昊飛ぶ龍の鳴く如く (そらとぶりゅうのなくごとく) |
龍は飛ぶ。人の到達しえぬ蒼穹を。 龍は鳴く。人が聞くことのない声で。 そして、龍は舞い降りる。人の予測もできない時と場所を選んで――。 (嫌な季節になりましたわね) 外は黒い雲が幾重にも天を覆い、後から後から雨を送り続けている。 湿気の高いねっとりとした空気の不快感に、庫の整理をしようと入室した香鈴は眉を寄せた。 この時期、家政を預かる者にとっては戦いである。 洗ってもなかなか乾かない衣料、油断していると襲い来るカビ。 香鈴は家政を取り仕切る文花と共に、州牧邸に少しでも快適な空間を作ろうと躍起になっていた。 しかし、同時に何もかも放り出してしまいたくなるような、そんな風に人の気力を奪う時期でもある。 雨が大切なのは知っている。 今降らないと夏に困るのだと、秋の実りに繋がるのだと、知ってはいる。 それでも、太陽が恋しかった。 太陽からの連想で、香鈴は影月を思い浮かべる。 (太陽、というより、”おひさま”という感じかしら) 彼の笑顔が心の中で満開になると、知らず心が温まって口元がほころぶ。 幸せをくれる人。あなたがいれば、雨ばかり続いていても平気。 「影月様は、おひさま」 いつのまにか口に出して香鈴はつぶやいていた。 「――確かに、影月には“おひさま”という言葉は似合うと思うが」 いきなり自分の独り言に返答があれば。それが誰もいないはずの庫の中からであれば。声を発したのが何やら得体の知れない布の固まりであれば。香鈴でなくても驚愕のあまり悲鳴をあげるところだ。 香鈴の悲鳴は、音の伝わりにくい雨の日でもよく響いた。たちまち、州牧邸のあちこちから家人達が駆けつけてくる。 真っ先に現れたのは武人の暁明だ。彼の視線の先には、濡れたぼろ布の固まりがうごめいている。咄嗟に香鈴を背で庇うと、腰から剣を抜いて一喝する。 「おのれ、怪しい奴! 妖怪めっ」 「……妖怪になった覚えはまだないのだが」 暁明の他にも現れた見知った者の姿にようやく安堵した香鈴は、そのぼろ布からの声を自分が知っていることに気付いた。 「――――――龍蓮様!?」 「うむ。ところで先ほどこちらで収穫したのだが、このキノコは食べられるだろうか?」 ぼろの固まりから、よく見れば端正なはずの容貌が顔を出している。その手には、何やら怪しいキノコが握られていた。 そのキノコには見覚えがあった。梅雨に入って以来、湿気の多いところで度々顔を出しては香鈴や文花を困らせた代物だ。 「どこにあったのでしょう。あれほど香鈴嬢と二人で根絶やしにしたはずなのに」 駆けつけた文花も困惑気味の視線をキノコに向ける。 香鈴もまた龍蓮の風体よりもキノコに注目してしまう。龍蓮が奇抜なのは今に始まったことではないが、快適を旨とする州牧邸にそのキノコはあってはならないものだった。 「ええ、文花様。あるはずがないんですのよ。龍蓮様、それはどちらで?」 「この裏だ」 龍蓮のぼろ布に包まれた手が指差したのは、古い棚の奥。何せ燕青が州牧になったばかりのころには既にここにあったという棚である。 つられて覗いた香鈴は外の気配を感じた。それもそのはず、棚の後ろの壁にはぽっかりと大穴が開いていたのだ。地面には足跡。間違いなく龍蓮のものだろう。 大穴。よりによって州牧邸の壁に大穴。 香鈴はあまりの心痛に倒れそうになった。半泣きの声で文花にすがりつく。 「文花様、壁に、壁にっ穴がっ!」 「落ち着いて、香鈴嬢。すぐに塞がせますから大丈夫ですよ。それにしてもまあ、今まで気が付かずにいたなんて」 香鈴の肩を母のように叩きながら文花の表情も暗い。 「わ、わたくしの方がこちらには長くいますのに、気が付かなくて……」 ぼろ布をかき抱いたように纏う龍蓮は、慰める風でもなかったが唐突に発言する。 