秋の味覚にご用心
(あきのみかくにごようじん)

*この話は男女入れ替わりネタです。
女体化・男体化には当たらないかとは思いますが苦手な方はご注意ください。





 秋祭りを終えた琥lの街は冬支度に入る前の束の間の平穏に浸っていた。快適な気候に誰もが秋を満喫して過ごす。
 されど各々方。決して油断めされるな。
 天災は忘れた頃にやって来るものなのだから。



 休日の午後、窓を開け放った自室で影月は書物と戯れていた。茗才から借りたばかりの異国の旅行記である。著者同様に風変わりな風習に驚きつつ興味は尽きない。
 いつの日か共に訪ねてみたいものだと傍らの香鈴に視線を流す。今日の香鈴は刺繍に勤しんでおり、彼女の指先が次々と模様を生み出していく様はまるで奇跡のようにも見えた。
 穏やかな休日。恋人と過ごす静かな時間。影月は心が満たされているのを実感していた。遠く、鳥の鳴き声が甲高く響く。きっと高い秋の昊を悠々と羽ばたいているのだろう。
 だが唐突に届いた調子はずれの騒音が、静かな時間の終わりを無情に告げた。

 ぴーひょろりろひょろん。

 咄嗟に影月は香鈴と顔を見合わせる。
「もしや……」
「やっぱり……」
 心当たり満載の音色の後から、極彩色の羽を頭上に飾った人影が姿を現した。
「心の友其の二よ、久しいな」
「龍蓮さん!」
「龍蓮様!」
 その装束は彩雲国がいかに広くとも他では絶対にお目にかかれない個性的なもの。至るところに飾られた色とりどりの装飾品はただの石ころに色を塗っただけのものに波理のかけら、更には目玉の飛び出る本物の宝石とまさに玉石混合。
 奇抜な様相に目さえ奪われなければ端正な顔立ちの青年は、そのまま窓から影月の室へと侵入してきた。友人を迎えるのに細かいことを気にはしない影月ではあったが、泥だらけの靴に香鈴が眉を吊り上げているのを目で捉え、香鈴の精神安定上、龍蓮には窓からの出入りを控えてもらわねば……。と、そんなことを心の片隅に書き留めた。

「今日はふたりに土産があるのだ」
 床を汚したことへの香鈴の小言を聞き流し、外套を大きく広げて龍蓮は肩に掛けていた袋から何やら取り出す。
「うわあっ、大きいです!」
「松ノ茸……? にしてはあまりにも……。ですが、色、形、香り。どれも松ノ茸と同じですわね」
 龍蓮が差し出したのは香鈴が言う通り、秋の味覚の王様と呼ばれるキノコの中のキノコ、松ノ茸に見えた。しかし通常の松ノ茸のゆうに十倍の大きさ。傘部分だけでも人間の頭部ほどもありそうである。少しばかり開きかけた傘を持つそのキノコは、たちまち芳香を周囲に撒き散らし始めた。
「ここに来る道中に見つけたのだ。以前にも見つけて食したことがあるが、なかなかの美味であった」
 香鈴のキノコに向ける視線が真剣さを帯びる。これが単に巨大に育っただけの松ノ茸であれば、さぞかし食卓に魅力を添えることだろう。
「それではさっそく今晩の夕食にお出しいたしますわね」
「うむ。それは良いのだが」
 香鈴にキノコを渡しながら、龍蓮は条件を出してきた。
「何か問題でもあるんですか?」
「これは影月と香鈴、ふたりだけに食してもらいたいのだ」
 龍蓮は美食家の上に健啖家である。当然龍蓮も食べるつもりだと思い込んでいた影月は驚きに目を丸くした。
「でもこんなに大きいですし、龍蓮さんも一緒に食べましょう」
「そうですわ。櫂瑜様や燕青様、皆様にも召し上がっていただけるだけございますのよ」
「いや。これは是非ともふたりだけで完食して欲しいのだが。……駄目か?」
 何故だか影月を身長差から見下ろしているにも関わらず、彼が向ける視線には縋るようなものが揺れている。
「理由を聞いてもいいですか?」
「我が友情の証として。影月とそして香鈴に贈りたい。他の面々に関しては次回また考慮いたそう」
 龍蓮が自分に友情を感じてくれているのは知っている。香鈴を気に入っていることもだ。しかしこれまで香鈴に対しては自分や秀麗たちのように心の友とは呼ばず、克洵のように親しき友と呼ぶわけではなかった。もしかしたらどちらに香鈴を属させればいいか迷っているのかもしれなかったが、大切な乙女を龍蓮がはっきりと認めてくれたようでそれが影月には嬉しく、傍らの香鈴を振り返った。
「そこまで龍蓮さんが言うなら。……香鈴さん、菜をお願いしてもいいですか?」
「仕方ありませんわね。土瓶蒸しだけでは使いきれませんから影月様とわたくしの夕食は他の方と全部違うものを作らねばなりませんわ。よろしいですか?」
「もちろんです。香鈴さんのお菜が一番好きですから嬉しいです」
「う、腕によりをかけますわ」
 影月のごく正直な気持ちは香鈴にも伝わったらしい。彼女は力強く請け合ってくれた。


 その日の夕食時、影月と香鈴の席は下座に用意された。配膳の都合であろう。他の面々と同じ物はひとつとてない。
 香鈴は存分に腕をふるってくれたらしく、秋の味覚の王様は目にも舌にも好ましい物にと姿を変えていた。炊き込み御飯に土瓶蒸し。汁物、和え物、揚げ物、蒸し物、炒め物。そのどれもに龍蓮の土産がたっぷりと使われている。
「使い切るのに苦労いたしましたわ」
「ん、美味しいです。龍蓮さん、香鈴さん、ありがとうございます」
 松ノ茸の一番の魅力は何と言っても香り高さである。影月は食事を楽しみながら深々と吸い込む。
「おおっ! うまそうだな!」
 ぱしっ!
 影月の皿へと燕青の伸ばした箸を龍蓮の箸が鋭く遮った。
「すまぬがこれは遠慮してもらいたい」
「ちょっとくらいいいだろ? なあ影月?」
「僕は構わないんですけど」
 燕青に話を振られて影月は困った。菜は沢山あるから燕青に分けるのに異存はない。しかしそうすると龍蓮の心遣いを無碍にしてしまうのではないか。
「断る」
 だが影月の代わりに龍蓮が一刀両断してみせた。
「なんで龍蓮坊ちゃんが断るんだ?」
「これは我が友情のため。真の友ならば振舞おう」
「龍蓮坊ちゃんの真の友ねえ。姫さんと影月とあともう一人いるんだっけ?」
「真の友となった暁には、私の笛を心ゆくまで聞かせて進ぜるが」
「いや、それは……。今回は遠慮しとこう」
 龍蓮と燕青の遣り取りを見守って箸を止めたままの影月に、香鈴は菜が満載の皿を進めてきた。
「影月様、冷めないうちにお召し上がりくださいませ」
「はい、そうします」
 こうして影月と香鈴は季節特有の美味をたっぷりと賞味したのだった。




