霜夜の鐘声
(そうやのしょうせい)






 意地悪な木枯らしが吹きつけても、あなたといるなら暖かい。どんな季節でもふたりでなら乗り越えていける。今宵はそんなふたりの為だけに――。


   一

 影月が茶州で迎える冬も早いもので三度目となる。もう去年のように琥l特有の祭を知らず慌てることはない。
 そう、今年の準備は万端だった。早いうちから櫂瑜が今年も食事の予約を取ってくれていたし、春姫の協力で贈り物も用意できている。勿論、香鈴は栗主益をふたりで過ごすことを快諾してくれた。
「楽しみですわね」
 そう言って早めの栗主益の贈り物をくれた。細かな地紋を撒き散らす極上の生地を使用した鶯色の礼服一式。もちろん縫ったのは香鈴だという。官服ほど堅苦しくなく、むしろ華やかな印象の一枚だ。
「ありがとうございます。でも僕に似合うんでしょうか?」
 香鈴が縫ってくれるものならば襤褸だろうが喜んで着る。けれど似合う自信はまったくなかった。特にこのような洒落た印象のものならば。
「わたくし、お似合いにならないようなものを作ったりはいたしませんわ」
 言い切る香鈴に、内心は不安だったがなんとか微笑んでみせる。ある意味、影月よりも影月のことを熟知している彼女であれば間違いはないのかもしれない。
「がんばって着てみますー。その、栗主益の日に」
「ええ。栗主益の日に」

 期待は嫌がおうにでも高まる。特に、櫂瑜から先渡しで贈られた物の意味を考えると。
「去年お約束しましたからね。『想月楼』は今年続き部屋ですよ。翌日の昼まで利用できますからゆっくりしていらっしゃい」
 それをどういう意味だとか尋ねるのはあまりにも野暮だった。つまり。一夜をふたりで過ごしてこいという間違いのない意図。予約板を渡される際に囁いた櫂瑜はとても楽しそうだった。反対に影月は真っ赤になって狼狽するばかり。
「か、櫂瑜様っ! でもあの、これっって!」
「しっかりがんばって来るのですよ」
 去り際に追い討ちをかけることも忘れない。百戦錬磨の師匠の前に影月はあえなく敗北した。

 去年と違って香鈴とはつきあいが深まってはいる。けれどそれは一応人目を忍んでと言おうか、声高に主張できるようなことではない。だが櫂瑜の贈り物を受け取ってしまって帰らないとなると、薄々察しているであろう州牧邸の面々にも明白にしてしまうわけで。
(香鈴さんはどう思うだろう……)
 櫂瑜に想月楼を手配してもらったことは話したが、その室が続き部屋で続いているのは当然のように臥室だということも、翌日の昼まで使えることも話せないでいる影月だった。
 きっと栗主益の香鈴は、昨年のように美しく装ってくれるだろう。いや、贔屓目だけでなく日々益々美しくなっている彼女だ。きっと今年の彼女は更に美しいに違いない。そんな香鈴と食事を終えただけでさっさと帰れるかというとかなり難しいと思われた。正直に言うとありがたく櫂瑜の勧め通りに過ごしたい。
(と、当日の流れ次第ということで……)
 問題を先送りしながらも、実際は期待せずにいられない影月十五歳(もうすぐ十六)であった。


   二

「お、影月、似合うじゃねーか」
 栗主益当日の午後。家政頭の文花によって早々に着替えさせられた影月は時間をもてあまして居間に顔を出した。着ているものはもちろん香鈴から贈られた盛装だ。
「そうでしょうか。官服以外でこういうのって初めて着るんで、自分では似合うかどうかわからないんですけど」
 照れながら、窓辺で点心をつまんでいた燕青が手招きしたので傍に寄って行く。
「もっと自信持っていいぞ。おまえ、年々男振りが上がってんだから」
 そんなことを影月に言ってくれる人物は少ない。ましてや発言者は年齢も経験も男振りも確実に自分よりも上な燕青である。自信を持てるかと言われるとやはり持ちにくい。なんとはなしに落ち着かず、うつむいて帯をいじくってしまう。徹底的に飾りを排除した意匠は、生地の美しさを目立たせ、着ている人間を引き立てるように工夫してあった。
「やっぱ嬢ちゃんは判ってんなー。それ、嬢ちゃんが縫ったんだろう?」
 問われて素直にうなずく影月の頭に手を伸ばしかけて慌てて燕青は手を引っ込めた。
「おっと、いつもの調子でぐりぐりできねーな。せっかく髪を結ったのにって嬢ちゃんと文花のおばちゃんに叱られるもんな。本気で似合ってっから。胸張って行って来い」
 燕青には泊まるかもしれないとは告げていない。知っているのは櫂瑜ひとりのはず。もしかしたら実際に手配をしたと思われる執事の尚大は承知しているかもしれないが、両名とも言いふらすような人物ではない。だが勘のいい燕青のこと。何か察しているのではと思わずにいられなかった。
「燕青さんは今日は?」
「夜からはいつもの飲み会なんだが、その前に師匠からの頼まれごとがあるんでもうじき出る」
 とんと甘い話は聞かない燕青である。影月の前では香鈴とのことを羨ましそうに茶化すこともあるが、実際は特別な相手を作らないように留意しているのかもしれないと思われた。
(どこかにもう好きな人がいたりして?)
 だがそんなことを直接訊ねられはしない。影月では役不足だ。きっと長年苦労を共にした悠舜であるとか、少年時代を知っているらしい静蘭くらいにまでならないと無理だろう。
(いつか、燕青さんの相談にも乗れるような、そんな大人になれるかな)
 そんな風にも思うのだが、それはまだまだ先のことのようだった。
「櫂のじーちゃんは?」
「もうとっくに支度して出かけられたそうですー。どこに行くかは教えてもらえませんでした」
「どこの誰とってのもだろ?」
 影月はただ頷いた。櫂瑜は女性に絶大な人気がある。もちろん男性であっても櫂瑜の人間的魅力に心酔する者は多いのだが、男性と女性では自然と意味合いが違う。特に女性への心遣いは逸品で、人気があるのも無理はない。共に暮らして慣れたはずの香鈴でさえ時折ふいをつかれて顔を赤くしているのを見ると、少し面白くないのも事実だった。
「あいかわらずやるなあ、じーちゃん。でもお前だってじーちゃんの弟子なんだから成果はどんどん見せていっていいんだぞ?」
 櫂瑜の弟子ということで、習っているのは仕事ばかりではないだろうと周囲はどうしても見ているようだ。そんなことは特別には習ってはいない。いないのだが、未熟な影月に何くれとなく助言をしてくれるのも確かだった。気遣いを忘れるなだとか、まめに思いを伝えろとか。
(あれ? やっぱり習ってることになるのかな?)
 国王さえ羨む個人指南を受けていることを影月自身はまったく自覚していなかった。
「んじゃ、お先に。楽しんで来いよ」
 定期的に時間を告げる鐘の音に顔を上げ、燕青は影月の背中を叩いてから片手を振って扉を開く。
「いってらっしゃい。燕青さんも楽しんで来てください」
「おまえ、それどんな皮肉?」
 影月が困った顔で固まっていると苦笑いし、
「馬鹿、わかってっから。んな顔すんな。嬢ちゃんによろしくな」
 それだけ言い残すと燕青は軽快な足取りで去って行った。

 先ほどの鐘は午後も半ばであることを告げていた。まだ予約した時間までは間がある。しかし、冬の陽が暮れるのは早い。影月としてもそろそろ出かけた方がいいと思われた。自分の準備は万端だ。もっとも、早い時間から影月を急き立てた文花の功績であって、影月がひとりで支度をしようものならまだ出来ていない可能性が高かった。
 その文花は香鈴の手伝いにと消えてもう随分たっている。そろそろ香鈴の支度も整ってもよさそうな刻限であった。ただし、影月は女性の支度にかける時間というものを把握していない。
(着替えて、髪を結って、お化粧して。大変そうだなあ)
 身近に女性がいたことのない影月にとって、それは未知の領域だった。育った村の女性たちは揃って簡素ないでたちであり、新年の祝いですら飾り立てるということとは無縁であった。
 香鈴とて普段はそれほど支度に時間をかけている様子はない。影月が知らないだけで実際は手間のかかるものであるかもしれなかったが、そこまでのものは感じさせられなかった。だが今日は栗主益。女性たちが一番きれいな姿を見せようとする日。
(去年の香鈴さんはきれいだったなあ)
 居間の窓辺から見るともなしに立ち枯れた寒そうな木立を眺めながら,、影月の脳裏に去年の栗主益の香鈴の姿が蘇る。一足先に春を連れて来たような軽やかで華やかな装いの香鈴の姿は今も深く刻まれている。自然、今年の彼女の装いに期待も高まるというものだ。
「影月君、女性は愛の囁きと褒められることでより美しくなります。特に愛しい相手からの場合の効果は絶大ですから、決して言葉を惜しんではなりませんよ」
 櫂瑜の教えがふいに蘇って、影月はこの一年を振り返る。
(えーと、好きだって思う度にそれは言ってきた、と思う。堂主様もそうされてたし。褒めるのは――どうだろう? いつだって香鈴さんのこときれいだって思ってるけど、ちゃんと伝えられてたかなあ?)
 先の教えを櫂瑜が述べた際、影月は質問せずにはいられなかった。
「でも、僕が言わなくてももう十分きれいな人には必要ないんじゃないですか?」
 櫂瑜はその美髯を揺らしながら指を降って否定する。
「甘いですよ影月君。美しい女性はその美しさを讃えることで更に美しくなってくれるのです」
 初めて出会った時から香鈴はきれいな少女だった。その時から影月の視線を奪うほどに。お互いを知るようになって、彼女はどんどんとその美しさを増していっている。昨日より今日。今日よりきっと明日。
(きっと今日の香鈴さんはすごくすごくきれいなはずだから、忘れずに会ったらすぐに言おう)
 影月はそう心に誓った。

