春蘭秋菊
(しゅんらんしゅうぎく)





「影月様の官服を縫ってみられませんか?」
 香鈴がそう家政頭の文花に言われたのは、ようやく秀麗の不在に慣れ始めたばかりのまだ春も浅い頃だった。

「官服は通常であれば妻たる女性が縫って差し上げるものです。妻女のおられない方の場合はお身内か、わたくしのような立場の者がいたします。正装用の礼服であれば仕立てを依頼することもありますが。
 官服は毎日お召しになるものですし、数があるにこしたことはありません。影月様の場合ですとまだ十分な枚数もお持ちでない上、きっと背も伸びられますでしょう。これからわたくしは櫂瑜様の官服を縫いますので実地に教えて差し上げられますがいかがなさいます?」
 文花は櫂瑜の執事である尚大の妻。物言いは丁寧で常に背筋の伸びた品のよい女性だ。
「わたくしが縫ってもよろしいのでしょうか……?」
 正式に婚約したわけでもないのに許されるのかと、香鈴は不安にかられた。心と同じく伏せた睫毛も震える。
「少しばかり早くから奥方の役目を果たして誰に文句がありましょう」
 軽やかに笑い声を上げて文花は何ら問題はないと答えた。

 櫂瑜が家人と共に現れて、茶州琥lの州牧邸は大きく変わった。
 主が秀麗と影月から櫂瑜に変わっただけではない。手をかけられ、磨かれ、これまでより多数の人間を迎え入れたことで、たちまちのうちに州牧邸本来の格を取り戻していった。

 香鈴は櫂瑜と初対面ではない。朝賀の際などに貴陽の茶家本邸に何度か立ち寄った「櫂のおじいさま」は、月日が流れてもその優雅さを変えることはなかった。
 幼かった香鈴すらを一人前の女性のように扱ってくれた。それは、いささか面映い記憶。
 秀麗が琥lで過ごす最後の連休に現れた櫂瑜は、柔和な瞳をなごませて秀麗たちの後ろにいた香鈴に声をかけてくれた。
「もしや、鴛洵の小さな香鈴嬢ではありませんか?」
 まさか覚えていてくれているとは思ってもみなかっただけに、香鈴は言葉を発することもできずにただうなずく。
「やはりそうでしたか! 後宮に勤めることになったと聞かされた後、消息がつかめずに心配していたのですよ」
 途切れ途切れに鴛洵亡き後、英姫に引き取られたこと、今は秀麗と影月に仕えていると告げた。
「まったく、こんなところで再会しようとは夢にも思いませんでした。嬉しい驚きです。しかもどうでしょう。貴女ときたら私の知らないうちにこんなにも美しくなって、この年寄りの胸さえときめかすのですから」
 なめらかに賛辞を述べられると、こちらこそときめきかねないと思いつつ、香鈴は言わねばならないことを口にした。
「櫂のおじいさま、いえ櫂瑜様。わたくしのお願いをきいていただけませんでしょうか?」
「女性のお願いを叶えることは私の喜びですよ。ましてや、幼い頃を知る貴女の願いであれば」
 勇気を振り絞って香鈴は訴えた。
「どうか、わたくしをこのまま州牧邸においていただけませんでしょうか?侍女の仕事なりさせていただきたいと思いますの」
 州牧邸に起居できない場合は、またしても茶家を頼るしかない。だがそうなると、影月に毎日会うことすらできないではないか。
「幼い頃もたいそう愛らしくて鴛洵が羨ましかったものですが、こうして再びお会いできた貴女の美しいこと。ぜひどうかこの州牧邸の花として残っていただけると私も嬉しいです」

