ、普段との差異に人は動揺を覚える。所謂、怒らせてはいけない人物なのだ。香鈴もまた顔色をなくして怯えた表情を浮かべた。 しかしある意味、影月からのさまざまな感情を、誰よりも一番向けられている彼女は立ち直りも早かった。影月に力一杯大きな荷物を突きつけて叫ぶ。 「着替えと、差し入れですわ!」 とっさに受け取ってしまった影月は反射的に礼を述べてしまった。 「あ、どうも……」 「いいえ……」 影月は怒り続ける気力を逸するが、言わねばならない言葉を掻き集めて、なるべく厳しい表情で香鈴に向き合う。 「えーとですね。ここは今、原因不明の伝染病が発生していると思われる現場なんです。そのために封鎖してるんです。僕は手紙でそう説明したはずです。香鈴さんが来たりしたら、うつるかもしれない危険な場所って、わかってて来たんですか」 「ですけれど、毎日ここに通ってらっしゃる学院のお医師さまたちも、同じ敷地内に住んでいらっしゃる管理人のご夫婦も、発病はしてらっしゃいませんわよね?」 自信満々に言い切られて、影月の方が焦らされた。 「ど、どこからそんな情報を……!?」 「どこでもよろしいでしょう」 もちろん州牧邸に住み、官吏たちにもよく知られている香鈴だ。誰が情報を洩らしても不思議ではない。おまけに彼女は頭がいい。たとえ与えられた情報が断片にすぎなかったとしても、答えを導き出した可能性もあった。 「そ、それに!」 香鈴は顔を背けながらも一気に捲くし立てた。 「わ、わたくしが同じ病に倒れたとしても、その時は影月様がきっと治してくださいますもの!」 (ああ、僕のことを信じてくれてるんだ――) つまりはそういうこと。香鈴は影月に全幅の信頼を抱いてくれている。だからこそ、彼女は今この場にいるのだと。そう理解した途端、影月の胸には誇らしげな気持ちが沸き起こる。だが、彼女が安全であるという保障を与えることはできない。 「でも実際は、まだ原因さえわかっていない状況ですしー」 情けなくとも現状は現実。香鈴の期待に応えられないと口にするのは辛かった。 「それでも、影月様は諦めたりなさいませんでしょう!?」 さすがに影月は言葉に詰まった。もちろん、最後まで諦める気は毛頭ない。それだけ香鈴は影月を理解しているのだ。 ふっと影月の中から、ともかく一刻も早くこの場から香鈴を退避させねばという焦りが抜け落ちた。 「――まあ、来ちゃったものはもう仕方ないですよね。まっすぐに帰って、お風呂でしっかり身体を洗って、できれば今着ているものも全部洗濯してください」 「ええ、帰りましたらすぐに」 神妙な顔で香鈴はうなずくが、すぐさま彼女は反撃に転じた。 「それより。お夕飯、召し上がらずにこちらにいらしてるんでしょう? 影月様がここで倒れられたら本末転倒ではございませんの! さあ!」 一旦は影月に渡した荷物を取り上げ、香鈴はさっさと重箱を取り出して並べ始める。 「全部召し上がるのを見届けるまで、わたくし帰りませんから!」 強気の言葉の影に見て取れるのは、心底影月を心配するが故の必死さだった。 「あ、はい。いただきます……」 観念して箸を菜に伸ばした影月だったが、それまで無自覚だった空腹が激しく意識された。 (そう言えば、ここ数日まともに食べてなかったかも――) 羽巧が倒れた日から州城に泊り込みであったし、夕べもこの寮ですごしたから州牧邸には帰っていない。それすなわち、影月の食生活を監視する人間がいないということ。まさしく医者の不養生というやつだ。 (まいったな。香鈴さんにはお見通しみたいだ) 苦笑しつつせっせと菜を攻略していく。どれもこれも影月の好物ばかりというのがまた、香鈴の心遣いを伝えてくれる。だから。とても香鈴に頭が上がらないとしみじみ感じながら、ゆっくりと菜を噛み締めて味わうのだった。 「ごちそうさまでしたー」 結局、用意された菜を何一つ残さず平らげた影月の様子を香鈴は満足そうに見守っていた。 「あれ?」 だが、満腹感からか急激な眠気に影月の意識は一瞬途切れ、大きく船を漕いだ。