渡江旧春 とこうきゅうしゅん |
春は、南から江(かわ)を渡ってやって来ると言う。 水がわずかにぬるみ、吹く風が甘い香りを運ぶ。振り仰ぐ樹木は眠りから覚めて、やがて地上は懐かしくも慕わしい色を纏う――。 「そう言えば、貴陽の茶家本邸にも見事な桃の木がございましたのよ」 やわらかな春の日差しに目を細めて、香鈴は花盛りの桃の木が作り出す目の前の光景を見やる。その記憶はやさしいものなのだろう。ともすれば険しくなりがちな彼女の眼差しは、煙るように柔らかい。 影月もまた箸を止めて薄紅の花を眺める。うららかな日差しが二人へと花の影を淡く落としていた。 頃は春分。気候も穏かになり、花は次から次へと咲き競う。ここ、茶州琥lの州牧邸の庭院でも、厳しい寒さを乗り越えて力強く咲く花をいくつも楽しむことができた。 影月と香鈴は春の休日、桃の花が見頃となっているその庭院の南端にいた。 桃を眺めるのに丁度よい場所には、おあつらえ向きの石でできた机と長椅子があり、二人は並んで弁当を使っていた。 冬の間、温かくなったら遊山に出かけようと繰り返された約束。それならばこの季節、どこに出かけてもよさそうなものなのに、わざわざ庭院で過ごしているのには理由があった。 「申し訳ないのですけれど、次の休日にはどこにも外出しないでいただきたいのです」 櫂瑜からそう頼まれたのは、春分を目前にした頃だった。玄関脇に植えられた、瑞香(ずいこう)とも呼ばれて春を告げるという沈丁花が強い芳香を放ち、誘われるようにいざ遊山へと心が飛ぶ季節でもある。影月とて冬の間から夢見ていた恋人との花の下での散策を、実現したいと思っていた矢先だった。 「もう香鈴嬢とお約束でもされていましたか?」 「いえ、それはまだなんですけどー」 はっきりとした日付けで約束しているわけではなかったが、確かに次の休日あたりと考えてはいた。 普段であるならば、櫂瑜は影月が香鈴と出かけようとすると率先して後押しをしてくれる。影月がためらう暇もない程に先走ってくれることさえある。それなのに外出するなと言う。 「何か、その時でないといけないお仕事でもあるんですか?」 仕事となれば話は別だ。櫂瑜は厳しくも頼もしい師匠である。影月とて必死に櫂瑜の教えを吸収しているが、この経験豊富な達人の前では半人前以前を思い知らされてばかりだ。 「いいえ、そうではないのです。実はその日に貴陽から古い友人が訪ねて来てくれることになりましてね。その彼にどうしても君と香鈴嬢を紹介したいのですよ」 当然のことながら櫂瑜の人脈は広い。櫂瑜に指導を受けるようになって二年になるが、その間に影月に紹介された人物は軽く五十を超えるだろう。櫂瑜がその人脈すらも影月に引き継ごうとしているのは明らかだった。つまり今回も、影月が紹介されておくべき人材なのであろうと予想できた。 「わかりました。ではその日は州牧邸から出ないようにします」 影月の言葉に、老いを感じさせない師匠は、 「ではこの埋め合わせは必ずいたしますので」 と、穏かに微笑んで約束したのだった。 その約束の当日になり、州牧邸では朝から遠方の客を迎える準備で慌しい。ただし、 「あなたは今日はお休みなんですから」 と、香鈴はその支度に参加させてもらえないのだと朝食の席で不満気だった。その上、休日なのに影月と出かけることすら禁止されているのだから。 「いいのですよ。香鈴嬢には後で別のお願いがあるのですから」 櫂瑜がそう告げると、自分だけ仕事をしないことに後ろめたさを感じていたらしい香鈴の顔が明るくなる。 「それでは、わたくしにもできることがあるのですね!」 「ええ、香鈴嬢にしかできません」 香鈴へと優しく諭すように微笑する櫂瑜を見ながら影月は勘繰った。 (櫂瑜様、何かたくらんでいるんじゃ……) 櫂瑜を尊敬する気持ちは年月と共に深まるばかりだが、この老人がちょっとしたいたずらを好むこともまた、影月は嫌でも知らずには済まなかったのだ。 「まあそれは夕方近くのことになるかとは思いますが。 さて、自慢と言えば自慢ですが、うちの庭院は素晴らしいと思われませんか?」 会話を振られた影月は自然と食堂の窓から外を眺める。 庭師の芹敦が丹精しているだけあって、州牧邸の庭院は見事なものになっていた。視線の先では、雪柳が白い花を滝のように咲かせたその上に、紅白の椿が花開きかけている。ただの藪だった頃を知っているだけに、今の光景は仙術のようだ。 「ええ。すごく立派なお庭院だと思います」 影月の言葉に櫂瑜はうなずきながら言い募る。 「芹敦は本当に腕がよいですから。広さも花の種類も公園などにも負けていないですし、琥lでは現在もっとも優れているのではないかと思います」 茶家本邸の庭院の復旧が未だ途中であるからそれは事実だが、櫂瑜が導こうとしている流れを読もうと影月は注意深く耳をすませる。 「ところで本日ですが。影月君と香鈴嬢には、客人が到着するまで庭院にて春を満喫していて欲しいのです」 「はあっ!?」 それは仕事でもなんでもない。 「本当のところ申しますと、準備できるまで母屋に入っていただきたくないだけなのですが」 ただ客人を迎えるだけにしては大掛かりだが、何か趣向があるのだろうと予測するばかりだった。 それにしても。