真昼の月
(まひるのつき)




「ごめんくださいー」
 軒から降りると、影月は自ら門に近づく。
「いけません、影月様。そういったことは私がいたしますから」
 御者をしてくれていた州牧邸の家人が、慌てて影月を制した。
「……すみません、そういうの、慣れてなくって」
 そもそも、軒に乗る、という発想が影月にはない。訪問先だとて、歩いて十分に行ける距離だ。
 しかし、今回は、櫂瑜より軒を使って正式に訪問するよう言われていた。


「よろしいですか、影月君。君は今後、他州に配属されることもあるのです。いえ、私の後継者として、八州をおそらくは巡ることになるでしょう。
 ここ茶州において、現当主の克洵殿と君が親しいことはわかっています。しかし、他州ではそうもいきません。八州に勤める国官にとって、彩七家との交渉は非常に重要です。たまたま、今まで君が知り合った彩七家の関係者は、君によくしてくれたかもしれません。ですが、国と民のために働く我々と、彩七家とでは利害のずれが必ずあります。むしろ、表面上では官吏を立ててくれていても、裏ではたいてい好き勝手に動かれるものです。
 彩七家への対応の仕方はこれから徐々にお教えいたしますが、まずは私の名代として、きちんと茶家を訪問してきてください」


 本日は公休日で。だから用意されたのは州牧邸の軒。官服の衿を気にしながら、なんとはなしに気まずい影月である。
 取次ぎが行われ、影月は茶家本邸の奥深くへと導かれる。豪勢な客間は、影月には正直居心地が良くない。茶家は彩七家の末端。しかも、差し押さえだのの後でも、これである。
(これ、藍家とかの客間だったら、想像もつかないかも……)
 宮城に勤務したことがある影月だが、走り回っていたのは外朝のほんの一部に過ぎない。香鈴が話して聞かせてくれた内朝―後宮など、きっと仙境のようなところに違いない。
 侍女に供された茶器に口をつける気にもならず、けれど正式な州牧からの遣いということで、きょろきょろするわけにもいかず、落ちつかぬまま浅く椅子に腰掛けて、影月は主の登場を待った。


「お待たせしました、杜州尹」
 やがて、茶家の現当主、茶克洵が現れた。
「お忙しいところを茶家ご当主におかれましては……」
「いえ、杜州尹にもわざわざご足労おかけいたしまして……」
 しばし儀礼的な会話が続いた。
 しかし、克洵のために新たな茶を持った侍女が退出すると、ふたりして、同時に噴出した。
「なんだか難しいよねえ、無理に堅苦しくするって」
「櫂瑜様のおっしゃることも判るんですけどねー」
 そう、これは克洵のためでもある。現在州府にいるのは知古の者ばかり。だが、いずれは中央より別の人物が配属されるだろう。その時、毅然とした態度をとれないと、侮られる原因となる。
 一度くだけた態度は、真面目にしようとすればするほど滑稽になっていく。
「きょ、今日のところはっ、大目にみていただこうよ」
「そ、そうですよねっ、今日はもう無理ですよねっ」
 笑いすぎて涙のにじんだ目をこすると、それでも克洵は仕事の顔に戻った。
「それで、州牧からのご用は」
「あ、はい、こちらにしたためてありますー」
 しばし書類に目をやっていた克洵は、やがてうなずく。
「うん、わかった。すぐに承諾の文書を用意するよ。ちょっと待っててくれるかな」
「はいー。今日は時間もありますし」
 立ち上がった克洵は、執務室に向かいかけ、ふいに振り向いた。
「ねえ、『杜州尹』の仕事は、基本的にこれで終わりだよね?」
「ええ、お返事いただいて帰ればおしまいですー」
「あのさ、春姫がね、影月君に話したいことがあるんだって。呼んできてもいいかな?」
「春姫さんが? 僕はかまいませんけど」
「じゃあ、呼んで来る。その間に僕は文書の用意してるから」


