烏羽玉の至宝 (うばたまのしほう) |
艶(つや)やかに艶(あで)やかに。 流れ落ちるは至上の宝――。 趣向やこだわりは人それぞれだ。万人が納得するものもあれば、誰もが首を傾げるものもある。更には嫌悪に眉をひそめられるものさえ存在するのだ。 上治六年の早春に琥lを騒がせた事件の場合、それは確実に後者であった――。 「梓(し)家の娘が昨夜通り魔に会ったらしい」 その第一報は州牧邸での夕食時、燕青の口から告げられた。 「なんという嘆かわしいことでしょう。それで、そのお嬢さんはご無事ですか?」 「一応無事というか……怪我はないんだが」 櫂瑜の問いを否定しながらも燕青はいささか歯切れが悪い。どうしたことだと見守る視線にうながされると、手刀で自らの肩のあたりを切るような仕草を見せた。 「髪をな、こうバッサリやられたらしい」 「それは……。でも命に別状なくて良かったですね」 怪我もなかったようなのを幸いと受け取った影月を、直ぐさま櫂瑜が窘める。 「影月君、それは大きな間違いです。女性にとって髪を切られるというのは大変深く心を傷付けられることなのですよ」 「その娘は三月後に嫁入りが決まってんだ。先方から断られねえといいんだが」 燕青が櫂瑜の言葉の実際面を裏付けたので、影月はそれほど深刻なことだったのかと目を見開いた。 「そんな! 彼女のせいじゃないのにですか!?」 「それほどの大事なのですよ」 この時代、男女共に短髪であることはない。男性ですら髪を結うのが普通であるし、女性ともなればその豊かさをこそ誇るように長く伸ばし大きく結い上げるものだ。 「婚約者なら大切な人が無事だったことをまず喜んで、慰めるものじゃないですか。どうして破談なんて話が出るんですか!?」 「悲しむべきことですが、それが世間というものなのです」 相手が世間体を気にするならば、通り魔に合った時点で縁談をなかったことにするだろう。周囲は被害が髪だけで終わったとは見ないものだからだ。ましてや女性の象徴ですらある髪を失った、見苦しい様の娘を花嫁として迎えるのは体裁が悪いと感じるだろう。 だがこの場にいる者たちは皆、心情的に梓家の娘の味方だった。特に、 「許せませんわ! 髪は女の命ですのに!」 まるで自分のことのように受け止めたのだろう。同じ女性である香鈴の目は怒りと痛みに潤んでいた。自分の髪に触れているのは無意識だろうか。 「わたくし、その方のお力になってさしあげたいですわ。被害がどの程度なのかを見て、髪型でごまかせるならば工夫をし、無理なら付け毛やかつらを用意いたします。絶対、破談になんてさせませんの!」 「ぜひ、そうしてさし上げてください」 女性を内外から美しくするよう指導する“美女宮”を営む香鈴は、ツテと技術を普通の女性よりも多く持っている。きっと梓家の娘の心強い味方になることだろう。それを良く知る櫂瑜は心から賛同した。か弱い女性のこの不幸は老齢の州牧の胸をも痛めていたのだ。 「ですがそういう危険な人物が捕まらずにいることを忘れてはなりません。香鈴嬢も用心を怠たらぬようにしてください」 影月は勿論のこと、燕青も頷いている。香鈴もまた素直に注意する旨を述べたのだった。 だが被害は一件では終わらなかった。この同じ月のうちに三名もの女性が更に被害に合ったのだ。いずれも自慢の髪を切られて奪われている為に同一犯と見られている。梓家の娘は香鈴の尽力もあり破談にされることなく済んだが、被害に合った娘の一人はそれが原因で恋人を失ったという。 俄然事件への注目度は高まり、単なる通り魔ではなく「髪切魔」と呼ばれて多くの武官を配して犯人を追っているが、未だ手掛かりすらない状態が続いていた。 四人目の災難をやはり夕食の席で聞かされた香鈴は、食堂の鏡に写った自分の姿に視線を走らせると、上座の櫂瑜へと問いかける。 「櫂瑜様、わたくしの髪もそれほど悪くはございませんわよね?」 「勿論です。香鈴嬢の髪はまさに烏の濡れ羽色。大変に美しいですよ」 香鈴の髪は黒々として艶があり、その髪が賞賛を受けたことも一度や二度ではない。それを更に女性美に関して一家言ある櫂瑜に強く保証された香鈴は、自信を持って躊躇いなく言い放った。 「わたくしが囮になりますわ」 香鈴の発言に食堂は静まり返り、次の瞬間、 「駄目です!」 「とんでもないことです!」 「冗談じゃねえ!」 一斉に否定の言葉をぶつけられ、さしもの香鈴も怯んだ。だがすぐに反論してくる。 「不幸な女性が増えていくのを見過ごすことなどできませんもの! このまま放ってもおけませんでしょう? わたくしなら皆様も手配などもしやすいと思われますし」 「だからって、香鈴さんが危ない目にあう必要もありません!」 向かい合って座る影月からは、賛成する気が一切ないという決意が強く漂っていた。 「そうそう。囮なら若手の武官にでもかつら被せるって話がもう出てるから」 概ね武官になるのは恵まれた体格の男性が大多数だ。容姿に関しても静蘭などは例外中の例外である。想像してみた香鈴はあまりの似合わなさに眉をひそめた。 「それって……囮になりますの?」 「暗けりゃごまかせるんじゃね? ……たぶん。 少なくともだ、武道の心得もない素人に囮任すなんて博打は打てねえ。相手がどんな奴かも分かってないからな。いざとなれば襲われた囮役一人ででも立ち向かえないと困る」 暗に自分の身も守れない香鈴には無理だと告げる燕青は正しい。それ以上何も言えなくなってしまった香鈴に櫂瑜は優しく言い聞かせた。 「髪切魔を捕らえるのに武官たちには全力を尽くさせますし、文官も協力を惜しみません。ですが香鈴嬢が梓家のお嬢さんにしてさしあげたようなことは我々無骨な男には向きません。事件のお手伝いをしてくださるならば、被害者の皆様のためにこそ尽力していただけませんか」 「それは、もちろんいたしますわ。他の三名の方同様、今回被害に合われた元(げん)家の方もさっそく“美女宮”にお招きする手配をいたします」 まだ最初の犠牲者である梓家の娘しか他者の目に触れてもよいような状態にはなっていない。より自然に見えるような付け毛はそう簡単に用意できないのだ。 「香鈴さんにしかできないことです。僕からもお願いします」 危ないことはしてくれるなと、影月の瞳は語っていた。 「影月君、以前から思ってはいたのですが。今後、香鈴嬢が外出の際には必ず誰かを連れるよう説得してください。暁明と慶雲にも命じておきますので」 一足先に食堂から香鈴が辞去した後、それに続こうとしていた影月を櫂瑜が引き止めた。名を出された二名は櫂瑜の護衛を引き受けている武人だ。 「え、それって……?」 「髪切魔以外への対策も兼ねてです」 腕を組んだ燕青もしきりと頷いている。 「ああ、俺も思ってた。最近の嬢ちゃんは色々危ないってな」 「近頃の香鈴嬢は眩しいばかりですから」 この場で理解していないのは影月ひとりのようである。燕青が苦笑しながら説明を買って出てくれた。 「おまえの功績なんだろうが、今の嬢ちゃんには男なら無視できねーもんがある。べっぴんなのは前からだが、どうにも硬くて誰もが惹かれるというわけじゃなかった。でも最近はお前に引きずられてか雰囲気も丸くなってきてるし、何より色気が出てきたっての? 無駄に岡惚れしてる野郎もそこそこいるって話も聞くが、まあ無理もねえだろう」 影月にとっては最初から香鈴は魅力的に映った。だが燕青が言わんとしていることも何となくわかる。年々香鈴の美しさに磨きがかかり、色香が漂うと思っていたのはどうやら影月ひとりではなかったらしい。 ただ少しばかり綺麗なだけでは、人はそれほど注目はしないものだ。男をはっとさせるものが香鈴に現れてきたということだろう。 「後宮のねーちゃんたち仕込みかもしれんが、嬢ちゃんは言い寄る野郎共は軽くあしらってはいるんだが」 「中には諦めの悪い人物とているかもしれませんし」 「そうそう。単純馬鹿ほど相手にされないと頭に血が上って短絡行動しかねないからな」 「一刻も早く用心するに越したことはないと思うのですよ」 年長のふたりから畳み掛けるように告げられる意味が頭に浸透していくにつれ、影月の顔色はどんどん青くなっていく。それはつまり、力づくでモノにしようとする輩を警戒せねばならないということだ。 「わかりました。絶対、説得してみせます!」 危機感にかられた影月はそのまま走って食堂を後にした。 「香鈴さん」 影月は自室へと引き上げようとしていた香鈴にかろうじて扉の前で追いつくと呼びかけた。 「どうなさいましたの?」 「少しお話があるんですけど」 首を傾げながらも香鈴は自室の扉を開いて影月を招き入れる。 「どうぞ」 椅子を勧められるが首を振ってそのまま閉じた扉にもたれたままでいる影月の様子に、香鈴が傍まで戻ってくる。 影月は言葉を捜し始めた。香鈴を納得させるのはきっと難しい。だが他の人に言ってもらったのでは意味がないのだ。影月は唇を湿らせてから口を開いた。 「これは……櫂瑜様と燕青さん、それに僕からの総意として聞いてください」 「囮になるなんてもう申しませんわ!」 先ほど全員から即座に否定されたばかりだからか、香鈴は拗ねたように視線を逸らす。 「そっちじゃなくて。今後ひとりでの外出は控えて欲しいんです。必ず誰かと。たぶん暁明さんか慶雲さんがついて行ってくれるはずです」 やはり香鈴には気に食わない話だったらしい。形よく整えた眉を顰めている。 「……わたくしは随分と信用がないんですのね」 「そういう意味じゃありません。髪切魔のことだけじゃなくて」 影月は香鈴の頬に手を添えて視線を上げさせた。 「僕の目から見ただけじゃなく、あなたは誰から見ても綺麗なんですから。だからたくさん注意が必要なんです」 親指の腹で軽く撫でる頬は柔らかく、影月の指に吸い付いてくる。 「他の方にどう写っても関係ございませんの!」 「香鈴さんがそう思っていても。あなたに恋した男に通用はしませんよ」 こんなにも香鈴の存在は目に心地よい。触れるとその肌は影月の思考を溶かす。