母屋に入るな、外出するなであれば、確かにいるところは庭院くらいしかない。 「はい、それでは行ってらっしゃい」 櫂瑜に促されて、食事を済ませた影月は香鈴と共に居間を後にしたが、振り返った彼が見たものは、ただ楽しそうな櫂瑜ばかりであった。 (お友達が来られるのが嬉しいんだろうな) 例えば。貴陽から秀麗や珀明が訪れるというのであれば、影月とて嬉しさを抑えられないだろう。同期たちとの手紙の遣り取りには、いつだって心が浮き立つ。龍蓮が唐突に現れるのもまた、影月には楽しい驚きだ。 長期間に渡って各州に赴任している櫂瑜であれば、十年単位の再会であるかもしれない。長く離れていても変わりのない友情は少し羨ましくもあり、そうありたいと願うばかりだ。 いつかは櫂瑜のように、久方ぶりの友人と旧交を温める日も来るのかもしれない。 まだ十五歳でしかない少年はそんな感慨を抱きながら青空の下へと踏み出す。振り仰ぐ樹木の葉だけが、夕べの雨の残した水滴をきらめかせている、上天気の午前だった。 「なんだか釈然といたしませんの」 文花に呼ばれて一旦退出した香鈴は、回廊で影月と落ち合うと真っ先にそう口にした。 「それは僕も同じですよ」 同意しつつ戸惑うままの香鈴の手を引いて、言われた通り影月は回廊から庭院へと出る。先月までの冬枯れした景色はどこに消えたのだろうかといぶかしみたくなるほど、そこは春の気配に満ち満ちていた。 州牧邸の敷地は琥lにおいて茶家本邸に次ぐ規模を持つ。長きに渡る放置の末にようやく本来の姿を取り戻した州牧邸の庭院は広く、そして趣向に富んでいる。築山の向こうに小川が流れ、池には魚が泳ぎ、傍らでは面白みのある岩が景観に強さを加え、点在する東屋はそれぞれ趣きを変えて佇む。雪柳の白、連翹の黄色、梅は紅(くれない)。辛夷(こぶし)は紫、木蓮は白。それらを引き立てる鮮やかに萌え出ずる緑の葉。どこを見ても一幅の絵画のようだ。無理に遠出せずとも春を楽しむのには十分すぎる場所だった。 天気も上々で隣を歩くのは大切なひととなれば、自然と陽気な気分になっていくのを止められない。 「最初、出かけちゃいけない、庭院にいろとか言われて少し残念だなあって思ってたんです。香鈴さんと出かけたかったですから。でも、お庭院は今すごくきれいで十分見ごたえもあって、じっくり見ないともったいないですし、何より……」 すっかり寛いだ気分になった影月は、繋いだ手の先にいる大切な少女に朗らかに微笑んだ。 「こうして香鈴さんとふたりでいられるのが何より嬉しいんだって、よくわかりましたー」 「わ、わたくし……」 香鈴の表情が強張った。影月はそんなに香鈴が遊山を楽しみにしていたのかと慌てて言葉を継ぐ。 「えーと、それじゃ次こそ香鈴さんの好きな所に行きましょう!」 けれど、香鈴はそれにも首を振った。 「あの、もしかして櫂瑜様のお願いを聞いて今日出かけるのをやめたこと、怒ってます?」 「ち、違うんですの! わ、わたくしだって影月様と二人で、二人だけでいられるんでしたらお庭院でもお室でも、例えどこにも出かけられなくても嬉しいって、そう言いたかっただけなんですの! だって……それだけで、その、幸せなんですもの……」 最後の方はそよ風にもさらわれて消えてしまいそうなくらい、小さな小さな声だった。影月の前では素直になるのが難しい香鈴の精一杯。顔を赤くしてうつむいてしまった香鈴を見下ろしながら、影月の心はこの上もなく満たされていく。 「ねえ、香鈴さん。僕が今、どれほど幸せかわかりますか?」 胸が温かい。どれほど言葉を尽くしても湧き出すこの幸福感は表現できそうになく、影月は繋いだ手にただ力を入れる。と、応えるようにそっと握り返されて、またも影月を多幸感に酔わせた。 「そうだ! 庭院の南側で桃が咲きはじめたって芹敦さんから聞いたんです。行きませんか?」 「それはぜひとも見たいですわ」 香鈴の同意を得た後、特に急ぐ必要もなかったために、のんびりと二人は南へと歩を進めた。 庭院は、めぐりやすいよう一部が石畳となっているが全部が全部そうではない。昨夜の雨が小道のあちこちに残っている。 「足元に気をつけてください。ぬかるみがありますし。石の上も滑りやすいですからー」 ひとりであるなら不注意で滑ってしまうかもしれないが、香鈴が一緒であるなら彼女を巻き添えにしないためにも、影月は慎重になる。 香鈴の手を引いて小川の飛び石を渡りきった後、少したたらを踏んだ香鈴を助けるために、繋いでいた手を離して咄嗟に肩を引き寄せた。と、香鈴から甘い香りが漂ってくる。そのまま抱きしめて耳に唇を寄せたのは本能だった。 「影月様?」 少女の肢体の抱き心地の良さに陶然としそうになって、慌てて身体を離す。まだ昼にもなっていない。そうそう人も入っては来ない庭先であろうと、褒められたことではなかった。 「こ、香鈴さんが転ばなくて安心したんです」 だが取り繕った方向がいけなかったらしい。 「わ、わたくし、それほど鈍くはありませんわよ!」 少しばかり気分を害したらしい香鈴が手を振り払って一人歩き出そうとするのを、 「そういう意味じゃないですよ」 とやんわり押し留めて、再び捉えた手を逃がさずに庭院の奥へと誘った。 あちらの花で足を止め、こちらの花を眺めに寄り道しと、二人の足取りはゆっくりしていた。