スウィート・レシピ

*この話は彩雲国にも当たり前のようにバレンタインがあり、
チョコその他の食材があるという設定になっております。




 生チョコ、トリュフにブラウニー。ガナッシュ、ムースにチョコレートパイ。シフォンにクッキー、マドレーヌ。マカロン、マフィンにチョコタルト。スフレにドーナツ、ガトーショコラ。
 各種レシピを取り揃えて、あなたを甘く虜にするの――。


(こんなこと、予想もできませんでしたわっ!)
 香鈴は目の前で起こっている事実が信じられないでいた。否定したい気持ちが溢れてくるが、現実は容赦なく香鈴を打ちのめす。
「香鈴老師(せんせい)、チョコが爆発しました!」


 ここは通称“美女宮”(びじょぐう)。女性を美しくするために立ちあげられた組織である。香鈴は創設者として、また講師として週に数度、州牧邸近くの竹藪の中に作られた“美女宮”を訪れる。
 実績も目に見えるようになり、出だしは十代の娘ばかりだった生徒も、今では幅広い年代の女性へと順調に増えていっている。それでも一番多いのは年頃の娘たちだ。

「香鈴老師、バレンタインに手作りチョコを贈りたいんです!」
 バレンタインのある月に入ると、そんな会話が交わされるのも自然なことだった。
「ええ、手作りはおすすめですわ」
 その日の講義の終わった香鈴は、“美女宮”の一室で生徒たちとお茶を楽しんでいた。鷹揚に微笑む香鈴へと質問が飛ぶ。
「香鈴老師は、やっぱり手作りなんですね! ちなみに、チョコレートのレシピってどのくらいご存知なんですか?」
「そうですわね。十種類以上は存じておりますが……」
 香鈴の脳裏をいくつかのレシピが過ぎる。
(去年はトリュフにしましたけれど、今年は何にいたしましょう)
 甘い物も抵抗なく食べる影月であるから、どんなお菓子であっても失望はさせないだけの自信はある。だからこそ、香鈴はバレンタイン前日に“美女宮”でのチョコレート講習会を開くことに気軽に同意したのだった。
 それが簡単に済まないなどと思いもよらずに。

 誰しも得意、不得意があり、器用な者も不器用な者もいることは香鈴とて知ってはいた。――頭では。
 特別講習でも大半の生徒は香鈴の指示通りにチョコレートを仕上げ、ラッピングも完成させて嬉し気に帰って行った。
 しかし問題は残った数名の生徒だった。
 作業に入る前に香鈴は予め作業の説明をしているのだが、少しも耳に残っている様子はない。
 チョコを溶かせと言うと、湯煎用の湯をチョコに加える者。湯煎の温度が高すぎて煮えたぎらせた者。油脂が分離してしまった者。……この辺はまだ可愛いものだった。
 溶けたチョコに生クリームを加えろと言うと、用意していた生クリームを全部入れる。香り付けの酒を入れろと言うと一瓶入れて空けてしまう。
 分量をきっちり量り、レシピ通りに進めれば菓子などそれなりに手作りできる。それを平気で無視するからこその失敗作がすぐにも山となっていった。
 そもそもの問題は初心者の分際で、
「簡単すぎて面白くないから」
「この方が美味しくなりそうだから」
 そんな台詞は基礎が出来てから言うものだ。そもそもチョコレートは爆発などしないはずなのだ。むしろ爆発させた方法こそ謎だ。だが“美女宮”の厨房は時間とともに悲惨な状態になるばかり。
 始めは香鈴とて初心者のやることと鷹揚に構えていたのだが、途中から叫び通しになった。
「きちんと分量通りに!」
「指示以外のものを加えないで!」
 良いのか悪いのか、問題児たちはやる気だけは満々で諦めると言うことを知らなかった。自覚のないまま更なるトラブルを巻き起こす。
「余計な事をしないでと申し上げたでしょう!」
――結局香鈴はバレンタイン当日の朝まで州牧邸に帰ることは出来なかった。


