鵲の踊れる時 (かささぎのおどれるとき) |
風はすっかり冷たくなって、粉雪が地面に薄化粧する、そんな冬の休日。 炉には赤々と火が踊り、室内は外の様子が嘘のように暖かい。 自室の長椅子に腰を降ろした影月は書を繰り、隣に座った香鈴は編針を操る。 炭のはぜる音だけが室を支配する。あえて会話を交わさなくとも、沈黙すら心地よい。わずかに触れ合う肩から広がるぬくもりが炉よりも心を暖めている。 そんな冬の休日。 それまで黙々と編み物をしていた香鈴が急に顔を上げ、室の空気が動いた。だが、何事もなかったかのように彼女は編み物を続け、影月もまた書物に視線を戻す。けれど、それからわずか後に再び香鈴は動きを止めた。じっと耳をすませているように視線は遠くに向けられ、やがて小さくため息を落とすと長椅子の上に編み物を置いて立ち上がった。 「香鈴さん?」 「すぐに戻ってまいります」 短く答えると急ぎ足で室を出て行った香鈴を見送ると、急に室内の温度が下がったような気がした。 影月はずっと文字を追っていて疲れた目を休めようと立ち上がり、ひとつ伸びをしてから窓に近づく。曇った窓を袖で拭いて、覗き込んだ窓の外では僅かばかり積もった雪に飾られた葉の落ちた木々が寒そうに見えた。 そこに、人影が現れた。香鈴だ。手に何かを持ち、時折立ち止まってはあたりを見回している。やがて目的のものを見つけたのか、迷いを捨てたような足取りで視界から消えていった。 「大変だ!」 影月は近くの衝立に掛けておいた肩掛けをつかむと、慌てて室を飛び出した。窓の外に見えた香鈴の姿は、先ほどまでこの室にいたのと同じ。つまり、部屋着の上から何もはおってはいなかったのだ。 庭院に出ても影月が迷うことはなかった。地面にうっすら積もった雪の上に、間違いようのない小さな足跡が残っていた。だがすぐには香鈴を見つけることはできなかった。彼女の足跡はずっと裏庭の方まで続いていたからだ。 (一体、この寒空の下、どこに行ったんだ?) 気持ちに急かされるように影月は小走りに進む。ふいに聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。 「もう! そうやってねだったからと言って、いつも餌をもらえると思っていたら大間違いなんですのよ!」 地面にしゃがみこむようにして背を向けている香鈴の先には、なにやら黒っぽいものがうごめいてる。 (鳥? ああ、あれは鵲……) 地面に撒かれた米のようなものを忙しくつついて上下する頭は黒い。だが、そのたびに見え隠れする腹部が対照的なまでに白く、影月は正体を悟る。 「よろしいですわね? たった一度恩返しをしたからって、いつまでも通用しないんですのよ!?」 香鈴が話しかけているのはどうやらその鳥らしい。 (恩返し? 鵲が? 鶴ならまだ聞いたことあるけど……) 影月の知る限り、鵲が恩返ししたなどという事例は思い浮かべることができなかった。 やがて、すっかり用意された餌を食べきったのか、鵲は頭を上げる。そしてそのまま翼を広げて飛び立つかと思われたが、そうはしなかった。両方の翼を広げたまま、しゃがんだ香鈴のまわりを一周するかのように回り始める。 「それは何のつもりですの? お礼のつもりですの?」 先ほどまでは怒った口調だった香鈴だが、今や鵲の妙な動きに声に笑いが混じる。 (あ、そんな簡単に笑わせられるなんて……) 名実共に恋人同士だというのに、未だ香鈴は影月の前ではなかなか簡単に笑ってくれないというのに。 だが、問題はそこではなかった。我慢できなくなってさっさと香鈴に近づくと、影月は言葉をかけると同時に肩掛けを香鈴にはおらせた。 「香鈴さん、薄着のままじゃ駄目じゃないですか」 「え、影月様! すぐに戻るつもりだったものですから」 肩掛けの存在に外気の冷たさを改めて感じたらしく、香鈴の身体が小さく震えた。 「じゃあ、すぐにお室に戻りましょうね? 用は済んだみたいですし。この鵲に餌をあげるためだったんでしょう?」 「声が聞こえたような気がしたものですから」 肩掛けを深く合わせて、香鈴はゆっくりと立ち上がる。 「ずっと餌をあげてるんですか?」 「いいえ、ごくたまにですのよ」 確かに、いつも餌をやっているのであれば、もっと姿が見られても良いものだが、影月はこれまで州牧邸の庭院で鵲を見た覚えはなかった。