 後日、櫂瑜は英姫と何らかの取り決めも行ったらしかった。
「基本的に家政頭の文花の指示に従ってもらえばよいでしょう。彼女はこれまで行儀見習いを兼ねた花嫁修行のお嬢さん方を何人も育てております。貴女にもよい経験になるでしょう」
 櫂瑜にとっては、香鈴は州牧邸の侍女としてよりも茶家からの預かり物という意識が強いらしかった。そうであるから、一般的な侍女の立場よりもはるかに優遇されたものである。たいていの家では、秀麗の家のように家人も共に食事をしたりすることはまずない。櫂瑜に侍女として自分を売り込んだからには、影月と食事をすることも諦めねばと覚悟はした。だが、影月や燕青からの頼みもあったのかもしれないが、香鈴には櫂瑜、燕青、影月と共に食卓につくようにと、その際の給仕も必要なしと決められた。
 元々、影月は黒州でやはり櫂瑜の元に滞在していたこともあり、家人たちも影月のことを知っていた。再会できて皆一様に喜んでいたのは影月が彼らに好意を持たれていた証拠だろう。ましてや、後の一名はあの燕青である。驚くほど自然に新しい環境に馴染んでみせた。
 このように新しい生活が始まったわけであるが、州牧邸に現れた櫂瑜とその家人たち全員に、影月とのことを悟られるまでかかった時間はわずか三日以内。
「わからない方がおかしいのです」
 文花にはこうまで言われた。
 それほどあからさまにしているつもりがなかっただけに香鈴は戸惑うが、周囲の視線は温かく、ありがたく影月の身の回りを中心にした仕事に没頭していった。


 こうして香鈴は文花の指導の下、影月の官服を縫い始めた。
 小物ならこれまでだって作ったことはあるが、身にまとうものなど肩かけを編んだくらい。それも官服ともなれば人目につく。下手なものなど縫えるわけがない。
 自分がおぼつかない手しか持たないのが香鈴は悔しかった。目の前の文花はそれでも熱心に教えてくれる。だから。慣れないならこれから慣れればいいこと。今できるのは一針、一針丁寧に縫うこと。
 香鈴の縫い目を見て文花は満足そうにうなずいた。
「これだけ丁寧に縫えれば十分ですよ」
 本当にそうだろうか。ちゃんと綺麗に縫えているだろうか。
 思考が向かうのは、これに袖を通してくれるかもしれない少年の姿。きっと、影月なら多少不具合があったところで喜んで着てくれるはずだ。
 ああ、でも。不具合のあるようなものを影月に纏わせるなど自分が許せない。進み具合は遅くてもいい。ただ丁寧に、丁寧に。それを忘れないようにただ一針一針心をこめて――。
 昼の空き時間。夜眠る前。香鈴は時間を見つけては針を進める。
 影月のことを考えながら影月のものを縫える幸せ。
 いつか、うんとうんと腕をあげて。そうして礼服すら縫えるようになろう。影月が身につけるものを他人になど任せる気にはなれない。きっと、影月の横に立つ頃には自分の腕だって上がっているはずだ。

 官服を縫うのは妻の仕事と、文花の教えてくれたことを思い出し、香鈴は針を進めながら赤面する。
(影月様の……奥様……)
 州牧邸では誰もが当たり前のように影月と香鈴を恋人同士として扱う。二人がいつか婚姻を結ぶことすら誰も疑っていない。
 ふと、幼い頃から結婚についてあまり考えたことがないのに香鈴は気付いた。
(ずっと……鴛洵様のお側にいるつもりでしたし……)
 嫁になど行かず、ただ鴛洵の傍らで過ごしたいとしか思っていなかった。
 大恩ある鴛洵が望むならば、茶家の養女として政略結婚の駒になることさえ受け入れただろうし、鴛洵の恥とならぬよう、その時は完璧な妻になってみせようとも思ってはいたが、それは自主的に無邪気に“誰かのお嫁さん”になりたいと憧れたわけではない。あくまでも鴛洵の役に立つためだ。
 だが影月とめぐり会い、心を通わせ合って。芽生えた途端に奪われるところだった未来が今、自分たちの前に開けた。その未来絵図の中には 影月の花嫁となる香鈴の姿がある。
(鴛洵様は、わたくしがこんな風に花嫁を夢見るようになるなんて思っていらしたかしら?)
 今も香鈴の脳裏に鮮やかに蘇る大切な恩人の姿。香鈴が幸福になれるよう心を砕いてくれた人。
 菊花は秋の王。気高く花開く鴛洵には秋が似合う、と香鈴は思う。香鈴では埋めることのできなかった淋しさを抱えてはいたが、優しく穏やかな鴛洵は秋に似ている。
(そ、それは影月様だって優しくて穏やかでいらっしゃいますけど!)
 同じ形容をされたとしても、影月に似合うのは春だ。
(春蘭秋菊……)
 春の影月と秋の鴛洵。どちらもかけがえのない大切なひと。
 影月ならばすっきりと緑の花弁を開く春蘭がふさわしい。
(ちょうど季節も良いことですし、ふたりで蘭を観に参りたいですわ)
 そんなことをとりとめもなく考えながら、過ぎ行く春の日々、香鈴の手の中で官服は少しずつ形を成していった。