 待つほどもなく、客間の扉を開けて、克洵の妻、春姫が現れた。未だ、人妻というより少女の雰囲気の春姫ではあったが、その落ち着きようは、英姫仕込みなのか、はたまた生来のものなのか。
 春姫の手には文箱のようなものが見えた。
「いらせられませ、影月様」
「いえ。お邪魔してますー」
「影月様と一度、二人だけでお話したいと思っておりましたの」
「ああ、そう言えば、なかったですよねー」
 克洵とであったり、香鈴とであったり。確かに一対一で春姫と会った記憶はない。
「実は。影月様にお見せしたいものがございますの」
 春姫は、持ち込んだ文箱を開ける。中には、たくさんの料紙がつまっている。その中から一枚を取り出すと、影月に差し出した。
「どうぞご覧くださいませ」
「僕が見てもいいんですか?」
「ええ、ぜひ」
 言われて、影月は手の中の書簡に目をやる。うす紅の繊細な料紙には幼い印象の文字が綴ってあった。幼いと言えど、端正な文字である。

 ――大好きな春姫お姉さまへ――

「あの、これって」
「はい。幼い香鈴がわたくしへと宛てた手紙ですわ」
 内容は他愛のないことで、春姫の祖父にあたる鴛洵のこと、今習っている楽器のこと、そうして、自分がどれほど春姫に会いたいと思っているかが、つらねられていた。
「な、なんか、可愛いですねー」
 思わず微笑んでいた影月は料紙を春姫に返す。受け取った春姫も、愛しさをこめた視線で、手の中の文字をたどる。
「香鈴がわたくしの祖父、鴛洵に育てられたことは、影月様ももうご存知でいらっしゃいますよね」
「はい。香鈴さんにうかがいましたー」
「香鈴が引き取られましたのは、貴陽が荒廃する最中。波紋はこの茶州にも及び、わたくしは両親を一度に失いました」
「……」
「もちろん、悲嘆にくれておりましたけれど、そんなわたくしのところにお祖父様から文が届きましたの。『春姫、おまえに妹ができた』と。
 両親を失ったばかりのわたくしに、また新しい家族ができたのだと知り、どれほど力づけられたことでしょう」
 新しい家族。華眞を思い出し、影月もそっと微笑む。
「やがて、わたくしたちは頻繁に文をやりとりするようになりました。
 小さな香鈴は、わたくしのことを『お姉さま』と呼んで慕ってくれましたの。貴陽と琥漣では会うこともままなりませんでしたが、わたくしは、香鈴が愛おしくてなりませんでした」
 春姫の目は思い出を辿るように細められる。しかし、次の瞬間、表情が暗くなった。
「けれど、いつのころからか、香鈴は『お姉さま』とは呼んでくれなくなったのです。おそらくは、誰かに注意でもされたのでしょう。それが、わたくしにはとても寂しく感じられて――」
 ついと椅子から立ち上がった春姫はゆっくりと窓に向かいながら言葉を続ける。
「香鈴から最後に届いた文には、お祖父様の指示で後宮に参ります、とだけ。
 お祖父様にはお祖父様のお考えもあったのでしょう。ですが、後宮に勤めるということで、愛する妹とついに会うことが叶わなくなったのかと、胸を痛めたものです」
 そう。後宮に勤めることは名誉ではある。後宮を辞した後なら、どれほどの家格の家であろうと喜んで迎える。だが、もし王の手がついてしまったならば。二度と後宮を出ることも叶わないのだ。
「お祖父様はこの世を去られました。
 実際のところ、どのように、何故お祖父様が亡くなったのか、真相は明らかにされておりません。こればかりは、決してお祖母様も香鈴も話してはくれません。おそらくは、国の上部で何やらあったのだと推測いたしますが。
 お祖父様を亡くしたのはそれは悲しいことでしたけれど、香鈴がこちらにやってくる、と知らされたわたくしは大喜びで迎えました。ずっと会いたいと思っていた妹です」
 春姫は料紙を抱きしめて、言葉を続ける。影月はただ黙って春姫の声に耳を傾けていた。
 これもまた、香鈴の過去なのだ。影月の知ることのなかった、出会う前の。
「けれど、ようやく会えた香鈴は抜け殻のようでした。何もかもに絶望していたのです。
 ようやく、お祖母様にお会いして言葉を取り戻して。それでもまだ、泣き続けて……。どれほどそんな状態が続いたことか。
 けれど、仲障大叔父様や茶家の方々が、お祖母様やわたくしに危害を与えようとされたのを見て、立ち上がってくれました。邸を抜け出した香鈴が燕青殿に伝えてくれなければ、わたくしが翔琳殿のもとに匿われることもできなかったでしょう」
 春姫は椅子に戻って腰を下ろすと、まっすぐに影月を見つめた。
「秀麗様に伺いました。香鈴が表情を取り戻したのは、ひとえに、影月様のおかげとか」
「え、いえ、僕は何も……」
 出会ったころの香鈴のただ頑なだった表情が思い出された。だがそれは、徐々にはがれ落ち――。
「どうか、わたくしの妹をよろしくお願いいたします」
 春姫は深く頭を下げた。
「あ、あのっ春姫さん、顔を上げてください」
「影月様にしかあの子をまかせることはできません。影月様とお会いできたことは、香鈴にとって最大の幸福であったと思います」
「あ、いえ、それは僕のほうこそで。香鈴さんの今があるのは、亡くなった鴛洵さんや英姫さんや、そして春姫さんが手を差し伸べてくださったからだと聞いています。だからどうか、顔を上げてください」
 春姫も影月も、そうやって頭を下げあったりしていたが、やがてその滑稽さに気が付き、二人して笑いあった。
 そんな折、客間の扉を叩く音がし、茶家のお仕着せをまとった青年が入ってきた。
「失礼いたします。こちらに杜影月様がいらっしゃるとか。大奥様がぜひお会いしたいとのことですが、いかがなさいますでしょうか」
 青年の言葉に春姫は首を傾げる。
「お祖母様が?」
「僕に?」
 春姫以上に一対一で会うことなど想定もしていなかった相手に影月は驚いた。
「杜影月様さえよろしければと」
「あー、はい、お会いしますー。春姫さん、それじゃあ」
「はい。わたくしのお話は終わりましたわ。いってらっしゃいませ」


