大人の定義
(おとなのていぎ)

*一部文庫未収録の内容にわずかばかり触れています。



 芍薬(しゃくやく)、牡丹(ぼたん)、百合(ゆり)、桔梗(ききょう)。
 梔子(くちなし)、竜胆(りんどう)、女郎花(おみなえし)。
 朝顔(あさがお)、紫苑(しおん)、藤袴(ふじばかま)。
 百花繚乱、花の園。



 州牧邸には滅多に使われることのない裏門がある。そこから出ると竹藪しかないからだ。だから普段は住人であってもその存在を忘れているような門だった。
(あれ? 香鈴さん?)
 影月とて、その日偶然に香鈴が出て行くのを目撃しなければ裏門に注意を払うことはなかっただろう。


「杜補佐、何で出仕されてるんですかっ!」
 いつも通りに州府へと出仕した影月は、彼の下に配属されている州官にいきなり責められた。
「あ、おはようございますー。なんか後ろめたくて、つい……」
 笑顔の影月に州官は冷たく答えた。
「それじゃ意味ないんです! お帰りください!」
「え、でも」
「上司が休んでくれないと、部下はもっと休めないんです!」

 官吏には、週ごとに休みがある。そしてそれ以外にも年間に取得できる休日が一月分くらいある。
 ここ茶州では永らく誰も使ったことがなかった休みである。週ごとの休日ですら消えてしまうことが多かったのだから仕方がない。
 しかし、少しずつ状況も落ち着き、州牧である櫂瑜から先日、
「業務に差し障りがなければ順番に休みをとっていくことにしましょう」
 という通達が出た。
 そしてこの日、さっそく影月に休みが振り当てられていたのだ。確かに急ぎの仕事や重要な仕事はない。だが、仕事なんてものは探せばいくらでもやることはある。
 まだこの休日取得に馴染んでいないこと、未だ州府において一番の若輩者であることに変わりのない影月は、真っ先に自分に休みが振り当てられたことに戸惑っていた。そこでつい出仕してしまい責められることになったのである。
 確かに、上役が休まないと部下は休みにくい。それをこんこんと諭され、だからこそ真っ先に影月に休みが振られたのだと説明されれば、影月は帰るしかなかった。

(あー、でもどうしよう?)
 それでもいくらかの遣り取りの末、昼前にとぼとぼと州牧邸に戻ってきた影月は昊を仰いだ。
 ――いい天気だった。
 正門をくぐった後もなんとなく室に戻るのが躊躇われ、庭院に足を向けた。
 夏の終わり、庭師の芹敦が丹精した花々が精一杯咲き競っている。これから庭院は秋へと向かって趣を変えていくだろう。それを香鈴とただ眺めるのも今から楽しみだと思った。
 そう。突然の半日の休日。真っ先に相談すべきはやはり恋人の香鈴であろう。

 どう香鈴に切り出すべきかと考えをめぐらせていると、いつの間にか影月は母屋の裏が見える所にいた。
 ふいに庖廚から庭院に面した扉が開く。出てきたのは香鈴だ。影月はもちろん声をかけようとした。
 しかし、日よけに巾を被り、手に大きな風呂敷包みを持った香鈴は、影月に気付かぬまま迷うことなく裏門に向かい、普段は閉じられている閂を開けるとそのまま州牧邸を後にした。
(どこへ行くんだろう?)
 使いに出るのであればこの裏門からでは不便だ。それとも裏門からでなければならない事情でもあるのだろうか。
 影月は疑問を抱えたまま同じように裏門をくぐった。



 裏門を出ると目の前に竹藪が広がる。人気はない。竹藪の中にできた小道を慣れた様子で歩く香鈴の後をそのまま影月はついて行った。
 最初、今は慶張が住む家に向かっているのかと思われたが、すぐ方向が変わる。
 やがて目の前が急に開けた。竹藪が切れてそこには空き地があった。
 いや、空き地というには一面緑。それも花盛り。
(花畑?)
 朝顔、向日葵、槿(むくげ)、秋海棠、竜胆、紫苑、女郎花、菊に桔梗に藤袴。その他にもあれやこれやと咲き誇っている。正直、統一性があまりにもなく、しかしその統一性の無さが、かえって人の手によるものと思われた。
 香鈴はそこでいくつか花の様子を見、すぐ傍の小さな流れから汲み出した水を撒き始める。
 であれば、ここは香鈴が手入れをしていると見るのが自然だろう。しかし、香鈴が花畑を作るとしたら、これほどまでに節操のない作り方はしないだろうと影月は思い、違和感を覚えた。
 声を掛けそびれ、さらには花畑に入ることもできず、なんとはなしに隠れたまま、影月はぼんやりと香鈴の様子を窺い続けた。


「香鈴殿!」
 ふいに花畑の傍の木の上から落ちてきたように人の姿が現れ、影月はもう少しで叫びそうになった。なんとか声を出すのは抑えたものの、その人物にまた驚く。
(翔琳さん!?)
 茶州の禿鷹、自称義賊の兄弟、その兄である翔琳だ。影月も知古であり、また影月の周囲には珍しく同年の少年である。
 と言っても背も高く、山野を駆け回るその逞しい少年は、見た目だけであれば青年と呼びたくなるような雰囲気すら纏っていた。
 そんなふうに突然現れた翔琳だが、香鈴は驚いた様子もなくにこやかに挨拶などしている。声まで聞き取ることはできなかったが、そう推察するのは容易だった。
 翔琳は手にしていたものを香鈴に差し出す。それは花も盛りな山百合。
 香鈴は嬉しそうに山百合を受け取ると、翔琳を花畑の脇の木陰へと誘っている。そこには床几が置かれてあり、香鈴がここに来る前に手にしていた荷物が乗せられていた。
 二人は何やら語りながら荷物をはさんで腰掛け、香鈴は荷をほどいて取り出したものを翔琳に手渡した。それは、どう見ても弁当の重箱と思われる。そして、二人して弁当を使いだしたのだった。

