手巾騒動 (てぬぐいそうどう) |
事件が起こったのは秋の終わり。 一枚の手巾が、茶州州府を揺るがした――。 官服を纏った男がその手巾を見つけたのは、朝、登城の際。 視界にひらひらする物があり、好奇心にかられて、州城の庭の木の枝にかかったそれを手にする。 色は薄い黄色。砂色というよりたまご色に近い。素材は絹だろうか。 一見、なんの変哲もない手巾に見えた。 しかし。 何気なく手巾を開いて男はしばし固まり、やがて無言のまま自分の懐にしまってその場を立ち去った。 そのしばらく後。 同じ場所に別の男が走り寄った。 だが彼は何も見つけられぬまま、首を振って州城に戻っていった。 まだ、出仕時間には間がある、朝のことだった。 最初の男は自分の部署に辿り着くと、まだ同僚の来ないうちに懐から取り出した手巾を改めてまじまじと眺める。 「……やっぱり、まちがいない」 そうつぶやくと、考え込む表情で手巾を机案の引き出しに仕舞った。 上治四年――。もうすぐ、この年の終わりも近い。 秋祭りが終わり冬支度と年末年始に向けて、州府は変わらず忙しい。 その日の午前も終わりに近づいた頃、影月はふと回廊から窓の外を眺めた。昊は高く、風ばかりが強く、雲の流れが早い。 窓からの風は、冬の気配を感じさせられる冷たさだったが、急ぎの用で走り回っていた彼の額には汗がうっすら光る。 足を止めて汗を拭おうと、懐から手巾を取り出した影月は当の手巾を見て、ふっと微笑む。 「やっぱり、これで汗を拭くのって、ためらわれるよね」 結局、影月は汗を拭くのは後回しにして、そっと手巾を懐に戻し先を急いだ。 回廊の床に懐から零れた手巾が、ひらひらと落ちた。 燕青の姿は、今日も彼の師匠の南老師ほどではないが神出鬼没といった様子で、州城のあちこちで見かけられた。 州尹という重職にありながら、しかもかつては州牧であったというのに、彼は相変わらず自分の足で動きまわる。 むしろ、室で机案にかじりついて長時間過ごすことが苦痛のようだった。 その気になりさえすれば、机案仕事だとてこなせる力量はあるのにである。 そうして走り回ることで喉の渇きを覚えた燕青は、室で茶を飲むのももどかしく、直接外の井戸に向かって、水をくみ上げる。秋の午後ともなると水は一際冷たく感じられたが、井戸に添えつけられた湯呑に移し、一息で飲みきった。 濡れた手を拭くのに懐に入れた手に触れたのは、一枚の手巾。なんとはなしに苦笑しつつ広げて手を拭こうとしたが、その途端、突風によって軽い手巾はさらわれた。さしもの燕青の反射神経でも間に合わなかったくらいの、突然の出来事であった。 手巾はそのまま風に乗り、高く宙へと舞い上がる。 「まず……っ!」 燕青は一言吐き捨てると手巾の後を追った。 多忙を極めた勤務時間も終わりが近づいていた。 室々を官吏たちは足早に行きかい、多くの書類が他部署に、上司の下にと回された。 昊が茜色に染まる頃、ようやく自分の机案に戻った男は、ふいに今朝の出来事を思い出して引き出しを開く。 引き出しの中には複数の書類が重なる。 だが、手巾はどこにもなかった。 「なんだ? 探し物か?」 ついに、机案から引き出しを引き抜いてまで何かを探しているらしい男に、同僚が声をかける。 「この引き出しの中、今日、動かしたか?」 「あ、お前の引き出し? ……ああ。補佐宛の書類捜して持ってったぞ。お前、あれ今日中の提出だったから、焦ったのなんのって――」 同僚が言葉を終えないうちに男は室を飛び出して、まっすぐ州尹室に走った。 州尹室の前までは来たものの、男はそこでためらう。 もし、州尹室にあの手巾が紛れ込んでいたとしても、本来、彼の物ではないのだ。 「かーっ、まいったっ! 見つからねえっ」 いきなり背後で大声がして、後ろめたい男は飛び上がった。声は室の主、燕青だ。 「おっと、おどかしちまったか? すまない。ところで、俺になんか用か?」 「いえ、その、落し物を探していて……」 これなら間違いでもない。彼の、ではないというだけだ。 「お前もかよっ! 俺もさっきからずっと探してんだけど見つからないんだわ。な、お前、どっかで、こんくらいの手巾見てねえ? 黄色っぽい色してんだけど」 そこまで聞いた男の顔から血の気が引く。 「い、いいえ。その……っ、失礼しますっ」 挙動不審な男に、燕青は追い討ちをかけた。 「あ、お前のと一緒に、俺の手巾も係んとこ届いてないか聞いてきてくんない? 