繋いだ手だけは離されることなく、ようやく目的の場所にたどりついたのは昼も近い頃になっていた。 南側は陽あたりもよく、庭院のどこよりも多く花が咲き競っていた。 「香鈴さん、桃が咲いてます!」 十本ほどの桃の木が並ぶ様子は小さな桃園のようだ。大きく枝を広げた木々は花で飾られている。咲きほころぶ五弁の花は淡紅。萌え出す柔らかな葉が淡い緑を添えて瑞々しく華やかに若やいでいた。 「香鈴さんみたいにきれいですー」 影月が素直に思ったままを口にすると、たちまち上気する頬を押さえた佳人の姿もまた、花に負けることなく咲き誇って映った。 桃園を眺められる場所には、石製の小さな卓と長椅子が置かれており、風雪に摩滅した様子は長くこの場所にあったことを知らせている。二州牧としてこちらに移り住んだ頃にはきっと藪にでも埋まっていたのだろう。 「丁度いいですね。あそこで休みましょう」 「影月様、お弁当にいたしません? 文花様が持たせてくださいましたの」 「嬉しいです。ちょうどお腹もすいてきてたんです」 隣り合わせに座った香鈴が影月に渡さずに持ち続けていた包みを取り出した。重箱と小皿、茶が入っていると思われる竹筒、二客の湯のみなどが次々と現れる。 昭環の作ったものらしい弁当はさすがの一言で、文句のつけようのない見た目と味である。 「やっぱり昭環さんにはまだかないませんわ」 「そうでしょうか? 僕は香鈴さんが作ってくれるお菜の方が大好きですけど」 不意打ちに香鈴は箸でつまもうとしていた惣菜を取り落としたが、そんなことなどなかったかのように澄まして答えた。 「……次に二人でお出かけする時には、必ずわたくしが作りますわ」 「楽しみにしてますー」 そう。どんな名庖丁人の菜より、影月にとっては香鈴が自分のために作ってくれるものが最高の美味だというのは、もはや動かせない事実だった。 しばらく静かに二人は箸を動かしていたが、やがて目前の光景に記憶を揺さぶられたのであろう香鈴が、 「そう言えば、貴陽の茶家本邸にも見事な桃の木がございましたのよ」 と語りだした。 「桃の花びらを集めることに夢中になって、日が暮れたこともございましたわ」 小さな香鈴もまた愛らしかったであろうと、その横顔を眺めながら思いを馳せる。 丁度その頃なら影月は華眞と貧しくとも幸せな日々を送っていた。そのままであったなら重なることなどなかったであろう二人の軌跡。だがもしその昔に交差するようなことがあったとすれば、幼い香鈴は厭わず幼い影月と遊んだりしてくれただろうか。 桃の花びらを集める香鈴を手伝って。振り返れば二人を微笑んで見守る華眞と鴛洵の姿があって。――それは夢。あるはずのなかった夢。 「影月様?」 いぶかしげな視線に影月は苦笑する。 「会いたかったなあって思ったんです。小さな香鈴さんに」 「小さな影月様が、ですの?」 「小さな香鈴さんの思い出の中に僕もいたかったなって」 幼い香鈴の記憶の中にいるのがいつも鴛洵だけなのが実は少し面白くなかった。影月は話題を変えようと、恋人の話に掘り起こされた記憶を語り始める。 「桃と言えばですねえ、僕が六つくらいの頃、堂主様が患者さんから桃をひとつ貰ってこられたんです。もちろん実は二人で食べたんですけど、種をどうするかで悩みまして」 「種、ですの?」 「桃の種はお薬になりますから、それでお薬を作るか、それとも植えてみようかって」 種を漢方では桃仁(とうじん)と言う。主に痛みを軽減したり炎症を抑える目的で使われる。 「それでどうされましたの?」 「結局、お薬にするには一つでは少なすぎるんで堂寺の裏に植えたんです。三年たったら実が生るって聞いて、ずいぶん楽しみにしてたんですけど」 「育ちませんでしたの?」 「ひょろひょろでしたけど一応育って。三年後からは小さくても毎年実が生りはしたんですけど……」 影月は語りながら苦笑する。 「熟れるのを待ってそろそろという時になって、毎年山のお猿さんに先を越されてしまって、結局一つも食べられませんでした」 「それは……ひどいですわ、お猿さんたら!」」 まるで自分が被害に合ったかのように香鈴が怒ってくれたのが内心では嬉しかったものの、宥めるように影月は続きを語る。 「あ、でもお猿さんは種は残して行ってくれたんでそれでお薬は作れましたし、春になればお花も毎年見られて、堂主様も『きれいだね』って喜んでらしたし」 華眞と眺めた桃の木は。今こうして目の前にあるような立派なものではなく。花だとてその数は少なかったが、例えようもないほど優しい風景だった。 「きれいだねえ。しあわせだねえ影月」 心から嬉しげに笑う華眞に応えるように、幼い影月もまた笑って見上げた薄紅の花。 影月の追憶は、常ならば愛らしい声が沈んで低く響いたことで破られた。 「わ、わたくしより、堂主様がここにいらっしゃれればよろしかったんですわ……」 「どうしてそうなるんですか!?」 思い出話と現在を比べて、いきなり拗ねられた理由が影月には判らない。 「だって。影月様、とても幸せそうにお話されるんですもの。せっかくお隣にいますのに、わたくしのことなんてすっかりお忘れになっていらっしゃいましたもの」 理由を聞いてやれやれとも思うものの、それよりもこんな些細なことで拗ねてそっぽを向く香鈴が可愛くて、影月は彼女が納得できるよう説明に取り組んだ。 