 しかし、影月の誓いは当の本人の登場によってあっさりと破られてしまうことになる。
「影月様? こちらにいらっしゃいますの?」
 しずしずと現れた香鈴の、その身を包むのは藤色の衣。一見無地のようでいて、同色の刺繍のほどこされている凝ったものだった。下衣はさらに淡い藤色と白で組み合わされている。どこで聞いたのであったかは忘れたが、紫系統の色は似合う人を選ぶのだという。だが香鈴の場合は肌の白さによるものか文句のないほど着こなしてみせていた。
 常とは違って髷は後頭部に一つ。髷の下から垂らされた毛束が前へと流され、髪全体に雪のように白い小花が散りばめられている。ぐっと大人びた様子でありながら清楚で可憐な印象だ。
 香鈴が身動きする度ちりんと音を立てるのは、去年影月が贈った耳飾だ。使ってもらえている姿を見るのは贈った時には思いもしなかった満足感を得ることだと、この時影月は初めて知った。
 思わずうっとりと見入ってしまった影月からはどんな言葉も出てこなかった。ただ頭の中でぐるぐると
(うわーっ! うわーっ! うわーっ!)
 何かの一つ覚えのように感嘆だけが渦を巻いた。
「やっぱりお似合いになられますわね、そのお色」
 影月がどんな言葉も見つけられないでいるうちに、満足そうな香鈴の声が届く。つられて視線を落とすと香鈴が整えてくれた光沢のある鶯色の衣が映る。
「そ、そうですか。香鈴さんの見立てのおかげだと思います」
 言わねばと思うほどに言葉は遠ざかる。きっと香鈴も影月からの感想を期待しているはずなのだ。けれどこの感動をどうして彼女に伝えたものだろうか?
 棒立ちのままだった足を叱咤して影月は戸口に立つ香鈴に向かって動き出す。再び香鈴へと戻した視線はもう動かすこともできない。
(言わなきゃ。すぐに。でも何て? そう、確か、思ったことをそのまま――)
 手を伸ばせば届く距離まで近づいて、何も考える余裕もないまま影月は素直な思いを口にした。
「好きです!」
(あれ? ちょっと違うかな? でも思ってることをまとめたらそうなるよなー)
 影月が発したたった一言は、目の前の少女を劇的に変化させた。大きく見開かれた瞳が揺れ、目元と磁器のごときすべらかな白い頬がたちまち朱に染まり、さっと色香が立ち昇る。朱唇は言葉を紡ぐべくわずかばかり開かれて。きっと香鈴のことだ。いつものように影月を叱りつけようとしたはず。だがそれに失敗したのだろうか。一旦は伏せた視線を影月に向ける。自然と身長差のためか上目遣いで見上げられ、その視線の熱っぽさに影月は状況も忘れて闇雲に抱きしめたくなった。
(い、今は駄目だろ!? もしかしたら慶雲さんが様子を見に来るかもしれないし!)
 今年、軒の御者をしてくれるのは武人の慶雲である。律儀な彼は時間になっても玄関に影月たちが現れなかったら探しに来る可能性が高かった。それを理由になけなしの理性を総動員してみたのだが。繊手が影月の胸元へと伸ばされ
「……ずるいんですわ、いつもいつも」
 耳飾と簪を揺らしながら馥郁たる香りを撒き散らしてそっとしなだれかかられてしまえば抱きしめずにいるのは不可能だった。影月は腕の中にあつらえたように収まってしまう小柄な恋人を捕らえるためにその背中に手を回した。
「香鈴さん……」
 かすれた声で呼びかけてみても彼女は顔を上げもしない。
「こんな時に言われたって困ってしまいますのよ」
「す、すみません。あんまり感動しちゃって。いつもきれいなのにもうどうしていいか判らなくなるくらい今日の香鈴さんはきれいすぎて。あ、ちゃんとまだ言ってませんでしたよね?」
 くぐもって響く香鈴の声に応えて、影月は櫂瑜の教えをようやく実行する。
「すごく、すごくすごくきれいです」
 香鈴は答えなかったが、耳に朱がのぼっていくのが見えた。
 国試のために詩歌も山ほど読んだ。美文も沢山あった。なのにその髪を、肌を、姿態を、顔(かんばせ)を、それぞれ取り上げて誉めそやすに十分なはずの言葉がこんな肝心のときに一言も思い出せない。ただ“きれい”を繰り返すだけが精一杯な自分が影月は情けなかった。それでも何らかの効果はあったらしい。ようやく顔を上げた香鈴は縋るような眼差しで影月を射抜く。
「き、今日は、いつもと雰囲気を変えてみたんですの。……お気に召しまして?」
「はい。もう今日はどこにも行かないで香鈴さんをこのまま見ていられるだけでも幸せです」
 それは紛れも無く影月の本音で。このままふたりきりでいられるならば、特別な晩餐など要りもしない。
(いっそ、出かけた振りをして空いている離れにでも籠もってしまおうか?)
 州牧邸には母屋の他に使われていない離れが複数ある。誰にも気付かれずにいられるだろう場所が。そんな発想をしてしまうくらい、影月はただもう香鈴とふたりきりになりたかった。ずっと。
 しかし、女性という生き物は現実的な認識を失わないという。影月の発言は却って香鈴に本日の予定を思い出させてしまったらしい。影月の胸を押して離れたいと示した上で香鈴は改めて念を押してきた。
「今年の予約は去年より少し早い夕刻からでしたわね?」
「ええ、そうみたいですー」
 香鈴の背中から手を離して、櫂瑜から渡された予約板を懐から取り出した影月は不安になって確認する。
「まだ時間はありますけど、もう行きますか?」
 香鈴に見とれたままで何刻でも過ごしてしまえる自信が影月にはあった。今動かなければ、本当にどこかに籠もってしまいかねない。
「遅れてしまうよりもずっとよろしいですわね」
 影月に抱きついてしまったことで生まれた僅かばかりの衣の乱れを直しながら香鈴はきっぱりと言い切り、少しだけ影月を落胆させた。だがこれから影月はこの美しい少女を独占するのだ。香鈴に手を差し伸べた影月は自然に微笑んでいた。
「行きましょう、香鈴さん」
「はい、影月様」
 小さな恋人同士はそうして門前で待つ軒に乗り込むために居間を後にした。
「ああ、影月様、香鈴さん。丁度呼びに行くところでした」
 廊下に出たところでがっしりした体格の武人に迎えられて、あのまま抱き合っていなくてよかったと、影月は密かに胸を撫で下ろしたのだった。


   三

 滞りなく軒は軽快に走り、賑やかな琥lの街を通り過ぎて行く。精一杯飾られた家々や街路の木立も十分目を楽しませるものであったが、影月は後で振り返っても少しも見た気がしなかった。隣り合わせて座る少女にともすれば視線は固定されてしまい、動かすことができなかったのだ。影月の迷いのない瞳から逃れるように伏せられていた瞳も、州牧邸を離れて州城の塀横を進む頃には諦めたのか香鈴もまた見つめ返す。一切の会話が途絶え、恋人たちの世界がただふたりを取り巻いた。
 こうなると軒の中であるとか市中であるとか関係なく抱きしめたくなり、影月は意志の力を総動員して香鈴へと伸びようとする手を抑えなければならなかった。
(まだ着かないのか? まだ!?)
 実際は、州牧邸と想月楼はさして離れてはいない。影月には恋しい相手が目の前にいるのに衝動のまま行動することが許されない時間がとてつもなく長く思われた。

「ようこそお越しくださいました、杜影月様」
 老舗の高楼の玄関へと降り立ったふたりを出迎えたのは、琥l支店の支配人である。去年は初めてで判らなかったものの、その後数回顔を合わせる機会もあり、今では影月の中でもきちんと認識されている。壮年の支配人の、貴族ではないらしいが商人と言いきれないだけの品のある物腰と貫禄が、この建物にしっくりとはまっていた。
「どうぞこちらへ」
 予約板を受け取った支配人自らふたりを階上へと導く。
「今年はずいぶんと上の階なんですのね」
 二階を、三階を過ぎても支配人の足は止まることがなかった。
「そうですね。えっと、香鈴さん辛くないですか?」
 日々州城の階段を駆け回っている影月と違い、香鈴はあまり階段に縁がないはずなのだ。
「……このくらい平気ですの」
 香鈴はそう答えたが、もちろん虚勢であろう。僅かに息が上がっているのが判る。だから強がってみせる香鈴が少しでも楽なようにと、影月は引いた手に力を込めてみた。背中を押すとか、腰に手を回した方が香鈴を楽に登らせられるのだが、想像してみると背中を押すというのはふざけて見えるかもしれないし、腰に手を回すのはいかにも恋人同士らしいが第三者の前では躊躇いが先立つ。一番早いのは抱え上げてしまうとか背負ってしまうことなのだが、いくらなんでもそれはできない。第一、せっかくここまで機嫌のいい彼女を怒らせてしまうと想像が簡単についた。
「え、影月様、もう少しゆっくり……」
 苦しげな息の下で洩らされた香鈴からの抗議に、影月は半分くらい彼女を引きずっている状態になっているのに気がついた。
「すみません」
 踊場で一旦手を離して、香鈴が息を整えている間に影月は結局左手で香鈴の左手を受け、右手を腰に回した。
「この方が早いですから」
 それは確かで、先を進む支配人との差はたちまち埋まっていく。香鈴からの抗議もなかった。それでもそんな表の理由に隠れて、できるだけ香鈴に触れたいという下心が無かったかと問われれば、影月に否定する言葉はなかった。

「こちらのお室になります」
 五階を過ぎて通された一室は去年過ごしたものよりも広かった。櫂瑜は趣味人ではあるが、華美に走りすぎるほどの装飾は州牧邸に加えてはいない。茶家本邸の客間も豪勢であったが、それともまた趣が違う。豪奢でありながら居心地を重視していると判る室内をふたりして見回す。
 程なくして影月の注意は隣室へと続くと思われる扉に奪われた。廊下に続いているはずがない場所にある扉。香鈴もその扉を見たようではあったが、何の反応もなかった。
(気がついてない……のかな?)
 それとも自分には無縁と関心がなかったのかもしれない。実は大有りなのだが。