 州牧邸に香鈴が戻った頃には官吏三人はとうに出仕した後。香鈴の様子を見た家人らは揃って臥台へ行くよう奨めた。徹夜明けの香鈴はあまりにもやつれ果てていたのだ。主に、心労で。香鈴は家人たちの進言に有り難く甘えさせて貰うことにした。
(とりあえず何とかいたしましたもの。良かったですわ……)
 徹底的に香鈴が横について余計な事をしないよう見張って、チョコレート教室の受講者全員に、きちんと食べられてしかも美味しいチョコレートを作らせることができた。
 ともかくやり遂げたという充実感に包まれて香鈴はすぐに眠りに引き込まれていった。



(え……?)
 午後の日差しの下、目覚めた香鈴は状況が理解出来ずに臥台の上でしばしぼんやりとした。朝はたいてい早いから、こんな時間まで眠ったのは病に臥せった時くらいだ。
(今日はそう、バレンタイン当日でしたわね……)
 徐々に思考が戻ってくると香鈴は今日の準備が万端かどうかを思い返し始めた。
 州牧邸の住人と茶家宛てのチョコはとうに用意して渡す手筈も整えておいた。だが本命用だけはまだである。当日に作ると決めていたからだ。
 せっかく同じ屋根の下に暮らしているのだ。出来立て熱々を差し出せば、どこかにいるかもしれないライバルだって撃退確実ではないか?
 だが身支度を整えて意気揚々と厨房に向かった香鈴は前日よりも深い衝撃に襲われることになった。
「ない……んですの?」
「ごめんなさいねえ。香鈴ちゃんが皆の分作ってるのを知ってたからもう終わったんだろうと思って」
 州牧邸の厨房からチョコレートが消えていた。ひとかけらも残さずに使い切ってしまわれていたのだ。
「いいえ、いいんですの。わたくしがちゃんと言っておけばよかったんですわ……」
 伝えてさえいれば注文しておいて貰えたが、今さら遅すぎる。昨日、あれほど失敗していなければ“美女宮”に借りることもできただろうが、あちらの厨房にももうチョコレートは残ってはいなかった。
「わたくし、お買い物に行ってまいります!」

 肩かけをつかんで香鈴が州牧邸を飛び出したのはまだ傾きかけた冬の日差しが残っていた時刻。しかし。重い足どりで香鈴が門をくぐって帰宅した頃には最後の一筋の日差しさえ消えて久しかった。
「遅くなって申し訳ございません」
「無事で良かったですよ。もう少し遅ければ何かあったかと人を探しにやるところでした」
 家政頭の文花に詫びながらも、徒労、という言葉を香鈴は噛み締めていた。彼女の手にあったのはたった一枚の市販の板チョコきりだった。
 官吏街の市も、上区の市も、いくつか知っている個人の店も。そのどこからもチョコレートが消えていた。売切れである。当日になって慌てて買出しした女性たちがどうやら大勢いたらしいのだ。もしかしたら見栄を張るための男性客も少なくはなかったのかもしれない。だがそんな原因はどうでも良かった。チョコレートがないことこそ問題だった。
 普通の板チョコですらその有り様。製菓用などもちろんどこにもない。通常でも州牧邸で使用している質のものを見つけるのは困難だ。だがそんな贅沢を言うどころではなかった。
 いっそ下町まで行けば見つかる可能性もあったが夕刻に若い娘ひとりでは躊躇われる場所であり、また州牧邸の侍女という役目上、これ以上遅くなるわけにはいかなかった。
 その結果が板チョコ一枚。もちろん、板チョコ一枚だとて十分に贈り物にふさわしく加工はできる。だが。それだけでは香鈴は不満だった。影月には質も量も見た目も、すべてにおいて完璧なものを贈りたいのだ。そのために何を作るのかどう飾り付けるのかを考え抜いていたというのに。
(これでは、さしあげられませんわ……)

