君知るや南瓜の国
(きみしるやかぼちゃのくに)

第二部

「君知るや南瓜の国」第一部


   第二部:星より他に知る者はなし


   第一章:早朝


 月末当日。宮中は異様な雰囲気に包まれていた。
 王宮の朝は早い。その早朝に、御前会議すなわち朝議が行われるのだが、その様子は朝なのにまさに百鬼夜行。
 橙色の南瓜の被り物をして外套を翻す国王が座し、合図と共に百官の長たちが顔を上げる。
 国王の傍にはべり、他を圧する霄太師と宋太傳は尖った角付きの黒装束の『あくま』である。議会を進行する鄭悠舜と彼の所属する尚書省六部は『きゅうけつき』。貴族派の多い門下省は包帯をぐるぐる巻いた『みいらおとこ』。秘書的役割を担う中書省は『ふらんけんしゅたいん』で、顔につぎはぎ模様や糊で貼った釘などを付けている。仙洞省は敷布を被った小さな姿がふたつ。仙洞省は『しーつのおばけ』らしい。
 各長官とその補佐だけでこの異様。これがさらに宮中すべてで繰り広げられているかと思うとめまいのようなものさえ感じられる。
 宰相の『どらきゅら』悠舜に合図を送り、仙洞省の『しーつおばけ』令尹、羽羽がまず口を開いた。
「此度は我らが彩雲国の危機に対して各省庁の皆々様のご助力に感謝いたします。不便をおかけいたしますが、なにとぞ本日を乗り切るべくお願い申し上げます」
 それを受けて『かぼちゃだいおう』紫劉輝国王は『どらきゅら』悠舜に何事かを告げ、やがて直接話始めた。
「諸官にも今日という日の重大なこと、理解してくれているろ思う。余とて戸惑うばかりではあるが、本日は立派な『かぼちゃだいおう』となる故、皆もそれぞれ役目を全うしてもらいたいと思う」
 やがて議題は通常の朝議と同様のものになる。それでも同じはずの朝の風景は異様な迫力を持ってそこにあった。何も知らない一般の子供などが見たら、きっと泣き出してしまうであろう訳のわからなさである。それが宮中一斉規模で行われているのだ。もしこの日、何事もなく過ぎたとしても、十二分に異常事態であった。

 朝議が終わって、高官たちは改めて同席した者たちの姿を見る。
 異装、満開。特に他部署の仮装に目を見張る。
「中書省の『ふらんけんしゅたいん』はすごいな」
「いや、六部の『どらきゅら』も多種多彩だぞ」
 誰もが楽しくてやっているわけではない。しかし、それを高みの見物と楽しんでいる者もあった。名誉職であり実権は持たないものの誰も無視できない存在、すなわち霄太師と宋太傳である。

「こりゃ見物だな。霄、お前狙っただろう」
「何のことだか。儂がそんな極悪非道なわけなかろう。すべては国家の危機のためじゃ」
 さも善良そうな無害な老人めいた声を出す霄太師の頭上で先の尖った角がぴょこぴょ揺れる。ついでに帯から垂らされた尖った尻尾もぴょこぴょこ揺れる。――とても悪巧みが似合う。
 蝙蝠の翼に似たものを背中に背負った宋太傳はやれやれと首をすくめた。
「まあお前がそんなに簡単に種明かしをするとは思っていないがな。しかし、この翼って奴は邪魔だぞ。いつも通りに剣を振り回せんな」
「せんでいい。どうせ今日は厄介ごと満載だからな。これ以上お前までが暴れてはさすがに鄭悠舜も泣くだろう」
 霄の言葉に宋は声を潜める。
「……やっぱり今日、何か変事が起こるのか」
「起こる。羽羽殿の読みはちとずれているが起こるのは確かだ」
 同じく声を潜めた霄はにやりとした。装束と相まって、大変に兇悪である。
「――その羽羽との解釈の違い、ぜひお聞かせ願いたい」
 かぶった敷布でさっぱり表情は見えないが、くぐもってもまだ高い少年の声が二人の老人の間に割り込んできた。
「これはリオウ殿。……ですな?」
「こんな馬鹿馬鹿しい様に付き合ってやってるんだ。さっさと教えてもらおう」
 敷布から伸びた手ががっしりと霄の尻尾を握る。
「どうやらあなたの解釈も羽羽殿とは違っていた模様。ならばそれを言い出さなかったあなたも共犯者といえますなあ」
「……こんなに大事になるとは思っていなかったんだ。それに下手に否定すると羽羽が……」
 海千山千の元宰相は少年だとて手加減するような性格ではなかった。
「部下を思いやるお心をお持ちですな。だが、この対処もそれほど的外れにはならないはずですぞ。そこまではお判りにならなかったようで」
 はじかれたようにリオウが顔を上げた。……おそらくは。目に見えては敷布が派手に動いたくらいであったが。
「俺が読んだのは『驚愕』と『南瓜』と『王宮』だった。他に何がある!?」
「ほっほっ。仙洞省長官殿には今日という日、じっくりと周囲を観察しておかれることですぞ」
 どうやってリオウの手から尻尾を取り戻したのやら、霄は宋と共に議場を出るところであった。
「いつの間に……!」
「あなたの知らないことなどこの世にはまだまだたくさんあるということですな」
 食えない老太師をまだ年若いリオウは唇を噛んでただ見送るしかなかった。


 三々五々、高官たちは退出していく。国家の中枢である王宮の、頭脳とも言える人々。先の霄太師の朝廷整理を生き延びただけあって、おおむね優秀な人材が多数。中には無害だからとか、わかりやすいからという理由で残留している者もわずかながらに存在したが。
 さてこの高官たちの中で目立つといえば、やはり国家中枢に食い込むには通常ならば若すぎると言われる、とある集団。
 そう。別名を『悪夢の国試組』。この『悪夢』がこの年の『国試』にかかるのか、当の国試合格者にかかかるのかは議論の種にされることも多いが、彼らを知る者たちは一様に言う。
「そんなもの、あの顔ぶれを見れば一発じゃないか!」

 今、議会の行われた室の外で、まさにその『悪夢の国試組』の中心的存在が集結していた。彼らは尚書省六部に所属していたため、見事な『どらきゅら』絵巻が展開されていた。
 宰相であり、『国試組』のたずなを取れる稀有な人物である鄭悠舜は、一見見本通りの『どらきゅら』である。青白い顔(化粧なし)、黒い外套、異世界の黒い装束。
「なんだ、悠舜は普通じゃないか」
 紅黎深はそう言って同期の様子を眺める。そんな黎深の全身を包むのはやはり見本通りの装束である。――形ばかりは。よく目をこらさないとわからないのだが、その衣装に使われている黒い部分、これが実は赤である。ほとんど黒と言っていい深い赤のため、よほど明るい場所で見なければ黒にしか見えない。もちろん、大人しく安物の生地を纏っているわけはなく、光沢のある極上の絹を使用していることは明確だった。
「そう思いますか?」
 穏かな表情で悠舜は黎深の傍に近づき
「これでも?」
 と言って見せた。
 口の両端から二本の牙がふいに現れる。見つめていると牙は口中に消えた。
「なっ……!」
「面白いでしょう? 舌でちょっと触ると出し入れ自在なんです」
 悠舜は笑いながら牙を出したり引っ込めたりする。好人物な彼の容貌だが牙ひとつあるだけで通常の彼を知っている者の目にはおそろしく映った。
「……奥方の発明か」
「ええ。まったく凛の発想は面白い。この牙、たいへん柔らかいもので作られているので口を怪我することもありませんし」
 仮面の尚書、戸部の黄奇人がさもありなんとうなずく。その彼の仮面は本日特別仕様。何のことはない、どこぞやの影にされて元に戻せない“顔面蒼白牙付き仮面”をそのまま装着しているだけである。艶やかな黒髪に縁取られて尚一層その青さ、おそろしさが引き立つ。
(鳳珠の場合、仮面をはずした方がよほど怖ろしいかもしれませんね)
 だが、己の容姿がもたらす被害に心痛めていた若き日の同期の心情を思いやって、悠舜は口に出すことはしない。黒髪黒装束の彼が素顔をさらして降臨すれば話に聞いた『どらきゅら』のように数多の美女さえ陶然となるであろうに。
 もっとも、圧倒的に男性社会であるこの宮中でそれをやられたら政治中枢の麻痺も目に見えている。このままが一番平和であろう。
「しかし……」
 悠舜の視線につられて黎深が、そして奇人と名乗る鳳珠も残るひとりをとくとくと眺めた。
「まさか飛翔のこんな姿を見られる日が来るとは夢にも思いませんでした」
 深く感慨をこめた悠舜の視線は暖かい。
「これは欧陽侍郎の力作と思われますが、よく承知いたしましたね」
「……賭けに負けたから仕方ねーよ」
 当の本人、工部尚書管飛翔は悠舜の視線から逃れようと顔を背けた。そこにいたのはすっきりと髪を撫でつけ、瀟洒な衣装に身を包んだ酔いどれ尚書。耳朶と手首に光るものが揺れる。
「いっそいつもそうしていろ。少しは身なりに構え」
 仮面の尚書が洩らすのも仕方ない。そこにいるのは苦みばしったイイ男である。元々、飛翔は見た目が悪いわけではない。ただその言動が目立つがために忘れられがちなだけである。そうして尚書という地位についた後であっても身なりにも構わず大酒を飲む彼の個性が、ますます一般的に好まれるであろう条件を封印していたのである。
「今なら、縁談も進められるかもしれませんねえ」
「悠舜、てめえ自分が結婚したからって余裕かましておせっかい焼くんじゃねーよ!」
「口を開いたら台無しだ。悠舜、諦めろ」
 楽しげな悪夢の国試組を周囲は見て見ないふりをする。一人だけでも怖ろしいのに現在その四倍。
 だがもちろん、この程度であれば歯牙にもかけない人物も存在する。
「やれやれ。君たちは本当に仲がよいのだな」
 四人目の尚書、六部兵部尚書が苦笑しながら立っていた。