 家人に先導され、複雑に入り組んだ通路を通り、やがて辿り着いた一室。
(うわっ、あいかわらず迫力あるなあ)
 案内された影月は、すっきりと立ち上がった縹英姫の姿を見て、そう思った。
(威厳って、こういうのを言うんだろうな。どうやったら身に付くのかなー)
 感心しきりの影月は、勧められるまま席に着く。
「わざわざのお越し、いたみいります」
「とんでもないです。お会いできて嬉しいです」
 少し迫力はありすぎるものの、縹英姫には好意を抱いている影月である。にっこり笑った影月を英姫はじっと見つめた。
「杜州尹、影月殿とお呼びしてもよろしいか」
「はいー。どうぞ」
「影月殿には我が不肖の孫共が親しくさせていただいているよし、心から感謝いたす」
「あ、いえー。克洵さんも春姫さんもすっごくいい方たちで、僕の方が親しくしてもらって嬉しいです」
 大好きな年上の友人たちは、いつだって影月に好意的だった。
 英姫は特に表情をゆるめるでもなく、言葉を続けた。
「そして、もうひとりの孫についても」
 少し怪訝な表情で影月は英姫を見る。
「我が夫、茶鴛洵は、養い子である香鈴を養女とし、茶香鈴とした。故に、香鈴はわたくしのもうひとりの孫娘となる。知っておったかえ?」
 知っていたかと問われれば、知りませんでしたと答えるしかない。香鈴からも、そんなことは聞いたことがなかったし、先ほどの春姫の話でも『妹のようなもの』と解釈していた影月である。
「茶家の内情が内情であったため、自身の判断で語ってはおらなんだのじゃろう」
 英姫の目が遠くを見つめる。その先には鴛洵の姿があるのだろうか。
「あの娘、香鈴はのう、我が夫を心から慕おてくれた。そのために取った手段は決して褒められたものではなかろうが、その心の様がわたくしには手に取るように判ったものよ。それ故、夫の養い子という以上にわたくしはあの娘を愛しいと思う」
 一転して、英姫の瞳にきびしいものが光った。
「杜影月殿。これ以降も国のため、民のためつくしていかれる所存か」
「はい。僕にできる限りのことをしたいと思います」
 思わず、影月は背筋を伸ばして答えていた。
「ならば、あの娘が茶家の娘であることを利用するがいい。茶鴛洵の愛し子を妻とすることで、人はそなたの後に茶家の庇護を見るであろう」
「つ……妻ってっ」
 飛び出した単語に影月は慌てる。
 英姫はやおら眦を吊り上げると、手にしていた羽扇を影月に向かって突き出した。
「ひとつ布団で眠っておきながら責任を回避しやるかっ!」
「そんなつもりありません! ってか、どうして知ってらっしゃるんです!?」
 真っ赤になって首を振る影月の頭の中には、縹家の数々の逸話が浮かんだ。英姫の持つという異能であろうか。
 ふっと、英姫の表情がなごむ。はたはたと羽扇が揺られた。
「ふん、やはりな」
(ひ、ひっかけられた――?)
「先ごろ会おた香鈴の様子からそのように推察したまでよ。あの娘がそなた以外に肌を許すことはあるまいて。ならばその相手はそなたしかおらん」
(そうですか、そういう理屈ですか……)
 脱力した影月には最早反論のしようもない。もとより言質を取られたとはいえ、白状させられてしまった言葉は取り返せない。
「そなたには鴛洵と同じ匂いがしやるわ。国と民と。いつだってそんなもので一杯であった優しすぎた我が君にの。まったくあの娘、趣味は悪くない――」
 そうして、羽扇を置くと、英姫は影月に向けて頭を下げてみせた。
「鴛洵が愛しみ育てた娘、香鈴を任せられるのは影月殿、そなたしかおらん。よろしく頼みますぞ。
 ただし。万が一でも浮気などしようものならこの縹英姫、ただではおきませぬからの」