 影月の混乱は最高潮に達していた。
 香鈴は気持ちを確かめ合った影月の恋人である。……そのはずだ。
 だが、今目の前で起こっているのは何だろう?
 香鈴は翔琳から花を贈られ、おそらく手作りの弁当を振舞っている。どう考えてもあらかじめ示し合わせていたとしか考えられない。
 影月は香鈴からこの花畑のことも、ましてや翔琳と会う約束のことなど聞いた覚えが無い。
(ま、まさか香鈴さんに限って……)
 それはもちろん、複数の男性と同時に付き合う女性の存在も影月は聞いたことがある。だが、香鈴はそういう女性ではないはずで。
(実は僕に愛想をつかして……とか?)
 仕事仕事で確かに同じ州牧邸に起居していながら、香鈴のために使える時間が影月には少ない。それは反省もしているし、いずれは埋め合わせていきたいとも思っている。が、そうして積もり積もった不満で香鈴がもうとっくに爆発していたのだとすれば?
 影月と同年であるということは、やはり翔琳も香鈴よりは年下ということになる。だが、それは何の問題にもならない。一度影月で年下に免疫がついて、だからこそ次の相手を選ぶのに年齢を考慮する必要がなくなったのかもしれない。
 ましてや義賊である翔琳は時間に拘束されることはない。それこそ、会いたい時に会え、傍にいたい時に傍にいることができる。
 行動力も生活力もあることは知っている。腕だってたつ。香鈴を守ることなど翔琳には容易いことだろう。

 考えれば考えるほどそれが正解に思えて、上天気だというのに影月の心には暗雲が立ち込めてきた。これぞまさに青天の霹靂という奴で。あまりの衝撃に影月は立っているのもやっとという状態だった。
 男女の修羅場など自分には、自分たちには無縁だとそう思っていた。影月のこれまでのそう長くもない生涯で、香鈴はたった一人心惹かれた女性だ。今後も香鈴以上の女性と自分が巡りあう可能性はないと確信さえしていた。それなのに、である。

 呆然としていた影月の視線の先で、弁当を食べ終わったらしい翔琳が立ち上がり、挨拶と共に姿を消した。あまりにも素早くてどこに行ったのか影月には判らなかった。
 ただ一つ安堵したことがあった。翔琳が香鈴に手すら触れることなく姿を消したことだ。二人のそんな場面を目撃してしまったなら、影月は自分が理性的でいられる自信などまったくなかった。その場合、叫び声を上げながら無謀にも翔琳にぶつかって行ったかもしれない。
 影月は傍らの竹に縋るように立っていたのだが、ついに足に力の入らなくなった影月の身体は、大きく花畑の前に放り出されることになった。
「うわっ!」
 咄嗟のことに声を出さずにいることなど不可能だった。
「影月様!?」
 この状態で香鈴に気付かれないわけもない。駆け寄ってきた香鈴の前で何とか身体を起こすと、影月は決まりの悪いまま挨拶をした。
「こ、こんにちは……」



「お怪我はございません?」
 真っ先に香鈴は影月の身体を気遣って官服についた土などを払ってくれた。それは香鈴からいつも感じられる影月に向けた心遣いで、素直に影月はありがたいと思う。
「怪我はないですー」
 けれど、ほのぼのしている場合ではなかった。当然のように香鈴からの詰問が始まったのだ。
「どうしてこんな所にいらっしゃいますの? お仕事はどうされましたの? 朝はきちんと出仕されましたわよね?」
 影月はしかたなくぽつぽつと言い訳をする。ずる休みをしようとした小さな子供になった気分だった。
「えーと、州府で最近、お休みを順番に取ることになって。今日は僕の番だからって、行ったけど帰されちゃったんですー」
 こっそりと香鈴の反応を見る。
(怒ってる? もしかして逢引を邪魔されたとか覗かれたとかで――)
 影月の思考は不毛なものでたちまち埋め尽くされる。
 しかし、香鈴の矛先は別の方向を指していた。
「そのお休みは今日にならないと判らなかったんですの?」
 影月は記憶を振り返って答える。
「いえ、三日くらい前から告知はされてたんですけど……」
 何日前に告知されていようが、影月はやはり出仕しようとしただろう。
「それではどうしていつも通りに出仕なさいましたの?」
「何だか休むのが申し訳なくてつい出仕してしまったんですー」
「別にずる休みとかそう言うことでもない、ちゃんとしたお休みでいらっしゃるんでしょう?」
「そうなんですけど、一番年下の僕に真っ先に割り振られたのがどうもいたたまれないと言うかで……」
 香鈴はため息をついて首を振り、それから立ち上がった影月を見上げた。
「影月様、そのお休みのこと、わたくしには何もおっしゃってませんでしたわね」
「出仕するつもりでしたから」
 香鈴から激しい口調で言葉が飛び出す。だが、言葉とは裏腹にその顔は今にも泣き出しそうに見えた。
「でも帰されておしまいになったんでしょう? それでしたら前もってお休みだとわたくしに話してくだされていれば! そうしたら一日中ご一緒に過ごせる機会でしたのに! 影月様にとって、お休みしてわたくしと過ごすのは少しも重要なことではないんですのね!」
「とんでもないです!」
 慌てて影月は否定するが、香鈴は腰に手を当てて影月を睨め付ける。涙を堪えているのが見てとれるだけに影月の罪悪感はいや増す。おまけにこの様子であるならばさっきまで影月が逢引だと思ったのは杞憂ということになりはしないか。
「――この前、お休みをご一緒したのがどのくらい前だか覚えていらっしゃいます!?」
「ええと……十日、いや十五日くらい前でしたっけ……」
 言葉にすると長い。毎日顔を合わせているばかりに気付かないでいたことだ。
「わたくし、これでも我慢しているつもりなんですの。それなのに半月振りに巡ってきた機会さえなくなっても影月様は平気でいらっしゃいますのね!」
 そんなことはないと影月は強く否定するが香鈴は聞く耳を持たなかった。完全に拗ねている。
「い、今から! もうお昼ですけど今日の残りはずっと香鈴さんと一緒にいますから!」
 お昼、という言葉を口にした途端、影月の腹の虫が鳴いた。……途轍もなく気まずかった。