「堂主様と見た桃の花は。なんというか懐かしいようなあったかい花で。香鈴さんと今二人で見ている桃の花は。香鈴さんそのものみたいに眩しいくらいきれいで。全然違いますよ。それに――」 影月は言葉を切って香鈴に微笑みかける。 「僕がこうして思い出に浸れるのは、今が幸せだからです。そうして、僕の今の幸せの大部分は香鈴さんでできているんです」 手を伸ばして香鈴の小さな頭を自分の肩へと引き寄せる。日差しは温かいが、それよりも伝わる互いのぬくもりが心地よかった。それは心を解きほぐし、香鈴の小さな嫉妬さえ溶かしてみせたようだった。しばらくそのままの体勢で二人は寄り添って過ごしたが、やがて彼女は自分の荷物を引き寄せると、 「お猿さんに取られてしまった代わりですわ。今朝、ちょうど作ってみましたの」 いきなり手品のように香鈴が取り出してみせたのは、掌の上になら一挙に三つばかり乗ってしまいそうなくらい小さな、いくつかの桃饅頭だった。 「お出かけできないのなら、せめてお茶をご一緒する時に召し上がっていただこうと思って」 香鈴の心づくしが影月には何よりも嬉しく、自然に笑みがこぼれる。 「堂寺の桃はお猿さんにあげて正解でした。その代わりにこんな可愛らしいお饅頭がいただけますし」 すっかり機嫌を直した香鈴は、空になっていた重箱を片付け、湯のみに竹筒から茶を注いだ。 「影月様、お茶のお代わりをどうぞ」 差し出された茶を受け取ると花びらが一枚、湯のみの中に舞い落ちる。 「はい、こちらも」 皿に盛られた桃饅頭が改めて影月に差し出された。 「いただきますー」 影月が桃饅頭を一つ手にした途端、後ろから呆れたような声が響いた。 「なんか、ままごとみてえだなあ」 「燕青さん!」 現れると同時に影月の皿から饅頭をつまんで口に放り込んでいる長身の男を、香鈴は軽く睨みつけた。 「……州牧邸のお猿さんですわ」 「猿?」 「えーと、お猿さんの話をしていたんです」 影月は少し焦って言い繕うと、ついでにとばかり気になった単語を聞いてみることにした。 「ところで、さっき言ってらした“ままごと”って何ですか?」 「え? お前知らねーの? ってか、嬢ちゃんも?」 二人してこくこくと頷くと燕青は困ったように頬を掻いた。 「子供の遊びだよ。主に女の子がするんだけど、男も巻き添えにされたりして」 おどけたような作り声を燕青は出してみせた。 「『お父さんご飯をどうぞ』とか女の子が母親役やってさ、茶碗に花びらとか入れてご飯の代わりにして遊ぶんだ」 「花びらでは召し上がっていただけませんのに?」 香鈴が生真面目な表情で小首を傾げる。 「だから、ごっこ遊びなんだよ。誰かが言ってたけど、そうやって母親の真似することで将来に備えるんだとか」 「はあ……」 どちらも同年代の子供と遊んだ記憶のない二人は、不思議そうに燕青の話を聞くばかりだった。 「ですけれど、わたくしたちはごっこ遊びをしているわけではありませんのよ?」 「そういう風に見えるってこと」 燕青に悪気はないのだろうが、香鈴は気に入らなかったらしく少し眉を顰めている。自分たちはもう子供ではないし、だいたい本物の恋人同士だと言いたいのだろう。 「燕青さんもご一緒にどうですか?」 影月は苦笑してまだいくつも饅頭の残っている自分の皿を燕青の方に押しやった。 「遠慮しとくな。これ以上饅頭食ったら嬢ちゃんに恨まれそうだし。それに、桃の枝を切って来いって文花のおばちゃんに頼まれてんだ」 少し残念そうな顔をさっさと引っ込めて断ってみせた燕青は、腰に吊るしていた大きな枝切り鋏を手にした。 「あの、僕もお手伝いしましょうか?」 「お前に怪我させるわけにいかねーだろ? すぐ終わるからそのまま座ってろ」 確かに不器用な自分では迷惑を引き起こす可能性があまりにも高く、影月は申し訳なくなる。 「すみませんー」 「いいって、いいって。お前らは呼ばれるまでこのあたりでのんびりしてりゃいいんだ。まあ、もうちょっとの辛抱だろうな」 「辛抱って――楽しいですけど?」 心底不思議そうな影月の発言に、燕青は噴出す。 「俺の前で堂々と惚気んなっつーの」 「え、別にそんなつもりじゃ」 「ああ、ちゃんと判ってっから。櫂のじーちゃんには、ちゃんとお前らがいちゃいちゃしてましたって報告しといてやる」 「燕青さん!」 笑いながら手際よく何本かの枝を切り落として、また後でと燕青は手を振って立ち去っていった。 「ずいぶんたくさん切っていかれましたわね」 「そうですね。あんなにどうするんでしょうねえ」 燕青を見送っていた目をふと卓上にやると、取られて減ったはずの皿が元通りになっていた。思わず香鈴の顔を見つめる。出所は間違いなく香鈴の皿の上だったからだ。 「州牧邸のお猿さんに食べられた分ですの。もうっ! 今度こそ取られる前にさっさと召し上がってくださいませ!」 「ああ、えーと、ありがとうございますー」 ここで断れば今度こそ本気で香鈴を怒らせてしまいそうな予感にかられた影月は、ありがたく甘い菓子をたっぷりと味わった。 二人を庭師が呼びに来たのは、それからもうしばらく後のことだった。 「ああ、香鈴嬢。櫂瑜様からあなたに依頼されたお仕事があります。