魔法がとけたそのあとも




 ようやく、堅苦しい盛装から解放されて、影月は自室で思い切り伸びをする。
 今日は発見の多い日だったと思う。特に、自分について。
(結構、大胆というか強引なことしちゃったなあ)
 それはきっと、栗主益という期間限定の呪文と、人通りのない街路と、そして何より――。
(今日の香鈴さんはすごくすごくきれいで……)
 官服を片付ける手がつい止まって、気が付けば今日の彼女の姿を思い返している。
 あんな姿が拝めるのであれば、堅苦しい盛装だって我慢できないことはない。ごく、たまになら、ではあるけれど。

(もう少し、あのままいたかったな)
 できることならば、いつまでも帰りたくなかった。州牧邸の塀が見えた時には、見なかったことにしてそのまま通り過ぎようかと思ったくらいだ。
 だが、理性が勝った。――今夜は。
 それでもいつまで理性が勝ち続けられるか、自分でも疑問だ。
 何かのきっかけがあれば、それは簡単に決壊しそうな気もした。


 そんなことをつらつら考えていると、小さく扉を叩く音が聞こえた。
「影月様、よろしいですか? 月餅とお茶をお持ちしましたの」
「は、はい! どうぞ」
 そういえば、土産を持たされていたことなどすっかり忘れていた。食事が終わってから随分時間をかけて戻ったので、何かそろそろつまんでもいい頃合だ。
 影月は慌てて扉を開けた。

 扉のむこう、廊下の暗がりではわからなかったものの、自室の灯火の下に招き入れた香鈴の姿を見た影月は、思わず動きを止めた。
 ほとんどおろして流された黒髪に作られたちいさな髷。それを飾るのは――!

 香鈴は手早く卓子に盆を置き、茶を入れはじめている。
 が、いつまでも戸口で立ち尽くしたままの影月に焦れたらしい。
「いつまでそこにいらっしゃるんですの! お座りになってください!」
 ようやくのろのろと影月は動き卓子に近づくが、視線は香鈴の髪から離れない。
 もちろん、香鈴は視線の先に気付いたはずだ。
「何か文句でもおありですのっ! あなたがおっしゃったんじゃないですかっ! まだ日は変わってないんですものっ!」
 怒ったように早口でまくしたてられて、影月に思考が戻る。
 そう、自分が頼んだのだ。今夜はずっと、と――。

 影月は操られるように、用意された向かいの席ではなく、香鈴の隣に腰を下ろす。
「ど、どうしてこちらにお座りになるんですのっ」
「こっちがいいです」
「では、わたくしがあちらに参りますわ」
 立ち上がろうとした香鈴の手を引いて、影月は香鈴を留める。
「香鈴さんの隣がいいんです」
「……仕方ありませんわね」
 赤くなった顔を背けながら、香鈴は影月のために用意した茶器の場所を移す。
 温かい湯気をたてた湯のみと、切り分けた月餅を載せた小皿。
 小振りな月餅は切り口から満月のように見える鶉の卵が見えた。
「はい、召し上がってくださいね」
 本当はもう別のことばかり気になって月餅などどうでもよかったのだが、言われるまま影月は小皿に手を伸ばす。
 だが一口齧ってみて、
「おいしいです!」
 と言わずにはいられなかった。
 蓮の実餡はかなり甘いはずなのだが、卵の塩味がきいていて、絶妙な塩梅だった。
 上品に自分も月餅を口に運んでいた香鈴は、影月の反応に顔を輝かせる。
「そうですの! ですから、影月様にもぜひ召し上がっていただきたくて!」
 そんな表情を見せられてはたまらない。影月は衝動のまま香鈴を引き寄せた。

 口づけは、甘い甘いものになった。

「まだ、今夜、ですよね」
「……そうですわね」
 腕の中に閉じ込めたままの香鈴がうつむきながら小さく答えた。

「香鈴さんって、素直ですよねー」
 おそらく、影月への態度を知る人にはそう映らないかもしれないが、香鈴は他の誰にも憎まれ口など叩かない。多少、燕青や龍蓮には砕けているかもしれないが、そんなのは些少で。影月の前でだけ、彼女はハリネズミのように意地を張る。その意地は香鈴の鎧。香鈴にとって危険なのは、暗に影月だけと告げているようなものではないか。
 それさえ理解していれば、言葉や態度と裏腹な彼女の素直さなど、簡単に透かし見える。鎧の下には誰よりも不器用で無垢な少女が隠れているのだ。