「お昼、まだでいらっしゃったんですのね。お弁当、召し上がられます?」
「え? まだあるんですか? 翔琳さんと食べちゃんたんじゃないんですか?」
 今は晩夏。照りつける陽射しに容赦はない。それなのに影月は周辺の温度が下がったようにしか思えなかった。
「――一体、いつから見てらっしゃいましたの?」
 香鈴の声が低い。
「その……香鈴さんが裏門から出て行った時からです……」
 仕方なしに影月は正直に告げる。嘘をついたところで易はない。
「どうしてその時点で声をかけてくださいませんの!」
 香鈴の声が竹藪を控えた空き地に高く響く。
「いや、香鈴さん、急いでたみたいだったし」
「だからって、声くらい!」
 香鈴は口でこそ勢いよく影月を責めているが迷子の子供のように表情が頼りない。そんな顔をさせているのは自分だと思うと影月はいたたまれなかった。だからわざと話題を変える。
「なんか、かけそびれたらずっとかけられなくて。で、あのう、お弁当ってもらえるんですか?」
 影月への怒りとかそういったものが消えたわけではないようだが、香鈴は影月を空腹のまま放っておくことができるような性格ではない。
「――本当は昭春様の分でしたの。いつもは二人でいらっしゃるんですけれど、今日は茶家でのご用事が済んでないから昭春様だけあちらでお昼を召し上がられることになったそうですわ」
(それはつまり。翔琳さんと二人きりで逢引ってことはやっぱり間違いで)
 影月は自分が二人のことを誤解しそうになったことだけは決して香鈴に言うまいと深く誓った。

 香鈴は影月を翔琳同様に木陰の床几に誘った。風呂敷から取り出された重箱を影月に渡すと、傍の流れで冷やしてあったらしい冷茶までが振舞われた。
 お弁当は味も彩りも良く、量もたっぷりとあった。それは影月の舌と胃袋を満足させたが、他の男のために作られたかと思うと少しばかり面白くなかった。
 食後の茶を飲む影月は並んで座っている香鈴にそもそもの疑問を投げかけた。
「ところで香鈴さん? このお花畑は何なんですか?」
「お花畑――。やはりそう見えますわよねえ」
 香鈴の口調に何故か自嘲の色が滲む。
「お花、きれいですしー」
 そう。一つ一つを眺めると花はたいそう美しかった。全体を見回すと大変なことになるが。
「そうですわね。お花は、きれいですわよね」
 香鈴の返答には含みがありそうだったが、どうやら素直に教えてはもらえないようだった。