 そのまま夕食の支度に雪崩れ込み、食後の片付けも済ませた後、香鈴は板チョコを手にしたまま厨房にひとり佇んでいるばかりだった。あまりにも予定と違う事態に、思考が追いついていなかったのだ。
 それでも。今日は特別な日。何も渡さずにこの日を終えることはもっと耐え難かった。香鈴が悩んでいる間にも日付の変わる刻限は確実に近づいている。
 ひとつ大きく息を吐いて、香鈴は包丁へと手を伸ばした。



 ためらいながら叩いた扉は沈黙を守っていた。
(も、もしかして、もうお休みになられてしまったんですの!?)
 それならば、午後に目覚めてからの香鈴の混乱と悩みとはまるで無駄になってしまうではないか!
 思わずムッとして、先程より強く扉を叩く。
 だいたい、今日は女にとっても大変な日だが男にとっても大変な日ではなかったか。貰えるか貰えないかで騒ぐ輩もひとりやふたりではない。
(影月様はもう、わたくしからのチョコなど貰っても嬉しくもないのでは? いいえそれより。いつもわたくしが何かしてさしあげると喜んでくださるけれど、実はもうすっかり迷惑だとか思ってらっしゃるのでは……)
 一度後ろ向きになってしまった思考は不毛な考えばかりを頭に送り込んでくる。
(いいえ、いいえ。影月様はそんな方では……!)
 懸命に悪い考えを打ち消していた香鈴は、返事もなしに開いた扉にしばらくは気が付かなかった。
「誰かが扉を叩いた音がしたと……。ああっ、香鈴さん!?」
「……こんばんは」
 何故そんなに驚くのだろう。だいたい恋人である香鈴が夜遅くに訪ねてくるのも初めてではないというのに。不審に思いつつ挨拶をする。
「遅くに申し訳ございません。もうお休みでしたの?」
「えっ、いや、起きてましたけど」
「お返事がなかったのでお休みだったのかと」
「そ、それは書類に集中してて……。あ!」
 香鈴は納得した。影月はこれまでにも散々香鈴が抗議してきたというのに、懲りずに仕事を持ち帰ってきていたのだ。道理で思い返してみると夕食時の彼はどこか上の空であった。香鈴は僅かに眉をひそめる。それを見て取ったらしい影月の声はまた慌てて発された。
「い、急ぎの仕事だったんです! で、もうあらかた終わったのでちゃんと寝ますから!」
 影月の様子を見ているうちに香鈴は自分が必死になっていたのは何のためだったか判らなくなってきていた。
「なんだか馬鹿馬鹿しくなってしまいましたわ……」
 そこで香鈴はずいっと持っていた盆を影月の手に押し付けた。
「こぼさないでくださいませね?」
「お茶……ですか?」
 香鈴は本気で腹がたってきた。それはもちろん、これまで夜のお茶を影月に何度となく運んだりもしてきた。けれど。
「今日が何の日でも影月様には関係ないんですのね!」
「……って、え? あれ? この匂い……」
 そのまま踵を返そうとした香鈴の手が引かれる。
「待ってください香鈴さん! あ、わっ!」
 器が音を立てて傾いたのを咄嗟に押さえて、
「お室にはわたくしが運びますわ」
 それだけ言ってとても見ていられず、香鈴は盆を奪い返した。