「この穴なら初めて来た時からあったが。ただ、鼠の開けたくらいの大きさと記憶している。この雨で壁が弱くなっていたのだろう。先ほどつついたらすぐに私が入れるくらいの大きさになったからな」 それは、つまり。ほとんど龍蓮が犯人と言わないか。 「龍蓮様――――っ!」 「元気そうでなにより。ところでこのキノコだが」 「食べられませんっ!」 怒りをほとばしらせた勢いで香鈴は一刀両断する。 「……そうか」 気落ちしたような龍蓮の声がいつになく頼りなく、香鈴は違和感を感じる。 「龍蓮様? どこかお加減でもよろしくないのですか?」 彼が身に巻き付けているぼろ布。いくら彼の風流趣味が奇抜でも、これはみすぼらしすぎはしないか? そしてまた。こんな時、普段の彼ならば傍迷惑な笛を吹いて答えなかったか? 「笛が。私の笛が鳴らぬのだ」 笛のかわりに龍蓮の腹の虫がわびしく鳴いた――。 龍蓮の様子を改めて見てとると、香鈴と文花は即座に動き始めた。 文花は暁明に龍蓮を浴室まで連れていくよう頼み、その足で湯殿の支度に走った。 香鈴は厨房へと走る。龍蓮はあれでなかなかの大食漢。おまけに美食家である。通常の夕食までまだ時間があるが、湯殿から出た彼に早急に何か食べさせなければならない。 「昭環さん、たいへんですの! 龍蓮様がいらしたんですわ!」 庖丁人の昭環はおっとりした中年の女なのだが、見た目や性格とは違って実によく動く。今も、 「まあまあまあ」 とか香鈴の言葉にのんびり答えながらすでに手は食材に伸び、驚異的な速度で下ごしらえを始めた。 昭環とて龍蓮の襲撃は初めてではない。彼がよく食べることを知っている。 香鈴もまた、手早く支度を整えると食材を選んで慌しく調理に入る。 (かなりお腹がすいてらしたみたいですし、すぐにできるものがよろしいですわね) 乾物を戻した出汁に、昭環が先ほど打ったばかりの麺を広く削ぎ入れて茹で、胡椒をきかせて炒めた野菜と一緒に器に盛って、香鈴は食堂に運んだ。 ちょうどいい塩梅だった。何故か苦笑している暁明に連れられて食堂に龍蓮が入って来た。見ると、借り物の部屋着を着ているのだが、ぼろのかたまりを抱えたままだ。 ぼろさえ見なければただの育ちの良さそうな青年にしか見えない。それも、随分と暗い表情の青年だ。 龍蓮という存在は多かれ少なかれ迷惑という単語と縁深いのだが、ここまで消沈していられると香鈴には放っておくこともできなかった。 「龍蓮様、お夕食までまだ時間がございますから、こちらを召し上がってくださいませ」 器を龍蓮の前に置いても、彼はぼんやり座っているだけ。仕方なしに手に箸を握らせると、のろのろと口元に運び始めた。 常であれば彼の食事作法は流れるように美しいのだが、今日にかぎってはずいぶんと危うく、香鈴はこぼすのではとか、火傷しないだろうかと、はらはらと見守ってしまった。 しかし、一旦口元に麺を含むと、後は今までとは正反対のおそろしいまでの速度でかきこんでいく。 (余程お腹がすいてらしたのね。それにしても……) 茶を入れながら龍蓮を眺めて香鈴は苦笑する。まるで大きな子供のようだと思ってしまったのだ。龍蓮の方が年上だというのに、いつも怒ってしまうことになるのに、やっぱり放っておけない。 (秀麗様もこんな気持ちで龍蓮様を見ていらしたのかしら) なんとはなしにそんなことを思った。 香鈴の用意した器を空にすると、龍蓮の顔にも生気がわずかに戻ってきたようだった。 茶をすすめる香鈴に龍蓮は周囲を見回しながら訊ねてきた。 「わが心の友その二の影月は」 「まだ州城ですわ。でも先ほど遣いをやりましたので、今日は早く戻ってこられると思いますの」 「そうか……」 やはり元気のない龍蓮が気にかかり、つい声をかけてしまう。 