 花を眺めながら影月はあえて話題を蒸し返した。
「あの、香鈴さん? お休みのこと香鈴さんに言わなかったこと、本当にすみませんでした。普段のお休みだって度々駄目にしちゃってることも。
 絶対に香鈴さんを軽んじているわけじゃないんです。でも僕は官吏を拝命しました。しかも、降格したって十分に重職です。まだまだ教わることばかりですけどやっぱり責任というものもあるんです。少なくとも僕は自分が官吏であることに胸を張っていたい。だからどうしても仕事を優先してしまいます。たぶん、これからもきっと――」
 これを言うのは香鈴を怒らせるだけかもしれない。けれど言っておかなければと思ったのだ。
「お仕事が大切なのはわかっておりますの」
 そう、いつだって香鈴は仕事に出る影月を送り出してくれる。たまに泣きそうな顔をしていることだってあるけれど。
 だが今の香鈴はそんな風にただ黙っているわけではなかった。
「ですけれど! あまりにも度重なりますと、影月様にとってわたくしなどどうでもいい存在なのではとか思ってしまうんですの!」
「そんなわけないじゃないですか!」
 影月が反論しても香鈴は尚も言いつのる。
「お仕事なんか投げ出してくださいとまで言いたくなることだってございますの! 特にお休みが潰れた時などには!」
「さすがに、それは――」
 気が付いたら休みを返上することになってしまっていても、それは影月にとって当たり前のことで。香鈴と過ごしたいと思うことも嘘ではないが、気が付くと後回しになることが繰り返されている。
「ええ! 影月様は大人でいらっしゃいますもの! 絶対に仕事を蔑ろにされるわけありませんわよね!」
「……できません」
「例え官吏でなくなってしまわれても。お医師になってしまわれても同じですわよね!? どんなお仕事されても結局わたくしのことなんていつだって後回しになるんですわ!」
 あまり否定はできなかった。医師になったとしたらその場合は患者を優先する。育ててくれた華眞の生き様がまさにそのようであったから。
「いっそ、どんなお仕事にもつかないでいただきたいとさえ思う時だってございますの!」
 それは極論だと、そこまで行くと無茶だと思う。
「えーと、人間生きていくには食べなくちゃならないし、食べるためには働かないとー」
 ごく当たり前の。当たり前だけれど大切なことを口にすると香鈴はたちまち顔を背ける。
「大人の返答ですわね! 働かなくても食べていけるとしても同じことおっしゃいますの!?」
「そんな人いませんよ。お金がたっぷりあったって何らかの義務が発生するんですから。ほら、王様だってそうだし。茶家当主になった克洵さんだって――」
 後宮で王を、茶州に来て克洵を見ているのだ。香鈴が判らないはずはない。
「そんなことは承知しております! わたくしはただ――」
 香鈴はそれまでの勢いが嘘のように逡巡しながら言葉をこぼした。
「たとえ嘘でも。ひと時の戯言でも。わたくしを優先するとかおっしゃってはいただけませんのね?」
 言えない。個人的に香鈴はとても大切で。けれど自分は官吏で。
「言っても嘘になりますから。嘘だと判っててそんなこと言えません」
「子供じみた夢さえ見させてはいただけませんのね! 影月様は大人でいらっしゃるから!」
「……そういう意味じゃないですけど」
「ずるいんですわ! いつもいつもあなたばっかり大人の顔なさって! わたくしばかり余裕がなくって! 何ですのっ! 大人なのがそんなに偉いんですの!」
 香鈴の発言が実際のところ本気で言ってるわけではないのは判っていた。頭の良い香鈴のこと。何もかも承知の上で、これまでの不満を吐き出しているだけに過ぎないと。判ってはいた。しかし――。

「違うっ! 大人なんかじゃない!」
 影月は我知らず大声で怒鳴っていた。
 香鈴の言葉の中にあまりにも頻出した“大人”という単語。それが影月の逆鱗に触れたのだ。
 だが、目の前の香鈴が身体を竦ませているのを見るとたちまち後悔に襲われた。
「す、すみません、怒鳴ったりして。あなたを怖がらせるつもりも困らせるつもりも淋しがらせるつもりもないのに。でもそれは僕がまだ全然大人じゃないからで。まったく修行が足りないんだけなんです。
 周り中大人ばっかりで。背伸びしてもしても追いつかなくて。僕が大人に見えるとしたら必死で大人の真似をしているからなんです。大人だったらもっとちゃんと香鈴さんを怒鳴ったりせずに説得だってできるはずなんです。
 それに、いつだって特に香鈴さんの前だと余裕のない子供でしかなくって。大人だなんて間違っても思えません」
 弱々しく微笑みかけると、香鈴はようやく金縛りが解けたように息をつく。そうして、二人の間にあった距離を埋めてくれた。現実的な動きでは座った床几の間にあった重箱を下ろしてその分近づき、言葉では優しく諭して。
「そうやってご自身を大人じゃないって思われてるところが大人なんですわ。本物の子供でしたら自分を子供だなんて言わないんですのよ。それに、影月さまより年齢が上でも大人になりきってない困った人なんて沢山いますもの」
 それから頬に薄く朱を浮かべて丁寧に頭を下げてきた。
「申し訳ございません。先ほどのは八つ当たりでしたの。ですけれどわたくしの本音でもありますわ」
「わーっ! 頭なんか下げないでください! 元々僕が全部悪いんですし!」
 影月は慌てて香鈴の両肩に手を回し頭を上げさせる。
「全部承知の上で一緒におりますのよ? わたくしの方が悪いんですの」
 影月が肩に置いた右手の上に自分の右手を重ねて、香鈴はあどけない少女のようにも妖艶な大人の女性のようにも見える微笑を向けた。影月の心臓はたちまち跳ね上がる。
 影月は直視できなくて思わず顔を背けてしまった。当分今の香鈴の顔を思い出しただけで心拍数が上がりそうだと思った。胸を押さえながら影月は何とか声を出す。
「お願いですから僕をあまり試さないでください……」
「そんなことしておりませんけど?」
 小首を傾げる香鈴はまったく無意識のようで、それがまた性質が悪い。
「今の笑顔、卑怯なくらいですよ。もうきれいすぎます。――それにさっきだって、翔琳さんと二人でなんかいたじゃないですか。見ててすっごい苦しかったんです。僕以外の男と二人きりってだけでも、母親を独占したがる子供みたいに嫉妬しちゃうし」
 情けない告白に香鈴は呆れただろうか? 影月は背けていた視線だけを動かして香鈴を窺う。
 香鈴の反応はため息として現れた。やはり呆れられたのかと影月は気落ちする。けれど香鈴は怒ったような声で予想外の言葉をくれた。
「あなた以外の殿方なんて、わたくしから見れば糸瓜(へちま)やお茄子や南瓜みたいなものでしかありませんわ!」
 嬉しいけれど複雑な気持ちになった。それに糸瓜や茄子とまで言われた男たちがなんとも哀れに感じて、思わず庇おうとしてみる。
「へ、糸瓜は身体にいいですし、茄子は今美味しい季節ですよね」
「今夜のお夕食は麻婆茄子の予定ですわ」
「あ、それは楽しみですー」
 なんだか違う方向に話が進み、二人の間に沈黙を落とした。