こちらにおいでなさい」 居間に近づくと家政頭の文花が待ち構えており、たちまち香鈴を連れ去ってしまった。 「影月君はこちらに」 開いた扉の向こうから手招きする櫂瑜に誘われて、影月は居間へと足を踏み入れた。 「もうお客さんは来られたんですか?」 「先ほど琥lに入ったと連絡がありましたので、もう少しでしょう」 居間は朝食を取った時からずいぶんと様変わりをしていた。家具などもずいぶん動かして入れ替えられ、先ほど燕青が切っていた桃の枝も大きな花瓶に生けられて存在を主張し、まるで庭から春が出張してきているようだ。 だが一番の変化は、朝にはなかった一枚の絵だった。 「あれ? 今朝まで絵なんて飾ってませんでしたよね?」 何かに導かれるように影月がその絵に近づくと、腕を腰に当ててやはり絵を見ていたらしい燕青が話しかけてくる。 「あったかい、いい絵だよな?」 「まさかあなたに絵がわかるとは思いませんでした」 影月が同意しようと口を開く前に鋭利な声がばっさりと切ってのけた。 「あれ? 彰さんいらっしゃったんですか?」 「ええ、先ほど。州牧に用がありまして」 桃の陰から柴彰は姿を現すと影月に会釈する。 「ひでえな、彰。俺だっていい絵かどうか見りゃわかんだよ」 「で、影月君はこの絵をどう思います?」 柴彰は涼しい顔で影月にだけ話しかけ、無視すんなーと背後で騒ぐ燕青を見ようともしない。だがこれでも柴彰が燕青を深く信頼しているのは、二人をよく知る者ならわかることだ。影月も少し笑いながら答えた。 「はい。なんか、ええとすごく懐かしいような気がします。あったかくて。それで、なんか好きです」 「気に入っていただけたようで良かったですよ。飾った甲斐がありました」 萌葱色の衣に身を包んだ州牧邸の主は穏かに微笑んで、もっとよく近づいて見ようとした影月に、思いも寄らぬことを訊ねてきた。 「影月君、君ならこの絵にいくらの値段をつけますか?」 絵画など、ここ数年ようやく目にするようになったばかり。友人の碧家の御曹司であれば適正価格もはじき出すであろうが、自分になど判るはずもない。 「いえ、僕はこういったものの値段なんかわかりませんし――」 教養が足りないことを告白しているようなものだが、今更取り繕うほどのこともない事実だった。 「参考までに、彰殿でしたら?」 「さて。かなりの名手の作なのは確かですね。落款は――」 柴彰は眼鏡を掛けなおして絵の下方に押された落款に目をやると、途端に表情を引き締めた。 「そうですね、私なら金五百は確実に」 「おや、そんな程度ですか?」 想定よりはるかな高額が“そんな程度”と言われるのに、影月は目を丸くした。その傍らで櫂瑜と柴彰の応酬は続く。 「しかもこの作品は実は連作で、もう一枚あるのですよ」 「それは本当ですか!?」 「製作時期は今から十年ほど前ですか」 「ふむ。ちょうど世間から姿を隠していたといわれる時期ですね。それはまた興味深い。その出来次第ですが連作で千は超えるでしょうね」 櫂瑜と柴彰の間の会話は影月と燕青すら取り残して続いていく。 「せ、せん、りょう!?」 その金額はたかだか絵画に出すには莫大なものに思えた。 (千両あればどれだけの間食べられるか!) 個人的には金銭感覚がまだ貧しい頃のままの呆然とする影月に、柴彰が説明を始める。 「作者は雅旬(がじゅん)です。名を聞いたことはありませんか? 当代一の彫物師として高名な人物ですが、絵の方もなかなかの腕で。 これが描かれたのが十年前ということは、彼が一時世間から姿を隠していた時期に重なります。元々、芸術家というものは個性的な人物が多いのですが、彼もまた例に洩れずで。 ですから、空白期の彼の作品というだけでも、これらはかなりの高値がつくことは間違いありません。しかもこれだけの水準の作品ですから、連作ともなれば金数千両は確実だと思いますね」 柴彰の説明をうなずきながら聞いていた櫂瑜だったが、更にとんでもないことを言い出した。 「妥当なところでしょうか。柴彰殿のような目の肥えた方や好事家が高値をつけるのは予想できます。しかし私が睨んだところ、彩雲国中でもっとも高値をつけるのは影月君だと思うのですよ」 呆然とする影月を尻目に、櫂瑜の発言は柴彰の興味を引いたらしい。彼の目が眼鏡ごしに光る。 「それはどのような理由で?」 「お判りになりませんか? やはりもう一枚もお見せしないといけませんね」 (櫂瑜様は一体なんだって僕がそんな値段をつけると思われたんだろう?) 咲き始めた桃の花を見上げる幼い少女の後姿が描かれた絵だった。風に舞う花びらを受け止めようと手を伸ばしている様子が見てとれる。きっと夢中になって花びらを追いかけるのだろうと、見る者の想像をかきたてる、そんな絵だった。 (きっと、時間を忘れて花びらを集めて。それでさっき燕青さんから聞いたみたいにごっこ遊びに使ったりするんだろうか) 思わず誰もが優しい気持ちになって眺めてしまう絵。それだけでも作者の力量が感じられはした。しかし、だからと言って個人で扱ったことのないような高値をつけてまで買いたいとは思えなかった。 櫂瑜は控えていた執事に目で合図を送り、もう一枚の絵が隣に飾られる。 煙る桃色を背景に、一枚目では後ろ姿だった少女が、満面の笑顔で大切そうに何かを閉じ込めたままの両手を差し出している絵だった。