「ええと、今日はこの仕事のことで頭が一杯だったんで……」
「何のお仕事ですの?」
 室内へと移動しながら香鈴は問う。今はそれほど急ぎの仕事はないはずの時期なのにと疑問に思ったからだ。おまけに世間はバレンタイン一色だというのに。
「学院関係なんです。幸い順調に研究者も増えてきてますが、基礎を知らない人には敷居が高いみたいで。ですから基礎を学べる塾のようなものが必要になってきたんです。だけど今度はその塾で教える人間をどうやって集めるかが問題になってきて。しかも期限は春までなんです」
 香鈴とて秀麗と影月が考案した学園には成功して欲しいと常日頃から協力を惜しんでいない。だから決して興味のない話題ではなかったのだが、今日この日に議論に熱中するのは間違っている気がした。
「それは目処がつかれましたのね?」
「まあなんとか……」
「それでは今夜はもうおしまいですわね」
 影月の反論を受け付けずに強引に椅子に座らせると持参した盆から取り上げたものを手渡した。
「日付が変わる前にさっさと召し上がって欲しいんですの」
 勝手な言い分と承知しているが明日では意味がないのだ。
 影月は器と香鈴の顔とを見比べて素直に
「いただきます」
 と器に口を付けた。

 一口含んでにっこりと影月は微笑んでみせる。香鈴がどうしても勝てない、柔らかくこの上もなく幸福にさせられてしまうそんな表情で。
「すっごい美味しいです。身体に染み渡るってこういうものなんですねえ」
「根を詰められていらしたようですから丁度良かったですわ」
 幸せそうに大事そうに器を抱えて、影月は甘くとろみのある液体を啜る。
「身体も温まってほっとします」
「今は一年で一番冷え込むんですのよ? 十分に温かくしてもうおやすみになっていなければいけませんのに!」
「香鈴さんは? 香鈴さんこそもうとっくに休んでいないといけない時間ですよ?」
 州尹と州牧邸のただの侍女では立場が違う。
「わ、わたくしはいいんですの!」
「よくないです」
 影月は器を卓机に置くとすぐ側に立っていた香鈴の手を引いて隣に座らせた。そして器を香鈴に持たせる。
「はい、香鈴さんも。一つしかないから飲みかけですけど……」
 一つしかないのは材料が足りなかったからだ。もっとも、材料が十分でもその時こそ当初の予定通りのものを作ったはずで、そこに自分用があるはずもない。断ろうとした香鈴はにこにこしながらあくまでも譲らないと語る視線に負け、器に唇を寄せた。甘く温かな液体が喉を滑り降りていくと、我知らず深い息をついていた。
 バレンタインの贈り物というにはあまりにもイレギュラーなその名をホットチョコレートという。もちろん影月に飲ませるのだ。ただ溶かしただけではない。たっぷりの牛乳と生クリーム。ひとさじ分のグランマニエ。隠し味にコーヒー。そして仕上げにマシュマロを浮かべた特製のホットチョコレートではあった。