その両方をこれだけ近くで堪能できるのは恋人の特権だが、その特権を欲しがる存在は遠ざけるに越したことはない。 「ですけれど、外出するのにいちいち監視付きだなんて」 「監視じゃなくて護衛です」 「同じことですわ!」 「違います。あなたは魅力的で……同時に非力な女性です。僕みたいに武道の心得がなくたって、ほら」 退路を断って香鈴を戸口に近い壁に押し付けてみせる。 「こんなに簡単に動きを封じることができる。体格がよかったり力が強ければもっと簡単でしょうね。手段を選ばずにあなたに手を出すだけなら」 肩から離した両手を壁につくと、丁度香鈴を閉じ込める形になる。もう香鈴が逃げ出すことはできない。 「そ、そんな方の心当たりはございませんわ!」 「気がついた時に、そうなってからでは遅いんです。だから護衛の件を了承してください」 「そんな『かもしれない』あやふやな理由で不自由を強いられるなんて我慢できませんの!」 「香鈴さん」 影月の声はいっそ静かなものだった。だがそこに逆らえぬものを感じて香鈴ははっと身をすくませる。 「受け入れてくれなければ、州牧邸から一切の外出は禁止します」 「横暴ですわ!」 「本音を言うと外出禁止どころか、どこかに閉じ込めてしまいたいんですよ」 先ほどの年長者たちからの忠告は影月を焦らせるに十分だった。櫂瑜も燕青も、香鈴を恋愛対象としては見てもいない。それなのに彼らにすら危惧されるということは、どれだけ香鈴が男の心を騒がせる存在であるかと突きつけてきたのだ。 「本当に……閉じ込めてしまいたい。僕以外の男の目に触れないように」 香鈴を壁に縫いとめた影月は、目を細めてわずかな距離を更に詰める。 「あなたを、こうしたいと思うのが僕だけなら、そんなこと考えなくてもいいのに」 「え、影月様……」 おののく香鈴の頤を掴んで顔を上げさせると、影月は耳に触れそうなくらい口を近づけて囁く。その声はかすれて低い。 「あなたが僕以外の男にこんなふうに汚されるとしたら、僕がそれを許せると思いますか?」 首筋を指が這う感触に香鈴が震える。 「えいげ……」 名を呼ぼうとした紅く濡れる唇を塞ぎ、その口中を貪る。呼吸さえ許さぬように何度も唇を重ね、徐々に身体の力を失っていく香鈴をしっかりと抱え込む。ついに膝を折ってしまった乙女に合わせるように自らも膝をついて、前にと垂らされた長い髪を指に絡ませ唇まで引き寄せた。 「あなたにあなたらしくあって欲しい。だけどあなたを自由にしたくもない」 もしも影月が香鈴の外出を一切禁止するよう申し立てたとすれば。櫂瑜と燕青は眉をひそめ、危ぶむような表情を浮かべながらそれでも了承するだろう。場合が場合だからだ。だが一旦そうしてしまったら、影月は犯人が捕まったとしても香鈴を外に出すことを二度と許せまい。 「あなたを守りたい。それは嘘じゃない。だけど」 引き寄せた髪に頬を寄せてなおも影月は言い募る。 「……例え何もなくとも。僕だけのものにしておきたいから」 香鈴の髪から簪を引き抜いて床にと落とす。まとめられていた髪は重みを持って香鈴の肩に、背へと流れる。雲鬢(うんびん)、その豊かな香気溢れる髪ごと香鈴を抱きしめて肩に顔を埋める。 「もし香鈴さんが僕のものでいてくれる気なら、どうか言うことを聞いてください。そうでないと僕は、常軌を逸した方法さえ選んでしまいそうなんです」 そう。一番怖ろしいのは通り魔などではない。恋のために正気を失い暴走しそうな己の中の狂気なのだ。香鈴を抱きしめる腕が震えたのはその恐怖のため。 「影月様……」 躊躇いを含みながらも腕の中の香鈴はようやく小さく頷いたのだった。 「ここ数年の記録を漁ってたんですが、どうやら琥lに髪切魔が出るのは初めてじゃないみたいです」 州尹室で卓子を並べる燕青に影月が話を振ったのは、五日後の午後のことだった。 「だが、俺には覚えがないぞ?」 過去に十年の州牧経験のある燕青は琥lの事情に誰より詳しい。額を抑えて記憶を辿っている燕青に向かって影月は肩をすくめた。燕青とてすべてを網羅することはできないのだ。 「今回のように頻繁ではなかったこと、そして琥lの治安がそれどころではなかったので目立たなかったようです。命に別状がなかったのも大きいでしょうね。実際、正式な届け出があったのは今年になってからですし」 それだけ茶州の、琥lの治安が良くなってきたということなのだろう。 「だから燕青さんや悠舜さんのところまで報告もなかったでしょう。以前は一年に数度あるかないかで頻度も低かったようですし」 「で? おまえはどこの記録を調べたんだ?」 「各区長の覚書です。まったく話題にも上らなかったとは考えられませんでしたから」 影月は借り受けた紙束の山に手を置く。この手の書類は州城に届くものよりも住人の声が直接感じられる貴重な資料でもあるので、余裕がある時には目を通しておくようにと櫂瑜から指摘されたもののひとつだ。以前にも目を通したことがあったので、なんとはなしに記憶に残っていたらしく、今回の事件の手がかりになるかと改めて借り出したのだった。 「始まったのはいつ頃だ?」 「一番古い記録は五年前ですね。そうそう、今年に入っての被害者全員とかつての被害者の方二名にお会いしてみました」 「それで? 何か気付いたことはあるか?」 目を閉じて書付の内容と面会の様子を思い出す。 「犯人はやはり同一人物ではないかと思います」 「根拠は」 燕青の目が鋭さを帯びる。弱い者を傷つけることは簡単だが、その卑怯な行為は燕青の厭うところだ。 「以前堂主様が心の病のことを教えてくださって。その時こういう衝動に駆られた人は同じことを繰り返すことが多いと聞きました。実際、被害者全員が見事な黒髪の女性ばかりなんですよ。それも癖のないまっすぐの。こだわりというか趣向というか……そういうものがはっきりしていますから」 彩雲国全体をみれば住民の中で一番多いのは黒髪だ。だが民族は単一ではない。どこからか他国の血が色濃く残っているのか風土のせいか、茶州それも琥lでは茶色い髪の住人が圧倒的に目立つ。黒髪はその次くらいだろう。決して少なくはないが多過ぎもしない。髪質にも個人差はあるが、結い上げてしまえばあまり差はわからない。特に男から見れば。 「だからって黒髪の娘全員に護衛をつけるなんて不可能だろ」 「ええ。外出を控えてもらうようにするのがせいぜいでしょうね」 すでに噂は広まっている。住人たちの危機感を煽れば自衛の意識も高まるだろう。 「後は面会に同行してくれた武官の人の意見なんですが。ある程度きれいな人ばかりだということです」 影月が美しいと思うのは原則として一人に限られるため、客観的意見は欠かせなかった。燕青もそのあたりは分かっているのかあえて口を挟まない。だが。 「両方の条件に合うのが、まさにうちに一人いるな」 燕青の指摘に影月は黙り込んだ。調べはじめた当初から香鈴の姿が脳裏に浮かんでばかりいたのだ。それは影月の不安をあおり、調べるのに一層の熱が入った原因でもある。 「それこそ囮にはぴったりなんだが……」 「駄目です! 絶対駄目です!」 思わず立ち上がって抗議する影月に燕青は苦笑する。 「わかってるって。頼むわけねえよ。しかも嬢ちゃんが住んでるのは州牧邸だからな。専門の武人が二人もいるんだ。逆に狙われないだろう」 おまけに夜には誰よりも頼りになる燕青もいるというのに、それでも影月の表情は晴れなかった。 「そういう危機感みたいなものを計算のできる相手ならいいんですけど……」 あくまでも悲観的な影月の態度に、燕青は盛大に眉をしかめる。 「判断力がなさそうな相手みたいなのか?」 「記録や証言によると、襲われた場所は路上が確かに多いんですけど、家の中に侵入されて……というのも二件ほどあるんです。そのうちの一軒は護衛も置いている裕福な商人の家でした」 燕青は大仰に顔を顰めて声を荒げた。 「どうやって防げって!? 黒髪の自称他称美人全員を州城で収容しろってか!?」 「無理ですよ。犯人が捕まるまで無期限ですから」 「こうなると囮が使えないのが痛いな。――ところで犯人がどんな奴かの証言は取ったのか?」 「確かなのは男だと言うことくらいしか。顔を布で覆っているらしくて。年齢は二十代から四十代。背もごく普通くらいだそうですし。ああ、ただ……」 面会の際の書付を取り出して燕青にも見えるよう開いた。そこには影月らしく読みやすい字が要点だけを綴ってあった。 「脅す時の話し方がやたら芝居ががっていたそうです」 「役者とかか?」 「どうでしょう。むしろ自分の行動に酔ってるんじゃないかと思います。根拠はないんですけど」 そもそもこういった事件の場合、目的は金銭や愛憎ではない。 「事件発生の場所はどうなんだ?」 「それが……。茶家のあたりを除いてほぼ琥l全域なんです」 「そりゃまた、随分と行動範囲の広い奴だな。足がつかないように……ってことか?」 「それもあるかもしれませんけど」 まだ確信はない。だが影月の中ではこの犯人が州都のどこにでも土地勘があるような気がしていた。人気のない路上。もしくは人の途絶える時間。護衛の死角。そういったものを知って行動しているようなのだ。おまけに、狙いをつけた女性のことだって調べているはずだ。 「基本的に頭がよくて。行動範囲が広くて。どこにいても誰からも不審がられない。被害者を知っていても不思議じゃない。ただ病のせいか意識に偏りがある。――導き出される人物像はそんなところなんですが」 「あまりにも具体性がないな。それだけじゃ手配のしようがない」 それが痛いところだった。たいていが短時間の犯行であるために、被害者が恐慌状態のうちに終わって容姿すら定かではないのだ。 「一応被害者同士の共通の知人も当たってはみるが、ともかく巡回警護の範囲を広げて回数を増やすしかないな」 「はい。後は注意の呼びかけですね」 なるべく外出を避け、一人で行動せぬようにと。それが浸透すれば少なくとも被害は抑えられるだろう。警戒の風潮が広まれば犯人も動けまい。ただ捉えるための手懸かりも増えはしない。 