「お食事の用意が整いますまでどうぞごゆるりとお過ごしください」
 支配人が一礼して退出した後、香鈴は傍らに茶の支度がしてあるのを指した。
「お茶でも飲まれます?」
 扉の先から連想される部分に気を取られていた影月は喉の渇きに気がついた。
「いただきます。なんか、喉渇いちゃって」
「わたくしもですわ。お室が暖かすぎるんですわね、きっと」
 香鈴の場合は階段が原因であったかもしれないが、たしかに室内は十分暖められてもいた。外の冷気とは無縁の、わずか数年前の影月からすればそれだけでもたいした贅沢な空間だった。改めてそれに感謝しつつ、どうしても思考が流れる。
(ええと、食事がはじまって。うん、ご飯を食べるのは問題ない。食後のお茶のときに贈り物を渡して。うん、大丈夫忘れてきてない。それから、それか……ら……)
 どうやって切り出すべきか、どうやってそう持っていくべきか。
「影月様」
 間近で声がして影月は飛び上がった。
「お茶が入りましたと声をかけましたのに気付いてくださらないんですもの。何か気にかかることでもおありですの?」
 湯気のたつ茶碗を差し出されて影月は慌てて受け取る。ふんわりと甘い香りが香鈴から漂ってきて、闇雲にその香りに埋没したくなる。
「あ、あのですね!」
「はい?」
「こ、今夜の……お菜、楽しみですね!」
 言いたかったのはそんなことではないのだと自己嫌悪に陥る影月の横で無邪気に香鈴が目を輝かせた。
「ええ、本当に。去年いただいたもののいくつかは自分でも作ってみましたし。今年も菜譜を増やしたいですわ」
「香鈴さんの菜譜もすっかり豊富になりましたよねえ」
「そうですわね。ほんの数年前まで庖丁さえ持ったことがありませんでしたのに」
 香鈴が庖丁を手にするようになったのは、影月が秀麗と共に茶州州牧を拝命した頃のはずだった。あれから二年――。秀麗と州牧邸の庖丁人の昭環という菜の達人の手ほどきを受けたとは言え、驚くべき上達振りである。それは美食に慣れているはずの櫂瑜や龍蓮の反応からも間違いはなかった。だが、影月にとってはそれだけではない。
「香鈴さんのお菜、どれもすごく美味しいです。ここで出されるのも楽しみだけど、香鈴さんが作ってくれるものの方が僕にはきっと美味しいです」
「まあ……」
 嬉しそうに素直に微笑む香鈴という貴重なものを見て、影月の中で今夜中に州牧邸に帰るという選択肢はきれいに消え去った。
(よし! いい雰囲気だ! この感じで行けばきっと今夜は……)
 だが遠慮がちに扉が叩かれ、想月楼の使用人が現れて告げたことが影月の目論見を打ち砕いた。

「失礼いたします。杜影月様にお急ぎのお客様なのですが、お通ししてもよろしいでしょうか?」
「僕に?」
「はい」
 影月は香鈴と顔を見合わせた。
「……じゃあ、お願いします」
 こんな日にこんな場所まで影月を尋ねてくるような野暮な人物に心当たりはない。果たして現れたのは――。
「杜州尹!」
 必死の形相で駆け込んできたのは官服姿の州官だった。直接一緒に仕事をしたことはないが、影月も顔を知っている四十超えの官吏で、混迷の茶州を支えたひとりである。
「すみません、すみません、すみません! こんな日に大変申し訳ないんですけど! 至急、州城までお越し願えないでしょうか!」
 確か、この男は本日の州城の留守居役であったと影月は思い出す。栗主益は祝日ということで、琥lのほとんどの職に就くものが仕事を休む。もちろん櫂瑜以下茶州州官たちもそのほとんどが休みを取る。しかしいざという時のために、通常の公休日同様、必ず留守居役が置かれていた。ちなみに栗主益の留守居役に限り、立候補者から選ばれる。若手は既婚も未婚も栗主益の休暇をそれなりに過ごす。妻や恋人の有無に関係なく。それでも栗主益などどうでもいいと思っているような人物だとて存在して立候補するのだ。栗主益を避けたいと願っているような人物が。たいていは中高年の家族持ちで、子供も大きく楽しめなくなっているらしい。影月にはその心理は謎である。今は恋人である香鈴と過ごす幸福に酔っているが、幼い影月が華眞とともに琥lに暮らしていたとすれば、家族で過ごす栗主益もさぞ楽しいだろうとしか思えなかったからだ。
「何か……あったんですか?」
「はい。先ほど、州城にこのような投げ文が」
 官吏が震える手で差し出した紙片を影月が、その傍らから香鈴が覗き込むと。
――今夜、栗主益で浮かれるどこかの家族を血祭りにあげてやる――
 署名はなかった。荒く書きなぐったと思われる字が石を包んだためかすっかり皺になった紙の中で踊っていた。
「予告状、ですか」
 影月の表情は自然と引き締まり、香鈴は驚愕に袖で口元を覆う。
「そのようです。本来ならばこういった事件には州武官が当たるものなのですが、実は州将軍以下、主だった武官が使えないのです」
「具合でも悪いんですか?」
 州官はいい難そうにとつとつと語った。
「――昨夜帰宅されてからずっと将軍宅で飲み続けということで、もう完全に参加者全員泥酔状態でできあがっているらしく」
「ですが、州軍はかなりの酒豪揃いでいらっしゃったと思うんですが」
 影月が引っ張り出されることになる酒宴のいくつかは、文官だけのものではなかった。ことにこのように地方ともなると同じ州に仕える者同士、交流は盛んだ。豪快さが売りの州将軍は酒宴の度、燕青に武官になれと誘い、影月に酒とつきあいの大切さを説くような人物だった。もちろん酒も強いが胃腸も強い。
 中年の官吏は悲しげに首を振った。
「それがその、家人の話では酒の中に学院で研究されていた医療用のものを将軍が混ぜられたらしく」
 影月は驚きに目を見開いた。
「あれは飲む用には作ってないはずです!」
「酒には違いないと強引に持っていかれたとか」
 茶州学院で医療用にと研究されている酒は無味無臭。無類の酒好きの葉医師ですら
「これは飲めたもんじゃない」
 と言い切り、ためしに飲んでみた研究員がその後激しい不快を訴えたという代物である。味どころかその後必ず悪酔いするという保障付き。ただし、酔いがまわるのは異様に早いらしく、手っ取り早く酔いたい輩からは密かに需要があるという。
「櫂州牧も燕せ……浪州尹も、どちらも行き先も判らずで。かろうじて判ったのが杜州尹だったんです! 杜州尹だけが頼りなんです! どうか州城にて指示を願います! 使えそうな官吏で行き先の予想のつく者は同じく召集をかけていますから、おいおい人数は確保できるかと思うのですが」
 年長の官吏は激動の茶州を支えた剛の者。若輩の影月の指示など必要なさそうにも思えたが、それはそれ、命令系統の問題だとかが発生する。責任の所在ははっきりさせておくべきでもある。影月は既に州城に行くことを決めていた。しかし、それならばもっと人出があった方がいい。
「今日は官吏の有志の飲み会がありますよね。場所はえーと、桃天閣じゃなかったですか? そちらには連絡は?」
 恋人のいない官吏たちによる恒例の宴会の話は、影月が参加する予定がなくとも耳に入ってきてはいた。
「生憎、“栗主益の馬鹿野郎!と叫ぶ会”は、よりによって今日は昼前から始まっていたらしく……」
 燕青の話によると、この会はできるだけ早く酔ってしまった者勝ちというものらしい。そのために消費される酒量もまた多い。――つまり、州軍同様もう既に出来上がってしまっているのだろう。簡単に想像がついて影月は思わずこめかみを押さえた。
 公休日といえど、非常時のために数名の文官・武官は州城に待機していた。今、走ってきた彼もそのひとり。だが留守居役は文武共に片手で足る人数しかいなかったはず。つまり結局、使える武官も使える文官もどちらも少数でしかないということだ。投げ文の内容が本物であれば、必要なのは武官だ。留守居役の他に市中の見回りをしている師団が複数あるはずだが、彼らと連絡を取るだけであれば文官でもかまわない。いや、ともかく使えるだけの人材はすべて掻き集めるべきだった。
「今すぐ、州城に行きます!」
 影月は言い切り、投げ文を懐に仕舞って立ち上がった。


   四

「行ってらっしゃいませ」
 他にどう言えたというのだろう。影月が出て行った後の扉をぼんやりと香鈴は見つめ続けていた。
 ふと視線を落とすと自分の纏う衣が目に入る。文花や友人たちと相談しながらようやく決めた衣装。これまで着る機会のなかった色だが、今年は大人っぽく見せたくて選んだ色。それに合わせて髪型だって研究した。装身具は去年影月からもらった指輪と耳飾は決定だ。
 そう。影月は知らないが、香鈴の栗主益準備は実に三ヶ月も前からはじまっていたのだ。
 栗主益。それは琥lの恋人たちにとって特別な日。甘い甘いひと時を過ごすことを許されている日。もちろん栗主益でなくても影月とは出かけもするし、それなりの雰囲気で過ごすこともできるけれど、ここまで気合を入れた自分を見せる機会には恵まれない。普段でも出来る限り綺麗な自分を見せようとはしていが、それには限りがある。
 支度を手伝ってくれた文花も、今日の香鈴の出来栄えを保障してくれたし、何より香鈴を見た影月の視線が、言葉が、自信を与えてくれた。間違いなく成功。そうして今日は、今夜は、徹底的に影月を虜にするとそう意気込んでいたというのに。

