唇までの距離
(くちびるまでのきょり)




 寄り添いたい。
 触れたい。
 誰より特別だからもう一歩。
 ふたりの距離をなくすために――。



 思いもよらない陽月の好意により、諦めねばならなかったはずの未来を手に入れて。自分のために深い眠りについた半身への胸の痛みは消えないけれど、それでも与えられた時を悔いなく過ごそうと、これからへと未来に思いを馳せることのできる幸福に、影月は酔っていた。
 虎林郡から琥lへの帰路、季節はまだまだ春には遠い。千里山脈から吹き降ろす風は身体を凍てつかせる。にもかかわらず影月は自然にこぼれる笑みを浮かべて、馬上の同行者たちの背中を見つめていた。

 彼らは四頭の馬で軽快に街道を進んでいる。秀麗は静蘭と、そして香鈴は燕青と同乗して。単騎で進むのが龍蓮と影月だ。
 不在時のツケは大きく、すべてを失うことに比べれば何ほどでもないが、それでも残務処理には多忙を極めるであろう。州城で待ち受ける仕事は少しでも早く片付ける必要のあるものばかりで。だからこそのんびり馬車で進むのではなく、機動性の高い馬での移動となったのだ。
 だが、一行の中でただ一人彼よりも小さな人影に目を留めて、影月はそれまで浮かべていた微笑を消して、少しばかりどうしたものかと考えこんだ。
 当初、香鈴は影月の馬に乗せるつもりでいた。当人たちだけでなく周囲も無言で同意していたのだが、実際に香鈴を乗せてみると彼女を落とすのではないかと影月にはどうしても速度を上げることができない。これまで人を一緒に乗せたことのないという不安も大きかったのだろう。しかしそれでは時間重視の行程で一行の足を引っ張ることにしかならない。そこで早い段階で香鈴は燕青の馬にということになった。
 それはそれで残念ではあったが、香鈴がもっと残念そうな顔を見せてくれたことで嬉しくなったのでいいことにする。いずれ練習する時間も取れるだろう。そう、未来があるのだから。
 そんなわけで影月が笑いをおさめた理由は他にあった。もちろん互いに気持ちを伝え合って恋人となったばかりの香鈴にも関わることである。つまり。

 三度目の口づけはどんな時を狙えばいいのか? ということだった。



 二度、彼女の唇に触れた。
 けれどそのどちらの時も普通の状態ではなく、かなり切羽詰まった上での出来事だ。
 だがこうして生きることを許されて。意地っ張りな彼女から精一杯の言葉も貰って。晴れて恋人同士となったからには、香鈴を泣かせてばかりいた辛い口づけを覆したいと思うのは自然なことだった。
 しかし普通の恋人達が一体どういう時に口づけをするものなのか、いかんせん十四になったばかりの少年にその知識はない。

 丁度前を行く二人の青年ならば答を知っているだろうか?
 影月は静蘭と燕青の背中に視線を向ける。
 克洵のお悩み相談にも付き合っていたのだから、影月の相談にだってきっとのってくれるだろう。しかし。
 おそらくは女性に好かれる経験豊富そうな二人にする相談にしては、あまりにもささやかすぎて気後れがする。影月にとってはささやかどころか重大問題なのだが。
 ましてや初めての接吻ではない、ということを告白せねばならないだろう。そうしなければ話が進まないからだ。それはさしもの年長の青年たちでさえ想像していないかもしれないが。何せ影月より五歳年長の克洵ですら昨秋成就したばかりなのだから。
 影月だけのことならばまだいい。しかし接吻は一人ではできないものなのだ。
 香鈴は既に口づけしたことを人に知られるのは嫌がるだろう。ましてやおそらく彼女の予期せぬ三度目についての相談のためだと知ればきっと……いや確実に彼女は怒るだろう。
 いっそ今度が初めての接吻ということにして相談してみる方がまだましなように思えるが、やはり嘘をつくのも気が引けて、結局影月は相談に至らずにいた。

(秀麗さんならどうだろう?)
 一旦意識を失っていたらしいが、今の秀麗は元通り元気そうに見えた。きっと彼女ならば快く相談に応じてくれそうな気がする。香鈴の気持ちだとて彼女の方が理解できるだろうとも思う。だが。
(でも。女の人に聞くのは変かなあ)
 そんな逡巡が影月をためらわせた。
 秀麗から並走する年上の友人へと視線を流すが、影月は無言のまま首を振る。
(龍蓮さんにはやめとこう……)
 整った容姿の青年とはいえ龍蓮が当たり前の男女の機敏に詳しいとはとても思えなかった。
 そう、むしろ一番相談したい相手と言えるのは、話の合いそうな克洵であろう。しかしその彼は遠い貴陽を出て茶州へと旅立ったばかりではないだろうか。秀麗の手段が特別だっただけで彼が戻ってくるまでには春を待たねばならないだろう。待つというこれまでに与えられなかった贅沢を堪能するのもいいかもしれない。焦る理由はどこにもない。だが正直、一刻も早くと願う気持ちはとてもとても強いものだったのだ。