「……いや、そういう話じゃなくって」
 影月は話題を変えようと花畑に視線を転じる。その目が、いくつも長くぶらさがった話題の実を発見した。
「あれ? あそこに植えてあるのって糸瓜ですよね? あ、茄子もなってる。……ここって、お花畑じゃないんですか?」
「どうせ植えるならお花のきれいなものの方が楽しくってこんな風になってしまいましたけれど、元々お花畑にするつもりで始めたわけではございませんの」
 よく見れば、日当たりの悪い流れの傍で緑の葉を広げているのは雪の下(ユキノシタ)であるし、その隣には薄葉細辛(ウスバサイシン)。薄荷(ハッカ)も、ちょうど淡い紫色の花をつけていて可憐だ。岩陰には石斛(セッコク)。それも最良と言われる鉄皮石斛ではないだろうか。山中の岩石上に自生する草だから香鈴が採取したとは思えないのだが。
「あー、出所が翔琳さんなら不思議はないか!」
 影月は腑に落ちて手を叩く。茶州の禿鷹の二人であればどれほど厳しい山中であろうと障害にはならない。
「ええ、そうなんですの。月に一度、春姫様の所に顔を出されるついでに、色々届けてくださいますの。わたくしではとても見つけられませんし、助かっておりますわ。せめてものお礼にとお弁当を用意させていただいているんですの」
「じゃ、さっきの山百合も?」
 影月の発言に香鈴は床几の隣に置いてあった山百合を引き寄せて見せる。朱色の大きく開いた花。いくつもの蕾。青々とした葉。そしてしっかりとした根。
 克洵でもなければ女性に花を贈る場合根ごと……とはあまり聞かない話だ。これはますますさっきの出来事が影月の杞憂にすぎなかったと証明するものだろう。
「ええ。近頃ではわたくしがお花のきれいなものを喜んでいるようだからって。……当初の目的からずれてきているようにも思うのですが、ちゃんと効能のあるものを選んでくださってますし」
 香鈴の口から聞くと思っていなかった効能という言葉に影月は違和感を覚えた。
「そりゃあ、百合の類は秋に鱗茎を掘り出して生薬にすると解熱や鎮咳に効能がありますし……って、あれ?」
 影月は改めて目の前の花畑を眺める。
「桔梗の根は排膿や去痰に、朝顔の種は腎虚やむくみに効くし、秋海棠の葉っぱは皮膚の病気に使うし、竜胆の根は消炎に――」
 花の咲いているものも花季の終わったものもどちらも植えられてはいるが、そのどれもが生薬に使用している植物ばかりだと、この時ようやく影月は気が付いた。
「お花畑じゃなくて、本当は薬草園……?」
 やや決まり悪そうに香鈴はそっぽを向く。
「春に、影月様が薬草を採りに行ってる時間がないって残念がってらっしゃって。だから、それなら近くに植えておけば必要な時に困らないんじゃないかと思いましたの……」
 ふと影月は自室の薬草収納に使っている棚の中身が、最近使った後でも補充してあることを思い出した。てっきり全商連にでも頼んでいるのだろうと思っていたのだが、もしやそれは香鈴自身が――。しかも。
「あの、つまり、ここって僕のために――?」
「え、影月様のためばかりじゃございませんわ! お薬は影月様からいただいた患者さんのために必要なものなんですから!」
 もちろん、最終的には患者のためである。だが影月が使うために、影月が使いたい時のためにこの薬草園は作られたということになる。決して大きくもないが、そう知って眺める園は影月の目に広大なものに映った。
「…………」
 ちいさく、影月は言葉を絞り出す。
「影月様? なんとおっしゃいましたの? あまりに子供っぽくて呆れてしまわれましたの?」
「誰が子供っぽいもんですか。香鈴さん、あなたは――」
 ゆっくりと影月は向き合った香鈴の右手を取った。
「――何度、僕を恋におとせば気が済むんですか?」

 白く細い姫君の手だった。土いじりなど無縁であったと知れるそんな手だった。だが今その指先が影月のために汚れることさえ厭わず土に汚れている。
 込み上げる感謝の念と愛しさで、影月は指先に唇を寄せた。
「え、影月様! 汚れておりますのよ!」
 影月の言葉と行動によるものだろうか。香鈴は頬を染めて激しく動揺を見せた。
「このくらい、全然きれいなものです」
 そのまま香鈴の手の甲から手首へ、手首から腕へ、影月は唇で辿る。腕を露にしたことで影月にたくしあげられた袖に阻まれるまで。
 香鈴は腕を引かれて危うくした均衡を取ろうと、残されたもう一本の手で身体を必死で支えながら小さく抗議の声を上げた。
「な、何をなさいますの!」
「すみません、この体勢辛かったですか? じゃあ、こうしましょうね」
 そのままもっと香鈴の腕を引いて、影月は香鈴を抱きしめる形になる。
「影月様! い、今はお昼で、ここは外で、そ、それに!」
 混乱した香鈴が抗おうとするのを影月は力で抑える。
「お昼で外ですけど、周りには誰もいませんし」
「だからって!」
 抗議の声を聞き流して影月は間近となった香鈴の顔に唇を寄せていく。
「ど、どうしてそうあなたは勝手でいらっしゃいますの!」
 懸命に顔を背けようとする香鈴の動きを影月は許さない。
「好きだから触れたいと思うのは自然でしょう?」
「で、でしたらもっと時と場所をお選びになって!」
 やや強引に唇を奪う。やわらかな香鈴の唇を角度を変えて何度も求める。それを繰り返すうちに香鈴は抵抗を諦め、ただ影月に身体を預けてきた。