「何ですの! 信じられませんわ! どうしてよりによって今夜なんですの!?」
 叫んだことで少し頭が冷えた。あのような場面であれば影月でなくとも行かずにおくことはできないだろう。つまり、影月は悪くはないのだ。
「そもそも、櫂瑜様と燕青様はどちらにいらっしゃるんですの!?」
 櫂瑜や燕青を正直恨んだ。もし彼らのうちどちらかにでも先に連絡がついたとしたら、きっと影月には知らせないで今日を過ごさせてくれただろうと予想できるだけに。
 だが後になってそれを知った時。自分は素直に感謝もしようが、影月はきっと彼らに仕事を押し付けて自分だけが遊んでいたことに居心地の悪い思いをするに違いなかった。
「そうですわ! つまらない予告状なんて出した人物こそ諸悪の根源なんですわ!」
 香鈴は窓の外に視線を向ける。冬の夜は早い。黄昏は徐々に暗さを増していっている。
(これから州城に着いて。事情を聞いて。必要な官吏や武官の方を呼び集めて。市中警備強化の手配をして。それからそれから……)
 無理。影月が今晩中に想月楼に戻ってくるのは絶望的だ。
 影月が出て行った扉ではない、もうひとつの扉に視線を転じる。開く前からそこが何なのかは判っている。この室内に案内された時点で香鈴は悟った。
 つまり。今夜は帰らなくてもいいということで――。
 けれど、このままではせっかくのお膳立ても無駄になってしまう。自分の支度だって、影月の衣装を仕立てるのだってじっくり時間をかけて考え抜いた結果が出たばかりなのに。
 もし今後、仕切りなおしをしたとしても、街中が恋人たちのための夜を演出して受け入れてくれている今夜と同じ盛り上がりには絶対にならない。
(諦めるわけにはまいりませんのよ!)
 香鈴はしばし考え、そうして決断すると、店の者を呼ぶための鈴を手にした。
「お呼びですか。お連れ様はおでかけになられましたがお食事はどういたしましょう」
「食事は連れが戻りましたら。それより手紙を何通か書きたいのです。用意していただけますか。手紙が書けましたら急ぎ届けられるよう全商連までお願いいたします。あと、お聞きしたいのですが――」
 矢継ぎ早にいくつかの手筈を依頼して、栗主益を取り戻すための香鈴の戦いが始まったのだった。


「香鈴さん!」
 香鈴が忙しく数通の手紙を書き終わった頃、想月楼の香鈴の室にひとりの若い娘が案内されてきた。歳の頃は二十歳前といったところか。贅沢ではないが華やかに装っている。顔立ちも装いに負けないなかなかの美女ぶりだ。
「まあ、棗恵(そうけい)さん、お綺麗ですわ」
「あ、ありがとうございます。香鈴さんこそ」
 状況がどうあれ互いの様子を素早く見てとるのは女同士ではままあることである。髪型、化粧、衣装等を検分して内心で評価を入れる。それをざっと済ませると、改めて娘は声高に叫んだ。
「香鈴さん、私もう悔しくて!」
 棗恵と呼ばれた娘は涙を滲ませる。悲しみの為でなく悔し涙なのは明らかだった。
「棗恵さん、お茶でも召し上がって。せっかく綺麗にされてるのにそんなお顔似合いませんわ」
 いつのまにやら用意された茶器に気付いて、棗恵は感心したような態度を取った。
「落ち着いてらっしゃるのね」
 年上である棗恵を椅子に座らせ茶を振る舞う香鈴は、確かに落ち着いていた。すでに癇癪を爆発させた後だからというだけではなかった。
「今は落ち着かねばなりませんの。だってわたくしはまだ栗主益を諦める気はありませんもの。貴女だって同じではありません?」
 影月との栗主益を取り戻す――今はそれが何よりも優先される。
「香鈴さん、まだ諦めずにいられる方法があるんですか!?」
 棗恵が栗主益を諦められない理由を香鈴は知っていた。棗恵もまた想月楼の客だった。もちろん食事だけの利用ではあるが、それでも予約を入れた棗恵の恋人は随分と奮発したものだ。恋人から今年の栗主益を想月楼でと告げられた棗恵は確信を持っていた。きっと求婚されるだろうと。それからの彼女は己を磨くのに熱が上がった。棗恵の恋人は他ならぬ影月の部下。彼、羽巧(うこう)もまた州城に呼び出された口だ。官吏の恋人が一旦呼び出された場合、その日の逢瀬が叶わないことを棗恵もまたよく知っていたのである。
「いつもの公休日が返上されるのはまだ許せますけれど今日という日はどうあっても許せませんの」
「私もです!」
「ですから、諦めずに済むよう手を打つことにしましたの。もちろんお手伝いくださいますわね?」
「どんなことでもしてみせます!」
 装いとは不釣合いなまでの気合を入れて棗恵は力強く同意する。香鈴はその答えに満足の笑みを浮かべた。

「失礼いたします。お手紙が届きました」
 想月楼の使用人が香鈴あての書状を数通持って現れた。他に、先ほど香鈴が依頼した琥lの地図も抱えている。謝辞と共に受け取った香鈴は書状を小卓に、そして今夜の晩餐が並ぶ予定の広い卓上に地図を広げた。
 一刻と立たぬうちに、香鈴の室は更に数名の棗恵と同じように怒りに駆られる着飾った女性たちで溢れかえっていた。そう。彼女たちもまた急遽呼び出された官吏や武官を恋人に持つ身である。
 そのほとんどの女性を香鈴は棗恵同様見知っていた。
「香鈴老師(せんせい)」
 確実に一番年下でありながら師扱いを受けるのは彼女たちが香鈴の生徒だからに他ならない。“美女宮”(びじょぐう)の通称で知られることになる女性を内外から美しくすることを目的にした組織を、香鈴が仔細あって立ち上げたのは半年ほど前になる。目に見える実績と相まって評判が評判を呼び、現在では生徒の希望者が後を絶たない。
 美容指導、食事法、教養などを香鈴と数名の女性が指導にあたるのだが、一日の指導が終わる頃にはお茶とお菓子で会話が咲くのは若い女性の常だ。その席で香鈴は自分の生徒の恋人が誰なのか、栗主益ではどこの飯店や酒家を利用するのかほぼ把握していた。同じ建物内にいた棗恵が一番早かったが、飯店が集中する地区もさほど遠くはなかったことから全員が集まるまでにさして時間はかからなかった。
「他に本日、恋人を州城に呼び出された女性に心あたりはありません? 美女宮関係者でなくとももちろんかまわないのですが」
 香鈴の質問に女たちは互いに確認しあったが、自分たちの知る限りでは呼び出しを受けるような恋人を持つ女性はこれで全員だという。
「わからない方は仕方ありませんわね。この人数で始めることにいたしましょう」
 香鈴を含め、室にいるのは総勢十二名。その一同を見回して香鈴は確認を取った。
「皆様、本日はどうあっても恋人に帰ってきて欲しいと思っていらっしゃるわね?」
 一斉に同意の声が上がるのを聞いて、香鈴は厳かに告げた。
「それではこれから忙しくなりますわよ。覚悟なさってね?」

「どなたか凛影会と繋がりの深い方はいらっしゃいます?」
 凛影会とは、今は宰相となった悠舜に嫁いだ柴凛――かつての全商連茶州支部長を慕う女たちによって作られた組織だ。柴凛が首都貴陽に越してからも解散したという話はなく、現在も活動を続けているらしい。
「ああはい。母が幹部なんです!」
 鮮やかな青い衣を着こなした娘が手を挙げる。
「それはありがたいですわね。至急連絡をよろしいかしら?」
 青い衣の娘がうなずくと、香鈴は連絡用にと紙を手渡す。それを聞いて周囲の娘たちは首をかしげた。
「老師、凛影会が何か?」
「凛影会は琥l在住の女性の大半が参加しておられるとか。先ほど茶家にも協力を仰ぎましたし、これに美女宮関係者と凛影会が併されば、わたくしたちを悲しませた諸悪の根源を見つけ出すことはきっとできるはずですの」
 凛影会の会員は庶民が多い。しかもあらゆる場所にいる。美女宮関係者の中には花街に強い繋がりを持つ者もいる。そして茶家の春姫より琥lの貴族は把握できる。庶民から妓女、貴族まで。琥lのあらゆる立場の女性による情報の包囲網が完成するのだ。
 改めて香鈴は現状を娘たちに告げた。
「よろしいですか。このままでは州城に呼び出された方たちが今夜中、いえ、明日中でも戻ってこられるのは不可能ですの。使える人間を集めて、さらに連絡を取りあって、情報を集めて。それだけでも彼らに任せておけばどれほど時間がかかることでしょう。そうこうしているうちに凶行が終わってしまっている可能性すらあります。もちろん後始末もしないわけにはいきませんし、官吏を動かす際の手続きもまた煩雑なものですわ」
 おそらく香鈴ほど茶州州城の内情を知っている一般女性はいない。琥lに戻って以来、彼女は常に州牧とその周辺の人物と近しい場所におり、頻繁に州城にも訪れている。その香鈴が断言するからには、誰にもその発言を覆すだけのものは持たなかった。女たちの間に絶望したような沈黙が落ちる。
「つまり、香鈴さん? わたしたちだけで投げ文をした人物を探し出すというのですか?」
 青い衣の娘に概要を記した書式に協力依頼の一文を書かせて、香鈴は窓を開ける。そこには全商連から借り受けた連絡用の鳩が待っていた。鳩に文を結びつけて窓を閉じてから、香鈴は質問してきた棗恵にうなずいた。
「その通りですわ。そうして出来ますならば犯人を捕らえて州城に突き出したいと思っていますの」
「どんな兇悪な相手かもわからないのにですか!?」
 淡い朱色の衣を纏った娘が震えながらか細い悲鳴をあげる。
「あなたがたにそこまでは望んでおりませんの。わたくしが欲しいのはお手伝い。これから順次届く情報は少なくはありません。それを読んで内容を整理して欲しいんですの。ただし」
 香鈴は言葉を切った。
「わたくしは一人でも乗り込むつもりですわ。だって、どうにかしてやらないと気が済まないんですもの」
 効果は抜群だった。棗恵はじめ、娘たちはその犯人への恨みを自分たちが抱えていることをこの時自覚した。そうして我も我もと香鈴に従う旨を告げたのだった。

