見知らぬ横貌
(みしらぬよこがお)




「さ、さすがに疲れたーっ!」
 秀麗は書類から目を上げ椅子に座ったまま両手を思いっきり伸ばした。時刻は既に真夜中になろうとしている。雑然とした州牧邸の自室の光景にさすがに憮然となるが、とても手をつけられる状態ではない。
「今夜はもうこのくらいにしておかないと。少しは眠らないとまた燕青に叱られるわ。
 あら? 香鈴は今夜は来なかったわね」

 奇病騒ぎの虎林郡から琥lに戻って以来、夜ともなると別れを惜しむ香鈴が訪ねて来て一緒に眠ることが多くなっていた。
 貴妃として王宮に上がった二年前の春を思い出すと、自分たちの関係は随分と変わった。貴妃と女官から始まって、殺されそうになった者と殺そうとした者へ。裁きを迷う者と贖罪を願う者になり。それらを経て、現在は友人と言ってもよい関係に落ち着いた。
 自分を慕ってくれていることは間違いもない三歳年下の美少女は、秀麗には持ったことのなかった妹のようで可愛い。母が亡くなって以来の男世帯に馴染み、男ばかりの官吏の世界に飛び込んだのだから、右も左も男ばかり。貴陽の邸にいた時はそれでも姉のような胡蝶や、近所の主婦層など年上の女性には可愛がられていたが、あとはずっと年下の子供の勉強を見ていたくらい。香鈴の年頃の少女には縁がなかった。

(大丈夫よね、香鈴は)
 もうすぐ秀麗は貴陽に帰る。だが行きは一緒だった香鈴は琥lに残る。――それは、彼女が恋におちたから。
 元々、香鈴が秀麗を消極的にではあるが殺そうとしたのは、あまりにも彼女が恩人たる亡き茶大保を想っていたため。誰かのためにそこまで思いつめる香鈴のような激しさと情の深さは、秀麗の知らないものだ。
 ここ茶州で、秀麗はこれまで知らなかった別の愛し方も知った。自分の命さえ懸けて、それでも相手の中に刻まれようとする愛――。
「いけない! 気分転換しましょう!」
 もはや応えも救いもできない甘い声の男の姿を脳裏から追い出して、秀麗は勢いよく立ち上がり、そのまま真夜中の庭院へと突き進んでいった。


 三日月が照らす庭院に足を踏み入れると、吐く息が白く洩れる。
(空気は澄んでるけどやっぱり寒いわ。早く室へもどろう)
 来たばかりだというのに踵を返そうとした秀麗の耳に、ふいに聞き覚えのある声が飛び込んできた。

「――ですから! 毎日無茶ばかりなさってるって申し上げてますの! 今日だってあんなに沢山書類を持って帰ってこられて!」
「でも、無茶でもしないと州牧室、本当に埋まっちゃいそうなんですよー」
 あははと笑う少年の声を叱り飛ばす少女の甲高い声。
(あれは影月君と香鈴……)
 なるほど自分の室に香鈴が現れなかったのは影月といたためだったかと秀麗は納得する。剪定もされていない庭木の枝から見える二人の姿は、その年齢と小柄さがあいまってなんとも微笑ましくも可愛らしい。
 自覚のないまま疲れ果てていた秀麗は、そこから立ち去ることも忘れてぼんやりと二人のやりとりを見守ってしまった。

「そんな無茶ばかりされていましたら、そのうち倒れたりされるんですのよ!」
「あー、僕は意外に丈夫だから、たぶん大丈夫――」
 影月の言葉尻を消す勢いで香鈴は断言した。
「それを過信と申しますの! もっとご自分を大切になさって!」
 聞くともなしに聞いていた秀麗は、香鈴の言葉に深くうなずく。
(うんまあ、影月君は働きすぎよね)
 自分が働くのは当たり前だと秀麗は思っているので自分のことは無意識に棚上げしている。
「心配してもらえるのは嬉しいんですけどー」
 あれで影月はなかなか頑固だ。彼から仕事を取り上げるのはかなりな困難だろう。
「し、心配なんて! 心配、なんて……、心配ばかりですわ!」
 対抗する香鈴の声が叫びながら震えた。
(あー、香鈴、泣いちゃった? 影月君どうするんだろう)
 野次馬根性も多少はあったのかもしれない。影月がどう対処するのか、秀麗は少し知りたくなった。――それが後に後悔を生んだ。

「すみません! ごめんなさい! でも、しばらくは無茶でも何でもしないと。州府の皆さんや次に赴任してくださる櫂瑜様にも迷惑かけちゃいますから、もう少しだけ目をつぶってください」
 いくら補佐である燕青と悠舜に任せたとは言え、二人揃って州牧が不在だったのがそもそもの原因だ。おまけに邪仙教や奇病でそれこそ後始末としてやらなければならないことがまだまだ山積みなのだ。影月の言葉に少しも減らず、むしろ日々増えている執務室の書類のことを思い出されて秀麗はため息をついた。
(こんなとこにいないで仕事の続きをしよう……)
 やはりこのまま眠るには未処理の仕事が気になりすぎる。だが、秀麗は疲れきっていた。だから気持ちは仕事に戻らねばと思うのに、足はその場から動きもしない。
「そんなことおっしゃって! これからきっと何度でも同じことされるんですわ!」
 その可能性は高いと秀麗も思う。影月はきっと櫂瑜の下でも仕事を抱え込むことだろう。彼の性格がそうさせるのだが、さすが香鈴は影月をよく見ている。
「もう存じません! わたくしがいくら心配したって少しも聞き入れてはくださらないんですもの! もういいんですわ! 秀麗様と一緒に貴陽に参ります!」
(いいの? 香鈴、そんなこと言って?)
 秀麗でさえ判ること。少女の言葉が本心でないことは明らかだった。

