の罪・地の奇跡
(てんのつみ・ちのきせき)




 もしも。やり直すことができたら。
 今度こそ間違えずに生きられるだろうか。
 間違えたからこそ出会えた人たちに、それでも会うことができるだろうか――。




「間もなく始まりますね」
 櫂瑜が人の流れを見ながらつぶやく。
 途端に櫂瑜の両側にいた燕青と影月は姿勢を正した。
「なんでこんなに堅苦しくするかなあ。皆で酒酌み交わして、『あの人はいい人だった』とかで十分なのにさ」
 燕青は盛装である官服の衿を緩めながらぼやく。
「それで済ますには、彼は余計なものを持ちすぎていましたからね」
 櫂瑜は微笑みながら燕青をなだめた。
「でも――。櫂瑜様や燕青さんはともかく。僕なんかお会いしたこともないんですよ? いいんでしょうか、僕ここにいて」
 先年に比べれば随分と官服を着慣れてきた影月であったが、その様子はまだいささか幼い。着こなすにはあと数年はかかりそうだった。
 対照的に官服すら彩りに変えるだけの余裕のある櫂瑜は、孫ほどの自分の後継者をやさしい視線で眺める。
「きちんと招待いただいたのですから大丈夫ですよ。それにこういう場も、君の勉強の場であります」
「はい……」
 周囲にはやはり盛装だの、盛装までいかなくても立派なしつらえの人物が溢れている。しかも、誰も彼もが経験豊富な大人揃い。間違いなく現在この広間に招待された中で影月が一番若い。自然、居心地悪く、うつむいてしまう。
「あ、来た来た」
 燕青の声に顔を上げると、広間に一族が入場するところであった。
 茶家一族は招待客に向かい合うよう作られた席に着席していく。
 やがて一旦は座した茶克洵が、一族の中央で立ち上がると声を上げた。
「皆様、本日はお忙しい中、先の茶家当主鴛洵の法要にようこそお運びくださいました――」


 茶州琥l、茶家本宅広間にて、こうして法要は始まった。
 茶鴛洵が亡くなって、今年で二年。
 先年は茶家はまだ当主不在の混乱の最中。とても法要どころではなかった。ようやく、茶州も茶家も落ち着いてきたということだろう。

 招かれて列席することになった影月にとって、茶鴛洵は見知らぬまま終わった人物であった。
 もしも、影月が配属されたのが茶州でなければ、その名に触れることさえなかったかもしれない。
 しかしここ茶州においては二年が過ぎようとも、未だ鴛洵の影はそこここに見え隠れしていた。
 菊花君子の誉れ高く、朝廷三師の大保まで登りつめた鴛洵。
 叶うことならば会ってみたかったと影月は思う。壇上に飾られた鴛洵の絵姿は、厳しくも温かくも感じられた。

 法要そのものはさして長くはなかった。
 故人の業績と徳の高さを褒め称えた後、絵姿に向かった縹英姫が法要を締めくくる。
「我が夫にして、永く茶家当主であった鴛洵よ、これより先も我等一族を導き、見守り給え――」
 一同は深く一礼し、そうして茶家の一族は広間を無言のまま退出する。再び彼らが戻ってきた時には、今度は宴が始まるのだ。

 影月の視線はその間もずっと、ただ一人に注がれていた。一族の最後尾に位置した少女に。
(香鈴さん――)
 一族同様、茶灰色の衣を身にまとった少女は、法要の最中、唇を噛んで何かに耐えるような表情を崩さなかった。
 それが影月には何より痛かった。
(傍に飛んで行って、手を握れればいいのに――)
 飛び出せば、ほんの数歩の距離。しかし距離以上の隔たりがそこにはあった。




 香鈴よりしばらく茶家に滞在することを影月が聞かされたのは、法要の数日前だった。
 自らも招待されていた影月は単に法要の手伝いだと思っていたのだが、桜の花もとうに舞い落ちた春の夕べ、思いつめた表情の香鈴の口よりそれ以上のことを聞かされることになった。

「影月様。長い――長い告白を。わたくしの罪の話を聞いていただけませんでしょうか」

 出会ってから一年。誰よりも心を沿わせてくれた少女は、これまで自分の過去を話すことはほとんどなかった。
 はじめて会った頃を思わせる硬い表情は、悔恨の色に溢れていて。
「はい。聞かせてください。聞かせて欲しいです。香鈴さんのことを――」


