恋にまさる呪力なし
(こいにまさるじゅりょくなし)



 だって。淋しかったんですもの。
 あなたに会えない日が続くと心が冷えきってしまいますの。
 愚かだとお思いになる?
 それでももう一人には耐えられませんの。
 ――――ですから。どうぞお許しになってね?




(あれ――?)
 影月が最初に“それ”に気が付いたのは金華郡府に到着したばかりの午後だった。
 何かがそっと左の頬に触れていった感触に戸惑う。
「どうかなさいましたか? 杜州尹」
 左頬に手を当てて呆然としていた影月に柴大守は懸念の声をかけてきた。
「あ、すみません。虫だと思うんですけど」
「それは失礼を。すぐに虫除けを用意致します」
「ありがとうございますー」
 柴大守は、自分より遥かに年下の少年を見つめると咳ばらいして姿勢を正す。
「それではお疲れのところ申し訳ありませんが、早速用件に入らせていただきます」
「はい。よろしくお願いします」


 暦の上では初秋の頃。茶州の商都金華。影月は一人そこにいた。
 たまたまいくつか金華との折衝が重なり、州府より誰かが赴くこととなった。
 州牧の委任を受けての大役でもあるため、その役目が勤まるのは燕青、茗才、そして影月の僅か三名。
 協議の結果、今回は影月が選ばれた。一番経験が浅いからだ。
 金華は琥蓮より馬を使って五日の距離。そう遠くはない。
 そこまで急ぎの案件もなかった為、行程は片道六日を見てあった。金華での滞在は十日。全部で一月弱の出張だ。


 道中の日程にゆとりを持たせたのには理由があった。一月程前、櫂瑜が唐突に尋ねた事が発端だ。

「そう言えば影月君は馬に乗れますか?」
「馬、ですか? 一応、という程度でしたら」
「誰かに習いましたか?」
「いえ、旅の途中で自己流で覚えました」
「それはいけませんね。文官であろうと、いざという時には軍を率いることもあります。将の姿は模範であることを要求されますから、正しい騎乗法を身に着けておくべきです。幸い、うちの武人たちは騎馬の達人です。早速指導を受けた方がよろしいでしょう」
「はあ……」
 州牧邸には現在五頭の馬がいる。皆、櫂瑜の連れてきた馬だ。普段は交替で軒を曳いていたりするが実はどれもが軍馬である。
 影月の練習用に引き出されたのは五歳になる牝馬。
「この風蹄(ふうてい)は気性が一番穏やかですからこいつがいいかと」
 武人の慶雲に引き合わされた馬は優しげな瞳で影月を見下ろしてきた。

 かくて毎朝、早朝に影月の乗馬訓練が行われるようになった。その時には二人の武人のどちらかが指導に当たる。
 気性が穏やかとは言え馬は馬。馬に乗るのは影月にとって実に二年ぶりのこと。勘を取り戻すだけで大変であるのに、手綱捌きひとつとっても細やかな注意を受ける。始めのうちはいかにも素人な姿であり、さっそうとした武人たちに比べると、なるほどかなり見劣りがすることを認めないわけにはいかなかった。
 それでも毎日続けていれば人は慣れる。そんな折りも折りであったので
「それではよい機会ですから風蹄で金華までお行きなさい。毅然とした態度を忘れないように」
 という事になった。

 平時であり近場であり、そして州牧でもない影月に護衛は付かない。一人で金華を目指す事になる。
 もちろん公務であるから香鈴を連れていく訳にも行かない。
 久方ぶりの馬での道中を控えて緊張を隠せぬ影月には、正直例え許されるとしても香鈴を同伴できる程の余裕はなかった。
「できるだけ早く戻れるように頑張りますから……」
「お仕事でいらっしゃるんですもの、仕方ありませんわ」
 口ではそう言いつつも見送る香鈴の表情は不安に曇っていた。
「ご無理はなさらないで――」
「なるべくそうしますー。それじゃあ、いってきます」
 必要以上に香鈴を心配させぬよう、影月は笑って馬上の人となった。