「どっかで尻尾出してくれりゃあなあ……」 まったく同感だった。州尹室から見下ろす街の様子を眺めながら、影月は深くため息をついた。 「過保護なんですわ!」 州牧邸の門を出て慣れた道をいくらか進むと、外出用の被巾(きれ)を頭から被った香鈴は、後ろを行く武人を振り返った。日はまだ高く、日差しは確実に春の気配が遠くないことを知らせている。 「まあそう怒らずに。皆様心配なだけなんですから」 櫂瑜の護衛を主な仕事とする武人の暁明は苦笑しながら答えた。香鈴との距離は三歩ほどある。何かあった時に咄嗟に行動を起こせないほど離れることはない。 香鈴は確かに外出時の護衛の件を受け入れ、影月に諭された翌日の茶家行きの際には、もう一人の武人の護衛を同行した。だが実際にそうして行動してみれば、窮屈さを感じずにはいられなくなったのだ。 「市が遠ければ問題でしょうけれど、近いのですし」 「距離の問題じゃありませんから」 なおも不満が収まらぬらしい香鈴は、憤りの矛先を変える。 「暁明さんや慶雲さんにもご迷惑ですし、いつになればまたひとりで外出できるようになるんでしょう? こうなれば一刻も早く、髪切魔を捉えていただかないと!」 武人はあえて返答を避けた。何故ならば彼もまた州牧邸の最年少住人の人となりを知っていたからだ。 (髪切魔が捕まっても変わらないと思うんですけどね) 香鈴は自分の容姿をある意味では自覚しているが、それによる危機感がまったくない。お姫様育ちのせいであろうか。一度危険を認識してしまった影月が、彼女単独での外出をこれから決して許さないであろうことを武人は確信していた。 一旦影月がその気になれば、彼は持てる限りの知恵を絞ってでも香鈴の無事を優先するだろう。状元及第は偶然などではありえない。熟練の武人は敵にするべきでない人物を判断する能力に優れている。だから影月の意図を汲んで、香鈴が一人で外出せぬよう目を光らせることも己の職分のうちと、同行する武人の中で決定されていることを香鈴は知らなかった。 琥lには複数の市が立つ。常設のものは限られるが無許可なものもある。人の住むところ商売は生まれるのだ。そのあたりはお上との泥試合である。 香鈴が一番よく使うのは州牧邸から一番近い官吏街のはずれに立つ市だ。もちろん認可を受けた常設のもので、料亭街との境に位置するため食材も豊富であり、琥lの入り口である大門にもほど近いため、常時なかなか賑わっている。 「なんだい? 香鈴ちゃんは護衛付きになったのかい?」 香鈴が顔見知りの果物商のおやじと交渉を始めると、控えている武人に店主の妻が話しかけてきた。 「ええ。櫂瑜様たちも心配されまして」 「そりゃあ、あれだけの美人さんだもの。一人歩きはやめさせるべきだね。うちのどら息子もそうだけど、市にあの娘が来ると若いのが落ち着かないったら」 「それを聞いたらもっと厳重に護衛されるでしょうね」 影月たちがそれを聞けば、外出禁止にさえなる可能性がますます高まるだろう。 「香鈴ちゃんも年頃だってのに、お嫁入りはまだなのかい?」 「それは……あと数年は難しいかと」 「何か問題でもあるのかい? というか、やっぱり相手がいるんだね?」 苦笑しながら頷いて武人は内容を暈し、このくらいであれば許されると思う程度の情報を流す。あまりにも秘密にしすぎると、今度は妙な方向に勘繰ってくるのが世間というものだ。 「お相手に多少……。もっとも彼のせいではないんですけど」 「まさか人柄とか身分とかに問題あるんじゃ!? 香鈴ちゃんはいいとこのお嬢さんだろうから、そのあたりも無視できないだろうし」 香鈴を見れば誰でもその育ちが良いことを一目で感じる。仕草も言葉遣いも庶民のものではありえない。今は州牧邸の侍女だが、実際に花嫁修業中のお嬢様な立場だ。 「いえ、そのあたりはどちらも良いんですよ」 茶家の養女である香鈴に、将来確実に現在より上の地位を得るであろう影月はまさに似合いの相手だ。ただ、今はまだ少しばかり若すぎるだけで。 そのあたりの事情までは親しくもない相手に洩らすことではないと武人は口を閉ざし、軽く会釈をすると買い物を済ませた香鈴の後を追った。 しかし、わざと相手を確定せずにいた武人の配慮は裏目に出、その発言が波紋を呼ぶことになるとは誰も予想しなかっただろう。 「あたしは思うんだけどね。州牧邸の武人さんの話を聞いててさあ」 その夜、果物商の妻は帳簿をつける夫に昼間の武人との会話を教えた。 「本人のせいでない問題があって、人格と身分は問題なし。ともかく数年は結婚は無理っていう香鈴ちゃんの相手、燕青じゃないのかって」 「ちょっ……! おまえ!」 思わず筆を取り落とすほど狼狽した夫の様子に妻は満足の笑みを浮かべる。 「燕青はさ、おおらかで人を惹き付ける魅力があって、今でも州牧補佐だからお偉いさんだよ? 問題といえば南老師のこさえる借金で、たいていは燕青のせいじゃないし。そう考えれば燕青だとしか思えないんだよね」 「たしかに、一緒にいるときも仲が良さそうではあったな」 市で燕青と香鈴が鉢合わせをすることくらいは過去にもあった。たまたまそれを目撃したことのある夫も唸る。 「しかもここ数年は州牧邸のひとつ屋根の下に住んでるわけで。あれで燕青はいい男だし、香鈴ちゃんもそうそう見ない綺麗な娘だし。お似合いといえばお似合いじゃないか」 「男女のことだしな。一緒に暮らしてから意識したか、はたまたそういう仲だから一緒に暮らすことになったのか」 「ね、どっちもありそうだろう?」 夫の同意を得て、妻はすっかりこれが正解だと思いこんでしまった。そしてこの話は果物商だけに留まらず、井戸端会議に持ち出された。そうなれば噂は広がるばかり。 かくて琥lの街には「香鈴の相手は燕青」説がまことしやかに流れることになるのだった。 「きゃあーーーーーっ!」 果物商から離れた香鈴が呉服商に引き止められて品を見せられていると、すぐ近くから女の悲鳴が響いた。 「髪切魔よーーーー!」 香鈴は途端に店主との会話を切り上げ、悲鳴のした方向へと駆け出す。 「香鈴さん!」 武人の声を後ろに聞きながら足を止めることはない。 「髪切魔だと!?」 元々人の多い夕刻の近い市では、あちこちでざわめきばかりが大きくなり、周囲は現場に駆けつけようとする人でたちまち混乱に陥った。 「と、通してくださいませ!」 香鈴は小柄な体格を活かして人ごみをすり抜けて行く。髪切魔ということは被害者は若い女性のはず。女にとって大切な髪を切られた姿を衆目に晒すのはどれほど耐え難いことだろう。力になれればと、香鈴も必死で声のした方向へ向かう。 人波の向こうに何やらぼおっとしている女の姿を捉えた。あまりの衝撃に正気を失ってしまっているのかもしれない。肩につくほどのざんばらの髪が被害者に間違いないと教えてくれている。だが周囲は混乱するだけで髪を切られた女への配慮は見られない。混雑は激しくなるばかり。 「これを!」 女の姿をせめて隠してやろうと香鈴は自らが被っていた巾を取り去る。その時たまたま隣り合わせた人物の袖が香鈴の簪に絡んだ。 ちゃりん。 抜け落ちた簪を追うように髪が崩れ流れた。咄嗟に簪を拾おうと片手で髪を抑えながらしゃがんだ香鈴の耳が小さな呟きをも拾う。 「まさに極上」 怪訝に思いつつ立ち上がるとまた同じ声がする。 「これぞ烏羽玉の髪。……次は君にすべきだろう」 背筋に冷気が走り慌てて周囲を見回すが、香鈴に注目しているような者も、不審な動きをしている者もいない。口々に髪切り魔が出たと、娘は大丈夫なのかと言い募りながら現場を見ようとする人の波が次々に押し寄せるばかり。 我に返った香鈴は被害を受けた娘になんとか巾を渡すことに成功した。 「香鈴さん! 護衛の意味がありませんから離れないでください!」 焦った様子の武人は、被巾を取って髪を下ろした状態の香鈴を見て取ると、自分の首元を飾る巾をほどいて差し出してきた。ありがたく借り受け、帰ることに同意して歩き出す。被害者も気にはなったが話を聞ける状態ではないだろう。どうせまた燕青あたりが夕食の時にでも詳しいことを教えてくれるはずだ。 だが市の喧騒から逃れると、香鈴は先ほどのことを気のせいで済ませることはできなかった。身体の奥から次から次へと冷たいものが湧き上がり、それは震えとなって香鈴を侵食する。州牧邸の塀が見えるまで堪えていたが、もう自分ひとりで抱え込んでいることはできなかった。影月たちが帰宅するにはまだ早い。だからここまで護衛してくれた武人に報告しておくことにした。 「どうやら、次の標的はわたくしのようですの」 すぐにも香鈴の発言は州牧邸の三人の官吏の知るところとなった。 夕食後、櫂瑜の私室に集まって対策を練る。事実上の茶州最高会議でもある。 「今回襲われたのは市に店を出している露店商の娘だ。親の手伝いをしていたんだが、この親子は毎日市に来るわけじゃない。十日ごとしか来ない。しかも襲われたのは人通りの多い道を一歩入っただけの路地だ」 まずは今日の事件について燕青が発言をし、櫂瑜が見解を述べる。 「相手のことをよく調べているようですね。それに市のことや道も」 露天の並ぶ市は、はみ出した商品などで路地が隠れてしまうことも少なくなく、慣れている者でも迷うほどだ。 「ああ。しかもやたら手際がいい。路地に入った途端、娘はねっとりと濡れた巾を顔に押し付けられて意識が飛んだんだそうだ。発見したのは母親。娘が自分の買い物に出かけると、すぐに忘れ物に気付いて追いかけたらしい。で、髪を切られた娘を発見したんだと」 「つまり、ほんの僅かな時間の犯行だと言うのですか?」 これまでの例のほとんどが、刃物を突きつけられて騒がないように脅された後、目隠しと猿轡、そして両手の拘束を済ませてから髪を切る――というものだった。 「それで十分だったらしい。我に返るとざっくりと髪を切られて持ち去られていたとさ」 「つまり犯人の顔は見ていないのですね?」 「まったく記憶にないらしい。声も聞いてないそうだし」 「今までと方法が若干違うようですが。別の便乗犯という可能性はないのですか?」 