「これは孫尚書。これを言っていいものかわかりませんが着こなしていらっしゃいますね」
 にこやかに対応したのは悠舜ひとりであった。黎深は横を向き、奇人は仮面で表情が見えず、飛翔はずっと仏頂面である。
 壮年になる孫陵王は異世界の装束を嫌味なく着こなしている。最初、話を聞いた時点で乗り気でなかったなどとは誰も思わないだろう。
「おや嬉しいね。ところで宰相のその牙、非常に面白いのだが」
「ああ、これはですねえ」
 悠舜と陵王が話し始めると他の三人はさっさとその場を離れる。馴れ合うつもりはないのだと言外にあらわしているようだ。
「君の同期たちは正直だな」
 あからさまな反応に陵王は苦笑してみせる。
「そうですね。可愛いでしょう」
 誰もが特殊な意味で評することの多い三尚書を差して「可愛い」などと言える人物は少ない。陵王はいかにも楽しそうに笑い出した。
「いいな、君は。実にいい」
 無意識に懐から煙管を取り出した陵王の肘が通りかかった人物にぶつかった。
「これはすまない」
 振り返り謝る陵王の肘が当たったらしいのは礼部尚書の持つ虫籠だった。
「いえ、大丈夫のようです」
 虫籠を覗き込んだ魯尚書は表情を変えずに短く答える。
「魯尚書、朝議の時から気になっていたのですがその虫籠には一体何が?」
 悠舜はかつての教導官に向かって訊ねずにはいられなかった。
「ご覧になられますか?」
 差し出された虫籠を受け取って悠舜は顔を近づける。陵王もまた覗き込んで来る。
「蝙蝠……?」
「ええ、蝙蝠です」
 悠舜から返却された虫籠を揺らさないように魯尚書は手にする。
「またどうして蝙蝠なのか聞いてもいいだろうか」
 陵王の疑問は悠舜の疑問でもあった。
「『きゅうけつき』には蝙蝠がつきものと霄太師に伺いまして」
「それはまた……」
 そこまで熱心にこの危機に対応してくれたのかと悠舜は思った。が。
「可愛いでしょう」
 盧尚書は本気らしかった。生憎、悠舜も陵王も蝙蝠を可愛いと思ったことはない。困った悠舜は、
「これまであまり近くで見たことがないのでわかりませんが」
 と答えたのだが予想外の反応が返ってきた。
「飼ってみれば可愛さがわかります。もしよろしければお分けすることもできます」
 飼うとなれば妻にも相談をしないと……と言い募る悠舜を横目に、陵王は遠い目をし、陽気に手を振ってその場を去った。
(俺もまだまだだな。きっと魯尚書なら悪夢の国試組をまとめて『可愛い』と言ってのけそうだ)


 それが不幸だったか幸福だったかと訊ねられたら
「半々だ」
 と吏部侍郎は答えたに違いない。

「ああっ! すみません!」
 朝議が終わって、残って話し込んでる上司を置いて李絳攸は歩き出した。いつもなら事情を知る劉輝や楸瑛についていけばいい。しかしこの日に限って二人とも早々に姿を消していた。養い親はまだ同期と話している。小さい子供でもないのに黎深を待っているというのも抵抗がある。そこで何食わぬ顔で歩き出したものの、僅か数歩で絳攸は途方にくれていた。そんな折である。
 声と共に固いものが背中にぶつかる感触がした。振り返ると青く塗られた悪鬼の仮面。それはおなじみの戸部尚書ではなく――。
「李侍郎、ですね。申し訳ありません」
 誠実さをそのまま現したような声は多少くぐもってはいるが戸部侍郎、景柚梨のものだった。
「――景侍郎」
「いやあ、案外視界が限られるものですねえ仮面というものは」
 ほがらかな声には多少楽しんでいるような色さえあった。
「戸部では今日、尚書の仮面を皆つけているのですか?」
 内面は常識人である黄奇人を知る絳攸には、そのことがかなり意外だった。
「ええ。実は鳳珠――尚書が持つ仮面が軒並みこのような仕様になっておりまして。どうせ使えないからと戸部に持って来られたんですよ。で、我々も六部の皆さんが今日の日に色々個性を出していると聞きましたので、数もあることですし尚書と同じ扮装をすることにしようかということになりまして」
 よく見ると戸部侍郎の髪は纏められずに下ろされたままだ。そこまで揃えなくても良さそうだと絳攸は思ったが、水を差す気もないので沈黙を守った。
 この調子だと戸部は黄尚書の仮装をした官吏ばかりかと思うと、それも少し寒い。
「吏部は基本に忠実に扮装してられますけど、表情とかが真にせまってますよねえ」
 これは暗に、常の吏部が『悪鬼の巣窟』と呼ばれていることを皮肉られている……と、普通なら考えるところであるが、戸部侍郎の人柄からか、そういった裏は読み取れない。それでも返事に窮した絳攸が答えを迷っている時だった。
 ふわり。
 また何かが今度は後頭部に触れた感触があった。
 確認するために頭に手を伸ばして絳攸は固まった。手の中に自分のものでないぬくもりがある。
「なっ……!」
 恐る恐る手を眼前に移動させ、そっと開くと、そこには何やら黒い塊があった。
「どうされました? 李侍郎。おや、それは?」
「今、俺の頭に……」
 柚梨に説明しようとした絳攸の耳に切羽詰った声が飛び込んできた。
「ちーちゃん! どこ行ったんだーっ!」
 少し首を傾げて、合点したらしい柚梨と視線を合わせる。
「あれは礼部の……」
「ええ、侍郎ですねえ」