 旅と呼ぶには短い道行は、影月に恋人への甘い想いを抱かせる隙さえ与えなかった。

 机卓仕事ばかりの日常と、朝から晩まで騎馬で旅するのとは勝手が違う。
 おまけに、いくら気性が穏やかと言っても風蹄は本来軍馬。影月が望むダク足では物足りないらしく、ともすれば早駆けしようと勇む。馬を替えて進むような旅ではないので風蹄を疲れさせたくない影月は、風蹄を御することに全力を傾けることになった。
 道中に指定された宿は州都と商都を結ぶ街道沿いにあるだけに、高級な部類に入る。庶民出身の影月は琥蓮を出る前にはそんな宿に泊まることに抵抗があった。しかも、当然のことながら宿代は公費から出る。
 だが、影月の疲れた身体には気の利いた宿は実際ありがたいものだった。影月は毎夜倒れるように眠った。

 琥蓮を出て六日目、金華が見えた頃には、影月の騎乗姿もかなり見られるものになっていた。
 習うより慣れろ。先人の意見は正しい。


 金華に着いて早々に一仕事片付けた影月を柴大守は自ら群城の一室に案内した。
 そこは本来貴人の為に用意された城一番の室である。
 影月はかつて同じ金華城で使用した事のある仮眠室で十分だと訴えたのだが、柴大守は聞かなかった。
「あなたが初めて金華においで下さった時の感謝の気持ちを私は忘れた事がございません。前回は非常時ゆえ仮眠室などをご利用いただきましたが、此度は平時。州牧代理ともあろうお方を相応しく饗させていただかねば我が郡府の名折れです」

 押し切られて通された室で夜着に着替えて、影月は臥台に腰を降ろした。たかが臥室だというのにやたら広い。もちろん臥台の広さも相当のものだ。
 その広さは影月に孤独を感じさせた。
 馬上の旅も終わり、影月の心は自然と我が家である琥蓮の州牧邸に飛ぶ。
 州牧邸には常に誰かがいる。主の性格を反映してか賑やかという程ではないが何とも居心地のよい住み処となっている。おまけに州牧邸には恋しい人がいるのだ。


(香鈴さん、もう寝ちゃったかなあ?)
 影月がそう考えたその時、ふっとやさしい感触が襲った。
 昼間一瞬感じたのと似ている。ただし、今度は影月の唇に。
「ええっ!?」
 あたりを見回しても虫さえ見当たらない。自分の髪が触れたわけでもない。
 おまけにその感触は影月のよく知っているものに似ていた。
(香鈴さんの――)
 影月は誰もいない臥室で一人赤面してそのまま臥台に倒れ込んだ。

 と、そんな影月を別の感触が襲った。
 顔全体が何か柔らかいものに包まれたようだ。だが影月の視界に写るのは臥台の天井だけ。
 しかも、今度の感触は一行に消える気配がない。ただ柔らかく影月を包みこんでいる。
 そして影月にはその感触にも覚えがあった。
(いやまさか? でもやっぱり……)
 昨夜程までとはいわずともまったく疲れていない訳でもない。明日も早くから会議が予定されている。
 眠らなくてはと思った影月は布団に潜り込むが、ともすれば意識は見えない感触に集中する。
「駄目だ!」
 一言叫ぶと影月は勢いよく起き上がると臥台を離れ、隣室の机卓へと向かった。卓上には今回の議題用に金華府より用意された資料が積み上げられている。
 影月は消えない感触を振り払うように資料に没頭し始めた。