 春の日は穏やかに過ぎて。
 一月ほど悪戦苦闘した香鈴は最後の一針を縫い終え、結び目を作って糸を切る。
 春は陽の落ちるのも遅くなる。夕方になろうとしていたが外はまだ明るい。そろそろ州城に登城していた三名も、何事もなければ帰宅する時間だ。
 さっそく文花を探し出し、出来栄えを確認してもらう。
「とても初めてとは思えません。これならば、市井の仕立て屋に頼むより余程しっかりと縫えていますよ」
 文花は他人をむやみと褒めるような人物ではないから、香鈴は嬉しさに素直に頬を染める。
「やり方を忘れず身体に覚えこませるためにも、縫えるようでしたらすぐ次にとりかかった方がよいでしょう。次の分は初夏にも着られる少し薄い生地を使いましょうか。でも、今日はゆっくりと目も手も休ませてあげることです。この官服はわたくしが縫いました櫂瑜様のものと一緒に火のしをかけておきますからね」

 高揚した気分で香鈴は文花の下を去って回廊を辿っていた。そこに声がかけられる。
「ああ、香鈴嬢、よいところに」
「尚大様?」
 文花の夫でもある尚大は、代々櫂家に仕える家令である。
「櫂瑜様のお室にお茶をお願いできませんか」
「もうお戻りでしたのね。もちろん、行ってまいりますわ」
 厨房へ向かい、櫂瑜の好む彼山銀針の葉を取り出すと、ゆっくりと丁寧に湯を注ぐ。
 盆を手に、香鈴は州牧邸の中でも一際広くて立派な室の前に立っていた。
「櫂瑜様、失礼いたします」
 声をかけて入室するも、室の主の姿は見あたらない。だが、卓の上には書きかけのものらしい紙片が置かれたまま。
「どちらに行かれたのかしら……?」
 小卓に盆を乗せ、香鈴は室内を見渡す。
 と、袖が傍らの棚に触れたのだろう。勢いよく中身が零れ落ちた。

 あわてて床にしゃがみこみ、落ちたものを拾い出す。
「書簡に……これは絵姿?」
 開いて落ちたそれは、見るつもりがなくとも香鈴の目に飛び込んできた。
 着飾った若い娘の絵。もしそれが一枚だけであったなら、きっと櫂瑜のかつての知り合いかと思ったであろう。けれど、床に散らばった絵姿はそれ一枚どころか、軽く十枚は超えているようだった。
「どうしてこんなに……?」
 いずれも香鈴自身とも年のかわらない若い娘ばかり。
 だが、疑問はすぐに解けた。最悪の結果で。

――州牧から是非に、我が家と縁を結んでいただけるよう杜州尹にお勧めいただきますよう――

 やはり開いて落ちていた書簡。他人宛の書簡を見るなどと、そんなことは淑女の嗜みからは程遠い。それでも目を止めてしまった内容に香鈴は激しく動揺した。ためしに落ちた他の書簡にも目を通す。
(こんなこと、してはいけないんですわ)
 理性はそう語るが、どうしても打ち捨てておけなかった。
 どれも、大同小異な内容だった。いかに自分の娘がすばらしく、将来影月の隣に立つのにふさわしいと自負している、などなど。
 香鈴は読んでいるうちに気分が悪くなっていくのを感じた。
 絵姿の娘たちはそれなりに贅沢な衣装に身を包んでいる。自然、自分の侍女としてのお仕着せを意識した。
 櫂瑜が主となってから与えられるようになったお仕着せは、生地そのものは上等で、飾りひとつないものの趣味は悪くない。しかし、お仕着せはお仕着せ。他人から見れば侍女としか認識されることはない。そのお仕着せが自分の立場を思い起こさせた。
(今のわたくしは、州牧邸のただの侍女なんですもの)
 いつか影月の隣に立つのは自分だと、何の疑いも持ってはいなかった。だが、考えるまでもなく自分には財産もない。あるのは、ただ己の身ひとつ。
 絵姿の娘たちとの差異に胸が苦しくなり、知らず涙が零れた。