 必至な形相の『きゅうけつき』は、二人の侍郎を見て駆け寄ってきた。
「すみません! このあたりで蝙蝠を見ませんでしたか!?」
 礼部侍郎の顔と自分の手を交互に眺めて、ひとつうなずいた絳攸は、軽く握った自分の右手を差し出した。条件反射のように広げられた先方の手のひらに黒い塊が落ちる。
「ああっ! ちーちゃん!」
 いい年をした男の台詞とは思えなかったが、礼部侍郎はその塊に頬ずりしてのけた。
「ちーちゃん、駄目じゃないか。今はまだおやすみの時間だよ? さあ、籠の中でお眠り」
 黒い塊は侍郎持参の虫籠に収納される。
「礼部の……。あの、その蝙蝠は……」
 さしもの度胸のある景柚梨にしても少し動揺する光景であったようだった。
「もしや、戸部の? それに李侍郎も。捕まえていただいて助かりました。お騒がせして申し訳ありません。本日、礼部では尚書の指示により全員が蝙蝠を連れておりまして」
 元々の理性的な部分を思い出したかのような礼部官吏の姿に絳攸は胸を撫で下ろす。彼の言動がどこか黎深の兄と姪に対するものを思わされたせいかもしない。
「そう言えば尚書も虫籠をお持ちでしたが、何か意味があるのですか?」
「『きゅうけつき』と蝙蝠には元々深い繋がりがあるらしいとのことです」
 絳攸の傍らで二人の侍郎の会話が続けられていく。上司の命令では理不尽でも従うしかないだろう。吏部など理不尽の集合体だ。
「しかしその、先ほど名前を呼ばれてませんでしたか?」
「お恥ずかしい……。今日まで飼うようにと尚書から渡されまして、どうせなら名前があったほうが良いかと」
(ちいさいからちーちゃん、か)
 なんとはなしに名前の由来を知ったような気がする絳攸である。沈黙を守ったまま、そんなとりとめのないようなことを絳攸が考えている間に、礼部侍郎は柚梨を相手に、飼い始めてわかる蝙蝠の魅力を滔々と並べ立てていた。間違いない。彼は親馬鹿に陥っているのだ。
 景柚梨という人物はそのくらいのことであれば流せるだけの余裕があった。この上もない聞き上手であり、さらには誘導尋問も上手い。礼部侍郎は現在礼部を上げて蝙蝠熱が上がっていることを告白させられていた。
(景侍郎は実際、どこの部署でもやっていけるな。黄尚書を補助できる者さえいれば評価も高いことだし昇進させてもいいはずだ)
 官吏の査定が大きな仕事である吏部官吏の顔で絳攸は柚梨の評価を上げる。
(だが実際はまだあと数年は戸部から動かせまい。それは工部も同様だな)
 吏部侍郎の顔になってそのまま来年度の査定に思いを馳せていた絳攸の耳が、まるで狙ったかのように金属が触れ合う音を拾った。
(まさか……)
 顔を上げた絳攸はそこに四人目の侍郎を発見することになる。

「なんですか、これは侍郎会議ですか?」
 工部侍郎を見ているとその貴族的な物腰が光っている。それ以上に彼を引き立てる宝飾品が目立っているのだが。
 こんな時楸瑛なら、
「そうです。欧陽侍郎も混ざりませんか? 侍郎友の会へようこそ」
 くらいはふざけたことを言いそうだと思ったが、絳攸が搾り出したのは単なる事実だった。
「いや、成り行きで立ち話をしていただけだが」
「そうなんですか? まあ丁度いいです。景侍郎にお聞きしたいことがありまして」
 本日の欧陽玉の姿は非常に人目を引くものだった。異世界の装束だというのに見事に着こなし、通常の五割り増しの装飾品が彼を飾っていた。
「私にですか?」
 話を振られた戸部の男は戸惑った声を上げる。これまでさして工部侍郎とつきあいはない。
「そうです。黄尚書のもそうですが、あなたが今されているのもかの彫刻家、雅旬の作ですよね?」
 玉の関心は顔の仮面にあったらしい。口が開閉するなど芸もあるが、どちらかというと潰れた蛙にも似た仮面が名のある作家のものと絳攸は初めて知った。しかし、紅家でその彫刻家の名前を聞いたことがあった気もした。
「ああ、なんだかそんなことを聞いたことがあります」
「やはり! ですが、それがなんだってこんな稚拙な色を塗りたくられ、おまけに牙だなんて……! 嘆かわしいにも程があります!」
 玉からは真剣に憤っているのが伝わってくる。たかが仮面、されど仮面である。
 怒るときがあるのだろうかとさえ思わせる温厚な男は、飾り立てた年下の同輩にそれは優しく言い聞かせるように説明しようとした。
「仮面がこのようになったのは、決して鳳珠……黄尚書の意向ではなく、ましてや我々戸部の意向でもありません」
「今日のためにわざと手を加えたわけではないのですね!?」
「もちろんです。これは一種の天災です。正確には人災ですが」
 柚梨の口調では天災という言葉が強調されていた。
「どこの誰がそんな馬鹿なことをしたと言うのです!? 芸術に対する冒涜です!」
「不可抗力というものが世の中にはありまして」
 柚梨が窺うようにこちらに視線を流したのを見て絳攸はすべてを理解した。
(れ、黎深様……)
 あの人ならやる。絶対やる。それは確信と共に絳攸を襲った。
「景侍郎、それは何か権力であるとか財力であるとかそういったものに巻かれろという意味ですか!?」
「とんでもありません。しかし、人の世には触れぬほうがいいというものが確かにあるのです」 
 どうしたものかと絳攸は思案にくれた。ここで黎深の名を出すのはあまりにもまずい。傍らで虫籠を抱えた礼部侍郎が困惑しているのが伝わってきて、早く対処をしなければならないことに絳攸は気付く。彼らはいずれも多忙な身なのだ。
「李侍郎!」
 いきなり呼びかけられ、絳攸は驚愕を表情の下に押し殺した。
「なんでしょうか」
「吏部には国官のすべての資料がありますね!? 拝見させていただけますか」
 玉の声には反対されるなどと思ってもいないらしい節が見られた。
「それはできません。吏部が預かるのは門外不出の情報です。たとえ侍郎であってもお見せするわけにはまいりません」
「杓子定規な規則を聞きたいわけではないのです。悪辣な犯人を捜すための助力をお願いしたいのです。さあ! こんなところにいないで吏部にまいりましょう!」
 工部侍郎は一気にそれだけ言うと問答無用で片手を何故か礼部侍郎、もう片手で絳攸を掴むとさっさと歩き出した。優男のように見えて欧陽玉は意外に力がある。振りきることもできずに絳攸は心の中で悪態をつく。
(できるわけないだろう! だが、これで吏部まで迷わず行ける。――欧陽侍郎は碧門家の出身だな。よし、ここは珀明に命じて言いくるめさそう)
 そんな風に絳攸が画策している隣で、玉が礼部侍郎に
「蝙蝠は悪くない発想だと思いますが、その皮膜に穴を開けて耳飾などつけてはいかがでしょう」
 そんな提案をして激しい拒否にあっていたりした。
 成り行きで景柚梨も同行し、一行は吏部を目指して進んで行った。


   第二章:午前


 その噂が流れ始めたのはまだ午前中の十六衛からだった。
「おい、見たか?」
「……見た」
「俺は見てないぞ! 嘘じゃないのか?」
「でもな、隣の部署でも話題になってたぞ」
 十六衛――彼らは王宮に勤める武人たちである。禁軍でもある羽林軍とは違い、そこそこ腕があって国武試に受かればなれる。全体的に庶民出身が多く、風紀はあまりよろしくない。
「俺は見た! 見舞い違いなんかじゃ絶対ない!」
 狼男の耳と白く塗られた尻尾を持つ彼の持ち場は内殿に至る門の番人である。このようにどこかの守りに配置されていることが多い。
「きっと気のせいだって。お前、この間の休みから体調崩してるだろ?」
 黒い尻尾を揺らす彼の部署は王宮そのものの大門の番人である。早朝から宮城の外の一般人の視線が痛く、少しばかり泣きそうになっている。
「おまえが見張ってるのは城の外だろう。俺が見たって言ってるのは城の中だ!」
 白い尻尾の男が反論をする。たちまち十六衛の詰め所では目撃例がすべて宮中の話であることに誰もが気付いた。
「月末になんか悪いことが起こるって、仙洞省のじーさんが言ったんだって?」
「デマじゃなかったのかよ!?」
「おい! 誰か上司に報告しろよ」
「でもな、被害は今のところないんだろ? 報告のしようがないじゃないか」
「阿呆! 宮城の中への無断侵入だろ!」
「無断侵入……。確かにな。だがどうやってアレの侵入を防げばいいんだ? そもそも奴らはどこから来たんだ?」