慌てて頭を振る影月を眺めて、重箱を片付けていた香鈴は呆れたようにため息をついた。 「あなたのことですもの、夕べも眠っていらっしゃらないんでしょう? どうせ今夜も寝ずに皆様についてらっしゃるおつもりでしょうけれど、少しだけでも仮眠を取られてはいかがですの?」 「仮眠――」 その言葉はとてつもなく甘美に響いた。抵抗する気にさえなれないほどに。 「そうですね、その方が効率がいいかも。一刻くらいなら――」 影月が少しでも休む気になっているらしいのが嬉しかったのか、香鈴の雰囲気がやわらかい。 「時間になったら、わたくしが起こしてさしあげますわ」 「え、いや、香鈴さんはすぐ帰った方がいいです」 そのまま倒れ臥しても熟睡してしまいそうな眠気と戦って、わずかばかり残った理性で重い口を開く。 「今更ここに一刻残ったからといって、たいして何も変わりませんわ! もう! ごちゃごちゃおっしゃらずに、さっさと横になってくださいませ!」 問答無用で影月の手を引いて、香鈴は長椅子へと導いた。いつのまにどこからか取り出した枕と毛布まで登場している。これはまあ、影月が眠くて朦朧としている間に手際よく香鈴が探し出したものに違いなかったが、そこまで思考がまわらなかった。 「すみません。あの、香鈴さん……」 長椅子に横たわると瞼を上げることさえできず、影月は声を搾り出す。どうしても眠る前に欲しいものがあった。どうせならばこのくらいの甘えを許して欲しかった。 「何ですの?」 「手を……」 「手?」 香鈴の問いかけに答えることもできずに、しかし目当てのちいさな手をしっかりと抱え込んで、影月は眠りに墜ちることをようやく自分に許した。 「……しようのない方」 幸せそうに寝息をたてる影月を愛おしげに見守りながら、香鈴もまた幸せそうな微笑を浮かべた。 (あ、これ、夕べの夢と同じだ……) たちまち夢の中の住人となった影月だが、起きている間にはまったく思い出せなかった昨夜のことが明確に蘇った。 前夜と同じように道を進むと、やはり同じように人影を見出す。そして予想していたようにその人物も同じ美女だった。しかし――。 「ちょ、ちょっと! 何て格好してるんですかあなたは! 心の臓が悪い病人なんでしょう!?」 「苦しいから自分で色々試したら、これが一番楽だったのよ」 「そんなわけないでしょう!」 思わず影月が呆れて叫ばずにいられなかったほど、女の様子は普通ではなかった。女はきちんと衣を纏ってはいる。しかしどういう加減なのか、それらがまったく役に立っていない。布があるのはわかるのだが、それでも女は裸同然に見えた。透けているなどという段階を超えて、何も着ていないに限りなく近かった。 「女の人は身体を冷やしちゃいけないんですよ!」 「まあ、そうなの? じゃあ、温めてくださいな」 「毛布はどこです? 秋に入ったばかりだけど、火鉢もあればもっといいです」 影月は女が自分へと手を伸ばそうとしたのにも気付かず、女の言葉を素直に受け取って周囲を探し始めた。しかし、何一つとして見つからない。 「ここ、変な場所ですね。僕、戻って毛布か何か探してきますから。それまでどうにか工夫して温かくできるようにしておいてください」 影月は彼にしては素早く踵を返すと、元来た道を戻ろうとした。 「ちょっと待って! 具合の悪い人間を置き去りにする気!?」 慌てたような女の声に影月は振り返る。 「そりゃ患者さんを残していくのは心配ですけど僕しか動けないんですから仕方ないでしょう? それに、夕べよりずっと具合良さそうに見えますし。何か食べられるか眠れるかしたんですね」 今日の女は胸もおさえておらず、涙も流してはいない。嫌でも目に入る裸身には病気の影はまったく見てとれないくらいだ。女は首を振り、つられて揺れる豊かな胸を隠すことさえせず、ため息に似た声を出した。 「……信じられない」 「それは僕の台詞です。身体の具合が悪いなら自分で対処しないといつまでだって治りませんよ。なのにそんな呆れた格好をして、治す気がないようにしか見えません。