 穏かにその夜は過ぎたが、異変は翌朝になってやってきた。
 まだ外は薄暗い早朝。目覚めた影月は臥台の中で上半身を起こして伸びをする。
「んー、よく眠れた」
 ふと、伸ばした両腕がいつもより白くて細いような気がした。
「まさかねえ」
 頭を振ると横から流れる髪がやけに長い。
「あれ?」
 そのまま視線を落として、影月は固まった。胸が膨らんでいる。腫れているというのでなく、まるで女性の胸のようにしか見えない。
「え? え? え?」
 おそるおそる触ってみると、ふにゃっと見た目通りの感触が手に伝わる。
「な、なんで……」
 その時になって影月は声すら違うことにようやく思い至った。また重要度はかなり落ちるが、今いるのもよく知っている室のような気がするが明らかに自室ではないことも。
「か……鏡! 鏡を見よう!」
 慌てて臥台からすべりおりる。肌蹴た夜着からこぼれる白い腿から視線を逸らして鏡の前に立つと。
「えっ!? 香鈴さん!?」
 鏡に映っているのはどこから見ても香鈴だった。
「うわあーーーーーっ!」
 叫んで思わず腰を抜かすと、鏡の中の香鈴も同じく腰を抜かしていた。
 だから。その叫びに応えるように激しく扉を叩いて返事も聞かずに飛び込んで来たのが自分――夜着姿の“影月”だったことにはもう声もなかった。
「影月様ですの!?」
「はい。……って、その話し方、香鈴さんですか!?」
「そうですわ!」
 しばしふたりして見詰め合った。
「香鈴さんが僕で、僕が香鈴さん……?」
「もう訳がわかりませんわ! 目が覚めたらこんな、こんなことに……!」
 そうして影月はわっと泣き出した自分に抱きつかれるという前代未聞の体験をした。

 ともかくいつまでもこのまま呆然としているわけにもいかず、香鈴に手伝ってもらって着替えを済ませた。女物の衣類の着付けなど影月にわかるはずもない。
 されるがままに衣を重ねられ、髪を梳かれる。女性用の衣類は、常に着ているものよりも袖も裾もたっぷりとしており動き辛い。結い上げられた髪も意外な重さで首を圧迫した。
「それではわたくしも着替えて参ります」
「じゃあ今度は僕がお手伝いします」
 実際に香鈴に手伝いなど必要なさそうだったが、この状態で離れるのは気が進まなかった。誰かに説明するにせよ、ふたり一緒の方が面倒もない。香鈴も不安だったのだろう。すぐに了解して室を移動することになった。

 ふたりして香鈴の室から出て何歩か歩いた所で、ばったり燕青と顔を合わせる。長身の男は一瞬にやりと笑い、慌ててかき消すように真面目な表情を作ってみせた。
「影月。お前、いくら公認だからって堂々と朝帰りは感心できないぞ?」
「それどころではありませんの!」
 答えたのは夜着姿のままの“影月”だったため、燕青は顎に手を当てたまま頓狂な声を出した。
「はあ?」
「えーっと、燕青さん、説明はまた後で!」
「おい! ちょっと待て!」
 燕青を置き去りに、ふたりは足早に廊下を進んで影月の室へと飛び込んだのだった。


「影月君が香鈴嬢に、香鈴嬢が影月君に、ですか」
 着替え終えたふたりは、揃って櫂瑜の私室を訪ねた。早朝といえども洒落者の主は完璧な身支度を済ませて迎える。
「長く生きておりますが、さすがにこんなことは前代未聞です。まさかこの歳になって“初めての経験”が出来るとは思いも寄りませんでしたよ」
 奇天烈な話を聞かされてもさすがに櫂瑜に動揺は見えなかった。
「で、でも本当なんですの!」
 最年長の州牧は、勧められた椅子から立ち上がった香鈴に落ち着くよう手振りして穏かに話を続ける。
「もちろん信じますとも。君たちがそんな悪戯でこの年寄りをからかうことなどない真面目なふたりだとよく知っておりますから。しかし……」
 やや困った様子でふたりを見つめた。
「本当ならば周囲の混乱を避けるためにも今日はふたりともに休んでいただいた方がよいのですが、影月君にお願いしている案件は早急に仕上げてもらわないといけないのです」
「はい。僕もそれが気になって。急げば今日中に片付くと思うんですが」
 櫂瑜に師事するようになって一年以上になるが、最近櫂瑜は影月に重要な仕事を積極的に回すようになってきた。間違いなく州牧が処理すべき難しい内容のものも含まれる。今回影月に任されたのは他州との調整が必要な急ぎのもの。茶州だけの問題ではないために慎重にかつ迅速にと念を押されていた。そのために影月は先週かかりきりで取り組んだのだ。本来、休日明けの今日に最終的なまとめを済ませる予定であることは櫂瑜にも報告済みである。
「ではこういたしましょう。今日は香鈴嬢とふたりで出仕してください。香鈴嬢にこの件でお手伝いをお願いする必要があった……ということにします。ふたりしてなるべく州尹室から出ないで作業をしていれば余人に見つからずに済み、混乱も最小限で抑えられるでしょう」
 顔を見合わせて影月は香鈴に頼み込む。視線がやや上を向くのが妙な感じだ。
「香鈴さん、つきあってもらえますか?」
「ええ。仕方ございませんもの」