 羽羽仙洞省令尹が指摘した月末当日。誰もが強要された衣装の異常さに、どこか悪い冗談だとしか思っていなかった。もちろん、宮中を守る彼らにしても同じことである。概ね、上の方の人物による悪ふざけと認識されていたのだ。
「おい、勤務状況の見直しをしよう」
 その場で一番年嵩の男が提案した。
「なんでだよ?」
「変なことが起こっているのに放っておけるか? できるだけ一箇所に配置する人数を増やせるか相談してこよう。その場にいる者が多ければ、誰かが持ち場を離れて噂の無断侵入者を追っていけるだろう?」
 噂がまだ確定でないのは、誰もが勤務中であり、所定の位置を動くことが許されていないからだ。
「俺は追いかけたくない……。何だよ、貴陽には変なものが出て来ないっていうからわざわざ国武試受けたんだぞ? 俺は嫌だ!」
 叫んだ男は怪力自慢だが、何より嫌いなのが怪談である。もっとも、こういった部署では怪談はつきものなのだが。
 月末当日午前。こうして最初の怪異が報告されることになる。
 曰く、大人の半分くらいの一見子供のようにも見える小鬼が宮城の随時で見かけられたという。その小鬼たちは、人間が気が付くとたちまちにして姿を消す。だが、またしばらくすると柱の影などからこちらを見ていたりするという。
 これが最初の怪異。そうして似たような報告が十六衛以外からもたらされるまでにそれほどの時間は必要としなかった――。


 朝議のあと、劉輝は執務室に戻る前に隣に立つ楸瑛に質問した。
「楸瑛、聞きたいんだが。羽林軍で余と戦ってくれた者たちは今日ちゃんと『かぼちゃ付きおおかみおとこ』になっているだろうか?」
 ひとりきりの『かぼちゃだいおう』が嫌で、仲間を増やすために行った立会いの数々が思い出される。
「朝、詰め所を覗いたところでは、主上に負けた者たちはいそいそと『かぼちゃ付きおおかみおとこ』になっていましたよ。どうやら本日は南瓜だけが後宮に入れるのだ、とか訳の判らない台詞も聞こえてきましたが」
 微笑みながら楸瑛は答える。
「そうか。皆、約束を守ってくれているのだな。よし! 今から余は午後の準備がどうなっているか後宮に確認に行くことにする」
 意気揚々と外套に風をはらませて、彩雲国王、現在は『かぼちゃだいおう』は歩き出した。顔部分を残して頭全体が大きな南瓜の被り物に覆われている。異様ではあるが本人はある程度吹っ切れたようだ。が。
「……楸瑛。余は後宮に行くと伝えたな?」
「ええ確かに」
「何故一緒についてくるのだ?」
「主上の御身を守るため、また今日一日が滞りなく過ぎるよう私なりに心を砕いているのです」
 もっともらしく聞こえるが、早い話、楸瑛も後宮に行く気であるらしかった。
「その……、今日は楸瑛には遠慮してもらいたいのだが」
「おや、私をのけ者にするんですか?」
 言いにくそうに顔を背けて劉輝はぼそぼそと小声になる。
「そなたを後宮に連れて行くと珠翠の機嫌が悪くなるのだ」
 噴出しかけた楸瑛はわざと憂いを帯びた表情を作った。
「それはつまり、主上は珠翠殿を私より大切になさっていると?」
「余はちゃんと楸瑛も愛しているぞ!」
 自信満々に劉輝は胸を張る。こんなところが可愛くてしかたないと楸瑛は思うがからかうのも楽しいのでやめられない。
(霄太師の気持ちがわかる……かもしれない)
 だが、劉輝が楸瑛に向けてくれる信頼は本物なので、それを失うことは避けたかった。そのあたりの匙加減が難しい。それでもやめることができないのは、楸瑛もまた疲れていたからかもしれない。
 彼の『おおかみおとこ』の尻尾は灰色だ。これは尻尾が塗られていない元々の色である。ここ数日、白大将軍はじめ、右羽林軍兵士に場所も問わずに襲撃されることが続いていた。今や尻尾を素の色のまま保っているのは二大将軍他数名でしかない。そんなわけで、色を塗っていない武官は問答無用で標的とされることになったのだ。ひとりひとりの腕は楸瑛の腕であれば撃退できるものではあるが、それでも時間差波動攻撃ともなれば、さしもの楸瑛も疲れようというものだった。
「どこへなりとも主上にお供する所存ですがそれが受け入れていただけないとは……」
 楸瑛の様子に国王は真剣に悩みだす。わざわざ自分と仕合し、負けて約束を守ってくれている兵の気持ちも尊重したい。それに、やはり珠翠に怒られるのも嬉しくない。そうして考えていて劉輝は名案に辿り着いた。
「そうだ! 楸瑛も『かぼちゃ付きおおかみおとこ』になるならば連れて行ってもよい。でなければ羽林軍の兵たちにも不公平だからな」
 楸瑛は目の前の国王の姿を改めて眺め、詰め所で見た部下の姿を思い出す。とてもではないが進んでしたい様相ではない。
「それは……。妹を思う兄の心に免じて、ここはひとつ是非このままで」
 楸瑛は灰色の耳を指差して答える。
「そう言われては余だって困るのだ!」
「おや、もう後宮の入り口ではないですか。さあ主上、さっさと行きましょう」
 楸瑛は劉輝の手を掴むとそのまま後宮へと引きずっていった。
「楸瑛、待つのだーっ」
 だーっ、だーっ、だーっと、劉輝の語尾だけが宮城の廊下に響いて残された。

 やはり何があっても楸瑛を残してくるのだったと、劉輝は後宮で珠翠と対面した途端に思った。
 『まじょ』の扮装をした筆頭女官は、とんがり帽子に黒い貫頭衣、手には箒を握り締めていたが、楸瑛を見た途端に箒を長刀のように構えた。
「何をしにきたのです、このボウフラは」
(ううむ、珠翠もなかなかにできる……)
 かつての珠翠の職業を知らない劉輝は、たおやかな美女を指導すればそこらの近衛程度には強くなれるのではと算段しはじめる。
「つれないことを珠翠殿。異世界の黒一色の装いもなかなかにお似合いですね」
 聞く耳持たないと無視を決め込んだらしい珠翠は、まっすぐ劉輝を見つめて詰問する。
「それで主上の御用は何でいらっしゃいますか。害虫を一刻も早く除去していただきたいのですが」
(こわい……)
 本気の怒りをこめた珠翠の視線に、劉輝は我知らず身を引いた。
「す、すぐ済むのだ! 午後の準備がどうなっているか聞きにきただけなのだ!」
「それなら、女官一同のものすごい情熱で準備万端だわ」
 答えたのは珠翠ではなく、今後宮でもっとも高貴な女性。
「十三姫……」
 その姿を見て劉輝は一瞬言葉を失い、次いでつぶやく。
「派手だな……」
 女性に向かってそれはあまり褒め言葉にはならないと注意したいと思った楸瑛だったが、その彼の目をしても妹のしつらえはあまりにも派手だった。
 おろし髪に白の貫頭衣と、基本は非常にそっけないものであるはずなのだが、髪に額に耳に首に手首に指にと、惜しげもなく宝石が飾られ、衣にも金一色ではあるが要所要所に刺繍がほどこされている。そしてとどめが背中に広がる一対の翼。純白の翼は金粉を散され、清澄な朝の空間をきらびやかなものに変えてしまっていた。
「全部女官のしわざよ! 私の意見なんてちっとも聞かずにどんどん派手にしていくんだもん!」
 どうやら十三姫本人にはあまり面白くないらしい。
「だが似合ってはいる、と思う」
 自信なげに劉輝がつぶやくと珠翠も楸瑛もうなずいた。確かに派手は派手なのだがその豪華さに十三姫は決して負けてはいなかった。
「ありがとう、って言っていいのかしら。でもあんまり見られたい姿じゃないから、主上も兄様ももう帰ってね。午後のことなら心配ないから」
「そうか。確認さえできればそれでいい。『かぼちゃ付きおおかみおとこ』を心から接待してくれるよう女官皆に伝えておいてくれ」
 劉輝が楸瑛をうながして後宮を辞去する動きを見せた。しかし、その前に十三姫がしっかりと劉輝の外套を掴んだ。
「ちょっと! 今言った『かぼちゃ付きおおかみおとこ』って何よ!?」
「ん? 今日後宮に招いた羽林軍の有志たちのことだ。余の『かぼちゃだいおう』の仲間となることを選んでくれた勇者たちでもある」
 嬉しそうに発言する国王の前で十三姫は頭を抱えた。
「つまり、今日来る羽林軍の兵って、みんなそんな南瓜の被り物をしてるってわけ!?」
「ただの南瓜ではないぞ? 彼らはちゃんと『おおかみおとこ』の耳もつけているのだ!」
 手を伸ばして劉輝は楸瑛の耳を引っ張ってみせた。
「珠翠ー、女官たちの士気に関わらない? これって?」
「多少は……」
 二人の佳人がこそこそやり始めたのを見て、国王は今更ながらに慌てた。
「外見で差別するのはよくないのだ! 南瓜は栄養もあって美味しくてよいものだし、兵たちも余に仕えてくれる大切な存在なのだ!」
「あー、わかった、わかった。なんとかする。うん、なんとか。ねえ珠翠?」
「そうですわね。女官たちとて今日という日に宮城全体が異世界の装束で溢れているのを知っているでしょうし」
 そう。後宮はまだいい。後宮から一歩出ればそこは異国の百鬼夜行。
「とにかく、頼んだぞ?」
 心配になった劉輝が念を押すと、頼もしい姫と筆頭女官はそれでもうなずいてくれたのだった。

