李花の冠
(りかのかんむり)




 今年も、貴陽の邵可邸に植えられた李が咲いた。
 ぼんやりと根元に佇み、一心にその白い花だけを眺める。
 花びらが、まだ冷たいかすかな風に震えながら健気に咲いている。
 桜に似ている。
 だが、桜ではない。
 桜より一足早く咲く、それが、李花――。


「絳攸様、お茶が入りましたよ?」
 かつて愛弟子であった少女はいつのまにやら少女とは呼べぬ女となり、年々美しさを増している。姪に盲目な黎深様でなくとも誰もが認めるだろう。
 念願の官吏となり、浮沈を繰り返しながらも確実に彼女は成長してその階(きざはし)を登る。
 甘い理想だけを抱えた未熟な子供はもういない。
 ここにいるのは対等に渡っていける好敵手。そして――。

「絳攸様、聞こえてます? お茶が冷めますよ」
「ああ。もう少し、花を見たら行く」
「そうですか? それじゃあ室はここからまっすぐですからね? 待ってますからね?」
 遠く、彼女を呼ぶ声が聞こえる。
「はーい!」
 一声元気に返事をすると、彼女は俺に微笑んで駆け去っていった。

 彼女に、この李の花冠をかぶせたら、きっと似合う。
 相変わらず飾り気のない彼女だが、李花ならきっと似合う。
 こんなことを考えたなどと楸瑛が知ったらきっと笑うだろう。朴念仁のお前がどうしたのかと。
 自分らしくないとは思う。それでも似合うことを知っている。
 だが、それを見ることはないだろう。
 例え俺が彼女をひとりの女として欲したとしても、それだけは望んではいけないことなのだ。

「夫となり秀麗の出世の踏み台になってやれ」

 玖琅様にそう言われたのは、どのくらい前だったか。
 おまえなら彼女に手を差し伸べられる、上に引き上げてやることができると言われて、うろたえさせられた言葉。
 自分もまたそう思ってしまったのだ。自分なら、と。
 その手を取って。共に生きることは案外容易いのかもしれないと――。

 だが、今なら判る。
 彼女は俺の手など必要としてはいない。官吏として生きる道を選んだ彼女は、自分の力で這い上がってきたのだ。

 紅家に感謝している。紅姓を持たずとも、紅家の一員のつもりでこれまで来た。
 大切な黎深様。大切な紅家。
 当主になりたいなどと思ってみたこともない。誰が次の当主になろうと、喜んで補佐しよう。それが秀麗でも伯邑様でも違いはない。
 そうして紅家のために生きることに何の疑問も持たなかった。ずっと――。

 黎深様のために、少しでも役に立ちたくて官吏の道を選んだ。そのことに後悔はない。
 だが、俺はずっと考えないようにしてきただけだった。
 官吏は、紅家のためになるものではない。官吏は王に、ひいては民に仕える者なのだと。
 玖琅様の紅家大事も、黎深様の王家蔑視も理解できる。
 けれど、秀麗は。
 紅家長姫として生きることなど考えていない。いざとなれば彼女は紅家の名を捨てることさえ躊躇わないだろう。
 彼女にとっては、紅家よりも民。そこが俺とは違う。

 そしてまた、最初の動機がどうあれ、自分は王の臣なのだ。
 この佩玉の重み。受け取った時にはさほどにも思わなかった重み。
 花菖蒲に託された、王の信頼――。

 未熟な王だ。俺を毎日怒鳴らせるくらい、欠点だとてまだ山のようにある。
 それでも、俺は知っている。誰よりも孤独な場所でたった一人あがく姿を。
 そしてその彼がたった一つ求めてやまないものも。

 もしも俺が、利己的に自分の幸せだけを考えて彼女の手を取り、彼女もまた受け入れてくれたとしても、彼は笑って祝福を寄越すだろう。
 彼は俺より器が大きい。それは認めよう。
 年下の洟垂れのくせに、常に俺より先を見ている。
 だから、俺と彼女にそんな未来があったとしたら、千切れそうな心を隠して笑顔で祝福するだろう。そうして血の涙を流しながら誰も救えない深淵に沈んでいくだろう。
 それを知っていて、そんな道を何故選べる?
 選んだその日から俺は安らぎを失う。
 一生だ。
 負い目を抱えて生きることの、目をそらして生きることの、どこに幸福がある?
 だから、俺は俺のために、そんな未来を夢見たりはしない。


 秀麗。
 紅家の人間として生きるのでもなく、男と女として生きるのでもなく、共に官吏として生きよう。
 今はまだ慣れぬ胸の痛みに苦しいが、いつか仲のよい兄妹のようになろう。
 彼女の庭院には、李と桜が咲く。
 桜より一足早く咲く李は、兄のように彼女を見守り、いつか桜に飾られる彼女を祝福するだろう。
 年下の洟垂れ小僧に負けたままではいられない。
 黎深様がすべてだった。それが俺の世界だった。
 だが、もうそこから出よう。もっと視野を広げて、もっと深い懐をもって。
 俺は李下で冠を正したりしない。王の花を盗んだりはしない。
 そうして毅然と前を向いて生きよう。


「絳攸様、まだですかー?」
 俺を呼ぶ声が聞こえる。
 お前の道の先で俺は待とう。
 お前があるべき場所に辿り着いた時、その時もきっと俺は見守っているだろう。
 この庭院の李花がお前を見守るように。誰よりも早く春を知らせるように――。

                           (終)

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『李花の冠』(りかのかんむり)


自分としては珍しい超メジャーキャラ、絳攸の一人語りです。
タイトルはもちろん「李下に冠を正さず」(疑わしい行動をしない)から。


絳攸の位置にいれば、誰よりも劉輝の苦しみや辛さがわかるはずです。
それを知っていながら絳攸が秀麗を選ぶと思えなくなってきて。
たとえ、秀麗と相思相愛だとしても。
劉輝の気持ちに気付いていないならアリですが。

絳攸はいわば寵臣であり、側近です。
仕えるべきは王のはず。
その王を差し置いて紅家を選んだり、ましてや自分の幸せを優先するなら、
臣下としての忠誠に疑問が沸きます。

仕えると決めた人のために身を引く。
これってロマンじゃないですか?
せつない片思いが絳攸に似合うと思いませんか?
けっこう萌えるんですけど、こういうの。

これはあくまでも私の個人的感想であることを付け加えさせていただきます。
まあ、こんな絳攸がいてもいいじゃないですか。

なお、この背景画像はPhoto by (c)Tomo.Yun様より拝借して加工した
すももの花です。