 足音が廊下から響いて我に返った香鈴は、床に落ちた書簡と絵姿を慌てて棚に載せると、立ち上がり扉に近づいた。
「おや、香鈴嬢?」
 香鈴が開くより早く扉を開けた櫂瑜の腕の中にはいくつかの書籍。書庫にでも行っていたらしかった。
「お、お茶をお持ちいたしましたの。あの、卓に置きましたので失礼いたしますわ!」
 櫂瑜の顔を見ることもできず、香鈴はそのまま室の外へと走り出した。

 櫂瑜が香鈴の涙に気付かぬはずはなかったが、声をかける前に視界に映った棚の様子に原因を察する。
「これを見てしまったのですね……」
 櫂瑜はため息をついて呼び出しの鈴を振る。
「櫂瑜様、お呼びですか?」
 たちまち現れた執事に櫂瑜は短く命じた。
「影月君を呼んできてください」


 状元神話なるものがある。
 国試は難関中の難関。それこそ、何年も何十年も合格しようと必死に挑む者も多い。合格だけでも困難なのに、国で一番であると認められる状元は、国試の度に当たり前だが一人しか出ない。そうして、当然のように国家に重用されることになる。
 香鈴は状元及第者を三人知っていた。
 宰相として呼び戻された悠舜。六部吏部の侍郎として勤める絳攸。そして州尹である影月。
 状元で及第さえすれば、未来を保障され、出世と栄華が待ち受けていると、誰もが状元をそういうものだと見ていた。そのため、状元合格者を婿に迎えて、と目論む者はおそらく少なくはない。
 これまで香鈴がそういったことに思い当たらなかったのは、ひとえに影月の若さのせいだ。それは同時に香鈴がすぐにも影月の元に嫁げないのと根は同じだった。そのはずだった。
 だが、神話に目の眩んだ者にいくら影月の若さを説いたところできっと無駄だろう。むしろ、他者を出し抜ける機会だと更に強引に事を進めようとするかもしれなかった。


「……実は香鈴嬢にですね」
 櫂愉に呼ばれて事情を聞いた影月は慌てて室を飛び出した。だがあまりにも勢いがつきすぎていたのだろう。正面からやって来た文花とあやうく衝突しそうになる。
「すみません!」
 一言謝辞を述べるだけで去ろうとした影月だったが、ふいに文花に詰め寄った。
「文花さん! 香鈴さんを知りませんか!?」
 影月の形相に、いつもは冷静な家政頭も一歩退く。
「あ、あいにく……。影月様、香鈴嬢に急ぎのご用ですか?」
「そんなものです」
 文花が知らないのであれば他の誰かに尋ねようと、走り出しかけた影月の背に文花が呼びかけた。
「では香鈴嬢に会われましたらお礼を言って差し上げてください」
 予想外な言葉に影月は文花に向き合った。
「それは僕からですか?」
「ええ。今、影月様のお室に持っていくところだったのですが」
 文花は手にしていた布を少しばかり広げて見せた。
「影月様の新しい官服です。すべて香鈴嬢の手になります」
 影月は普段纏っている官服にまったく見劣りしない新品をまじまじと見つめた。
「官服って縫えるものなんですね……」
 我ながら間抜けな感想だと思うのだが、私服と違い官服のようなものは専門家に任せるものだとばかり思っていた。
「もちろん縫えますとも! ですからこうして出来上がっております。影月様のお年ではご存知でなくとも不思議ではございませんが、たいていは官吏の妻が用意するんです。――まさか、香鈴嬢が縫ったのがご不満だとか申されますか?」
「とんでもないです! すっごく嬉しいです」
 それは間違いなく嬉しい。香鈴が縫ってくれたとなったら毎日でも着たい。
「では香鈴嬢にそのお気持ちを伝えて差し上げてくださいね。それはもう、一生懸命に縫っておりましたから」
「そうします! ああ、ますます香鈴さんを探さなくっちゃ!」
 感謝と歓びを伝えたいのに、自分はまた言葉が足りずに香鈴を悲しませてしまった。釣書のことなどもとっくに伝えておけば良かったのだ。
 そこに、低い男の声が割って入る。
「香鈴さんですか? 彼女なら先程すごい勢いで門を出て行きましたよ」
 武人の一人、慶雲だ。
「どっちに向かったか分かりますか!?」
 寡黙な性質(たち)の武人は目を細めて記憶を辿る。
「おそらく南に向かったかと……」
「ありがとうございます!」
 影月もまた、急いで門から南の方向、琥lの街中に向けて今度こそ走り出した。