 執務室に戻った劉輝と楸瑛は、戻った途端に第一弾の怪異の報告を受けることとなる――。


 そこは彼にとってかつて過ごした古巣だった。彼が去った後も何人かの男たちがその席を占めた。今、その席は厳しい表情をした官服の男が座していた。
「……何故、お前は異世界の装束をしていないのだ」
 包帯をあちこちに巻いて『みいらおとこ』となった門下省長官は来訪の目的も忘れて御史台長官に問うた。
「これは旺季様。我が御史台は『とうめいにんげん』を振られまして。現在この室では私は見えないことになっております」
 配下への言葉遣いとはあきらかに違うが、御史台長官葵皇殻はそう言ってのけた。
「つまり、周囲からそう扱うよう仕向けていると?」
「その通りです。私がどんな装束をすると思われましたかな?」
 旺季はそれには答えず、当初の目的を果たすことにした。
「怪しい存在が随所で見られている報告はもう受けたか」
「ああ、小鬼のことですか。それならば早々に何軒か」
 御史たちからの報告は早い。もしかしたら国王その人の元へ情報が届くより早いかもしれなかった。
「失礼します!」
 声と共に『みいらおとこ』が扉を開けた。彼は旺季に目礼し、そして皇殻と目を合わさないようにして持参の書類を指定の箱に収めてすぐに退出していった。
「また発見されたようです。初めは外殿付近での報告が多かったのですが、ついに内殿でも見られたとか」
 さっそく書類を繰る皇殻の報告よりも先ほどの官吏の様相が旺季には気になったらしい。
「……御史は門下省にも配置していたか」
 皇殻は書類から目を上げ微かに笑ったように見えた。
「当然でしょう。あらゆる腐敗を見つけ、そして撲滅するためにこそ御史台はあるのですから」
 微妙な含みにも旺季は動じずに流す。
「そうだ。そのためにこそ、御史台は独立機関として存在するのだから」
 それはかつて彼が心血注いだ仕事。現在の御史台を作り上げたのも彼と言えるだろう。
「ところで本日はどのようなご用件でいらっしゃったのですか」
 多忙な男がやはり多忙な十以上年上の男に切り出した。双方共に甘くはない。いや、甘さだけは持たない。
「本日、宮城は異様な興奮状態にある。しかも実際、怪異の報告もある。そこでこの混乱に乗じて悪心を起こす者が現れるやもしれぬ」
「手は打ってあります。――宰相は白のようですが」
 納得して皇殻は更に試すような一言を付け加えた。
「あの男はな。だが、回りはそうとも限らぬ」
 貴族派を多数有する旺季は、国試組――国王派とは対立せざるをえない。国王が旺季の期待に背かぬならばもっと平和裏に事は進んだであろうに。だがすべては遅すぎる。
「鄭悠舜。あの足さえなければ御史台に招きたい人材でしたが。今となっては不可能ですが」
 国試を状元で合格したばかりではない。あの毛色の個性的すぎる同期を纏め上げる力。そして中央でこそないが命を張った現場で培われた能力。悠舜の有能さは以前より皇殻の元へと茗才が詳しく報告してきていた。できれば敵対するよりは取り込みたい人材だった。
「ああ。味方にと早くに手をうつべきだった。もしくは……。だが、それも過ぎたこと。よりよい政治のためにはぶつかり合うことも避けえまい」
 前王に似た容姿を持つ男の顔からは常に笑顔を見ることはできない。彼の望むものと現実が合致しない限りは。
 そんな折、小鬼の目撃に告ぐ第二の怪異報告がもたらされ、旺季はあわただしく退席していった。残された皇殻は先ほどの書類をもう一度取り上げながらつぶやく。
「あなたに恩はある。だが必要とあればこの御史台の真骨頂、思い知っていただく」
 だがそれはおそらくまだ先のこと。今は今日という日の収拾に当たらねばならない。
「この気に乗じてなどと思う輩には後悔だけを味わわせてやる」
 主がいないことになっているはずの御史台長官室で、いないはずの人物はそうひとりごちた。


 庖丁長は仁王立ちになって部下に矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。
 ここは彩雲国王宮の庖廚である。
 王宮には数多くの人間がいる。そのため、庖廚も国王専用であるとか、後宮専用であるとか、官吏専用であるとかでいくつもに分かれている。そのうち、もっとも多数の食事を賄う官吏用庖廚が今回の舞台だ。
 高官ともなればまた別室でうやうやしく給仕されるが、一般の官吏の場合、その昼食は弁当形式が取られる。
 弁当と言っても王宮で出される限り貧相なものではない。下位の官吏たちにとってそれは楽しみのひとつだ。もちろん、自分で用意してくる者もあるがそれは全体から見れば一部でしかなかった。

 本日の菜譜は南瓜を中心にとの指示が出されている。白い上っ張りの庖丁人たちが白く長い耳を揺らしながら庖廚を飛び回っていた。――庖廚には『うさぎおおこ』が数多存在した。中には邪魔だからと長い耳を結んでしまっている者もいる。
 昼も近くなると、自部署の弁当をまとめて取りに来る姿が見られるようになる。『うさぎおとこ』の群れに現れた『きゅうけつき』、碧珀明もそういった一人であった。
 もちろん珀明であれば彩七家の名にに恥じぬ昼食を取ることもできたが、悲しいかな彼はまだ吏部の駆け出し。先輩たちを差し置いて一人豪勢な食事をするわけにはいかなかったのだ。おまけに尊敬する李絳攸が国王の執務補佐の時以外は一般官吏と同じものを食べるとあれば答えは決まっていた。
「吏部です。弁当を受け取りに来ました」
「できあがった分から必要量を持って行ってくれていいから」
 珀明にとっても初めてのおつかいではないのだから、どこでどう受け取ればいのかは判っている。彼は人数分の重箱を取ると蓋を開けて中身を検分しはじめた。――以前、ついに思考能力のなくなった修羅場の先輩たちがおかずの数で喧嘩を始めたときからの習慣だ。