「龍蓮様、笛が鳴らなくなったとおっしゃいましたけれど、どうしてですの?」 「わからぬ。急なことだったのだ。もう三日になる」 龍蓮はぼろの固まりの中から愛用の横笛を取り出す。なるほどあのぼろは笛を守るためだったらしい。 「笛はあまり得意ではございませんでしたけれど楽器の扱いでしたら一通り教わっております。一度拝見させていただけますか?」 香鈴の言葉に、龍蓮は無造作に笛を手渡してきた。 「きゃあっ!」 あまりの重さに香鈴は笛を取り落としそうになったが、龍蓮が香鈴の手を下から支えて事なきを得た。 「すまぬ。女人には重いかもしれぬ」 (重い、なんてものではございませんわっ!) 普通、笛の類は竹などを材料にすることが多い。龍笛であれば錘を入れるとも知っているが、これは錘が少し入っているなどという重さではなかった。見れば、全体は黒く変色しているが、あきらかに金属でできている。 (漆塗りで仕上げているのではなかったのですわね) これまで、龍蓮の笛と言えば見ない聞かないを実行していたので、こうして間近に眺めたのは初めてだった。だから、普通に煤竹に漆塗りの品だと思い込んでいたのだ。 (たしか、西の国から伝わった楽器には金属の笛もあったようですけれど) それでも笛は笛。構造上に大きな違いはないはずだ。 「少し、お預かりしてもよろしいですか?」 「ああ」 短く答える龍蓮はなんとも悲しそうな目で愛用の笛を見てため息をつく。 迷惑な言動はやめてほしいとは思うものの、こんな龍蓮を見るのはあまり楽しくはなかった。 「何か、別の楽器を探してまいりましょうか?」 邸の主、櫂瑜は本物の風流人だ。彼が何種類か楽器を所持しているのは香鈴も知っていた。 「いや。この笛以上に風流な音を出す楽器などないのだ」 それは風流の意味が違う、と思いつつも、指摘する気にはなれなかった。 「よろしければお夕飯までお室でおやすみくださいませ」 香鈴は笛を棚の上に一先ず置き、労わるように声をかけたが、龍蓮はのろのろと首を振る。 「それではお好きなところでどうぞ」 「そなたはどうするのだ」 「わたくしはお夕食の支度ですわ」 空の器を取り上げて、香鈴は厨房へと歩き出す。 気が付けば後ろから龍蓮がついてくる。 「龍蓮様?」 「うむ。気にするな」 気にするなと言われても、龍蓮のような長身の青年についてこられるのは小柄な香鈴にとっては圧迫感がある。だが、笛もない上にいつになくおとなしいので香鈴は無視することに決めた。なんと言っても夕食までもう時間もない。龍蓮という珍客が増えたため、昭環は追加の料理に忙しいだろう。早く手伝いにいくにこしたことはない。 「昭環さん、遅くなりました。すぐにお手伝いいたしますわね」 「いつもすみませんねえ」 やさしい微笑みを浮かべた女庖丁人は、たくましい腕で軽々と鉄鍋を扱っている最中だ。 (あれは……まだできないんですの) 香鈴の仕事は侍女であり、本来厨房は管轄外であったが、ほぼ毎日のように昭環を手伝っている。庖丁人は達人であり、その菜譜は八州を網羅する。実際は香鈴が手伝いながら菜を教わっているだけだ。 「ところで香鈴ちゃん、後ろにいらっしゃるのは龍蓮様ですか?」 「ただの背後霊ですわ。お気になさらず」 「随分と大きな背後霊ですねえ。あら、背後霊だったら大きくて当たり前なのかしら?」 のんきな感想を漏らしながらも昭環の手は鍋の中身を空に躍らせ、強い火力で炒め続けている。と、見る間に引き寄せた皿に鮮やかに盛り付け、その手は次の瞬間には魚をつかんで蒸し焼きを作り始めている。まったく動きに無駄がない。熟練の武人の殺陣や舞姫の踊りにも通じるのではと香鈴は思っている。 