君知るや南瓜の国
(きみしるやかぼちゃのくに)




   序章:星は知っている

「むむっ! この星廻りはよろしくない! このままでは主上の治世に禍いをもたらしますぞ」
 仙洞省令尹、羽羽は夜空を見上げて激しく動揺した。たった今読み取った星の知らせはあまりにも恐ろしいものだったのだ。
「一体どうすればよいものか……。ここは霄殿に相談するのが一番か」
 しばし熟考した羽羽は、もふもふと真っ白な髪と髭をなびかせてかつて宰相であった霄の元へと走り出す。
 満天の昊は人の思惑を知ってか知らずかただ無数の光を瞬かせていた。

   第一部

   第一章:天知る地知る我は知らず


 途中、仙洞省長官に拾われおぶさって、羽羽は霄太師を訪ねた。
「霄殿、どうかお知恵をお貸しくだされ!」
「おや、これは仙洞省の長官と令尹お揃いで」
 振り返った霄はふたりに席を勧める。
「ああ、長官には酒は早いですか。茶は……さて、どこにしまったかな」
「この室で何十年と茶を見たことなぞないぞ」
 手酌で飲み続けている宋太傳の姿もそこにあった。
「いや、俺は羽羽を送ってきただけだから」
 リオウは手を振って一人退出しようとしたが、羽羽の言葉に足を止めた。
「今宵の星によくない卦が出ております。このまま放っておけば主上の御世に翳りがもたらされます!」
「羽羽、今夜の星は……」
 リオウの声はしかし、必死な令尹の声にかき消される。
「一大事にございます!」
「どんな卦が出たか知らんが、劉坊はそんなに柔にゃ鍛えてないぞ」
 宋が口を挟むとすかさず霄が混ぜっ返す。
「身体はともかく、中身はまだまだ柔じゃな」
「それは否定せん。そのあたりはどうせお前が色々ちょっかい出すんだろ」

 三師のうちの二人にここまで言われる劉輝もどうなのだとか思いつつ、リオウはそっと室を去った。
(羽羽は何を読み取ったんだ?)
 自分が仙洞省の長官というのは、あの父の一種の戯れにすぎない。だからあえて余計な口を挟むまいとの考えだったのだが、リオウは後に己の行動を深く悔やむこととなる。

「ともかく、一大事なのですぞ!」
 少しも本気に取った様子のない二人に、焦れた羽羽は再度叫んだ。
「それで、羽羽殿は一体何を読まれたのかな?」
 一見丁重に、しかし付き合いの長い宋から見れば明らかに面倒くさそうに霄は問い返した。
「このまま何も手を打たなければ。今月も終わる頃、世にも怖ろしいものが来襲いたします!」
「そらまた急な話だな。これまでそういった報告はなかったと思うが」
 元来武人とはいえ、政治の中枢に関わってきた宋も情報の大切さは熟知している。ましてや後一月も猶予がないのであれば、報告を怠ったと仙洞省の責任も問われるであろう。
「大変お恥ずかしながら、結果を読み取ったのが今夜なれば」
 しおしおと羽羽がうなだれると、なんだか自分がいじめたようで宋は居心地が悪くなる。傍らの霄をつついて何か言えと合図する。
「羽羽殿。具体的にどのようなものが現れるというんですかな」
 渋々といった様子で霄が訊ねると、羽羽は重々しく告げた。
「このままでは……。我らが彩雲国に恐怖の南瓜大王が降臨いたしまする」

「はあっ!? かぼちゃ? だいおう? なんだそりゃ!?」
 宋は思わず大声で聞き返した。あまりにも荒唐無稽な組み合わせにしか感じられなかったからだ。彼の感覚は正しい。羽羽はしかし、あくまでも生真面目な態度をくずさない。
「わしの読み取ったのが『恐怖』『かぼちゃ』『大王』でしたから、そこから解釈いたしまして」
「『南瓜大王』ならば知っておりますぞ」
 突如、重々しい口調で霄が割って入る。
「さすが霄殿! 博識であられる!」
「いやいや。これは我らが住む世界とは違う世界に伝わる話らしいのですがの。
 その異世界においてある秋の夜、大量に悪鬼が襲来するとか。それを統率するのがくだんの『南瓜大王』ということらしいですな」
 何やらもっともらしく聞こえることを淀みなく霄は並べ立てた。
「つまり、異世界からの悪鬼が『南瓜大王』と共にわが国を襲うと! ああ! 霄殿! 一体どう対処すればこの危機から救われましょう!?」
 素直に受け取った羽羽の顔色が髪と髭に埋まってよく見えないがどうやら青くなっているらしい。
「異世界のものは異世界の流儀にならうのが筋かと」
 誰もがその知恵を賞賛したかつての宰相はまるで現役に戻ったかのように頼り甲斐を見せた。
「と申されると?」
「『南瓜大王』率いる悪鬼の群れの襲来を防ぐべく、その世界の住人は、襲来の予想される日に、皆で悪鬼の扮装をするそうですの。もうこれだけの悪鬼が地上に降りているのだから、これ以上の襲来は必要なし、と思わせるためと、どこかで読んだ記憶がございますなあ」
 異世界のことまで詳しいとはさすが霄殿、相談しに参って正解であったと羽羽は手を打つ。
「なるほど! それではさっそく手配をせねば! まずは主上と悠舜殿に話を通さねば!」
 すぐに駆け出そうとした羽羽の衿を掴んで霄は留めた。
「主上にはわしから申しましょう。悠舜殿には羽羽殿からお願い申します。ただ、詳しいことをもう少しここで打ち合わせしておこうではありませんか。ささ、一献」

 途中からただ黙って酒を飲んでいた宋の目が、
(何企んでんだ、この野郎)
 と語っているのを綺麗に無視して霄は羽羽に更なる知恵をつけていったのだった。

   第二章 知るも知らぬも一蓮托生

「……というわけですので、悠舜殿、何とぞご協力を!」
 執務室に現れた仙洞省令尹の姿はなんと癒されるのだろうと、尚書省尚書令は手振り身振り付きで熱弁する羽羽を眺めてそんなことを思っていた。
 時刻は明け方。昊の星はその姿を淡く消し始めている。果てしない業務に追われる宰相はもちろん、老齢の令尹もまた眠らずに朝を迎えていた。
 蓄積された疲労の中に映る羽羽の姿は目にやさしい。
 だが内容はすこぶる重大、かつ緊急。ただし常軌を逸していた。

「羽羽殿、お話はたしかに重要かとは思いますが、その対処法は私ですら困惑いたします。ましてや百官におきましては果たしてその意味を正しく理解し、協力してくれるとは思えないと正直申し上げましょう」
 悠舜の脳裏に、素直に従ってくれそうもない、しかも高位の男たちの顔が次々に浮かぶ。上司が従わなければ部下もまた従うまい。おまけに、当然のことながら各部署には温度差がある。宮中一斉実施は準備期間の短さともあいまって困難なことは容易に予想された。
「はい。これまでにはなかったことですから、皆、混乱いたすでしょう。ですが! 我らが彩雲国にみすみす悪鬼の襲来を招く事態は、どうあっても回避せねばならんのです!」
 これが兵を蓄えて随所に配置し、打って出ようとでもいう内容であれば、それでさえ反対する者もいようが、まだ理解はしやすい。相手の戦力も戦法も規模も、何もかも未知数であるならば回避は最良の策とはいえる。しかし……。
「羽羽殿。もちろん私は全面的に協力するとお約束はいたします。しかし、各部署への通達までには若干時間をいただきたい。ただ命を発しただけでは、意図する迎撃体勢は得られません」
「しかたがございません。この年寄りすら未だ困惑のただ中にございますれば」

 羽羽を見送って、悠舜は車椅子に身体を預けた。
「さて、どうしたものでしょう?」
 国試受験の際の同期たちは、まあ嫌な顔をしながらも協力はしてくれるだろう。軍もまた丸め込むことはできよう。難関は門下省、ならびに監察御史だ。これが前王の御世であれば鶴の一声で従わせることは可能であっただろうが、今の王では反発を招くばかり。
 深く考え込みながら、悠舜は車椅子を府庫の方角へと向けた。
「なんと厄介な事態を持ち込んでくれるのでしょう」
 その瞳は朝焼けの中薄れていく星をひたと見据えていた。

「早朝から失礼いたします。邵可様はおいでですか?」
「これは悠舜殿。多忙でいらっしゃるでしょうし、お呼びいただきましたらこちらからお邪魔しましたものを」
 府庫の主もまた泊り込みをしていたらしかった。溢れる本の山に囲まれて、悠舜はこの知恵の泉にのみ浸っていられればと憧憬を抱く。だがそんな日々は許されてはいない。
 首を振って悠舜は年長者への礼を取る。
「とんでもありません。若輩者ゆえ、邵可様のお知恵をお借りしたく参りました」
 目の前で父茶の湯気があがる。顔に出ないよう祈りながら口に含んだ悠舜は、この父茶の刺激こそが今は必要かもしれないと思いなおした。
 悠舜からの話を聞いて、邵可もまた考え込んだ。
(これは、あの狸爺が関与していそうだ。しかし、羽羽殿に悠舜殿、ひいては宮中すべてを巻き込むのであれば、事態は意外に深刻かもしれない)
 弟の友人でもある苦労性の宰相に向かって、邵可は柔和な笑顔を向けた。
「悠舜殿の懸念は、門下省、ひいては資蔭制出身貴族ですね」
「お恥ずかしい限りです」
 明言は避けたが、結局のところ悠舜の悩みはそこにあった。
「そう、旺季殿は根の真面目な方。下手に策を弄するよりも、羽羽殿から聞かれたことをそのまま口頭にて伝えられたほうがよろしいでしょう。旺季殿が動けば兵部も動きます。御史台もあるいは」

