霜夜の鐘声・後編
(そうやのしょうせい)




   五

 晁(ちょう)家は朝から栗主益の支度に忙しく過ごしていた。主である晁氏が大のお祭り好きであることもあり、この日は毎年、菓子やら酒やらを路上で配ったりもする。用意した分が終了すると家族で鶏菜を囲んで贈り物をしあい、賑やかな夕食を楽しむのが例年のことであった。夕刻の少し前には今年の門前での振る舞いを無事終えて家に入ろうとした晁氏はひとりの若い男に呼び止められた。
「申し訳ない。今日はもう菓子も酒も配り終えてしまいまして」
「そうですか」
 あまりにも落胆した様子の青年に晁氏は気の毒になり、こう言わずにはいられなかった。
「少し、我が家でお過ごしになりませんか」

 家の中に通された若者に晁氏の七歳になる息子が駆け寄ってきた。
「おにーさん、栗主益のお客さん?」
「……なら、よかったかもしれない」
 若者は小さく呟くと子供を抱き上げた。その手には刃物。
「俺もどうしたいのかわかってないんだけど。とりあえず騒がないで」
 晁氏の家族はあと夫人と乳飲み子だ。家人を雇うほどは裕福ではない。子供が小さいため通いで家事手伝いをしてくれる老女がいるが彼女も今日は休んでいる。
「む、むすこを離してくれないだろうか」
 若者はただ首を振り、家族を一室に集めた。晁氏だけは手首を縛られ猿轡をかまされたが、夫人や子供には何もしなかった。
 彼は何をするでもなかった。卓上に並んだ菜を口にするでも、家中を荒らして金品を略奪するでもなく。ただ黙って子供を抱えたまま椅子に座っていた。時折赤ん坊がぐずり夫人があやすのみ。室外に出ることは禁じられていた。
 長い長い時間。晁氏にとっては拷問のような時間だった。体当たりでもすれば子供を解放できるかもと何度考えたかもしれない。若者が時折手にした刃物に視線を落とさなければ。

「ごめんくださいませ」
 どれほどの時間が過ぎたのだろう。窓の外は既に暗い。そんな折、若い娘の声がふいに響いた。
「ごめんください、晁さんはいらっしゃいますか」
 視線で問う晁夫妻に首を振って男は身構えた。子供を抱えたまま立ち上がり戸口に近づいて警戒する。間もなく、
「ごめんくださいませ」
「ごめんくださいませ」
「ごめんくださいませ」
「ごめんくださいませ」
 声とともに雪崩のように室内に押し寄せてきた着飾った娘たちの集団に男は取り囲まれていた。
「栗主益、おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
 そうして娘たちは笑顔で手に持った袋を押し付けるように若者へと殺到した。
「ばっ……! よせ、来るな!」
 怯えて逃げ出せばいいと、よく見えるように刃物を振り回すが、背の高い娘が刃物を袋に突き刺させ、そのまま奪い取った。
「今ですわ!」
 腕から子供が助け出され、男はたちまちの上に取り押さえられた。一人や二人ならば跳ね飛ばすこともできようが、若い娘ばかりとはいえ十二名からなる集団に勝てるわけもなかった。男は床に転がって、とりどりの鮮やかな紐でしっかりと縛り上げられていた。早々に晁氏の縄も切られ、子供は夫人へと返される。

「いくつかお尋ねしたいことがございますの」
 晁氏や夫人が口々に礼を述べるのを遮って、誰よりも小柄で誰よりも年下と思われる娘が一歩進み出た。
「お名前は何とおしゃいますの?」
 男が答えないでいると、娘たちのひとりが懐から取り出した羽で脇あたりをくすぐりだした。
「や、やめっ!」
「お名前は何とおっしゃいますの?」
 息を切らす男に発言させるために羽を持った娘を下がらせて、中心人物らしい少女が黒目勝ちの瞳を見据えて再度訊ねてきた。
「悟了、桑悟了(そう・ごりょう)……」
「それでは桑悟了さんをこちらの椅子へ」
 卓の前が片付けられ、紙が広げられる。携帯用の筆が差し出される。
「右手だけ自由にして。そう。こちらに署名してくださいませ」
 娘たちに囲まれた状態で若者――悟了は言われるままになるしかなかった。周囲の娘たちがすべて羽を手にしているとなると。
 一同の中心であるらしい娘が署名された字を見て断言した。
「――州城に犯行予告の投げ文をしたのはあなたですわね? だって、手跡(て)が同じなんですもの」