 それは、貴陽の街から始まった。
 まださほど荒廃の進んでいなかった貴陽に、香鈴は生まれた。
 両親と祖母と。家族は小さな商家を営んでいた。穏やかな日々。しかし荒廃の初期に父は亡くなり、母と共に祖母に家から追い出された。
 荒廃はますますその速度を上げ、人々は日々の暮らしすら見失っていった。
 そんな時期に、幼い子供を抱えた母の苦労はどれほどのものであったか。働こうとしても、働く場所がない。何より、貴陽の街中から食物という食物が消えうせていた。
 いつしか、母も姿を消した。
 捨てられたとは思いたくない。
 苦労に苦労を重ねていた母だから、香鈴の知らない所で倒れたのかもしれなかった。
 母は恋しく。けれど何よりもひもじくて。幼い香鈴は街を宛てもなくさまよった。

「お腹がすいて、お腹がすいて。もうそれしか考えられなくて。なのに、地面は雑草さえ取りつくされた黒い土が覗くだけ。動くものは虫さえも食べ尽くされて。あとはただ、人の屍が散乱するばかりでした」
 香鈴は遠くを見つめながら、ぽつりぽつりと言葉を継ぐ。
「自力では食べる物を見つけることもできずに、ついに動くことができなくなりました。ですがその場所こそ、貴陽の茶家本邸の門前だったのですわ」

 それが、運命だったのならば。

「力尽きたわたくしを拾い上げ、全てを与えてくださった方こそ、茶鴛洵様だったのでございます――」


 香鈴は淡々と鴛洵との日々を語った。
 初めは、自分の運の良さが信じられなかったこと。
 十分な食事、立派な衣装、暖かな臥台。姫君のように傅かれ、姫君のような教育を受けたこと。
 捨てられるのが怖くて、必死で教わることを身に付けたこと。
 何もかも、鴛洵は香鈴に与えてくれた。
 望むものなら、何でも。
 たった一つをのぞいては――。

「向日葵をご存知ですわね? あの花は太陽に向かって咲きますの。
 わたくしも向日葵と同じでした。わたくしの太陽は鴛洵様。他には何一つ、目に入りませんでした。
 すべてを与えてくださったあの方をどうして愛さずにいられましょう」

 幼いとは言うものの、香鈴は女で。鴛洵は愛してくれたが、それは身内に対する愛で。

「それでも構わなかったのですわ。ただ、お傍にいられるだけで――」


 そんな日々はしかし、鴛洵の命によって崩壊する。王城に上がり、宮女として勤めよと言うのだ。
 香鈴はそんなことは望んでいなかった。しかしどうして鴛洵の望みを拒否できよう?
 数多の候補者と共に選抜試験を潜り抜け、香鈴が後宮にて王に仕えるようになったのは、十二になったばかりのことだった。


 後宮勤めはしかし、意外にも楽しかった。
 いかにも世間知らずの箱入りの姫と見た先輩宮女たちは、なにくれとなく香鈴を指導してくれたし、昏君のように振舞っていた王も、決して無茶はしいらなかった。
 そして、春。霄太師の肝煎りで、ひとりの貴妃が後宮に上がった。

「その貴妃様は、とても素晴らしい方でしたの。淑やかさと寛容さに溢れていらっしゃって。
 わたくし、すぐにその方が大好きになりましたわ。
 主上もまたその方のため、昏君から脱していかれました。
 おふたりは、とてもお似合いで。わたくしもその様を微笑ましく見守っておりました。
 けれど――」

 ある時香鈴は知ってしまうのだ。
 自分の太陽である鴛洵にとって、この貴妃こそ障害であると。

「愚かにも、わたくしはその噂を信じてしまったのです」

 香鈴は、その貴妃に最も近く仕える身。
 そうして香鈴は毒を入手する。ためらいは大きい。だから、発見されやすく治療しやすいものを選んだ。
 大好きな女(ひと)。傷つけたくなどなかった。
 けれど、迷いながらもそれでも。
「あの方の為に生きたかった。ただあの方の為だけに」
 天秤は依然として鴛洵に傾く。
 薄氷を踏む思いで、香鈴には全てが明かされる日を待つしかなかった。