 いくつかのことをなお語り合って退出していく宰相の背中を見送りながら、邵可はできれば会いたくはない、しかし会わねばならない狸を探しに、やはり府庫から姿を消した。


   第三章:五十にして天命を知る場合

 朝議の後、旺季が悠舜に呼び止められ、そのまま別室に行くのを兵部尚書は目にした。
 特に用事があったわけではないが、孫陵王は二人が出てくるのを室の前にて待つことにした。秋もいい具合に深まって、目前の王宮の庭院の木々も鮮やかに染まり始めている。常ならばゆっくり眺める暇もないのが惜しいくらいに見事だった。
 ほどなく二人が室から出て陵王に気付いた。悠舜は軽く目線で挨拶をして杖をつきながらひとりその場を立ち去っていく。
「旺季」
 呼びかけると青い顔を門下省長官は上げる。重ねる年齢に隠されがちではあるが、若き日の美貌は今も見てとることができた。
「やっかいごとでも持ち込まれたか?」
 気軽な調子で話を振ってみても、旺季はなかなか乗ってこない。
 少々焦れてきた陵王がいっちょ旺季の口に持参の飴など放り込んでやろうかと考え始めた頃、ようやく旺季は重い口を開いた。
「緊急事態だ。陵王、室まで来てくれ」
 王家に、王位に近い場所で生きてきた男のその声に、陵王は逆らう気など微塵もなかった。
 その、内容を聞くまでは。
「正気か!?」
 詳細を気乗りしない表情で語った旺季に、陵王は真っ先にそう聞いた。
「残念ながら正気だ。悠舜と羽羽殿が夜が明けきる前に会っていたという報告は受けている。おそらく、そこには一片の偽りもなかろう。となれば、協力するしかあるまい」
 だが陵王は別のところに気を取られたようだ。
「働き者の宰相殿は夕べも帰らず徹夜で仕事か。たしか新婚、少なくとも結婚して一年くらいだろう。いっそ俺が奥方を慰めてさしあげ……」
「陵王」
「おっと、下世話に過ぎたかな」
 それには答えず旺季は呼び出しの鈴を降る。
「なんだ? 俺に相談せずに晏樹坊やにするというのか?」
「坊やはあんまりではありませんか、孫尚書」
 現れた門下省令尹は華やかな空気を撒き散らしながら、猫のようにするりと執務室に現れた。
「若く見えるって褒めてやったんだが。まあ、苦みばしった男の魅力は若作りよりも上だがな」
「おや、尚書はもうそんなにお年でしたか」
 気心がしれたようでいて、お互い探りあうばかりの会話は寒い。
 それを断ち切るように旺季は言い放った。
「晏樹。門下省の全官に通達を。我々は『みいらおとこ』なる部門を担うことになった」
 常に余裕のある態度を崩さない令尹の表情にさすがに懸念の色が浮かぶ。
「長官、おそれながら『みいらおとこ』とは?」
「異世界の悪鬼の一種であるらしい。ちなみに、六部は『きゅうけつき』らしいから、陵王もそのつもりでいるように」
 陵王が苦虫を噛み潰したかのような顔をする。
「だから、見たこともないようなものにどうやってなれと……」
「後ほど、尚服官が各部署に現れて採寸を始めるそうだ。具体的な様相はその時に説明されるということだ」
 まだ不平をつぶやく兵部尚書を置いて、旺季は晏樹に事の説明を始めた。
 いわく。
 今月末日、異世界より悪鬼襲来の卦あり。ために、この事態を避けるべく、王宮中の人間が異世界の悪鬼の扮装をせねばならない。悪鬼には数種類あり、門下省は『みいらおとこ』を担当する。
「これは……皆、素直に従わないのでは?」
 晏樹の言に旺季は短く答えた。
「命令は絶対だと思い知らせろ。禄を食んでいるのは何のためだと思い出させるがいい」
「まあ、私は面白そうだと思うわけですが。……それで、『みいらおとこ』は長官もなさるのですか?」
「当然だ。上に立つ者が指針とならねばどうする」
「ああ。では門下省の官吏は全員長官と『お揃い』になるんですねえ」
 旺季の額に青筋が浮かぶのをながめて素早く晏樹は席を立った。
「それでは通達の文面を考えてまいりましょう」

 残された二人の男は晏樹の出て行った扉にしばし視線を向けたままだった。
「使える男だが、どうも調子が狂うな」
「お前も似たようなものだろう」
 切り捨てる旺季に不満を隠さない旧友に、仕方なく煙管を渡してやる。
「それはあんまりじゃないか?」
 煙管を取って、さもうまそうに吸い込みながら陵王は自分と晏樹の違いを並べ立て始めた。
 しかし、扉を見つめる旺季は少しも耳を貸さず、ただつぶやいた。
「このような事態を迎えるとは。これも天命だというのか」
 やはり現王の治世にこそ問題があるのではと言う言葉を飲み込んで。

   第四章:一を聞いて十を知れ

「……というわけで、今月末、宮中を上げて異世界の悪鬼の扮装をすることになった。ちなみに我らが御史台の部門は『とうめいにんげん』とのことだ。尚服官が来るまでに各自考慮のこと。以上、解散」
 御史台長官、葵皇殻はそう言って集めた御史たちをさっさと退出するよう促した。
「長官! 質問があります!」
 紅秀麗が手を上げると、皇殻は冷たい一瞥と共に短く言い切った。
「却下」
「なんですかそれ! だいたい『とうめいにんげん』って何ですか!? 人間が透明なわけないし、透明になれるはずもないじゃないですか!」
 秀麗は常に長官に食って掛かる毎日を過ごしている。これくらいではめげない。
「馬鹿はうちには必要ない。その証拠に、お前以外は納得してるようだが」
 秀麗が周囲を見回すと、そそくさと同僚たちは退出するところであった。
「頭があるなら使うことだ」

 室から追い出されてもなお、秀麗は長官室の前で抗議をしようとしていた。が。
「なんだ、あんなこともわからないのか。国試探花及第っていうのはただの身内のツテか」
 天敵の登場に秀麗は熱くなる。
「なによ! 実力に決まってるでしょ!」
 そうは言ったものの、目の前のこの罵っても罵っても飽き足りない男にはわかったのかと思うと、悔しさで脳みそも沸騰しそうだった。
「それじゃあ、よっぽどお前が受験した年は足りない奴ばっかりだったんだな」
 鼻で笑ってみせる陸清雅から漂う余裕が、尚更秀麗を逆上させる。
「実力だって言ってるでしょーっ! 第一、あんたに同期を馬鹿にされる謂れはないわ!」
「お前を見ていたらそうとしか思えないからそう言ったまでだ」
 清雅は秀麗を見下ろしながら唇を吊り上げる。
「教えてやろうか? 足りないお前にもわかるように?」
 優しそうな口調で毒の滴り落ちるような台詞が秀麗の耳に届く。
「誰があんたなんかに! 見てなさい! 立派な『とうめいにんげん』になってみせるわ!」
「負け犬の遠吠えか。見当違いして御史台の評判を落とすなよ?」
「だ・れ・が、負け犬よーっ!」
 楽しそうに笑いながら立ち去る清雅の背中に秀麗は呪詛をつぶやくしかなかった。

「悔しい! 悔しい! くやしいーっ」
 おなじみの布団簀巻きに足蹴り攻撃を繰り広げながらも、秀麗の怒りはおさまらない。
「あのさあ……」
 秀麗配下でもある榛蘇芳が遠慮がちに口を挟む。
「なによ! タンタンにはわかるの!?」
「わかるわけねーよ。あんたがわかんねえならさ。でも、他の御史にわかったんなら解決の糸口はちゃんとあるんじゃねーの?」
 蘇芳の言葉には耳を傾けた方がいいことは、これまでの経験で秀麗も熟知していた。
「うっ……。もう一度長官の言ったこと、思い出してみるわ」
「そーして? あんたがわかんねーと、俺もずっとわかんなくて、どんな扮装もできなくなるし」
「どんな扮装も……?」
 何かが秀麗の思考に引っかかる。
「それよ! 偉いわタンタン! そうだったのね!」
 いきなりの急転直下な反応に、蘇芳は椅子から落ちそうになった。
「そうか! そうよね! 私たち、御史なんだものね!」
「お、おう……」
「偉いわタンタン! さあ、いい時間だしお昼にしましょう。好きなだけ食べていいから」
 振り向くとすでに弁当を勝手に広げてつまんでいる人影が見えた。
「清雅ーーーーーっ! 何勝手に人のお弁当食べてるのよっ!」
 秀麗は慌てて弁当の重箱を取り上げる。
「心配して来てやったんだ。馬鹿なお前が間違った答えに辿り着くんじゃないかとな」
「余計なお世話よっ! この暇人! さっさと出て行って!」
 秀麗の手を掻い潜って、清雅はもうひとつ点心をつまみ上げてみせた。
「答え合わせ、してやろうか?」
 もう限界だった。
「出てけーーーーーっ!」
 秀麗に投げつけられた簀巻き布団をあっさりとよけて、ようやく清雅は室を出て行ったのだった。笑い声を高らかに響かせながら。


「まったく! なんだってあの男はこっちの気に触ることばっかり言ったりしたりするのかしら!」
 ついには塩まで撒きだした秀麗に、あえて余計なことは言わないだけの分別は、あまり蘇芳にはなかった。何しろ、“考えてること垂れ流し”なのが彼である。
「愛されてんじゃねーの」
「いやっ! そんな不吉なこと言わないで! 憎まれてる方が千倍マシよ!」
 なげやりな蘇芳の言葉に本気で嫌がる秀麗の腕には鳥肌がたっていた。
「ま、どっちでもいいけど。と、お嬢さん、尚服官来たみたいだけどどうすんの?」
 蘇芳の声に振り返ってみれば、秀麗の怒りっぷりに怯えたのか、巻尺を手にした派手な服装の人物が入り口に立ち尽くしていた。
「……お騒がせしました」
「いえ……」
 秀麗と尚服官は微妙な位置と表情で固まっている。やれやれと蘇芳は口を挟む。
「さっさと何作ってもらうか言って、採寸してもらったら? でないとせっかくの弁当も食べられねーし」
「そ、そうね! えーと、私たちがお願いしたいのは――」

 尚服官を見送った後、弁当を包みなおして秀麗と蘇芳は冗官室への道を辿っていた。御史だということは口にできないが、元冗官仲間と過ごす時間は秀麗にとって気分転換の役割を果たしている。
「秀麗! 紅秀麗!」
 回廊でいきなり名前を呼ばれて秀麗は首を回した。
「まあ! 珀じゃないの! なんか久しぶりな気がするわ」
 書類を抱えた同期の珀明の姿に秀麗は顔を綻ばし、蘇芳に先に行ってくれるよう合図する。
「当たり前だ。だいたいお前が尋ねてこなければ僕にはお前の居所もわからないんだからな。第一、お前ときたら同期より冗官仲間の方が大事らしいし」
 御史であることを伏せているのだから、当然珀明には秀麗の仕事部屋も見つけられない。
「同期は大切よ。そんなこと当たり前じゃない。それに、前に珀、言ってくれたじゃない? 貴族のつながりをもっと知るように、って。あれ、本当に有意義な助言だったわ。ありがとう。そんな助言をくれるのも同期ならでこそよね。うちの上司や同僚にもそういう配慮が欲しいとこだわ」
「なんだ、苦労してるのか?」
 一瞬、長官や清雅への不満をぶちまけたい衝動に秀麗はかられた。正義感の強い珀明なら、きっと秀麗に同意してくれるだろう。だが、口になどできるわけがない。
「まあ、それなりには。でも、やりがいはね、あると思ってる」
「ならいいが、あまり無理はするな」
 進士時代も何くれとなくかばってくれた珀明の姿が今も重なる。あれから一年以上。珀明もまた、ぐっと大人びた表情を見せるようになった。
「ありがと。珀こそ大丈夫? 痩せたんじゃない? 吏部って殺人的に忙しいって言うし。誰か尚書に意見できる人はいないの? あんまりよね、仕事しない上司なんて最低だわ!」
「僕の方は大丈夫だ。まだ下っ端だが、忙しいということは色々な仕事を知って覚えるということでもある。それに、絳攸様が耐えてられるのに僕程度で弱音を吐くなどできるか」
 相変わらずの同期の絳攸崇拝ぶりに、秀麗は苦笑いを洩らす。
「……本当にあんたって絳攸様のこと好きよねー。それより。ねえ、吏部にも月末の通達って来た?」
 全部署に通達はなされているはずだから極秘でも何でもないのだが、つい声を潜めてしまうのはその内容の特異性だろうか。
「ああ。さっき尚服官も回ってきてたな」
「六部は『きゅうけつき』なのよね。珀、『きゅうけつき』ってなんだか知ってる?」
 先ほど尚服官に絵図を見せてもらったものの、どういった悪鬼だかの説明まではされてはいない。
「なんでも人間の生き血をすする悪鬼ということだが」
「ふーん? 蚊みたいよね」
「……」
 不快そうに眉をひそめた珀明の気分を少しでも良くしようと、秀麗は先ほど思ったことを口にした。
「あ、でも! 尚服官に見せてもらった悪鬼の絵図の中じゃ、一番かっこいいんじゃない?」
「やめてくれ。あんなものをかっこいいなどと認めたら、僕の審美眼が疑われる」
「そうかしら? どうせみんな悪鬼の格好するんだから、その中で一番かっこいいのが六部ってことなんだからいいんじゃない? おまけに珀ならちゃんと着こなせるんだろうし」
 なんと言っても珀明は碧家の出。例え悪鬼の扮装であったとしても、それなりのものにしてしまうはずだ。
「まあ、見苦しくならないように努力はするさ」
 秀麗が宮城で知っているのは御史仲間を除いてはやはり六部の人間が多い。あんな人物もこんな人物も『きゅうけつき』になるのかと思うと少し楽しい……かもしれなかった。
「あら? っていうことは、噂の仕事をしない最低の吏部尚書も、『きゅうけつき』のかっこうをするわけよね? ちょっと見てみたい気もするわ」
「それこそ悪鬼の親玉……」
 思わず声に出した珀明の後頭部に何かがぶつかった。
「鉄扇? どっから飛んできたのかしら」
 鉄扇を見た瞬間、珀明の顔から血の気が引いたが、彼はつとめてさりげなく発言する。
「……お前、冗官室で食事にするんだろう。そろそろ行った方がいい」
「ああそうよね! お昼食べる時間、なっくなっちゃうわ! それじゃ、珀、またね!」
 手を上げて挨拶しあって、秀麗は冗官室に向かい、珀明はすでにこの場を去ったらしい持ち主に、どうやって鉄扇を返すべきかと頭を悩ませた。