 連日の会議と各種施設の視察などで影月の金華滞在は十日を予定されていた。
「予定はすべて完了されましたな……」
 五日目の朝、柴大守は複雑な表情で影月を見つめていた。
「そうですねー」
 笑って答える影月の、目の下の隈が濃い。
「連日完璧な書類をご用意の上で会議に出席いただき、またこちらの要望も説明するまでもなくご理解いただいて、おかげでどの案件につきましても驚く程効率良く処理できる見通しがたちました。当初ずれ込むのではないかと杞憂しておりましたが、実に鮮やかな処断にて感服に絶えません。無駄を省かれた視察も的確なご指摘に頭が下がります。
 此度の杜州尹のありようは州牧代理としてまことに申し分ない見事な手腕であられました」
「過分なお言葉ありがとうございます。柴大守や郡府の皆様のおかげです」
 あまりにも持ち上げられるとかえって居心地が悪いものだ。影月は困惑したまま頬を掻く。
「――ゆっくりお休みになれなかったのですな」
 無視するにはあまりにも影月の隈は目立ちすぎた。
「枕が合わなかったみたいでー」
 影月はへらっと笑ってみせたが、柴太守の表情は晴れない。
「私の落ち度です。ご希望通りに違う室に代わっていただいたならこのような――」
「あー、それ違います。きっとどこのお室でも一緒だったと思います。州牧邸の自分の枕がよかったみたいで」
 あの謎の感触が、使用した室特有のものだとは思えなかった。きっとどこにいても同じだっただろう。
 だがあの感触があったから、振りきろうと仕事にも没頭した。同時に、耐え切れぬほど帰りたいという思いを影月に抱かせたのだ。
「……かえって気を遣っていただいて……。それではこのまま琥蓮にお戻りなさいますか」
「はい。我が儘言ってすみませんが――」
「責務は果たされてますから何の問題もありません。しかし帰路、そのような体調で大丈夫でいらっしゃいますか?よろしければこちらから武官をお付けいたしますが」
 太守の心遣いは嬉しかったが、若輩者の自分に誰かが付いてくれるというのも抵抗がある。
「それには及びません。風蹄に頑張って貰おうと思ってますし」
「そうですか。それではくれぐれもお気を付けて」
「はい。柴大守もお元気で。またお会いしましょう」


 金華滞在中、影月は不思議な感触に法則があることに気がついた。
 唇には朝と晩の二回。
(まるで“おはよう”と“おやすみ”みたいな――)
 そうして顔を包む感触は夜、唇に感じた後一晩中続く。
 昼間にはその感触に襲われることはほとんどない。ごく稀に頬をかすめる感触を感じることもあったが。
 同じように続く感触ならば人は慣れる。だから影月とてまったく眠っていない訳ではない。だがその感触が呼び起こす衝動こそが問題で、明け方まで眠れなかったりしていたのだった。


 再び馬上の人となった影月は、行きとは反対に激しく風蹄を駆った。
 もちろん夜ともなると十分に休ませるし手入れも手を抜かない。
 元々軍馬である風蹄は嬉々として影月に従った。休息も足りたのかまったく元気なものだ。
 むしろ馬上の影月の疲労の方が大きかった。このような早駆はかつて危急の折に経験したくらいのものだ。まるで全身から悲鳴が聞こえるようだった。
 そんな行程であったから、夜ともなると訪れる感触に気付きながらも影月の眠りは深かった。




 金華を出て三日目の朝、影月は琥lを視認した。
 かつて州牧として金華から琥lに入ったのと同じ日数である。
 あの時は静蘭と燕青という騎馬の達人が手綱を取っていた。だが秀麗と影月を乗せた馬車を引きずってのこと。単騎の影月の方が身軽なのはもちろんだ。ただそこは馬術の腕の差がある。
 影月は現状に満足した。これまで馬に乗る時は常にひとりだった。だが、ここまで上達したなら近いうちに香鈴を乗せて遠乗りにだって行けるかもしれない。そんな風に思った。


 半月ぶりの琥lの姿に影月は安堵した。商都とは違う州都ならではの賑わい。門前に集う見知らぬ大勢の旅人が次々と吸い込まれていく。
(なんか、帰ってきたって感じがするな)
 琥lもまた、影月の帰るべき土地となっていたのだ。
(これから先、どんな州に赴任したとしても、きっと琥蓮は特別なんだろうな)
 そんな予感にかられながら大門をくぐる。
(ともかく州牧邸に戻って少し休もう。さすがに疲れたし)