「ところで影月君」
 櫂瑜は執事の尚大を呼び出してふたりの事情を話し、燕青と家人全員に伝えるよう命じると、影月ひとりを残して退出させた。
「香鈴嬢の前では聞きがたいものですから」
 ふたりきりだというのに、近くに寄るよう手招きされて影月は従う。
「女性の身体を持った感想はいかがです?」
「頼りないです、すごく。回りの物が全部大きく見えて、自分が益々小さくなったような。歩幅も小さくて歩くのも大変で。髪も重いし、袖は引っかかるし、裾もたっぷりしているから踏んで転びそうですし。……でも一番困るのは」
「何ですか?」
 興味をそそられているらしい櫂瑜に逡巡しながらも影月は一番の悩みを伝えた。
「……揺れるんです、胸が。特に走ると」
「それは……まったく想像もつかない体験のようですね」
「はい……」
 しみじみと同情の籠もった視線を向けられ、影月はただため息をつくしかなかった。



 州城に向かわねばならない時間になると影月と香鈴は、今日の打ち合わせのために燕青と共に普段は乗らない櫂瑜の軒に同乗した。あくまでもふたりの身体が入れ替わったことをこの四人以外に知らせないよう念を入れる。州官たちに知られた場合、混乱が予想されるためだった。
 しかしこうして出仕しただけでもふたりは注目の的であった。香鈴は州城にもしばしば訪れてはいるが、大抵は執務の落ち着いた昼頃に少し顔を出す程度だ。それなのに今日は一日中州尹室に詰めているというのだから。
「香鈴さんとふたりきりで仕事!?」
「それは羨ましい」
「もしや仕事とは別のことを……」
「阿呆! 影月君がそんな公私混同すると思うか!?」
「そうだよねえ。彼、今、急ぎの案件抱えてるし」
「しかし香鈴さんが一体何の手伝いするんだ?」
「資料関係……とか聞いたが」
「資料揃えたりは補佐の仕事だろ?」
「そのへんは不明。ともかく櫂瑜様の指示だしな」
「州尹室には櫂瑜様と燕青しか立ち入り禁止ってのもなんか怪しくないか?」
「よせよせ、下手な詮索は。櫂瑜様の思惑があるとしたら、俺らには計り知れないことだろうよ」
 州尹室の中を彼らが見ることができたなら、きっと驚いたことだろう。何せ、机案についてせっせと筆を進めているのが“香鈴”で、その傍で資料を揃えたりお茶を入れたりしているのが“影月”なのだから。

「どうだ? ふたりとも?」
 昼を過ぎたあたりで燕青がひょっこり顔を出す。州尹室は燕青の仕事場でもあるのだがさすがに今日は居辛いらしく、別室で執務を行っていた。
「はい。何とか順調です」
 おっとりと“香鈴”が答え、そっと“影月”が茶を差し出す。それに燕青は何とも複雑な表情を向けて茶を受け取る。
「わ、笑いたいならお笑いになればよろしいんですわ!」
 耐えかねたように“影月”がまくしたてる。目尻に涙まで浮かべて。燕青は本物にするのと同じに“影月”の頭をくしゃりとなでた。
「お前らにとっちゃ笑い事じゃねえだろ?」
「当たり前ですの!」
「だから笑わねえ」
 これがまったく無関係の第三者に振りかかったことならば大笑いしてるところだと燕青は言うが、他者の心の機微を素早く見て取る彼のことだ。それは慰めるための方便だろうと、影月は年上の同僚に感謝を覚える。
「ただ気の毒っていうか。……いやしかし、これって結構視覚への暴力だよな」
 室内を観察しているとふたりともそれぞれ仕事に集中しているのだが、なるべくお互いの姿を目に入れないよう、会話してお互いに声を聞かずにいられるようにしているのがわかっただろう。
「早く元に戻れるといいな。原因は……やっぱあれか?」
「ええ……。そうみたいです」
 “香鈴”の視線の先にあった分厚い書物を“影月”が取り上げる。
「ご覧くださいませ! 州城の資料室より先程借り受けて参りましたの!」
 室外には出ないようにしている香鈴ではあるが、実際彼女にできる仕事は少ない。退屈している香鈴を見て影月は資料の返却を頼んだついでに、植物に関する書籍があれば探して欲しいと依頼したのだ。香鈴は見事に影月が意図した以上の物を見つけ出してきた。
 見事な筆さばきで図解され、細かい説明書きのある『茶州植生大全』というその書物は、よく見知ったものから珍しいものまで、驚くべき数の植物を紹介していた。著者名は茶典皓(さ・てんごう)。茶家縁の人物らしかった。
 香鈴はその中程を開いて燕青へと差し出した。
「……偽松ノ茸? まんまだな……」
 ――茶州でも踏破が困難な一部の山地にのみ見られる。見た目・味・香りのどれもが松ノ茸に酷似するが、約十倍の大きさが特徴。別名、変身松ノ茸。毒性はないが地元の口伝には奇妙な報告が残されている。いわく、食する場合は一人で完食し、余分は焼却せねばならない。複数名で分け合って食した場合、その仲間内にて身体と心が入れ代わる症状が現れる――。
 記述を読み上げた燕青は呆れたように顎を掻いた。
「胡散臭さ爆発だな。……ちょっと待て! つまり俺が昨日つまみ食いしてたら、影月か嬢ちゃんになってたかもしれないってことか!?」
 こくりと影月はうなずいてみせる。その拍子にしゃらんと鳴った簪の音が例えようも無く侘しい。
「きっと、僕か香鈴さんが燕青さんになってたでしょうね」
「影月ならともかく嬢ちゃんになるのは勘弁して欲しいな」
「当たり前ですわ! こちらだってお断りですの!」
 同性ならばまだ耐えられるかもしれない。そう思って影月は自分が燕青になった場合を想像してみた。
(あー、燕青さんにならちょっとなってみたかったかも……?)
 燕青が魅力的なのは何もその外見だけではないのだが、年齢よりも下に見られることの多い影月にはその男らしさは憧れではある。もちろんそんな考えは口には出さない。影月が燕青になるのと同じだけ、燕青が影月になる可能性があるのだ。いわんや燕青が香鈴に、香鈴が燕青になっていたかも――影月の想像力はそこで激しい拒絶反応を示した。
「つまり龍蓮坊ちゃんは俺の恩人ってことか」
「そうかもしれませんけれど、龍蓮様がそもそもの諸悪の根源ですのよ!」
「龍蓮さんだって知らなかったかもしれませんし、一概に決め付けるのも……」
 肝心の龍蓮であるが、彼は誰よりも早くに起き出してふらりと出かけたままらしく、今日はまだ一度も顔を合わせてはいなかった。それが香鈴の心象を余計に悪くしていたのだ。
「影月様はこんな目にあわされても龍蓮様を庇われるんですのね! わたくしよりも龍蓮様を信じられるんですの!?」
「どうしてそうなるんですか!?」
 そんなつもりの発言では勿論なかっただけに、影月は香鈴の心から余裕が失われていると思い知らされた。
「まあふたりとも落ち着け。俺が茶を入れてやるから。――で? この状態はどれくらい続くんだ?」
「この本によると一、二日とありますね。おそらく体内から成分が排出されるまでの期間でしょう」
「俺らも協力すっからもうちっと我慢しろな」
 湯呑みの底に茶葉が沈むのを待っているうちに香鈴も落ち着いてきたらしかった。
「ひどいお茶ですこと」
「んじゃ元に戻ってから、嬢ちゃんが俺にとびきりの茶を淹れて差を教えてくれればいい」
 そういたしますと答える声を聞きながら、それが自分の声であるという違和感漂う現状に、一刻も早く戻りたいという気持ちを影月は強く抱いた。