 どうやって再び客間に戻ってきたのか、影月にはわからなかった。気が付くと、克洵が心配そうな顔で待っていた。
「お祖母様に呼び出されたって? 大丈夫だったかい?」
 克洵の顔を見ているうちに、影月の思考は徐々に明確になっていった。
「克洵さん、英姫さんって、ほんとうに、なんていうか……」
「うん、すごい人だろう?」
 苦笑しながら、それでも克洵は言う。
「でも、僕はあの人がとても好きだよ」
「あ、僕もですー」
 そう、英姫がたいした女性なのは間違いない。そしてまた、愛しいひとの大切な人でもある。
「はい、お待たせ。これを櫂州牧にお渡ししてくれるね」
「たしかに、お預かりしましたー」
「よければ夕食を一緒にどうかな?」
「嬉しいです。でも……」
 影月の表情を見て、克洵は笑い出す。
「そうだね。きっと香鈴が待ってるね。引き止めるわけにはいかないなあ。じゃあ、今度、香鈴とふたりで来ておくれよ」
「ぜひ」
 立ち上がった影月を自ら案内しようとした克洵は、ふいに振り返る。
「そうそう、お祖母様も春姫も、実は香鈴のことすごく大切に思ってるんだ。僕にとっても義妹になるのかな。だから、香鈴のこと、よろしく頼むね」
 そうして、克洵は何かに気付いたように手を打った。
「あ、影月君が香鈴と結婚したら、影月君、僕の義弟になるんだね!? 僕は末っ子だったからうれしいなあ。その時にはお義兄さんとか呼んで欲しいな」
(……茶家の人って、結構先走りなのかなあ)
 そんな考えが頭をよぎったが、暖かい気持ちの方が強かった。
「克洵さんがお義兄さんですかー。それは、いいですねー」
「ええと、影月君が今、十五だっけ?じゃあ後……三年くらい後かな」
「んー、そのくらいですよね、やっぱり」
「楽しみだね」
 克洵の心からの笑みに、そうですね、と影月もまた笑い返した。