 香鈴は器を影月に返すと彼が残りを飲み干すのを見守った。影月は美味しそうに飲んでいるが、こんなものしか渡せなかったことに情けない気持でいっぱいになった。自然と侘びの言葉が口をつく。
「影月様、申し訳ございません」
「どうして謝るんです?」
 心底不思議そうな影月は香鈴の気持ちをまったく理解できないようだった。
「だって。せっかくのバレンタインですのにこんなものしか用意できなかったんですもの。ほ、本当でしたらもっと豪華なものをお渡しできるはずでしたのに!」
「でも香鈴さんは忘れずに用意してくれましたし、すっごく美味しいですし。こんな寒い夜に温かい飲み物は何より嬉しいですし」
 そう言ってくれるのはありがたいのだが、準備にぬかりがあったことが悔やまれてならない。
「それでも! 影月様はこんな手抜きをお許しになってはいけませんの!」
「貰った僕は満足してるんですけど、それでも?」
「それでもですわ!」
「どうしてです?」
 影月に重ねて問われて香鈴は自分の気持ちを説明するための言葉を探した。
「だって……。せっかくのバレンタインですのよ? きちんとできないと負けたような気がするんですの」
「負けるって……? 香鈴さん、何と戦ってるんです?」
「……きっとわたくし自身ですわ」
 影月のために最高の物を。それは香鈴が自分に課した使命だ。
「じゃあ、香鈴さん。もう戦わなくていいですから。あのですねえ。今日のバレンタインだけじゃなくて何かの記念日とかイベントとか、そういうことで無理はして欲しくないんです」
 無理などしていないと言おうとした香鈴を遮って影月は続ける。
「香鈴さんからしてもらえること、どんなことでも僕は嬉しいです。でもそれは結局香鈴さんの気持ちが嬉しいんであって、イベントが嬉しいわけじゃないんです。乱暴な言い方しちゃうと何もしてくれなくても嬉しい。僕には香鈴さんがこうして生きて、僕の側にいてくれるそれが最高に嬉しくて幸せだからです」
 影月の傍にいられること。それは香鈴の幸せの基本でもある。だが基本があれば応用して、影月をそして香鈴自身をもっと幸せにできるはずなのだ。
「それは……わたくしだって同じですわ! ですけれど、だからこそ、手を抜かずにいきたいんですの! そうしたいからしてるんですの! 無理も無茶もしておりません!」
 影月の言うことは判る。けれど特別な日に特別のことをして影月を喜ばせたいのだ。想いは溢れるのに言葉にはできない。だからこう口にした。
「有言実行と有言不実行、影月様ならばどちらを良しとされます?」
「え? そりゃあ、それならもちろん有言実行ですけど……」
「そうですわよね! 記念日やイベントに特別なことをすると決めたのはわたくしなんですの。ですけれど今日という日にわたくしは自分で決めたことを守れなかったんですの」
「でも香鈴さんのことですし、それには理由があるんでしょう?」
「……ないとは申しませんが出来なかったという結果が全てですわ! ――ですから」
 一呼吸置いて香鈴は一気に捲くし立てた。
「影月様はわたくしを許さずに罰をくださるべきですの!」
「罰……ですか? 僕は満足してるんですけど?」
「それでもですの!」
 影月は困ったように少し考え込んでいたがやがて何か妙案を思い付いたのだろう。にっこりと微笑みかけてきた。
「罰の内容は僕が決めていいんですよね?」
 嬉しそうな影月の様子に香鈴は自分が何か早まったのではないかと少し後悔をした。だが今更引き返すことはできない。
「ええ……。影月様がお決めになってくださいませ」
 飲み干した器を卓机に置くと影月はしっかりと香鈴の目を見つめてきた。柔らかいのに決して逸らされない視線に強い意思が見える。
「香鈴さん? どうして今日、僕にチョコをくれようと思ったんですか?」
 予想外の質問に香鈴は戸惑う。何をそんな基本的なことをとも。
「は? それはその、今日がバレンタインだからですわ」
「うん、ですから、どうしてバレンタインに僕にチョコをくれるんですか?」
「そ、そんなこと、決まっていますわ!」
「決まってるってどういう風にですか? 櫂瑜様や燕青さんたちにもあげたんでしょう? 意味は同じですか?」
 畳み掛けられる質問は香鈴の逃げ道を確実に塞いでいく。
「違うに決まってますの!」
「良かったです。同じだって言われたらどうしようかと思いましたよ」
 影月は香鈴の顔を覗き込んで物理的な距離も詰めてくる。
「僕にチョコをくれる理由。それを香鈴さんがちゃんと口にしてくれるのが僕からの罰です」
「ず、ずるいんですの!」
 そんなこと、自分が言えるはずがない!
 香鈴は内心で叫んだが影月はそれが聞こえているかのように少し澄ましてみせた。
「僕が罰を決めていいって言ったのは香鈴さんでしたよねえ?」
 影月の性格が悪いという人は百人に問うてもいないと思われる。だが今。香鈴はそれを否定する。香鈴の気持ちはもちろん、香鈴がなかなか素直になれないのも全部知っていて、それでもなお言わせようとする影月の性格は本当にいいのだろうか?
「罰だから、ちゃんと言ってくれるまで許しませんよ?」
 実に実に楽しそうな影月の態度に香鈴は本気で腹が立ってきた。
「香鈴さん?」
 催促をする影月は両手で逃がさないとでも言うように香鈴の顔を包む。
「言ってください」
「そ、それは」
「それは?」
 促されて渋々口を開こうとはした。
「す……」
「香鈴さん?」
 どうしてもどうしても言葉にならなくて、香鈴は唇を噛んだ。
「僕、そんなに難しいことを聞いてますか?」
 香鈴はふるふると首を振った。言葉は香鈴の中で渦を巻き、溢れそうになっている。だが。
「――足りませんの」
「はい?」
「もう言葉なんかでは足りませんの」
 影月の両手を逆に掴んでそっと引きはがすと、香鈴はゆっくりと唇を重ねることで答えた――。