毎日の予定の菜は早くに聞くことにしているので、香鈴はまだ作り終わっていない菜を昭環の邪魔にならないよう注意しながら進める。 その間、龍蓮は無言で厨房の隅の椅子に座って、奮闘するふたりを眺めていた。 時折そちらに視線を投げかけはするものの、相手をする余裕は香鈴にはなかった。 主菜はさすがに昭環の独壇場なのだが、夕食のあとの甘味は香鈴に一任されている。この日は冷やした白玉に緑豆の餡をからませたものを予定していた。そこで、白玉を冷やすために井戸に向かう。井戸は厨房のすぐ外にあるのだ。 「龍蓮様?」 気が付けばまた、龍蓮が付いてきている。 「これはまだ召し上がっていただくわけにはまいりませんのよ?」 「わかっている」 ならば何故ついてくるのだろう。雛を引き連れて歩く鴨のような気分に香鈴は陥った。 (ずいぶんと育った仔鴨ですこと) 自分の発想に可笑しくなって香鈴が笑いをもらす。それを眺める龍蓮も少し楽しそうだと思ったのは気のせいかもしれなかった。 規定の仕事を終えてすぐに帰路についたのであろう。間もなく、影月が帰宅してきた。 「おかえりなさいませ」 お迎えは侍女である香鈴の本来の仕事でもある。玄関先で物音がしたのを聞き逃さず、香鈴は昭環に断って中座し、玄関に急ぐ。手早く身なりを整えることも忘れない。 小走りに玄関に向かう香鈴の後を、やはり龍蓮がついて歩いてきた。歩幅が違うので、それでも両者の距離は近かった。影月を小動物のように扱う人物もたまに見るが、今の香鈴もまた長身の龍蓮の前では小動物のように見えるのかもしれなかった。 「香鈴さん、ただいま帰りましたー。龍蓮さん、いらっしゃい」 香鈴と龍蓮に迎えられる形になった影月は、ふたりに向かってやさしく微笑みを向けた。 「うむ。“おひさま”だな」 先ほどの香鈴のつぶやきを思い出したのか、龍蓮もそうつぶやくと、いきなり影月におぶさっていく。 「龍蓮さん、お会いできて嬉しいです」 「心の友その二、私も嬉しい」 すっかり龍蓮の行動に慣れた様子の影月は、そのまま龍蓮を引きずるように居間に向かう。 「櫂瑜様と燕青様は?」 受け取った濡れた笠を片付けてから香鈴は、居間で追いついた影月に訊ねる。 「先に帰らせていただいたんですけど、今日は忙しくなかったからもう少ししたら帰って来られますよ」 ならば夕食の時間はいつも通りで大丈夫だろう。すぐにも厨房へと取って返そうと思ったが、見ると椅子に腰掛けた影月の背中に龍蓮が変わらずおぶさっている。 「あさってならお休みですけど、こんなお天気だとどこにもご案内できませんねー」 影月の声に、香鈴は二人きりで休暇を過ごすことができなくなったことに気付いた。 少しむっとしてしまった自分が嫌で深呼吸してみる。 もう龍蓮を受け入れる覚悟などとっくにしているではないか。 おまけに、笛が原因であろうが、気落ちしているらしい龍蓮を影月が放っておくことなどできはしないだろう。香鈴でさえ気になるのだから。 気落ちしている時ならば、余計に誰かに甘えたくなるものだ。今の龍蓮もきっとそうなのだろう。 (……それにしても、べたべたしすぎではありません、龍蓮様?) 少し面白くないのも事実だったので、影月におぶさる龍蓮の背中にもたれてみた。龍蓮も少しは重さに辟易すればいいのだ。 「……香鈴さん?」 首を回して後を見ようとしている影月の声がして、香鈴は重みを最終的に負担しているのは影月だと気が付いた。 「も、申し訳ございませんっ」 慌てて飛びのくと、その足で厨房へと駆け去った。 駆け去る前に振りかえって見ると、嬉しそうな顔をこちらに向けた龍蓮が目に入って、なんとはなしに癪に障った。 櫂瑜と燕青が軒で帰宅し、やがて夕食が始まった。二人は龍蓮を歓迎し、皆さかんに飲み食いをした。笛がない龍蓮は周囲にとっていつもよりもはるかに平穏な存在だった。 