 なんとか終業時間をいくらか過ぎたあたりで、影月は仕事を片付けることができた。偽松ノ茸の効力は一、二日。本日中に元に戻れば問題はないが明日にまでずれ込むならばまた香鈴を巻き込むことになる。おまけに、香鈴の身体は自分本来の身体よりも体力がない。連日で無理させるくらいならば一日で済ませた方が香鈴のためになるはずだとも考えた。だからこそ影月は必死になったのだ。
 彼の仕事は丁寧だと言われる。それは彼が器用でないから一つ一つこなさなければいけない為なのだ。また、手早く仕上げることも大切だが自分が納得のいかない仕事で済ませる気にはなれない。常にその時の自分にできる最高の仕事をすることを自分に課していた。
(香鈴さんの腕、明日筋肉痛になってなければいいんだけど……)
 実際、今日だけでも何度かつりかけた。普段の香鈴とはちがう作業を身体に命じたわけだから当然であろう。だがまだ机案仕事で助かったとも思う。
 ふたりで州牧室に赴き、待ち構えていた櫂瑜に出来上がったばかりの書類一式を提出する。しばし櫂瑜は黙って内容を吟味した後、
「結構ですよ。お疲れ様でしたね」
 と笑顔を向けてくれた。
「はい。またご指導よろしくお願いします」
 櫂瑜に一礼すると影月は背後に控えていた香鈴を振り返る。
「お待たせしました香鈴さん。無事に終わりましたから州牧邸に帰りましょう」



 朝と同じく四人で軒を使って州牧邸に戻った頃にはとっぷりと日も暮れており、夕食の支度も整っていた。しかしまたしても龍蓮の姿はない。
「今日のお夕食は克洵様のところに招かれているからと、一度戻られてまたすぐお出かけになりました」
 家令の尚大にそう告げられて香鈴はいきり立った。
「偽松ノ茸のことをご存じか確かめようと思っておりましたのに!」
「まあまあ香鈴さん。きっとご飯が済んだら帰って来るんじゃないですか? 僕達もいただきましょう」
 席に着いてからも香鈴はしきりと給仕する文花や昭環に手伝えなかったことを詫びている。もちろん年輩の女性ふたりは気にするなと告げ、それよりも大変な一日であったことを労ってくれた。

 食事をしていると向かいに座っているだけに、香鈴の入った自分の姿が見ないようにしていても目に入ってくる。
(鏡に写った自分を見ているようだと思えばまだ何とか……。あ、でも。やっぱり香鈴さんの方が箸の使い方がきれいだな。それに何だか普段の僕より背筋もしゃんとしてるし、後、小綺麗なような……? そういえば髪を結う時、僕より丁寧に梳いてたよな香鈴さん。あと着付けもびしっとしてるというか……)
 差異はいくつも見つけることができた。
(陽月が僕の身体を使っている時も、やっぱり全然違って見えたというし。中身ってやっぱり重要だな)
 中身が変わると違って見えるものだと思っていたのは影月ひとりではなかったようだった。
「黙って食事している姿は影月君が良家の子息のようですね」
 櫂瑜のやわらかな指摘に、ああそうかと納得する。しかし。
(も、もしかして僕が香鈴さんの品を落としてる!?)
「ああ、影月君は気にせずゆっくりと食事なさい。大丈夫。たいへんかわいらしいですから」
 さすが櫂瑜は影月の心中を見通していた。しかし今の自分がどう可愛く見えるのかは知りたくなかった。
(本来の香鈴さんが可愛いから、何してたって可愛く見えるんだ、うん)
 食欲はあまりなかった。もしかしたら香鈴の身体が少食のせいであったかもしれないが。
 誰もが言葉少ななまま、どことはなしに気まずい雰囲気の中、それでもこの日の夕食は滞りなく終わった。