「たぶん場所柄だな。市のすぐ側でいつ人が現れるかしれない。夕方前は客も多い。だから悠長な方法を避けただけだと思う。髪の切り方に他の娘と同じ癖がある」 犯人のことで分かっている数少ないことのひとつが、おそらく左利きであろうということだ。ただしそのことを知る者は限られていた。 「香鈴嬢に話しかけた人物が本物の犯人だとしたら、何食わぬ顔をして野次馬に混ざっていたということになりますね」 「いっそそこから逃げようとしてくれたら、不審な動きを暁明が気付いたかもしれないんだが」 燕青と櫂瑜の間で話が進行する中、影月は厳しい表情のまま口を開かずにいた。 「影月? どうかしたか?」 狙われた香鈴のことがいくら心配だからといって、影月が仕事に関わることを疎かにするはずもないので、さすがに不審を感じた燕青に呼ばれ、影月は我に返った。 「すみません。犯人のことをずっと考えていて……」 「今の話の中でなんかひっかかったか?」 「ええ、少し。ただ確証は持てないので調べさせてください」 「手がかりがまったくない状態ですからね。犯人に繋がりそうだと思ったことは何でも調べてもらってかまいません。むしろ当面はそちらを優先させてください。これ以上、悲しい女性を増やさぬためにも」 櫂瑜の言葉に素直に影月はそうさせてもらう旨を告げる。 「マジで嬢ちゃんが囮になる、か」 「手出しはさせません!」 「当たり前だ」 たちまち叫んでしまった影月を宥めるように微妙な角度で椅子ごと壁にもたれた燕青は、首だけ動かして指示してきた。 「とりあえずお前は嬢ちゃんを安心させてこい」 さすがに今日の出来事は衝撃的だったのだろう。事情の説明を武人を通して済ませると、夕食も取らずに香鈴は自室に籠もってしまっている。 影月は頷くと櫂瑜に一礼して席を立った。 残された年長者たちは表情を改めて議論を続ける。 「しかしどうしたものでしょう? 香鈴嬢を危険にさらすわけにはまいりませんが、ここに篭ったままでは犯人をおびき出すこともできませんね。相手が香鈴嬢の素性を調べられない可能性もありますでしょうし」 「んー、でも嬢ちゃんは目立つし、今まで知らなくてもあの市に出入してる奴に聞けば一発だ。聞かれた方も、ああ嬢ちゃんに一目惚れでもしたかで納得するだろうから怪しまれないオマケ付きときた。わざわざ嬢ちゃんを指名してんだし、こっちが警戒してることくらい相手にだって分かってるはずだろ? むしろ嬢ちゃん一人がふらふら歩いてる状況だったりしたら向こうだって怪しむだろうし。何せ州牧様のお膝元だ」 しかも世にも珍しい現州牧と前州牧二名が一緒に暮らしてる三代州牧同居なのだから、これ以上ないお膝元である。その身分とツテを使えば武人の一部隊くらい常駐させることも難しくはない。 「可愛い弟子と可愛い預かり子を悲しませるようなことにだけは、したくないのですけど」 「うちの身内にちょっかい出そうとしたことは、どうやってでも後悔させてやる」 既に大切な家族同然の影月と香鈴のためにもと、二人は更に具体的な警備方法などについて検討を重ねた。 「香鈴さん、僕です。入れてくれませんか?」 庖丁人の心尽くしを載せた盆を片手に影月は扉を叩く。 「影月様?」 応えて姿を現した香鈴の顔色はひどく悪い。 「すみません、顔を出すのが遅くなってしまって。あ、これ昭環さんからです。少しだけでも食べて欲しいって」 「申し訳ございません。せっかくですけれどどうしても食欲が……」 州牧邸の女庖丁人は達人であり、こうして食欲がないであろう香鈴のために作られたものも、彩り香り共に優れている。だがそれでも香鈴は首を振った。 「犯人と接触してしまったんですから、無理もないかもしれませんけど、でも少しだけでも」 影月がそう言いながら室の中ほどにある卓上に盆を置くのを見て、ようやく香鈴の唇が笑みの形を作る。 「これでは逆ですわね。わたくしが影月様に召し上がっていただくようお願いするのが常ですのに」 「……いつもすみません」 つい自分の健康を後回しにしがちな影月はさすがに普段を思い出して決まりが悪くなる。 「わたくしの気持ちがおわかりいただけまして?」 「……ものすごくよくわかりました」 「それでしたら、わたくしも努力してみますわ」 だが本当に食欲がないらしく、席に着いてから香鈴はいくらか果物を口にしただけで箸を置く。仕方ないと肩をすくめて盆を押しやってから、改めて向かい合ったまま影月は切り出す。 「香鈴さん、今日あったことなんですけど」 「あいにく、あまりお話できることはございませんの」 発言者の姿も見ることができなかったのだ。あの人混みの中で見知らぬ人物を特定するのは難しい。 「でも声は聞いたんですね? どんな声でした? それから正確に言われたことを思い出せますか?」 「どんな……といいますと、そうですわね。ある程度は大人の男性の声で。十代ではありませんわ。二十代だとしても後半……といった印象でしたわ。 言われたのは最初に『まさに極上』とだけ。それからもう一言。『これぞ烏羽玉の髪。……次は君にすべきだろう』と。たぶんこれで間違いはないはずですの」 実際に香鈴の口から聞く証言は、影月の焦りを引き出した。 「ええと、その時香鈴さんはどんな状況だったんですか?」 「髪を切られた姿を人目から隠してさしあげたくて、被害を受けた方に近づこうとしておりましたの。それで――人ごみで簪が抜けて、髪が解けてしまったんですの」 今も香鈴の髪はおろされたままだ。それは蝋燭の灯りを受けてとろりとした艶を放っている。烏羽玉――まさに烏の濡れ羽色の髪。少なくとも犯人の趣味は悪くないと影月は内心思ったが、口にしたのは別のことだった。 「なんか、もったいぶったような話し方ですねえ」 「そう言えば。その時はそれどころではありませんでしたけれど、声も作り声じみておりしたわ」 「じゃあやっぱり髪切魔本人の可能性が高いです。僕、髪切魔の被害者数名にお話を聞いたんですが、そのうちの何人かの人が、犯人の話し方が芝居がかっていたと証言してるんです」 影月は瞳にこれまで以上の真剣さを帯びて香鈴を見つめた。 「こういうことになりましたし、外出は控えて、この州牧邸の中でも常に誰かといるようにしてください」 「外出は、ええ控えますわ。でも州牧邸の中でくらい……」 香鈴にとって州牧邸はこの上もなく安全な場所なのだろう。影月の心配を過剰なものとしか受け取っていないようだった。 「この件で燕青さんは武官の指揮に回られると思いますし、僕も調べたいことがあるので明日からしばらく帰りが遅くなるんです」 「それは、この髪切魔のことをお調べになるんですの?」 香鈴は聡い。影月ならばそうするだろうと正しく予想したのだろう。 「ええ。おそらく関係があるんじゃないかということを。だから、どうか待たないで休んでくださいね」 「ですけれど、お迎えくらいは……」 影月は首を振る。玄関まで迎えに出て、それが影月ではなかったら? ――そんなことまで想像してしまったからだ。 「怖がらせるわけじゃないですけど、髪切魔は過去に家まで押し入っていたこともあるみたいなんです。州牧邸の守りは強化される予定ですが、これだけの広さだと必ず死角は生まれます。回廊を歩いている時に襲われる可能性だってありますから、なるべく室から出ないように。出る時は必ず誰かとお願いします」 話ながら影月が無意識に膝の上で組んでいた指先は白い。香鈴が危険に合うのではという恐怖が力をこめさせるのだ。 「それほどの用心が必要だと本当に思っていらっしゃいますの?」 「不安なんです。あなたが狙われているのに、しばらく僕がついていることができないから。だからせめて万全の体制を取らせてください。あなたをどんな危険からも遠ざけておきたいんです」 香鈴は少しばかり考え込んでいたが、覚悟を決めたかのように瞳を上げる。 「ではせめて。わたくしのお願いをきいてくださいましたら」 「何ですか?」 「せめて今夜は……。お傍にいてくださらないと嫌ですの」 影月がそれを断ることは勿論なかった。 それまで座っていた長椅子から立ち上がると香鈴の左隣へと移動する。肩を引き寄せると香鈴は影月の肩にもたれてくる。不安がその面(おもて)を常よりも白くしていた。肩からその肢体に沿うように回した手でくびれた腰を抱く。更に力を込めると香鈴がしなだれかかるような形になった。 体制を整えようと影月の衿を掴むその手はあまりにも小さくて頼りなく、今更ながらに傍でずっと守れないことに負い目を感じる。だが例え傍にずっとついていたとしても、闘うための手段を持たない影月では、凶悪な人物の前では香鈴の盾になるのがせいぜい。それすら阻まれてしまう可能性も高かった。 それならば、傍にいたいという思いを今は断ち切って行動するしかない。 「あなたの傍にいてこんなふうにずっと抱きしめていられたら、あなたの無事をいつでも確かめられて僕は安心するでしょう。でも僕があなたを守る方法はそれだけじゃないはずなんです。だから僕なりの方法であなたを守りますから」 武力でなく、知恵で。調査と分析を経て糸口を掴み犯人を追い詰める。それこそが香鈴を守ることになると信じて進むしかない。 「信じて……おりますわ」 影月の逡巡をすべて理解したわけではないだろうが、言葉通りすべてを委ねるかのように香鈴は縋りついてきた。芳しい香りと共に加わった重みはただ好ましく心地よく、影月は両手でしっかりと香鈴を抱きしめなおす。そうして何度も髪を撫で、髪の中に潜り込ませた指先がうなじを探る。うなじから顎へと辿るとそっと顔を上げさせてから親指の腹で唇をなぞると、かすかに開かれた朱唇が震える。 「影月様……」 悩ましく震え揺れる瞳を閉じて待ち受ける香鈴の唇に請われるまま顔を近づけて、 「必ず、守ってみせます」 そうとだけ影月は告げると、後はもう言葉もなく長い口づけを与えた――。 市での事件が起こって一ヶ月。髪切魔は姿を現さなかった。もちろん香鈴以外で被害にあった者もいない。