 相談相手として論外なのが当の相手である香鈴である。影月の矜持は個人的なことについてはあまり高くない。だがさすがに男としてはそれはどうだろうと思うのだ。きっと彼女は呆れた表情を浮かべるはず。だから香鈴にだけは相談したくないささやかな男心である。
 そうなるともう、やはり自分で結論を出すしかなく、この難問が数日来、影月を悩ませていたのだった。


 騎馬の旅とはいえ夜はきちんと休む。季節がもっとも寒い時期でもあるのでさすがに野宿は避け、なるべく宿を取るようにはしている。この顔ぶれであるとつい下の上くらいを選びがちではあったが。
 夕食の後の時間、周囲は気を使ってくれているのだろう。いつのまにか宿の室で香鈴とふたりきりになっていることが多い。残ろうとする龍蓮は秀麗が引きずって行ってしまう。
 眠るまでの短い時間、そうしてふたりしてなんとなく過ごす贅沢な時間。
 隣り合って腰を下ろして。語り合うさなかに指を絡ませても拒絶されることはない。組み替え、握り締めて指先から伝わる熱だけを意識して他愛のない会話を交わす。影月が笑って。香鈴が怒ったり拗ねたりして。ただそれを幸せだと思う。
 だがそれだけで満足できないのは何故だろう?
 十分すぎるほど満ち足りているはずなのに、何故まだ足りないと思うのだろう?
 もっと指先以外からの特別な場所の熱を分かち合いたいのだ。
 こうして過ごす時間は更に一歩近づくのに問題なさそうではあるが、いざ実行するには自信がない。

(がっついてる……とか、焦ってるとか思われちゃっても嫌だしなあ)
 少年の悩みにはまだ答が出ないのだった。



 虎林郡を抜けて初めての宿を取った夜は、望月の光がまばゆく周囲を照らしていた。あのすべてを失って取り戻した三日月の夜から十日余り過ぎたのだ。
 影月は室内にいるのがもったいなくなって、今夜は外を散歩しようと香鈴を誘ってみることにした。宿の周りは人家もない村のはずれで、僅かばかりの雑木林の向こうに月がぽっかりと浮かんで呼んでいるようだ。
「こんな寒い中を散歩だなんて酔狂ですわ!」
 とか言葉と態度だけ見れば呆れているようだが、しっかり二人分の外套を持っている彼女の姿に思わず笑みがこぼれる。
 月の光の照らす道で手を差し伸べると、当たり前のように預けられる自分よりも華奢な手。繋いだ温もりを心地よく感じながら他愛のない会話の中、話の接ぎ穂を探しながら影月は思案する。
 こういう時ならいいのか。いつなら許されるのか。
 並んで歩く自分よりもいくらか低い位置にある小さな唇を何度も盗み見る。それが朱く濡れたように誘って見えることを、例え月明かりが遮られる木々の下であっても、影月は知っている。
 あの捕われた洞窟で、微かに触れ合うだけであっても、彼女から伝えられた温もりが、まるで自分が普通に生きている人間であるかのようにこの身を暖めた。
 繋がれた手からも温もりは届くけれど、唇からならばもっと熱いものが吹き付ける。
 それはまさしく生命の息吹。彼を生きた人にする強いちから。
 ……もっとも、そう考えていることも間違いではないのだが、単に影月は香鈴に口づけしたいのだ。他の誰でもなく、ただこの少女の唇が欲しいのだ、どうしても。


「きゃっ」
 考え込んでしまって無言になった半歩ばかり先を行く影月に追いつこうと焦りでもしたのだろうか。小さな叫びを漏らして張り出した木の根に足を取られたらしい香鈴の身体が前へと傾いだ。咄嗟に全身で受け止めようとした影月だったが、無理な体制では支えきることができずに、そのまま後ろ向きに香鈴を抱え込んだまま地面へと倒れ込むことになった。
「痛っ……!」
「影月様!」
 どうやら腰をしたたかに打ち付けたようだ。上半身を起こすと少し痛みに呻いたが、しっかりと腕の中に抱えたままの少女が無事であることに、安堵する気持ちのほうが大きかった。
「香鈴さん、大丈夫ですか?」
「そ、それはわたくしの台詞ですの!」
 彼女の瞳をたちまち潤すものが月の光を受けて星のように煌めく。
(ああ、きれいだなあ)
 吐息とともに影月は至近距離にある朱い唇に引き寄せられるように自分の唇を重ねていた――。