「――僕と一緒にいてくれないんですか?」
 だが答えたのは秀麗が初めて聞くような低い影月の声。
「い、今だって、お仕事ばかりで少しも一緒にいられないんですもの……」
 気押されたかのように香鈴の声は弱々しいものを含む。
「それでも。香鈴さんが貴陽に行ってしまったらもっと会えないんですよ? ――だから。貴女を貴陽には帰しません」
(――え?)
 秀麗は思わず聞き返しそうになった。まさか影月がこんな強引な台詞を口にするとは思ってもいなかったのだ。
「僕の傍にいてくれるんですよね?」
「わ、わたくし――」
 言葉で追い詰められた香鈴の身体も無意識に後ずさろうとしていた。
「本当に離れてしまってもいいんですか?」
「あ、あなたのお傍になんて――」
「香鈴さん」
 影月の手が香鈴の腕を捕らえる。
「ずるいんですの! せ、せっかく――」
「せっかく?」
 問い返す影月はもう片方の腕も捕まえる。
「も、もう離れないって――」
「――ええ。離しませんから」
 言葉通りに影月は一挙に香鈴を引き寄せ、抱きしめた。

(な、なんか影月君って……)
 凍りついたようにその場から動けなくなった秀麗は息を飲んで抱擁する二人の姿を見つめるしかなかった。
 腕の中の香鈴に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で影月は言い募る。
「沢山、心配はかけちゃうと思うんです。それでも香鈴さんを離したくないんです」
「――勝手なことばかりおっしゃるのね」
 影月の胸に顔を寄せる香鈴の声がくぐもって届く。
「ええ、勝手です。でも許してください」
「許すだなんてそんな――」
 首を振ろうとした香鈴を、それすら影月は許さなかった。
「――許してください、僕を」
 そうして影月は香鈴の顔を上げさせるとゆっくりと唇を近づけていった。

(え!? ちょっと! これって私、見てたらまずいんじゃないの!? っていうか何!? あの影月君のタラシっぷり! 影月君、まだ十四よね! 香鈴だって十五! 私だって始めての接吻は十六で! いくらなんでも早すぎるんじゃないの!? そ、それに! どう見たって初めての接吻って感じじゃないじゃない!)
 あいにく、秀麗はこれまで恋人同士の逢引の現場に居合わせたことなどない。しかも。その恋人同士が自分もよく知っている相手で、更には双方ともが年下であることに完全に混乱していた。

「い、いつもいつも、こんなことでごまかされるなんて思わないで――」
 唇が離された途端の香鈴の抗議を影月は再びの口づけで黙らせる。
(――いつもって、やっぱり初めてじゃないんじゃないの! いつの間に! って、それより影月君がこんなに手が早いだなんて!)
 劉輝や朔洵であるならば、あるいは楸瑛であるとかならば多少手が早かろうが納得することは不本意ながらできた。だが、これが影月ともなると秀麗にはあまりにも受け入れ難かった。

「――離さないで。わたくしを」
「はい。ずっと――」
 口づけの後二人は、三日月の庭院で相手の背中に腕を回して抱き合っている。
(お似合いなんだけど! だけど! 展開が早すぎるとか思うのは私だけなの!? ううん、克洵さんなら同意してくれるわ! っていうか、見たら泣くんじゃないかしら)
 完全に混乱した秀麗は、頭の中から同意してくれそうな人物として克洵を思い浮かべた。そう。克洵は早いと泣くだろう。自分よりもはるかに進みが早いと泣くだろう。
「もう遅いですし、お室まで送りますね」
 ついにしゃがみこんでしまった秀麗を残して、黙ってうなずく香鈴を抱えるように影月は庭院を立ち去って行った。

 どうやって自分の室に辿り着いたのか、秀麗はまったく覚えていなかった。気がつくと臥台の上にいたのだ。もう、仕事の続きをする気力はまったく残ってはおらず、着替えることさえせずに秀麗は眠りに身を任せた。
 だが訪れた眠りは浅く、翌朝秀麗はくっきりとした隈を鏡の中に発見することになる。