それまで段々と間隔が短くなってきていたというのにここにきて動きがなくなったことに、琥lの人々の間では髪切魔が州都から逃げ出したのでは、という楽観的な考えが主流になってきていた。自然、娘たちの警戒も緩む。 「まずいな、これでは……」 自ら巡回にも加わっている燕青は、州尹室の窓に浅く腰掛けて顔を顰めた。 「僕が思うに、おそらく髪切魔はまだ琥lにいて、普通に誰にも疑われずに暮らしているはずなんですが」 自分の卓子に珍しく頬杖をついた影月にも、常の微笑みがない。 「そっちは何か進展があったか?」 「多少は……」 この一月、あちこち駆け回っていた影月はようやく州城に腰を落ち着けて何やら知らせが届くのを待っていた。 「何人か候補を絞りました」 取り出した紙片に書き連ねられた五人の名前を燕青は凝視する。 「こいつらに絞った理由は?」 影月の説明を受けて燕青はしばし沈黙した。 「なるほど。そういう方面からってのはお前らしいな。……で」 燕青の視線が鋭さを増し、そこにいるのは気の良いだけの兄貴分ではない。 「お前が一番怪しいと思ってるのはどいつだ?」 だがそれに少しも怯むことなく、影月の指は迷わずただ一人の名前を示した――。 市で遭遇した事件以来、香鈴は州牧邸から出ずに生活している。誰も彼女を囮に使うつもりもないようで、ただ厳しく外出禁止が言い渡されたが、さすがに今度ばかりは香鈴も素直に従う。 実際に自分が狙われてみれば心底恐ろしかったからでもあるのだが、事態を知った影月の目が 「これでも外出しようとするなら室内監禁」 と語っていたせいもある。さすがにそれは不便だ。 だから香鈴が出るのはせいぜい庭院まで。それさえも庭師なり誰かと一緒でないと許されないものが漂っていた。貴陽の茶家本邸にいた頃を思い出せばそうして生活することは難しくはない。当時は庭院に出ることさえ大騒ぎで止められていたのだから。 だがそんな生活が一月も続くとさすがに鬱屈もしてくる。せっかく気候も春めいてくる時期なのに、外歩きもできないのだ。 香鈴とてむやみやたらと外に出たいわけではない。ただ州牧邸に篭ってばかりだと影月のためになるような買い物もできず、今は州牧邸出入りの商人たちに頼むばかりだが、香鈴はやはり自分の目で選びたかった。 遊山に相応しい外の陽気を窓から眺めては溜息をつく。こんな事件さえ起こらなければ……という考えが消えない。そうなら休日には影月と出かけることができただろうに。 現実は影月は休日返上で動いていた。毎日の帰宅も遅く、香鈴にはそれを迎えて待つことも止められている。かろうじて朝食の席で顔を合わせるのがせいぜい。 そう。鬱屈はひとえに影月との時間を奪った犯人に向けられていたのだ。『髪切魔』と名札を付けた針山に、香鈴は勢いよく針を刺す。 「こんな不自由な生活のおかげで」 この一月の間に影月の官服は既に四枚も縫えてしまった。その仕上がったばかりの四枚目に指を這わせて香鈴は溜息をつく。慣れた作業は眠っていてさえ出来そうな気さえする。 「次は何を縫おうかしら……」 夕食まではまだまだ時間があったが、近頃は食事の支度を手伝うことすらやんわりと止められている。厨房が出入口に近いというだけで。さすがにそれは過保護だと訴えたのだが、年長者たちは聞き入れない。ましてや一番年少の人物が強く賛成したと聞かされては、香鈴に味方する者は皆無であった。 おかげで影月の室を掃除する時以外、結局自室監禁に近い形となった香鈴は縫い物ばかりしていた。気分転換に筝を爪弾いたりもするものの少しも気が晴れない。書物を繰っても少しも頭に入らない。どのみち何をしていても影月のことを考えてしまうのだ。それなら影月の物を縫う方が気も入る。 出来上がった官服に火のしをかけるのは後にして、香鈴は以前から取り掛かっている正装用の帯の続きをすることにした。細かい刺繍を全面に施すため時間がかかる代物なのだ。勿論、影月用である。 作りかけの帯を取り出して針に糸を通し、複雑な図案と向き合う。少なくとも手を動かしていればいくらかは気が紛れた。夕食の準備が調えば誰かが知らせて迎えに来てくれるはずだ。 かたん、と窓から音がした。振り返っても何もない。ただの風かと帯へと注意を戻して香鈴は集中しはじめた。瑞祥のどれをとってもめでたい図案に香鈴の意識は飲み込まれていく。 かたん。 先程より小さな音が響いた。だが集中する香鈴は気付かない。 ふいに手元が暗くなったので日が暮れたのかと香鈴は顔をあげた。 それが幸いした。顔に近付けられていた巾がその動きに狙いをはずす。 「なっ……!」 咄嗟のことで声をあげることもできない。硬直しそうな身体を叱咤してなんとか椅子から立ち上がると必死で駆け出そうとした。 がくん、と右袖を引かれて前のめりになるのをかろうじて堪える。ここで転びでもしたら逃げられないと本能が告げた。 「いや!」 掴まれた袖をちぎってなおも逃げようとするが、引き抜こうとした右手をしっかりと掴まれてしまう。しっとりと汗ばんだ骨っぽい手の感触に鳥肌が立った。香鈴を非力な女性だからと心配した影月の言葉が脳裏に蘇る。こんなにも自分は無力だと、侵入者の力に思い知らされる。 「安心したまえ。髪さえいただければ危害は加えない」 低い男の声が耳を打った。だがそれこそが香鈴の怒りを掻き立て、無力感を打ち破らせた。 (それが危害でなくてなんですの!) 自由な左手を髪にやると一気に簪を引き抜く。そして飾り部分をおもいっきり背後の陰に向かって振った。 「ぐわあっ!」 香鈴はぶわっと赤い霧が広がったはずの背後を振り返らなかった。効果は、掴まれていたはずの右手が自由を取り戻していることで明白だ。 香鈴は今度こそ扉へと駆け出した。そして叫ぶ。 「誰か! 髪切魔ですの!」 廊下に出て自室を振り返ると、顔を両手で覆った覆面の男が床を転がって呻いていた。その向こうで侵入に使われたらしい開いた窓が風に揺られているのを認める。男の動きと共に赤い汚れが敷物に擦り付けられていくのに思わず眉が寄っていく。 (後でよくお掃除をしませんと……) 香鈴が場違いなことを考えながら、嫌でも眼に映る侵入者を眺めているうちに、この隙に何かで殴っておくべきか、はたまた素直に逃げ出すべきかを躊躇っていると、 「嬢ちゃん、無事か!?」 燕青が廊下を凄まじい勢いでこちらに向かいながら叫んできた。 「はい!」 「髪切魔はどうした!?」 「ここです! わたくしの室ですの!」 だが燕青が見たのは先程と変わらずに床を転がるばかりの怪しい男だった。 「目が! 目が!」 顔を手で覆い呻きを上げる男の姿をとっくりと眺めて、燕青は扉に手をかけたまま首だけ動かして香鈴を見た。 「……嬢ちゃん、何やった?」 「柴凛様にご相談して、簪の飾りを強く振ると開くように細工しておりまして」 狙われていると知ってから、非力な自分でもできる自衛策を検討してはいたのだ。例え相談相手が遠い首都にいようと、連絡の手段はある。 「どうやら成功したようですわね。唐辛子粉末の霧をお顔にたっぷりと浴びていただけたようですわ」 時間稼ぎ程度にでもなればと思って施した細工は予想以上に効果があった。 燕青は無言となり、香鈴もそれ以上は何も言わなかった。 ひとつ首を振って燕青は室内へと入り、転がる男を踏み付ける。懐から取り出した縄で腕と足を手早く拘束した。 「まあ! いつでも泥棒さんになれそうな手際の良さですわね!」 本気で感心している香鈴に、力なく燕青は呟く。 「……嬢ちゃん、それ、褒めてねえから」 だがそんな燕青の心など知らぬかのように、香鈴はさっさと話題を変えた。 「ところで燕青様? 今日は随分とお早いお帰りですのね。おかげで助かりましたけれど」 「あー、それは影月がだなあ」 「こ、香、鈴、さ……、無事、で……」 燕青が説明しようとした矢先、息を切らした影月が片腹を押さえながら廊下をよろめき進んで来た。 「影月様!」 その様子を見た途端、香鈴は自室に飛び込んで水差しから湯呑みに水を注いですぐさま取って返す。既に転がっている男も燕青も眼中にない。 「だから影月が犯人とその行動を割り出したら嬢ちゃんがすぐに危ないってんで、二人で急いで駆け付けた……んだけど聞いちゃいねえな」 もちろん燕青のそんな呟きも香鈴には届いてはいなかった。 「お水ですわ!」 「ど、どう、も……」 影月は咳こまぬよう僅かに含んだ分で唇を湿らせてからゆっくりと嚥下する。深く息をつくと今度は残りを飲み干して湯呑みを返してきた。 「ありがとうございます。おかげで落ち着きました」 それからはっとしたように香鈴を見つめる。 「香鈴さん! 髪切魔は来てませんか!?」 「あー、ここ、ここ!」 男の背中に座ったままの燕青が室内からひらひらと手を振ると、影月は当然のように燕青の手柄だと思ったらしい。 「やっぱり燕青さんに先に走ってもらってよかったです」 僕じゃ足が遅いからと、感心する影月にきまり悪そうに燕青は口を濁す。 「いや、俺より既に嬢ちゃんが何とかしてたっていうか……」 「はあっ?」 影月の訝しげな視線に耐えられず、香鈴は袖で顔を隠そうとして、右袖がないことを思い出した。すっかり片腕が露出した状態だ。同時に影月もそれに気付いたらしく、彼の瞳に怒りの色が湧き上がるのが見えた。 「それ、やられたんですか」 常よりも低い声。これは影月の危険な兆候と察した香鈴は慌てて否定する。 「いえ、これは逃げるために自分で破りましたの」 「怪我は?」 「ございませんわ」 よかった、と微笑む影月の姿に肩の力が抜ける。香鈴はようやく自分がそれまでどれほど緊張していたのか自覚した。 影月は室内に入り、燕青に抑えられている男の傍に肩膝をつく。そして覆面を毟り取ると静かな声で話しかけた。 「はじめまして。髪切魔――いえ、薬売りの旛智稠(はん・ちしゅう)さん」 縛り付けられ目を洗うことだけは許された男は州牧邸の居間へと移された。知らせを受けた櫂瑜とこの事件の責任者でもある茶州府将軍の到着を待って、影月はその前で語り始める。 「どこから話しましょう。そうですね、そもそもの初めからにしましょうか。