 影月のか香鈴のか、唇には先程のチョコレートが残っており、口づけはただひたすらに甘かった。
 香鈴が身を引くと影月は困ったように目をしばたいている。
「嬉しいんですけど、何かごまかされたような……」
 想いの丈を込めたというのに、ごまかしたと言われて香鈴はむっとする。それはもちろん、影月からは折々にも気持ちを聞かされているのだ。自分から言わないのは卑怯かもしれない。だけれどもう、ただ好きだというには育ちすぎた想いを口にする術を香鈴は持たなかった。
 香鈴の態度を誤解したらしい影月は一生懸命と知れるとつとつとした口調で語りかけてきた。
「あ、怒っちゃいました? 責めるつもりとかはなくて、たまには僕も聞きたいなあって思っただけなんです。だって僕だって香鈴さんの気持ちの上で胡座をかいていられるほど余裕ないですから。でもまだ嫌われては……いませんよね?」
 今度こそ本気で香鈴は腹を立てた。口づけひとつするのだって勇気をかき集めねばならなかったのに! それで伝わらないような影月などもう知るものかと半ば本気で思った。悔しさに涙が滲む。影月に見られたくなくて顔を背けると勢いよく椅子から立ち上がる。
「も、もう遅い時間ですし失礼しますわ!」
 だが図らずとも裏返った声が香鈴自身を裏切った。そのまま立ち去ろうとしたが咄嗟に伸ばされた影月の手に留められてしまう。
「香鈴さん! 冗談ですって!」
「じょ、冗談でも言っていいことと悪いことがございますわ!」
 振り払おうとした手はしかし、香鈴の力では微動だにせず、むしろそのまま香鈴を影月の胸へと引き寄せた。
「すみません。嬉しくて香鈴さんに甘えてしまいました」
 影月の言葉の意外性に香鈴は抵抗することを忘れた。