 絶句したままの若者――悟了は呆然と椅子に押し付けられたまま娘を見上げた。回りの娘たちからは何故か歓声が上がる。
「わたくし、たまたま実物を見る機会がございましたから。否定されますか? 無駄ですけれども」
 別の娘に書記をするよう頼んで、藤色の衣で着飾った美しい娘は壮絶な微笑を浮かべた。それを見た悟了はこの娘の妙な迫力に抵抗する気力を奪われ、のろのろと首を振った。
「……そうだ。州城に投げ文をしたのは俺だよ。でもどうして俺を見つけられたんだ?」
 ただ微笑むだけで娘は悟了の問いを無視する。そして反対に尋問を開始した。
「これからいくつか質問をいたします。正直にお答えくださいませ」
 年齢、住所、職業などの情報の他、何故こういった所業に及んだかの動機、並びに正確な本日の朝から現在に至る行動まで。それこそ根掘り葉掘り質問が続く。目の端では触れるか触れないかで羽がひらめいていれば囚われた男に嘘をつく余裕もなかった。晁家に入ってからの行動はいちいち晁氏に確認をとりながらの作業だ。
 ようやく満足したのか、小柄な娘は応答の結果が記された紙を検分し、声に出して読み上げる。
「これらすべて間違いはございませんか?」
 悟了がうなずくと、娘はもう一度彼に筆を握らせた。
「それでは、『以上のことに相違ありません』とこちらに書いて。そのあともう一度署名を。捺印……は印をお持ちでないのでしたら拇印で結構ですわ。朱肉をどうぞ」
 言われるがままになる男の手から娘は紙を取り上げ、丁寧に吸い取り紙を使ってから畳んで懐に入れた。そうして、ただ娘たちの所業を呆然と見守っていた晁一家に向かい頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ございませんでした。この人物はわたくしたちが連行しますのでもう安心なさって大丈夫ですわ。明日にでも州城より担当武官が参って質問を受けるかと思いますが、どうぞ協力してさしあげてくださいませね?」
 小柄な娘は今度は同行者たちを振り返って高らかに宣言した。
「さて皆様、お待たせいたしました。いよいよ州城に乗り込みますわよ!」
 ある者は手を打ち、ある者は涙ぐみさえして笑顔で歓声をあげて娘に応える。そうして、晁一家に向かって皆が口々に笑いさざめきながら祝福を述べた。
「よい栗主益をお過ごしください!」
「よい栗主益を!」
 娘たちが若者を引きずって立ち去った後、晁家の居間は閑散としてさえ見えた。若い娘というだけで華やかであるのに、いかにも恋人と共に栗主益を楽しむために着飾ったとしか思えない娘たちの集団はおそろしく存在感があったのだ。
「……なんだったんだ」
 晁氏が真相を知らされるのは、翌日娘の予言通り現れた武官によってであった。この日、一家は厳重に戸締りをして皆で寄り添って残った夜を過ごしたという。

   六

 州城では留守居役の文官武官、そして次々と呼び出された者たちが顔をつき合わせていた。定められた官服や武装の中、半数が場違いなめかしかたをしていたが揶揄する者もいない。
「将軍の酔いは?」
「まだ覚める様子はありません」
 影月の問いに留守居役の武官が答える。将軍初め、州軍の一部は無理矢理軒に乗せて州城に運ばれてきていた。
「たくさんお水を飲んでもらってください。無理矢理でも。それが酔いを醒ます一番の方法ですから」
 本来、非番である彼らが酔いにまかせようが責められる筋ではないのだが、最悪の事態を想定した場合には彼らの存在は重要すぎた。栗主益の祝日には何故か犯罪発生率が低いのが通例であった。それが油断に繋がったとも言える。今なら。琥lを攻め落とすことさえあまりにも容易い。戦乱の世でないことに感謝しながら影月の背中はひやりとする。
「市街警護のために巡回している部署との連絡はどうなりましたか」
 留守居役以外にも本日働いている武官はいる。州軍の役目は治安維持も兼ねているため、全員が休めるわけではない。その半数がくじ引きで選出され、主に夕刻から市中をいくつかに分けて巡回しているのだ。ただし、勤務時間は通常よりも短く、自分たちの担当箇所の巡回が終わればそのまま解散してしまうのが常であるため連絡は簡単にはいかなかった。影月と同じように恋人との逢瀬から引き離されてきた官吏が、一部隊とは連絡がつき警護を強化するよう依頼できたが、その他の部隊との連絡はまだつかないと答えた。