 どれほどそうしていたか。ようやく唇を離した時には日向に黒く作られる影の位置が少し変わっていた。
「香鈴さん? 香鈴さん?」
 強引に過ぎたかと多少慌てて影月は呼びかける。
「あの。怒ってます?」
 腕の中の恋人は潤んだ瞳で見上げて、そうして短く言い切った。
「怒ってますわ」
「い、今の口づけでですか?」
 香鈴は眉を顰める。
「それも少しはありますけれど……。わたくし、思い出してしまいましたの」
「何をですか?」
 抑えきれない怒りが香鈴から見えるようで、影月はやや怯んだ。
「よく考えてみましたら初めての口づけは最低! だったとかを」
 はじめての口づけ。忘れられもしない、奇病騒ぎの虎林郡へ向かう前夜の――。
「あ、あれですかー」
「勝手に事情を話すだけ話して。おっしゃりたいことだけおっしゃって。わ、わたくしの気持ちだって確かめずにさよならの代わりになんかされて!」
「……すみません」
 あの時点で香鈴に嫌われていないことはわかっていたし、どちらかというともしかしてとか、たぶんとか、やっぱり好かれている気はしていた。ただ、香鈴に応えられないということで頭が一杯で、正直、香鈴の気持ちを聞いて否定されるのも怖かった。あの時の口づけは、確かに一方的な影月の感傷でしかなかったかもしれない。だが、せめて。命が消えてしまうその前に。ささやかな思い出が欲しかったのだ。ただ、香鈴からすればやはり勝手な男の理屈にすぎなかったのかと、今となっては謝るしかできない。
 だが、次に発せられた香鈴の言葉が影月の気分を浮上させる。
「だいたい、わたくしにとって初めての口づけでしたのに!」
 独占欲という名の勝手な獣が影月の中で嬉しげに尾を振る。
「それ、本当ですか?」
「あたりまえではありませんの! ずっと鴛洵様の庇護下におりましたわたくしに、そんな不埒な真似をするような方などいらっしゃいませんでしたわ!」
 そうか、自分のしたことは不埒と言われるのか。影月はけれど香鈴に触れて後悔したことなどない。たとえ不埒と言われようとも。
「で、でも後宮とかで……」
「後宮でそのようなことが許されているのは主上おひとりでいらっしゃいます! それに、主上はそんなことわたくしになさるような方ではいらっしゃいませんし!」
 後宮の女官で王に仕えたならば。通常その危険性は無視できないものだが、影月の記憶にある王はいつだって秀麗ばかり見ていたものだ。
「……そうですね。主上がああいう方で良かったですー」
 ちなみに影月は劉輝が永らく男性にしか興味がないように振舞っていたことを知らない。香鈴もまた、そのあたりのことについては口外する気は永遠になかった。
「ですから! わたくしの唇など決して安くはありませんのに、あなたったら簡単に奪っておしまいになるし!」
「全然簡単じゃあなかったですよ? こっちだって初めてだし必死でしたし」
 思い出すだけでも当時の自分の必死さにつられそうになって、影月は軽く息を吸い込んで自分を抑えようとした。そうして、先ほどの香鈴の言葉を思い出して頬を緩ませる。
「な、何を嬉しそうにしてらっしゃいますの!?」
「香鈴さんが他の人と口づけしたことないって判って嬉しいなあ、って」
「わたくしのこと、そんなにふしだらな女だとか思ってらっしゃいましたのっ!?」
 香鈴は今や真剣に怒っている。火に油を注ぐ結果になった言葉を撤回しようと影月は言葉を重ねた。
「思ってません! 思ってませんけど、香鈴さんくらい綺麗だったら香鈴さんのこと好きだった男の人だってきっと今までもいただろうし、香鈴さんに触れたいと思った人だって――」
「そんなこと許したりいたしません!」
 香鈴が許さなくとも、男が強引に事を進めれば容易であったのではと思ったことを影月はなんとか飲み込んだ。そうして無理矢理笑顔を作って話しかける。
「香鈴さん、今から仕切りなおししませんか?」
「……何をですの」
 あまり笑顔の効果はなかったようだがここで挫けるわけにはいかない。
「ですから、その、初めての口づけの――」
 真っ赤になって怒っている香鈴も可愛いのだが、そんな香鈴ばかりを影月は堪能することになった。
「――これまでだって何度もわたくしに口づけされていて今頃そんなことおっしゃいますの!」
 だがこれで怒られることは想定のうち。
「気持ちだけはいつだって初めての時みたいに緊張してるんですよ?」
 影月は耳元でそっと囁く。
「これからも、これまでも。全部の口づけは僕らのはじめてで。それに――香鈴さんは僕以外の唇なんか知らなくていいんです」


