酒宴顛末記
(しゅえんてんまつき)




(――信じられませんわっ!)
 その言葉だけが州牧邸の広間を立ち去って以来、香鈴の頭の中で何度も繰り返されていた。

 叩きつけるように自室の扉を閉めて、飛び込むように臥台にうつぶせになる。
 だが、すぐに先ほどの記憶が蘇ってきて、恥ずかしさにじっとしていられない。
 仕方なく起き上がるといつになく乱暴に着物を脱ぎ去り、夜着に着替える。振り払うように強引に髪をほどくと、雑に櫛を通す。
 鏡に映った自分の顔すら正視できず、結局また香鈴は臥台に戻った。
 布団の中に潜り込むがそれだけでは頼りなくて、頭の上まで掛布を引き上げる。例え自室の空気に対してでも、自分の顔を晒す気にはなれなかった。

(明日から皆様と顔など合わせられない――)
 州官たちはまだいい。なるべく州城に足を踏み入れさえしなければ、そうそう会うこともない。問題は……同じ州牧邸に起居する燕青だ。
(元はといえば、燕青様が影月様にお酒をたくさん勧められたからですわっ!)
 実際に燕青が影月に酌をしたかどうかは問題ではない。だが、まわりが行き過ぎた行動に出た場合、止めるべきは燕青ではないか。
(きっと、面白がって勧められたのだわ)
 あながちそれは間違いでもない。女の勘、侮りがたし。

(そ、それにしても影月様――っ!)
 酔うと笑い出したり泣き出したりする者はいるらしい。
 無くて七癖、無くて酒癖。
 よりによって、あれはなんと言うのだろう。
(まだ二人だけの時でしたらよろしかったのに……)
 それならば、恥ずかしくても二人だけの間のこと。香鈴だとてそれならば受け入れられる。酔った上での振舞いでなければもっといい。
(何も、あんな大勢の前で――っ!)
 じっくり何人いたかなど数えてはいないが、燕青の他に数十人。数十人の前で自分は――!
 そうして香鈴の思考は舞い戻る。
(もうっ! 信じられませんわっ!)


 そんな風に布団をかぶって混乱した頭を抱えていた香鈴であったから、その音に気付くまで随分と時間がたっていたに違いない。
 小さく、扉を叩く音が続いていた。
 初めは何の音だかもわからなくて、自分には関係がないと思っていたのだが、音は確実に自室の扉から聞こえる。
 扉を叩く音だと気付くと、はっきりと確信した。
(影月様、ですわね)
 香鈴はそのまま無視を決め込んだ。
 自分は怒っているのだ。第一、もう夜も遅い。眠っていて気が付かなかったという言い訳だってたつ。
 だが、一度耳に付いた音を意識から締め出すことはできなかった。音はあたりを配慮するように小さく、だが一向に止む気配もなく続いている。
(非常識ですわっ!)
 さらに深く布団の中に潜り込んでみる。こうすれば、音は聞こえないはず。
 ところが、変わらず音が聞こえているような気がする。香鈴の耳に聞こえないはずの音が繰り返される。
 それが現実なのか幻聴なのかも判らなくなって、香鈴は掛布を跳ね除ける。
 音は――間違いなく続いていた。
 香鈴はため息をつくと、巾を身体に巻いて戸口へと向かった。




 扉を開けると、そこにはやはり思った通りの人物の姿があった。
「――何の御用ですの」
 自分の口から出た声が、信じられない程低い。
「香鈴さん! あのっ、僕、すみませんでしたっ!」
「もう遅いですわ。おやすみなさいませ」
 頭を下げる影月を冷ややかに眺めて香鈴は扉を閉める。
 だが、先ほどよりも強く扉を叩かれて、仕方なしにもう一度開けてみた。
「香鈴さん! 聞いてくださいっ!」
「……わたくし、もう休みますので失礼いたしますわ」
 再び扉を閉めようとしたが、香鈴がそうする前に影月が身体を割り込ませてきた。これでは扉を閉められない。
 影月は室内に入り込むと、後ろ手で扉を閉める。
 扉から手を離した香鈴はしばし考えた。自分の力では影月を追い出すことはできない。諦めて自主的に帰ってもらうしかない。
「おやすみなさいませ」
 香鈴はそれだけ言うと影月を振り返りもせずに臥台に戻った。


 先ほどと同じように、布団に潜り込んで掛布を引き上げる。
 影月の気配を感じる。おそらく、臥台の傍だ。
 だが、甘い態度など見せたりはしない。このまま無視し続けるのだ。
 香鈴は更に壁に向かって寝返りを打つ。手で耳も覆ってきつく目を閉じ、眠ろうとした。
 それなのに、眠りは訪れる気配もなく、かえって遠ざかっていくばかり。全身が耳となって、影月の気配を探っているからだ。
 もう諦めて今夜は帰って欲しい。今は影月の顔など見たくもない。見ればきっと、自分は嫌な言葉を投げつける。
(ですからどうぞ――!)
 香鈴は祈るように耳を押さえる手に力を入れた。
 沈黙だけが二人の間を流れていた――。