俺、もう少し探してから覗きに行くからさ!」 (え、燕青のだったのか?) 前々州牧の燕青は、その強さ既に伝説級である。 そんな男の物を自分の物だと主張できるほど、この男には度胸がなかった。 だが、燕青の物だとしても、頼まれてしまっては聞きに行くしかない。 落し物の保管は武官の管轄である。中には貴重品があることからそのようになっている。 青い顔のまま、男は武官の詰め所に向かった。 「なに? 貴様も落し物探しか? 物は何だ? 手巾?」 受け付けた武官は首を振る。 「今日は手巾落とすのがはやってんのか? ほら、あっちでも――」 武官の指した先には、影月がいた。 「それで、大きさはこれくらいで、色は黄色より薄くって。なんて言うか、たまご色っぽくて、刺繍がしてあるんですー」 別の武官に説明する影月の顔は真剣だった。 たまご色――。 (あれは、影月君のだったのか? 燕青のじゃないのか?) 男の頭は疑問で一杯になった。 「今のところ手巾の落し物は届いていないんですよ。もし届いたらすぐにお知らせしますから――」 元州牧であった影月には、文官も武官も概ね丁寧に接する。 彼が秀麗と共に茶州に赴任してくれたことももちろんだが、短い時間だったが州牧として成し遂げてくれた事への感謝は深い。 一文官である今も、影月は皆に愛され、可愛がられていた。 現在の州牧であり、名実共に偉大な代官である櫂瑜というこれ以上ない後見を得、幼くても主上より”花”を賜った彼だ。いずれはまた要職につくであろう。 その時、また彼の下で働きたいと思っている者も少なくはなかった。 だが文字通り可愛がられている影月と違って、信頼され愛されてはいても、燕青に対しては、皆こき下ろし、素直に感謝することはない。燕青の気安さとか、懐の広さがそうさせるのだとしても。 そうして男が影月を見て考えている所に、 「あーっ、やっぱりねえっ! こっちにはあったかっ!?」 と燕青が飛び込んで来、 「影月君、ここにいたのですね」 穏やかな声と共に櫂瑜もまた室に入ってきた。 「櫂州牧、すみません、あの……」 しょげる影月に、櫂瑜はいたずらっぽく笑った。 「影月君が探しているのは、これではありませんか?」 取り出されたのは、たまご色の手巾。広げられた四隅には、きれいな月の文様が刺繍されている。 「そ、それです! さっきから探してたんですっ」 「いけませんね。女性からの贈り物を落としたりしては」 「はい……」 うつむく影月と、気まずそうな燕青だった。 「あの――」 そこに、どう見ても官吏ではない、初老の男が顔を出した。 「落し物なんですけど、たぶん、燕青さんのなんで――」 「あーっ! 親父っ、なんで持ってんだよっ」 どうやら州城近辺の飯屋の店主らしい。 「さっき、うちでご飯食べていかれた南老師がね、『拾ったが燕青のなので届けてやってくれ』って――」 「お、お師匠ーっ。しかし俺のだってよく判ったなあ。そう、これこれ! なくしたなんて香鈴嬢ちゃんにどうあやまろうかって、ずっともう――っ」 たまご色の手巾。刺繍は、なぜか猪。しかも、猪には頬に十文字の傷がある。 (こりゃ、燕青のだ。まちがいない) 見ていた周りの者たちも納得する。 「ふ……皆、お揃いの布なのですよね。私もいただいたのです」 そうして、やはりたまご色の手巾が現れる。 刺繍の文様は、茶州州花の月彩花。華やかだが色目が抑えられており、品がいい。 「……何で、俺だけ猪!?」 苦悩する燕青をよそに、影月はまだ青い顔の男に声をかけてきた。 「じゃあ、あと見つかってないのは、あなたの手巾だけですよね?」 男には、もはや、自分の物だと主張する気はまったくなかった。 「いえ、実は私の物ではないのです。今朝拾ったのですが、そのまま忘れていたら、届ける前になくなってしまって――」 届ける気がなかったことを除けば、うそでもなかった。 「それってさー、もしかして、やっぱりこれと同じ色の?」 少し立ち直ったらしい燕青が問いかける。 「……はい」 「それならさ、俺んとこの室にあったのを、茗才が自分のだっつって持ってったぞ?」 聞いた途端、安堵のあまり男はため息をついた。 (め、茗才の物をがめるとこだったのか――っ! 未遂で良かった……) しかしひとつ気になったので、男は目の前の面々に尋ねた。 「その……州牧のも、影月君のも、燕青のも、茗才のも、全部、香鈴さんが――?」 「はい。