「あ!」
 中を見た途端、珀明は小さく叫んだ。慌てて別の重箱の蓋を取る。更に別の……。
 厨房は戦場。しかし自分の所属も戦場。ここで怖気づくわけにはいかなかった。
「すみません! おかずがありません!」
「なにいっ!? んなわけないぞ!」
 庖丁人の一人が、この若造、何いちゃもんつけてやがるといった勢いで重箱を覗き込んで来た。
「……ないな」
「……はい」
 ご飯は入っているし、おかずも一部は残っている。しかしどの重箱にもきれいに何も入ってない部分が目に付いた。
「おい! 今日の主菜入れ忘れてるぞ!」
 庖丁人が別の男に叫ぶ。
「そんなはずはない! たしかに入れたんだ!」
「でも実際に入ってないんだ。とっとと主菜の鍋寄越せ。俺が詰めてやるから」
 どうやら重箱におかずを詰める担当だったらしい男は鍋を抱え上げて珀明の隣にいる男に渡そうとして固まった。
「どうした?」
 問いかけられた男は声も聞こえない様子で鍋の蓋を開けた。
「……なあ。今朝確かに庖丁長が山盛りに作ってたよな?」
「ああ」
「……ないんだ」
 男は途方にくれた様子で空になった鍋の内側を見せた。確かに菜の後はある。鍋のへりに残った橙色は南瓜のものだ。しかし、鍋一杯にあったおかずは見事に消えうせていた。
 徐々に庖廚に緊張が走っていった。
「すみません、他の重箱や鍋も確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
 弁当を持ち帰らないと先輩たちから益々人間らしさが失われてしまう。珀明は『うさぎおとこ』の群れに問いかけた。
「そうだな。おい、手分けして調べよう!」
 庖丁人の中では上位にいるらしい男の掛け声に、厨房では鍋や重箱の蓋が次々と開けられていった。
 結果は、先ほどと同じ。
「弁当を取りに来たのはこの兄ちゃんが始めてだよな?」
「ああ、他はまだ来てない」
「たった半刻前だぞ、こっちの鍋から重箱に移したのは」
 騒ぎは厨房全体に広がりつつあった。しかし、外に持ち出せるような量ではない。第一、わざわざ重箱に一度詰めた分を取り出していくような手間のかかる作業をする時間もなかった。
「ええい! 無いものは仕方ない! 大急ぎで作り直すぞ! 材料持って来い!」
 恰幅のよい庖丁長が一声叫び、厨房は目が覚めたように動き出す。しかし。
「大変です! 食料庫に南瓜がひとつもありません!」
「馬鹿を言うな! 昨日、山のように注文した分がまだあるはずだ!」
「でもどこにもないんです!」
 殺気立つ中、それでも珀明は勇気を出して発言した。
「行方不明の南瓜と菜は後で調査してもらいましょう。ですから、急遽、別のおかずを用意してください。うちだけじゃない、他の部署ももう来るはずです。その時おかずが足りないとあれば……」
 飢えた官吏が文句を言いに山を成す様が容易に想像できた。庖丁長はしばし熟考したが珀明に向かって深く頷く。
「たしかに。ここでおかずがないまま渡すわけにはいかない。大至急別の主菜を用意させてもらう!」
 本日の指示は南瓜菜であったが背に腹は変えられぬ。厨房では大回転で別の主菜が作られ始めた。

 多少の時間差はあれ、宮城のあちこちの厨房で同じことが起こっていた。珀明はすぐさま報告に走ったし、他の厨房でも同じだった。
 こうして王宮中からすべての南瓜が消えうせたのだった――。


 小鬼対策は外殿を十六衛、内殿を羽林軍に任せることとなった。だが、その報告が最終的に集結する場所――それが宰相室である。
「悠舜、今日の怪異とは小鬼のことだったのだろうか?」
 足の悪い悠舜を気遣って、国王自ら宰相室に赴いたところだ。
「そうですね。一部ではあると思います」
 鄭悠舜は労わるように劉輝に視線を送った。若き国王は優しい。その優しさを曇らせたくはなかった。窓の外は深まった秋の気配に彩られていたが彼らには届かない。
「これで終わりではないのか」
「これで終わる程度でしたら、羽羽殿があそこまで顔色は変えられなかったと思いますし、霄太師の進められたこの異装とて何らかの意味を持つはずです。今はまだ無害と言ってもいい状態ですから」
 後宮からずっと劉輝に付いてきた楸瑛が悠舜の元に届けられた報告を指差した。
「たしかに、『小鬼の姿が見られた』との報告はありますが、奴等が何かしたという報告はまだ一件もありませんね」
「宮城に入り込まれたということだけでも害がないとは言えませんが、ともかく小鬼たちの目的もまったくわかっておりませんし」
 穏かな容姿の宰相はひとつ首を振って続ける。
「星を読むことの重要性を今回は感じました。これまで無縁のことと専門の方にお任せしておりましたが、やはり無視することができないのだと。この件が片付きましたら羽羽殿にご教授願おうかと思います」
 悠舜を宰相にと決断したことを間違いだと思ったことはない。だがこの優しい人物から取り除くことのできない疲労に劉輝は心を痛めていた。
「いや、悠舜がそこまでする必要はないのだ。そのために仙洞省があるのだから」
「しかし、古来より国家の運営に欠くことができぬと言われて重視されてきたことです。それに、まだ知らぬ学べることがあるというのは心躍らせませんか?」
 最後は笑ってみせた悠舜に、反射的に劉輝は叫んでいた。
「それならば余が学べばいいのだ! 昔は国王必須であったとも聞く。それに、血筋的にもそう向いていないわけではないと思うのだ」
 悠舜と楸瑛は一瞬視線を交差させた。劉輝の発言が悠舜を思いやってのこととわかったからだ。
「残念ですが主上には他にも学んでいただかなければならないことが山積です。星読みなどは優先順位が低すぎますね。第一、仙洞省の人間はそのためにいるのですから、彼らの仕事を奪うのは関心しませんよ」
 楸瑛がやんわりと止めに入る。星読みを学ぶのはいい。だが下手に手を出して星ばかり重視されても困るのだ。かつてそうして政治を誤った王とていないわけではなかった。

「まあ、星読みを学ぶのはまだ先のこととして。お二方、これを見てくださいますか?」
 悠舜が卓上に巻いた紙を広げる。宰相の執務机は大きいが、それを覆うほどあった。
「宮中の見取り図がどうしたのだ?」
「これはまた詳しい、よくできた見取り図ですねえ」
 見取り図の四方を文鎮でおさえ、悠舜は碁笥を手にした。
「新しく作らせたものです。まず、最初の小鬼の目撃が伝えられたのが――」
 白い碁石を外殿のある場所に置く。
「次に――」
 そうして悠舜は白い碁石を次々に置いていく。
「今度は内殿です」
 碁笥をもうひとつ取り出し、黒い碁石を悠舜の骨ばった指先がまた埋めていく。
「これを見て気付かれることはありませんか?」
 先に発言したのは楸瑛だった。
「初めの報告が十六衛からのものが多かったにしろ、衛兵の目の届く場所が多いですね」
 羽林軍は武官の精鋭である。戦略、戦術についても知っていなければならない。
「ええ。まるで、わざと目につくように現れているように思います」
 もちろん、文官であっても兵法を学ぶ必要もある。特に高位になればなるほど武を知り治めることも必須とされる。
「それに反して、内殿での目撃情報は偏っているように思う」
 劉輝もまた考え込みながら発言する。
「やはりそうですよね。そもそも貴陽は――、更に王城は怪異を寄せ付けぬ場所です。異世界のこととて理(ことわり)が違うと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、ことに『禁苑』とされる場所は避けて見えます」
「つまりは、貴陽の防御それ自体は機能しているということだな。ならばこの状態を打破するためには仙洞省の協力をもっと仰ぐべきだ。彼らならばその手の知識は保有しているはずだ。多少勝手が違っても有効である可能性は高い」
 リオウは自身を無能であると言うが、あの年齢であれだけの知識があるのだ。ましてや高齢の羽羽であれば実用的な対処法を知っていて不思議ではない。
「動きますかね?」
 楸瑛の言葉に含まれるのは、仙洞省の後ろにいる縹家を指しているのだろう。
「おそらく、長官と令尹の協力は得られましょう。これはそもそも羽羽殿が読まれたことなのですから」
「では護符などを用意させるくらいはできるだろう。よし! 余がさっそくリオウに掛け合って……」
 そのまま駆け出して行きかねない国王の衿を咄嗟に楸瑛が掴む。
「……主上、執務室に仕事が残っていますよ。そういったことは悠舜殿に一筆渡して処理してもらえばよろしいのです」
「超法規的に進めた方が早いことだってあるのだ」
 早い話が『国王命令でごり押し』である。
「では、その超法規的な一筆も別にお願いいたします。今はまだこのように様子見ですが、いつ事態が急変するやもしれません。そういう時に切り札として使わせていただきますので」
 さわやかな笑顔と共に怖いことをさらりと言ってのける悠舜の言葉に、おとなしく劉輝は言われた通りに二種の書類を用意しだした。
「……悠舜」
「はい?」
 筆を進めながら劉輝はつぶやく。
「無理させてばかりですまない。これが終わったら絶対休みを取らせてやるから」
「楽しみにしておりますよ」
 実際に悠舜が素直に休みを取るかといわれれば、それは否であっただろう。しかし、国王の気持ちを無碍にはしたくなかった。
「本当に本当だからな」
「はいはい」
 書き上げた書類に判を押し、劉輝は悠舜に手渡しながら念を押した。