「すっごい、かわいいですよね」
 重ねて言うと、香鈴は赤い顔を影月の胸に埋めたまま小さく告げる。
「影月様は、わたくしには意地悪なこともございますわ」
 あまり意地悪などと言われたことのない影月は少し面白くなって、あえて問い返す。
「えー? そうですか? そんなつもりまったくないんですけどー」
「意地悪なんですっ!」
 思った通り、強い口調で反発が入る。
「じゃあ、そういうことでもいいですけど。えーっと、そういうのも好きな子いじめとか言うんでしょうか?」
「存じません!」
 香鈴の耳まで赤くなっているのが見えて、影月はその顔が見たくてたまらなくなる。
「ねえ、香鈴さん。顔を上げてください」
 香鈴は意地のように顔を伏せたままだ。
「それじゃあ、せっかくのやどり木だって、意味ないですよ」
 本音はまだまだやどり木の恩恵に預かりたいところだ。

「やどり木なんて……」
 ふいに香鈴の口調が強くなる。
「え?」
「影月様には見えてらっしゃらないだけですわ!」
「えーっと、見えてますけど。これ」
 影月は、髪に刺さった小枝をつつく。
「そういう意味ではございませんの!」
「……すみません、よくわかりません」
「もう、よろしいのですわ! わたくし、そろそろ失礼させていただきます!」
 何が気に入らなかったのか、香鈴は影月の腕を振りほどいて立ち上がろうとする。もちろん、影月は腕に力を入れて拘束する。
「離してくださいませ!」
「いやです」
 ふり仰いだ香鈴の頬に片手を添えて、影月はそのまま唇を奪う。
 少しずつ位置をずらしながらも唇を離さず、声を上げる隙も息を整える機会も与えない。
 長く長く唇を塞がれたままの香鈴の身体から徐々に力が抜けていき、やがてはすっかり影月に己を委ねたまま、影月の口づけを受け入れていた。
 そう。いつだって。香鈴は影月を受け入れてくれる。
 どうしても許せないことがあれば、自分から働きかけてくれる。
 それは結局、影月を喜ばせることに繋がってしまうのだけれど。


 どこか遠くで日の変わったことを告げる鐘が鳴った。
 栗主益の一日目が終わったのだ。
 約束の一日目が――。

 無視しようとしてしきれず、影月はしぶしぶ唇を離す。だが、香鈴を抱えたままの腕は解かない。
 唇の離れた後も、香鈴は力を抜いたまま目を閉じて影月にもたれていた。その様はなんとも無防備だ。
 もし、自分の理性の垣根がもう少しだけでも低かったら。触れるのは唇だけでは済まない予感がある。
(でも気のせいか、前より垣根が低くなってる気がするんだよなー)
 影月は手を伸ばして、簪のように香鈴の髪を飾っていた小枝を抜き取る。たちまち髷は解けてするりと流れ落ちた。
 感謝の念をこめて、大事そうに小枝を卓子の上に載せ、戻した手で香鈴の髪をなでる。
「約束の一日、終わっちゃいましたよねー」
「ええ……」
 夢の中にいるように、香鈴からはぼんやりとした返事が返った。
 まっすぐに垂らされた髪を指でからめて、影月はつぶやく。
「でも、栗主益って、二日あるんですよねー」
 かすかに、腕の中の香鈴が身じろぎする。
「ただ、他の人に見られちゃうから、小枝をつけてもらうわけにいきませんし。
 だから、実際につけてなくても、僕には見えてるということにしてー」

 そこまで口にして、影月はふいに先ほどの香鈴の言葉を思い出す。
 影月に見えていないやどり木。
 それは栗主益の魔法が終わっても、きっと消えないで香鈴を飾っているのだ。


 ようやく気が付いた影月は、抱きしめた腕にさらに力をこめて囁いた。
「今日はまだ、栗主益のせいにしておきます。でも栗主益が終わっても――」


 あとはもう言葉はいらない。
 静かに降る雪のように淡い夢はとけることなく、いつまでも降り積もる。
 甘い口づけの形をとって。
 ふたりの間にいつまでも――。

(終)

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『魔法がとけたそのあとも』
(まほうがとけたそのあとも)



『約束の小枝』からの一連のお話もこれが最後です。
『夢のつづき』を書いた後、後は読んでくださった方のご想像にお任せします、とする予定でした。


しかし。
自分でも自然とさらにその後を考えはじめて。
少々別の意図が発生。

書き始める前に、自分でも『約束の小枝』から『夢のつづき』まで読み返しました。



なんというか。『夢のつづき』の後だったりしたら。
香鈴、食べられちゃいそうじゃないですか(苦笑)
でもまだ食べさせるわけにはいかないので、
寸止めのお預けをアピールするために結局書きました。
甘さとどめになっているとよいのですが。

しかし、うちの影月は。
書きながら絶対Sだと確信した一作でもありました(苦笑)

なお。彩雲国で「魔法」という単語はNGかとも思いましたが、
あえて使用してみました。
呪文より、魔法のイメージが強かったので。


クリスマス話への長々としたおつきあいありがとうございました。