今から六年前のことです。一人の若い女性が行方不明となりました――」 六年前、姿を消した娘がいた。美しい黒髪が自慢の愛らしい娘で、旅から旅を続ける隊商の一員である両親と共に琥lを訪れたところ、貴族に見初められて嫁ぐことになった。間違いなく玉の輿と呼ばれるものに乗ったわけだ。いや、乗る直前まで行っていたというべきか。 家族も本人もそれを心待ちにしており、婚姻のその日までを相手貴族の別邸にて過ごしていた。そこに事件が起きたのだ。 金目のものは奪われて両親が殺害されていた上、娘の姿が消えていた。だが誘拐の線はない。両親とは別に起居していた娘の室に残された大量の血。あれだけの血が流れては生きているとはとても思われなかったのだ。 そうして犯人は挙げられぬまま時は流れた。 「僕が当初調べていたのはある薬でした。それは公には流通していない。けれど入手不可能なわけでもありません。望む人がいれば供給する人がいます。ただ、それを入手するのはさまざまな理由から簡単ではありません。彩雲国では法によって所持が禁止されているものですから」 所持しているのがわかれば私財没収の上追放とまでの厳しい法があるのだ。 「市で被害にあった女性の様子がきっかけでした。保護された当初は酩酊状態だったそうですが、直前まで一緒だった家族は彼女が酒類を口にしていないと証言しています。しかもごく僅かな時間に効果が出ている。どれほど強烈な酒であっても、あれだけ短時間で酔うのは難しいでしょう」 茅山白酒のような強烈なものであればむしろ倒れているだろうに、娘は立ち尽くしてただ心ここにあらずという風情だったという。 「急激に人を酩酊状態に陥れるそんな薬に僕はたまたま心当たりがありました。僕は医術書を見て育ったようなものでして、その中にこんな名があったんです」 影月は一呼吸置いてその名称を口にする。 「麻騰散(まとうさん)」 男の肩が動揺に揺れたのを確認し、影月はそのまま話を続ける。 「麻騰散の主な材料である植物は麻の仲間です。元々麻は薬草として使われていて、果実は麻子仁(ましにん)という生薬にもなりますね。もっともあちらは便秘のお薬ですけど。 こちらは通称を九麻(きゅうま)。普通の麻は成長も早くどんな土地柄でも育てやすいものですが、この九麻は違います。何故なら藍州は九彩江の山岳地帯のどこかでしか育たないからです。 それでも、かなり昔から九麻を、麻騰散を求める人は絶えませんでした。それが短時間で急速に、この上もない酩酊状態に導いてくれるから。気分は昂揚し、他では味わえない至上の快楽を与えるものだと、百年前の詩人も書き残しているほどです。 代々の医師である華家ではそれを難病で苦しむ患者さんに使えないかと検討していましたが、常用性と依存性が高く、人を無気力にさせ最終的に破滅に導くとも言われており、危険が高すぎるため使用は見合わせられてきました。だからこそ国は多くの犠牲者を出した末、この薬を禁じねばならなかったのです。 でもそれだけ危険だというのに、求める人は今も後を絶ちません。 麻騰散はこの九麻の葉と花穂を集めて乾燥させ、実から取った油と混ぜて作ります。効果は生薬などよりもずっと早く、しかも長く続くということです。軟膏状ですから鼻の下に塗りつけたり、巾などに塗布して使用します。 さて九麻に戻りますが。採取場所が困難なことから、これはほとんど旛(はん)という一族が永らく独占して巨額の利益を上げてきました。それ故に一族の繋がりは深く、現在でも入手するには一族を介するしかありません」 影月は一息つくと拘束された男に厳しい瞳を向けている。普段彼から誰もが与えられる春の日だまりのような微笑みはそこに一片もなかった。 「智稠さん、一族であるあなたには九麻を入手することができ、そこから麻騰散を作ることができる。そして六年前に行方不明となった女性とその両親もまた、旛一族でした。幼い頃からあなたは度々琥lを訪れる彼女の一家と家族ぐるみで親しかった。 僕は麻騰散から旛一族を探り、この六年前の事件に辿り着きました。 髪切魔は人を殺さない? ――いいえ。そもそもの始めに既にその手を汚していたんです。旛梅雪(はん・ばいせつ)さんとその両親を殺したのは、あなたですね」 男は、旛智稠という男は歪んだ笑みを浮かべて、芝居の台本を読み上げるかのように影月に答えた。 「一族以外には知られていなかったが、梅雪は、あれは我が許婚だったのだよ。絆を深めるために繰り返されてきた一族内での婚姻であったが、不満はなかった。あの時の琥l入りも私との婚礼のためだった。しかしあの女は、親たちは、一族を私を裏切って目に見える貴族という地位を選んだのだ。一族の培ってきた誇りも、私の矜持もろとも否定して。どうしてそれを許せよう?」 そこには後悔のかけらも見えない。ただ相手への非難ばかり。 「どうして彼女の遺体を持ち去ったのですか?」 「髪が欲しいと思ったのだ。散々切りつけて辱めて、汚すだけ汚してやったのに、血溜まりに広がる髪だけがあまりにも美しくて。その時は髪のためだけに死体を持ち帰った。 汚れを落とすと一層輝いた髪とは対照的に、打ち捨てた身体はすぐさま朽ち果てたよ。そして知ったのだ。女は裏切るのが常なれど、髪は永遠に裏切らずこの手に残ると――」 恍惚とした眼差しと酔ったような言葉。男は正気から離れたところにあると、その場にいるすべての者の目に映った。決して互いに理解できない、常識の通じない恐怖を伴って。 「少し口を挟んでもよろしいですか? この彼を犯人と君が断定した根拠を教えてください」 愛弟子を鍛えることには厳しい櫂瑜は、男の自白を得るだけでは自分は納得しないと態度に表している。影月もそれを予想していたのだろう。彼は懐から黒い表紙のついた冊子を取り出した。 「この年の同じ月、琥lでは三件の手口の似た凶行が行われています」 「ああ、あれなら覚えてる」 梅雪の悲劇も含めて立て続けに四件起こった事件は、まだ燕青が州牧だったころに発生している。 「最後の事件で犯人一味は追い詰められ、捕らえられる寸前に発狂して互いを殺し合った、と調書にも残っています。 これ、麻騰散が使われているんです。麻騰散には過剰摂取した人物を特定の条件化で操る使い方もあって。つまり幡一族の総意として、梅雪さん家族の死を一族からの粛正と見做し、智稠さんを庇うことを決定して、撹乱のためにまったく関係ない人たちを襲わせたのです。 この月、琥lに常にないほどの麻騰散が入ってきています。正直、商圏としての琥lは旛一族には魅力がないはずなのにです。そしてその量は賊に提供された分と一致しました」 「待て。それはどこから来た話だ!?」 燕青にとってこの四つの事件は、被害を出す前に解決できず終わった苦い記憶である。それが今、影月によって予想外の真犯人が導き出されているが、簡単に納得できるものではない。 影月は燕青に向かって手にしていた冊子を見えるように掲げた。 「運よく幡一族の帳簿を入手できまして。それはもう細かく管理されていますよ」 見ますかと一同に回されたのは、隠語を使用して几帳面に綴られた、確実によろしくないものの帳簿だった。 「こんなものをよく……」 同席していた将軍も帳簿を前に感嘆の声を上げると、影月は肩をすくめてため息をついた。 「はっきり言いますけど無茶苦茶大変でした。一族の名前すら表には出てません。僕がたまたま医術書に書かれていた名前を覚えていたことが幸いしました。 誰に聞いても素直には答えてくれませんでした。一族のことを知っているだけで連座の憂き目に合うんじゃないかと、そりゃもう皆さん疑心暗鬼で。知ってるだけじゃ捕まえたりしないんですけどねえ。まあ知ってそうな人はそれなりに後ろ暗いところをお持ちだから、そちらで対処させてもらいましたけど」 道理でこの数週間、影月が処罰を必要とする複数の人物を牢に次々と放りこんできたわけだと、燕青は将軍と顔を見合わせた。 「では何処から調べたのです?」 「麻騰散なんてもの、余程のお金持ちじゃないとほんのちょっとでも手に入りませんし、更にそういう悪い遊びに手を出してそうな方の身辺を洗って、人に知られたくないことをつつかせてもらいました。琥lより金華の方が候補者が多くて。貴陽とかならもっと調べやすかったかもしれませんが。あとは――藍州の姜州牧とちょっと交渉を」 櫂瑜へと柔らかい笑顔を浮かべて影月は答えているが、内容と表情の乖離が聞いている人間の肝を冷やす。 あの、出会った頃の純朴な少年はどこに行ったのだろうと、燕青は遠い目をする。 政は清濁併せ飲むことができねば簡単に足元を掬われる、きれいごとだけでは関われない世界だ。だが未だ茶州最年少の官吏はその目を曇らせてはいない。これからも自分の信念を曲げることなく現実に沿う理想を追求していくだろう。傍らの名州牧もそんな少年の成長に目を細めている。 だから。この優しい心が折れぬよう、しなやかに鍛えるのは自分の役割でもあると燕青は強く思った。 「では殺人事件の主犯は彼としても、以降の女性の髪を切るに至った理由はいかがですか?」 「足りなく感じたんじゃないですか? もっと綺麗なのが欲しくてたまらなくなったんじゃないですか? 梅雪さんの次は上治元年のお針子さんでしたね」 質問した櫂瑜にではなく、影月は男に水を向けてやった。たちまち男は笑うように口元を歪める。 「梅雪の髪を眺め撫でていると心が満たされた。だが世の中にはそれよりも美しい髪を持つ女がいるとあのお針子が教えてくれたものだから、穏便に髪だけいただいたのだよ」 「上治二年にはそれが二名に、三年には三名、四年と五年は少し減って各年二名でしたが今年に入って間がないというのにもう五名。いえ、もう少しで六名になるところでしたね」 最後の一人を思うと、冷静で公平な官吏であることを忘れて、私情に走って男を詰りたくなるのを影月は抑えねばならなかった。 「これ以上の髪はないと入手できた直後は満足できる。だが最初は美しいと思えた髪も見慣れると色褪せてくる。