 影月が州牧邸に帰還すると、香鈴はもちろん家人の誰もが驚いた。何しろ当初の予定より八日も早い帰宅である。
「影月様、お急ぎの御用でも承られましたの?」
 まず風蹄を労ってやってから旅の埃を落とした影月は、甲斐甲斐しく世話をやいてくれる香鈴に微笑む。
「いえ、仕事が早く終わったんですよ。そしたら一刻も早く戻りたくなって。帰りはちょっと急いでみたんでさすがに疲れましたけど。報告の書類も出来てますし、櫂瑜様が戻られるまで休ませてもらいますね」
「無茶はなさらないでと申しましたのに……」
 臥台を整えながら、香鈴はどこかやつれた風情の影月に労わるような視線を投げかける。
「すみません。でもこうやって香鈴さんの顔が見られてやっと安心しました」
 そう。州牧邸の玄関で、影月の帰宅を知って駆けてきた香鈴の姿を見た時、影月の頭に過ぎったのは、やっと……という感慨だった。
「……後で何かお持ちしますからゆっくりお休みになって」
「そうさせて貰います。香鈴さん、また後でー」
 自分の慣れた臥台に沈み込むと、影月は深く深く眠った――。




 影月が目覚めた時、窓の外は真っ暗だった。室に残された燭台の明かりを頼りに起き上がる。
(すっごくよく眠れたなあ。やっぱり慣れた臥台だからかな?)
 部屋着に着替えて室の外に出るが、辺りはすっかり静まりかえっていた。
 居間にも誰もおらず、厨房にも人気どころか火の気もない。
(厨房に火も残ってないってことは、もうかなり遅い時間なんだ……)
 影月は日付が代わる頃、執事の尚大が厨房の火を始末することを知っていた。
(櫂瑜様はもうお休みだろう。報告しそびれたな……)
 空腹にも襲われるが、生憎影月に食材の場所はわからない。瓶から水を汲んで喉を潤すと、しかたなしに自室に戻ることにした。

 母屋の回廊を辿っていると、扉の下から明かりが漏れている室を発見した。
(香鈴さんの室。香鈴さんまだ起きてるのかな? ……そうだ!)
 影月は自室に取って返すとまたすぐ香鈴の室に戻った。ささやかな金華土産がその手には握られている。
(他の人には用意できなかったから……)
 そうして影月は扉を叩いた。


「影月様っ!? お目覚めになられましたの!」
 影月の姿を認めた途端、香鈴は驚きの声を上げた。それは大袈裟なんじゃないかと影月は思う。
「えーと。おはようございます……って言うのも変ですけど」
 だが、香鈴にとっては大事であったらしい。
「どこも具合が悪かったりされません!?」
 勢いよく詰め寄られて影月は首を傾げる。
「はい。よく眠れて身体も軽いですー」
 香鈴はざっと影月の様子を観察すると、扉を大きく開いた。
「ともかく、お入りくださいませ」


 室内に招き入れられた影月は長椅子に座った。香鈴は手早く茶を入れて振る舞う。
「葉医師は眠っているだけとおっしゃいましたけど、一昼夜お目覚めにならなかったんですのよ」
「一昼夜っ!?」
 よくよく聞いてみると今日は影月が琥lに帰った翌日……それももう日付が代わる頃だと言う。
「櫂瑜様は……?」
「報告書は受け取ったのでよく休ませて差し上げるようにと。あと、始めの帰還予定の日まで出仕しなくてもよろしいとか」
「それはさすがに……」
 休みを取るために急いで戻ったわけではない。おまけに、誰もが常日頃から忙しいのに自分だけが休みを貰うのも気が引けた。
「朝になられましたら櫂瑜様に直接お話しになって」
「そうしますー」
 さすがにまたすぐ眠れるとは思えなかったが、ともかく朝を待とうと影月は思う。
 そんな影月を眺めて、香鈴は訊ねてきた。
「ところで影月様、お腹はすいていらっしゃいません?」
「実は結構……」
 眠ることを最優先で身体が要求していたとは言え、眠りが足り、かつ一度自覚してしまうと空腹は耐えがたいものになっていた。振舞われた茶だけではとても補えない。
「お目覚めになったら召し上がっていただこうと準備はしておりましたの。このままお待ちくださいませ」
「ありがとうございます」
 影月を残して香鈴はひとり厨房へと向かった。