 軒が州牧邸の門の前に付けられる。茶家本邸ほどのきらびやかさがない佇まいに、影月はほっと息をつく。一日御者をしてくれた家人に礼を言うと玄関に向かう。
 軒の音が聞こえたのだろう。軽い足音が近づいてきて、影月を迎えた。
「おかえりなさいませ、影月様」
「ただいま帰りました、香鈴さん」
 なんだか久しぶりに顔を見た気がして、影月は嬉しくなって微笑みかけた。
「櫂瑜様がお室でお待ちですわ」
「すぐ行きますー。あ、香鈴さん?」
「なんですの?」
「お夕食が終わったら少し時間をくれませんか?」
「後片付けを済ませた後でもかまいません?」
「もちろんです」
「それではまた後ほど」
 香鈴は一礼して庖廚に向かい、影月は櫂瑜の室に向かった。


「櫂瑜様、ただいま戻りましたー」
「お疲れ様でしたね、影月君」
「克洵さん―茶家ご当主からの返答はこちらです」
「確かに」
 櫂瑜は、すべるような動きで影月から返書を受け取る。その仕草ひとつとっても、まったく年齢を意識させない。
「さて、改めての茶家訪問はいかがでしたか?」
「すっごく、居心地悪かったです。お室とかもすごい立派ですし」
「藍紅両家の邸に比べると、まだまだおとなしいものですよ。趣向に富んだ碧家の邸もなかなかのものですが。そういったことにも慣れていくことですね」
「はいー。あまり自信はありませんけどー」
 色々なところへも連れて行こうと櫂瑜は約束した。
「慣れることが一番ですから」
 と。
「それで、茶家では何かありましたか?」
「克洵さんにお会いしてー。それから春姫さんとお話して。最後には英姫さんにもお会いしました」
「英姫嬢ですか。彼女はまったく素晴らしい女性ですよね」
 あの、縹英姫を『英姫嬢』などと呼べるのは、今となっては櫂瑜くらいだろう。影月は素直に感心した。
「それで、どんな話をされたか聞いてもよろしいですか?」
 さすがに、影月は一瞬言葉を失う。走馬灯のように濃い訪問が思い出される。
「えーと、つまり。そのー。……結局、香鈴さんをよろしくってことだったみたいです……」
 影月の顔は赤くなり語尾は途切れるほど小さくなった。
「それはうらやましいですね。香鈴嬢は、愛らしく、賢く、女性としての美徳にあふれています。しっかりつかまえておくことです。私だとて五十も若かったならば放っておきませんね」
 いやもう、今でさえ櫂瑜にそんなことを言われれば、影月に勝ち目はなさそうな気になる。
「心だけでなく彼女の育ちも、いつか君の助けになるでしょう。鴛洵は彼女に沢山のものを与えましたが、その最たるものは、茶家の家名です」
 櫂瑜は愛しむような視線を後継者として選んだ少年に向ける。
「君たちを見ていますと、早く所帯を持たせてあげたいところではありますが、まだ今の君には教えることが多すぎますし、政略結婚でもないのに急ぎすぎると世間にあらぬ誤解を生みかねません」
 櫂瑜の言葉に影月もうなずく。
「――とは言え、鴛洵が見られなかった香鈴嬢の花嫁姿、見逃すつもりはまったくありませんが。その日が来るのが待ち遠しいですね。きっと、仙女のように美しい花嫁になることでしょう」
 結局のところ、自分のまわりの人物は、多かれ少なかれ先走りすぎるのでは……と、影月は少し思った。