近頃は色褪せるまでの時間が短くなった。そうなれば新しい髪を手に入れねばならなくなる。 街を行くともっと美しい髪の女が見つかる。より美しい髪をすべて私のものにしたい。それだけだ」 「あなたが気に入る髪の持ち主は少ない?」 男の拘りは被害者の共通点を見れば明らかだ。彼は無意識に髪だけでなく容姿の優れた女性ばかりを狙っていた。 「もちろんだ! 私が求めるのは至上の宝ともいうべき極上の髪だ。 ああ、あの髪だ! あれが欲しい!」 居間の片隅で巾を身体に巻きつけて話を聞いていた香鈴を目ざとく見つけて、男は血走った目で熱に浮かされたかのように喚き出す。だが。 「あげません」 きっぱりと一言で切り捨てて、影月は手振りで香鈴に場所を移動するよう合図した。頷いた香鈴が櫂瑜の後ろに隠れるとようやく安心して話を続けることができた。香鈴の姿を見せるだけでも業腹だったからだ。 「あなたの職業は薬売り。市で仕入れもすれば露店で売ることもあるけれど、それはごく一部。身分貧富問わずに家々を訪ねて直接薬を売るのが主な仕事ですね。この琥lであなたが出入りしたことのない場所はほとんどないでしょう。どこにいてもあなたは疑われることはなく、誰を知っていても不思議ではない。例え家の奥だけで暮らす、家族にしか会わないような娘さんにでも薬を売るのに話を聞くでしょうし」 「でもこいつ、確かに俺も顔を知ってはいたが州牧邸には出入りしてないよな? なのになんで迷わず嬢ちゃんの室に?」 そこで燕青が口を挟む。他の家はともかく、影月がいるため州牧邸では薬売りを招く必要はない。 「あー、それはですねえ。僕らが琥l入りする前はたぶん出入り自由っていうか、お化け屋敷状態っていうかだったでしょう。誰でも入れたと思いますよ。建物そのものを建て替えたわけでもありませんし、間取りも変わっていませんから、その時入り込んでたらだいたいは判るでしょう」 きまり悪げに頬を掻く燕青のせいだけではないのだと、影月は調べたことを教える。 「あと、こっちが確実な話ですが。十日ほど前に州牧邸出入りの酒屋さんが、彼に中がどうなっているか聞かれたというのです。探せば聞かれた人物はもっといるかもしれません。何しろ彼は誰に何を聞いても疑われない。州牧邸の家人の誰か――この場合香鈴さんでしょう――が薬を探しているらしいと噂を聞いたとか何とか。香鈴さんの薬なら僕が用意するから余計なお世話ですけどね」 何やら付け加えられた感想には誰も触れなかった。 「そうそう。智稠さん? あなたにお知らせしておかないと。僕宛に遠まわしな伝言が届きまして。 旛一族はあなたを切り捨てました。一切関係ないそうです。だから今後、あなたを庇う人はもう誰もいません」 さすがにここまで騒ぎが大きくなると、これまで度重なる智稠の犯行に目をつぶってきたが、これ以上は一族そのものの存亡に関わると判断したらしい。 「蜥蜴の尻尾切り、か」 忌々しげに呟く燕青に向かって影月は首を振る。 「むこうはそのつもりでもそうはいきません。さっき藍州の姜州牧と取引したって言ったでしょう? 旛一族のこと色々教えていただいた代わりに、少しお手伝いしておきましたから」 影月は会ったことはないが、悪夢の国試組のひとりである姜文仲は見た目よりはるかに抜け目なく有能な男だ。今頃影月に引っ掻き回されてあぶり出された旛一族は、姜の網に大量にかかっていることだろう。 この一月。影月は琥lを動いてはいない。茶州州尹の印をついた文書を大量に作成しては各地へと送り、返事を回収しては指示することに忙殺されていた。遠く貴陽や藍州にまで何度も鷹を往復させた。その度に重要な情報を携えて。 その結果、藍州州牧の手柄ばかりでなく、国庫も潤うことになったであろう。この件で影月が表向きに手にしたのは「髪切魔」の逮捕のみ。比べれば取るに足りないものと笑われるかもしれない。だが個人的に得たものに影月は十分満足していた。もう琥lに髪切魔が現れることはなく、美しい髪を持つ誰より大切な女性が救われたのだから。 影月は癒せぬ渇きに自覚せぬまま苦しみ、癒す方向を間違えた男に憐れみを覚える。 「智稠さん。どれほどあなたが変わらないと信じる髪を女性から奪い取り続けても、一時の陶酔と狩りの興奮しか得られない。でもそんなものはすぐに薄れるものです。積もるのは虚しさだけではなかったでしょうか? 虚しさを埋めるために躍起になって今年に入ってから凶行の頻度を上げた。違いますか? あなたはいつまで続ける気だったのですか? どれだけ被害を出してあなたの手元により多くの髪が集まったとしても、あなたが心底満足する日などありえないのに。何の感情も返してもくれない髪では、所詮あなたが殺した梅雪さんの代わりにはならないんですから。 それに、そもそもあなたは間違っている。髪はそれだけで美しいんじゃない。その本来の持ち主を飾っているからこそ美しく感じるんです。それに気付けない限り、あなたが真に美しい髪を手に入れることはないでしょう」 香鈴の髪は美しいが、香鈴が持つからこそ美しいのだと誰よりも知る少年は、そうしてようやく口を閉ざした。 こうして内輪の聴聞会を終えると、燕青が男を引っ立てて戸口へと向かう。 「じゃあ、こいつは俺が州城まで連れていくな」 「あ、僕も……」 州城に連行した後、裁判に向けてまだまだ細かい調書を作成するなど作業は山のようにある。だが燕青は同行しようとした影月に首を振った。 「お前には他に役目があるだろ?」 「は?」 自分の役目はこの後始末だと思っていた影月の瞳には疑問の色が浮かぶ。 「怖い思いした被害者を気遣うのも大切だし、適任はお前しかいないからな」 燕青の視線の先には、今頃実感が沸いて来たのか顔色の悪い香鈴がいた。確かにそれを見てしまった影月が見捨てていけるはずはない。 「じゃ、頼んだぞ。お前はもう今日は州城に戻らなくていいからな」 「ええ。後は私たちに任せてください。君は実によくやってくれましたよ」 燕青が、櫂瑜が。男と将軍と共に州牧邸を去って行った。 髪切魔事件はこうして収束した。 犯人を知人として知る者は琥lにはあまりにも多く、人々の間に走った動揺は大きかった。 後日、智稠の家を捜査したところ、異常なほど整頓された室内から、六年前から彼の手によって切られ奪われた娘たちの髪が、それぞれの名前と日時を記した人数分のまったく同じ寸法の木箱に、几帳面に保管されているのが発見された。調査に当たった者たちの背筋を凍らせたのは、まだいくつかの空の木箱。それが犯人の凶行継続への意志を雄弁に語っていたからだ。 何日にも渡る取調べには、影月の希望もあって葉医師にも一度同席を依頼した。 「許婚の裏切りで心を病んだな。そもそも血族婚を繰り返す家系はどうしても血が濁る。肉体的にだけでなく心も障害を引き起こしやすい因子があるんだ。まあ、そうなりやすいってだけの話だがな。子供時分から蒐集癖があった? それくらい皆やるさ。蝉の抜け殻や木の実なんかをせっせと集めた記憶はないか? だからそれだけじゃ異常でもない。蒐集せねばと強迫観念を持ち、手段を選ばなくなることが異常なのさ。かてて加えて常軌を逸した強い独占欲だな」 初老の医師の見解を拝聴しつつ影月は己を省みる。 「蒐集癖、独占欲。誰が持っていても不思議じゃないですよね。僕の中にもありますし」 「そうさ。皆どっかおかしいところはある。だがやっぱり境界があってな。自制って奴だな。こいつは越えてしまったんだよ。失うべきでなかった相手を自分で滅ぼしてしまった時に」 狂気は誰の中にでもあるのだと、この事件は影月に強く教えることになった。 「香鈴さん、お室に戻りましょう」 居間にふたりきりで取り残された影月は、しばらく四人の消えた戸口を眺めていたが、今は誰よりも労わるべき人物へと注意を戻す。少女は常よりももっと頼りなく見え、守らねばという庇護欲に駆られた。このまま居間にいるよりは休ませた方がいいだろうと手を引くと、香鈴は素直に導かれるままになる。 自室に入ると赤く汚れた敷物に視線を落として、それまで青い顔で黙り込んでいた香鈴がぽつりと呟いた。 「許せないという思いが消えないんですの。女の髪を切って奪うことは暴力で窃盗ですのに、あの方はそれを危害だなんて思ってもいらっしゃらなかったのですから」 「そうですね」 髪切魔の告白からは被害者に対する配慮はまったく見られなかった。独りよがりで傲慢な男は、髪を奪われた女性がどう思うかなど考えてもみなかったのだろう。 「わ、わたくしの髪は、わたくしにとっても大切なものですけれど」 香鈴は浮かび上がる涙を堪えようと潤む瞳を見開く。 「影月様がお好きだとおっしゃってくださったから、もっと大切になった髪ですのに」 「はい。香鈴さんの髪、僕は大好きです」 今はおろされたままの髪が、長く香鈴の背を覆っている。それは濡れたように輝き、影月の目に好ましく映る。 「切られなくて、よかった……」 その長さを確かめるように、香鈴は自らの髪を掴んでしみじみと眺めた。 「ええ、本当に。でも僕がもっと早く犯人を特定できていたら、香鈴さんをこんなに怖がらせずにすんだのに」 己の不甲斐無さに唇を噛んだ影月だったが、健気な恋人は彼を責めはしなかった。 「いいえ。ちゃんと駆け付けてくださいましたわ」 「だけど香鈴さんが自衛してくれたから何とか間に合いましたけど、そうでなければ……」 影月は垂らされた香鈴の髪を掬う。無残に奪われていたかもしれない髪は、艶やかにしっとりと指先で泳ぐ。 「例え髪であっても。香鈴さんが傷つけられていたら、僕は官吏に必要な公平な判断をきっと失っていたでしょう」 燕青がその時には止めてくれただろうが、拳を向けずにすませられたかというと自信はない。自分は暴力行為には不慣れだから、殴り付けても相手にはそれほど痛みを与えられなかったかもしれない。おまけにこちらが指の骨を折ってしまったかもしれない。それでも。誰よりも自分が守ると決めたこの愛しい女(ひと)が傷つけられたならば……。 無事だった髪を指に絡ませて影月はそのまま唇を寄せる。