 各部署に仙洞省からの護符が配られるまでに数刻。
 その頃彩雲国王は南瓜消失を昼食と共に知らされることとなる。


   第三章:午後


 通常、後宮という場所は隔離されており、外部からの情報などほとんど届かないものである。王位を狙える公子たちが居住しているでもなく、主が訪れる寵姫がいるわけでもない現状であれば更に情報など届くべくもない。――通常であれば。
 だが現在後宮を治めていると言えるふたりの女性の前には情報統制などは無駄なことだった。
「珠翠、色々起こり始めてるみたいよ」
「そうですね。今のところ被害らしいものは出ていないようですが」
 片や、彩雲国でもっとも権勢を誇る藍家の姫。片や、人には言えない過去とツテを持つ筆頭女官は対照的な白と黒の装いで顔をつき合わせていた。
 一見、十三姫の派手さに目を奪われてしまいがちではあるが、必至の抵抗虚しく珠翠の装いもただの仮装ではなかった。女官たちが後宮一美しいといわれる女性を飾り立てずにいられるわけはなかったのである。貫頭衣や外套には同色の黒曜石が散りばめられて光を反射しているし、細い帯は銀の刺繍でびっしりと埋め尽くされている。手にした箒だとて普通のものではない。柄は一応竹製。ただし、黒の篠竹。その先には亜麻色の撚った絹糸が房をなしていたりする。
「そうかしら。ねえ、特にこの二つ目が後宮では問題だと思うのよ」
「南瓜消失事件がですか?」
 そちらをさして問題視していなかったらしい珠翠は不思議そうに年下の姫君を見やった。
「ええ。だって、今日のお茶の時間には南瓜のお菓子が色々と用意されるはずだったじゃない。もちろん、代わりのものが出されるだろうけれど楽しみにしてた宮女って多いと思うのよ」
「それは大丈夫でしょう。殿方の前でさかんにお菓子を食べるような宮女も少ないでしょうし」
「殿方が南瓜でも?」
 十三姫の追及にさすがの珠翠も押し黙る。
「一応、通達は回したのよね?」
「はい。本日のお客様方は皆、南瓜の被り物をされていると。中身は精鋭の羽林軍兵士の皆様なので丁重におもてなしするようにと」
 常の武官の装いであれば歓迎するであろう宮女たちだが、南瓜の被り物をした男たちを冷たくあしらわない保障はない。
「それじゃ弱いわね。珠翠、それとなく噂を流してちょうだい」
「噂、ですか?」
「ええ。南瓜に隠されている本質を見通すことができるのは誰か、この私が知りたがってるって」
「十三姫のお名前を出してもよろしいのですか?」
「かまわないわ。これっくらいならね」
 十三姫は軽く笑い飛ばして見せたのだった。

 午後になって後宮へと国王がまず現れた。
「もうっ! なんでそんなに早く来るのよ!」
 あきれたように十三姫が言うと劉輝は真剣な表情で言い訳をする。
「余の大切な仲間に楽しく過ごして欲しいのだ!」
「あのね……。仕事はどうしたのよ」
 金色の冠をつけた南瓜の被り物をした国王は胸を張って答える。
「今日はどうせ執務にならないから切り上げたのだ。あちこちの部署でもそうしているぞ」
「それって明日が大変なだけじゃないの?」
 十三姫の指摘は正しいが、こうなると祭りも同じ。じっとしていられないのだ。それはわかるのだが、十三姫としてはど派手な自分の装いをあまり見られたくない。
「なんだってお茶に招くのに今日を選ぶのよ!?」
「それはやはり、せっかく南瓜仲間になってくれている彼らを労うのは早い方がいいだろうと……」
 必死に弁明する劉輝を前にしていると十三姫はなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。
「ああもう、子供みたい! そんなに気になるんだったら会場の下見でもしてらっしゃい!」
 劉輝を叩き出そうとしているところに楚々とした風情で珠翠が現れた。
「お茶会の招待客の方が見え初めておりますが」
「いかん! 案内せねば!」
 嬉々として飛び出した劉輝の後姿を見送りながら十三姫はため息をつく。
「お客様からすれば迎えは宮女の方が嬉しいんじゃないかしら」
「いえ。主上が行ってくださってよかったと思いますよ。主上がご一緒でしたら例え南瓜相手であっても失礼はないと思いますし」
 冷静な珠翠の指摘に十三姫は納得した。仮にも国王とその連れとあっては誰も無礼は働けまい。
「で、珠翠は覗きに行く?」
「監督という意味でしたら後ほど確認に」
 十三姫も珠翠も表に顔を出すつもりはない。人目にはできるだけ触れたくはない。特に今日は。ただし、この珍妙なお茶会の模様には少しばかり興味があった。
「そうね。それじゃあその時に私も……」
 十三姫が更に言葉を続けようとした時、かき消すように遠くで悲鳴があがった。
「なにごと!?」
 途端に踵を返して走り出した筆頭女官を追って藍家の姫君もまた走り出した。

 後宮とて変事からは逃れられないと証明する出来事だった。
 茶会の会場近くで小鬼がついに目撃された。それを発見した宮女が甲高い悲鳴をあげる。同じくその方向を見た同僚がまた叫ぶ。
「おちつくのだ! 皆、一箇所に固まるように!」
 次いで国王は客人たちに命じて守りを固めさせる。数人を小鬼の消えた方向へと向かわせその結果を聞く。
「だめです! 目の前でかき消すように姿が失われました!」
 それはこれまで報告を受けていたのと同じ現象だった。そこで劉輝は宮女たちに告げる。
「これまで小鬼による被害は報告されていない。それにこの場には余と羽林軍の勇者たちがいる。安心するがよい。だがなるべく行動するときは単独で行わぬよう」
 それが例え南瓜であっても。次々命令を下す国王も、すぐさま機敏に動いて宮女たちの安全を図った羽林軍の兵士たちも、怯えた女官たちの目にはこの上もなく頼もしく映った。
 この日、茶会は成功した。
 宮女たちの中には、これ以降南瓜を特に好むようになる者が出たりもすることになる。


(この顔ぶれは何かの悪意によるものだろうか)
 内心の動揺を別の様子に変換して情けない声を上げた男は『きゅうけつき』の装束である。目の前には『みいらおとこ』と『おおかみおとこ』が彼を見下ろしている。
「それで、小鬼が出現する様子を君は見たというのだね?」
 例え包帯ぐるぐる巻きであろうと優雅な様子をかもし出す男が問いかけるのに楊修は怯えた表情を作りながらうなずいた。
(見たのは本当。しかし、よりによって居合わせたのが門下省令尹とは……)
 吏部の覆面官吏である楊修は、現在六部のとある部署に所属している。仕事は真面目、ただし田舎者で切れ者ではないという印象でやり過ごす毎日だ。現在、彼の上司にあたる人物よりの命令で、府庫に必要な書籍をとりに行く途中であった。
「これまで小鬼を見たという報告は随所で聞かれましたが、出現の瞬間を見たというのは初めて聞きます。詳しいことをお聞かせ願います」
 楊修の情けない悲鳴に駆けつけたもうひとりの人物。『おおかみおとこ』な武官は冷静かつ丁寧な口調だが、どこか有無を言わさぬところがある。
(右羽林軍の所属は確かなんだが、現在の正確な役割は明かされていなかったな)
 武官の尻尾の色は素のままの灰色。羽林軍兵士による尻尾色分け騒動を知らぬ者は宮中に少ない。それだけ目の前の男の腕が優れているということなのだろうが、問題は腕より素性である。
(シ静蘭、ねえ……)
 吏部に集まる情報量は実際莫大だ。それを取捨選択して必要なものを見極めることも優秀な吏部官吏の条件である。その中にあったこの武官の情報にはただ「黙視推奨」の札が貼り付けられていた。藪をつついて蛇を出したい者はあまりいない。楊修とてできれば関わりたくない人物のひとりであった。
 だが内心の計算を押しやって楊修はとつとつと答える。
「そこの壁なんですけど、見ていたら『ぐにゃり』って感じに歪んだんですよ。歪んだな、って思ったらそこから四、五匹ばかりの小鬼が現れたんです」
 いやあ、気味が悪くて腰が抜けましたと言い募る楊修は、実は現在も座り込んだままである。駆けつけた二人の人物の姿に、自分の素性を隠し通すためにも座っていた方が考えることに集中できるという理由で選択をしたのだ。
「ふーん? このあたりかな?」
 凌晏樹が指差す方を見て楊修は首を振る。
「いえ、もう少し右の下の方です」
「それではこのあたりですか?」
 武官が鞘ごと抜いた剣を壁に近づけると、周囲にもわかるほど剣が震えるのがわかった。
(干將……)
 その剣は破魔の剣。そうして目の前の異変を知らせてのけた。晏樹も楊修も始めて見る呪具の様子に目を離せなくなった。
「静まれ、干將」
 冷徹な主の声で静蘭が短く命じると、不服そうな余韻を残しながらも剣はうなりを止めた。