食後も龍蓮は影月にひっついたままであったが、それでも影月が早く休むよう勧めると龍蓮は素直に与えられた室に引き上げて姿を消す。 「龍蓮さん、やっぱり元気ないですよねー」 見送る影月は友人の様子に心を痛めているようだ。 そんな影月だからこそ愛しいとも思うが、やはり影月は龍蓮に甘いと香鈴は思う。 しかし、香鈴も龍蓮の様子がかなり気になっていた。そこで、影月と少し語らった後、重さに苦労はしたが預かった龍笛を自室に持ち帰った。 卓子の上に布を広げ、龍笛を載せる。次に細長い棒と柔らかい布を用意する。棒の先に縦に切れ目を入れて布を挟むと笛の中に押し込んでいく。 通常であれば布は素直に押されていくのだが、どうもすべりが悪い。一旦引き出した布には、何やら赤茶色の汚れが付着していた。 (これは……錆?) 少しずつまた布を押し込んで、だんだんと奥まで進むようになった。どうやら笛の内部がかなり錆びていたようなのだ。 (梅雨で湿気が多かったからかしら?) 思い返してみても、龍蓮の笛の扱いはそれほど雑ではなかったようだ。たまに武器代わりにしていたようではあるが、そんなことでは錆びたりしない。 疑問に思いながらも香鈴は錆をこすり落としていった。吹き口や指穴からも赤茶色の粉が敷いた布の上にぱらぱらと落ちた。 (明日、龍蓮様に心あたりがあるかどうか聞いてみましょう) 香鈴はそう思いながら、せっせと手を動かし続けた。 翌日もやはり雨だった。 州城に向けて三人の官吏は朝から出仕してしまった。もしや龍蓮もついていくのではないかと香鈴は予想していたが、案に反して影月を見送ると室にこもってしまう。 (お身体の具合も悪いのかしら?) 考えてみれば、庫に現れた龍蓮は濡れた身体を濡れたぼろ布に包んでいたではないか。それでは風邪をひいても不思議ではない。……常人であれば。 龍蓮の場合でもやはり風邪をひくかどうかははなはだ疑問であったが、香鈴は昼食には身体が温まる菜を龍蓮のために用意した。必要ならば薬湯も作ろうと思っていた。 だが、昼食の席についた龍蓮は身体の不調を否定した。 「ここしばらくは天然の枝を屋根とした風流な木の根元で休んでいただけであるし、そのくらいでは体調は左右されぬ」 普通は梅雨の最中に野宿など続けていれば十分に体調不良になる。 「だが、多少眠りが浅かったのも事実。そこで睡眠を今また取り返してこようと思う」 寝溜めや冬眠は人間には無理だと思うのだが、龍蓮ならば可能かもしれない。龍蓮を見送って、香鈴は仕事に戻った。 夕方近くなって、ぽっかりと香鈴の手があいた。 昭環は朝からはりきって夕食をみこして働き、準備は早くに整ってしまった。あとは櫂瑜たちが帰ってきてから温めるなり熱いものを追加するだけでいい。 香鈴は自室に引き取ると、日課にしている筝の練習を始めた。 (こんなお天気ですとあまり音がよろしくないんですけれど) それでも、多少の調弦をして筝を掻き鳴らす。 一旦始めてしまうと、いつものように熱心に弾いてしまう。香鈴は筝を弾くのが心底好きだった。 そうして筝を弾いているといきなり背中に重みがかかり、その拍子に香鈴の指が弦をはずれて室内に不協和音が響いた。 もちろん、重みの主は龍蓮だ。他にこんなことをする人物を香鈴は知らない。振り向くとやはり龍蓮で、香鈴は軽く睨みつける。 「……龍蓮様。これでは弾けませんわ」 「何、気にするな」 しっかりと香鈴の首の下に手を回して澄ました顔をしている。 (影月様がいらっしゃらないから、代わりになついてこられたのかしら?) 引き剥がそうにも香鈴の力では無理だろう。 香鈴はひとつ深呼吸をして自分に言い聞かせる。 (これは、おんぶおばけ。