 食後は自室に戻る気にもなれず居間に移動し、背中合わせに座った影月と香鈴はそれぞれに本を手にしていた。影月が読み終わった旅行記を今は香鈴が読んでいる。影月の方は州城より借り出してきた『茶州植生大全』である。
「影月様、湯殿の支度ができております。お湯を使っていらしてください」
 家政頭の文花の声に影月は本から顔を上げた。
「ああ、はい。……ええっ!?」
 答えて影月は固まる。振り返ると香鈴もやはり固まっている。
「えと、いやそれはやっぱり問題があるんじゃ……。偽松ノ茸の効き目は一、二日ということですし、元に戻るまでお風呂はお預けにしましょうか?」
 後半は香鈴への問い掛けになった。
「嫌ですわ!」
 てっきり同意を得られると思っていただけに影月は驚いて香鈴を見つめる。
「旅に出ているわけでもありませんのに一日でもお風呂に入れないなんて……」
 いつも身奇麗にしている香鈴には耐えられないことなのだろうと思い、彼女の意思を尊重するべく影月は立ち上がった。
「じゃあその、お風呂入って来ますけど……いいんですね?」
「いい訳ございませんわ!」
「でもお風呂に入らないのも嫌なんでしょう? じゃあどうすればいいですか?」
 矛盾する香鈴の要望に影月は途方に暮れた。
 居間の片隅で身体を動かして体力作りに余念のない燕青が呆れたように口を挟む。
「めんどくさい、もう一緒に入っちまや早いぞ」
「そういうわけにも――」
「そういたしましょう」
 言葉を濁す影月だったが、自分の声で同意を告げられて驚愕する。
「ええっ!? 香鈴さん、本気ですか!?」
「影月様には目隠しをしていただいて、わたくしが洗いますわ!」
(ああ、そういうことか……)
 沸き上がった安堵と失望を影月は飲み込んだ。
「まあ、それでいいんじゃね?」
 おそらくこれが妥当なのだろうと自分を納得させて、影月は着替えを用意してくるという香鈴に続いて居間を出た。



 湯殿へと着くと、広い脱衣所でまず最初に影月に目隠しがされた。その後は香鈴にされるがまま。身につけるものがすべて脱がされると、何も見えないのとあいまってやけに頼りない。まあ例え自分の身体のままであっても、裸になるのは他者の視線の前には心細いものだが、それにも増して不安になる。解かれた髪が肌の上を覆うのだけが頼りだった。
「少しお待ちくださいませね」
 自分の声がこんなふうに聞こえるとも思ったことはなかった。自分ではもっと違うように聞こえているからだ。
(香鈴さんの耳には僕の声ってこんなふうに聞こえてるんだ)
 今回のことで良かったことは自分の身体がいかに有り難いかがまずひとつ。そして、
(香鈴さんから見たら僕でさえ大きく見えるってことかな)
 だった。彼女から見れば影月であっても多少は頼りがいを感じるのではないかと。

 衣擦れの音が背後でし、香鈴もまた着ている物を脱いでいるのだと教える。自分の脱衣姿など見る必要もないのだが心配が先に立つ。
(香鈴さんは僕の裸を見ても平気なのかな?)
 目隠しされていては確かめることはできなかったが、声に出して問うのも憚られた。
「お待たせいたしました。どうぞまっすぐお進みになって」
 手を引かれて湯気の立ち込める浴室へと進むと、たちまち浴場特有の温かく湿った空気に肌を包まれた。
 かけ湯の後湯舟に導かれるが、目隠しをしていては足元がおぼつかない。よろめいて咄嗟に縋ったのは元々の自分の腕だった。そのことが疑問のひとつを解明する。
(香鈴さん、湯文字を着てるんだ……)
 かつて貴人は裸で入浴することはなかったという。その名残である湯文字は、現在では主に湯上がりに水気を吸い取らせるために使われている。香鈴とて影月の裸身を直視したくないのは同じらしかった。

 身体が温まると洗い場に導かれ、自分のものよりはるかに長く重い髪が濡らされて、丁寧に丁寧に洗われ始める。
(自分の髪の洗い方がものすごく雑みたいだ)
 だがだからこそ香鈴の髪はいつもあれだけ艶を帯びているのだろう。その髪にするすると指を滑らせるのが影月は好きだった。香鈴が髪を解いていないとできないのがいつも残念なのだが。
 水気を取った髪に香油らしきものが馴染まされていく。やがて洗い髪は頭上でまとめられ、かけられた湯が身体を温める。
 石鹸の匂いと共に背中に湿った布を押し付けられて影月は思わず声を上げた。
「うわっ!」
「何ですの!? ただの手巾ですのよ?」
 それはわかる。わかるのだが正直怖いと思ってしまったのだ。おまけに、髪以上に他人に身体を洗われるというのは落ち着かなかった。だが香鈴は気付いた様子もなくせっせと身体を磨き続ける。そう。もう洗っているのでなく磨いているのではと思わずにはいられなかった。確かに香鈴はいつも長風呂のように感じていたが、これだけ髪も身体も丁寧に洗っていれば時間もかかるはずだと影月は納得した。

「終わりましたわ。後はお湯に浸かってくださればいいんですの」
「女の人のお風呂って大変なんですねえ」
 感心をこめて嘆息する影月に香鈴は事もなげに答えた。
「これでも今日は手を抜きましたのよ。影月様に全てをお願いするのはさすがに酷かと思いまして」
 それはどうも……と影月は口の中で呟いた。知らなくていいことだってきっとある。
「ああはい。ありがとうございます。ところで香鈴さん、僕の身体はどうしましょう? 香鈴さん、洗えます?」
「わたくしには、その……」
 うら若き女性としてはやはり正視に耐えかねるのだろう。
「ああ、じゃあ今度は僕が洗います」
 香鈴は同意したがすぐには手巾を寄越しはしなかった。
「洗っていただくのに目隠ししたままでは無理だと思うんですの」
「目に入るのは僕の身体なんですから目隠し取ってもいいですか?」
「それでは湯文字を用意いたしますのでそれをお召しになられましたら」
 手を引かれて一旦脱衣所に戻り身体を拭かれる。出来る限り何も考えないようにして影月は香鈴にすべてを任せた。柔らかい感触の湯文字が着せ掛けられ、そうしてようやく目隠しが解かれた。
「ご不自由をおかけいたしましたわね」
「いえ、気持ちはわかりますし」
 普通に香鈴の肢体を目にするならば歓迎ではあったが、自分の首の下に発見するのは決して嬉しくはない。素肌を見ずに済んだことに影月もまた安堵していた。
 香鈴も同じだったのだろう。影月を洗うのにやはり湯文字を着用していたのだから。香鈴に目を閉じさせて、濡れた湯文字を脱がせた。見られても自分は構わないとは思うが、香鈴もまた見たくはないだろう。手を引いて誘導し、洗い場に腰を下ろさせる。
「影月様、それではわたくしが髪を洗いますのでお身体の方をお願いしてよろしいですか?」
「はい。そうしましょう」
 しばし無言でふたりは影月の身体を清めることに集中した。香鈴は本来の自分にしたように丁寧に髪を洗う。影月は前に後ろに回って泡立てた手巾を使った。
(これ、いつもの僕らだったら嬉しかったんだろうなあ)
 香鈴に身体を洗われ、香鈴の身体を洗う。それはとても誘惑的な行為になるだろう。
(ああでもそうしたら、とっても平静ではいられない自信はあるな)
 目を閉じたまませっせと髪を洗う香鈴も、手巾で身体を洗う影月も、ただひたすら黙々と作業に集中した。そこには早く終わらせてしまいたいという意志が双方から立ち上っていた。