   第五章:衣食惑いて礼節を知らず

「もういい加減に拗ねるのはやめたらどうですか?」
 側近のひとり、藍楸瑛は器用に入れた茶をそっと差し出す。
「あんまりそいつを甘やかすな」
 もう一人の側近、李絳攸が不機嫌に口をはさむ。
 ここは彩雲国の最高権力者、国王の執務室のはずだった。しかし、当の国王は机の下に潜り込んで既に一刻が過ぎようとしていた。
「また霄太師に何かかつがれたんですか?」
「それは、ないと思う。悠舜からも同じことを聞いたから」
 楸瑛からの茶を受け取りつつ、あくまでも机の下に居座る紫劉輝、二十一歳。
「うーん、おそろしいほど霄太師と悠舜殿への信頼感に差がありますねえ」
 いっそすがすがしいと呟く楸瑛に劉輝は反論を試みる。
「楸瑛もあの爺に十年以上ホラばかり吹き込まれれば余の気持ちもわかるのだ」
「そうは言うが、毎回いいように霄太師に乗せられているように思うのは俺の気のせいか? 少しは成長しろ」
 決済の必要な書類を積み上げながら絳攸は自分の分の茶を取り上げた。
「絳攸はいいのだ。『きゅうけつき』なのだろう?」
「『きゅうけつき』のどこがいいんだ、言ってみろ」
 すごむ絳攸に小さく劉輝が抵抗する。
「六部は皆、同じ『きゅうけつき』ではないか」
 それのどこがいいのかと不満気な絳攸の横で楽しそうに楸瑛が混ぜ返す。
「おや、私は妬いてはもらえないんですか?」
「そんなことはない。楸瑛だって羨ましい。武官は皆で『おおかみおとこ』なのだろう?」
 文官は部署ごとに分かれて担当を割り当てられてはいたが、武官はすべて一律で『おおかみおとこ』と定められた。これには体格差のある武人全員への装束を用意するのは困難という理由だ。彼らには耳と尻尾さえつけていればあとは自由となっている。
「わからん。『きゅうけつき』だろうが『おおかみおとこ』だろうが、どっちもくだらないのは同じだ」
 言い切る絳攸に劉輝は泣き言を続ける。
「だって、余はひとりきりなのだ。他は皆、部署ごとに同じ扮装をするのに、余だけは仲間がいない」
「それはまあ、あなたは王ですし、官吏でも武官でもありませんから」
 異世界からの脅威を十二分に説明され、武力で対抗しないことには同意した。扮装も、まあ皆でやるならと了承はしたものの、劉輝に割り当てられたのはたったひとりきりの『かぼちゃだいおう』であった。
「まあまあ。その日は験かつぎも兼ねて庖丁人が南瓜菜を用意するそうですし、少しは機嫌を直してください」
「『かぼちゃだいおう』が南瓜を食べると共食いにならないだろうか」
 甘いものが嫌いではない劉輝は南瓜が結構好きではあるが、ひとりきりの『かぼちゃだいおう』役がどうにも納得できないらしい。
「いつまで馬鹿なことばっかり言ってる! とっととそこから出て仕事をしろ!」
 焦れた絳攸は劉輝の袖を引っ張り、無理矢理机の下から引き出した。
「……絳攸、余は一応王なのだが」
「それがどうした」
 涙目で絳攸を見上げてみるが、男にそんな顔をされても心動かす気は起こらないものだ。
「王にはもう少し優しく接するものではないだろうか」
「馬鹿かお前は。尊敬できるところが見つかりもしない奴に優しく甘やかしてどうする!」
「優しくするのと甘やかすのは違うと思うのだ」
 年下のふたりの間に余裕を見せて楸瑛が割り込んだ。
「まあまあ主上。一応絳攸も執務室を出ればあなたに礼を取ってはいるのですから、この室内での絳攸の態度を取沙汰するのも今更でしょう」
「待て。それでは俺が礼儀を知らないように聞こえるが」
 標的を劉輝から楸瑛に変えて、絳攸が睨みつける。
「とんでもない。忌憚なく主上に意見できる人間は必要だろう。それに、私と君とで飴と鞭になっているから丁度いいんじゃないかい?」


「飴……と言えば」
 ふいに劉輝が思い出したように口にした。
「孫尚書を思い出すのだが」
 滅多に執務室で話題になることのない人物の名に、側近二人は即座に反応を返した。
「ああ、兵部尚書の。個人的には面白い人物であるとは思いますが」
「おいっ! まさかお前、飴もらって食ったとか」
 考え込む楸瑛の隣で、絳攸が顔色を変えて劉輝に詰め寄る。
「なかなか美味しかったのだ」
 味を思い出したのか、ほころんだ顔の劉輝にどなりつける。
「阿呆! 何考えてる!」
「知らない人からはもらうなと言われているが、孫尚書は知らない人ではないぞ?」
 王が配下を知らないでは確かに話にもならないが、自衛せずどうすると絳攸はいきり立った。
「毒の疑いだってあるだろうが! あの男が誰とつながってるかわかりきってるだろう!」
「それほどあからさまな手を使うほど孫尚書は馬鹿ではない。余は……旺季も六人の尚書も実は結構好きだと思うのだ。だから、こちらから歩み寄れる点は近づきたい」
 この王は、ごく稀にではあるが、その懐の大きさを露呈する。
「そのお気持ちは大変結構かと存じますが」
「今は片思いばかりなのだ」
 少し悲しげに目を伏せる劉輝に、楸瑛は優しく微笑むと傍らの墨をとって磨り出してやる。
「そうですね。振り向いてもらうまでに時間はかかるかもしれませんが、ともかく主上には執務に戻っていただいて、その結果で彼らに判断してもらうのを待つしかないでしょう」
 楸瑛的に『弟にしたい』と思わせる国王は、こくりとひとつうなずくと自分から素直に書類に手を伸ばした。
「ともかく、とっとと仕事をしろ! この月末への対応がねじ込まれたせいで、余計な仕事ばかり増えているんだからな」
 尚服官は飛び回り、宮中の仕立人たちは悲鳴を上げ、公布された荒唐無稽な内容への問い合わせは絶えない。また、当然のことながら予定外の出費である。戦争するよりは安く上がるとはいえ、その金額は小さくはない。当然、どこからか予算を回さねばならないが、その点についても紛糾は続く。唯一の明るい面は、各部署の長がそれなりに納得し、この命を実行するよう動いてくれていることだった。だがそれと同時に、国王のせいでこのような事態を迎えたのだとうるさく騒ぐ者も少なくはなかった。

「絳攸」
 おとなしく書類と向き合って没頭していたはずの劉輝が側近を振り返った。
「絳攸は今日、ずっとここにいてくれていて余は嬉しいのだが、吏部は大丈夫なのか?」
「不本意ながら大丈夫だ」
 そう答えた吏部侍郎の表情に複雑なものが走ったのを見て取って、左羽林軍将軍は当の相手にわからぬよう、そっと微笑んだ。

   第六章:彼成すことも我のみぞ知る

 吏部では数ヶ月ぶりの奇跡が起こっていた。
 次々と回される案件が忽ちの上に処理され、積み上げられる書類の数が薄い。
 仕事は定刻に始まり、定刻に終わる。
 これは奇跡だ。奇跡というものにはいつか終わりがくる。吏部官吏は誰よりもそのことを知っていた。だからこそ、ここぞとばかりに就業時間を慌しく過ごす。せっかくの奇跡はただ呆然としているのではなく、利用するにこしたことはない。
 昨年の暮れあたりから、こうして時々奇跡が起こる。
 奇跡を起こすのは天つ才の吏部尚書――ではあるが、普段の吏部を混沌に突き落とすのもこの人物だ。尚書室では不機嫌さを隠そうともせず、しかし仕事を放り出したりしないという主の姿があった。

 絳攸は、王の執務室を出て吏部に戻る――本人はつもりだった。夕暮れの帳が静かに下りて、あたりを橙色に染める。
(今、俺はどこにいる……)
 吏部に帰らねばと思う。だが焦って進めば進むほど見慣れない景色にぶつかる。そして、どうした按配だか、先々に人影もない。
(こんなことなら楸瑛が送るというのを断らなければよかった)
 だが、それはもう随分と前の話で、執務室さえどこにあるのかわからない。
「おや、これは李侍郎。こんなところでお会いするとは思いませんでした」
 ひそやかにかけられた声の方向を見やる。その人影は――。
「楊修、か」
 覆面官吏である同僚は、秀麗がかつて見知っていたのと同じ様相をしていた。今も彼は隠密行動中である。
 少し離れたところから話しかけてくる男の声には皮肉が籠もっていた。
「まあ、気持ちはわかります。今の吏部に帰りたくはないでしょうねえ。覆面官吏であることを今くらい感謝したことはありませんよ」
 そんなことはない、自分は吏部に戻るのだと、言いたくても言えなかった。確かに、現在の吏部には少しいたくない理由もあった。
「一体、尚書に何が起こっているんでしょう。そのへんの事情はもちろん侍郎ならご存知でしょうが」
 もし、年功序列をうんぬんすれば確実に絳攸より先に侍郎となっていたはずの男は続ける。
「知らん」
 短く切り捨てるものの、想像はついた。想像がついたからといって納得できるかどうかはまた別の話である。
「そうですか? まあ、そういうことにしておきましょうか。ところで、どちらにおいでです?」
 適当な場所を口にするにしても、現在位置すらわからない状態で下手なことを言えばこの男につけこまれかねない。どうしたものかと絳攸は思案した。せめてここがどこかわかれば――。