「香鈴さん、琥東区からの報告が届きました」
「こちらは琥南からの第二陣です!」
 香鈴の言葉通り、窓から鳩が、扉から想月楼の使用人が、何度となく文を運んできた。娘たちはそれを地区ごとに分けて読み、少しでも不審な部分があれば香鈴に報告する。報告を受けた香鈴は更なる情報を求めて文を出した。室内は地図と書簡ととりどりの色彩で装った娘たちでごった返している。
「貴族街は異常なさそうです」
「官吏街もです」
「あの……下町の上区なんですが少し気になる報告が」
 葡萄酒色の衣の娘がおずおずと報告すると周囲の視線はその娘に集中した。
「上区の晁(ちょう)家が少しおかしいみたいです」
「晁家?」
 初めて聞く名前に香鈴は首を傾げる。もっとも、下町近辺には知人もいないのだが。
「あのあたりではまずまず成功している家ですね」
 別の娘が訳知りに語り始める。
「ご主人はお祭好きで有名だったりするんですけど」
 葡萄酒色の衣の娘はうなずく。
「ええ、報告にもそうあります。なのに夕方前から明かりは見えているのに家の中が静まりかえってるって言うんです。外出した様子もないし、ありえないって」
「それは気になりますわね……」
 香鈴は急いで新しい紙を取り出すと詳しい情報を求める書簡を書き連ねた。
「晁家に重点を置いて調べていただきましょう。他に気になる情報は見つかりまして?」
 他にも何軒かが上げられ、香鈴はそのためにも筆を取り、鳩を飛ばした。

 報告が入るまで若干の間があり、一旦休憩を入れながら皆で検討する。時に脱線したり、投げ文が狂言でないかという意見も出たりする。
「何も起こらないに越したことはないのですわ。ですがその場合、何も無いことを証明せねばならないんですのよ」
 凶行は起こって欲しい類のことではない。できればただの愉快犯――それはそれで迷惑な話だが――であって欲しいとも思う。ただその場合の証明にはかえって梃子摺るであろうことを、あえて香鈴は口にしなかった。
 そうこうするうちに、また慌しく報告が入り始める。休憩は終わりと、娘たちは書簡に向かった。
「香鈴老師、やはり晁家があやしいです。夕刻前に若い男を連れて家の中に入った晁氏が目撃されているんです」
「一人だけですか? 複数名でなく?」
「この報告では一人となっています」
 琥lの他の場所からの詳細な報告からは杞憂であったり、思い込みであったりしたことも判明した。
「晁家で何かが起こっていることは確定と見て間違いはないかと思いますが皆様、いかがお思いですか」
 もちろん、若い男と投げ文は無関係であるかもしれない。それでも何らかの異常が起こっていることには違いない。ここまで集まった情報が、香鈴を動かさずにはいられなかった。変事を知った娘たちも同意見であった。
「それでは防寒をしっかりとして。皆様、出陣いたしますわよ!」


 この日、琥lの街は鮮やかに飾られていた。造花や提灯が揺れ、楽しげな顔をした人々が行きかう。
 だがこの集団には誰もが驚き、道を空けた。十名程の年頃の着飾った女性が真剣な表情で突き進んでいく。先導するのは一際小柄な美しい少女。他の女性と同じように手には大きめの袋を抱えていた。栗主益に恋人と逢瀬というには表情は険呑。むしろ雰囲気は出入りに近い。この日を共に過ごすことのできる相手を見つけられなかったらしい何人かの男たちがこの集団に声をかけたのだが、一斉に鋭い目つきで睨まれいずれも早々に退散した。
「あそこです! 晁家は!」
 このあたりの出身だという娘が指でしめした家はなるほど報告にあったようになかなか立派な家構えである。場所柄、門と建物の距離が近いが、門も建物の軒下なども賑やかに飾られている。いかにも栗主益を楽しんでいます、といった風情なのだが――。
「静かですわね」
 近隣の家も路上も賑やかな騒ぎに沸き立っているというのに、その家だけが静まり返っている。
「もし違っていたらどうするんですか?」
 今更ではあるが棗恵が問いかけると、香鈴は簡単なことと言い切った。
「その時は栗主益のお祝いを申し上げて無礼を詫びて引き上げるだけですわ。ただし、その場合は皆様とっておきの笑顔をお願いいたしますわね」
 しっかりと身体の前に袋を抱えて、香鈴は十一名の娘たちを見回した。
「それでは皆様、覚悟はよろしくて? 参りますわよ!」


   五

 晁(ちょう)家は朝から栗主益の支度に忙しく過ごしていた。主である晁氏が大のお祭り好きであることもあり、この日は毎年、菓子やら酒やらを路上で配ったりもする。用意した分が終了すると家族で鶏菜を囲んで贈り物をしあい、賑やかな夕食を楽しむのが例年のことであった。夕刻の少し前には今年の門前での振る舞いを無事終えて家に入ろうとした晁氏は、ひとりの若い男に呼び止められた。
「申し訳ない。今日はもう菓子も酒も配り終えてしまいまして」
「そうですか」
 あまりにも落胆した様子の青年に晁氏は気の毒になり、こう言わずにはいられなかった。
「少し、我が家でお過ごしになりませんか」

 家の中に通された若者に晁氏の七歳になる息子が駆け寄ってきた。
「おにーさん、栗主益のお客さん?」
「……なら、よかったかもしれない」
 若者は小さく呟くと子供を抱き上げた。その手には刃物。
「俺もどうしたいのかわかってないんだけど。とりあえず騒がないで」
 晁氏の家族はあと夫人と乳飲み子だ。家人を雇うほどは裕福ではない。子供が小さいため通いで家事手伝いをしてくれる老女がいるが彼女も今日は休んでいる。
「む、むすこを離してくれないだろうか」
 若者はただ首を振り、家族を一室に集めた。晁氏だけは手首を縛られ猿轡をかまされたが、夫人や子供には何もしなかった。
 彼は何をするでもなかった。卓上に並んだ菜を口にするでも、家中を荒らして金品を略奪するでもなく。ただ黙って子供を抱えたまま椅子に座っていた。時折赤ん坊がぐずり夫人があやすのみ。室外に出ることは禁じられていた。
 長い長い時間。晁氏にとっては拷問のような時間だった。体当たりでもすれば子供を解放できるかもと何度考えたかしれない。若者が時折手にした刃物に視線を落とさなければ。

「ごめんくださいませ」
 どれほどの時間が過ぎたのだろう。窓の外は既に暗い。そんな折、若い娘の声がふいに響いた。
「ごめんください、晁さんはいらっしゃいますか」
 視線で問う晁夫妻に首を振って男は身構えた。子供を抱えたまま立ち上がり戸口に近づいて警戒する。間もなく、
「ごめんくださいませ」
「ごめんくださいませ」
「ごめんくださいませ」
「ごめんくださいませ」
 声とともに雪崩のように室内に押し寄せてきた着飾った娘たちの集団に男は取り囲まれていた。
「栗主益、おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
 そうして娘たちは笑顔で手に持った袋を押し付けるように若者へと殺到した。
「ばっ……! よせ、来るな!」
 怯えて逃げ出せばいいと、よく見えるように刃物を振り回すが、背の高い娘が刃物を袋に突き刺させ、そのまま奪い取った。
「今ですわ!」
 腕から子供が助け出され、男はたちまちの上に取り押さえられた。一人や二人ならば跳ね飛ばすこともできようが、若い娘ばかりとはいえ十二名からなる集団に勝てるわけもなかった。男は床に転がって、とりどりの鮮やかな紐でしっかりと縛り上げられていた。早々に晁氏の縄も切られ、子供は夫人へと返される。

「いくつかお尋ねしたいことがございますの」
 晁氏や夫人が口々に礼を述べるのを遮って、誰よりも小柄で誰よりも年下と思われる娘が一歩進み出た。
「お名前は何とおしゃいますの?」
 男が答えないでいると、娘たちのひとりが懐から取り出した羽で脇あたりをくすぐりだした。
「や、やめっ!」
「お名前は何とおっしゃいますの?」
 息を切らす男に発言させるために羽を持った娘を下がらせて、中心人物らしい少女が黒目勝ちの瞳を見据えて再度訊ねてきた。
「悟了、桑悟了(そう・ごりょう)……」
「それでは桑悟了さんをこちらの椅子へ」
 卓の前が片付けられ、紙が広げられる。携帯用の筆が悟了へと差し出された。
「右手だけ自由にして。そう。こちらに署名してくださいませ」
 娘たちに囲まれた状態で若者――悟了は言われるままになるしかなかった。周囲の娘たちがすべて羽を手にしているとなると。
 一同の中心であるらしい娘が署名された字を見て断言した。
「――州城に犯行予告の投げ文をしたのはあなたですわね? だって、手跡(て)が同じなんですもの」