先ほどの絵が風景画に近いとすれば、これは肖像画に近い。 「これで理由はおわかりでしょう?」 「ああ、確かに」 納得し合う櫂瑜と柴彰の傍らで、影月は目を見開いて絵を凝視してしまっていた。 「こ、これってまさか――!?」 黒目勝ちの大きな瞳の愛らしい顔立ちは、あまりにも見知った面影を湛えている。 「さて、影月君の査定はいかほどですかな?」 実に、実に櫂瑜は楽しげに影月の反応を窺っていた。 「値段なんて、値段なんてつけられるわけないじゃないですか! そ、それに、絵よりも今の本物の方がいいに決まってますし!」 そうは言っても、影月は目を絵画から離すことができない。惹き付けられる、その瞳に。それがたとえ十年も前に、影月ではない誰かに向けられたものでも。 「この瞳の表現力の素晴らしさ、さすが名人は違う。三千までなら出してもいいですが所有者が櫂州牧なら入手は難しそうですね」 ふふふと含み笑いを洩らしただけの櫂瑜の様子は、三千両でも譲る気はないらしかった。その上、さらに影月を焚き付けてくる。 「さて、値段はつけられないと君は言いますが、これが誰かの手に渡ってしまってもかまいませんか?」 これまで存在すら知らなかった絵だ。誰が所有しようが関係ない――とは、正直思えなかった。 (きれいな絵だし、僕には値段なんかわからないけど、彰さんみたいに値打ちがあるって思う人もいるみたいだし、櫂瑜様が手放されてしまったら、知らない誰かが飾って眺めるんだろう。誰かが。“香鈴さん”を――) それは、たまらなく不快だった。本物でなくとも誰かに香鈴を所有されるのは耐えられなかった。だが、だからと言って値を付ける気にはなれない。それは香鈴に値段を付けるようなものではないか。 唇を噛み締めてうつむいてしまった影月の様子は、言葉を発しなくともあまりに雄弁で。そんな年少の後継者を眺める櫂瑜の眼差しは温かかったが、当の本人は気付くことはなかった。 「櫂瑜様、お客人がお見えです」 室内の微妙な雰囲気は待ち人がようやくに現れたことで破られた。 執事の尚大に導かれて入室してきた人物は、白髪の目立ちはじめた髪を小奇麗に結った壮年の男性だった。未だ旅装に身を包んでいたが、すっきりとした様子で疲れを感じさせない。旅慣れた人のようだという印象を影月は抱いた。 「やれやれ。やっとのお越しですか。待ちわびましたよ、旬(じゅん)」 親しげに近づく櫂瑜に旬と呼ばれた男は表情を和らげることなく片手を上げて簡単な挨拶を寄越し、活けられた花に近づく。 「玄関もだったが、ここもか。桃祭の最中か何かかね?」 「君の歓迎のために飾らせたのですが、気に入りませんでしたか?」 「いや、悪くない。桃は嫌いではないから」 相好を崩すと言動よりはるかに人好きのする風貌になった。 「あなたが桃を好きだと思い出しましたのでね。変わっていなくて嬉しいですよ」 「記憶力の良いことだ。貴殿の記憶力は女性に関してだけかと思っていたが」 櫂瑜は笑って軽く流す。だが否定はしなかった。 「ところで、皆を紹介させていただいてもよろしいですか?」 旬は初めて櫂瑜以外の人物がいることに気付いたように室内を見回した。 「随分と若いのばかりだな。しかも面白い程毛色が違う」 「個性的というのですよ、あなたと同じように」 台詞だけならば嫌味になりそうなものだが、二人の会話は心を許しあった者同士ならではのものだと伝わってくる。 「こちらが柴彰殿。元全商連のやり手でなかなかの才人ですよ」 櫂瑜は年の順に紹介を始めたらしく、柴彰も丁寧に会釈する。だがさすがに彼は抜け目がなかった。 「まだまだ若輩者です。――ところで、雅旬先生ご本人でいらっしゃいますか?」 年長の二人がおやっと言うように動きを止めた。 「おや、私はどこかで申しましたか?」 「お二人の話の流れ、そして私の中でかつて知った先生の情報が一致いたしましたので」 「なるほど。これは油断ならないな」 「そうでしょう。ええ確かに彼が雅旬です。――そしてこちらが浪燕青殿。かつての茶州の名州牧です。現在は私を補佐してくれています」 「ほう。鴛洵殿が打った奇策の一手か」 先ほどの絵を描いたのが彼本人ならば、茶鴛洵と知り合いで当然だろうと影月は気付いた。ということは――と考え込む影月が櫂瑜に呼ばれる。 「それから、杜影月君。私の愛弟子です」 「はじめまして」 影月は慌てて挨拶をする。 「噂の貴殿の後継者か。秀才と聞くがずいぶん若いな。この年寄りの相手では、振り回されてばかりいるんではないかね?」 「いえ、そんなことはありません。たくさん勉強させていただいてます」 影月の言葉に櫂瑜は嬉しそうに自慢してみせた。 「いい子でしょう? あなたと違って素直で」 「それは、いきなり人を貴陽から、都合も聞かずに呼び出すような人物の口から出ると、尚更不憫だな」 「私は先の短い年寄りですから、多少の無茶も許されるのではないかと思っているのですが。それに、あの絵のことはあなたにも断っておくべきかと」 櫂瑜が勺でもって示したのは、当然のように先ほどの二枚の絵だ。 「うーむ、懐かしい。たしか、鴛洵殿の依頼の品でなく、私が勝手に書いたのだからと屁理屈をこねて掻っ攫っていかれた記憶があるのだが?」 「ふふふ。