「絳攸様!」
 ふいに聞き覚えのある声がして絳攸は振り向き、楊修は静かに姿を消した。
「珀明」
 吏部でもっとも若い官吏は沢山の書類を抱えていた。例え彩七家の御曹司といえども現在は走るのが仕事である。若さによるものか、はたまた生来の性格か、いささか潔癖なところも見られるが、彩七家の事情で見せる顔は決して甘くはない。よい官吏になるだろうと、絳攸はひそかに思っている。ただし、口に出せばどれほどこの後輩を喜ばせることになるか少しも気付かないのが李絳攸であった。
「どちらかに行かれるのですか?」
「いや、そろそろ吏部に戻るつもりだ」
「ご一緒してもよろしいですか?」
 まさに渡りに船。絳攸は滅多に見せない笑顔で珀明にうなずいた。
「ああ。ところで少しその書類を寄越せ」
「とんでもありません! これは僕に与えられた仕事ですから」
 首を振った勢いで、珀明の外套が翻った。
「……よその部署に何か言われないか」
「ああ、これですか」
 苦笑しながら珀明は首をすくめる。
「最初に『尚書の命令だから』と言ったら後は納得してくれたのか問われることもなくなりました」
 触らぬ神にたたり無し。まさしく吏部の祟り神は周囲に正しく理解されている。
「絳攸様も吏部に戻られたら着替えられるんですよね?」
「……そうしないわけにいくまい」
 楊修が揶揄し、絳攸自身もいささか吏部へ戻ることをためらう理由がここにあった。
 吏部では月末に前倒しで既に吏部官吏全員が『きゅうけつき』の扮装をするように尚書が決定していた。その言葉に誰が逆らえよう。
 通常であるならば黒家のものにしか許されないはずの準禁色の黒。全身をその色で包む碧家の青年は常とは違ってみえた。
「おまえの場合は、その扮装も悪くないように見えるな」
 劉輝のいじけぶりを思い出し、絳攸は傍らの珀明の姿を検分する。
 まだ幾分幼さの残る青年は、この黒装束のせいか随分と大人びて見えた。碧家のこだわりか、そこかしこに改造の手が見られたが。
「よろしければ絳攸様の装束もうちの者に手を入れさせましょうか?」
 正直、自分の見た目にあまり頓着しない絳攸であったし、何より絳攸のものに他の彩七家の手が入るのをきっと黎深はよく思わないであろう。絳攸は気持ちは嬉しいとだけ伝えてその件は断った。

「あの、絳攸様、実は相談したいことがあるのですが」
 装束の件は断られることを覚悟していたのか、屈託なく珀明は別の話を持ち出す。
「なんだ? 仕事上の悩みか?」
「いえ、あの……」
 常ならば歯切れのよい珀明の話しぶりが鈍るのを絳攸はいぶかしく思った。
「何だ? 言ってみろ」
「これを……お返ししたいのですが」
 書類を抱えた状態でいささか苦労しながら珀明が取り出したのは、見覚えのある鉄扇だった。
「ん? 黎深様の鉄扇? 一体、何故お前が持っている?」
「あの、この装束のことが通達された日なんですが、同期の紅官吏と話していた時に飛んできたんです。あの……、これ、やはり尚書のものですよね?」
 鉄扇から長く垂らされた飾り紐の色は濃い血のような赤だった。
「黎深様のもので間違いはないだろう。ところで秀……紅官吏とは何を話していた?」
 この時点で絳攸にはある程度の予想がついた。ここしばらくの黎深の勤勉ぶり、そして急ぐ必要もないのに吏部だけは早くから異装を強いられたこと。このふたつが、邵可もしくは秀麗関係から来ていることに絳攸はとうに気がついていたのだ。
 珀明は秀麗との会話をできるだけ再現しながら語った。
(仕事をしない最低尚書、か。いっそ秀麗に三日ごとくらいに吏部に寄らせてそう言わせれば黎深様も仕事を続けるかもしれないな)
 自分では黎深をそこまで動かすことができないのが絳攸にはわかっていた。黎深は絳攸がどれほど苦情を呈しようとも仕事をする素振りさえ見せないのに。
「わかった。この鉄扇は俺から返しておこう。お前は何も言う必要はない」
 絳攸が鉄扇を受け取ると、目の前の青年は明らかに肩の荷が下りたらしかった。
「ありがとうございます! よかった、絳攸様にお会いできて!」
(それは俺の台詞だ)
 見慣れた吏部の扉を目にして、絳攸は心の底からそう思っていた。

 扉の向こうは、文字通り悪鬼の巣窟であった。
 『きゅうけつき』の異装姿の官吏が慌しく働いている。就業時間は間もなく終わる。その前にと仕事を片付けるのに熱が入っているのだろう。誰もしばらくは絳攸が戻ったことに気がつかなかったくらいだ。
 侍郎室の扉に手をかけて、ふいに絳攸は黒ずくめの配下たちを振り返った。
「おい、ひとつ言っておく。おそらく尚書のこの状態は月末までと思われる。今のうちに片付けられるものは片付けてしまっておけ」
「ああ、やっぱり……」
 この状態が恒常的なものでないことは吏部官吏ならとうに察していること。むしろ期限が切られたことに誰もが安堵したようだった。元々、吏部に配属されるのは、その働きぶりが期待できると思われる優秀な男たちばかりだ。彼らは絳攸に向かって共犯者の視線を投げかけ、また仕事に没頭していった。

 侍郎室で自分用の『きゅうけつき』の衣装を取り出しながら絳攸はひとりつぶやく。
「秀麗に、とっとと『きゅうけつき』姿の黎深様の姿を見せることさえできれば、こんな装束を早々に着る必要もないんだがな」
 黎深は秀麗の言葉から「仕事をしない最低尚書」と、「装束を着た姿を見てみたい」という部分だけに反応しているのだ。吏部全体はそのとばっちりを受けているにすぎない。だが秀麗が黎深の姿を見られるようにお膳立てしたところで、自分の上司兼養い親はきっと逃げ出すだけだろう。
 ひとつため息を落として黒装束の外套を揺らしながら、必要な決済のある書類と鉄扇を抱えて、絳攸は尚書室へと向かったのだった。

   第七章:人知れずこそ仮面染めしか

 ここ数日、めっきり戸部尚書の姿が見られなくなった。いや、元々仮面で顔を隠しているのだから普段と同じではないかと思うのも無理はない。
 だが、確実に違った。毎朝の朝議に出た後は尚書室にこもったままなのだ。通常であれば戸部官吏の前に現れて指示を出したり、府庫に赴いたりくらいはするのだ。それが尚書室から一歩も出ない。侍朗室にさえも訪れる様子はない。朝議に出席する高官と侍朗である景柚梨のみにしか姿を見せない日々が続いていたのだ。

「尚書はお身体の具合でも損なわれましたか?」
 高齢の戸部官吏であり、身体の不調を訴えることも多い高天凱に問い掛けられ、戸部侍朗は苦笑を漏らした。
「いえ、お身体の方は問題ありません。ただ、少し不具合がありまして」
 視線で問う高官吏に柚梨は短く答える。
「仮面に少々不都合が」
 それだけで十分だった。何しろ目の前の官吏は、鳳珠や柚梨が勤める前から戸部にいる生き字引である。
「それでは尚書は仮面なしで登城しておられるのですか?」
「さすがにそれはありませんが、携帯用の仮面では不十分なものですから」
 高官吏は深く納得した様子でうなずいた。
「なるほど。それでは人前に出られぬも道理。覆うところの少ない携帯用では尚書のご容姿は隠しきれませんからな」
 戸部尚書、黄奇人――本名鳳珠の隠された美貌は、露にされると宮中の一切を麻痺させかねない危険物である。
「月末の出費の件だけでも頭が痛いというのに、尚書にはさぞご不快でしょう。一刻も早く仮面の不具合が直りますよう祈っておきます」
「尚書には高官吏のお心遣い、私から伝えさせていただきます」
 にこやかに侍郎は請負う。穏やかな風貌に似合わず肝の据わった柚梨は、鳳珠の素顔を見ても動じない数少ない一人であった。
「お願いいたします。何しろ私が尚書の素顔を拝見いたしますと心臓が止まるかもしれませんので」

 多大な同情をこめて老官吏が引き下がると、柚梨は尚書室へと向かった。
 開口一番に室の主に問いかける。
「鳳珠、まだ仮面は直ってこないのですか?」
「無理だと言われた。あまりにも色が染みこみすぎて元に戻すことはできないそうだ」
 携帯用の仮面は口元を覆わない。そのため、凶器となりうる美声がくぐもることなく室内に響いた。もっとも、柚梨にはどうということもない。
「では当分このままですか?」
「至急、新しいものを作らせている。それでも今月中にできあがるか微妙な線らしい」
「それは……不便ですねえ」
 声さえも発するのは危険と、朝議の席ですら筆談か柚梨を通さねば発言もできない。それは他部署との疎通をさまたげていた。
「とりあえず請求書は紅本家に送った」
「貴陽の本邸でなくですか?」
「紅家は弟の方が常識がある。こちらの損害がいかなるものかも察するだろう」
 そういうものかと、柚梨は鳳珠から返された書類を検分する。
「まったく! この忙しい時に、自分で動けないのは最悪だ!」
 不機嫌を隠そうともせず、鳳珠は次の書類を乱暴に引き寄せた。
「柚梨、私には復讐をする権利があるとは思わないか?」
 形のよい唇が不吉な言葉とともに笑いの形に歪められた。


「気持ちはわかりますが、相手が悪すぎませんか?」
 懸念の色を浮かべて柚梨が問いかけると、自ら奇人と名乗り始めた男は言い切った。
「仕掛けてきたのはあちらだ」

 数日前のこと。起床した黄尚書は異変に気付いた。
 所持している数々の仮面、そのことごとくが、赤や青などに塗りたくられていたのだ。更にはご丁寧にも仮面の口元には二本の牙まで生やされていた。
 ちなみに無事な仮面もあったが、それは同期が無理矢理置いていった某府庫の主の顔のもの。さすがに登城する際に使えるわけもないし、使いたくもない。
 同時期に吏部では月末前倒しの仮装強要が始まっていたとなれば、実行したのは紅家の影、命令したのは紅家当主でしかありえなかった。
 理由は、自分が仮装するのだから吏部官吏も、そしてついでだからと一蓮托生に巻き込まれたものと思われた。はっきり言って大迷惑である。

「それで、復讐って何をするんですか? 表立って紅家に喧嘩を売るわけではないでしょう?」
 それならば、紅家と黄家の彩七家同士の軋轢を呼びかねない。
「そんなもの、標的は黎深ひとりだ」
 心なしか楽しげな上司の様子はこの上もなく不敵だ。
「何かもう考えているんですか?」
「当然だ。まず、紅家本家の百合姫に大量に花を贈る」
「はあ……」
 求婚の顛末を知っている身としてはそれはどうかとも思ったが、本人は気にした風もない。律儀な鳳珠は元々季節の挨拶なども百合姫と交わしているらしいのでその一環におさまるのかもしれない。
「そして次にこれだ」
 尚書は一枚の紙を侍郎に渡す。
「招待状――。邵可様と秀君宛てになってますが」
「そうだ。秋と言えば美味も豊富。味は良いがそれほど肩肘はらない酒家の個室に招待して、じっくり親睦を深めさせていただきたいと。まず断られることもなかろう。あちらの事情もわかっているから、家人の同席も承知と書いておいた」
 鳳珠の言う通りの内容の書かれた紙片に目を通しながら柚梨は確認した。
「日にちは次の公休日ですか」
「ああ。仕事のある日だと秀麗も忙しいだろうし、何よりこちらも動きにくい」
「しかし、次の公休日までには、あなたの仮面は出来上がっていませんよ?」
 携帯用の仮面しか使えないのに会食など大丈夫なのかと柚梨は不安になった。確証はないが邵可は大丈夫のような気がする。何しろ、あの黎深の兄である。同じ血をひいてはいるが、秀麗は年若い娘なだけに鳳珠の容姿は危険ではないだろうか。また、柚梨の知らぬ家人にとっても同じ事である。
「あの三人なら大丈夫だ」
 だが、長年の部下の杞憂を自信満々に仮面の男は吹き飛ばしたのであった。