「わたくしがお慕いし、かつこの手で殺めようとした貴妃様こそ、秀麗様だったのでございます――」


 それまでただ黙って聞いていた影月だったが、さすがにこれには表情を変えた。
 だが、それで色々と腑に落ちる。
 秀麗が官吏となる前から、王や側近と親しい理由もわかった。
 それこそ、紅家長姫の秀麗だ。貴妃として王の傍にあることに何の不思議もない。
 そしてまた、茶州への旅の間の、秀麗と香鈴の間に流れていたあまりにも微妙な空気。
 お互いに好意を持っていた相手だった。しかし殺意の存在を忘れることなどできるわけがない。


 考え込む影月を眺めた香鈴の表情は、いっそ儚いほどだった。
「わたくしのためらいが長すぎたのが原因とは思われませんが、そうこうするうちに鴛洵様は亡くなられました。詳しいことは存じません。ですが、そこにはわたくしなど想像もつかない経緯があったということです。
 結局、わたくしは、何ひとつあの方の為にできないまま……」

 後を追おうとして死にきれず。
 ではせめて裁きに従おうとしたところで、鴛洵の死すら「病死」で片付けられてしまっているのだ。香鈴の罪は不問とされた。
 事情を知った縹英姫が香鈴を引き取ることになり、茶州に赴いたものの、ただ泣き暮らした。
 鴛洵の後、茶家当主の座を狙う仲障の横暴が始まるまで――。

 その後のことは、影月も知っていた。

「本来なら、わたくしは死罪を賜っているはずの身。この穢れた身の上をあなたに黙ったままでいることはもうこれ以上できませんでしたの」

 未だ夜ともなれば風は冷たい。薄い披巾を引き寄せた香鈴は、かすかに震えた。
 闇雲に抱きしめたい衝動を影月は堪える。
 今は、香鈴の告白をじっくりと考えなければ。

「大奥様より、茶家の身内として鴛洵様の法要に出席するよう言い付かりました。しばらくこちらには戻りません。
 影月様――」

 香鈴はまだ何か言いたげであったが、そのまま口を閉じると、その場を足早に立ち去った。
 何も声をかけることができなかった影月は、ひらひらと残された披巾を拾い上げると、ただそっと抱きしめた。




 克洵や茶家の面々が広間に戻ってくると、故人を悼んで乾杯がされた。その後は次々と料理が運ばれてきて、宴が始まった。
 しんみりとしていた一同であったが、酒が回りだすと徐々に場は賑やかになる。
 だが、そこには香鈴の姿はない。
 影月は櫂瑜にそっと耳打ちする。
「櫂瑜様、僕、少し席をはずします」
 酒盃を傾けていた櫂瑜は、何もかもを承知しているような視線で、ただうなずいたのみだった。


 影月は、茶家の庭院をさまよった。
 宛てなどあるわけもない。
 しかし何かに導かれるように、片隅の東屋に足を踏み入れた。
 果たしてそこには。
 夜目に浮かび上がる白い花のような顔の、憂いに満ちた少女が一人座していた。


「香鈴さん」
 影月が呼びかけると、香鈴は物思いから覚めたように慌てて身じろぎし、そのまま逃げ出そうとした。
 影月はその手を引いて、強引に椅子に座らせる。
「ようやくお会いできましたね」
 影月は微笑みかけるが、香鈴は視線をはずしたままだ。
「ねえ、香鈴さん。この間、僕が言葉を見つけられない間にいなくなってしまったでしょう? 僕、あれから色々考えました。今度は僕の話を聞いてください」

 香鈴はようやく顔を上げて影月を見た。その顔は断罪に怯えて蒼い。
 影月は言葉を選んでゆっくりと話し出した。

「香鈴さん、麗紗姫(れいしゃひめ)の物語をご存知ですか?」
「麗紗姫、ですか? 存じておりますが」


 それは、古いお伽噺。
 麗紗姫は天界の絶世の美姫だった。その美貌は、紗を通しても光輝くと讃えられるほど。しかし姫は美貌に驕り罪を犯す。天帝の裁きにより、彼女は地上に堕とされた。最早、不老も不死も無縁の、やがては老いて死んでいく唯の人として――。
 麗紗姫は慣れぬ地上でただ嘆き悲しんだ。そんな彼女の前に劉牙(りゅうが)と言う若者が現れた。一目で麗紗姫に恋した劉牙は、その情熱でもって彼女の心を勝ち取る。
 天上では得られなかった愛を知った麗紗姫はようやく自分の罪を悔い、その後は劉牙との愛に生きたという――。