おんぶおばけですのよ) おんぶおばけは、人の背中におぶさってくる傍迷惑な妖怪だ。 香鈴は妖怪やあやかしの類は好きではない。しかし、顔だけはいい青年に抱きつかれていると思うよりかは、はるかに精神衛生上よろしかった。 おまけに、青年と言っても、龍蓮である。これが普通の青年であれば許しがたい行為ではあったが、龍蓮だと思うと仕方がないと諦めもつく。 (おんぶおばけ、おんぶおばけ……) 心の中で自分に言い聞かせるようにつぶやくと、香鈴は重い両肩を無視してそのままの体勢で筝の演奏を再開した。 そのまま香鈴が筝を奏でていると、肩に回されていた龍蓮の手が伸びてきた。そうして、筝を爪弾き始める。 「龍蓮様?」 龍蓮は黙ったまま右の指を動かし、必然的に香鈴が奏でているよりも高音を奏でる。 香鈴の指を追うように龍蓮の指も動く。 一台の筝をこんな風に二人で奏でるなど聞いたこともなかったが、音色は調和して重なり、響きあった。 (これではどうかしら?) わざと即興で高度な技法を試みてみる。 しかし、龍蓮は遅れない。しっかりと香鈴の音についてくる。それがまた何とも美しく響く。 いつしか香鈴は夢中になってこの風変わりな演奏を楽しんでいた。 (龍蓮様、こんなに筝は普通に弾かれるのに。どうして笛はああも奇妙なのかしら?) 龍蓮の筝の腕前が普通以上であるのはもはや明確なのだ。 (横笛は実は苦手でいらっしゃるとか?思うような音色が出せないからこそ気に入ってらっしゃるとか?) いや、周囲からは自分の横笛の腕前に満足しているようにしか見えないが。 普通でないもの、普通を超えたものの中にこそ龍蓮の求める風流があるのだろうか。 (きっと、わたくしには理解できませんわね。こうやって美しい音色を奏でる方がずっと楽しいんですもの) そんなことを頭の片隅で思いながら、やがてどうでもよくなって、香鈴はただ演奏に没頭していった。 香鈴が我に返ったのは、何かが落ちるような音が近くでしたからだった。 ゆっくりと覚醒するように指を弦からはずして音の出所に顔を向ける。 そこには、本を床に散らばらせたまま立ち尽くす影月の姿があった。 「影月様……?」 窓の外を見るとすっかり夜の色だ。雨続きで時間の感覚が鈍ってはいるが、やはり昼と夜は違う。 「まあ、もうそんな時間ですのね。お帰りなさいませ、影月様」 すっかり背中の荷物を意識から締め出していた香鈴は、当たり前のようにそのままの状態であいさつをする。 「心の友よ、待ちかねたぞ」 頭の上からも声がかかる。 影月は、そこではっとしたようで、慌てて床の本を拾い上げて手近の卓子の上に積むと、まっすぐに近寄ってきた。そうして。 べりっ。 と音を立てるような勢いで、香鈴の肩にかかっていた龍蓮の両手をはがした。 香鈴の頭より高い位置で龍蓮の両手を持ったまま、影月はにっこりと笑う。 「龍蓮さん」 だが、目が笑っていない。 「あのですね。こんな風に年頃の女の人にひっついちゃ駄目ですよ」 龍蓮が身体を引くと、香鈴は開放感を感じた。それほど体重がかけられていたわけではないが、それでも圧迫感があったらしい。 「秀麗の時には、そなた、何も言わなかったではないか」 「本当は秀麗さんでも駄目なんですよ」 龍蓮の手を離すと、影月は龍蓮と香鈴の間に割って入った。 「そなたや珀明になら良いのか?」 「まあ、まだ僕や珀明さんになら。でも、香鈴さんには絶対、駄目です」 龍蓮はどことなく縋るような瞳で影月を見下ろす。 「だが笛もなく、そなたも出仕していて、手が淋しかったのだ」 「それでも、駄目です」 影月は、二人の間に立ったまま、香鈴の肩を抱く。 「香鈴さんに抱きついていいのは僕だけです」 影月の腕に引き寄せられた香鈴は顔が熱くなっていくのがわかった。