 香鈴がある程度準備をしていたとしても、そうすぐには戻っては来られない。
 影月は自然と室内を落ち着かずに眺めることになる。
 香鈴の室には何度か入ってはいるが、通常の関心は室の主に限られているのでじっくり眺めたことはなかった。
(やっぱり女の人の室って違うなあ……)
 家具こそ少ないが花や小さな置物が飾られ、柔らかい雰囲気を与えている。焚きこめられた香が甘く漂う。
 影月は金華土産の小さな置物を飾り棚に紛れ込ませると、衝立の向こうに視線をやった。
 そこには香鈴の臥台があるのだが、何かが影月の注意を引いた。
 近付いて臥台の上にある物を取り上げてみた。
(人形――?)

 背の高さは肘から先くらいある布製の人形だった。
 しっかりと衣類を纏い、毛糸の髪を持った人形は、目と口が簡略化された刺繍で表現されている。
 だがその人形を眺めているうちに影月は奇妙な気持ちになる。
 その人形の着ている生地にも型にも見覚えがある。少し前に香鈴が作ってくれた部屋着と同じなのだ。それはまあ、余り布で作ったなら不思議はない。
 だが、激しく既視感を覚えるのは衣類のせいでなく、むしろこの顔立ちが――。
(ええと。もしかしなくても僕、なのかなあ……?)
 影月は人形を複雑な気持ちで眺めた。
(多分間違いなく香鈴さんの手づくりで。それで僕の人形……で間違いないとしたら、ええとつまり……?)
 影月自身は人形を作ろうなどと考えたこともなかったため、香鈴の思惑を想像することはできなかった。


 どのくらいそうして人形と見つめ合っていたのだろうか。香鈴が湯気の立った盆を運んで入室してきた。
「お待たせいたしました。影月様? どちらにいらっしゃいますの?」
 卓に盆を残して香鈴が衝立の後を覗き込んできた。
「影月様こちらにいらっしゃいましたのね。……な、何を持ってらっしゃいますのっ!?」
 慌てて香鈴は影月の側に駆け寄ると必死で手を伸ばしてきた。
「み、見ないでっ! 返してくださいませっ!」
 影月は香鈴の手の届かない高さに人形を持ちあげる。
「すみません香鈴さん、いくつか聞きたいことがあるんですけど」
「な、なんですのっ!?」
 そのまま質問しようとした影月だったが、室内に持ち込まれた美味しそうな匂いに胃が空腹を激しく主張してきた。
「ええとその前にご飯食べてもいいですか? 後でちゃんと返しますから」
「……どうぞ」
 長く眠っていた影月の為なのだろう。粥を中心に消化の良さそうな菜が並んでいた。
 人形を自分の背中と椅子の間に置くと、影月はありがたく菜に手を伸ばした。夢中で箸を動かす。
「おいしいですー。香鈴さんの菜がやっぱり大好きです」
「それはありがとうございます……」
 香鈴は影月の健啖家ぶりに安堵しているようであったが、同時に人形が気になるらしく視線がしきりに泳いでいた。


 食後の茶を啜りつつ、影月は人形を改めて持ち出す。
「ごちそうさまでしたー。まず最初の質問ですけど。これ、僕でしょうか?」
 どことはなしに香鈴は居心地が悪そうだった。
「…………………………ええ」
 長い沈黙の後、顔を赤くした香鈴は聞きそびれそうな小さな声でようよう答る。
「僕の勘違いじゃなかったんですね。次の質問ですけど、この人形、作ったの香鈴さんですよね?」
「ええ……」
 今度の質問にはもう少し早く答えが返る。
「後もうひとつ。この人形、作ったのは僕が金華に向かってからですか?」
「……ええ」
 影月は自分の中で情報を整理すると、香鈴に微笑んでみせた。だが、うつむいたままの香鈴は気が付いていない。
「ありがとうございます。それじゃあお願い聞いてくれますか?」
「ご不快だから捨てろとかおっしゃいます……?」
 香鈴の表情は、いたずらを見つかった子供のようにも見えて、影月は吹き出すのをこらえる。ここで笑ったりしては、きっと香鈴の機嫌を損ねるだろう。
「気恥ずかしいけどそこまでは言いませんよ。この人形、抱きしめて貰えますか?」
「え? あの……」
 予想外の願い事だったのだろう。香鈴は疑問に満ちた視線を向けてきた。
「確かめたいことがあるんでお願いします」
 重ねて影月は頼み、香鈴は戸惑いながらも渡された人形を胸に抱く。