「香鈴さんはここのお花みたいですよね。きれいなのにきれいなだけじゃないところなんて」
 ようやく離した唇で、影月はその時思ったままを口にした。香鈴の顔は先ほどからずっと怒りやら羞恥やらで赤いままだ。
「そう思ってらっしゃるんでしたら、ふらふらなさらないでくださいませ!」
 周りの男たちに比べて頼りなく見えることを指摘されているのかと影月は受け取った。だが断じて他の女性に心を奪われるとかいった事態ではないだろうとも。
「ふらふらって、して見えます?」
「ふらふらなさってないのでしたら、どうして龍蓮様ですとか、ごま塩男ですとか、妙な男性ばかりにちょっかいかけられていらっしゃいますの!」
「――どっちも男じゃないですか」
 どっと疲労が影月に押し寄せる。せめて香鈴が妬いてくれる対象は普通に女性であって欲しい。もっともその場合の心あたりはさらにないのが悲しい。
「それとも、わたくしの女の磨き方が足りないせいなんですの!?」
「とんでもない! それにですよ? 龍蓮さんはお友達ですし、ごま塩ってあの人は――」
 あまり堂々とその存在を口にするのもはばかられる人物ではある。ましてや彼には自分と同じ境遇の疑いさえあるのだ。思わず影月の口は重くなる。
 それがいけなかったのか、香鈴は激昂した。
「初体験とかおっしゃってたじゃありませんの! わ、わたくしを差し置いて!」
 そういう誤解を生む表現は避けて欲しかったと影月は心底思う。だがもし今後顔を合わせることがあれば、あの男は似たような言動を繰り返す恐れが十二分にあった。
(できるだけ会いたくない――)
 影月にそう思わせる人物はこれまでにいなかった。だから確かに初体験というのも間違いではない気もするのだが。
「あれは、怒りに任せてお説教したというだけで――」
「そ、そんなこと信じられるとお思いですのっ」
「……信じてもらえないとあんまりにも僕が情けないじゃないですか」
 泣きたい。何の因果で好きな女の子にこんな誤解をされなければならないのか。
「信じて欲しいとおっしゃるなら、もっとわたくしだけを――」

 だが香鈴の反応は随分と可愛らしいものだった。
「香鈴さん? なんでそんなとこで言いよどんだりするんです?」
「わ、わたくしだけを――見ていただきたいんですの」
 恥じらいながら睫毛を伏せるその様子に影月はつい、秘めた憧れを掘り起こされた。
「じゃあ、香鈴さんを攫っていいですか?」
 黒目勝ちの瞳が驚きに大きく見開かれて影月を見上げてきた。一度口にしてしまったのだからと影月は腹をくくり、正直に内心を吐露する。
「時々、狂いそうになります。香鈴さんが今日みたいに僕以外の男の前で笑ってるとこ見たりしたら。だから、攫って、閉じ込めて。僕以外の誰にも会わせない。そうしたくてたまらなくなるんです。香鈴さんの目に映る世界にいるのは僕一人だけでいいって――」
「影月様――」
 戸惑いの視線を寄越す香鈴に、影月は発した言葉の過激さとは裏腹に優しく微笑む。
「ね? 迂闊なことなんか言えないでしょう? こんなこと考えちゃうくらい僕は危ないんですよ?」
 ついっと、香鈴がそれまでになく自分から身を寄せてきた。そうして夢見るような瞳で囁いてきた。
「――攫ってくださってもかまいませんのに」
「え?」
「わたくしだけご覧になっていただけるなら、いつだって攫ってくださってよろしいのに」
 まさかそう返されるとは思ってもみなかっただけにむしろ影月の方が慌てた。
「香鈴さん! 早まらないで!」
 だが香鈴はなおも熱い視線で影月を捕らえる。
「もっともっと女を磨いて。そうしてあなたなんか骨抜きにしてさしあげますの。そうしたら攫ってくださいますか?」
「いやもう十分骨抜きになってる気がするんですけどー」
 特に今などかなり自分でも危ないくらいに夢中だと思ったのだが、香鈴の目にはそう映ってはいなかったらしい。
「ちっともなっていらっしゃいませんわ! だって骨抜きになってらっしゃったら今日だって真っ先にわたくしと過ごしたいとか思われるはずですもの!」
(振り出しに戻る……)
 内心、影月は苦笑する。けれど、それはそれでほっとしたのも事実だった。あんな熱っぽい瞳でいつまでも見つめられていたりしたら、それこそどんな行動に出たか自分でもわからない。たぶん、攫うまでいかなくとも、かなりとんでもなく思い切ったことをしでかしそうでもあったからだ。
 取り繕うように影月は言い訳のように聞こえるかもと思いながら言葉を口にする。
「香鈴さんが気になるから。大事だから。今日だって追っかけてきたんです」
「一度は出仕されたのにそんなことおっしゃいますの!?」
「これが普段の休みだったら迷わず最初からそうしてます。それに――」
 影月は少し考えておもむろにうなずく。
「うん、そうしよう!」
「影月様?」
「まだ半日ありますから、せっかくですから有意義に過ごしましょう」
 有意義の定義はきっと人によって違うだろう。だがこの場合自分たちには何より有意義になるはずだと影月は確信を持った。何しろ一緒にいたいというお互いの利害が一致しているのだから。
「僕がどれほど香鈴さんに夢中か、きっちり証明します。そうすればその間はお互いのことしか見ていられなくなるはずですから」
「……どうされるおつもりですの?」
 少しも離すことなく腕の中に捕らえたまま不安気な表情の恋人に影月は笑いかける。
「どうしても帰らないといけない時間になるまで、この腕の中に閉じ込めたまま逃がしません。あなたがどれほど恥ずかしがっても。抵抗したって許しません」
「そ、そんなことで証明になるとか思ってらっしゃるんでしたら!」
 さっそく抗い始めた香鈴を易々と抑えながら影月はとどめの一言を口にした。
「僕がどれほどあなたを好きか、どう好きなのか、とくとくとかき口説くおまけ付きですー」
 華眞は折々に大切な人に愛を語るべきだと教えてくれた。櫂瑜は女性に愛を語るのに手を抜くなと教えてくれた。だから。
「簡単ですよー? だってさっきまた香鈴さんを好きになりましたからね。つまり――。これは香鈴さんの自業自得でもあるんです」
 香鈴は言葉尻を捕らえてようよう反論をする。
「……言葉の使い方、間違ってらっしゃいますわ」
「いいえちっとも。本当ならとうに終わってるはずだった短い人生の中で、人並みに恋することができると教えてくれたのはあなたですから」
「そ、それはこの体勢でなくてもできるんじゃありませんの!? 力の差だってあるのに、ずるいんですわ!」
 それこそ影月が香鈴に言わせたいと狙っていた言葉だった。
「香鈴さん、さっき僕のこと大人だって言いましたよね?」
「……ええ」
「じゃあいいですよね? 大人ってずるいものらしいですから」
 涼しい顔で影月は嘯くと、両手に力を込める。
「さて、まずは初めての口づけの仕切り直しをもう一度始めましょうか?」
 ゆっくりと顔を近づけて心の底から影月は想いを告げる。
「あなたのことが好きでたまらないんです――」
 甘い晩夏の午後はこうして蕩けるように過ぎていったのだった。