こんな風に影月が他人に向かって宣言してくれたことなど初めてではないだろうか。 普通なら十分に通じるだろう。しかし相手は龍蓮だった。 「それは不公平ではないか?」 「僕と龍蓮さんはお友達で、龍蓮さんと香鈴さんもお友達で。でも、女の人の場合はお友達っていうだけでひっついちゃいけないんです」 龍蓮は不服を隠そうともしない。 「やはり不公平だ。何故そなたなら良いのだ」 「だって、その……香鈴さんは僕の……その、恋人、ですし……」 発言者の影月も顔が赤いが、香鈴はとてもではないが顔をあげられなくなった。恥ずかしい。でも、嬉しくてしかたがない。 香鈴が自分の幸福を噛み締めている間、龍蓮はひたすら考えこんでいた。だが、何かに思い当たったのだろう。ふいに顔を上げる。 「わかった。つまり、そなたらは“つがい”ということだな!」 ……普通、人間相手に使う言葉ではない。それは失礼というものだ。だが、龍蓮ならばそれは今更のことだった。 「……龍蓮さんがその方がわかりやすいならそれでいいです」 影月の声にどことなく諦めの色が混じる。 「なるほど。やがてそなたらは巣を作って雛を育てるわけだな」 間違ってはいないかもしれないが、未婚の男女に言う言葉ではやはりなかった。香鈴も思わずため息を漏らした。 「だが、そなたが留守で笛もない時には、私はどうしたらよいのだ!」 龍蓮の言葉には絶望すら感じられた。そんなに大袈裟ではないはずの、ごく普通の常識のはずなのに。 常識という言葉はいつだって龍蓮の前では虚しい。 「笛でしたら、もう鳴りますわよ」 ようやく香鈴は言葉を発し、影月の手をそっとはずして立ち上がると、引き出しより龍蓮の笛を取り出す。 「中に水が入ったまま放置されませんでしたか? ひどく錆びてましたのよ。芹敦さんにも手入れを手伝っていただきましたし、もう大丈夫ですわ」 香鈴は重みに喘ぎながらも龍笛を持ち上げ、吹き口に息を吹き入れた。 ぽうっ、といった音が洩れる。 「おお! 我が笛よ!」 嬉々とした声を上げて、龍蓮は香鈴の手から笛を奪い取るとたちまちひょろひょろと吹き鳴らし始める。 香鈴は龍蓮の様子と笛の重みからの解放でほっと息をついた。 だが、影月の顔色は冴えない。 「……香鈴さん。試すなら初めから龍蓮さんにやってもらえば良かったんですよ」 影月の発言の意図が見えず、香鈴は首を傾げる。 「香鈴さんの唇が触れたところ、今、龍蓮さんが吹いてるんですけど……」 龍蓮のことは、おんぶおばけとの認識に成功していた香鈴の頭にも、徐々に影月の言わんとするところが浸透していく。 自分が口をつけたのは、きれいに磨いて拭いたあとの笛だったからまだ問題はないとしても。 つまり、今、自分と龍蓮は間接的に――。 「きゃあっ!」 「……遅いです、香鈴さん」 影月の声は疲れを孕んでいた。 「も、申し訳ございません。その、龍蓮様のことは、普通に殿方だという意識でなくなっていましたの……」 なんだかいたたまれなくて、影月の顔をまともに見られない。 「そのくらい、気にせずともよい。香鈴も友なれば何の遠慮が要ろう」 「……遠慮して欲しいです」 力ない影月の声に、龍蓮は自分の笛を差し出す。 「よくわからぬが、つまり影月も吹いてみればよいのだ」 「いや、もう、いいです。それじゃあ、今度は僕が龍蓮さんと……になってしまいますし」 それも嫌だと香鈴は思う。そうして、疲れた表情の影月を見て、なんとか慰めたいとも思う。自分の軽率さが原因でもある。 「龍蓮様、少し扉の方を向いていていただけます?」 「こうか?」 龍蓮は素直に扉に向かって身体を向ける。 「ええ。少しそのままでいらしてくださいね」 龍蓮の様子を確かめると、香鈴は伸び上がって軽く影月の唇に触れた。 