――途端、影月は笑い出した。
「影月様、一体なんですのっ!?」
 人形を抱いたまま近付いた香鈴の手をひいて、笑いが治まらぬまま影月は隣に座らせる。
 ようやく笑いの発作から開放された影月は滲んだ涙を拭いながら再び質問をした。
「ねえ香鈴さん。朝晩この人形に挨拶してませんでしたか? ……口づけで」
「!!!」
 香鈴は口をぱくぱくとさせていたが、声が出ないようだった。
「それから毎晩、この人形を抱えて眠りませんでしたか?」
「ど、どうしてっ! ご存じなんですのっ!?」
 だが、耐えられなくなったのだろう。真っ赤な顔で香鈴は叫んだ。
「金華に着いた日から毎日感じるようになって」
 影月は戸惑ったままの香鈴に軽く口づけする。
「やっぱり。間違いないないです」
 次に人形を取り上げて椅子の横に置いてから香鈴の胸元に顔を埋める
「影月様っ!?」
 狼狽した香鈴の声を聞きながら影月はここしばらくの謎が解けたことに満足していた。
 香鈴の唇と香鈴の胸元の感触に似ているとは思っていた。だがそんな感触に毎日見舞われるなどと自分はどれだけ欲求不満なのかとまで思っていたのだ。


 影月の満足感はしかしすぐに破られた。混乱した香鈴の手が人形の頭に当たったからだ。
「――痛っ」
「え!?」
 影月は手を伸ばして人形を掴む。そうして人形の頭を叩いてみる。
 ――何も感じなかった。
「香鈴さん、ちょっとこの人形叩いてみて下さい」
 香鈴は人形を受け取ると恐々手を上げた。
「……痛い」
 確かに痛みがやってきた。
 二人は人形を挟んで戸惑った視線を交わした。

 そうして二人して実験を繰り返す。
 間違いなく香鈴が人形に触れた時だけ、その感触が影月に伝わることが明らかになった。
「わ、わたくし、何て大変な物を……」
 香鈴ならば故意に人形に害のある行動を取ることはあるまい。
 だが、香鈴以外の人物の手ならばどうか。悪意はなくとも第三者がうっかり人形を壊すようなことでもあれば?
 その時影月はどうなってしまうのか?

「今、こうして悩んでいても答は出ませんし。今夜はこのままにしておきましょう。明日にでも誰か詳しい人に相談することにして」
 影月の言葉に、香鈴はすぐさま提案を返す。
「それでしたら茶家の大奥様がよろしいですわ!」
「英姫さんですか。うん、そうしましょう」
 具体的に誰に相談するか決まると二人の心は明るくなる。英姫なら適任だろうと影月も思った。


「ところで香鈴さん、どうして人形なんて作ろうと思ったんですか?」
「――だって。影月様はお仕事で金華に行かれましたでしょう? ご一緒するわけにも参りませんし……」
 手を触れないよう注意しながら、香鈴の視線は人形に注がれている。影月の目から見ても人形はよく出来ていた。いささか呑気すぎる顔に見えもしたが。
「僕がいなくて淋しかったからですか?」
「淋しくなかったらお人形なんて作りませんでしたわ!」
 思わず、といった風に叫んだ後、香鈴は上目づかいで影月の様子を窺う。
「あの……呆れてしまわれました?」
「いいえ。ちょっと恥ずかしいなあとか思いますけど。それに、僕がいなくても淋しくなんてなかったとか言われる方が悲しいですし」
 影月の言葉にようやく安心したのか、香鈴が力を抜くのが判った。