この上、風邪でもひいたらどうするんです。もっと辛くなるだけなんですよ?」 あまり常識があるようには見えない女に向かって、影月はここぞとばかりに説教を開始する。医師からするともっとも嫌な部類の患者だ。 「ちょっと。ちゃんと目、見えてる?」 だが説教には効果がなかったらしい。腰に手を当てた女は仁王立ちで影月を睨んでいる。その視点はほとんど影月と変わらなかった。なんだか背も伸びているような気がする。 「目はいいですよ。山の中で育ちましたから」 「誰がそんなことを聞いてる?」 おそろしく噛み合わない会話に女が苛立ちながら距離をつめて、その迫力に影月は無意識に後ずさった。だがその分をまた女が詰める。また影月が後ずさる……。奇妙な舞踏のような動きを二人は繰り返した。 「影月様でいらっしゃいます?」 ふいに背後から第三者の声がした。しかも、とても聞きなれた声だ。 「香鈴さん!?」 振り向いた影月は驚きながらも安堵した。話の通じない女を説得するのを手伝ってもらえるかもしれないと思ったからだ。けれど、それは甘かったらしい。 「そこのあなた! 影月様からお離れになって!」 状況を見て取った少女はきりきりと眦を吊り上げ、怒気も露に言い放つ。 「――どうして女がここに!?」 意味不明の女のつぶやきを無視し、つかつかと音のしそうな勢いで影月の元にやってきた香鈴は、腕を影月に絡ませると女から遠ざけようと引っ張り出した。 「何をぼやぼやしてらっしゃいますの! もう、さっさと離れて!」 「えーと、この人、具合が悪いって言うんですよ」 一応言い訳などしてみるが、香鈴には通じなかったようだ。 「こちら、とっても健康そうに見えますわ! それに!」 香鈴は標的を女に定めたらしい。眉を顰めて軽蔑もあらわな声で吐き捨てる。 「何ですの、その格好! と、殿方がいらっしゃる前で信じられませんわ! あなた、恥知らずですわ!」 もちろん、そんな風に反応されて女が穏かでいられるわけもなかった。 「誰が、恥知らずだって!?」 「あなた以外にいらっしゃいませんでしょう!」 女ふたりの攻防に影月はただおろおろとするばかりだ。だが状況は変化しつつあった。 「おや、そうかしら? それじゃあ、あんただって恥知らずだね」 最初は影月も香鈴も気付かなかった。だが意味深な女の視線を辿ってふたりは硬直する。香鈴もまた、着ている衣の下の裸身がくっきりと浮かび上がっていたのだ。 「い、いやあっ!」 香鈴は慌てて影月の腕をはずし、少しでも自分の身体を隠そうとした。 「う、うわっ!」 急いで影月は着ていた官服を脱ぎ捨てると香鈴をくるむ。なんとか裸身を隠すことができて安堵するふたりに意地の悪い声が届いた。 「甘いね」 ほっとして官服をおさえようとしていた香鈴の動きが止まる。 「え?」 官服すらも透かして、華奢な香鈴の裸体がまたも目に見えるようになる。その丸みを帯びた女性特有のふたつの膨らみも、尖端までくっきりと。 「いやっ!」 「香鈴さん! これも!」 影月は官服の下に着ていた衫(さん)を脱いで香鈴に渡した。 だがそれで隠せたのもまた一瞬だった。そう、目を凝らせることなくただ視線を向けただけでも、下腹の翳りを見て取れるほどはっきりと香鈴の身体が浮かび上がっている。香鈴は自分の身体を抱えるようにして蹲り、泣き出してしまった。 「だ、大丈夫です、香鈴さん。だ、誰にも見られないようにしますから!」 影月は顔を赤くしながら、背中を向けて小さくなった香鈴の白いなだらかな曲線に目を焼かれつつも、さらに脱いだ肌着をかけてやる。 「影月様……」 「あ、こっち見ないでくださいね? ちょっと情けない格好なんでー」 上半身裸になってしまった影月はさすがにきまり悪く苦笑する。 「いいえ。そんな情けないなんて思いませんわ。わたくしのためになさったんですもの」 「いざとなったら僕が盾になりますから」 影月と香鈴の間にやわらかい空気が流れた。はじめのうちは面白がっていたようだが、この顛末に途中から機嫌を損ねた女は苛々しながら手を振った。 