 ふいに、強引に掛布を引き剥がされたのは、どのくらいの時間が過ぎてからだったか。
 何事が起こったか理解できず、夜気に晒されて香鈴は震えた。
 耳をおさえていたはずの手も、強い力が引き剥がす。
「起きてらっしゃいますよね」
 香鈴は答えない。手を取り戻そうと力をこめているのだ。眠っていないことは影月には明白だろう。
 臥台の上に重みが加わり、かすかに香鈴の身体が沈む。耳元でためらいがちな声がした。
「本当にすみませんでした。でもせめて言い訳させて下さい」
 この状態では無視も続けられず、香鈴は渋々声を出す。
「……必要ございません。酔った御仁の言い訳など無駄ですもの」
 影月の振る舞いが酔いからきていることは香鈴だとて判っている。
 心神喪失状態? それが判っているのと許せるのとは別問題だ。
「確かに、僕が酔ってたのは間違いありません。酔ってたからっていうのは言い訳にならないのも判ってます。でも、なんとなく思い出したんです。どうしてあんなことしたのか!」
 香鈴にはもう答える気はなかった。次の影月の言葉を聞くまでは。
「その、僕を妓楼に連れて行くって言われるのを――」
「なんですって!?」
 影月に最後まで言わせず、香鈴は身体ごと向きを替えて叫んだ。
 何だその今の許しがたい単語は!
「そんな穢れた場所に行くおつもりだったのですわね! 最低ですわ! もうお顔だって見たくはありません!」
 あんまりではないかと、怒りと悲しみが急激に襲ってきて、知らず涙が滲む。
「ちがいます! 行きたくないって断ったんです!」
 必死の形相の影月の姿が視界に飛び込む。臥台の上に膝をついて、香鈴の片手を掴んだままの影月。
 ――近い。この体勢はあまりよろしくないのでは。
「でも皆さん、なかなか判ってくださらなくて! だから香鈴さん以外は嫌だって証明したかったんです!」
「それならそれで、いくらだって方法がございますでしょう!」
 叫ばれればこちらも叫んでしまう。
「そこまでは酔った頭じゃ無理だったんです!」
 顔を近づけて一生懸命に影月は言葉を続けている。
 ――近い。
 あまりの酒臭さに耐えられず、香鈴は顔を背ける。
「香鈴さん!」
 その行動を誤解したのか、影月は香鈴の頬に手をあて、自分の方に向かせようとする。
「……まだ酔ってらっしゃいますのね。どうぞお引取りくださいませ」
「許してもらえるまで戻りません!」
 香鈴は思い出す。影月は普段そうは感じさせないのだが、実はとてつもなく頑固なのだ。
 だからと言って香鈴が折れるのもおかしくはないか。なんと言っても香鈴に非はないのだから。
「許されるとお思いですの? あんな……っ! もう皆様に顔向けできないんですのよっ!」
 思い返すとまたいたたまれなくなって、香鈴の語気も激しくなる。
「見てた人なら悪いのは僕だって、判ってくれます!」
「それでもですわっ! 人前であんな姿を晒したことには変わりございませんのよ!」
「そのことでしたらいくらでも謝ります!」
「謝っていただいたところで皆様の記憶を消すことはできませんわっ!」
 さすがに影月は黙り込んだ。香鈴も黙り込む。先ほどまで怒鳴りあっていたのとは対照的な沈黙が場を支配した。


「……そうですね。僕には皆さんの記憶を消すなんてできません」
 ようやく口を開いた影月の言葉に、香鈴はひとつの可能性に気が付いた。
 影月にはできない。だが陽月にならばできるかもしれない――!
「影月様、あのっ!」
 もちろん怒っていた。今でもまだ恥ずかしくてしかたがない。それでも、たかだかこんなことくらいで影月を失いたいわけではない。
 香鈴は必死になって影月に呼びかけた。しかし。
「……だから。香鈴さんの記憶の方をどうにかします」
「え……?」
 問いかける前に唇が奪われた。大量の酒精まで送り込まれて、香鈴は気が遠くなりそうになった。
 唇が離された後もぼんやりとしていた香鈴の耳に、影月の声が届く。
「あれがいつ交わした口づけなのか判らないくらいにしちゃえばいいですよね」
 意味も理屈もなっていないと香鈴が反発する前に再び影月の唇が近づいた。抵抗する余裕もなかった。
 熱い息と絶え間なく動く舌とに翻弄され、香鈴は思考を放棄する。
 こうなってしまえば、どんな言葉も意味をなさない。
 唇が重なり、舌が絡まりあったまま、ゆっくりと二人の身体は臥台へと沈んでいった――。




 幾度かの口づけからようやく解放された香鈴は、深く息を吸い込んだ。深酒をしたのは自分のような気さえする。
(こんなことで誤魔化されはしませんのよ……)
 声に出さず香鈴は思うが、一度喪失の予感にかられてしまった後では怒りさえ萎んでしまっている。
 心地よい重みと共に、影月の頭が香鈴の唇から離れて滑り降りて行く。
(酔った勢いだなんて、最低ですわ……)
 そう思いもするのだが、流れとして不自然でもなく。香鈴は抵抗せずただ受け入れようと決めた。
 それなのに。
 香鈴の胸元に顔を埋めた影月は、それ以上動き出す様子がない。
「え、影月様……?」
 そっと呼びかけてみても答えはない。
 いや、答えはあった。
 規則正しい寝息という答えが――。
 現状を把握した香鈴は叫ばずにはいられなかった。
「信じられませんわっ! 何ですのっ! あんまりですわ影月様っ!」
 それでも、影月はまったく目覚める様子がなかったのだった――。


 翌日、影月が相手をするはめになったのは、前夜より更に機嫌をそこねた香鈴だったという――。

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『酒宴顛末記』(しゅえんてんまつき)

『燕青の茶州酒宴開催記』の続きになります。
サブタイトルを「そりゃないよ影月くん」というだけあって、
二重三重の意味で「そりゃないよ」な内容でございます……。
ええ。香鈴、怒って当然ですよね。
これ以上の説明はもう不要ですね……。