髪は唇にひんやりと冷たく当たる。だがしばらくそうしているとほんのり温かくなって影月を安心させた。 「でも、来てくださいましたもの。燕青様にお任せすることができてほっとはいたしましたけれど、わたくしを安心させてくださったのは影月様のお姿でしたわ。他の方ではだめですの」 「香鈴さん」 指を引き抜くとするりと黒絹の束が逃げ出すにまかせた。もっと今は掴みたいものが他にある。そのために、できるだけゆっくりと両手を伸ばした。無理に微笑もうとしている華奢な麗しい乙女を抱き寄せるために。 「もう、我慢しなくていいんですよ」 「わ、わたくし」 影月の言葉につられるように、香鈴の整った顔がこらえきれずに歪み、赤い唇が慄きを洩らす。 「こ、怖かっ……」 「ええ。怖かったですよね。がんばりましたよね」 溢れ出した涙が幾筋も幾筋も流れ落ちる。たまらず胸に引き寄せると、香鈴の纏っていた巾が床に落ちた。 「でももう大丈夫ですから」 震えながらしがみついてくる香鈴が嗚咽を洩らし始める。髪を背を撫で、頭頂に唇を寄せ何度も大丈夫と囁く。 太陽が姿を消して夜がその帳を徐々に降ろすまで、影月は存分に香鈴を泣かせるにまかせた。 「申し訳ございません。すっかり取り乱してしまいましたの……」 「あんな目にあったら無理もないです」 影月はすっかり目を赤くした香鈴を長椅子に導いて腰を下ろさせると、その手に湯呑みを持たせる。 「お水です。あ、さっきと逆ですねえ」 香鈴の唇がようやく笑みを作り、目尻に残っていた最後の涙のかけらがその拍子に転がりおちていく。飲み干された器を受け取り傍らの卓子に載せると隣り合って座り、湯呑みから解放された彼女の手を左手で握りしめ、右手で引き寄せた小さな頭部に額を押し付ける。 「変ですね。僕も今になって香鈴さんが無事だったんだって実感してきました。この一月かかりきりだったのがようやく終わったんだって」 「ええ、終わりましたわ。これで琥lの女性は安心して過ごせますし、わたくしも……」 香鈴が影月の胸に甘えるようにもたれる。泣いて僅かにかすれた声すらも甘く届く。 「ようやく影月様と過ごせますの。あの犯人の方をそれは恨みましたわ。おかげでずっと淋しかったんですもの」 「僕も、淋しかったです。長い一月でした」 頭に乗せていた手で髪を撫で、撫で下ろした手が肩へと落ちる。肩から顕になった腕へと辿りつくと、滑らかな肌の柔らかな二の腕の感触を楽しみながら影月は呟く。 「やっぱり彼は許せないな……」 「影月様?」 「だって香鈴さんのこの腕も見られてしまったわけですし」 影月は理由を問う香鈴の腕から手を離さずに憮然として答える。居間では巾によって隠されていたから気にならなかったが、香鈴の室であの男は目にしたはずだ。 「あの方の興味は、わたくしの髪にしかなかったと思いますわ。それにすぐ目を開けていられなくなられましたし」 「一瞬でも許せませんよ」 それなら余程燕青に見られた時間の方が長かったと思ったが、あえて香鈴は沈黙を守った。 それに今はそんなことよりも、香鈴は影月の手の動きばかりを意識してしまう。どうやらその感触が気に入ったらしく、しきりと上腕を前後しつつ揉み続けているのだ。髪切魔に触れられたのは果てしなく不快なだけだったが、恋人の手にそれはない。むしろそうして触れられるのは心地よい。だが袖がなくなったことで広がった肩口から直接背に触れられて、香鈴は別の感覚に思わず震えた。 「寒いんですか、香鈴さん?」 「それほどではないのですけれど……」 答えながら香鈴は無意識に影月の手が離れた腕をさすっていた。 「そういえば窓が……。少し待っていてくださいね」 長椅子を離れて影月は窓へと近付いた。本来内側からしか開かぬ窓が道具を使って無理矢理外から開けた後がある。掛けがねを留めながら、州牧邸の家人にでも更に厳重なものにしてもらおうと影月が考えていると。 とん、と温かいものが背中に当たってきた。 「香鈴さん?」 「だって、少しが待てなかったんですもの」 後ろから回された両手がしっかりと影月の胴を抱えている。その気持ちがくすぐったくて、影月は小さな手をそれぞれ握り締める。 「ああ、ほら。月が昇りましたね」 夜の深い藍色の昊に、生まれたばかりの月の白さが美しく、香鈴にも見えるよう手を離して並び立つ。 「わたくし、月が好きですわ。影月様と同じお名前ですもの」 月光を浴びて佳人は儚げに微笑み、その動作につられて髪が揺れる。剥きだしにされた白い腕に夜露に濡れたような幾筋かの髪がこぼれ、白と黒の対比が鮮やかだ。だが今は、月の光をあびることで共に白く冴え冴えと輝いて、影月の目を射る。 ひとつ息を飲んで、影月は手を伸ばす。掴んだ腕は先ほどまでの外気に触れて僅かに冷えており、月に染まったが故だとの錯覚を引き起こす。だから彼女を染めるのは、たとえ月でも許せなくなった。 「僕と同じ名前ですけど、僕じゃありません」 怪訝そうに見つめてくる香鈴の肩を抱いて、半ば強引に窓から引き離すと、 「ここは冷えますから」 衝立のむこう、帷を開いた臥台へと導いた。 「影月様? どうなさいましたの?」 「月をね、じっと見てると気が狂うんだそうです」 まあ僕の場合は、と影月は香鈴を臥台に押し込む。 「狂気に駆り立てるのはあなたですけど」 目を見開いていた香鈴が、何かに納得したように薄闇の中、両手を影月の首にと伸ばしてきた。 「それならば、わたくしはとうに狂っておりますわ。だって。ずっとあなたに照らされているんですもの」 わたくしだけを照らしていてと小さく続けられて、影月はそのまま香鈴に覆いかぶさる。 「じゃあ、ふたりでこのまま狂ってしまいましょうか」 禁断の薬など必要ない。こうして互いに寄り添えば、酔うことはあまりに容易い。 ゆっくりと臥台に沈みながら、心にも身体にも至上の快楽を与えてくれる存在にのみ注意を向けた。 閉じられた両の瞼にかわるがわる唇で触れる。それが頬に、やがて唇へと辿りつくと、愛おしいと思う気持ちが膨れ上がって、軽く触れ、啄ばむような口づけはたちまち深く激しいものにと変わっていく。 名残惜し気に唇を離すと、その小さな頭を掻き抱いて耳元に囁いた。 「あなたを僕のものだけにしておきたい狂気も、あなたのすべてを貪りたい狂気も。両方僕の中にあります。それでも、受け入れてくれますか?」 「全部、わたくしにくださいませ。そうでなくては嫌ですわ」 香鈴から立ちのぼり包む香りは甘く、昂ぶった感情のまま衿を広げるのももどかしい。広がる烏羽玉の髪の上に露わにされ、すぐに上気するだろう肌がこの上もなく映えるのを知っているだけに。 「誰にも、渡しません。髪の一筋さえも、全部。あなたは僕だけのものだ」 その姿も心も、何もかもがかけがえのない宝。どんな財宝にも勝る、至上の珠玉。閉じられた帷のむこうから微かに届く光を受けて艶めいてぬめるよう輝き、わずかに残っていた正気をさらう。いや、この場で正気などは必要とされない。恋という狂気はとうにふたりを取り込み、ただ更なる深みへと引きずりこむのだ。 だからあとはもう互いに狂おしく求め合い、理性も常識も吹き飛ばして、ただ恋という狂気に身を任すしかなかった――。 「そうそう、香鈴さん?」 怒涛の狂気が一旦去ると、影月は香鈴の髪を弄びながらやさしく告げる。 「髪切魔は捕まえましたけど、護衛付きの外出は続行ですからね。守れないようだったら一切の外出禁止です」 それなら一度くらい破ってもらった方がいいか、との不穏な呟きを耳にするに至って、影月の本気を察した香鈴は不自由を享受する道を選ぶしかなかった。 香霧雲鬢湿 清輝玉臂寒 たとえ闇に沈んでも。暗がりの中でも輝く髪があなたを飾って更に煌かせ、僕を導くだろう。その烏羽玉の至宝の元へ必ず辿り着けるよう――。 |
「烏羽玉の至宝」(うばたまのしほう) 少し大人なムードのものが書きたくてこの話ができました。 大人、だといいなあ。 さて嘘八百の告白。 「麻騰散」は彩雲国のでなく、歴史上(後漢)の名医華陀が使用したと伝わる麻酔薬「麻沸散」のもじりで、材料は大麻ではないかと言われています。酒で飲ませて外科手術をしたとか。 九麻に至っては完全に私のでっちあげ。まあ強力な大麻の類と思っていただければ。 麻のルーツがヒマラヤの山岳地帯だそうなので九彩江に自生させました。 そんなものを独占している一族がいたらとっくに藍家がどうにかしてそうですが、つっこまないでください。 肥え太らせて利益を奪うつもりとか、実は持ちつ持たれつとか、お好きに想像してください。 使い方としてはクロロホルム的なものが薬草であればと思って調べたら「麻沸散」を発見したのでそちらのほうが彩雲国には合うかと。 大麻系にしては効果を色々付け足してます。だってフィクションだし。 中国風世界だから阿片系の方が合うかと思ったんですが、麻沸散のことを知って「こいつはいただきだぜ!」と思ってしまったのであくまで麻ベースです。 ヒロインの危機を助けようとするヒーローの影月版ということで どうやって活躍させるか悩んだ末、プロファイリングしてもらうことに。 私ではこれがせいぜいですが。 あと茶州に茶色の髪の人種が多いというのも私の捏造。まあほら茶州だし(安易) ある意味香鈴が強いですがやはり危険な目に合わせるわけにもいきませんし。 身を守る手段は必要かと。 一応事件系のお話で。 それに絡んで影月と香鈴のらぶパートをきっちり書くのも目的でした。 だから余計に長くなったともいう……。 でも二人が仲良くしてないと私が書く意味がないし。 ただ、どこまでどうなるかまでは勢いに任せた結果です。 しかしほぼ終盤まで書いて思ったのですが。 うちでヒロインやってると色々なもの欲しがられて香鈴ちゃんも大変だなあ、とか人事のように。 ラストで引用したのは杜甫の『月夜』です。 離れた地にいる妻を思った詩で、引用部分の美しさは格別です。 追記。 当初「麻沸散」とそのまま使用sておりましたが、原作にその名が出ているとのご指摘を受け、「麻騰散」と置き換えました。 |