「心の友其の二よ!」
 上機嫌の龍蓮に飛びつかれそうになったのは、湯殿ですっかり疲労困憊して自室に引き上げる途中の回廊でだった。
「何をなさるんですの!」
 被害者は影月の姿の香鈴。香鈴を助けて龍蓮を引き剥がそうとしながら、複雑な感想が沸きある。
(……見た目として、やっぱり僕が龍蓮さんに抱き着かれてるのって気持ちいいものじゃないなあ)
 すっかり慣れたとはいえ、男同士というのがまずひとつ。潤いがない。
 二つ目はあまりにも顕著な外見の差だ。影月の背も伸びていないわけではないが一向に龍蓮に追いつかない。体格とて武芸に秀でる龍蓮に比べてずいぶんと頼りない。そしてまた過剰に飾り立てた端正な顔立ちの龍蓮と、服装も容貌も控えめな自分の組み合わせによる何とも言えぬ不釣合い感を客観的な視点が強調した。
 もちろん影月は龍蓮の外見で友情を感じているわけではなく、それは龍蓮も同じだと信じている。生きているだけで儲け物の人生だ。他者と比較することの無意味さはその前に明らかでもある。ただ、それでも影月は多感な時期を過ごす恋する少年でもあったわけで。ひとえに恋人からの不満に繋がることを恐れていたに過ぎなかった。
「面妖な。影月らしくない言動とは」
 そういえば龍蓮は早朝から姿を消しており、ふたりの入れ替わりを見ていなかったと影月は気付いた。
「ど、どなたのせいだと思っていらっしゃいますの!」
 食ってかかる香鈴に龍蓮は器用に片眉だけを上げてみせた。
「影月、香鈴の真似が上手かったのだな。これは意外な特技。さすが我が友。眉や目元の釣り上がり具合まで香鈴の怒る様そっくりだ」
「白々しいことをおっしゃらないでくださいませ!」
「香鈴さん落ち着いて。龍蓮さんは知らないみたいですし」
 香鈴を落ち着かせるべく影月はふたりの間に割り込んだ。
「むっ。香鈴までそのような特技を。そなたら私を驚かせようと練習でもしていたのか。いや、見事だ」
「本当にご覧存じありませんの? 偽松ノ茸のことを?」
 ここまで言われて香鈴は半信半疑に陥ったらしい。
「偽、とは? 以前旅の昊で食した折、大変美味であったのでそなたらにもと思い持参したと説明はしたはずであるが」
 龍蓮の反応は変わらない為、影月は彼を信じることにした。
「それならもういいです。あくまでも龍蓮さんの好意ということなら。もうすぐ効力も消えるはずですし」
「影月様は龍蓮様に甘すぎますわ!」
 本来自分のものである手を香鈴の小さな手で握りしめて宥める。その際、どうしても沸き上がる違和感は無視して影月は龍蓮に簡潔に説明をした。
「龍蓮さん、いただいた茸ですけど妙な効力がありまして。ふたりで食べると中身が入れ代わってしまうんです」
「つまり、今は香鈴が影月ということか」
 元々龍蓮は頭の回転が早い。
「それでは……」
「ま、待ってください龍蓮さん! これは香鈴さんの身体ですから駄目です!」
 今度は今の自分――すなわち香鈴の身体に向けてのしかかろうとする龍蓮を必死に影月はかわした。香鈴を龍蓮に抱きしめさせることは許せない。断じて。
「難しいな。ならばこの際……」
 再び香鈴に向かって突き進もうとした龍蓮は当然の如く激しい拒否に合う。
「嫌ですの! 耐えられませんわ!」
「これではどちらにも抱きつけないではないか。おまけに香鈴とはいえ影月に拒絶されるのは耐え難い」
「抱き着かないでよろしいということですの! 自業自得ですわ!」
 いつも龍蓮が影月におぶさっていく度に苦い顔をしている香鈴だ。ここぞとばかりに龍蓮をやり込めようとするのを止めるのは、影月をしてもかなりの困難であった。


 身の回りの物なども身体に合わせる必要があった為、元に戻るまでは互いの室を利用することで同意した。
 そうして夜も更け、疲れた、と心底影月は思って臥台に潜り込む。室内には香鈴の気配ばかりが漂い、普段ならばとてつもなく好ましいはずだが、その発生源が現在の自分という悪夢に影月は深い溜息をついた。
 男女の性差によるものか、はたまた女性の中でも香鈴が格別にか弱いのか。身体は疲労の為、確実に重い。
(なんか今日は香鈴さんの身体にすごく無茶させたんだろうな。明日の香鈴さんが心配だな)
 香鈴にこのまま今日の疲れを引き渡すのは気が引ける。しかしそれでも一刻も早く自分の身体に戻りたい。それが影月の、そして香鈴の今一番強い感情に違いなかった。
 体力の問題だけではない。女性の身体の不自由さを今日一日で実感した。もっとも、それは男の身体で生きてきた影月だからこその感想であるのかもしれないが。
(生まれた時からずっと使ってたら不自由とは思わないものかな?)
 人類の半数、人工の半分は女性である。この経験を単なる悪夢で終わらせずに彼女たちが暮らしやすい世界を作るために必要なものであったと思えるよう行動しよう……。
 そんなことをつらつらと考えているうちに影月の瞼は落ちていった。