「……やっぱり、女なんていると面白くないわ!」 「え? 香鈴さん!?」 香鈴はたちまち姿を消し、影月は呆然としながら脱ぎ捨てた衣類を掻き集める。 「一体……?」 女に説明を求めようと視線を向けると怖ろしい形相をして睨みつけてきた。 「まったく、不愉快極まりないね! あたしと同じように着るものを透けさせただけじゃないか。なのに、あたしの前だと平然としてたくせに、あんな小娘にだけうろたえて赤くなるなんて!」 「だって、香鈴さんは僕の大切なひとですし、特別なんです! お、おまけにあんなに綺麗ですし! あんな姿を僕以外の男の目に触れさせたくないんです!」 影月にとっては考えるまでもないことだ。香鈴だからこそ意味がある。 「馬鹿にするんじゃないよ! お前みたいなお子様、こっちからお断りだよ!」 香鈴の時と同じような身振りを女がすると、影月の世界は暗転していった――。 「……さま! 影月様!」 必死に影月を揺り起こそうとする香鈴の声に影月は瞼を上げる。 「ああ、香鈴さん……」 「影月様! よかったですわ!」 安堵の表情を浮かべる香鈴を影月は怪訝そうに見上げた。 「どうしたんです?」 「その、わたくしもつられてうたた寝をしてしまったみたいなんですの。そうしましたらとっても不愉快な夢を見てしまって。それで心配になって、慌ててお起こししたんですの。それでもなかなか目覚めてくださらないから、他の方みたいにお目覚めにならなくなったら本当にどうしようかと……」 言いながらその時の不安が蘇ったのだろう。香鈴は涙を浮かべている。 「すみません。怖がらせてしまいましたね」 影月は咄嗟に香鈴を自分に引き寄せて胸に抱きしめ、慰めるように何度も髪を撫でる。 「ああ、そう言えば僕も変な夢を見てました。なんか、変な女のひとが出てきて、あと香鈴さんも……」 言いながら夢で垣間見た香鈴の裸身が脳裏に蘇り、影月は口ごもった。 「何ですって!?」 勢いよく香鈴は顔を上げ、弾かれて余った影月の手が長椅子の後にあった衝立にぶつかる。衝立は派手な音をたてて倒れた。 「あー、衝立、倒してしまいました」 長椅子から起き上がった影月は衝立を引き起こしたが、何かが目を惹いた。 「あれ? すごく薄れてるけど、この衝立に描いてあるの、さっきの夢に出てきた人に似てるなあ」 横から覗き込んだ香鈴もまた、きっぱりと言い切った。 「間違いございませんわ! わたくしの夢にも出てきましたわ!」 二人して言葉を詰まらせながら夢の話をする。どうやら同じ夢を見ていたらしい。 「何なんでしょう? 無意識にこの衝立を見ていたせいであんな夢見たんでしょうか?」 「いいえ……。それだけで二人とも同じ夢を見るなんて不自然ですわ」 衝立を見つめる香鈴の瞳に剣呑な光が宿る。 「……影月様、手伝っていただけません?」 「は? 何をです?」 「この衝立、外に出してしまいますの!」 とても逆らえる雰囲気ではなかったので頷くが、疑問が沸く。 「それは……構いませんけど一体どうして?」 「女の勘を信じてくださいませ。わたくしは管理人夫妻の所に行ってまいりますので、その間にお願いいたしますわね!」 言うが早いが香鈴は室から飛び出して行き、残された影月は香鈴の消えた扉を眺めながら思わず呟かずにはいられなかった。 「まあ、運ぶのはいいんだけど。でもいくら同じ敷地内だからって、こんな時間に一人で出ていくのはやめてもらわないと……」 衝立そのものは枠こそ木製だが本体は薄手の絹と見えさして重くもなかった。高さこそあるものの折り畳めるものであったので影月一人でも運ぶのに苦労はなかった。 二階にある羽巧の室を出て玄関に着くが香鈴の姿は見えない。 「影月様、降りていらっしゃいました?」 「ええ。香鈴さん何処です?」 「裏に回ってくださいませ!」 建物の裏には管理人夫妻の住む離れがある。そちらに向かって歩いていくと前方に灯りが揺らめいて見えた。灯りは寮と離れの中程で揺れている。 「こちらですわ影月様!」 やはり手燭を持っているのは香鈴らしい。