「祭りで浮かれ騒いでいる状態ですから、戒厳令を出したところで効果は期待できません」
 現在使える人間を一室に集めて影月は説明する。栗主益の当日に戒厳令など出せば、かえって暴動を招きかねない。
「巡回している部隊との連絡が現在何より重要です。まずそれを優先しましょう。将軍以下、州軍の残留部隊が動けるようになれば巡回に加わっていただきます」
 結局、琥l駐在の州軍は総稼動してもらうことになる。休みの返上などは軍に入った時点で諦めてもらうしかない。
「狂言であるという可能性もありますが」
「人々の安全が第一ですから、事件が起こってからでは遅いんです」
 質問に答えながらも影月の胸には不安が広がる。外はすっかり夜が帳を下ろして祭りのために灯された提灯などがあちこちに見える。もう既に凶行はなされているかもしれない。あまりにも後手に回りすぎていて、予告された凶事を防げるという確証はまったく得られなかった。むしろ時間の経過と共に不安は大きくなるばかりだ。遅々として人も情報も集まって来ない状態に、居合わせた全員に苛立ちが募った。
「全商連にも連絡を。買えるものなら情報を買いましょう」
 何としても阻止せねば。しかし、これだけの情報では砂漠で砂を探すに等しい。影月にできることは限られている。少しでも異変があればそれを知るための手筈を整え、市中警備の巡回を増やして警戒するしかない。

「わりい、遅くなった」
 いや増す緊迫感を打ち破る声がその場に届いた。
「燕青さん!」
 影月ばかりではない、その場の全員が安堵を抑えられなかった。燕青ひとりが今更加わったところで現状打破は難しいと誰もが理解はしている。だが理屈ではないのだ。燕青がいるそれだけで、どうにかなるような安心感を抱かずにはいられなかった。
(僕ではまだまだだ)
 影月ではこれだけの安心感を与えることはできない。
「琥lの外まで出かけてたんで戻るのが遅くなっちまってな。桃天閣に預けられてた書付読んで慌てて飛んで来たんだが」
 燕青は影月から概要と現状を知らされ、苦労を労う意味で影月の頭を撫でようとし、きれいに纏め上げられた髪に気付いて手を止めた。僅かばかり気の毒そうな色が視線に混じったが、そんな感情はすぐに消えた。官吏を選んだのは影月だから、果たさねばならない責任がある。
「んー、とりあえず全商連だな。あと、茶家にも手伝ってもらえ。そのほかの手配は影月の指示でいいとして……武官共が使えないのは痛いな」
 いっそ将軍以下に水でも浴びせろと乱暴な意見が出たが、普通の酒ならともかく医療用の酒が入っているとなるとそれでも正気にかえる確率は低かった。葉医師にも連絡を取って、早く酔いを醒ます方法を尋ねたが、
「あいつが混じってると難しいな」
 と、酔いが醒めた後に押し寄せるであろう二日酔いの薬を持たされただけだった。
 やがて、よろよろと州将軍が会議の場に現れた。
「おっちゃん、酒弱くなってんじゃねー?」
「面目ない」
 将軍はこめかみを抑えながら報告を聞いて眉をしかめ、改めて居合わせた面々に頭を下げる。まだ彼と共に酒盛りをしていた部下たちは連れてこられた一室の床に這いつくばったままだと言う。
 全商連と茶家にも使いが出された。具体的に地域を絞ることができればその地区に武官を大量投入して収拾を図れるのだが、未だ有益な情報を得ることはできていなかった。そんな時である。