 香鈴は激しく動揺したまま州牧邸を出て来たのだが、人通りのある道で泣きながら歩いているのを恥て、ほどなく涙は止まった。気がつくと琥lの街中を北から南に流れる川沿いの道を辿っていた。頭も胸も真綿でも詰められているかのように重く、息苦しい。
 ぼんやりと歩を進めるうちに唐突に目に入ったのは、人家の垣根の内で、すっきりと伸びた緑の葉に守られる淡紅に花びらを染めた蘭の花だった。小さな庭院に余るほどの数だ。余程手をかけて育てられたのだろう。にごりのない花びらが夕陽を浴びて誇らしげでさえある。
 思わず、我知らず香鈴が足を止めてその花をしげしげと眺めたのは、春の蘭に託して影月を想ったことが原因だろう。
 しばしぼんやりと花を眺めていた香鈴に、垣根の内から花バサミを持った初老の男が声をかけてきた。
「お嬢さん、今、切ってあげよう」
「あの、そんなつもりでは!」
 香鈴はただ物思いにふけっていただけで、健気に咲く丹精された花を無心するつもりはまったくなかった。
「私がそうしたいからするんだよ。お嬢さんは眺めるだけで触れもしなかっただろう? 多いんだよ、断りもなく勝手に折っていく奴が。だからお嬢さんのように見て楽しむことを知ってる人が嬉しくてね。嫌でなければ受け取っておくれ」
 男は話ながら蘭に鋏を入れていく。
「それに、実は増やしすぎてしまって、家内に叱られてしまってねえ」
「……嬉しいですわ。ありがとうございます」
 結局、両手で抱えなければならないほどの蘭を男は香鈴に渡した。香鈴は何度も礼を述べてその場を立ち去った。
(いただいてしまいましたわ)
 薄紅色の蘭の花を抱えて、香鈴はなおも川沿いの道を歩く。腕からの柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。花の香を吸い込むと、憂いが少しは晴れる気もしたが、依然として胸の痛みは去らなかった。

 一陣の風が強く吹いて、歩み続ける香鈴の視界は真っ白に塗りつぶされる。
「柳絮(りゅうじょ)……」
 小さくつぶやいた香鈴の上にも季節はずれの雪と見まごう白いものがふわふわと降り寄せた。
 春も終わりになると、柳は白い綿を抱く。それを柳絮(りゅうじょ)と言う。そして風がその綿を攫う。
 川沿いの道は両側が柳並木となっているため、風が吹けば風景が変わるほどだ。その様子は牡丹雪が舞うのにも似ている。
 香鈴は人の行き交いのない小橋の袂で足を止め、ぼんやりと柳絮の乱舞に目をやった。
(まるで……わたくしのよう)
 雪のようで雪でなく。茶家の養女とは言っても大方からは認められず。
 己の意思で生き方を選んだつもりでいたが、なんと寄る瀬なく足元は頼りないことか。流転し、ふわふわと漂うばかり。心の底から頼れるものはもう――。
(影月様のお心しかないのに……)
 変わらぬと永遠を誓ったとしても、形のない心の行方を保障できる術などない。
 影月に頼り切って生きていくつもりなどない。少なくとも自分を養っていけるだけのものは持っている。それはほとんどが鴛洵が与えてくれたもの。彩七家の姫君に劣らないだけのものを身につけさせてくれた鴛洵。宮女試験を受けて後宮に行けと言われた時は見捨てられたかと絶望したものだが、試験に受かって短い期間とはいえ後宮に仕えたことは、今の香鈴を支えるもののひとつとなっている。
(鴛洵様、あれからもっと、わたくし、できることが増えましたのよ)
 秀麗の助けになるようにと覚え始めた菜。秀麗に教わった刺繍や編み物。それに文花から教わったばかりの官服の縫い方……。
 それなのに、まだ影月の横に立つには足りないものが多すぎる。
 降るような柳絮はやむことすら知らないように、香鈴の目の前を途切れることなくただ風に戯れ続け、溶けて消えることもなく、あちこちの吹き溜まりに白く積もる。想いばかりが降り積もる。
――こんなにも恋しい。これほどまでに胸が痛い。自分の中であまりにも影月は大きくなりすぎた。たった半日前まで、影月のことを想い、影月の官服を縫うことに幸せを噛み締めていたのに。恋はなんと簡単に心の振り子を傾けるのだろう。