「ところで鳳珠?」
「なんだ?」
 招待状を返却しながら今更のことを柚梨は問わずにいられなかった。
「これのどこが黎深殿を標的とした復讐なのですか?」
「安心しろ。効果は覿面だ」
「はあ……」
 そういうものかと柚梨は自分の上司を改めて見つめる。仕事熱心な尚書は雑談は終わりとばかり、既に新たな書類と向き合っている。
(優秀な人材は幾人も見られるが、個性的という意味で『悪夢の』と呼ばれるだけの理由の一部は確実にあなたのせいですよね)
 その優秀な尚書の優秀な部下はあえて言葉に出さずに、そっと決済の終わった書類を持って静かに退出しようとした。
「待て、柚梨。碧遜史に例の見積もりの算出を急がせろ」
「わかりました。そうそう、鈴を置いていきますから必要があったら遠慮なしに呼んでくださいね」
 袂から取り出した鈴を尚書の卓に置くと、今度こそ侍郎は自分の仕事を片付けるために尚書室を立ち去ったのだった。

   第八章:侍郎落ちて華美の秋を知る

「失礼します。工部尚書の認可の必要な書類を預かって参りました」
 そう言って工部に訪れたのは二十歳前の青年である。生真面目な表情が室に足を踏み入れた途端に歪む。
 毎回、覚悟はしている。だが、明確に外とは違う匂いが充満していることに慣れない。
「ご苦労さま。尚書は席をはずしておられますので私がお預かりいたしましょう。どうぞこちらへ」
 どこからともなく金属の触れ合う音と共に工部侍郎が現れて吏部の若手官吏を侍郎室へと誘った。その視線はしっかりと吏部官の装束に注がれており、きつく眉が寄せられていた。
 二人が去った後、工部官吏たちはさもあらんと語り合う。
「うちの侍郎に、あの格好は受け入れられんだろうなあ」
 来るべき月末はもう後数日後に迫っていた――。

 侍郎室に入ると、それまで充満していた酒の匂いから解放されて、珀明は無意識に深呼吸する。と、芳しく鼻腔をくすぐるのは品の良い香。
(白檀に、あと麝香が少し。それから……)
 香を聞きながら珀明は素早くその構成を読み取る。軽くでは読み取れぬ複雑な香りは、趣味人ならではの合わせ方だった。
(さすが、玉殿。欧陽家屈指の通人だけはある)
 感心する珀明の傍らでは、室の主が受け取った書類を検分している。
「助かりました。後で尚書の認可をいただければ懸念の工事が実現いたします」
「はい。欧陽侍郎が随分と骨を折られた案件であったと伺っています」
 本来であれば、碧家それも直系である珀明にとってこの瀟洒な男は目下になる。だがここは宮中。官吏としての身分を問うならば、今は珀明の方が下だ。自然、丁寧な物言いとなる。
「ええ。苦労の甲斐があったというものです。――ところで碧官吏」
 ついっと席から立ち上がった工部侍郎が立ったままの珀明に近づき、そして軽く礼を取る。
「申し訳ございません。今だけ本来の立場にてお話させていただいてよろしいでしょうか?」
「それはかまいませんが……?」
 玉は珀明に櫛と鏡を差し出す。
「髪が乱れておられます。いけません、碧家直系ともあろうあなたがそれでは」
 鏡を見るとまとめた髪の一部がほつけて見苦しかった。反省しつつ珀明は髪を櫛削ってまとめ直す。
「恥ずかしいところを見せてしまいました」

「吏部が忙しいのはわかります。ですが、あなたはこの宮中における碧一門の指針とならねばならない方なのですから、もう少し身なりを気にかけていただけると」
 玉にそう言われて珀明は薄く笑う。品のない装いは確かにいただけないが、今の自分には余裕がない上に、元から玉ほどの執着もない。
「ところで先ほどから気になっていたのですが、その衣装が月末の扮装ですね」
 玉は何も見落とさずにいようとする視線で珀明の扮装を凝視していた。
「はい。玉殿も『きゅうけつき』ですよね」
 工部もまた六部のひとつ。ここも月末には悪鬼の巣窟に変わるのだろう。
「しかし、この生地。これは尚服官が見本に持ってきたものとは違いますね?」
 しなやかに珀明の身体に沿って流れるのは極上の絹をふんだんに使った光沢のあるものだった。
「ええ。あまりにも粗悪な生地だったものですから。問い合わせをしたところ、『きゅうけつき』に見えさえすれば多少の変更は許可すると言われましたので」
 正直、尚服官に絵図と見本生地を見せられた時、珀明は激しくうんざりしたものだった。一応の採寸は済ませたものの気がのらないまま終わりそうだったのだが、偶然出会った秀麗の『珀ならちゃんと着こなせる』という一言に、このままではいけないと問い合わせをし、よりよく見える型を考案し、碧家が特許を持つ生地を選び、家人を使って見栄えよく仕立てさせた。一度始めるとやはり珀明の中の碧の血が妥協を許さなかった。一見、同じ『きゅうけつき』に見え、だがよく見ると確実に着る者を引き立たせるように考え抜かれた衣装は、『おまえが着てるとよく見えるな』と周囲を頓着しない吏部の先輩に言わしめたほどである。
(おまけに、絳攸様にも褒めていただけたし)
 自然に顔がゆるみそうになるのを珀明が抑えている横で、玉はしきりと頷いて同意をしてきた。
「気持ちはわかります。私もあの粗悪な生地を纏うかと思うと気がすすまなかったのですが。……そうですか。『きゅけつき』に見えさえすればよいのですね」
「何をお考えです?」
「さっそく私も自分用を用意しようかと思いまして。地紋入りの絹を黒に染めさせましょう。それから、外套の裏地にはもう少し渋い赤を。上着は腰のあたりを細めに仕立てさせて。それからやはり装飾品ははずせませんね。珀明様もおつけになられるとよろしいのです」
 玉は衿元や袖口に光る宝飾品をよく見えるよう整えた。
「生憎、自分は宮中では若輩者ですから、そこまで目立つわけにもいきません。そのかわり貴兄が碧一門を代表する装いをしてくださればと思います」
 たしかに玉には似合っている。だか今の自分では玉と同じように飾り立てるのは似合わないであろうと珀明は冷静に判断した。こういった品は似合う人物が身に着けてこそ価値があるというものだ。
「そうですか。無理にはすすめないでおきましょう。しかし今日お会いできて良かった。憂鬱なだけの扮装が楽しみになって参りました。おまけに、準禁色で普段纏うことのできないこの黒という色。なかなかに装飾品が映える色と知りましたから」
 何やら楽しげな玉の様子に、珀明も当日に工部侍郎の装いを見るのが今から楽しみになった。
「少しでもお役に立てたのなら幸いです」
「少し落ち着かれましたら、また我が家にお越しいただいて芸術論など戦わせようではありませんか」
「はい、楽しみにしています」
 珀明は役目を果たしてまた吏部へと戻っていった。
 残された玉は手元に料紙を引き寄せると、おもむろに筆を忙しく走らせ始めた。これが、工部の月末の運命を大いに変えることになろうとは、その時はまだ誰も気がついていなかった。

 ちょっとした成り行きで飲み仲間でもある白大将軍と杯を交わすことになり、結果、昼間から酒の匂いをさせながら管飛翔は工部に戻った。
 不在時の仕事の進み具合を確認するため、扉を叩くことも声をかけることもなく飛翔はそのまま侍郎室へと押し入った。
「おい陽玉、俺のいない間になんかあったか?」
 多少細かすぎるきらいはあるが工部侍郎は優秀な男だ。宮中でも稀な着飾り具合ばかりが有名で、侮る者もいないではないが、そんな見る目のない馬鹿はこいつの毒舌を浴びればいいと、日々お小言を食らっている尚書は思っている。――それが日常だというのが問題だとしても。
 常であれば、この時点でふたつのことで欧陽玉は怒っているはずだ。
 曰く、自分の名前は玉です。いい加減正しく呼んでください。
 曰く、尚書ともあろう人が昼間っから酒の匂いをさせているなんて、少しは態度を改めたらどうですか。
 少なくともこのふたつははずせないだろう。後は、尚書が行き先も言わずに勝手にふらふらするなとか、まあ、心当たりはいくつかまだあった。
 書き物をしている侍郎席の卓上に無遠慮に座り込み書類を覗く飛翔から漂う酒の匂いに、侍郎の眉根がきつく寄せられた。
(くるぞくるぞ)
 別に飛翔は玉に小言を言われるのを楽しみにしているわけではない。だが、飛翔が玉を怒らせて言葉をやりとりすることは、ここ工部においては尚書と侍郎の意思の疎通のために一役かっていることも確かだった。これが、鬱憤を腹に溜め込むような部下であったら、きっと飛翔とは合わないままで終わったであろう。
 同期の紅黎深に、
「ありゃ駄目だ、使えん。うちにはいらねーから、いいのと替えてくれ」
 と言ってみていたかもしれない。
 もっとも、玉は反骨精神を持ち合わせても腹芸に走る男ではなかったから、工部では常に本音と本音がぶつかり合っていることになる。

 ところがこの日、工部侍郎は唇を引き結んだまま、無言を守っていた。これだけの材料があれば確実に怒鳴りつけてくるはずであったのだが。ようやく沈黙を破って飛び出した言葉は、
「おかえりなさい。こちらの決済をお願いします」
 だけであった。
「陽玉? おまえなんか悪いもんでも食ったのか?」
 書類は受け取ったものの、爆発しない部下に飛翔は懸念の色を隠さない。
「……別にいつもと同じです」
 答えが返ってくるまでに意識的な呼吸を繰り返していたから、言いたいことはあるはずなのにである。
「でもお前、おっかしーじゃねえか。いつもがみがみ怒鳴りつけるだろうが」
「……少し、思うところがありまして」
 芸術大好き侍郎のこと。思うところがそちら方面なら飛翔にはお手上げだ。だが。
「なんだ? 禄がいつまでも横ばいなのは許せんとかか? それなら奇人に文句言えよ」
「……黄尚書はこの際関係ありません」
 大きく息を吸い込んで、欧陽玉は管飛翔の目をまっすぐ捉えてきた。
「どうです? 私とひとつ賭けをしませんか?」

 だが飛翔は玉の言葉を聞いていないらしかった。急に室を慌しく飛び出して行ったかと思うと、客を連れて走って戻ってきた。
 その客人というのは。
「陶医師(せんせい)……」
 いささか息を切らしているのは飛翔のせいだろう。だが宮中の医師の要は根っからの医者だった。
「尚書に欧陽侍郎の様子がおかしいと引っ張られてきたのですが。さて、侍郎はどうともなさそうですが?」
 老齢の医師はそれでも診察用具を取り出して玉を診ようとした。
「いえ医師、私には異常はありませんが」
 手を上げて診察を断る玉に飛翔は激しく反論する。
「馬鹿言え! おまえがあんなにも怒らないなんてどっかおかしいに決まってるだろう!」
 ぴしっと青筋をたてて怒鳴りそうになるが、玉はぎりぎりでなんとか自制した。
「……少し考えるところがあってです。医師、せっかくお越しいただいて申し訳ありませんが、診察は必要ありません」
「そうですか。ではせっかくですから尚書の臓腑の様子でも診ましょうか」
 陶医師は取り出した用具を飛翔へと向けなおした。
「ぜひお願いします。何しろうちの上司、年中酒の切れる日がありませんから」
「それは問題です。管尚書、ここはひとつ節酒、いやいっそ禁酒されるとよろしい」
 矛先が変わったことに工部尚書はたちまち無茶な発言で答えた。
「冗談じゃねえ。俺は飲んでる方が健康にいいんだ」
「そんなわけないでしょう」
 怒って叫びたいのを抑えて、玉は声も抑えることに成功した。これなら怒っているようには聞こえまい。
「まったくです。尚書、よいですか。確かに的確な量をたしなむ程度であれば酒は良薬となります。しかしどんなに良い薬であっても過度の摂取は普通の人間にとって害になります。侍郎も心配しておられるようですしここはひとつ、すっぱりとですなあ」
「じゃあ、こいつはおかしいとこないっていうのか?」
 老医師の熱弁を右から左に聞き流して飛翔は逆に問い返した。
「ありません」
「おそらくは」
 玉が、陶医師が畳み掛けるように答え、きまり悪そうに飛翔はそれでも頭を下げた。
「医師にせっかく来てもらったのに悪かったな」
「いえ。尚書の現状を知れてよかったです。これから時々は様子を見にきますから、せめて節酒はなさって……」
 なおも説教を続ける医師を尚書はなんとか工部から送り出したのであった。