近付くと管理人夫妻の姿もあり、夫はせっせと傍らの井戸から水を汲んではいくつもの桶を満たしていた。 「ありがとうございます。衝立はこちらに立ててくださいます?」 香鈴の指示する場所に衝立を置くと、香鈴は管理人の妻を手招きして広げた衝立を手燭で照らした。 「いかがです?」 「ええ、あなたの言った通りでした」 夫の方は水汲みを終えたらしく杓で衝立から少し離れた場所に丸く水を撒きはじめた。 「影月様もお二人も水を撒いた外に出てくださいませ」 言いながら香鈴は衝立に何かを振り掛けはじめた。 「え!? 香鈴さん、何を!?」 たが香鈴は答えずにただ、 「さがって!」 と一言叫ぶと衝立に火を近付け自分も素早く後ずさった。 「なっ……!?」 風向きが変わって先程香鈴がまいたものの正体がわかる。 「油……?」 衝立はたちまち炎を上げ、影月は火と煙を避けるために風上へと移動する。燃える炎に照らされて、香鈴と管理人夫妻がそれぞれ水の入った桶を手にしているのが見えた。 「ぎやああああっ!」 断末魔の声としか思えぬ叫びが琥珀寮の敷地にこだました。炎に取り巻かれた衝立にうごめく影が写る。 「ひ、ひゃあっ!」 管理人が声をあげて慄くが、奇異なことはそれだけで終わった。 火は急激に勢いを増したかと思うと、全てを飲み込んで燃え尽きた。すっかり衝立が焼き尽くされたのを見届けて香鈴が、管理人夫妻が水をかけはじめる。さっきまでの明るさが嘘のように周囲は黒々とした闇に包まれた。 「説明してもらえませんか?」 「あの衝立に気付いて見ましたら、とてもとても不愉快な気持ちになったんですの。怪しいって思いましたわ。ですからこちらのご夫妻に確認いたしましたの。『衝立は以前からございましたか?』と」 妻が、夫が口々に興奮したように言い立てる。 「私は毎日寮のお室を掃除してますが、羽巧さんのお室にはずっと衝立なんかありませんでした!」 「わしも思い出しまして。この間の公休日、羽巧君が店終いする古道具屋からタダ同然で衝立を買ってきてたんですよ!」 何となく流れに乗れなかった影月は居心地悪く頬を掻いた。 「そりゃあそれだけ聞けば怪しくも思いますけど、確証もなく燃やしちゃうってのも乱暴だと……」 「あら! 影月様はお聞きになりませんでした? 普通の衝立は火をつけられたからって叫んだりはいたしませんの!」 それは確かに影月も聞いた。普通の衝立でないというのは間違いはないだろう。 「女の勘ですの。絶対怪しいと思いましたもの!」 白々と明けはじめた昊の下、影月は釈然とせぬまま衝立の残骸を片付けるのを手伝った。 「夜が明けましたねえ。ともかく、僕は病人の様子を見てきますから」 羽巧の室に戻った影月が見たのは、朝日の差し込む臥台の上に起き上がった室の主だった。 「羽巧さん! 目が覚めたんですか!?」 「杜州尹? おはようございます。こんな早朝から何か急ぎのご用でも? 最後の公休日も明けて今日から忙しくなりますが」 こんな時だったが影月は安堵のあまり、たまらなくなって笑い出した。ひとしきり笑ってから怪訝そうな羽巧に告げる。 「……今日は公休日から明けて五日目ですよ」 影月はすぐに管理人と離れの医師たちを呼び、もしやと手分けして官吏たちを起こして回った。昨日までの無反応が嘘のように全員が意識を取り戻した。 目覚めた羽巧から聞き出せたのは管理人の発言を裏付けるものだった。 「ええ。ずっと一人で古道具屋をやっていた顔見知りの婆さんが、店終いするんで安くするって言うんで覗きに行ったんです。ちょうど前から臥台の目隠しになるような衝立が欲しかったんで、いい大きさのがあったのでかなり古いけど買ってきました。まさかこんなことになるなんて……」 影月は目覚めたばかりの十名には今日一日の安静を言い渡した。絶食が続いた上に衰弱の激しい彼らには体力を回復させる必要があったのだ。影月は医師たちに後をまかせ、香鈴と共に琥珀寮を後にした。そのまま影月は州城へと出仕し、櫂瑜に羽巧たちが目覚めたことを報告し、寮の封鎖を解いても問題ないと請合った。 