 目を覚ますと見慣れた自分の臥台の上だった。
(戻った……?)
 目の前で広げた手は華奢で色白の香鈴のものとは違い、骨張ってやや浅黒い。それだけでは不安が拭えずに鏡の前に急ぐ。
 間違いなくそこにいるのは自分だった。
「戻ったんだ!」
 影月は身支度もそこそこに自室を飛び出すとまっすぐ香鈴の室を目指す。
 やはり鏡の前で立ち尽くしている香鈴を見つけると、香鈴が香鈴であることの喜びが押し寄せて、影月は歓声を上げて彼女を抱き上げた。


 さっそく櫂瑜に報告に向かおうと廊下を急ぐと、またしても燕青そして櫂瑜本人と行き会った。
「よかったですねえ」
 しみじみと告げられる声に影月は破顔する。
「はい!」
 自然と顔が綻んでいくのを止められない。それは傍らの香鈴も同じらしく、彼女の表情のどこにも厳しいものは見つからない。ただ満面の笑みだけがあった。
 そんな香鈴に見とれながらも、忘れないうちにと影月は声をかける。
「香鈴さん、あとで湿布を出しますから室まで来て下さいね」
「夕べも腕に貼ってくださってましたわね」
 きっと今日は……と予測がついていたので眠る前に処置しておいたのだ。
「ええ。その……全身が痛くないですか?」
「全身ではございませんけれど、足や手が多少……」
 よく見ると香鈴の身動きはやはり少々ぎこちない。それに気付いたらしい燕青が首を傾げる。
「何だ影月、嬢ちゃんが全身痛くなるようなことでもしたのか? 昨日は机案仕事ばっかだったはずだろ?」
「そのつもりはなくても結果的に。普段僕がしてる仕事でさえ香鈴さんの身体には結構負担だったみたいで」
 そういうものかと燕青も納得したらしくそれ以上は追求しては来なかった。いついかなる時にでも頼りになる燕青といえどすべてを知っているわけではない。ましてや彼は女性になったことなどないのだから。


 そのまま四人で移動し食堂に着くと、龍蓮がひとり窓の枠に腰を下ろしていた。この季節、朝の空気は澄んでいるがかなり冷たい。だが彼は少しも気にした風ではなかった。
「む。戻ったのか影月」
「はい。おかげさまで」
 足音もさせずに近寄ってきた龍蓮にいきなりのしっと来られて影月は苦笑する。
「その癖はおやめくださいませ!」
 引きはがそうとする香鈴は力で敵わぬとみると、むんずと龍蓮の束ねた毛束を掴んだが、べっとりと影月におぶさった龍蓮は上機嫌で痛みを感じている様子もなかった。
「うむ。結論が出たぞ影月」
「何のですか?」
 振り返らず背中に向けて問うと得意気な声が応える。
「影月の姿が香鈴に変わったとて我が友情は不変であると」
「はあ……」
 外見に捕われずに自分を認めてくれるのは嬉しいが、釈然としないものがあるのは何故だろう。
「だがしかし。影月の姿の香鈴にも友情を感じたのはいかなることか。やはりここは第三者にも加わってもらうべきであったか」
「勘弁! 龍蓮坊ちゃん! 俺を巻き込まないでいいんで!」
 龍蓮から視線を向けられた燕青は、両手を身体の前で大きく交差させてそのまま後ろに跳びすさった。
「ええっと龍蓮さん、もしかして」
 ひとつの疑いが影月の中で形を為す。
「つまり。龍蓮様?」
 だが影月を遮って香鈴が厳しい目つきで詰問した。
「わたくしたちがどうなるか判っていらして偽松ノ茸をお持ちになりましたのね!?」
 龍蓮は目を伏せ、まるでこの世の一大事でもあるかのように重々しく告げた。
「許せ。崇高な友情の命題を説き明かすためだ」
 ばきぃっ!
 食卓からつかみ取った盆を力いっぱい香鈴が龍蓮の頭に叩きつけた音が響いた。木製の盆にヒビが入ったのは見間違いではないだろう。
「乙女の身体を何だと思っていらっしゃいますの!」
 さすがに影月から離れて頭を抱えてうずくまる龍蓮を眺めながら、影月の感想は痛そうだとかより先に、
(龍蓮さんなら今のは避けられたはずだよなあ)
 だった。
 つまり武芸の達人である龍蓮はわざと香鈴に殴られたのだろう。そこには多少の詫びの気持ちがあるのかもしれない。
「ともかくふたりが無事に戻ったことを祝って一曲」
 だが立ち直りの早さも尋常ではなかった。
「結構ですの! それと。龍蓮様にはもうお饅頭など金輪際作ってさしあげませんから!」
「それは酷い……」
 龍蓮が香鈴の饅頭を気に入っているのは影月もよく知っていた。香鈴が復讐に使うにはうってつけと言える。
「影月様。今日のおやつは栗饅頭ですわ」
 結い降ろした髪を揺らしながら香鈴は対照的な満開の笑顔を影月に向けてくれる。その為、影月はうっかり龍蓮に感謝しそうになった。
「栗饅頭とは……」
「さ、影月様。こんな困った方は置いて参りましょう!」
 心の痛手によろめく龍蓮をきっぱり無視して香鈴は影月の手を取る。
「ああ、はい……。じゃあ先に湿布を済ませてしまいましょうか」
 香鈴に手をひかれるまま影月もまた食堂を後にしようとした。
「影月」
 呼び止める声はどこか頼りない。
「その、そなたも香鈴のように怒っているのか?」
「さあどうでしょう……」
 過ぎてしまった今となっては怒ってなどいなかったが、龍蓮の行為が傍迷惑だったことは間違いない。影月だけならともかく、香鈴も巻き込んだのだ。龍蓮に悪気がなくともそれがしていいことかどうかはきっちり判って貰わねばならない。だから。龍蓮にはしばらく悩んでいてもらおうと、曖昧に笑ってあえて答えずに影月は香鈴と共に食堂を出て行った。