 絶句したままの若者――悟了は呆然と椅子に押し付けられたまま娘を見上げた。回りの娘たちからは何故か歓声が上がる。
「わたくし、たまたま実物を見る機会がございましたから。否定されますか? 無駄ですけれども」
 別の娘に書記をするよう頼んで、藤色の衣で着飾った美しい娘は壮絶な微笑を浮かべた。それを見た悟了はこの娘の妙な迫力に抵抗する気力を奪われ、のろのろと首を振った。
「……そうだ。州城に投げ文をしたのは俺だよ。でもどうして俺を見つけられたんだ?」
 ただ微笑むだけで娘は悟了の問いを無視する。そして反対に尋問を開始した。
「これからいくつか質問をいたします。正直にお答えくださいませ」
 年齢、住所、職業などの情報の他、何故こういった所業に及んだかの動機、並びに正確な本日の朝から現在に至る行動まで。それこそ根掘り葉掘り質問が続く。目の端では触れるか触れないかで羽がひらめいていれば囚われた男に嘘をつく余裕もなかった。晁家に入ってからの行動はいちいち晁氏に確認をとりながらの作業だ。
 ようやく満足したのか、小柄な娘は応答の結果が記された紙を検分し、声に出して読み上げる。
「これらすべて間違いはございませんか?」
 悟了がうなずくと、娘はもう一度彼に筆を握らせた。
「それでは、『以上のことに相違ありません』とこちらに書いて。そのあともう一度署名を。捺印……は印をお持ちでないのでしたら拇印で結構ですわ。朱肉をどうぞ」
 言われるがままになる男の手から娘は紙を取り上げ、丁寧に吸い取り紙を使ってから畳んで懐に入れた。そうして、ただ娘たちの所業を呆然と見守っていた晁一家に向かい頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ございませんでした。この人物はわたくしたちが連行しますのでもう安心なさって大丈夫ですわ。明日にでも州城より担当武官が参って質問を受けるかと思いますが、どうぞ協力してさしあげてくださいませね?」
 小柄な娘は今度は同行者たちを振り返って高らかに宣言した。
「さて皆様、お待たせいたしました。いよいよ州城に乗り込みますわよ!」
 ある者は手を打ち、ある者は涙ぐみさえして笑顔で歓声をあげて娘に応える。そうして、晁一家に向かって皆が口々に笑いさざめきながら祝福を述べた。
「よい栗主益をお過ごしください!」
「よい栗主益を!」
 娘たちが若者を引きずって立ち去った後、晁家の居間は閑散としてさえ見えた。若い娘というだけで華やかであるのに、いかにも恋人と共に栗主益を楽しむために着飾ったとしか思えない娘たちの集団はおそろしく存在感があったのだ。
「……なんだったんだ」
 晁氏が真相を知らされるのは、翌日娘の予言通り現れた武官によってであった。この日、一家は厳重に戸締りをして皆で寄り添って残った夜を過ごしたという。

   六

 州城では留守居役の文官武官、そして次々と呼び出された者たちが顔をつき合わせていた。定められた官服や武装の中、半数が場違いなめかしかたをしていたが揶揄する者もいない。
「将軍の酔いは?」
「まだ覚める様子はありません」
 影月の問いに留守居役の武官が答える。将軍初め、州軍の一部は無理矢理軒に乗せて州城に運ばれてきていた。
「たくさんお水を飲んでもらってください。無理矢理でも。それが酔いを醒ます一番の方法ですから」
 本来、非番である彼らが酔いにまかせようが責められる筋ではないのだが、最悪の事態を想定した場合には彼らの存在は重要すぎた。栗主益の祝日には何故か犯罪発生率が低いのが通例であり、それが油断に繋がったとも言える。今なら。琥lを攻め落とすことさえあまりにも容易い。戦乱の世でないことに感謝しながら影月の背中はひやりとする。
「市街警護のために巡回している部署との連絡はどうなりましたか」
 留守居役以外にも本日働いている武官はいる。州軍の役目は治安維持も兼ねているため、全員が休めるわけではない。その半数がくじ引きで選出され、主に夕刻から市中をいくつかに分けて巡回しているのだ。ただし、勤務時間は通常よりも短く、自分たちの担当箇所の巡回が終わればそのまま解散してしまうのが常であるため連絡は簡単にはいかなかった。影月と同じように恋人との逢瀬から引き離されてきた官吏が、一部隊とは連絡がつき警護を強化するよう依頼できたが、その他の部隊との連絡はまだつかないと答えた。

「祭りで浮かれ騒いでいる状態ですから、戒厳令を出したところで効果は期待できません」
 現在使える人間を一室に集めて影月は説明する。栗主益の当日に戒厳令など出せば、かえって暴動を招きかねない。
「巡回している部隊との連絡が現在何より重要です。まずそれを優先しましょう。将軍以下、州軍の残留部隊が動けるようになれば巡回に加わっていただきます」
 結局、琥l駐在の州軍は総稼動してもらうことになる。休みの返上などは軍に入った時点で諦めてもらうしかない。
「狂言であるという可能性もありますが」
「人々の安全が第一ですから、事件が起こってからでは遅いんです」
 質問に答えながらも影月の胸には不安が広がる。外はすっかり夜が帳を下ろして祭りのために灯された提灯などがあちこちに見える。もう既に凶行はなされているかもしれない。あまりにも後手に回りすぎていて、予告された凶事を防げるという確証はまったく得られなかった。むしろ時間の経過と共に不安は大きくなるばかりだ。遅々として人も情報も集まって来ない状態に、居合わせた全員に苛立ちが募った。
「全商連にも連絡を。買えるものなら情報を買いましょう」
 何としても阻止せねば。しかし、これだけの情報では砂漠で砂を探すに等しい。影月にできることは限られている。少しでも異変があればそれを知るための手筈を整え、市中警備の巡回を増やして警戒するしかない。

「わりい、遅くなった」
 いや増す緊迫感を打ち破る声がその場に届いた。
「燕青さん!」
 影月ばかりではない、その場の全員が安堵を抑えられなかった。燕青ひとりが今更加わったところで現状打破は難しいと誰もが理解はしている。だが理屈ではないのだ。燕青がいるそれだけで、どうにかなるような安心感を抱かずにはいられなかった。
(僕ではまだまだだ)
 影月ではこれだけの安心感を与えることはできない。
「琥lの外まで出かけてたんで戻るのが遅くなっちまってな。桃天閣に預けられてた書付読んで慌てて飛んで来たんだが」
 燕青は影月から概要と現状を知らされ、苦労を労う意味で影月の頭を撫でようとし、きれいに纏め上げられた髪に気付いて手を止めた。僅かばかり気の毒そうな色が視線に混じったが、そんな感情はすぐに消えた。官吏を選んだのは影月自身だから、果たさねばならない責任がある。
「んー、とりあえず全商連だな。あと、茶家にも手伝ってもらえ。そのほかの手配は影月の指示でいいとして……武官共が使えないのは痛いな」
 いっそ将軍以下に水でも浴びせろと乱暴な意見が出たが、普通の酒ならともかく医療用の酒が入っているとなるとそれでも正気にかえる確率は低かった。葉医師にも連絡を取って、早く酔いを醒ます方法を尋ねたが、
「あいつが混じってると難しいな」
 と、酔いが醒めた後に押し寄せるであろう二日酔いの薬を持たされただけだった。
 やがて、よろよろと州将軍が会議の場に現れた。
「おっちゃん、酒弱くなってんじゃねー?」
「面目ない」
 将軍はこめかみを抑えながら報告を聞いて眉をしかめ、改めて居合わせた面々に頭を下げる。まだ彼と共に酒盛りをしていた部下たちは連れてこられた一室の床に這いつくばったままだと言う。
 全商連と茶家にも使いが出された。具体的に地域を絞ることができればその地区に武官を大量投入して収拾を図れるのだが、未だ有益な情報を得ることはできていなかった。そんな時である。

「た、大変です!」
 州城の門を守っていたはずの武官が慌てふためいて会議の場に転がり込んで来た。
「何があった!?」
 状況が状況なだけにどんな怖ろしいことが知らされるのかと一同固唾を呑む。
「すみません! わ、我々では侵入を止められなくて!」
 侵入という言葉からすは襲撃かと、居合わせた武官と燕青はそれぞれ得物に手を伸ばしたのだが、ついにそれを振るう機会には恵まれなかった。
「ごめんくださいませ!」
 さざめきと共に場違いなまでに着飾った娘たちの集団が室内に押しかけて来た。色彩の奔流が殺風景な室の様相をたちまちに変える。
「香鈴さん!?」
 集団の先頭に恋人の姿を見つけた影月は思わず叫んだ。影月に気付いた香鈴は満足気な微笑みを返し、そんな場合ではないというのに影月の視線を釘付けにする。
 その香鈴は室内の男たちに向かって堂々と言い放った。
「皆様に栗主益の贈り物ですわ!」
 香鈴の言葉に応えるように、娘たちの中から若い男が突き出される。何故か晁氏の家にいたころよりずたぼろであったが。
「この方、名を桑悟了と申されます。本日午後に州城に投げ文をし、その足で下町上区の晁家に押し入り、子供を質に取るという所業に及んでおりました。そこで取り押さえて本人確認の上連行して参りましたの。こちらに必要事項の口述をしたため、署名並びに拇印を頂いております」
 香鈴から差し出された書状に影月と燕青は慌てて目を通す。非常に細かい所まで網羅された内容に燕青が口笛を吹いた。
「……完璧だな」
 書状と香鈴と犯人に交互に視線を送りながら、影月は狼狽した声を洩らす。
「い、いったい、どうやって!?」
 自分たちが情報も得られず、具体的に動き出すこともできずにいたこの短時間で、どうやってここまでやり遂げたというのか影月の中で疑問が渦を巻いた。
「琥lに住む半数が女性ということを皆様ご存知でいらっしゃいます?」
 一同、何を当たり前のことをと香鈴を見つめていたが、燕青ははっと顔を上げる。
「凛影会か!」
「美女宮もですか!?」
 琥lに詳しい燕青は凛影会のことをもちろん承知していたし、影月も香鈴の起こした事業を知っていた。
「他に、茶家にも協力を仰ぎました。連絡を取る際には全商連を介しましたの」
 否定せずにさらりと香鈴は答え、その苦労を垣間見せることもしなかった。そして長い睫毛を揺らしながら問いかけた。
「いかがでしょう。犯人、供述ともに問題はありませんわね?」
 犯人を探し出し、捕らえて連行し、本人の署名捺印付き供述まで揃っていれば問題がある方がおかしかった。男たちは無言で忙しくうなずくばかり。それを見て取ると、香鈴は大輪の花がほころぶような微笑を浮かべ、見とれたのは影月ひとりではなかった。

