翠の恩恵
(みどりのおんけい)






 支度を整えて隣室に移動した頃には日はすっかり高く、用意されていた朝食は冷め切っていた。
 とはいえ、客が自分で温め直せるようにとおき火が残された小さな炉が用意されているのは高級店ならではの気遣いか。
 ありがたく温めなおした粥を口にすると、身体が目覚めていくのを実感する。

「それで、どうしましょう?」
「何を、ですの?」
 まだいくらか眠気を引きずる香鈴の様子は、どこか幼げで微笑ましい。
「ここを出てまっすぐ州牧邸に帰りますか?」
 まっすぐ州牧邸に帰る――。それは日も高いとはいえ、紛れも無く朝帰りというもので。外泊が初めての二人にとっては大きな関門だった。例えお膳立てをしたのが櫂瑜で、州牧邸の住人すべての公認だとしても。悪い感情を持つ者はいないだろうが、からかわれるのは必至と思われた。
「ど、どこかに寄ってから、にいたしません?」
「そうですよねえ」
 どうやらこのまま帰るのを香鈴もやはり気まずく思っているらしい。そこでまっすぐ帰らないことになった。
 昼前に想月楼を辞したふたりは軒も使わずに歩き出す。手土産の月餅をぶら下げて。

 正直なところ、誰にも会いたくない。特に知っている人間には。
 想月楼から見ると、州牧邸は北に位置する。その中間地点には官吏街がある。当然影月は官吏に知り合いが多い。というより影月を知らない茶州の官吏はいない。
「と、遠回りしていきましょうか」
「そうですわね」
 想月楼から東へと向かうと、賑やかな通りに出る。丁度昼前ということもあり、行きかう人も多い。栗巣益の祝日は続いているので気軽に出歩いているのだ。
 だが知り合いに会う危険を避けてそのあたりを急ぎ足で通り過ぎ、北を向いて進む。人目を避けているうちに辿り着いたのは商人街と貴族街の間に広がる公園だった。
 実は影月は数日前にもこの公園に来たばかりだ。それというのも、今年もやどり木係を任命されてしまったのだ。
 この係、決めるのは相手のいない男たちである。たいていは恋人ができたばかりの男がやっかみと共に選ばれるのであるが、二年連続で任命されることは通常ないらしい。それでも影月が選ばれたのは香鈴という目立つ恋人を持ったせいだろう。おまけに、いまだ影月は州城の最年少官吏でもある。
(このまままじゃ来年もすることになるのかな)
 それは、まあいい。恋人たちを結果的に応援するこの作業が影月は嫌いではなかった。やどり木のある家の人たちとの交流も、一軒を除けばたいへん友好が深まっている。

 何とはなしに影月は香鈴の手を引いて先日やどり木の枝をぶらさげたあたりを目指した。
 この公園は普段あまり人気がない。そんな場所にやどり木をぶら下げても意味がないのではと先輩官吏に意見してみると、
「人気がないからいいんだよ」
 世界に二人だけ、お互いしか見えていないような恋人たちには余人の姿のある街中よりも好ましいらしく、街中に吊るした分より余程活用されているらしかった。やどり木の下で接吻に成功した者は、その枝を持ち帰ると幸せになれるとか言う言い伝えもあるらしく。公園に影月が吊り下げたやどり木は紐だけ残してきれいさっぱり消え去っていたからだ。
(一体、何人が……)
 この場所を利用していったのだろう。影月としては自分の行為が無駄にならなかったのは嬉しいはずだが、どこか複雑な心境だ。
 香鈴は人為的にやどり木をぶら下げることは知らないらしく、
「まあ! どうして木の枝に紐があちこち下がっているのでしょう?」
 と不思議がっていた。
(僕がぶら下げたからですよ)
 そう言おうかとも思ったのだが、口にはしなかった。その代わりに
「香鈴さんは来年の栗巣益にこの紐のぶら下がってるとこに来ちゃいけませんからね」
「こんなところに用もございませんから参りませんけれど……」
 知らずに立ち寄ることはないだろうが、香鈴の唇が奪われる可能性を消しておきたかった。
「ええと、つまり。来年も僕が先約ということで」
 半ば本気、半ば牽制の思いで影月が咄嗟に口にした言葉に香鈴の機嫌がたちまち良くなったのが伝わってくる。
「か、考えておいてさしあげますわ!」
 だがきっと、今年よりも更に美しくなった香鈴が来年も自分に寄り添っていてくれることを影月は疑わなかった。