「た、大変です!」
 州城の門を守っていたはずの武官が慌てふためいて会議の場に転がり込んで来た。
「何があった!?」
 状況が状況なだけにどんな怖ろしいことが知らされるのかと一同固唾を呑む。
「すみません! わ、我々では侵入を止められなくて!」
 侵入という言葉からすは襲撃かと、居合わせた武官と燕青はそれぞれ得物に手を伸ばしたのだが、ついにそれを振るう機会には恵まれなかった。
「ごめんくださいませ!」
 さざめきと共に場違いなまでに着飾った娘たちの集団が室内に押しかけて来た。色彩の奔流が殺風景な室の様相をたちまちに変える。
「香鈴さん!?」
 集団の先頭に恋人の姿を見つけた影月は思わず叫んだ。影月に気付いた香鈴は満足気な微笑みを返し、そんな場合ではないというのに影月の視線を釘付けにする。
 その香鈴は室内の男たちに向かって堂々と言い放った。
「皆様に栗主益の贈り物ですわ!」
 香鈴の言葉に応えるように、娘たちの中から若い男が突き出される。何故か晁氏の家にいたころよりずたぼろであったが。
「この方、名を桑悟了と申されます。本日午後に州城に投げ文をし、その足で下町上区の晁家に押し入り、子供を質に取るという所業に及んでおりました。そこで取り押さえて本人確認の上連行して参りましたの。こちらに必要事項の口述をしたため、署名並びに拇印を頂いております」
 香鈴から差し出された書状に影月と燕青は慌てて目を通す。非常に細かい所まで網羅された内容に燕青が口笛を吹いた。
「……完璧だな」
 書状と香鈴と犯人に交互に視線を送りながら、影月は狼狽した声を洩らす。
「い、いったい、どうやって!?」
 自分たちが情報も得られず、具体的に動き出すこともできずにいたこの短時間で、どうやってここまでやり遂げたというのか影月の中で疑問が渦を巻いた。
「琥lに住む半数が女性ということを皆様ご存知でいらっしゃいます?」
 一同、何を当たり前のことをと香鈴を見つめていたが、燕青ははっと顔を上げる。
「凛影会か!」
「美女宮もですか!?」
 琥lに詳しい燕青は凛影会のことをもちろん承知していたし、影月も香鈴の起こした事業を知っていた。
「他に、茶家にも協力を仰ぎました。連絡を取る際には全商連を介しましたの」
 否定せずにさらりと香鈴は答え、その苦労を垣間見せることもしなかった。そして長い睫毛を揺らしながら問いかけた。
「いかがでしょう。犯人、供述ともに問題はありませんわね?」
 犯人を探し出し、捕らえて連行し、本人の署名捺印付き供述まで揃っていれば問題がある方がおかしかった。男たちは無言で忙しくうなずくばかり。それを見て取ると、香鈴は大輪の花がほころぶような微笑を浮かべ、見とれたのは影月ひとりではなかった。

「それでは事件は解決ということで。さあ皆様! わたくしたちの恋人を返していただきますわ!」
 香鈴が影月の腕を取ったのを合図に、娘たちはそれぞれの恋人を捕まえる。
「文句はございませんわよね!」
 挑戦的なまでの香鈴の視線を受けて燕青はたまらず笑い出す。
「ねえ。まったく文句なし! いいぜ、そいつらとっとと連れていけばいい。ただし、外套と財布くらいは持たせてやれよ?」
 そのまま恋人を引きずっていきかねない娘たちの勢いに、燕青は忠告する。
「え、燕青さん!」
 香鈴に腕を掴まれたまま影月は燕青を仰ぐ。
「後のことは俺が片付けとくから心配すんな。もっとも、ここまでされてちゃあんまりすることもねえけどな」
 支度する短い間も急き立てられて、呼び出しを食らった男たちは慌しく州城を後にすることとなった。そうして三々五々琥lの街へと散っていく。
「よい栗主益を!」
 娘たちは幸福感溢れる瞳で口々に言い残して鮮やかに去っていった。