何しろ一目で気に入ったものですから」 意外な櫂瑜の強引さに影月は目を瞠り、それからそういう所もあるかもと納得をしてしまう。 「そのくせ、わしの知らない人物に譲ってしまうと言うではないか」 金三千両でも譲るとは言わなかった櫂瑜が一体誰にと、影月の顔から血の気が引いた。 「私の生きている間は譲りませんよ。それに、あなたの知らない人物に譲るわけではありません。先ほど紹介いたしましたでしょう」 何もかもを承知したとでも言いたげな視線で櫂瑜は影月を見下ろす。 「値段をつけたとしたら、譲るのはやめようと思っていたのですよ。恋人の肖像に値段をつけるような、無粋な弟子は持った覚えがありませんから」 「櫂瑜様、それって……」 影月が問いただそうとするのを、扉の開く音と家政頭の文花の声が遮った。 「櫂瑜様、失礼いたします。お待たせを致しまして。支度が整いましてございます」 居間の扉が開かれてまず文花が。それに続いて香鈴が入室してくる。 惑いを宿した表情の香鈴がそこにいた。だが、その様子は先ほどまでとは違う。衿元と襦(腰までの短衣)は濃い桃色。ひらめく袖と重なる裙とは煙る白。帯と被帛はやわらかな萌葱色。 「桃の花みたいだ……」 思わずつぶやいた影月に、文花は拍手してみせた。 「正解です。本日の香鈴嬢の装いは桃を主題にしてみましたから」 仕女のお仕着せとも普段の私服とも違う。盛装ほどではないが、良家の子女にふさわしい良いものだと思われた。そうして着飾った香鈴は、まるでこういった衣装こそが本領とばかりに馴染んでいる。 少しばかり見とれた後、違う意味で影月は思わず香鈴を凝視した。もっとも、それは影月だけでなく、室にいた全員が香鈴を見つめていた。そして同じように背後の絵と見比べてしまう。 「な、なんですの!?」 室内の男たちの視線に香鈴の声が裏返って響く。だが誰よりも素早く行動したのは遠方よりの客人だった。 「小香姫(しょうこうき)、私を覚えているかな?」 「その呼ばれ方……」 記憶を確かめるように細められた香鈴の瞳は、すぐにも大きく見開かれた。 「確か、昔、鴛洵様のお客様の中にわたくしをそう呼んでくださった方が……。旬、先生?」 「そうだ。覚えていてくれたようで嬉しいね」 彫刻家は先ほどまでとはうって変わったように優しい表情を浮かべ、香鈴も甘えたような視線を向けている。 「わたくしをお膝に乗せて、いろんな絵を描いてくださったり、小さな動物を彫ってくださいましたわね?」 その香鈴の言葉に反応したのは柴彰だ。 「香鈴嬢! その絵や彫物は今……!?」 「まだ貴陽の茶家本邸に残っていると思いますわ」 「では貴陽に戻られた折、譲っていただくわけにまいりませんか?」 商売人の性分が色濃く残る青年の提案は、作者本人によってあっさりと拒否されてしまった。 「これ、商人。野暮なことを言うでないぞ。あれは私が小香姫が可愛くて贈ったものなのだ。この絵同様、人に譲られてはかなわん」 「失礼をいたしました。時に、今は何か依頼など受けていらっしゃいますか?」 「ここにいる年寄りに先約がな」 「それはそれは。では是非、その後にでもお話を。今日のところは失礼いたします。お会いできてまことに幸運でした」 皆に挨拶をして柴彰が退出し、燕青も何やら告げて姿を消した後の室では、香鈴が無邪気に話しかけているのが聞こえた。 「旬先生、それではしばらくこちらに滞在されますの? 嬉しいですわ」 「ええ。櫂瑜殿から美しく成長したあなたを描いてみたくないかと言われましてね」 「まあ……!」 櫂瑜が香鈴に衣装を用意した意味はここにあったのかと影月は合点する。同時に、これから描かれる絵がきっと素晴らしい出来であるだろうことも。しかし、絵が完成し雅旬が立ち去るその日まで、自分の入り込めない共通の話題で盛り上がるであろう二人を、複雑な気分で眺めることになるだろうとも確信したのだった。 櫂瑜と雅旬が何やら打ち合わせはじめたようなので、影月は懐かしそうに絵を眺めている香鈴の隣に並んだ。 「今日、聞いたばかりの小さい香鈴さんですね」 「ええ。絵を描かれたことなんて忘れておりましたわ」 過去と現在の香鈴を同時に視界におさめる贅沢に影月は気付く。 「その衣装、すごく香鈴さんに似合ってますね。見られて嬉しいですー」 「こ、これは櫂瑜様のご指示で、文花様が仕立ててくださったものなのですって」 おそらく、櫂瑜ははじめから香鈴の肖像画のために衣装を用意したのだろう。 櫂瑜の見立ては確かだ。州牧の特技のひとつに、顔を合わせた女性すべてにふさわしいものを選べるというものがある。それは実際すごいことだとただ感心するしかないのだが、いくら自分が女性の衣類は門外漢としても、せめて香鈴に似合うものくらい選べるようになりたいと思わないわけでもない。 だが、自分は櫂瑜の弟子という恵まれた環境にいる。そう、いつかはきっと――。 「さすがに疲れたな」 「少し室で休んではいかがです? 夕飯まではまだだいぶありますし」 長旅を終えた人物もその言葉には頷き、それではと扉の外へと促しかけた櫂瑜が気付いたように振り返った。 「影月君、香鈴嬢。それでは夕飯までは好きにしていらっしゃい」 こうして二人きりで取り残されたのだが、影月は香鈴に提案を持ちかけた。 「ねえ、もう一度さっきの桃を見に行きませんか? 