(そんなに僕に知られたくなかったのかなあ?)
 たしかに、淋しいからと身代わりに作られた人形を見て、複雑な気持ちにならないと言えば嘘になる。こうして自分が戻ったからには、人形に身代わりを務めてもらう理由もない。
 影月は隣に座る香鈴の肩を引き寄せて、冗談めかして口にする。
「ねえ香鈴さん。僕がこうして帰って来てもまだ人形の方がいいなんて言いませんよね?」
 焦ったように顔を上げた香鈴は無言で首を振った。
「僕は人形じゃないから、香鈴さんから口づけしてもらったり抱きしめてもらったりしてもうれしいですけど、やっぱり僕の方から触れたいんです。こんな風に――」
 影月は触れるだけの口づけを香鈴に与え、腕の中に香鈴を抱きしめて、そうして囁く。
「だから。今夜は僕が香鈴さんを抱きしめて眠りますね。」
「影月様っ!」
「人形は香鈴さんを抱きしめることはできませんけど、僕にはできます。今度は僕が抱きしめる番ですよね。だってね、抱きしめられていても抱きしめ返すことができなくて、それがずっと不満だったんです。その不満、晴らさせてもらえますよね?」
 ただ頬を染めた香鈴はそのまま顔を伏せてしまったが、それでも否とは返さなかった。




 朝になってようやく影月は櫂瑜に会う事が出来た。櫂瑜の発言は香鈴が聞いたものと同じだった。
「君は本来ならまだ金華にいるはずですし、こちらではあと六日、君が不在でも仕事が回るよう組んでいます。
 幸い、現在はそれほど忙しい時期でもありませんし、骨休めも兼ねて香鈴嬢とゆっくり過ごすようになさい。君のいない間の香鈴嬢の様子ときたら、たいそう淋しそうでしてね。胸が痛みました。
 最も、それはそれで物憂気な風情があって、私でさえ淋しさに付け込んで口説こうかと思ったくらいですよ」
「櫂瑜様っ!」
 なまじ普段の女性への対応を見ているだけに、冗談のつもりでも冗談に聞こえないのが櫂瑜の困ったところだった。
「香鈴嬢にも休みをと尚大と文花にも伝えてあります。いっそ二人で泊まりがけで出かけてもいいですよ」
 影月はもうどう返していいか判らず、ただ曖昧に微笑んだ。


 香鈴と相談の結果、やはり人形のことは無視できないだろうと、その日の午後、二人して茶家を訪ねた。
 英姫に面談を申し込み、待つことしばし。二人は英姫の私室に通された。
 英姫はさして興味がなさそうであったが、それでも二人の説明を受け、人形を受け取る。
 一目見るなり英姫は鼻で笑った。
「なるほどの」
 そうして、指でもって人形の額を弾く。
 とっさに額を押さえようとした影月だったが、痛みは来なかった。
「あれ?」
「香鈴、同じようにしてみよ」
 尊敬する英姫に逆らうことなく、香鈴も人形の額を弾く。
「いっ……!」
「影月様! 申し訳ございません!」
 慌てて影月の傍に駆け寄る香鈴の姿に、英姫の視線が柔らかくなったように見えた。
「影月殿、安心されるがよいわ。この人形、香鈴以外の誰からの仕打ちもそなたには届かぬ。言うて見れば香鈴のそなたへの思いでこのような事態となったに過ぎぬわ。
 そも、呪力というものは、人の思いが力となったものを言う。恋する乙女の呪力、おさおさ侮らぬことよ。
 そなたが一人で出かけたため、無聊を慰めんと作ったものらしいが、今後そなたが単独にて他所に赴けば、同じことの繰り返しになるのは目に見えておる。そこで、ささやかながら助言をいたそう。
 公務なればと一人で出かけたのであろうが、ならば私費で連れてゆけばよいのじゃ。道行(みちゆき)に同行者がおったとて、はたまた私費にて宿を取って夜だけでも共におろうが、公私混同せぬ限り誰からも文句など出まいよ」
「はあ……」
 英姫は始末なし、と呆れたように羽扇を動かす。
「男というものは、建前だの面子だのに拘りすぎじゃ。置いていかれた女に釘でも刺されぬよう、せいぜい気をつけることよの」