「少し休憩しませんか?」
 目に付いた東屋に香鈴を誘い、座らせる。宛てもなく歩いただけにその分疲れさせたかと思い至ったからだ。
「そうだ、これ、いただいちゃいましょう」
 手土産の月餅の包みを持ち上げて見せると香鈴もうなずく。太陽の位置がお茶の時間だと教えてくれている。
 肝心の茶がないのが辛いところだが、しっとりした生地は苦もなく喉を通った。

 今日は風もなく、日の当たる場所は気持ちがよい。東屋は遮る木々もなく冬の低い太陽の光を受け止めていた。
「影月様、あの……」
 何かを言いかけた香鈴だったが、それっきり言葉が途絶える。ただ、影月の肩に香鈴の小さな頭が触れた。
「香鈴さん?」
 甘えてくれているのかと初めは思ったのだが、やがて影月が聞いたのはまぎれもない寝息だった。
「え……?」

(そういえば、夕べあんまり寝てないし……)
 眠るなど惜しくてできなかった。愛しさが溢れて夢中で過ごした。
 少し夕べの痴態を思い出して顔を紅くした影月の瞼も釣られるように重くなる。自分の外套を広げて香鈴を一緒に包みこむと、
(ちょっとだけ……)
 と目を閉じた。たちまち眠りに引き込まれていくのを感じながら、心地よいまどろみに身をまかせて――。


 寒さを覚えた影月はふと目覚めた。しばらく状況が把握できずにぼんやりしたまま周囲を見回すと、日が翳って気の早い黄昏が昊の色を塗り替え始めている。
 影月の胸にもたれた香鈴は、まだすやすやと眠っている。
「香鈴さん、香鈴さん、そろそろ起きませんか? 帰りましょう」
 呼びかけても香鈴は何やらつぶやくだけで頭を擦り付けるようにして実に心地よさげに眠るばかり。
(かわいいんだけど……)
 いつまでもこんな野外で眠らせておくわけにはいかない。起こすのはしのびがたいが、影月は心を鬼にして香鈴をそっと揺さぶる。
「香鈴さん、風邪ひきますから帰りましょう?」
 けれど、香鈴はそれでも起きる気配がない。
(困ったなあ……)

 この公園はあまり人の出入りがない。公園の出口付近に広がるのは貴族街で、流しの軒もあまり走ってはいないような所だ。茶家は近かったが、だからと言って立ち寄って送ってくれと頼むのも妙だ。
(いっそ、香鈴さんを預かってと頼もうか?)
 茶家になら香鈴を預けるのは不自然ではない。だが、やはり理由は聞かれるだろう。
(やっぱり……僕のせい、かなあ)
 自覚はあるが、そのあたりを突かれるのは勘弁して欲しいところでもある。
 実は栗主益前夜、興奮のあまり香鈴があまり眠れなかったことや、当日に影月を呼び戻すために奮闘したことで疲れていたというのは、影月の知らない事情だった。それに加えての濃厚な夜を過ごした後ともなれば、彼女の眠りが深いのも仕方のない事である。
 だがこのままというわけにはいかない。
(どうかな? いけるかな?)
 影月は外套の前を止めるための紐をゆるく結ぶと、香鈴を自分の背中へと移動させる。両腕をなんとか首に回させるが、眠る香鈴には縋る力がない。思案して髪を包む布をほどくと、できるだけゆるく香鈴の手首で結んだ。こうすれば少しはましかと思ったのだ。香鈴は外套に包まれているから寒さもあまり感じないだろうし、誰かに顔を見られる心配もない。ただ、立ち上がった影月の姿は、背中のふくらんだ奇妙な生き物のように見えただろう。

(とにかく、行けるとこまでいこう)
 影月はそうして、香鈴を背負って歩き出した。


 州牧邸では、なかなか帰って来ない二人を心配する声があがっていた。すっかり夜になっていたからだ。
「きまりが悪くて帰って来れねーんじゃねえ?」
 もちろん、それは誰もが思った。だがあまりにも遅すぎる。
「もしや、もう一泊することにしたのでしょうかねえ」
「いえ、それはないと思います」
 櫂瑜の発言に口を挟んだのは執事の尚大だ。
「なんで言い切れんの?」
「影月様にはそれだけの金子をお渡ししておりませんから」
 影月に金銭管理能力はないと、州牧邸の面々は早いうちから判断していた。自分の手元に残すことなく状元に与えられる銀貨すべてを送ってくるような影月だ。だから影月の小遣い以外はすべて州牧邸の執事が管理していた。
「でも、あいつだったら想月楼も後払いで引き受けるかもよ?」
 燕青ならば無理かもしれないが、影月ならば喜んで泊めるだろう。しかしまたもや執事は首を振る。
「性格的に無理でしょう」
 育ちの貧乏な影月にとって、高級感あふれる宿が居心地のよい場所であるとは思えない。櫂瑜の心遣いあっての宿泊であり、香鈴を喜ばせたいという一心で当日は過ごせたとしても連泊は無理だろう。ましてやツケなどは彼の受け付けられるものではない。
「んじゃ、一体あいつらどうしてるんだ?」