「……これで許してくださいませ」 まさか龍蓮といえど第三者もいる室で香鈴がこんな行動に出るとは影月も思いもしなかったのだろう。驚きに目が見開かれた。だが、たちまち温かな微笑みを浮かべ、影月は香鈴の耳元で囁く。 「じゃあ、あとで倍返しですよ」 一体何を言い出すのだ、と先ほどから赤面してばかりの香鈴は思う。 「そろそろよいか?」 計ったかのような間の後、龍蓮が訊ねてくる。香鈴は顔の熱を振り払うかのように勢いをつけて答えた。 「ええ、結構ですわ! わたくし、お夕飯の支度にまいりますから、お二人も居間ででもお待ちくださいませね」 「食後には饅頭を所望いたす」 「……ご用意いたしますわ」 香鈴は二人に一礼して扉に向かう。香鈴に向かって、龍蓮は笛とともに満足そうな表情を湛え、影月からは愛しむような笑顔が向けられた。 室を出て廊下を行く後から、腰の砕けそうになる音が香鈴を追いかけてきた。 龍笛の音色というのは、“天と地を結び昊を舞う龍の鳴き声”と表現される。 龍など、香鈴は見たこともない。もちろん、龍の鳴き声など聞いたこともない。きっと誰も知らない。 だが案外、本物の龍の鳴き声は龍蓮の笛の音色にこそ似ているのかもしれない。 龍は人の思惑に縛られることはないのだから。その声とて人智を超えて何の不思議があろうか。 梅雨はやがて明ける。 傍迷惑な友人は、またふらりと旅立つだろう。 そして、影月と二人、苦笑しながらも、唐突な訪問を迎え続けることだろう――。 |
『昊飛ぶ龍の鳴く如く』(そらとぶりゅうのなくごとく) 香鈴、龍蓮に慣れる、といった感じの話です。 それはそれで嬉しいけれど、慣れ過ぎではと思う影月だったりします(笑) ま、みんな仲良くが一番です。 香鈴、かなり失礼なことも考えているようですが(笑) タイトルは、龍笛の音色の表現からです。 中国でも日本でもそういうようです。 実はタイトルがネタより先にできた話。 古筝、笙ときて今度は龍笛。 もういっそ二胡に琵琶もいってやろうかと思います。 中国楽器に無駄にくわしくなってどうするんでしょうねえ。 ただ、龍蓮の龍笛、龍笛らしくないんですよ。 作中にも書いていますが、龍笛って煤竹を最上にします。 篠竹とか最近だと樹脂製もあるらしいですけど、金属では作らない。 で、フルートを一部参考にしましたとさ。 しかし、それでもまだイレギュラーな龍蓮の笛。 書くとうるさかったので書きませんでしたが、 手入れの仕方を探すのに 「鉄」だの「鋼」だの「刀鍛治」だのと妙な方向を調べました。 なんとなく剣に使うのと同じ材料ではないかと思ったので。 でないと、たかだか40cmばかりの笛のくせに重すぎますからねえ? これを書きながら、 「なんで自分料理苦手なのに料理なんか書いてるんだよ」 と少し微妙な気分に。 香鈴が龍蓮に作ったのはタンタン麺の一種(でっちあげ)です。 出汁に使った乾物はホタテとかがいいなあ。 手際のいい人が作るのならそう時間がかからずに作れるかと。 甘味はその時の思いつきで、なんとはなしに「ずんだ餅」風。 少量の水を加えて練った上新粉を丸めて湯に入れて軽く茹でてあとは冷やします。 えんどう豆を茹でてすりつぶして砂糖と一緒に少し煮た餡をかけてどうぞ。 原型残してもいいくらいかと思うので、これも手際のいい人なら(以下略)。 適当にこんなものかと書きましたが、おそらくそれほど味は悪くないと思います。 ちょこちょこ櫂瑜の家人たちが出てきております。 執事の尚大に武人の慶雲、庭師の芹敦が出せませんでしたが。 そのあたりはまたおいおい登場するでしょう。 ちなみに自作の位置付けとして、”アフター”なわけで(何が、とか聞かないで)、 ですから影月と香鈴の距離が以前より近いのです。 だから龍蓮の前でも少し大胆(?)というわけです。 |