「それでは事件は解決ということで。
 さあ皆様! わたくしたちの恋人を返していただきますわ!」
 香鈴が影月の腕を取ったのを合図に、娘たちはそれぞれの恋人を捕まえる。
「文句はございませんわよね!?」
 挑戦的なまでの香鈴の視線を受けて燕青はたまらず笑い出す。
「ねえ。まったく文句なし! いいぜ、そいつらとっとと連れていけばいい。ただし、外套と財布くらいは持たせてやれよ?」
 そのまま恋人を引きずっていきかねない娘たちの勢いに、燕青は忠告する。
「え、燕青さん!」
 香鈴に腕を掴まれたまま影月は燕青を仰ぐ。
「後のことは俺が片付けとくから心配すんな。もっとも、ここまでされてちゃあんまりすることもねえけどな」
 支度する短い間も急き立てられて、呼び出しを食らった男たちは慌しく州城を後にすることとなった。そうして三々五々琥lの街へと散っていく。
「よい栗主益を!」
 娘たちは幸福感溢れる瞳で口々に言い残して鮮やかに去っていった。


「んで。なんだってこんな夜に騒ぎを起こそうなんて思ったんだ?」
 十二名の娘たちと十二名の男たちが消え去って、随分と人気のなくなった室で燕青は縛られた犯人の前にしゃがみこんだ。
「――田舎から出てきて半年。恋人どころか友達もできなくて。回りは栗主益なんていう訳のわからない行事で俺を取り残して盛り上がってる。仕事しようにも仕事も祭りだから休みだし。なんか自分以外みんな幸せなのかと思うと誰かを不幸にしてやりたくなったんだ」
 ぽつりぽつりと話し出した男はうつむいたままだった。
「晁家の子供に刃物突きつけて人質にして、あとは主を縛り上げて。なんでそっから先に及ばなかった?」
「刃物なんて人間相手に使ったことないし、考えるだけで気分が悪くなって、どうしていいかわからなくなって――」
 だんだん小さくなる男の声を近づいて聞き取ると燕青は深くうなずく。
「そもそも、向いてないんだな。だがその方がいい」
 燕青の声には温かいものが含まれており、男は顔を上げると真剣な表情で訴えた。
「もう、しない。絶対、しないから。本当に本当に怖かったんだ」
「そんなこと考えた自分がか?」
 のろのろと男は首を振る。
「それもあるけど、それよりもあの娘たちが。みんなすっごく綺麗でにこにこ笑ってるのに誰も目が笑ってなくて。まるで俺が親の仇なんじゃないかってくらい恨まれてるのがひしひし伝わってきたんだ」
 さもありなんと燕青は同意した。
「そりゃ、おまえさんを心底恨んでっからだよ。おまえが妙な気を起こさなきゃ、彼女たちは今日は恋人とべったり過ごす予定だったんだからな。ところが急な呼び出しで恋人を取られて肩透かしだ。そりゃ恨むわ」
 男は今も小刻みに震えていた。色々と思い出したのだろう。
「こわかった……」
 州城への道中でも、
「あら、つまずいてしまったわ」
 と足を引っ掛けられ、
「ごめんなさい、肘が当たってしまったわ」
 と鳩尾に肘鉄を食らい、
「指輪に絡んでしまって」
 と髪を引っ張られ、
「いけない、うっかりしていたわ」
 と顔を引っかかれた。ひとつひとつは小さなことだったが、間違いなく故意による嫌がらせが続いたのだからたまったものではなかった。
「……こわかった。手は出さなかったけど、あの一番小さくて一番きれいな娘が一番こわかった。すごく冷静で。それなのに視線で殺されるかと思うくらいだった」
 しみじみと言い募る男の発言に燕青は苦笑いするしかなかった。
「ああ、今日の香鈴嬢ちゃんはすっげえ気合入ってたからなー。しかも度胸と頭の回転は折紙付きだ。並みの男じゃ太刀打ちできねーよ。俺がお前の立場だったら尻尾巻いて逃げ出してんな」
 先ほど垣間見た香鈴の姿。隙無く磨きたてられた美少女ぶりは燕青がこれまで知っているどんな彼女よりも美しかった。影月でなくとも夢中にさせるであろうその様子に比例して、どれほど香鈴がこの犯人を恨んだかが容易に想像できた。
「なあ、おまえもよーくわかったろ? 女は怒らせちゃなんないんだよ。だからこそ栗主益が琥lからなくなることはねーんだ」
 その場にいた誰もがうなずいた。例え相手が見つからなくて自棄酒に溺れたとしても、この祭りをなくすことはできない。
「まったく栗主益ってやつは本当に女のための祭りだって実感したよ。――たいしたもんだぜ、嬢ちゃんら。俺ら立場ねーじゃん」
 牢へと引き立てられていく男を見送りながら、燕青は心から呟いていた。


   七

 なんとか外套を羽織った影月は、自分を引っ張る香鈴に何度も呼びかけた。
「香鈴さん、あのー」
「聞きません!」
 その度短く遮られる。
「そんなに引っ張られなくても歩けますから」
 手を離したら逃げられるとでも思っているのだろうか。香鈴の小さな手は影月の腕を強く握ったままだ。
「もう州城には戻りませんよ。実際、あれだけしてもらってたらできることなんてほとんどないし、それに燕青さんも引き受けてくださいましたから」
 それだけ言うとようやく香鈴は腕を離した。力を込めすぎて強張った右手を左手でかばう。
「手、大丈夫ですか」
 香鈴の右手をそっと包み込むように影月は握り込んだ。
「……勝手なことをしたと思われます?」
「それは、まあ。こちらが対処できなかったことを解決してもらったのはありがたいんですけど、若い女性だけで無茶だと」
「集めた情報から犯人はひとりともわかっておりましたし、それなりに備えもいたしました」
 晁家に入る際、娘たち全員に持たせた袋。一見、栗主益の贈り物のようだが、中身は綿と鉄片であった。
「そこまでわかってたんなら、どうしてそこで武官を要請しなかったんですか」
「わたくしたちが動くほうが早いんですもの。今日は武官の方たちが少ないことも判っておりましたし、煩雑な手続きをとっている間に犯人に逃げられることも避けたかったんですわ。ですけれど何より、一刻も早く解決してしまいたかったんですの!」
 その香鈴の願いは最短で叶えられた。かつてこれ程素早く解決した事件が琥lであっただろうかと影月が記憶を辿った程に。
「その気持ちは僕たちだって同じですよ」
「いいえ! いいえ、おわかりではないんですわ! どなたかが傷つかれるのはわたくしだって嫌です。ですから、それを阻止したいのは同じかもしれません。ですけど! く、栗主益は特別だって気持ちを踏みにじられた女の気持ちまではお判りにならないと思いますわ!」
 つんと顔を背けた香鈴だったが、僅かに見せる拗ねた横顔すら影月には至高の愛らしさだ。
「僕だって楽しみにしてましたよ」
 州城の門を抜け、広場を超え、人通りの多い道を並んで歩きながら涙声になった香鈴に届くようにと、影月は繋いだままの手をそっと撫でる。月は雲に隠れ、霜が降り初めて寒さが募る。冷え切った香鈴の指先を温めながら影月の指が蠢いた。ゆっくりと指々をほぐすように一本ずつ撫でさする。香鈴の手が温まってきても影月の動きは止まらない。行きかう人々の目に触れぬ袖の中で愛撫のように続けられる。
「え、影月様……」
 僅かに抗議するように香鈴が小さな声を上げる。冷気の中だと言うのに、その顔がこころもち赤い。影月は左手をさらにじっくりと蠢かせた。
「香鈴さんがおとなしく待っててくれるだけの女性じゃないって、それは判ってるつもりでした。でも無茶は駄目ですー」
「そ、それは影月様にこそ申し上げたいですわ! いつだって無茶ばかりされているんですもの!」
「でも僕の無茶と今日の香鈴さんの無茶とは違いますよね? いくら相手がひとりだと判っていたとしても、僅かばかりの綿と鉄片なんて役に立たない可能性だって高いんです。香鈴さんがもし刺されでもして傷ついたら。いえ、最悪の結果だって待っていたかもしれない。その時、僕がどう感じると思います?」
 影月の問いに香鈴は答えられずにうつむく。それでも影月は手を動かすことも口を動かすことも止めずに続けた。
「最良の結果になりましたし、茶州州尹としては後日改めて感謝を述べさせていただきます。でも今の僕はあなたの恋人だから叱らなくちゃいけません。琥lの、茶州の人々を守るためにいる僕たちが後手に回るばかりで役に立たなかったのは恥ずかしいの一言です。でもそれでも、僕らはそのためにいるんです。あなたもまた、僕ら官吏が守るべきひとりです。それをどうか覚えていてください」

 そこまで言うと影月は足を止め、彼にしては乱暴に言葉を切った。
「駄目だ。これ以上は無理だ」
 香鈴は伏せていた睫毛を上げて視線で問いかける。影月は香鈴を見つめながら困ったような微笑を浮かべた。
「今日の香鈴さんを見てると叱り続けるなんてできません。僕の口はあなたへの賛美しか吐きたくないらしいです」
 香鈴の顔を覗きこむように影月は移動する。
「ねえ、香鈴さん? 何か頭に被ったりするとか思いつきませんでした?」
「防寒のためということでしょうか? あの、髪が乱れてしまうので今日は用意していないんですの」
 その答えに思わずため息をついた影月に香鈴はおずおずと尋ねる。
「影月様? その、わたくし何かいけないことでも――」
 影月は苦笑いして香鈴を安心させようとした。彼女を叱る理由にはならないからだ。
「州牧邸の人とか、想月楼のお店の人は仕方ないと思うんです。でも、犯人の所に行く時も、州城まで来た時も、その姿を晒してきちゃったんですよねえ。この姿は僕だけのもので僕だけが見られると思ってたのに、どれほど沢山の人が今日の香鈴さんを見ちゃったんでしょう。……悔しいな」
 影月の発言に香鈴が傍目にも慌てたのが判った。
「あ、あなたに見ていただくためだけにお洒落いたしましたの! 他の方にどう見られたって意味はありませんわ!」
「そうでしょうか? たぶんうっとり見とれちゃったのは僕ひとりじゃないはずですよ。普段の香鈴さんだってそうなのに、今日の香鈴さんはきれいすぎてどうしようと思うくらいだから。
 いつだってこんなにきれいなひとはいないと思う。世に美女と呼ばれるひとがどのくらいいたって、そのひとたちの美は僕にとって記号でしかない。僕の心に響く美しさはあなたから届くものだけだから。
 だからこそ、僕が独占したいんですよ。……呆れましたか?」
 香鈴は顔を赤くしたまま激しく首を降った。
「じゃあ、今から僕の目にだけ映っててください。せっかくあなたが取り戻してくれた栗主益だから――」