「んで。なんだってこんな夜に騒ぎを起こそうなんて思ったんだ?」
 十二名の娘たちと十二名の男が消え去って、随分と人気のなくなった室で燕青は縛られた犯人の前にしゃがみこんだ。
「――田舎から出てきて半年。恋人どころか友達もできなくて。回りは栗主益なんていう訳のわからない行事で俺を取り残して盛り上がってる。仕事しようにも仕事も祭りだから休みだし。なんか自分以外みんな幸せなのかと思うと誰かを不幸にしてやりたくなったんだ」
 ぽつりぽつりと話し出した男はうつむいたままだった。
「晁家の子供に刃物突きつけて人質にして、あとは主を縛り上げて。なんでそっから先に及ばなかった?」
「刃物なんて人間相手に使ったことないし、考えるだけで気分が悪くなって、どうしていいかわからなくなって――」
 だんだん小さくなる男の声を近づいて聞き取ると燕青は深くうなずく。
「そもそも、向いてないんだな。だがその方がいい」
 燕青の声には温かいものが含まれており、男は顔を上げると真剣な表情で訴えた。。
「もう、しない。絶対、しないから。本当に本当に怖かったんだ」
「そんなこと考えた自分がか?」
 のろのろと男は首を振る。
「それもあるけど、それよりもあの娘たちが。みんなすっごく綺麗でにこにこ笑ってるのに誰も目が笑ってなくて。まるで俺が親の仇なんじゃないかってくらい恨まれてるのがひしひし伝わってきたんだ」
 さもありなんと燕青は同意した。
「そりゃ、おまえさんを心底恨んでっからだよ。おまえが妙な気を起こさなきゃ、彼女たちは今日は恋人とべったり過ごす予定だったんだからな。ところが急な呼び出しで恋人を取られて肩透かしだ。そりゃ恨むわ」
 男は今も小刻みに震えていた。色々と思い出したのだろう。
「こわかった……」
 州城への道中でも、
「あら、つまずいてしまったわ」
 と足を引っ掛けられ、
「ごめんなさい、肘が当たってしまったわ」
 と鳩尾に肘鉄を食らい、
「指輪に絡んでしまって」
 と髪を引っ張られ、
「いけない、うっかりしていたわ」
 と顔を引っかかれた。ひとつひとつは小さなことだったが、間違いなく故意による嫌がらせが続いたのだからたまったものではなかった。
「……こわかった。手は出さなかったけど、あの一番小さくて一番きれいな娘が一番こわかった。すごく冷静で。それなのに視線で殺されるかと思うくらいだった」
 しみじみと言い募る男の発言に燕青は苦笑いするしかなかった。
「ああ、今日の香鈴嬢ちゃんはすっげえ気合入ってたかならなー。しかも度胸と頭の回転は折紙付きだ。並みの男じゃ太刀打ちできねーよ。俺がお前の立場だったら尻尾巻いて逃げ出してんな」
 先ほど垣間見た香鈴の姿。隙無く磨きたてられた美少女ぶりは燕青がこれまで知っているどんな彼女よりも美しかった。影月でなくとも夢中にさせるであろうその様子に比例して、どれほど香鈴がこの犯人を恨んだかが容易に想像できた。
「なあ、おまえもよーくわかったろ? 女は怒らせちゃなんないんだよ。だからこそ栗主益が琥lからなくなることはねーんだ」
 その場にいた誰もがうなずいた。例え相手が見つからなくて自棄酒に溺れたとしても、この祭りをなくすことはできない。
「まったく栗主益ってやつは本当に女のための祭りだって実感したよ。――たいしたもんだぜ、嬢ちゃんら。俺ら立場ねーじゃん」
 牢へと引き立てられていく男を見送りながら、燕青は心から呟いていた。