今の香鈴さんを桃の木の下で見たいんです」 居間の絵の中では今もまだ、幼い少女が大きな瞳を見開いて、舞い散る桃の花びらを受け止めようとしているのだろう。懐かしい春の光景。実際に見たはずもない光景が、影月の中で動き始める。幼い少女はようやっと捕まえた花びらをそっと両手に閉じ込めて、誰かの名を呼びながらその膝元へと駆けていく。その名はきっと…… 視線を転じれば満開の桃の下、先ほどの少女が成長して麗しい乙女となって、やはり花びらを手に受けようとしていた。 「影月様!」 彼女が満面の笑みを浮かべて駆け寄って来る。閉じていた両手を広げて掌に載せた花びらを差し出して来た。その中には花弁をそろえた花の姿を残しているものもあり、影月はそっと指でつまみ上げる。 「僕の名前を、呼んでくれましたね」 おそらくは絵の中の少女が呼んだ名とは違う。乙女は首を傾げて見上げる。 「影月様でなければ、どなたのお名前を呼べばよろしいんですの?」 「――僕の名前がいいです。僕を、呼んでください。他の誰でもなく、この唇で――」 春は南の江(かわ)を渡ってやってくるという。遠い日の春が、今届いた。 知らなかった、知り合う前のまだ幼い香鈴の面影は、目の前の愛しい乙女の中に確かに見て取れる。見間違えることなどない、深い愛情を湛えて見上げてくる。 影月は恋人の髪に薄紅の花を飾ると、花の色を移したような頬に手を伸ばしてゆっくりと唇を寄せていった――。 「ふーむ。小香姫がこちらの予想以上に美しく育ってくれたのは嬉しいが、こんなにも早く男に持っていかれるとは少し面白くないな」 母屋の二階にある櫂瑜の居室に座を移して、二人の年嵩の男が大きく開け放たれた窓辺で杯を酌み交わしていた。見下ろすずっと先には霞のような桃色が見てとれた。 その職業柄か、雅旬は他者の心の機微に聡い。 「旬、まあそう言わずに一献。影月君を知れば他の男に取られる何倍もよいと思うようになりますよ」 「櫂瑜殿、それは貴殿が愛弟子に甘いからではないかね?」 注がれた酒の上に、遠くから風にさらわれてきたらしい桃の花びらが舞い落ちる。 「弟子という贔屓目を除いても、屈指の若者だと思っていますが」 「貴殿がそこまで見込まれたならあるいは……。いや、やはり気に食わん。小香姫があ奴の前で一番よい顔をするのが面白くない」 櫂瑜は思わず噴出しかけて優雅に口元を拭いつつ、年下の友人をからかうのは忘れなかった。 「そう言えば、昔も君は香鈴嬢が鴛洵の前で一番よい顔をすると拗ねていましたっけ」 「鴛洵と同じ匂いのする男を選ばずともよいはずではないか」 「それが好みというものではないですかねえ」 「女の好みが無節操な男に言われてもな」 涼しげな顔で櫂瑜は反撃する。まだまだ彼の方が上手だ。 「私の趣味は理解してもらえていないようですね。もっとも、近頃の君が美貌の主のために奇妙な仮面をせっせと作っていることの方が理解に苦しみます」 「あれは不可抗力と言うのだ! わしはパンダやミカンやミナミボラボラ鳥の仮面を作るために彫刻家を目指したわけではないぞ!」 穏かに笑みを浮かべ自分の勝利を内心で確信しながら、櫂瑜は旧友の杯を満たす。 「では恋する乙女の表情をしっかり堪能してお帰りなさい。きっとこれからの君の作品にもよい影響を与えるでしょう。君の表現力に期待していますからね」 杯の中の花びらをゆすりながら櫂瑜の唇から満足の吐息が洩れた。。 「まさに、うら若き乙女は桃の花のようですね。愛らしく、かつなまめかしくさえある」 「貴殿が言うと不純に聞こえるのは気のせいか」 「なんとでも。ですが、やはり花盛りの桃花に惹かれぬ男などはおりませんでしょう」 そうして櫂瑜は窓の遠くで寄り添っているであろう小さな恋人たちに思いを馳せる。今を盛りと咲き誇る乙女と、その乙女と心を通わす少年を。 「重畳、重畳」 その実は邪気を祓い瑞祥を招き寄せるという。 桃紅復含宿雨 柳緑更帯春煙 春は爛漫、花は紅(くれない)。若者たちは野に遊び、恋を深める時を楽しむばかりだった――。 |
『渡江旧春』(とこうきゅうしゅん) 春の花と言えば中国では桃。 大好きな桃の花。 「桃夭」という古い詩にもあるように、若い女性の象徴でもあります。 雅旬は、原作に出てきた彫物師です。黄尚書の仮面の作者。 勝手にキャラクター作ってしまい、絵まで描いてもらいました。 「渡江旧春」っていうのは私の造語のようなものです。 文字通りの意味で「懐かしい昔の春がやってきた」くらいで考えています。 この話のキーワードは「幼い香鈴の肖像画」と「桃の花」。 最初は影月が駆けずり回るドタバタ、次に影香のほのぼの郊外デートを それぞれ前半に配置して失敗。 三度目の正直でなんとか後半と呼応する形でまとまってはくれたようです。 最後に持ってきたのは王維の「田園楽 其六」の前半分。 色彩が目に見えるように美しくて好きなのです。 王維は画家でもあったそうですが。 なので雨上がりの春の日の設定に決定。 詩は、 桃紅復含宿雨 柳緑更帯春煙 花落家僮未掃 鶯啼山客猶眠 と続きます。 後半になると話が変わってしまうので使えませんが、 春眠を楽しんで寝ている描写は共感しまくりです。 読んでくださった方が春を感じてくださったら幸いです。 |