 さすがに探しに行くべきかと野暮を嫌う櫂瑜の薫陶を受けた家人たちですら腰を上げたところ、ちいさな声を聞き取ることができた。
「た、ただいま、かえり、ました……」
 一同が駆けつけると、玄関先で息を切らした影月がへたりこんでいた。
「ど、どうしたんだ!?」
「香鈴嬢がどうかされたのですか?」
 渡された水を一挙に干して困り果てた表情で影月が答える。
「あー、どうやっても香鈴さん、起きてくれなくてー」
 ややゆるんだ外套の隙間からすやすや眠る香鈴が見て取れた。実に気持ちよさげに眠っている。
「軒を呼んでもらえばよかったんですよ」
「いえ、お店を出た後なんです、香鈴さんが眠っちゃったのは。ちょうど軒が走ってない場所で」
「想月楼でなくても適当なお店に入って呼んでくれるよう頼めるでしょう」
 櫂瑜の意見は本当に影月の思考の外だったらしい。
「あ……思いつきませんでした……」
 きまり悪げにつぶやく影月に呆れたように燕青も声をかける。
「おまえ、ずっと嬢ちゃん背負ってここまで帰って来たのか?」
「ええ。いくら香鈴さんが軽くても休み休みじゃないと無理でした」
 意識のない人間は重い。幼子であってもそうなのだから、香鈴であれば……。
「しっかし、おまえも無茶したんだろ?」
 熟睡する香鈴を覗いて燕青が表情を緩めた。
「さすがに、疲れましたー」
「いや、そっちの意味じゃなく。……ん? それも間違いじゃないか」
「香鈴嬢に無理をさせたのでしょう?」
「ええ、結構それまでに歩いてましたし」
 疲れきった影月にはさっぱり通じていないらしいと、櫂瑜と燕青は顔を見合わせる。
「まあ、香鈴嬢は昨日は大活躍だったそうですからね」
「たしかにすごかったしなあ。その上でおまえが張り切ったとなると……」
 なおもからかう意志を失わずにいた二人の先輩官吏ではあったが。
「馬鹿! こんなとこでお前まで寝るんじゃねえ!」
「影月君、室まで持ち堪えるんです!」
 燕青の手に揺り起こされて、意識を手放しかけていた影月が戻ってくる。
「香鈴さんをちゃんと臥台で寝かせてあげないと……」
 遠くで香鈴の室の用意ができたと家政頭の声がする方向に向かって、影月がよろよろと立ち上がり進もうとした。
「おい、大丈夫か?」
 影月か香鈴の一人ずつであれば燕青や武人たちが運ぶこともできるだろう。しかし二人一緒となると難しい。それは分かっているが、影月から香鈴を取り上げて運ぶことは誰にもできなかった。自分が香鈴を運ぶのだと、誰にも邪魔はさせないという強い意思が影月から伝わってくるからだ。
「まあ、がんばれ」
 そう言って見送るしかできなかった。

 香鈴を背負った影月の姿がそれでも視界から消えると、実に残念そうなため息が櫂瑜から洩れる。
「帰って来るふたりをどんな言葉で迎えようか楽しみにしていたんですけどねえ」
「じーちゃん、それ本音すぎるだろ。……俺もだけど」
「ですが、私が不在の間の香鈴嬢の活躍を考えると手加減すべきだとも思っていたのですよ」
「とりあえず明日まで持ち越しかな。ただ、さっきの様子じゃ通じない可能性もあるんだけどなー」

 家政頭からの報告では、香鈴を臥台に運べはしたものの、影月もそこで力尽きたらしい。
「ご一緒に布団を掛けておきましたよ」
 報告を受けた二人の官吏は
「明日だな」
「明日ですね」
 と呟いた。


 眠る二人のどちらかが落としたのか、臥台にはやどり木の小枝が転がっていた。冬であってもその葉の緑が絶えぬやどり木は神聖視され、転じては恋人たちを守る力を持つと伝わっている。
 もしやこの深い眠りはやどり木の恩恵かもしれず、翌日からも親しみをこめたからかいから、二人を守ってくれるかもしれなかった。
 聖なる恋人たちの夜は、一晩ではないのだから――。

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「翠の恩恵」


遅すぎる更新申し訳ない。
ただひたすらそれだけです。
「朝帰り、恥ずかしいな、帰りづらいな」
というだけの話だったのですが。
本番話はまだ予定なしです。