「わたくしに? 影月様が?」
 いつだって甘やかされているのは香鈴の方だった。いつだって年下のはずの影月が香鈴を甘やかせていた。まじまじと見つめると居心地悪そうに目が泳いでいるのに気が付く。
「香鈴さんは、その……、いつだって僕を許してくれるから……」
 許しているわけではないのだ。許さずにはいられないだけなのだ。
「わたくしでも影月様に甘えていただけますの?」
 余裕はいつも影月にばかりあるように見えた。自分ばかり空回りしていて、それを影月が笑って受け止めていてくれる……香鈴は自分達の関係をそんな風に感じていた。だが影月が香鈴に甘えていると言うのならば。自分達は思っていたよりも対等な立場なのだろうか?
「気が付いてませんでした? 僕はもうずっと香鈴さんの優しさに甘えていますよ。ね? 今もそうでしょう?」
 混乱したまま香鈴は影月の背にそろそろと腕を回す。
「わたくしが一方的に甘えているわけではありませんの?」
「違います。うーん、確かに香鈴さんも僕に甘えてくれてるかもしれないけれど僕とは甘え方が違うだけなんです」
 影月ならば受け止めてくれるといつだって甘えてきた。だが、いつ影月に甘えられていたのか判らずに香鈴はひたすらに混乱する。
「香鈴さんがいつも僕のためを思って色々してくれたり怒ってくれたりするのに、それが嬉しいのに。いつだって応えてあげられない。そんな僕でも許してくれるって、甘えているんです。今日だって、僕の身体を心配してくれる香鈴さんに気付かれないように書類を持って帰って来てたりしますし」
 それは影月の仕事に対する責任感と意外な頑固さからくるものばかりと捉えていた。影月に頼られ甘えられるには自分では役不足だとさえ思っていたのに。
 香鈴を抱き寄せる影月の腕に力が加えられ、耳元に大好きな声が降り注ぐ。
「本当のことを言うと、さっきの香鈴さんの気持ちがよく判りました。僕だってもう足りないって思ってるんです。もう好きという言葉では足りないくらいに、僕は香鈴さんが好きです」
 また涙が滲み始めているのを香鈴は感じていた。だが今度の涙は悔しさではない。通じていた想いが嬉しいからだ。
「ええ、わたくしも……」
 そのまま幸せな気分で影月の胸に顔を埋める。
「……それでも言ってくれないんですね」
 影月の苦笑混じりの声に香鈴は顔を上げて軽く睨む。
「ええ。簡単には言ってさしあげませんわ。ですけれど」
 今度は香鈴から決して逸らさないで視線を捉えた。
「影月様がきちんとわたくしを見ていてくださったらきっとお判りになるはずですもの」
 自分が甘えていることを香鈴はしっかりと自覚していた。影月こそこんな自分を許して甘やかせてくれているのだ。
「判りました。もっと精進しますから」

「じゃあさっそく。ねえもっと顔を見せてください。言葉にならないんなら、ほら。目は口ほどに物を言うって言いますし」
 じっと見つめられるのが恥ずかしくなって、香鈴は咄嗟に目を伏せてしまった。
「うーん、今度は目も見せてくれないんですか? 罰の話はどうなったんですか?」
 それならとうに答えたつもりの香鈴は意地になってさらに瞼に力を入れる。
「まあいいです。せっかくだからそのままでいてください」
 香鈴を抱き寄せていた右手が離れて、いつの間にか顎を上げさせる。
「言葉で伝えきれない言葉、香鈴さんもちゃんと聞いてくださいね?」
 チョコレートの香りが香鈴の顔に近付いて、顔が寄せられていると察せられた。
「香鈴さん、髪からもチョコの匂いがしますよ」
 昨日は香鈴の周囲で爆発するほど充満していた香りだ。髪に染み付いていても不思議はないだろう。
「そうか。香鈴さん自身が本当のバレンタインのチョコだったんですね」
 そのあとちいさく聞こえた
「いただきます」
 の声と共に触れられた唇はやはり甘い味がして。
 そうして香鈴は湯煎にかけられたチョコレートのように、影月に味わわれる度にゆっくりと蕩けていった――。



 特別のレシピで作り上げた媚薬のお味はいかが? 秘訣はたっぷりの恋心。
 そうしてそのまま甘い罠で貴方を捕まえるわ。
 何度繰り返してもいつだって。貴方はきっと。ずっとずっと私の虜――。

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『スウィート・レシピ』


ベタなバレンタインものでございます。
本来ならば一年前に書こうとしていたプロットだったのですが、
どうにも気に入らなくてお蔵入り。
今回結局全面改稿してようやくアップです。

意地っ張りな香鈴からの気持ち……をなかなか口にしてもらえない影月ですが、十分幸せそうです?

ちなみに板チョコ一枚ではできないという香鈴の当初の予定はホールのフォンダンショコラが濃厚です。
切り口からあったかチョコがとろりと出てきたら、影月喜びそうじゃないですか?
しかし大技チョコレート・フォンデュかもしれません。

ところで。
こんな話を改めて書きはじめた頃、自分でチョコレートを作るのに失敗するという信じられないことをしてしまいました。
美女宮不器用組の呪いかもしれません。

チョコレート並の甘さを感じていただければ幸いです。