昼を過ぎて慌ただしく仕事に励む影月の元に香鈴が姿を現した。 「影月様よろしいですか?」 香鈴は茶家に英姫を訪ねて来たのだと言う。 「ああいった怪しい物のことは縹家出身の大奥様がやはり詳しくていらっしゃいますでしょう?」 香鈴から話を聞いた英姫は文献を取り出しながら説明してくれたそうだ。 「あの衝立に憑いていたのは夢魔ではないかとおっしゃいました。女の夢魔は殿方の夢に美しい女の姿で現れて、その……」 香鈴は言いにくそうに言葉を濁す。 「ゆ、誘惑……をして殿方から生気を吸い取るんだそう、ですの」 その方法は言葉にされずとも想像できた。あの英姫の事だ。おそらくはもっと直接的な言葉で告げたに違いない。 「狙われた殿方は、そうして死ぬまで生気を絞り取られて衰弱死するんだとか」 確かに眠っているだけにしては羽巧たちの衰弱は激しかった。後になってみればあれこれ合点のいく事ばかりだ。 「大奥様は、夢魔が寮を狩場にしていたんじゃないかって。はっきりしたことは判らないけれど古い衝立でしたし、せいぜい力の範囲がひとつの建物にしか及ばなくて。ですから、犠牲になったのは寮で眠る男性だけで。管理人のご主人とお医師さまたちが無事だったのは離れで寝泊りしていたためだろうっておっしゃいましたわ」 普通女は夢魔の夢をみることはないが、影月と手を繋いだまま寮で眠ってしまったため例外的に香鈴もみたのだろうと締めくくられたそうだ。たしかに香鈴が夢に出てきたことに女――夢魔ですら驚いていたから間違いではないだろう。 (あれ? って、もしかして僕も誘惑されてたってこと……?) 香鈴が帰った後でようやく気が付いた影月は、事情説明と共に燕青に疑惑を話して爆笑された。 「胸、触らせてきたって? んで次が裸同然? ……お前、そりゃおもいっきり誘われてっだろ!」 「そうだったんですね。本当に気が付かなくて。なんか、二度ともすっごく怒って夢から追い出されたんですよー」 燕青は心ひそかに夢魔に同情した。 (そこまでやっても気付かれなきゃ、そら怒るわ。まさか色仕掛けのわからない男がいるとは思ってもみなかったんだろうな……) そうして自分が寮に泊まらず夢魔に会わなかった運命に感謝する。 (うっかり据え膳喰らってたら羽巧たちと同じになって、そしたら影月の手前恰好つかねーし) 「ま、無事で良かったじゃねえか!」 内心を明かさず、燕青は影月の背中を軽く叩いてみせた。 翌日から出仕してきた十名はまだやつれてはいたが、さすがにこれ以上休んでいる気にはなれなかったらしい。そうして眠り続けた顛末はたちまちのうちに州城に伝わり、ねちねちと苛められることになった。 「ふーん? つまりだ。お前らは夢ん中で、えらい美人に『お情けを』とか言い寄られて、しっぽりさんざんおいしい目にあってたってわけか。こっちはお前らがどんどん死にそうになるんで心配してたっていうのにな。おまけに、この忙しい時に休まれて、どれほど疲れたかとくと思い知らせてやる!」 「たっぷりこき使ってやるから覚悟しろよ?」 取り囲まれて責められて。しかしどう考えてもあまり同情の余地がなかった。人外に襲われたというのにである。 「いや、俺たちは病み上がりで……」 「阿呆! 誰も同情するほど甘くないわ! 見ろ、お前らの仕事まで分担してできた俺のこの目の下の隈を! この分は死んでも働いてもらうからな!」 燕青もまたその尻馬に乗って寮生をからかった。 「まったく、同じ目にあっても影月は切り抜けてんだぞ? 情けないと思わねえか?」 「しかしだな、男ならあれだけの豊満な美女に誘われたら抵抗する方がおかしい!」 寮生の一人である粧練はそう主張しはじめたが、いかんせん巡り合せが最悪だった。 「あれ、香鈴さん?」 恋する者の嗅覚とは怖ろしいもので、誰より早く影月は州城に現れた香鈴を発見した。 「今夜もお帰りになれないと伺いましたので皆様の着替えを持って参りましたの」 「ありがとうございますー」 「明日こそは、きちんとお帰りになれますわね」 「たぶん――」 影月といくばくか言葉を交わして去り際、寮住まいの官吏たちの傍を香鈴は通る。