「香鈴さん! やっと見つけましたー!」
 ふいに白い絹糸の綿の作る世界を破って影月が息をきらしながら香鈴の視界に飛び込んで来た。
「え……いげつ……さま……?」
 あまりにも影月のことを考えていたため、そしてまた、柳絮が白く昊を覆い幻想的な舞台背景も整っていたこともあり、香鈴は最初、目前の影月が本物であるかどうか確信が持てなかった。
「じっとしててください。髪に柳絮が――」
 そっと伸ばされた指先が香鈴の前髪に触れて。その僅かな触れ合いが、香鈴にこれが現実のことと教えた。
「柳絮、すごいことになってますねー。きれいだけどうっかり吸い込んでしまわないでくださいね? ああ、こっちにもついてる」
 影月の指が横から垂らした髪へと移動する。
「ほら、取れましたよ」
 摘み上げた白い固まりを影月は手のひらに載せて、そっと息を吹きかける。たちまち香鈴の髪に宿ったことなど忘れたかのように柳絮はまた風に乗って彷徨い出した。
 振り返って笑いかけてくる影月の笑顔があまりにも温かくて。あまりにも胸を締め付けて。香鈴の瞳からはらりと涙が落ちた。
「こ、香鈴さん!? どうしたんです?」
 ごく自然な動作で、影月は香鈴の涙を指でぬぐいながら顔を覗き込んで来た。苦しくて、苦しくて。香鈴は一番の懸念をそのまま影月にぶつけた。

「え、影月様は縁談をお受けされるんですの!?」
 香鈴の発言の意味を読み取ってか、影月は納得したような表情を一瞬浮かべた。それだけで影月は自分が釣書を見てしまったことを知っているのだと香鈴は直感する。
「ああ、そのことですね。しませんよ。櫂瑜様が僕宛の縁談はすべて断ってくださってます。お室にあったのは先方に送り返すために置いてあった分です。まあ、直接僕に言ってくる人もないではないですけど。どちらにしろそんなもの、お断りするに決まってるじゃないですか。
 国試に受かったばかりの祝宴の時も縁談話をする人がいて、それは何の冗談かと僕はまったく本気にしなかったんですけど。今、届いてるのも根は一緒ですよね。僕という個人に惚れ込んだとかでなくて、ただ“状元”という記号に価値を見出している人たちなんでしょう。そんな状元の名前目的で持ち込まれた話なんて、縁談でなくとも嬉しいはずありません。
 そもそも、香鈴さんがいるのに、縁談なんか受けるはずないじゃないですか」
 影月は笑ってはいたが、その瞳は真摯に香鈴を見つめており、その視線に包まれていれば疑ってしまった自分こそが間違っていた気になる。ただ、それでも負い目は消えない。
「で、ですけれど、皆様きちんとしたお家の方ばかりみたいですし、わたくしのように持参金のひとつも持たないなんてこともないでしょうし……」
 影月に与えられるものの少なさが苦しくて、香鈴は目を伏せた。
「財産なんて僕はなくても構わないんです。貧乏には慣れてますし。お金があったって、どうして僕自身を見てくれもしない人たちと親交を深めたりしないといけないんです?」
 影月がいれば、香鈴は貧乏でもかまわないと思う。それならば影月くらい養ってやるとも思う。けれども影月の出世の邪魔になってはいけない。いつかは悠舜のように宰相すら目指せるのだ、影月は。
「影月様だっていつかは悠舜様や李侍郎のようにもっと出世なさると思いますし、出世に有利になるよう奥様を選んで当たり前だって言われるはずですし、いつまでもわたくしがお側におりましたらきっと影月様の妨げに……」
 とても影月の顔など見ていられなくなって、香鈴は背を向ける。川面を白い綿が泳ぐ風景が滲んで見えた。

「えーと、ちょっと怒っちゃいますよ?」
 影月の声が少し低くなって、香鈴は思わず体を竦める。
「そりゃあ僕は頼りなくって。香鈴さんが信じられなくても仕方ないかもしれませんけど。慣習がどうであろうと、どれほど騒ぐ人がいたって。
 香鈴さん、僕がずっと一緒にいたいと思うのは貴女ひとりだから――」
 背後から抱きしめられて、香鈴はすっぽりと影月の腕の中に収まってしまう。
「影月様! こ、ここは街中なんですのよ!」
「大丈夫。さっきから誰も通ってませんし。それにほら、柳絮がすごいことになってるから、例え誰かいたって足元を見るのに必死だと思いますよ」
――確信犯だ。ある意味とてつもなく性質が悪い。
「不安にさせちゃってすみません。縁談が来てるけど全部断ってるって、最初から言っておけばこんなに香鈴さんを悲しませなかったのに」
 まわされた手に力がこもる。その力強さは男のもので。その心の強さが誰よりも愛しくて。香鈴は先ほどとは違う安堵の涙が滲むのを止められなかった。