 翌朝、いつも通りに州城へと出仕して仕事を開始したのだが、ふと手が空いた一瞬に隣で書類を繰る影月を秀麗は凝視していた。
(夕べのあれは夢――ってことはないわね)
 その証拠に風邪をひいたのか喉が痛む。何しろ寒空に立ち尽くしていたのだから。
「どうかしましたか秀麗さん? 具合でも悪いんですか?」
 秀麗の視線に気付いてか影月が顔を上げる。恋人たちは互いの熱で寒ささえも寄せ付けなかったに違いない。
「ちょっと……風邪気味かも」
「ひき始めですか? なら後で卵酒とお薬用意しますからー」
 労わるように浮かべてくれる笑顔は秀麗のよく知っているもので。この笑顔にずっと助けられてきた。けれど夕べ目にしたのは――。

「なんですか? 僕に何か?」
「――影月君って、香鈴の前だと結構強引だったりするのね」
 しまったと思った時にはもう口から零れ出た後だった。
「はあっ!?」
 丸く目を見開いた影月をごまかしきることは出来ないと思った秀麗は正直に口にする。
「じ、実はゆうべ気分転換に夜中、庭院に出たのよね……」
「……そ、それは」
 それだけで十分だった。やはりあれは夢ではなかったのだろう。影月の顔が見る間に赤くなっていく。
「正直、びっくりしたわ。私が知らない顔を影月君が持ってるんだって知って。何て言うの? うっかり両親が接吻してる現場に居合わせたような居心地の悪さって言うか――」
 言ってからまたしてもしまったと思う。これでは二人の接吻してる姿を目撃しましたと告白したようなものではないか。
 視線を送ると、影月はそのまま自分の卓に沈没していた。
 しばし書類が溢れかえった州牧室に奇妙な沈黙が居座った。

「あの、ですねえー」
 ようやく沈黙を破った影月は、それでも秀麗の目を見ないまま話し始める。
「ええっと、決して軽々しい気持ちじゃありませんから」
「うん。それは知ってるわ」
 二人が真剣に想い合ってるのは理解している。だからこそ、影月の傍に香鈴を残すのに同意したのだ。
「自分の寿命があまりにも残り少ないって判って。だから一度は手放そうと思ったんです。でもこうして生き延びてしまったら、やっぱり誰にも譲れないって思って」
 照れながらも言い切る影月の姿は、夕べ垣間見た横顔を一瞬浮かべた。それは相変わらず秀麗の居心地を悪くしたが、影月が男であることをこの時秀麗は初めて理解したのかもしれなかった。

「あ、でもですね、秀麗さん、本当に頼りにしてますから!」
 いきなり話を振られて、物思いにふけりかけていた秀麗は現実に引き戻される。
「は? 何を!?」
「いやだって、僕、女の人ってあんまり知り合いがいないし、やっぱり女の人に聞かないと判らないことだってこれから出てくると思いますし、そしたら秀麗さんに頼るしかないんですよ!」
 一体何を聞くつもりだと、秀麗は叫びだしたくなった。
「わ、私が答えられることにしてよね!」
「きっと香鈴さんも手紙で秀麗さんに相談したりすると思いますし、それもどうか――」
 なんだか自分が未経験な分野を年下の二人から相談されそうな予感に秀麗はかられた。
(も、もしかして、香鈴を琥lに残していくのってまずいんじゃ……。でも、この二人がこんなこと相談できるのって後は春姫さんくらい? ――もっとまずいんじゃない? あの据え膳発言の春姫さんよ!? 下手に二人を呷るようなことにでもなったら――!)

――この日、茶州の紅州牧の仕事は遅々として進まなかったという。


 ろくに仕事にならなかった秀麗は、この日も沢山の書類を持ち帰ることになった。
「お嬢様、今日はまた一段と量が多くないですか?」
「姫さん、焦る気持ちはわかっけど、睡眠だけはちゃんと取るんだぞー?」
 積み上げられた書類の山を見て、静蘭が、燕青が口々に言う。
 秀麗はただ黙って二人の青年を見上げた。この上もなくよく知っている二人。けれど。
(この二人だって、恋人の前では私の知らない顔を見せるのかしら)
「お嬢様?」
「姫さん?」
 疑問を浮かべた二人の問いかけを無視して秀麗は空元気の声を上げる。
「なんでもないの! さあ、がんばって片付けてしまうわ!」

 秀麗が知らない顔を誰もが持っている。もしかしたら自分にも知らない顔があるかもしれないことを秀麗はどこかで感じながら、そっと意識の底に眠らせた。
 今は、その時は来ていないから。その顔をいつどこで誰に見せるのか、まだ誰も知らなかった――。

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『見知らぬ横貌』(みしらぬよこがお)

 
まず最初に。
この話は七様主催の『秀麗総受けアンソロジー 好き好き秀麗』に収録されている、いずる様の『危うげな月夜に』を読んでいて浮かんだ話です。
いえ、『危うげな月夜に』は陽秀ものなんですが。
インスパイアというか連想というか。
共通項は「秀麗が琥lから貴陽に戻る少し前」という設定くらいのものです。
ともかく、上記の作品を読まなければ浮かばなかったネタですので、いずる様許可の上で書いております。
(上記のアンソロが気になった方はこちらへ。ただしR18)


つまり。
影香のラブシーンを見た秀麗の反応が書きたかったのですね。
そのせいかわかりませんが、ラブシーンは結構糖度が高めのような気がします。
刺激、秀麗には強すぎたかもしれません。