 呆然としていたらしい香鈴の耳がたちまちに赤く染まっていくのを開いた目が最初に写した。
「あ、頭も一緒に打たれたのではありませんのっ!?」
「え? 腰を打っただけで頭は無事ですけどー」
 香鈴の発言の意図を捉えそこねて影月は首を傾げる。
「嘘ですわ! でなければ急にこ、こんなこと……!」
 耳だけでなく今や顔中を赤くして影月の腕から逃れようと香鈴が暴れ出した。
「きれいだなあって思ったんです」
 だが香鈴の両手首を左右の手であっさりと捕らえて影月は考えながら言葉を捜す。
「そんな理由でしちゃ、いけませんでした?」
 あれほど悩んだことを衝動が一瞬で成し遂げてしまった。許されるかどうかは別にして、実に呆気なく。
「僕は……香鈴さんが好きだから、あなたを大切にしたいけれど、こうして触れたいとも思うんです」
 石榮村でも旅の宿でも。室は違えどそれほど離れて休むわけではない。だから香鈴が眠りながらうなされていることも知っている。彼女が見ているのはきっとあの時の夢。今もまだ、影月が影月でなくなることを。それは龍蓮が抱いているであろう喪失の恐怖とも似ている。なるべく眠らねばならないぎりぎりまで影月であることを確かめて。そうして毎朝陽月でないことを確認できるまで彼女の表情は固くこわばっている。後どのくらいの時間を経ればその恐怖から彼女を解放できるのだろう?
 そうして本当ならばこの身体はとうに陽月のものになっているはずだった。けれどまだ自分で使うことを許されて。陽月ならばこんな使い方を香鈴にはしないだろう……たぶん。
 だからこれは香鈴という一人の少女を愛しいと思う杜影月ならではを証明するものではないだろうか。

「愛おしい……そう思うから。だから、こんなふうに」
 影月は僅かに首を傾けてそっともう一度香鈴の唇を奪う。
 飲食と会話以外に使うことなどないと思っていた唇。これは彼女に触れるためにもあるのだ。言葉より先に溢れる想いを伝える手段として。
 こんなに簡単なことだったのだ。唇と唇を触れ合わせて、二人の距離をなくすことは。
「最初は堂主様と陽月だけだったのに、大切な人はこの一年でたくさんに増えました。でも」
 家族ではまだない。友人にも戻れない。戻りたくはない。庇護欲と独占欲に目が眩みそうになる。
 失わずにすんで、どうしても手放したくはなかった彼女をこの手にやっと捉えた。これほどこの胸を温め、同時にこれほどこの胸に痛みを与えるただひとりの特別な存在だから。

「こうして触れたいのは香鈴さんだけなんです」
 香鈴が逃げ出さないと確信して手を放し、自由になった指で彼女の唇をなぞると、ぴくり、と僅かに開かれた朱唇が震えた。
「だ、だからって! あ、あなたときたら、そんな呑気なお顔してらっしゃるのに手が早すぎるんですのっ」
「え? 顔は別に関係ないんじゃ……」
 キッと眦を吊り上げて香鈴が抗議してくるが真っ赤な顔をしていては効果は半減の上、影月には途轍もなく可愛らしく映るばかり。さすがに理不尽だと思い反論を試みるが彼女はなおも畳み掛けてきた。
「だって詐欺ではありませんの! お顔に『安全です』って書いて、わたくしを油断させて!」
「別に油断させたつもりもありませんしー」
 人畜無害。そう言われて嬉しい男はあまりいないのではないだろうか。
「――まさか、わ、わたくし以外にとっくになさって慣れていらっしゃるとか!?」
「香鈴さん以外にしたことないです! こんなこと、香鈴さんにしか、したくないですから!」
 顔色を変えた香鈴からの濡れ衣を晴らすべく重ねて主張すると、ようやく香鈴が安堵のため息をついておずおずと両手を影月の背へと回してきた。
「それでは。もっと雰囲気をお読みになってくださらないと」
「香鈴さんを可愛いとか綺麗だとか愛しいとか、そう僕が思った時では駄目ですか?」
 額と額を寄せて間近で見つめると、香鈴は眼差しを隠すように目を伏せてしまった。触れ合う額が熱を帯びているのがわかる。
 羞恥に震える香鈴を可愛いと思いながら、影月はふと自分の発言の解釈に気がついた。
「ああ! それならずっと口づけし続けてないといけませんよねえ」
「い、いい加減になさって!」
 照れ隠しのように叫んだ香鈴をぎゅっと抱きしめて影月は心から笑う。
 この瞬間の全てが奇跡。彼女の傍にいられる奇跡。彼女を思うことをこれからも許された奇跡。そうして彼女から返される想いが奇跡。感謝してもしきれることはない。
 互いの心の傷はまだまだ癒えることはないだろう。消えずにずっと持ち続けるだろう。それでも。こうして自分に委ねられる手を守りたいと思う。出来る限りの力で。そのためにもより一層、この生を無駄にせずに過ごそうと思うのだ。
 何よりも、誰よりも傍で生きて見つめ続けてていたい、ずっと共にいることを誓ったこの愛しい少女のためにも。


 だから影月は幾度となく唇を寄せる。躊躇いよりも強い愛しさを伝えるために、その距離をなくして――。


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『唇までの距離』(くちびるまでのきょり)


つきあいはじめた恋人たちにとって、キスのタイミングは悩みのひとつだと思います。
特に男性は。
ようやく晴れて恋人同士になったのだから手を繋ぐ以上の関係にもなりたい。
というような、影月が「普通の男の子」の悩みを満喫できるようになった、というお話です。
原作からしてあの行動力ですし、初めてでもないわけで、きっと三度目は早いだろうなあという推測の元生まれました。
キス魔誕生というか(苦笑)
ちょっと久しぶりすぎて文章がくどいのはどうかお許しを。