「影月様、お待たせいたしました」
 食後の後片付けを終えた香鈴が現れると、影月は彼女を庭園に誘った。
 庭院の一角に設けられた東屋へと導いて腰を下ろすと、影月は乾いた唇をしめらせてから声を出した。
「香鈴さん――」
「はい?」
「まだ、僕が一人前になるまで時間がかかりますけど、その時、その時になったら――」
 一息ついて、一気に言い切る。
「お嫁にきてくれますか――?」
 黙って聞いていた香鈴は、さっと頬を染めるが、すぐにはうなずかなかった。
「それは、まだ先のお話ですのよね?」
「そうなります、ね」
 たぶん、まだ二年か三年か。そんな先の話を自分がしているかと思うと、影月は妙な気になった。
「では。お返事は保留ということにさせていただきますわ」
 影月は目を白黒させる。自分たちは恋人同士のはずで。それなのにどうしてそういう返答になるのだろうか。
 影月の疑問を読み取ったらしい香鈴はすました顔で告げる。
「わたくし、まだまだ自分を磨いている最中ですの。あと数年あるのでしたら、それまでにもっといい女になってみせますわ。ですから――」
 香鈴の瞳にいたずらっぽい光が浮かんだ。
「影月様もずっとわたくしの心を捉えて離さないような、そんな殿方になってくださいませ」
 そう言ってひらりと身をひるがえした香鈴を影月は逃がさないようそっと引き寄せる。
「ええと、香鈴さんを好きなことではずっと誰にも負けないと思います。だから――」
「だから?」
「お手本にも事欠きませんし、できるだけ、がんばってみますー」
「楽しみにしておりますわ」
 香鈴が軽やかに笑い声をあげる。そうして影月もまた、笑って香鈴を抱きしめた。


 それは、きっとまだ先のこと。
 けれど、そんな未来を信じていけることに限りない幸福を感じながら――。


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「真昼の月」(まひるのつき)


影月のお宅訪問茶家本邸編というか。
時間的に『早花月譚』『花待宵月』の後になります。

どのへんが「真昼の月」かといいますと、訪ねた時間というか(笑)
あと、月が本格的に姿を現す(婚姻に辿り着く)まではまだ間がある、といったかんじですか。…どちらにしても、直感でつけたタイトルなので、後付なんですけど(苦笑)

これで書きたかったのは何かというと、ずばり。
「英姫に一線を越えたのがばれて慌てる影月」(爆)

で、テーマは「茶家の面々より『香鈴をよろしく』と念押しコールされる影月」です。
はっきり言って、誰も破局するなど思ってもいません。
万が一、影月が浮気でもしようものなら殺されるかもしれません(笑)


日記で少し悩んだのはこの話のせいです。
結局、香鈴には「茶」の姓を名乗ってもらうことにしました。
茶門家筋の名前が判らなかったせいではありません。
鴛洵さまが「君ののぞむものはすべてあげよう」的発言をされていたのですが、香鈴にとって、まず衣食住、安全、教育、などなど欲しいものは数多あったとは思いますが、愛する存在としての「家族」が欲しかったんじゃないかな、と。
門家筋でも後宮入りするには十分でしょうが、貴妃付きになるくらいであれば、茶家の養女の方が確実かと。
もし、今後原作で香鈴の姓が出ることがあれば、その時は変更を余儀なくされるわけですけどね。まあ、たぶん大丈夫かな。

原作では、英姫から香鈴への感情というのはほとんど語られてはいませんが、実際のところ、そう思ってるんじゃないかなー、と。なんと言っても同じ趣味の持ち主同士の連帯感というか(笑)
茶家の中では鴛洵に一番似ているのは克洵でしたが、むしろ影月の方が似てる気がするんです。
扁桃体というものがありまして、幼少時に接した身近な異性というのが、その後の異性の好みを左右するとかいう話も。
そこまで香鈴が鴛洵と出会ったのは幼くないですけれど、人間の好みなんて早々変わらないもんだな、とか思う次第です。

個人的に妄想しているふたりのゴールイン時期ですが、やはり影月が17か18になってからかと思っています。
もしかしたらいつか、そのあたりの妄想を書くことがあるかもしれません。