   七

 なんとか外套を羽織った影月は、自分を引っ張る香鈴に何度も呼びかけた。
「香鈴さん、あのー」
「聞きません!」
 その度短く遮られる。
「そんなに引っ張られなくても歩けますから」
 手を離したら逃げられるとでも思っているのだろうか。香鈴の小さな手は影月の腕を強く握ったままだ。
「もう州城には戻りませんよ。実際、あれだけしてもらってたらできることなんてほとんどないし、それに燕青さんも引き受けてくださいましたから」
 それだけ言うとようやく香鈴は腕を離した。力を込めすぎて強張った右手を左手でかばう。
「手、大丈夫ですか」
 香鈴の右手をそっと包み込むように影月は握り込んだ。
「……勝手なことをしたと思われます?」
「それは、まあ。こちらが対処できなかったことを解決してもらったのはありがたいんですけど、若い女性ばっかりだけで無茶だと」
「集めた情報から犯人はひとりともわかっておりましたし、それなりに備えもいたしました」
 晁家に入る際、娘たち全員に持たせた袋。一見、栗主益の贈り物のようだが、中身は綿と鉄片であった。
「そこまでわかってたんなら、どうしてそこで武官を要請しなかったんですか」
「わたくしたちが動くほうが早いんですもの。今日は武官の方たちが少ないことも判っておりましたし、煩雑な手続きをとっている間に犯人に逃げられることも避けたかったんですわ。ですけれど何より、一刻も早く解決してしまいたかったんですの!」
 その香鈴の願いは最短で叶えられた。かつてこれ程素早く解決した事件が琥lであっただろうかと影月が記憶を辿った程に。
「その気持ちは僕たちだって同じですよ」
「いいえ! いいえ、おわかりではないんですわ! どなたかが傷つかれるのはわたくしだって嫌です。ですから、それを阻止したいのは同じかもしれません。ですけど! く、栗主益は特別だって気持ちを踏みにじられた女の気持ちまではお判りにならないと思いますわ!」
 つんと顔を背けた香鈴だったが、僅かに見せる拗ねた横顔すら影月には至高の愛らしさだ。
「僕だって楽しみにしてましたよ」
 州城の門を抜け、広場を超え、人通りの多い道を並んで歩きながら涙声になった香鈴に届くようにと、影月は繋いだままの手をそっと撫でる。月は雲に隠れ、霜が降り初めて寒さが募る。冷え切った香鈴の指先を温めながら影月の指が蠢いた。ゆっくりと指々をほぐすように一本ずつ撫でさする。香鈴の手が温まってきても影月の動きは止まらない。行きかう人々の目に触れぬ袖の中で愛撫のように続けられる。
「え、影月様……」
 僅かに抗議するように香鈴が小さな声を上げる。冷気の中だと言うのに、その顔がこころもち赤い。影月は左手をさらにじっくりと蠢かせた。
「香鈴さんがおとなしく待っててくれるだけの女性じゃないって、それは判ってるつもりでした。でも無茶は駄目ですー」
「そ、それは影月様にこそ申し上げたいですわ! いつだって無茶ばかりされているんですもの!」
「でも僕の無茶と今日の香鈴さんの無茶とは違いますよね? いくら相手がひとりだと判っていたとしても、僅かばかりの綿と鉄片なんて役に立たない可能性だって高いんです。香鈴さんがもし刺されでもして傷ついたら。いえ、最悪の結果だって待っていたかもしれない。その時、僕がどう感じると思います?」
 影月の問いに香鈴は答えられずにうつむく。それでも影月は手を動かすことも口を動かすことも止めずに続けた。
「最良の結果になりましたし、茶州州尹としては後日改めて感謝を述べさせていただきます。でも今の僕はあなたの恋人だから叱らなくちゃいけません。琥lの、茶州の人々を守るためにいる僕たちが後手に回るばかりで役に立たなかったのは恥ずかしいの一言です。でもそれでも、僕らはそのためにいるんです。あなたもまた、僕ら官吏が守るべきひとりです。それをどうか覚えていてください」
 そこまで言うと影月は足を止め、彼にしては乱暴に言葉を切った。
「駄目だ。これ以上は無理だ」
 香鈴は伏せていた睫毛を上げて視線で問いかける。影月は香鈴を見つめながら困ったような微笑を浮かべた。
「今日の香鈴さんを見てると叱り続けるなんてできません。僕の口はあなたへの賛美しか吐きたくないらしいです」
 香鈴の顔を覗きこむように影月は移動する。
「ねえ、香鈴さん? 何か頭に被ったりするとか思いつきませんでした?」
「防寒のためということでしょうか? あの、髪が乱れてしまうので今日は用意していないんですの」
 その答えに思わずため息をついた影月に香鈴はおずおずと尋ねる。
「影月様? その、わたくし何かいけないことでも――」
 影月は苦笑いして香鈴を安心させようとした。彼女を叱る理由にはならないからだ。
「州牧邸の人とか、想月楼のお店の人は仕方ないと思うんです。でも、犯人の所に行く時も、州城まで来た時も、その姿を晒してきちゃったんですよねえ。この姿は僕だけのもので僕だけが見られると思ってたのに、どれほど沢山の人が今日の香鈴さんを見ちゃったんでしょう。……悔しいな」
 影月の発言に香鈴が傍目にも慌てたのが判った。
「あ、あなたに見ていただくためだけにお洒落いたしましたの! 他の方にどう見られたって意味はありませんわ!」
「そうでしょうか? たぶんうっとり見とれちゃったのは僕ひとりじゃないはずですよ。普段の香鈴さんだってそうなのに、今日の香鈴さんはきれいすぎてどうしようと思うくらいだから。いつだってこんなにきれいなひとはいないと思う。世に美女と呼ばれるひとがどのくらいいたって、そのひとたちの美は僕にとって記号でしかない。僕の心に響く美しさはあなたから届くものだけだから。だからこそ、僕が独占したいんですよ。……呆れましたか?」
 香鈴は顔を赤くしたまま激しく首を降った。
「じゃあ、今から僕の目にだけ映ってください。せっかくあなたが取り戻してくれた栗主益だから――」