秋祭りにいただきましたー」 「いくつになっても、女性からの贈り物は嬉しいものですねえ」 少し赤くなる影月と、ほくほくした顔の櫂瑜が答える。 「もらえたのは嬉しかったけど、何で、だから、俺のが猪なんだ――っ!」 燕青の叫びにまわりから失笑がこぼれる。 (ここはやはり、影月君に尋ねるべきだよな) 男は一瞬で判断すると、影月に向き直る。 「その――香鈴さんに、同じ物を作っていただけるよう頼んでもいいでしょうか?」 「えっ!? 何、お前、猪が欲しいの?」 「違います! 私が欲しいのは、茗才のと同じ――!」 言い終わる前に、燕青はたまたま前を歩いていたらしい茗才を室に引きずりこんだ。 「茗才、お前、いいところに! なあ、お前が香鈴嬢ちゃんからもらった手巾って、どんな柄なんだ?」 通りがかりの茗才は説明もなく引きずり込まれ、問いかけられたが、妙に得意げな顔で無言のまま懐から手巾を取り出した。 四枚目の、たまご色の手巾である。 「へ……っ!?」 「あ――っ!」 「うわあっ!」 たちまち、周囲から驚きと羨望の叫びがあがった。 「お、俺も欲しいぞっ!」 「自分も頼むっ」 「誰か、香鈴さん呼んでこいっ!」 噂が噂を呼んで、騒ぎはますます大きくなる。 「なあ、あれって……」 燕青が影月に訪ねた。 「はあ。香鈴さん、龍蓮さんにあげる分の試作品があったんだけど、たまたま会った茗才さんが、試作品でもいいからって、もらってくれたって、言ってましたー」 「茗才――!」 「ずるいぞっ、お前だけっ!」 四角の対角線上に、それぞれ秀麗と影月が縫いとられた手巾に、州城は揺れた。 茗才から手巾を借りてとっくりと眺めていた櫂瑜は、にこにこと笑う。 「これはまた、すばらしいですね。お二方の特徴をよくとらえていて」 「ちゃんと、姫さんと影月だって、わかるもんなー」 関心しながら燕青は、ひそかに、 (俺と龍蓮坊ちゃんとの間にさえ、”愛情の差”があんのかよ、香鈴嬢ちゃん――っ) と、悩んだ。 「刺繍をするのはかまいませんけれど、希望する皆様全員の分はとても作れませんわ」 誰かが州牧邸まで走って香鈴を連れてきたらしい。訳を聞いた香鈴は希望者の多さにさすがにため息をついた。 秀麗と影月が人気があるのは、ふたりが大好きな香鈴にとっても嬉しいことではあった。そして、これ程希望者が出たことで自分の刺繍の腕にも自信がついた。 「でも、このままじゃ州府、仕事になりませんよねー」 影月を悩ませるのは本意でない香鈴は、少し考えて申し出た。 「そうですわね。わたくしひとりではとても無理ですが図案を差し上げることはできます。わたくしがお教えいたしますから、皆様、ご一緒に刺繍をいたしましょう」 「それはいい考えですー」 影月はすぐに顔を輝かせたが、針など持ったこともない大多数の官吏たちは二の足を踏んだ。 「どう考えたって、嬢ちゃんひとりじゃ無理だろ? 国でたったひとつの、自分だけの”姫さんと影月の刺繍入り手巾”、欲しけりゃ自分らで作れ」 「いや、なかなか良い案です。ふふ。私も参加させていただきましょうか。紅官吏と影月君の手巾、よいですね」 燕青に、櫂瑜にこうまで言われて、誰もが引けなくなった。 そしてその夜から、香鈴による刺繍教室が始まった。 かくして、州城では大の男たちが針を片手に悪戦苦闘する姿が、そこかしこで見られるようになった。 慣れない作業に失敗も多く、刺繍糸が大量に売れたと商人は語る。 中にはコツを覚えた器用な者が、他人の分を有料で請け負ったりもするようになり――。 これが後に茶州名物土産となる『二州牧刺繍製品』の始まりだったという――。 |
『手巾騒動』(てぬぐいそうどう) これも、『金の衣―』の後日譚になります。 『歓びに笛はうたう』を受けた形になってます。 二州牧なんて、これまでもこれからも無いことですし、 珍しいし、よそにはないし、 ふたりの愛されようなら、皆欲しがるかもしれないし、 やがて名物になれば面白いかな…というのが最初の発想。 そのうち、『二州牧巾着』とか、二州牧グッズが色々出てくるわけです。 もしかしたら、煎餅や饅頭などに焼付けられたりもするかもしれませんね。 遠く離れた秀麗が聞いたら、 「肖像権の侵害よ!モデル料は年契約にしてよ!」 とか、…言いかねない気もしますが(苦笑) あと、初めから、「オチは茗才で」と思ってましたが、 やはり、下手にいじくるのが怖く、台詞なしで済ませました。 |