「兄ちゃ……お頭、帰る前に僕も香鈴さんに挨拶しようと思っただけなのに、とっても出ていける雰囲気じゃありませんー」
 木陰から見える恋人同士の光景は、影月よりも年下の少年にはいささか目の毒であった。
「ううむ。影月殿は同年とは言え何と大人であることか。見習わねばな」
 翔琳は心から感心して香鈴をあしらう影月の姿を眺めた。
「ああ、じゃあ恋人を探すことから始めないといけないですねー」
「昭春……」
 無邪気な弟はそれは兄の役割だとばかりに気楽に言う。
「春姫様とか香鈴さんみたいに、きれいで兄ちゃんだけを好きになってくれる人を探さないといけませんねー」
「昭春……」
 夢見る瞳で弟は先を続ける。
「きれいと言えば珠翠さんもすっごくきれいなひとでしたよねー。秀麗さんみたいに優しくて強い人もいいなあー」
「昭春……」
 彼にとって身近な女性の名前が挙がるのはしかたないが、それがどれほど少数に属する高嶺の花揃いであるのか、まったく意識していないようである。
「でも、兄ちゃんだってかっこいいと思うし、きっと簡単に見つかりますよね!?」
 間違いようのない信頼に満ちた弟の視線に、翔琳は兄としていつか応えねばならないと、この時深く誓った。彼もまた弟の前では大人になるしかなかったのだった。


 風のよく通る木陰では、暑さの残る晩夏であることすら忘れそうになる。ましてや世界が二人だけのものである恋人たちには、お互い以外のすべてが忘れられている。たとえ義賊の兄弟がすぐ目に入る所にいたとしても、とても見つけられるとは思えなかった。


 芍薬(しゃくやく)、牡丹皮(ぼたんぴ)、百合(びゃくごう)、桔梗根(ききょうこん)。
 山梔子(さんしん)、竜胆(りゅうたん)、敗醤根(はいしょうこん)。
 牽牛子(けんごし)、紫苑(しおん)、蘭草(らんそう)。
 百花繚乱、良薬の園。

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『大人の定義』(おとなのていぎ)


それは5月になったばかりのこと。
いきなり影月と香鈴への愛が津波のように押し寄せてどうにもならなくなって、
とにかくいちゃいちゃしてる甘々テイストのものが書きたくて仕方なくなりました。

しかしその時手持ちのネタはどれも甘々とまではいかないものばかり。
「もっと、『二人の世界』って感じのが書きたいの!でもネタがないの!」
日記でそう叫びましたら、素敵なメールをいただきました。
萌え沢山のメールです。
その中の「二人で(中略)薬草作ったり」という一文を見た途端、ネタ降臨。ハレルヤ。

しかし生憎その時は連続で書いていた童話パロに忙しく。
「終わったらこれ書くんだ!」
しかし途中で『たぶんそれは犬も喰わない』(個人的に『犬喰わ』と呼んでいます)を書いて少し満足してしまったせいか、はたまた童話パロの影香3本立てが幸せだったからなのか、童話パロが終わった後はなんだか『片翼のゆくえ』『鵲の渡せる橋』とシリアス路線まっしぐら。
リハビリに『鵲の踊れる時』を書いて、ようやくテンションもモチベーションも上がって。
気が付けば7月も中旬になろうと……。


この話で書きたかったのは「影月が天然で砂を吐くような甘々台詞で香鈴をたらす」
……それ、テーマって言いません。
で、甘々台詞を吐かせるんなら当然それだけのことを香鈴はしてるはずなのです。
してる、と私は思うのですが。
影月気分でたらしを満喫するも良し。
香鈴気分で恥ずかしさにのたうちまわるも良し。
そんな楽しみ方をしていただけたら本望です。

この作品は『犬喰わ』に引き続きネタを引きずり出してくださった天然推進員様に捧げます。たいへんお待たせいたしましたが……。

ところで。
山百合はとっとと植え替えした方がいいと思うよ?

作品の文末に記載しましたのは始めの数行に出てきた植物の生薬としての名前です。
最初に名前を挙げた中では、シーズン的に牡丹と芍薬と梔子だけは咲いていませんが、
文字を並べるにしろ口に出してみるにせよ、やはり華やかなので加えました。
作中に名前の出てきた植物名はすべて薬効のあるものばかりです。
ちなみに美人の姿を「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と申しますが、
この三つはどれも婦人病に効能があるそうです。
面白いですよね。

参考文献
『花のくすり箱 体に効く植物辞典』(鈴木昶著・講談社)