「なんだよ、説教され損ってやつか?」
「あなたが私の話をきちんと聞かないからですよ。まあ、私の身体を気遣ってくださったことに関してはお礼申し上げますが」
 老医師の去った後、玉はもう一度提案を持ち出した。
「それでは改めて。あなた私と賭けをいたしませんか?」
「ん? 何を賭けるんだ?」
「三日間。私があなたを怒ることが一度もなかったら、ひとつ私の言う通りにしてくれませんか」
 玉の言葉に、先ほどからの侍郎の様子が常になかったことの意味を飛翔は悟った。
「へー。で、もし三日お前がもたなかったらどうするんだ?」
「その時には、とことんまであなたの酒につきあう日を設けましょう」
 玉はその容姿に関わらず、王宮屈指の酒豪であった。普段は酒の匂いがつくのを嫌がって飛翔に付き合うことなどなかった。飛翔からしてみれば、やはり早々に酔いつぶれる相手より、酒に強い人物と飲む方が楽しい。
「――その賭け、乗った!」
「それではたった今から始めましょう」

 工部侍郎はその後、同じように工部官吏たちにも賭けを持ちかけた。
「これから三日間、私は尚書を怒鳴りつけないように努力いたします。正直に三日は無理だと思う者は挙手願います」
 尚書の性格は、ある意味工部の性格をも現していた。そこにいた全員がにやにや笑いながら手を挙げる。
「よろしいでしょう。私が三日もたなかった場合はあなた方に美酒なりご馳走いたします。ただし。私が買った場合は、全員私の命令をひとつきいてもらいますのでそのつもりで」

 こうして。欧陽玉と工部の賭けは始まった。
 飛翔はあえて普段通りである。必要とあれば手段を選ばない面もあるが、せっかくの賭けを反故にするほど卑怯ではなかった。もちろん普段通りであっても、常なら侍郎を怒らせるに十分な言動には事欠かなかったからではあるが。
 一日目は無事過ぎた。
 二日目、いささか疲労の色が見える侍郎はそれでもなんとか乗り切った。
 三日目。工部の誰もが侍郎の様子に固唾を呑んだ。かつてないほど静かな工部は、他部署からも何があったのかと問われる始末だ。
 やつれて、疲れて、いつもほどの余裕も感じられない。しかしそれでも玉は賭けに勝ったのだった。
「ではよろしいですね。工部官吏は尚書以下全員、月末前夜から我が家に投宿。家人に磨きたてさせますのでそのつもりで」
 三日間。耐えに耐えた玉は晴れやかな笑顔でそう宣言したのだった。
 かくして月末。欧陽家の家人たちにより改造された装束を纏わされ、飾り立てられた工部官吏は宮城の中でも一際目立つ存在となった。華美を極めた侍郎はもちろんのこと、徹底的にいじくられた尚書の様子はその後、代々の官吏に語り継がれるほどのものであったという――。

   第九章:尚書の心、官吏知らず

 礼部尚書は真に礼を知る者である。だが残念ながらそのことを理解している者は少なかった。魯尚書が余計なことは口にしない男だからだ。
 昨年春、蔡尚書及び和官吏、以下数名が罷免された。魯新尚書の元、再編成された礼部は戸部に次ぐ少人数の集団となった。
  だが蔡尚書らの罷免理由すら告げられなかったことで、残された官吏たちの中には、長い物に巻かれる日々を送ってきた自分たちもまた官位剥奪の憂き目に合うのではと恐怖に震える者も幾名かあった。しかしそのまま彼らに沙汰はなかった。それ故に心疚しいところのある者はたいそう真面目に、疚しいところのない者はなお一層精進し、魯尚書の元、礼部は今ようやく正しい道に進もうとしていた。
 ただの官吏であったころから、魯尚書は厳しい男だった。問題児揃いの国試の際には進士たちを苛めにさえ見えるほど扱いてきた。そんな彼の本当の姿を知る者は礼部にさえ少なかった。

 国家の危機を救うべく、異世界の風習に習い悪鬼の扮装をせよとの命は礼部にももたらされた。礼部も六部の一であるから、指定された扮装は『きゅうけつき』である。礼部官吏たちは一様に尚服官による採寸を素直に受け、できあがった扮装を受け取った。奇抜な衣装ではあるが仕方がないことだ。少なくとも礼部だけでなく宮中全体で行うのであるから、なんとか耐えられると誰もが思っていた。しかし。

 月末も近づいたある日、礼部官吏全員が尚書に呼び出された。
「『きゅうけつき』の扮装をする日、礼部官吏は全員が侍郎から受け取った物を持参のこと。ただし、世話は各自でするように」
 それだけ告げると魯尚書は退席し、後は侍郎に任された。
(世話?)
 疑問を抱きつつ順番に侍郎よりちいさな虫籠が渡される。中には、逆さにぶらさがった――。
「こ、蝙蝠っ!?」
 虫籠の中にいるのはまぎれもなく蝙蝠だった。昼ということもあり、籠の天井に足をかけ、翼を畳んで眠っているようである。大きさは大人の手のひらで簡単に包みこめるほどだ。
「なんで蝙蝠なんですか!? この蝙蝠を世話するって何ですか!?」
 当然のように官吏たちから侍郎へと矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
「いや、私も尚書に命じられただけで理由はわからないんだが」
 困り顔で侍郎はそれでも蝙蝠入り虫籠を次々と手渡して行く。
「蝙蝠って、虫食べるんですよね? ということは、虫を捕まえてやらないといけないってことですか?」
 一人の官吏の質問に、その場にいた残り全員が虫取り網を持って駆け回る自分の姿を想像した。……子供でもないのにそれはあんまりだろう。
 情けない顔をした官吏たちに向かって、侍郎は慌てて否定した。
「いや、これは南の方に住む蝙蝠で、餌は果物だそうだから安心しなさい」
 一斉に安堵のため息が室内にこぼれた。だが、これで解決したわけではない。月末まで育てて、そして『きゅうけつき』の扮装のときに連れ歩けと?
 このわけのわからない状態に礼部官吏たちは全員で頭を抱えた。

 礼部尚書室にも虫籠があった。中にはやはり一匹の蝙蝠が眠っている。その様子を眺める魯尚書の表情は穏やかだった。
「目が覚めたら柿でもあげよう」
 異世界からの悪鬼を防ぐためと各部署に通達が回り、魯尚書も宰相である鄭悠舜から直々に依頼を受けた。
 国家のためとあらば、扮装くらいどうということもない。しかし、尚服官から見せられた『きゅうけつき』の絵図はあまりにも不気味だった。
 そのような格好を部下にさせるのも忍びないと思っていた魯尚書は、異世界のことにまで詳しいという霄太師に『きゅうけつき』について尋ねてみると、『きゅうけつき』には蝙蝠がつきものらしい。
 たまたま魯尚書は遠方の友人から贈られた蝙蝠を飼っていた。何でも南では大きい蝙蝠らしいのだが、彩雲国に連れて来た種は小型化してしまったらしい。
 手のひらに乗る蝙蝠はよく見ると可愛い顔をしており、飼ってみると頭もよいのがわかって、魯尚書はずいぶんと蝙蝠をかわいがるようになっていた。
(皆も、飼ってみれば可愛さに気付くだろう)
 そうして、怖ろしい悪鬼の扮装も可愛い蝙蝠が和らげてくれるに違いない。魯尚書はそう信じて疑わなかったのである。
 悲しいことに、まだ尚書のその思いやりを理解した礼部官吏はこの時点では一人もいなかったのであった――。

   第十章:士は己を知る者の為に化すか?

「勝負だ!」
 左羽林軍の詰所に威勢のいい声が響く。やけに聞き覚えのある声だった。
 声の主は白雷炎。対するは黒燿世。
 聞き覚えのあるも道理、毎日のように聞かされていれば嫌でもわかる。国王の執務室から戻ってきた藍楸瑛はこれからの展開を思って内心ため息をついた。
(白大将軍は今日は一体どんな勝負内容を持ち込んで来たのやら)
 できれば、国家の精鋭である羽林軍の誇りを保てるようなものであって欲しいと楸瑛は切に願った。
 その願いはすぐさま真逆に裏切られることになる――。

「こら燿世、お前だって月末の扮装のことは聞いてるだろ?」
 装束を揃えるのが困難ということで、武官は一律で『おおかみおとこ』になることになっている。もちろん、そこには羽林軍も含まれる。
 無言のままの黒将軍に、なお白将軍は語り続ける。
「六部とかに聞いたら、なんか同じ『きゅうけつき』でも部署によってそれぞれ個性出してってるらしい」
 早々に『きゅけつき』の扮装を纏わされている吏部は、尚書の異常な勤勉により、精力的に働く吏部官吏の顔色が日に日に悪く青白くなっていっているらしい。絵図の『きゅうけつき』もかなり青い顔をしていたから、まさにはまり役であろう。
 戸部では当日、尚書の仮面が貸し出されるらしいとの噂だし、工部では洒落者の侍郎が何やら企み、礼部ではおまけを持つらしい。
(あと、兵部と刑部はどうだったかな……)
 聞くともなしに耳に飛び込む白大将軍の声に、楸瑛も六部の扮装に関して聞いたことを思い出す。
「そこでだ。俺たちは羽林軍。一般兵士とは当然差をつけたいわけだ」

「ん? どうやって差をつけるかだと? それはだなあ」
 何故一言も黒燿世は話していないのに白雷炎は会話を続けられるのだろう?
 寡黙な上司の言葉数の少なさに苦労している楸瑛は、何故会話が成立しているのか理解に苦しんでいた。
「とりあえず、尻尾だな」
 また訳のわからないことを……。楸瑛は聞き耳をたてながらため息をつく。
「左右羽林軍総当りをやる」
 語り続ける白大将軍の言はまともに思えた。それならばと安堵しかけた左羽将軍だったが。
「で、俺んとこに負けたら、尻尾を白く塗る。お前んとこに負けたら仕方ないから黒く塗れ。羽林軍同士の決着がついたら、次は十六衛だ。勝負ふっかけて負かしたらやっぱり尻尾を塗る。そうやって、宮中の武人全部の尻尾見たら白黒どっちが強いか一目で誰にでもわかるって寸法だ。
 どうだ? のらないか?」