「麗紗姫は天上で罪を犯して地上に堕とされました。でも姫が罪を犯さなければ、劉牙は姫と会うこともできなかったんです」
 影月は唇を湿して続ける。
「香鈴さん、あなたは僕の麗紗姫です。あなたが罪を犯さなければ、たぶん僕はあなたに会えなかった。
 あなたの罪に感謝さえする僕もまた、罪人なんです」

 香鈴の視線が揺れ、影月を窺う。
「あなたが他ならぬ秀麗さんを殺そうとまで思いつめたことは、正直驚きました。秀麗さんの友達としては許せないと思うべきなんでしょう。
 でも、僕は知っています。そのためにあなたがどれほど苦悩していたかを。どれほど自分を追い詰めていたかを。
 僕だって、きれいなだけじゃない。
 陽月の優しさに甘えて三度も運命を裏切りました。
 特に、堂主様が亡くなった時。西華村の他のだれもが僕によくしてくれたのに、僕が生き返らせてと願ったのは堂主様一人でした。これは傲慢な罪ではないでしょうか」

 影月は横に座った香鈴の両手を取る。その手がとても冷たくて、温めるように握りこんだ。
「自分の犯した罪は、どこまでも消えません。僕もあなたも一生背負っていく。
 でもね、罪を犯した麗紗姫が劉牙と幸せを掴んだみたいに、罪人だから幸福を願っちゃいけないわけじゃないんです。
 今、僕がここにこうして生きているのは奇跡です。僕たちが出会ったのも奇跡です。僕たちが罪を犯して奇跡が生まれました。
 ねえ、奇跡に感謝しましょう。罪は罪として、こうして生きていきさえすれば、きっと幸福になれるんです。僕は、そう信じます。ですから――」
 影月は握り締めたままの香鈴の両手を持ち上げると、唇を寄せた。
「あなたの罪ごと、僕はあなたを好きでいます」
 香鈴の瞳から声もなく透明な雫が溢れ出す。影月はそのまま唇を重ねて、ただ強く抱きしめた――。



 香鈴の涙が止まると、影月は手を引いて庭院を歩き出す。
「香鈴さん、鴛洵さんを僕は知りません。もう亡くなってしまって、知り合いになることもできません。でも、香鈴さんの中には、今も鴛洵さんが生きてらっしゃいますよね? 香鈴さんの中の鴛洵さんを僕に紹介してください。僕にも、鴛洵さんを知る機会を与えてくれませんか?」
「本当に、鴛洵様は素晴らしい方でしたの」
 少し元気を取り戻した香鈴は、上目遣いで影月を窺う。
「あなたなんて、まだまだですのよ」
「はい、まだまだですよね」
 そんな香鈴が愛しくて、影月は繋いだ手に力をこめる。
「ですから。あなたが鴛洵さまみたいになれるよう、たくさんお話してさしあげますわ」
「楽しみですー」
 二人は顔を見合わせると、どちらともなく微笑んだ。
 遠く、宴のざわめきが聞こえる。
 そのまま二人は、ただ静かにお互いのぬくもりを感じながら夜が更けるまで宴に戻ることはなかった。


 この地上は汚濁にまみれ、罪は降り積もる。
 けれど出会いの奇跡を信じるならば。
 そこに天上に負けぬ花園を見出すことは、きっと、できる――。

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『天の罪・地の奇跡』(てんのつみ・ちのきせき)


原作において、『想いは遥かなる茶都へ』で出会った影月と香鈴。
怒涛の展開は、過去の告白をはさむ余地はありませんでした。
しかし、本当に愛するなら、香鈴は影月に告白するべきだと、ずっと考えていました。それもなるべく早く。
なので、鴛洵の法要なるものをでっちあげ、告白の機会としました。

香鈴の生い立ちもでっちあげです。
そして、もうひとつのでっちあげが作中のお伽噺。
ハッピーエンド版の竹取物語のよう?
姫は衣通姫の逸話も混ぜたり。
でも、中国の神話伝承でも理不尽に地上や仙境に堕とされた女神って結構出てくるんですよね……。

書きたかったのは香鈴の告白でなく、それを受け止める影月でした。
影月ならきっとこんなふうに受け止めてくれるかなと。