「そうだ! 官服、ありがとうございましたー。さっそく明日から着ていいですか?」
 耳元で囁かれるとくすぐったくて、香鈴はわずかに身をよじる。
「櫂瑜様や燕青様には着ていただけない寸法なんですもの。お好きになさるとよろしいんですの」
 だがこれではあまりにも影月が小さいと言う悪口に聞こえるかと香鈴は言葉を付け足した。
「……次は初夏用の薄物を縫ってさしあげますわ」
 影月が微笑んだ気配が伝わってきて、気分を損ねなかったのだと香鈴は胸を撫で下ろした。
「楽しみですー。ずっと香鈴さんが縫ってくれればいいって思います。
 あ、それは、もちろん簡単に縫えるわけじゃないだろうし、香鈴さんの負担になるんなら僕は同じ物を毎日何年着てたってかまわな――」
 影月に最後まで言わせず香鈴は捲くし立てる。
「そんな情けないことをわたくしが許すとでもお思いですの! ちゃんと毎年! 何枚でも縫ってさしあげます!」
「はい――お願いします」
 ずっと傍にいて。ずっと影月の官服を縫って。そう過ごすことが許されているのだと、そう夢見ることも許されているのだと影月は言ってくれている。ならば。自分はもっと影月を信じよう。もっと影月に恥じぬ女になろうと、香鈴は誓った。

「その蘭、どうしたんですか?」
 ようやく抱擁を解いた影月が香鈴の前に回る。
「たまたま、拝見しておりましたら、そのお家の方が切ってくださいましたの」
「とってもきれいですよね。ああ、いい匂いがする」
 香りを嗅ぐ為だとわかっていても、影月が身をかがめたことに香鈴の身体に緊張が走る。顔を寄せている花にへだてられた先にあるのは自分の胸元と意識してしまったのだ。
「香鈴さん?」
「お、お好きでしたら影月様に差し上げますわ!」
 動揺を隠すためにずいっと花を押し付けようとした手がやんわりと押さえられる。
「駄目ですよ。香鈴さんが貰ったんでしょう? それに――」
 照れたように笑われて、香鈴の心臓は跳ね上がる。
「香鈴さんがそうして抱えてるから尚更きれいなんだし」
――勝てない。どうしても勝てない。こんな相手をこんなに好きだなんて、なんと分の悪い恋だろう。
「さあ帰りましょう。このままじゃ香鈴さん、柳絮と一緒に風にさらわれてしまいそうですし」
 さらわれても、飛び出して行っても、こうしてまた捕まえてしまいますけどね、と付け加えた影月が差し出した手に、香鈴は自分の手をそっと重ねた――。


 自室の窓辺に腰を下ろして、櫂瑜は夕闇のせまる中、睦まじく手を繋いで少年と少女が門を潜るのを見守っていた。
「さてと。いつになったら告げるべきでしょうね。私が鴛洵の生前に香鈴嬢の持参金の管理を頼まれていたことを」
 
 香鈴を宮女として後宮に上げると鴛洵に伝えられたのは、鴛洵が亡くなる年の明けたばかりのこと。
 本来なら茶家の養女として嫁に出したくとも、英姫以外の一族は香鈴を認めようとはしない。後宮に勤めれば嫁入り先にも不自由はなく、その経歴は諸手を挙げて歓迎される。だからこそ茶家の名を出さずとも将来が保障される道を進ませたと。
 だがそれでも嫁ぐ際に持参金もなくては片身が狭いだろうと、彩七家の娘の持参金としては少ないかもしれないが、中級以上の貴族の娘のものとしては決して少なくないだけのものを鴛洵は用意していた。貴陽郊外の邸やいくばくかの金子などである。
 年上の自分に託してどうすると揶揄してみたものの、あの時点で既に鴛洵は覚悟を決めていたのだろう。
 生真面目な年下の友人が幸せを願った娘だ。自分もまた彼女の幸せを守るのに力を尽くすことに不満はない。ましてや、香鈴が選んだのが気にかけて後継者として育てている影月となれば、これはもう全力で二人の未来を守るのに足る理由ではないか。