 自分の上司が乗らないわけがないことを楸瑛は熟知していた。その通り、すぐさま羽林軍両軍が呼び集められる。
「尻尾を白く塗られた奴は黒大将軍自ら一対一、一ヶ月の特別訓練」
 悲しい気持ちになりながら楸瑛は部下にそう告げた。告げられた部下の顔に必死のものが浮かぶ。もし、右羽林軍の兵に負けて尻尾を塗られたら。特訓は怖ろしいが、特訓よりも周囲からの軽蔑が待っている。下手をすると羽林軍から除籍という可能性すらある。
「必死で勝て」
 さまざまな気持ちをこめて楸瑛は締めくくった。
「藍将軍……」
 その弓術では目を見張るものがある皐韓升が何か言いたげに見上げてきていた。
「対戦相手はどうやって決めるんでしょう?」
「大将軍以下、順番を決めた紙をお互い交換するらしい。例えば私が二番だったら向こうの二番と対戦だな。まあ、おそらく私の場合は皇将軍だと思うが」
 実力に差がありすぎる相手に勝った負けたは無意味だ。もっとも、羽林軍総当りが終わったら、他部署の武人たちに問答無用で勝負を挑むことになるのだが。
「武器は問われないのでしょうか?」
「得意の武器があるなら使わないでどうする。ともかく、手段は選ばず勝つことだけを考えろ」
 運と忍耐力と弓の腕で知られる若き部下は、承知したとばかりうなずいた。

「次! 左羽将軍、藍楸瑛!」
 呼び出しを受けた楸瑛は修練場の中央に進む。対するはおなじみの皇右羽将軍――ではなかった。
「静蘭……!」

 予想外の対戦相手を前に、楸瑛は固まった。色々な意味で静蘭が相手というのは問題だ。自分も彼も、通常は本気で剣を振るうことはない。
(どう来る? 本気でかかってくるか?)
 おそらく相手もそれを気にしているだろう。
 思えば初対面で清苑公子に完膚なきまでに負かされたあの日から財布扱いの現在まで、自分はこの相手にどうも逆らえないものがある。
 だが同時に思うのは、まだ幼かった頃にあれほどまでの負けを喫していなければ自分は武人としての道を選ぶことはなかっただろうということだ。今ほどの力を持つこともなかったかもしれない。そういう意味では感謝してもいいかもしれない相手だ。
 初勝負の日に素直に負けを認めて、自分を配下にしてくれと頼んでいれば、もしや目の前の男の運命すら変わっていたかもしれない。藍家の後見を受けて流罪になることも紅家親子に拾われることもなく、王として君臨していたかもしれない。
 ただそれは、実現していたとしたら楸瑛には心の休まる時などなかっただろう。彼も自分も、苦渋を飲んで来たからこそ得たものもある。第一、楸瑛は今の王が気に入っているのだ。
 本気を出して、おそらくは五分。あちらとて白大将軍の手前、負けるわけにはいくまい。それはこちらも同じこと。
 楸瑛は無言で間合いを計って動き始めた。呼応するように静蘭もまた己の位置を確かな物にしようとする。
「……楸瑛が本気になったな」
「自称二十二歳もだ」
 修練場の雰囲気が張り詰めたものになったことを、その場にいた武人たちは肌で感じた。
 瞬間、対峙するふたりがぶつかりあった――。

 打ち掛かった剣を受け止められ、鍔迫り合いが続く。だがふいに両者はとびのき、再び間合いを取った。そうして、一切の動きが途絶えた。
 表面的に動きはない。だが対戦する楸瑛と静蘭の表情は真剣勝負であることを示しており、闘気だけが渦巻いていた。ただ互いに相手の気配を読み、その裏をかこうとし――。そこでは確かに目に見えない戦いが繰り広げられていた。
「……長引くな」
「ああ。空気がビリビリしてやがる。まったく、二人ともいっつもこれくらい本気になりゃいいものを」
 修練場では左右将軍の感想が落とされたのみ。対峙する二人ほどの技量を持たない武官たちは、緊迫した空気が和らがぬことに疲れさえ覚えてきた。
「……雷炎」
「ああ。気配に押されて部下どもの士気がかえって下がりやがった」
 情けない、修行が足りないと思いもするが、同時に無理もないとも思う。常日頃、鍛えに鍛え抜かれている羽林軍兵士と言えども、ここまで実力ある者同士の真剣勝負を見る機会は少ない。
 さてどうしたものかと二人の大将軍は思考を巡らせた。

 汗が流れ落ちるのを遠くに感じる。
(やはり、強い……)
 楸瑛は目前の男から来る覇気を受け止めながら我知らず笑っていた。強い相手と仕合える歓び。武人ならではの歓び。
(ずっと、あなたに一矢報いたいと思っていましたよ)
 文官として国試を受けて。藍家の意向や王の動きのなさに国武試を受けなおして朝廷に残った。榜眼で国試を突破した楸瑛だから、文官としての資質がないとは誰も言えまい。だがこうして剣を構えていると、自分の本質は武人としてのものであったのだと強く実感するのだ。宮中残留のための言い訳で武官になったわけではないと。
 何通りもの静蘭の戦術が頭の中で組み立てられ、それを破っていく。実際に攻撃を受けているのと実は大差ない。疲労は確実に積もる。
 どこからか何かが落ちる音が届いた。それは膠着を打ち破り、次の段階に進むべききっかけとなる。
 二人の武人はもう一度、裂ぱくの気合と共に剣を振り上げたが、そのまま振り下ろすことはできなかった。
「南瓜……」
 何故なら両者の中間に、突如として南瓜が転がってきたからであった。

「す、すまない! 悪気はなかったのだ!」
 南瓜を転がしたらしい張本人は、その場にいた全員の視線を受けて小さくなった。
「主上……」
 ため息とともに楸瑛はつぶやく。一気に闘志も失せてしまった。それは対戦者である静蘭も同じであったらしい。楸瑛にとっては劉輝は弟のようにかわいいが、静蘭にとってはかわいい実の弟である。
 さすがの大将軍も、仕合いを邪魔したのが国王では怒鳴るわけにもいかなかった。
「なんてえとこで邪魔してくれやがる」
 と、それでも白雷炎はぼやいたが。
「ふ、二人の気迫がすばらしくて思わず見入ってしまったら、つい手元が疎かになってしまったのだ。本当にすまない……」
 本気で悪かったと思っていることを全身で表現している国王に、剣を収めた楸瑛が尋ねる。
「ところで主上、何か御用ですか? それと、なんでまた南瓜なんか持ってるんですか?」
 後の質問は、この場にいる者すべての疑問でもあったであろう。国王に南瓜。……似合わない。怖ろしいくらいに。なまじ顔がいいだけにその違和感は強烈だ。
「南瓜は、その、両大将軍に提案がてらに持ってきたのだが……」
 良く見ると、転がっている南瓜は作り物のようである。
「提案ですか? まあ聞くだけなら聞いてさしあげてもかまいませんがね」
 暗に『くだらんことぬかしやがったらただじゃおかねえぞ』という含みを持たせて白雷炎がすごんだ。無言で同意を示す黒燿世。二倍怖ろしい状況だ。普通なら二大将軍にこんな風にすごまれては、どんな正当な発言であっても引っ込めてしまいそうなところだが、この国王は妙なところで度胸がある。
「余、余は。南瓜仲間が欲しいのだ……」
 その発言の意味を正確に理解したのは側近である楸瑛ただひとりであった。
「主上、いくら一人きりの『かぼちゃだいおう』が嫌だからって、なんだってよりによって羽林軍なんです?」
「う、羽林軍なら勝負が絡めばきいてくれるんじゃないかと……」

 『勝負』の一言に二大将軍が反応した。
「で、主上がなんの勝負を?」
「武官の月末の装束は『おおかみおとこ』で。耳と尻尾さえつけてればいいのだと聞いた。それならば、南瓜をかぶって南瓜に耳が付いていたって構わないと思ったのだ」
 たしかに、『南瓜のかぶりものを付けてはいけない』という規定はない。
「んなもの、誰も喜んで従いませんよ」
 いささか呆れを含んだ楸瑛の言葉に、劉輝はうなずく。
「だから勝負の結果なら聞いてくれるかと。その、羽林軍の強いことは余も知っている。だから余と剣で勝負して、負けた者が南瓜をかぶってくれないだろうか」
 こんな発言をした国王など、彩雲国の歴史を紐解いたところできっとこれまでにはいなかったであろう。南瓜云々は置いておいても、まがりなりに国王に剣を向けろとは言えないはずである。
「それは主上が勝った場合ですな。負けた場合はどうしますか」
 条件は公平でなくてはならない。雷炎はそのあたりを指摘する。
「先ほど尻尾を負かした相手の色に染めると聞いた。だから、余を負かした兵の数だけ、色つきの尻尾を付けようと思う」
 『かぼちゃだいおう』とて尻尾を付けるなと言われたわけではない。
 白大将軍の顔に面白がる表情が浮かんだ。国王が白い尻尾をいくつも付けているのは見物かもしれないとおそらく雷炎は考えたのだろう。
「なるほどね。しかし、兵の士気はそれじゃああがりませんな」
「余に勝った者、余に負けて南瓜仲間になってくれた兵には……。そうだ! 当日後宮に茶に招こう!」
 一昨年末、宮中を巻き込んだ騒動で、後宮へ入った兵はいた。しかも、その後宮女と結婚できた幸福な者も複数名。けれど、それはほんの一部でしかない。同僚の幸運を聞き、関門を潜り抜けられずに涙した兵も多かった。国王の発言に目の色が変わった部下を見て、白雷炎は黒燿世に視線を向ける。左羽林軍大将軍はただうなずく。
「いいでしょう。その勝負、受けようじゃありませんか。――おい! この勝負に挑みたい奴はどいつだ!?」
 白大将軍の声にたちまち名乗りを上げるものが殺到する。
「やれやれ。では私と静蘭が審判役を務めましょう」
「そうですね。ただし、勝負は木刀でということで」
 国王に真剣はさすがに向けられまい。静蘭の提案に劉輝も安堵を浮かべる。
「うむ。木刀ならば、刺したり切ったりは避けられるからな」
「ただし、打ち身はこたえますよ。それと。明日の執務に差し支えても容赦はしませんからね」
 楸瑛とて劉輝を甘やかすばかりではないのだ。
「うむ。気をつけよう」
 嬉しげにそれでも劉輝は楸瑛に笑顔を向けた。
「よし! 主上と仕合いたい奴、とりあえず静蘭の前に並べ! 言っとくがな、主上はそこそこの腕だぞ。みっともない姿は見せるなよ!」
「そこそこって……。それは白大将軍からすればそうかもしれぬが」
 たちまち表情を曇らせる劉輝であったが、提案者でもある彼にいつまでもいじけている暇はなかった。
 静蘭の元で所属と名前を告げて、まず一人目の勝負が始まった。
「よし! 行け!」
 楸瑛の声と共に、こうして国王対羽林軍有志の勝負が始まった。

「次!」
「お願いします!」
 倒れた兵を蹴り転がして楸瑛は進行と審判を勤める。
 やはり劉輝の腕は並ではない。わずかな時間で確実に南瓜仲間を増やしていく。
「こ、後宮……。きれいなおねえさんとお茶……」
 だが、あまりにも甘美な餌を前に名乗りをあげる兵は減らない。ちぎっては投げ、ちぎっては投げる劉輝にも疲れが見えはじめる。
「ほらお前ら! 主上は疲れてきてるぞ! それで勝てなくてどうする!」
 雷炎の叱咤激励に兵は木刀を振り上げる。だが、劉輝とて負けてはいられない。
「南瓜仲間……南瓜仲間を作るのだ……」
 さすがに宋太傳に鍛えられていただけあって、疲れを見せたといえども劉輝には余裕もあった。劉輝を鍛えたかの老将軍の体力は並ではない。
 こうして劉輝は尻尾を付けることなく南瓜仲間を得ることに成功した。負けた兵たちも餌の約束に南瓜をかぶることすら嬉しそうだ。
 もっとも。宮女たちが南瓜をかぶった男なんかをどう思うかなどと考え付いた者は誰もいなかったらしい。
(憐れな……)
 楸瑛はそれを思うと心で涙した。