 州牧邸からでもさして遠くはない想月楼は、州城からだともっと近い。
「おかえりなさいませ。お戻りいただきまして安心いたしました」
 想月楼の支配人が二人を迎え入れ、食事はすぐに用意できると告げた。影月は遅くなったことを詫び、香鈴は先ほどまでのいくつもの協力に感謝を伝えた。
 与えられた室へと戻り、滞りなく食事は終わった。豪勢な菜の数々はおなじみの鶏菜。しかし前年とはまた違った菜が多く、香鈴を喜ばせた。さすがに夜も遅い時間で影月は忘れていたはずの空腹にさいなまれ、なかなかの健啖ぶりを見せた。
「それではどうぞごゆるりとお過ごしください」
 茶と食後の甘味を並べて給仕が静かに退出する。特製の竹筒入りの杏仁豆腐を賞味してから影月は立ち上がると香鈴の背後に回り、今年の贈り物を首にかけた。
「……首飾り」
 香鈴の手がかけられたばかりの贈り物に触れる。
「ええ。去年と同じ人が作ったもののようですよ。あと、これも」
 華奢な左手をとって、同じ意匠の腕飾りをつける。
「大切にいたしますわね。嬉しい……」
「香鈴さんからいただいたこの衣装も大切にします」
 顔をほころばせた香鈴があまりにも愛しくて、影月はずっと見つめ続けていたはずなのに、胸の高まりを抑えられなくなった。

 このまま抱きしめてもいいだろうかと影月が悩んでいると、ためらいが含まれる香鈴の声から声がかかった。
「……影月様? しばらく、目を閉じていただけます?」
「いい、です、けど?」
 素直に目を閉じた影月の耳に衣擦れの音が届く。きっと香鈴が立ち上がったのだろう。後頭部の髷のあたりに何か触れたと思うと、次に唇を柔らかいものがかすめる。
「こっ……!」
「影月様ばかりずるいんですもの」
 面白がっているような声に手探りで頭上を探ると、纏めた髪の手前に葉の感触。
(やどり木……)
「あの、もう目を開けてもいいですか?」
「よろしいですわ」
 目を開けた途端に、編んで輪になったやどり木が香鈴のきれいに結い上げられた髪の上にも置かれているのに気が付いた。
「ありがとうございます。約束を覚えていてくれたんですね」
 それは栗主益のふたりだけの決め事。去年交わした甘い約束。
「お、お約束でしたもの!」
 影月は顔を赤くした香鈴をもう一度椅子へと導くと足元に跪き、沓の上から唇を落とした。長裙の裾を持ち上げてそこにも。顔を上げて長裙の上から膝にも。
「え、影月様!?」
 戸惑う香鈴の声を遮って、影月は言い切った。
「だって、唇だけじゃなくて、香鈴さんの全部がやどり木の下にあるんですから」
 伸び上がって胸の谷間に唇で触れると、衣の上からだというのに香鈴が震え、息を呑むのが伝わってきた。影月の唇は晒された白い喉に触れる。両手で小さな顔を包み込むと、額に、瞼に、頬へと口づけを落とす。わざと避けた香鈴の唇に指を這わせて影月はにっこりと微笑んだ。
「やっと香鈴さんに口づけできますー」
 香鈴の姿を午後に始めて見せられた時から触れたくて仕方のなかった朱唇へと今ようやく辿り着いたのだった。

 一旦触れてしまうともう歯止めはきかない。そっと触れるだけでは物足りなくて、噛み付くように激しく唇を貪った。息を継ぐ間も与えないで一瞬たりとも唇から離れない。朱唇を割って舌をねじ込むと歯の裏をなぞり、口蓋を辿る。舌を絡ませて強く吸い上げた。
 ようやく影月が唇を離すと、香鈴は浅い息を繰り返しながらとろけるような視線で影月を見上げてくる。そうなると離れたばかりだというのにまだ足りない。
「香鈴さん……」
 絡んだ声を洩らして、逃がさぬよう固定したままの顔に再度近づく。柔らかな唇が抵抗もせずに影月を待ち受けていた。その無言の甘い誘いに乗るためにも、角度を変えて口づけを繰り返し、最早訳もわからなくなった。今はただ、香鈴の唇を堪能するばかり。
 唇から離れると耳に舌を入れる。派手に音をたててみせると、去年の贈り物が呼応するかのようにちりちりと鳴った。
「好きです……」
 そう告げると香鈴の唇から甘い吐息が洩らされる。
「あなたを壊してしまうんじゃないかと思うくらい、愛しさに押しつぶされそうだ」
「えい、げつ、さま……」
 香鈴は自ら瞳を閉じて影月の唇に触れてきた。影月の中で香鈴への愛しさが爆発する 。離してなどやらない。今夜はもう、一時たりとも離すつもりはない。決意を込めて影月は香鈴に長い口づけで応えた。
 口づけから解放する短い時間には、影月は素直な気持ちを小さな声で囁いてみせる。聞くのは香鈴だけでいい。間近にいる彼女にはどんな囁きも届かないはずもない。
「あなたがどれほど今夜のような無茶をしたって、僕はきっと許してしまう。でもいつだって全力であなたを守りたい。だからどうか、僕の腕から飛び出さないでください。あなたを失ったら僕は――」
 香鈴の座る椅子に割り込んで、軽い肢体を膝の上に乗せて抱え込む。
「影月様……」
 すがるよう伸ばされた手を胸の上で握ると、影月は顔を寄せていく。
「愛しています――」