もっとも、人里に近い高い木の上に巣を作る鵲のこと、姿が見えなくても不思議はない。 影月は香鈴の肩を抱いてそのまま戻ろうとした。すると。 「痛いっ!」 後頭部に痛みを感じて、影月はそのまま地面にしゃがみ込む。 「影月様!」 跪いた香鈴が、そんな影月の頭をとっさに抱え込んだ。 「お怪我はございませんか!?」 「あー、なんか髪の毛引っこ抜かれたような……」 柔らかい胸に抱きしめられた頭を少し動かして視線を背後に向ける。犯人の足の先に見えるのは、間違いなく自分の髪だ。 そして、影月は自分の視線と鵲の視線が間違いなく交差したと感じた。そこに、見えない火花が散る。 (やっぱりさっきのは勘違いじゃなくて……) 「もう! 二度と餌なんてさしあげませんからね!」 ただひたすらに鵲の所業に怒る香鈴だけはまったく気がついていないことだった。香鈴の怒りに触れて、鵲は逃げるように飛び立って行った。 「香鈴さん、もう戻りましょう」 「そうですわね、早く手当てしないといけませんわ!」 香鈴に寄り添って細腰に手を回すと、影月は先導するように歩き出した。 「そんなに痛まれますの?」 「もうそれほどは。でも、外は寒いですし。香鈴さんがまた風邪をひいたりしないうちに戻りたいんです」 そんな風に思っていることも間違いではなかったが、それだけでもないことを影月は自覚していた。 影月の室に戻ると、香鈴は甲斐甲斐しく世話を焼いた。炉に炭を足し、茶を入れなおし、水に浸した布で影月の頭を冷やす。 再び長椅子に腰をおろした影月はしばらく香鈴の好きにさせていたが、もう十分だろうとその手を押さえる。 「もういいですよ、香鈴さん」 「ですけれど、頭を打たれたりしていたら油断はできませんし」 懸念の表情を浮かべた香鈴はだがまだ引くつもりはなかったらしい。 「そっちは大丈夫。鳥って軽いですから。痛かったのは髪を引っこ抜かれたからで」 「で、でも!」 「ええ、おとなしく安静にしますから、香鈴さんも協力してくださいね」 「あの、わたくしは何を?」 影月は長椅子の自分の横を軽く叩く。 「まず、ここに座ってください」 素直に隣に座って指示を待つ香鈴を影月は腕の中に閉じ込める。 「え、影月様?」 「こうしてると一番落ち着くんですよー。だから協力してくださいね」 抱擁などもはや数え切れないくらいしてきたというのに、未だ初々しい香鈴の反応はいつだって影月をくすぐったい気持ちにさせる。 「もう今日は後、ずっとこうしていましょうか」 そのまま頬を寄せてそんな風に囁くと目の前の耳が赤く染まっていくのがわかる。 (可愛いなあ、本当に) 満足のため息をついて、影月は香鈴の背中にまわした腕に力をこめる。そして、それから少しばかり反省をした。 (大人気がないって言うか、人としてどうかと言うか) 影月の目には、香鈴の周りを回る鵲の姿が、 (まるで求愛の踊りに見えて……) 鳥の仲間には雌の前での求愛行動が踊りに見えるようなことをするものがいる。鵲がそれをするかどうか聞いたことはない。おまけに同属でなく人である香鈴が対象というのも何とも信じ難い。 それでも影月にはそう見えたし、不快に思ったし、だからこそ見せ付けるような行動を取ったのだが、暖かい室の中で温かい恋人のぬくもりに癒されながら、寒空の下に取り残された鵲を思うと、痛い目に合わされたとは言え気の毒にしか思えなくなる。 (ちゃんと恋人は鵲の中で選んで。その方が幸せだと思うし。まあ、きっとそんな相手はすぐに見つかるよね) 「僕、人で良かったと思いますー」 唐突な影月の言葉に、されるがままになっていた香鈴が慌てる。 「あのっ! やはり頭を打たれたんじゃございませんのっ!?」 影月はたまらず笑い出し、ついばむような口づけを送る。 「だって、人じゃなかったら香鈴さんにこんなことできませんしー」 「影月様!」 冬の日の休日。やがて風が、また舞い始めた雪が、庭院に残された鳥の踊った跡さえ簡単に消してしまうだろう。 だからこそ影月は雪のように白い肌の上に、簡単には消えない足跡をそっと刻んだ。 |
『鵲の踊れる時』(かささぎのおどれるとき) 『鵲の渡せる橋』の後日譚になります。 ずいぶん雰囲気も違いますが、それは状況のせいでしょう。 あの鵲がもし雄だったら? というところから生まれた他愛のない話です。 『渡せる橋』で活かせなかった「上治五年設定」も少しは意味があったかも? |