 狐につままれたような気持ちで、影月と香鈴は茶家を後にした。
 なんとなくそのまま帰り辛く、茶家から程近い公園に向かう。雑木林と言った方が近いような公園はあまり整備もされておらず、人影もない。
 手を繋いで、ぼんやりと無言のまま目的もなく歩くうちに、影月は突然笑いをこらえられなくなった。
「影月様?」
「あ、すみません。ほら、英姫さんにお会いする前、縹家出身の英姫さんなら、人形の件も簡単に処理してくださるだろうな、とか期待してたわけですよ。それなのに、結局……」
 影月は香鈴を見つめて言葉を続ける。
「つまり、香鈴さんを淋しがらせないようにしろ、それが問題解決の答えだ、って言われちゃったわけです」
 英姫の言葉はそれだけに纏めてしまえた。
「で、ですけれど、やはりご公務となればわたくしがついて行くのはあまり……」
「うん、やっぱり今はまだ無理だと思うんです。僕みたいな若輩者では、誰にもいい印象は与えないと思いますし、ましてや香鈴さんを悪く見られたりするのも嫌です」
 影月は繋いだ手に力を込めて愛しさに目を細めて香鈴を見つめる。
「だから。まだしばらくは出張とかあっても一人で行くことを許してください。その代わり、普段なるべく香鈴さんと一緒にいられる時間を増やしますから」
「そのお言葉、信じてもよろしいの?」
「信じてもらえるようにがんばります」
 香鈴はひとつ大きく息を吸い込むと、巾着に仕舞いこんでいた人形を取り出す。
「よろしいですわ。嘘をつかれましても、わたくしにはこの人形がございますもの」
 影月は少し慌てて香鈴から人形を取り上げようとして失敗した。
「まさか、嘘ついたりしたら英姫さんが言ってたみたいに釘を刺したりなんて……」
「まあ、そんなことはいたしませんわ」
 香鈴はこの上なく可愛らしく微笑むと、くるりと後を向く。
 たちまち、影月をおなじみの感触が襲う。どうやら、人形を広げた衿から中に押し込んだらしい。しかも、布越しでないだけにその感触は兇悪でさえあった。
「えっ!? いや、それはちょっと! うわっ、香鈴さん、それはかなりまずいです!」
 そのまま走り出した香鈴を追って、影月もまた雑木林のさらに奥へと姿を消した。




 その後も、人形は香鈴の室にある。
 さすがに影月に知られてしまうとあっては、そうそう抱き上げたりもしていないようだ。
 だが時折、影月がひとり遅くまで州城に残って仕事に没頭していたりすると、頬を軽くつねられるような感触に襲われることがある。
 そんな時影月は言葉が届かないと知りながらも呟く。
「すみません、香鈴さん。もうすぐ片付けて帰りますから」


 誰かが。大切な誰かが、待っていてくれる。他の誰でもなくただ自分を。
 影月はそうして帰るのだ。自分を待つ香鈴の元へと。
 そここそが、影月の帰るべき場所なのだから――。

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『恋にまさる呪力なし』(こいにまさるじゅりょくなし)


まず最初に申し上げますと、この話には元ネタがあります。
当サイトからもリンクさせていただいている
「さい」の胡桃割子様の描かれた
『すなおになれない香鈴さんが本人にかくれて影月人形にちゅーする図』
でございます。(胡桃様承認済)

そこからはずいぶんと離れたような話になってしまいましたが。
なんというか、かなりピンク系な話のような、
それほどでもないようなあるような……。

馬の名前は中国の武将(?)の馬に雪蹄というのがいたので、
雪を風に変えて名づけました。