 自室に戻り影月はさっそく湿布に塗布するための薬を用意し始めた。その様子をぼんやり眺めている香鈴の口から溜息がこぼれる。
「香鈴さん?」
「まったく。龍蓮様には悪気はなくていらしたと判ってはいるのですけれど」
「まだ龍蓮さんを怒ってます?」
「問題は龍蓮様ではございませんの」
 そこには自分自身に戻れた喜びの笑みは既になかった。
「知らなくていいことまで知ってしまったんですもの」
「一体、何をです?」
 そんなに自分の身体に支障があっただろうかと影月は不安にかられた。……あるかもしれない。自分では気が付いていないだけで。
 しかし、影月は返された予想外の言葉に目を見張る。
「わたくしでは影月様のお役にたてないのだとわかってしまいましたの」
「とんでもないです! 香鈴さんがいてくれるから僕は毎日がんばろう、もっと香鈴さんを守れるようになろうって思っているんですから!」
 必死で継いだ言葉はまたしても意表をつく返答に打ちのめされる。
「ともかく。今後一番の課題は体力作りですわ! 今日からさっそく取り掛かりますの。燕青様に指導していただいた方がよろしいかしら?」
 筋骨隆々とした頭だけ香鈴、首から下は燕青という恐るべき想像をしてしまった影月は慌てて止めにかかった。
「早まらないでください! 僕は今のままの香鈴さんが好きなんです!」
「だって、わたくし足手まといにはなりたくありませんもの!」
 影月は椅子に腰掛けた香鈴の横に座り、そっと肩を引き寄せる。
「うまく言えるかどうか判りませんけど、僕はこうやって香鈴さんが香鈴さんらしく、丸ごと香鈴さんでいてくれるのが一番嬉しいです。僕が男で、香鈴さんが女であることにもちゃんと意味があるんだなって。この手も。香鈴さんを守るためにほら、香鈴さんの手より大きいんです。でも香鈴さんが僕より強くなってしまったら、さすがに立場がないというか……。わかってもらえませんか?」
 香鈴は抱きすくめられた腕の中でこっくりとうなずいてみせる。ほっとした影月だったがまだ終わりではなかった。
「他にも……あるんですの」
 むしろこちらの方が重大と言いたげな響きで香鈴は続ける。
「その、殿方のお身体になるという経験のせいで、こう精神的に……お嫁にいけなくなってしまった気がいたしますの」
「じゃあ問題ありませんよ。僕の所に来ればいいんですから。香鈴さんがそんな気になったのは僕の身体のせいなんですから僕が責任を取るのが筋でしょう」
 影月はそんなことは問題ではないと請け負ったが、香鈴は躊躇いを捨てなかった。
「影月様はわたくしになってみられましたでしょう? それでもこんなわたくしでもよろしいの? 嫌になられませんでした?」
 影月はすぐには答えず、逆に問い返してみた。
「香鈴さんは僕では嫌ですか? 僕は昨日香鈴さんの身体で過ごしてしまってますから」
「いいえ。いいえ……」
「僕は昨日のことがあってもなくても香鈴さんでなければ嫌です」
 言い切る影月にようやく香鈴は顔を上げた。影月は肩にかかった香鈴の髪に指を這わす。
「昨日の経験で僕は自分を客観的に見ました。香鈴さんに釣り合う男になるにはまだまだだ、って。それでも香鈴さんを諦める気はありません。だから。他の誰の所にも行かせません。覚悟しておいてくださいね?」
 そして影月は声を出して笑い出した。
「昨日の体験は本当にとんでもなかったですけど、こうして無事に戻れてすごく嬉しいです。そりゃ香鈴さんの中身だけでも愛しいですけど、さすがに自分の顔に口づけする気にはなれませんし」
 口づけひとつの問題ではないのだが、本当に良かったと元に戻れたことを心から感謝して、影月は目の縁を赤くした香鈴にそっと顔を寄せていった。


 湿布の用意が終わると、ふたりして再び食堂へと向かう。そろそろ急いで食事を済まさないと出仕に間に合わない。
 香鈴を気遣う程度に足を急がせながら、影月はふと疑問を覚え、回廊の途中で問い質した。
「本当に龍蓮さんにお饅頭をあげないんですか?」
「ええ」
「ずっと?」
 香鈴は優しい。彼女が怒るのは大抵は相手を心配しているからこそだ。――龍蓮の場合であると若干違うかもしれなかったが、それでもそういつまでも意地を張るとも思えなかった。だから影月は食い下がったのだが。
「今日一日ずっとですわ! わたくしたちが苦労した一日分くらいは龍蓮さまもお饅頭が貰えないのだと思って苦悩していただかねば。ですから今日の分は絶対に差し上げませんの。影月様も協力してくださいますわよね?」
「香鈴さん、やっぱりあなたは最高ですよ!」
 思わず噴出した影月はその場で香鈴を強く抱きしめる。
「……いや、だから。あんまり人目につくとこでいちゃつくなと。――まあ、昨日の今日なら仕方がないか」
 うっかりその場に居合わせてしまった燕青の声も姿も、影月にはさっぱり気付かれることはなかった。


 昊は高く。地には実り。秋は深まると共に恋人たちの互いへの想いも深めていく。
 しかしそれ以降、何度秋が巡っても、州牧邸の食卓に松ノ茸が並ぶことはついぞなかったという――。


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『秋の味覚にご用心』(あきのみかくにごようじん)


最初に一言。
影月と香鈴はトイレに行きません。
行っていたら違う話になっていたかも。

男女の入れ替わりネタはありふれたもののひとつですが、
最初は小説で書く気はまったくありませんでした。
単なる妄想のお遊びだったのですが、「何故ふたりが入れ替わったのか」を考えたら
龍蓮が当然のように登場。
そうしたら書くしかなくなってしまいました。

入浴シーンなど、もっと際どくもできたのでしょうけれど、
どうせならノーマルの状態の方が……という思いが強くなり、
こんなに健全になりました。
ただ、入れ替わっただけでも気の毒なのでまったく知らないよりはと
時期を上治五年の秋に設定しました。

松ノ茸は当初、白毛石芝のつもりだったのですが、おろしあえ以外の調理法が浮かばずに松ノ茸に変更いたしました。
しかし、南瓜といい、松ノ茸といい、巨大な作物が好きなのかもしれません。

お楽しみいただけたら幸いです。