「あ、鐘が……」
 日付けの変わったことを知らせる鐘が遠く近く響く。
「ええ。食事を始めたのも遅かったですし。でも、日が変わっても関係ないですよね」
 影月は香鈴を抱き上げるとそのまま次の間の扉を開けた。静かに臥台に降ろした香鈴に宣言をする。
「やどり木の下の香鈴さんのすべてにまだ口づけできてませんし。もしかしたら朝までかかっちゃうかもしれませんけど」
 かまいませんよねと、長く続く鐘の音が消えてしまわないうちに影月は唇を塞ぐ。どんな反論も聞く気はない。もうこのまま帰す気は欠片もない。
「これからが僕らの本当の栗主益ですよ」
 夜は来たりて更け、朝はまだ遠い。だが恋人たちにとってそれは僅かな時間に過ぎない。すっかり霜で覆われた窓の外を一瞬だけ見やって、霜に負けぬくらい白い肌へと口づけていく。
 鐘は響く。その音色が途絶えてしまった後でも影月の中では鳴り続ける。それが鳴り止むまでふたりの栗主益はまだまだ終わらないのだった――。


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『霜夜の鐘声』(そうやのしょうせい)


昨年の『約束の小枝』に続く、捏造クリスマス設定第二段。
あれから一年。今年のふたりは少し大人の時間を過ごすつもりで――

タイトルに僅かばかり名残があるのですが、
最初の構想ではこの話は「楓橋夜泊」をベースにするつもりでした。
中唐の張継の超有名な漢詩。私が永らく唯一暗誦できる漢詩でした。
――月落烏啼霜満天
   江楓漁火対愁眠
   姑蘇城外寒山寺
   夜半鐘声到客船――
ふたりっきりの栗主益。けれど呼び出された影月を待って、
月が落ちるまで外を眺めながら悲しみに浸る香鈴。
夜更けに鐘が響く。
すっかり冷え切った香鈴をようやく駆けつけた影月が――
っていうのが最初のイメージでした。
しっとりといこう、と。

しかしある時、話を膨らませていて飛び出してきた台詞が。
「わたくしの恋人を返していただきますわ!」
いやあの、よよよと泣き崩れる楚々たる麗人はどこ行ったですか。
ともあれ、それによって話の構成を練り直すはめになりました。
力強い香鈴の台詞を打ち消すことがどうしてもできなかったのと、
香鈴はいざという時にたいへん行動的であるという面もありますし。
泣き寝入りで終わらないなあ、と。

ちなみにですね。
一般人に情報がダダ漏れであるとか、一種の公務侵害じゃないかとか、
「それ、設定からして無茶じゃね?」
という正論は、申し訳ありませんが聞くわけに参りません。
また、一部の職務怠慢を感じられる場合もあるかとは思います。
ですがこれは影香のお話なのです。
そのために世界は回っているのです。
ということで何とぞお目こぼしを。

前年の『約束の小枝』に引き続き、この話にも茗才は出てきません。
これはきっと、うちの影香ワールドでは茗才が朝賀に行ってるんだ!
もしくは、全商連と茶州学院共同で
貴陽まで数日で着けるような交通機関を開発したに違いない。
……ならすごいな。

作中に出て参ります二つの組織は私の捏造です。
「凛影会」は自作SS『愛しの凛様』に登場。
「美女宮」は、まだ書いていない設定でして、
作中にて説明した通り、女性を内外から美しくしようという意図で
香鈴が始める事業です。
こちらも後日、話を書きたいと思っております。

時期はすっかり逸しましたが、
「ちゅーだけだけど去年よりちょいオトナ」を目標にいたしました。
読んでくださった方が甘いクリスマスを堪能していただけると幸いです。