いつもならばたいていの官吏にはにこやかに接している香鈴であったが、眼差しは凍てつくほど冷たく、素気なく目礼のみで通り過ぎた。 「こ、香鈴さんに軽蔑された!」 「そりゃ、嬢ちゃんからすりゃ、お前らは不潔な下等動物だな」 肩を落とす寮生の姿は哀れを誘った。どうやら同僚にからかわれるより堪えたらしい。 「嬢ちゃんの評価を元に戻すんなら、せいぜいこれ以上株を落とさねーように真面目に仕事して、影月がとっとと州牧邸に帰れるようにしてやるしかねーな」 その後、名誉回復を図るためか、寮生十名は以前以上に熱心に仕事をすることになったという。 この秋の事件はしかしその後、思春期の少年少女に深刻な悩みをもたらしたのだった。 州牧邸の浴場から上がった香鈴は、脱衣所の鏡に映った己の裸身に思わずため息をついた。 (認めたくはありませんけど、あの夢魔。とても立派な女性的な身体つきでしたわ。胸とか、すごく大きくて。――なのに影月様、とっても平然と対処してらして。あれで何も思われないのでしたら、影月様からすればわたくしの裸なんて子供同然ですわよね……) 見下ろす身体は年々丸みを帯び、胸の膨らみも大きくはなってきてはいる。まだ成長途中だと自分を慰めてみるものの、それでも体型的にあの夢魔ほど豊満にはならないであろうと予測できた。 (こ、このままでしたらいつまでもずっと、影月様とは清らかなまま……?) 湧き上がる暗い予感に香鈴は更なるため息をついた。 そう。先に夢から追い出された彼女は、影月の夢魔に対する発言を知らないでいた――。 一方、彼女の想い人もまた深い悩みの只中にいた。 仕事中は執務に熱中しているから問題はないのだが、ふと気の緩んだ瞬間にそれは影月を襲う。 (ど、どうしよう……。頭からあの夢の中で見た香鈴さんの、は、裸が、消えてくれない……!) あれは夢の中のこと。夢魔の作り出した幻影かもしれないとは思うものの。 (消えろ! 消えて欲しくないけど、消えろ! こ、こんな僕を知ったらきっと寮生以上に香鈴さんに軽蔑されるのに!) ことに眠りにつこうとする前など、その記憶が鮮やかに蘇り、少年の眠れない夜を増やしていくのだった――。 恋は時に盲目。ありふれた悩みすらも恋の前には空前の苦しみ。重なる誤解を埋めるまでに必要なのはおそらく、胸の痛みを抱えて過ごす月日と経験だと、渦中の少年少女には知る由もない――。 |
『琥珀寮奇談』(こはくりょうきだん) 影月にとって意味のある女性は香鈴だけだということを書いてみたかったんです。 どれほど美人だろうがグラマーだろうが、そんな女が目の前で裸踊りしていようが、影月にとっては病人として心配するだけだという。 そしてこの話は、自作の階シリーズ(『少年は階をのぼる』『階は続く』)2作の間にもあたります。 ラストのオチの影月が書きたくて(笑) 悩め悩め♪青少年、ということで。 上治四年の秋が舞台ですので、『金の衣・夢の灯り』の直前くらいに位置します。 まだ香鈴は梨映に会ってません。 羽巧は、上治五年のクリスマス話『霜夜の鐘声』にちらっと名前の出てきた官吏です。 この話の後で、棗恵という恋人とめぐり合うことになります。 重要な役割ではありませんが、今後も名前くらいは出てくる予定です。 ところで。 私、どうも「もののけ」の類、女ばっかり書いてることに気付きました。 『鳴弦抄』のチェンチェン、『反魂譜』の玲鸞に続いてですから。 今度機会があったら、男に……なるんだろうか??? この話で出したのは西洋で言うところのサキュバスです。 道士にでも衝立に封印されていたのかも? (そこまで考えてません) もうひとつ。 私の話にはどうも重箱に詰めた弁当が欠かせないらしい……。 ちなみに脳内では香鈴の胸サイズ、この頃はCからDを想定。 (上治三年はまだBくらいかなーと) 影月のこの当時の身長は160から165を想定。 いや、どうでもよいことですが。 |