 州牧邸からでもさして遠くはない想月楼は、州城からだともっと近い。
「おかえりなさいませ。お戻りいただきまして安心いたしました」
 想月楼の支配人が二人を迎え入れ、食事はすぐに用意できると告げた。影月は遅くなったことを詫び、香鈴は先ほどまでのいくつもの協力に感謝を伝えた。
 与えられた室へと戻り、滞りなく食事は終わった。豪勢な菜の数々はおなじみの鶏菜。しかし前年とはまた違った菜が多く、香鈴を喜ばせた。さすがに夜も遅い時間で影月は忘れていたはずの空腹にさいなまれ、なかなかの健啖ぶりを見せた。
「それではどうぞごゆるりとお過ごしください」
 茶と食後の甘味を並べて給仕が静かに退出する。特製の竹筒入りの杏仁豆腐を賞味してから影月は立ち上がると香鈴の背後に回り、今年の贈り物を首にかけた。
「……首飾り」
 香鈴の手がかけられたばかりの贈り物に触れる。
「ええ。去年と同じ人が作ったもののようですよ。あと、これも」
 華奢な左手をとって、同じ意匠の腕飾りをつける。
「大切にいたしますわね。嬉しい……」
「香鈴さんからいただいたこの衣装も大切にします」
 顔をほころばせた香鈴があまりにも愛しくて、影月はずっと見つめ続けていたはずなのに、胸の高まりを抑えられなくなった。

 このまま抱きしめてもいいだろうかと影月が悩んでいると、ためらいが含まれる声が香鈴の方からかかった。
「……影月様? しばらく、目を閉じていただけます?」
「いい、です、けど?」
 素直に目を閉じた影月の耳に衣擦れの音が届く。きっと香鈴が立ち上がったのだろう。後頭部の髷のあたりに何か触れたと思うと、次に唇を柔らかいものがかすめる。
「こっ……!」
「影月様ばかりずるいんですもの」
 面白がっているような声に手探りで頭上を探ると、纏めた髪の手前に葉の感触。
(やどり木……)
「あの、もう目を開けてもいいですか?」
「よろしいですわ」
 目を開けた途端に、編んで輪になったやどり木が香鈴のきれいに結い上げられた髪の上にも置かれているのに気が付いた。
「ありがとうございます。約束を覚えていてくれたんですね」
 それは栗主益のふたりだけの決め事。去年交わした甘い約束。
「お、お約束でしたもの!」
 影月は顔を赤くした香鈴をもう一度椅子へと導くと足元に跪き、沓の上から唇を落とした。長裙の裾を持ち上げてそこにも。顔を上げて長裙の上から膝にも。
「え、影月様!?」
 戸惑う香鈴の声を遮って、影月は言い切った。
「だって、唇だけじゃなくて、香鈴さんの全部がやどり木の下にあるんですから」
 伸び上がって胸の谷間に唇で触れると、衣の上からだというのに香鈴が震え、息を呑むのが伝わってきた。影月の唇は晒された白い喉に触れる。両手で小さな顔を包み込むと、額に、瞼に、頬へと口づけを落とす。わざと避けた香鈴の唇に指を這わせて影月はにっこりと微笑んだ。
「やっと香鈴さんに口づけできますー」
 香鈴の姿を午後に始めて見せられた時から触れたくて仕方のなかった朱唇へと今ようやく辿り着いたのだった。

 一旦触れてしまうともう歯止めはきかない。そっと触れるだけでは物足りなくて、噛み付くように激しく唇を貪った。息を継ぐ間も与えないで一瞬たりとも唇から離れない。朱唇を割って舌をねじ込むと歯の裏をなぞり、口蓋を辿る。舌を絡ませて強く吸い上げた。
 ようやく影月が唇を離すと、香鈴は浅い息を繰り返しながらとろけるような視線で影月を見上げてくる。そうなると離れたばかりだというのにまだ足りない。
「香鈴さん……」
 絡んだ声を洩らして、逃がさぬよう固定したままの顔に再度近づく。柔らかな唇が抵抗もせずに影月を待ち受けていた。その無言の甘い誘いに乗るためにも、角度を変えて口づけを繰り返し、最早訳もわからなくなった。今はただ、香鈴の唇を堪能するばかり。
 唇から離れると耳に舌を入れる。派手に音をたててみせると、去年の贈り物が呼応するかのようにちりちりと鳴った。
「好きです……」
 そう告げると香鈴の唇から甘い吐息が洩らされる。
「あなたを壊してしまうんじゃないかと思うくらい、愛しさに押しつぶされそうだ」
「えい、げつ、さま……」
 香鈴は自ら瞳を閉じて影月の唇に触れてきた。影月の中で香鈴への愛しさが爆発する。離してなどやらない。今夜はもう、一時たりとも離すつもりはない。決意を込めて影月は香鈴に長い口づけで応えた。
 口づけから解放する短い時間には、影月は素直な気持ちを小さな声で囁いてみせる。聞くのは香鈴だけでいい。間近にいる彼女にはどんな囁きも届かないはずもない。
「あなたがどれほど今夜のような無茶をしたって、僕はきっと許してしまう。でもいつだって全力であなたを守りたい。だからどうか、僕の腕から飛び出さないでください。あなたを失ったら僕は――」
 香鈴の座る椅子に割り込んで、軽い肢体を膝の上に乗せて抱え込む。
「影月様……」
 すがるよう伸ばされた手を胸の上で握ると、影月は顔を寄せていく。
「愛しています――」


「あ、鐘が……」
 日付けの変わったことを知らせる鐘が遠く近く響く。
「ええ。食事を始めたのも遅かったですし。でも、日が変わっても関係ないですよね」
 影月は香鈴を抱き上げるとそのまま次の間の扉を開けた。静かに臥台に降ろした香鈴に宣言をする。
「やどり木の下の香鈴さんのすべてにまだ口づけできてませんし。もしかしたら朝までかかっちゃうかもしれませんけど」
 かまいませんよねと、長く続く鐘の音が消えてしまわないうちに影月は唇を塞ぐ。どんな反論も聞く気はない。もうこのまま帰す気は欠片もない。
「これからが僕らの本当の栗主益ですよ」

 夜は来たりて更け、朝はまだ遠い。だが恋人たちにとってそれは僅かな時間に過ぎない。すっかり霜で覆われた窓の外を一瞬だけ見やって、霜に負けぬくらい白い肌へと口づけていく。


 鐘は響く。その音色が途絶えてしまった後でも影月の中では鳴り続ける。それが鳴り止むまでふたりの栗主益はまだまだ終わらないのだった――。


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『霜夜の鐘声』(そうやのしょうせい)


昨年の『約束の小枝』に続く、捏造クリスマス設定第二段。
あれから一年。今年のふたりは少し大人の時間を過ごすつもりで――

タイトルに僅かばかり名残があるのですが、
最初の構想ではこの話は「楓橋夜泊」をベースにするつもりでした。
中唐の張継の超有名な漢詩。私が永らく唯一暗誦できる漢詩でした。
――月落烏啼霜満天
   江楓漁火対愁眠
   姑蘇城外寒山寺
   夜半鐘声到客船――
ふたりっきりの栗主益。けれど呼び出された影月を待って、
月が落ちるまで外を眺めながら悲しみに浸る香鈴。
夜更けに鐘が響く。
すっかり冷え切った香鈴をようやく駆けつけた影月が――
っていうのが最初のイメージでした。
しっとりといこう、と。

しかしある時、話を膨らませていて飛び出してきた台詞が。
「わたくしの恋人を返していただきますわ!」
いやあの、よよよと泣き崩れる楚々たる麗人はどこ行ったですか。
ともあれ、それによって話の構成を練り直すはめになりました。
力強い香鈴の台詞を打ち消すことがどうしてもできなかったのと、
香鈴はいざという時にたいへん行動的であるという面もありますし。
泣き寝入りで終わらないなあ、と。

ちなみにですね。
一般人に情報がダダ漏れであるとか、一種の公務侵害じゃないかとか、
「それ、設定からして無茶じゃね?」
という正論は、申し訳ありませんが聞くわけに参りません。
また、一部の職務怠慢を感じられる場合もあるかとは思います。
ですがこれは影香のお話なのです。
そのために世界は回っているのです。
ということで何とぞお目こぼしを。

前年の『約束の小枝』に引き続き、この話にも茗才は出てきません。
これはきっと、うちの影香ワールドでは茗才が朝賀に行ってるんだ!
もしくは、全商連と茶州学院共同で
貴陽まで数日で着けるような交通機関を開発したに違いない。
……ならすごいな。

作中に出て参ります二つの組織は私の捏造です。
「凛影会」は自作SS『愛しの凛様』に登場。
「美女宮」は、まだ書いていない設定でして、
作中にて説明した通り、女性を内外から美しくしようという意図で
香鈴が始める事業です。
こちらも後日、話を書きたいと思っております。

時期はすっかり逸しましたが、
「ちゅーだけだけど去年よりちょいオトナ」を目標にいたしました。
読んでくださった方が甘いクリスマスを堪能していただけると幸いです。