 かくして、劉輝は『かぼちゃつきおおかみおとこ』となる兵たちに、かぶりものと当日の後宮お茶会権を贈った。国王の表情は晴れやかである。二大将軍は、劉輝に尻尾をつけられなかったこと、誰もが勝てなかったことに少し面白くなかったらしい。
 この一幕において国王の剣の腕前を知って羽林軍兵士の国王への忠誠心が上がったというおまけつきであった。
 翌日、楸瑛と静蘭を抜いて、予定通り両軍の勝負は行われた。その後、雨あられと羽林軍の襲撃を受けて色つき尻尾をつけるはめになる武官たちからの苦情が殺到することになるのだが、それはまた別の話である。


   第十一章:行方も知れぬ絹の道かな



 月末の異装強要は、もちろん後宮にも出されていた。
「えー? 何? 後宮の女官は『てんし』か『まじょ』のどちらかを選べ?」
 与えられた一室で十三姫は通達に眉を顰めた。
「珠翠、『てんし』とか『まじょ』って、何か知ってる?」
 後宮で女官を束ねる美女は困ったように睫毛を伏せた。
「あいにく私は存じません。ですが、霄太師か邵可様でしたらきっとご存知かと」
「そうねー。どう? 二人で府庫に行ってみない? 主上の話じゃ霄太師ってかなり食えない人物らしいし」
 珠翠の顔がぱっと明るくなる。美人が微笑む様はまるで光が差すようで、同性ながら十三姫はこのふいうちに心臓に打撃を受けた。
(楸瑛兄様の気持ちがわかる……ような……)
「と、とりあえず行きましょうか」

 本来であれば後宮の住人が後宮から出ることは許されない。だが正式に妃がいるわけでもない現在の後宮では規則はあれど大目に見られているのが現状だ。もっとも、それは後宮の女官が仕える相手が劉輝だからこそで、前王崩御までの後宮であったなら死刑を宣告されても仕方のない行状と言えた。
 十三姫とて、これまで武門の誇り高い司馬家に育った身。閉じ込められての生活が嬉しいはずもない。
(あー、馬に乗りたい)
 そう願ったところで実現するはずもない。
(うーん、この月末の騒動を利用できないかしら?)
 現王の妃にもっとも近い場所にいる藍家の姫が心の中でそんなことを企んでいるなどと予想できた者はいなかった。
 永らく後宮に暮らしており、現在は劉輝の信頼も厚い珠翠は、人目につかない道を案内する。だが、府庫が見えたところで筆頭女官は十三姫に心からの忠告をした。
「邵可様は良い方なのですが、あの方が出してくださるお茶はお飲みにならない方がよろしいかと思います」
「なに? まずいの?」
 直接的な十三姫の言葉に、珠翠は曖昧な微笑を浮かべる。
「中には倒れた方もいらっしゃるとかで」
「毒ではないのよね?」
「もちろんです!」
 それならばと十三姫は覚悟を決める。毒でないのならばとその時はまだ気楽に構えていたのだった。

「おや、珠翠いらっしゃい。そちらは……ああ、藍家の十三姫ですか?」
 穏かな風貌の府庫の主の姿に十三姫は安堵し、快活に挨拶をする。
「はい。兄たちから邵可様のお話は伺っております」
「雪那殿たちも立派な当主におなりのようで嬉しいですね。さあ、こちらへ」
 府庫の奥へと案内されて、やがて目の前に噂のお茶が湯気を立てていた。横に控えた珠翠が無言の警告を送ってくる。だが十三姫は怯まなかった。ごく少量の茶をそっと口に含む。
 自分でもその時噴出さなかったのは上等だと思う。強烈な刺激に涙がにじんだ。震える手で茶器を置くと本題を切り出す。
「邵可様、『てんし』と『まじょ』について何かご存知でしょうか」
「月末の扮装のことですね。資料をお持ちしましょう」
 邵可が席を立って書棚の方に消えると、十三姫は額に浮かんだ脂汗をぬぐった。
「警告いたしましたのに」
 年上の美女が労わるような視線に僅かの非難を含ませる。
「だって珠翠、平気で飲んでたじゃない」
「平気ではありません。ですが私の場合は慣れもありますし」
 後宮に勤める珠翠が慣れるほど府庫に通っていたとは思わなかった。
(もしかして府庫に来る誰かと逢引してたとか……)
 一瞬そのように考えたのだが、珠翠の様子にはそうした甘やかさはない。
「ごめんなさい。気をつけるわ」
 邵可が戻ってきたのに気が付いて、十三姫は小さく謝罪してその件は終わらせた。

「『てんし』と『まじょ』とのことですが、これらにいくつかの記述があります」
 いくつもの巻物を持参した邵可は机の上に広げてみせた。
「うわーっ、変!」
 目の前に展開される異世界の珍妙な絵図に、十三姫の口からごまかしのきかない本音が零れ出た。
「異世界のものですから、我々の感覚からすると奇異に見えるのも仕方がありませんでしょう。何せ、風土も慣習もましてや住む人が違うとなれば」
 自分の娘と同じ年の姫を邵可は微笑ましく見守っていた。こういった素直な性格は好ましい。
「それはわかっているつもりなんですが。うわー、この『てんし』って奇形ですか? 人間に鳥の羽ついてるはずなんてありませんよね。第一、鳥なら体重が軽いから飛べるけれど、人間の体重をこれだけの翼で支えられるとは思えないし。実際には飛行できない過去の名残か何かなんでしょうか?」
 才気を秘めた十三姫の発言に邵可は嬉しそうに答える。
「この『てんし』というのは、異世界の普通の人間ではありません。神――天上の使いであるようです。ですから、普通の人間のような体重は持たないのかもしれません」
 彩雲国にも伝わる仙人の一種のようなものではないかと邵可は説明を続けた。

「この月末の扮装ですが、提案されたのは霄太師とお聞きしましたが」
 それまで口をはさむことのなかった珠翠が控えめに発言した。扮装であるならば色々あるにも関わらず、何故に現在各部署に通達されたものになったのかが疑問とのことだった。
「あの狸爺……あ、いえ、博識な前宰相殿を締め上げ……いえ、問い詰めましたが、一応選ばれたのは異世界で悪鬼退散の際に使われることがもっとも多い装束ばかりであることは確認されました」
 邵可の表情は穏かなままだがいくらかの失言が見られる。
(邵可様、やっぱり霄太師を狸だと思ってるんだ……)
 たいていの彩雲国国民からすれば伝説上の名宰相も、兄たちからの情報や、宮中の上層部の人間の意見ではやはり近寄りたくない人種であると思われた。この人格者である邵可から伝わる拒否反応が何よりもそれを雄弁にあらわしていないか。
(主上の意見では偏りすぎだと思っていたけど、やっぱり食えないんだ、霄太師)
 その場にいる珠翠だけが複雑な表情をしている。もちろん、十三姫は珠翠の後見が霄太師であることは知らなかった。

「『てんし』の場合、白い長衣と羽つけて、で、髪はおろし髪なのね。この輪っかはどうしたらいいのかしら?」
 もう一度絵図を眺めながら十三姫は『てんし』の頭上に浮かぶ光る輪を指差した。
「輪っかは、額飾りなどでそうと見えればよいのではないでしょうか」
 それについてはある程度考えていたらしい筆頭女官がすかさず答える。
「なるほど。珠翠、もし『てんし』をやりたい宮女の方が多ければ、このあたりの鳥は災難よねえ。鵞鳥とか、アヒルとか。このへん、白鳥は飛んでくるの?」
「白鳥はもう少し北でないと。ですから、飼育されている鵞鳥やアヒルに頼ることになるでしょうね」
 食用に、あるいは防寒にと鵞鳥やアヒルは多く飼われているが、少なくなったとはいえ宮女全員の分を賄おうと思えば、宮中の施設だけでは追いつくまい。
「そうなると、なるべく『まじょ』をやってもらう方がいいんだけど。うーん、こっちは対照的に黒ずくめね」
 特徴的な三角の帽子。黒ずくめの衣装。そして必ず手に箒。
「どうして箒を持っているのでしょう?」
 一応、悪鬼のうちらしい『まじょ』だが、箒であたりを掃いてまわるならばそれほど悪鬼とも思えないと美女は口にした。
「ああ、『まじょ』はそれに乗って昊を飛ぶのだそうですよ」
 予想された質問に邵可は笑顔とともに答えを返す。
「え!? この箒って仙具なんですか?」
「いえ、『まじょ』そのものが仙術に似た力を使うそうです」
 しばらく両方の絵図を見比べていた十三姫はやがて顔を上げると言い切った。
「私は『まじょ』にしておくわ。珠翠はどうする?」
「わ、わたしも『まじょ』にしておこうと思います。帽子は変ですが羽を付けるよりは我慢できそうですし」
「そうよねー。あ、邵可様、ありがとうございました。これで他の女官たちにも説明できます」

 やがて元気に立ち去る十三姫と控えめに会釈する珠翠を見送って邵可は広げられた絵図の前に戻る。
 悠舜から相談を受けた後、即行で探しにいった霄太師は、何やら酒の匂いをぷんぷんと振る巻いていた。詰め寄る邵可を相変わらずのらりくらりかわす。
 しかし生憎、そこには事実しかないらしかった。羽羽から読み取った星の凶兆を知らされたこと。対処方法として異世界の流儀に習うことにしたこと。異世界でその際よくされる扮装に指定し、各部署への割り当てを大まかに決めたこと。
(あやしい……)
 そう聞いても邵可の心から疑いの気持ちは消えない。それでも今はまだ尻尾をつかめない。月末は確実に近づいて、宮中はすでに巻き込まれている。『きゅうけつき』の扮装をした弟が府庫の傍にうずくまっていたりもする。
(尻尾をつかむには当日まで待つしかないのか……)

 後宮に戻った十三姫と珠翠は宮女たちを全員集めて説明をする。説明を受けた宮女のひとりが質問してきた。
「どちらを選ぶか自分で決めてもよろしいのですね?」
「そうよ」
「では……」
 蓋を開けてみれば、『てんし』をやりたがる者の方が若干多かったくらいでほぼいい人数比で納まりそうだった。
 珠翠からの意見もあり、十三姫は『てんし』組に変更した。誰か監督する者が必要だからだ。しかし、それを承諾した十三姫の内心には、府庫で見た絵図の中に剣を帯びた『てんし』を発見したことがあったことは、さすがの珠翠にもわからなかった。

 そうして、『てんし』組と『まじょ』組に分かれて装束の準備を始めたのだが、十三姫はそこで妙に活き活きとした宮女たちの本領発揮にぶつかるのである。
「絹は碧からの極上品でなくては!」
「金糸で縫い取りもいたしましょう!」
「髪を下ろすのであれば、細かい網に宝石を縫い付けたものを被るのはどうかしら?」
 宮女たちは元々才色兼備の美女揃い。おのれを磨くこと、美を追求することにかけては他の追随を許さなかった。
「いや、あの、もっとおとなしくてもいと思うの……」
 十三姫の主張は聞き流される。
「姫君には藍色の石をやはりあしらっていただいた額飾りを用意いたしましょう」
「工部管轄の工匠に頼めないかしら」
「羽にももちろん、何か飾りをつけなければ!」
 気が付けば、十三姫の衣装は、とてつもなく華美なものになっていたのである。
 そうしてまた、国王より当日武官の一団を後宮に茶に招く旨伝えられると、宮女たちの準備にさらに熱が入ったことは言うまでもない。


(114.8枚・35748字)
第二部・星より他に知る者はなし

君知るや南瓜の国・トップ
目次  トップ