 香鈴の腕に揺れる薄紅の蘭の花に目を留めて櫂瑜はつぶやいた。
「“春蘭秋菊倶(とも)に廃すべからず”ですね。
 鴛洵、あなたの育てたお嬢さんは、春も秋も最高のものを選ぶ目を持っていますよ。安心してください。きっと誰より幸せな花嫁にいたします」
 吹く春の風の中に鴛洵の気配を感じたような気がして、櫂瑜は言葉を続ける。
「おや、この言い方ではまるで私が香鈴嬢をお嫁にもらうようですね。大丈夫、私ではありませんがね、残念ながら。君も生きていたらきっと気に入ったに違いない子ですよ、影月君は。
 ああ、だけど男親というものは、娘をさらっていく男には厳しいと言いますからねえ。さしもの君でも香鈴嬢をくださいと影月君が目の前に現れたら、『おととい来やがれ』とか追い返したりしたんでしょうか。……それは非常に見たかったですよ、鴛洵。
 君がもっと自分勝手な男だと良かったんですが。そうしたら自己犠牲なんて馬鹿な真似はせず、今頃一緒に香鈴嬢の花嫁姿を想像できたはずです。
 鴛洵、君がいなくて本当に残念だ。これほど私を、ましてや英姫嬢を悲しませたのです。香鈴嬢の花嫁姿は君の分までしっかり見ておいてあげるから、せいぜいあの世で悔しがるといいんです。
 でもね鴛洵。例え幽霊だろうが何だろうがかまいませんから、いつでも――」
 櫂瑜は口を閉ざし首を振る。
「君はそんな気の回るほうではありませんでしたからねえ。過剰な期待はよしましょう。期待も希望も。あの若い二人が沢山抱え込んでいますから」
 静かに、かつ優雅な仕草で櫂瑜は窓辺を離れる。見守ると決めた二人を迎え入れるために。

 春蘭秋菊、気高く清らかに咲く花はどちらも甲乙つけがたく素晴らしい。けれど一番の価値は、女性を守り、慈しみ、美しくすることにこそあるのだと、花たちは知っているのだろうか――。
 

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『春蘭秋菊』(しゅんらんしゅうぎく)


立て続けに季節はずれな晩春のお話です。
タイトルは「春蘭秋菊倶に廃すべからず」(出典は『旧唐書・楚辞』より)で、
「どちらも優れていて優劣がつけられない」とかいう意味です。

この話は「香鈴がいかに影月が好きか」を書きたいと思ったもので、
そこからタイトルの成語が出てきました。
で、素直にタイトルにしたものの、
鴛洵の菊は当然としても、影月に蘭ってどうよ?
とか思いました。
蘭と言えばオーキッド。
思い浮かぶのはカトレア、シンビジウム、胡蝶蘭、君子蘭などと華やかなものばかり。
けれど調べてみると「中国春蘭」はかなり地味な花だとわかりました。
ガクと花弁は緑系。唇弁は白色で赤紫の斑点が入ります。
四君子に選ばれた花は華やかさよりも気高さからなんですね。

ただ、それだと淋しいので、作中で香鈴に持たせたのは亜種ということで。
イメージは日本春蘭の「紅乙女」です。

大きな事件が起こるわけではありません。
ただ、影月と香鈴が更に心を沿わせるには、こんな小さな疑いであるとか、不安であるとか、そういったものを乗り越えて行かないとな、とかとか思います。

おっと、柳絮(りゅうじょ)についても一言。
春の漢詩を読んでいて、中国では柳が白い綿を飛ばすことを知りました。
晩春の風物のひとつのようです。
自分の立場を香鈴が例えるのに使えるかと。
想像すると美しいですが、現実にはなかなか大変なもののようです。

ところで。
影月のナチュラルたらし台詞は、すでにうちのカラーとなりつつありますが。
櫂瑜様の(たらし含む)台詞書くのも、すっごい楽しかったです……。

追記。
櫂瑜と香鈴が以前に知り合いであったとか、香鈴の持参金うんぬんは
香鈴の茶家養女設定同様、私の捏造であることを付け加えさせてただきます。

あと。
「確信犯」は誤用と知りつつそちらの使い方してます。