(この威厳はどこから来るものか)
 楊修は正確な静蘭の素性を知らない。推測はできるのだが答えてくれる者がいないため保留にしてある。晏樹の視線が好奇の色を交えながら武官へと注がれているのを意識はしていたが。
 静蘭はそのまま鞘を壁に近づけていったが、ふいに動きを止めた。
「どうしたんですか、シ武官?」
 お互いに名乗ったわけではないが、門下省令尹はやはり美貌の武官を把握していた。
「凌令尹、この壁は普通ではありません」
 通常、官吏であっても自部署の上司以外は顔まで知っていることは少ない。ましてや武官である。門下省の高官を見知っていること事態普通ではないのだが、誰もがそれは無視した。
「な、なんかあるんですか!?」
 狼狽した声を出して見上げた楊修に答えず、静蘭は手近で拾った小石を壁に向かって投げた。
 小石は何の音もたてずに消えた。
「え? 石は!?」
 楊修の声に今度は静蘭が返答する。
「見た通りですね。いえ、見た目には普通の壁ですが、この場所は壁でなくなっています」
 言いながら静蘭は今度は鞘ごとの干將を小石を投げたあたりに近づける。
「おや」
 場違いなほどに緊迫感のない声を上げた晏樹の表情が、それでも驚きをたたえる。壁の一部が丸く黒く渦を巻いているように変化したのだ。それはまるで干將を避けようとするかのようにも思えた。
「異世界と繋がっている、ということかな?」
 それでも晏樹には慌てる様子はまったくなかった。
「可能性はあります。宮中のあちこちで見出された小鬼。先ほどこちらが見たと言われるように、このような場所から出現した可能性は高いと思われます」
「それで、君はどうするんだい?」
 この場にいる中ではもっとも高官である男の関心が、妙な壁の状態よりもこの後静蘭が取る行動に向けられているのを楊修は感じ取った。
(気持ちはわかるんですけどね)
 羽林軍の兵士として現在は知られているものの、楊修の推測が正しければこの男の素性は誰もが興味を持って当たり前。ましてや曲者の門下省令尹にしてみれば今後の対策にも左右するだろう。
「この場は私が見張ります」
 静蘭はそうしてまっすぐ楊修を見つめた。
「申し訳ありませんが、右羽林軍に至急の伝言をお願いします」
 まさか晏樹に頼むわけにもいかないだろう。もっとも、楊修がいなかった場合ならば晏樹すら利用したかもしれないと思わせるだけのものが静蘭にはあった。
「わ、わかりました!」
 小鬼の出現場所と推測される場所を発見。複数名の兵を至急派遣されたしとの伝言を受けて楊修はよろよろと立ち上がり、早過ぎない、機敏に見えない程度で小走りにその場を離れた。
(もう少し観察していたかった気もするが……)
 それでも足は止めない。大物を二人同時に相手するには不適切だと指摘する楊修の中の理性の声に同意したからだった。

「ところで、いつまでここにいらしゃるんです?」
 風采の上がらない官吏が伝言を伝えるために姿を消した後、静蘭はその場から動く様子のない晏樹に気付いた。
「うん? だって面白そうじゃないか。そこから小鬼が出てくるんなら」
「……出てくるとは限りませんし、出てくるとしても随分待たないといけないかもしれませんが」
 静蘭としては、こんな食えない人物にはとっとと退場してもらいたいというのが本音だった。だが晏樹と言えば何処吹く風だ。
「待つのは嫌いじゃないし。君とは一度話してみたいと思っていたしね」
「……生憎、私はあなたを存じ上げませんが」
「そう? 私の顔と名前を知っていたじゃないか」
「それはあなたが目立つ方ですから。それに……」
 秀麗から桃を持って現れる妙な人がいると聞いたことがある。大切なお嬢様の近辺の妙な人物であるならば見極めるのも自分の仕事であると静蘭は思っている。
「それに?」
 一体どんな言葉が続けられるのか興味津々と訊ね返した晏樹ではあったが、その声は野太い叫び声にかき消された。
「静蘭! 変なものを見つけたんだってな!」
「……なんだってあなたがわざわざ来るんですか」
 もう少しで脱力のあまり静蘭はその場に座り込んでしまうところだった。現れたのは彼の上司、右羽林軍を率いる白雷炎である。
「それはだ。暇なのが俺くらいでな。うちの部下たちは小鬼発見の声と共に走り回ってるし、一部は南瓜被っていそいそ後宮くんだりまで出かけやがったし」
「……それでも、まだ人員はいるはずでしょう。大将軍が出てくる場合じゃないと思うんですが」
 言いながら静蘭は晏樹の姿が消えているのを確認した。どうやら白大将軍には興味がなかったらしい。
「消えてくれてよかった……」
「ああん? 俺に消えろってか!? こら、剣を抜きやがれ!」
「もう抜いてるじゃありませんか!」
 いきなり唸りを上げて打ちかかってこられた剣をなんとか咄嗟に受け止めて、静蘭は後ろへと大きく飛びのいた。
「ちっ! 受けやがったか」
「消えて欲しいと思ったのはさっきまでここにいた人物ですよ」
 次々と雷炎から繰り出される剣を紙一重で避けながら静蘭はそれでも弁明した。
「誰かいたのか?」
「門下省令尹が」
 途端に雷炎の顔がすっぱいものを食べたような表情へと変わる。
「……そいつは消えてもらって正解だな」
 どうやら相性はあまりよくないらしい。見るからに合わなさそうではあるが。
「ところで、そろそろ肝心の報告を聞く耳はお持ちですか?」
「嫌味言いながら避けるんじゃねえ! どこだって!?」
 静蘭は壁の該当場所に干將を無言で近づけてみせた。
「……そうか。さすがの異世界の悪鬼も、根性悪の縹家が作って根性悪の持ち主のいる剣は嫌と見えるな」
 滅多にないことではあるが雷炎の言葉に少しばかり腹を立てた静蘭は、自分から打ちかかっていった。――本気で。
「おおっ! いい気合入ってるじゃねえか!」
 しかしそれは大将軍を喜ばしただけに過ぎなかった。あっさりと切り替えされて内心歯噛みする。
「ちょっとはこの現象を解明しようって態度くらい取ったらどうですか」
「あのな静蘭。俺らが官吏の仕事取ってどうするよ。見張るくらいはしてやるがこんなわけのわからんことは、あいつらに押し付けるに限るからな。安心しろ。さっきちゃんと宰相室に挨拶してから来たからな」
 静蘭はこの時、心から悠舜に同情した。

 静蘭の同情だけでは悠舜には足りそうになかった。雷炎から改めての報告を受けた後、似た報告を受け取ることになったのだ。ひとつは工部から。もうひとつは戸部から。
 異変はまだその全貌を明らかにはしていなかったのである。


 工部の管轄に、お抱えの工匠たちが所属している部署がある。さまざまな専門家がおり、生み出されるものは爪の先より小さいものからそれこそ街づくりまでと幅広い。
 その工匠たちから苦情が上がってきたのが午後も半ばを過ぎた頃だった。
「工房のあらゆるところから銀が消えました」
 鉱物は多々あれど、銀はもっとも多く使われるもののひとつだ。特にこういった部署では、金や白銀で作る前の試作品などにもよく使われる。
「泥棒か?」
 報告を受けた管飛翔はまずそう問うた。
「んな訳ないでしょう! 目の前で消えたと彼らは言ってきてるんですから。話くらいきちんと聞いていなさい!」
 今日という日が訪れたばかりの時、工部侍郎は最高に機嫌が良かった。異世界の装束とはいえ、尚書をはじめとしてむさ苦しい工部官吏たちを一斉に品良く仕上げたのだから。次々と家人の手を経て現れた官吏たちの姿を見て、欧陽玉は不覚にも喜びの涙を流すところであった。
 しかし、それも朝議に列席するまでの短い幸せだった。尊敬する黄尚書、並びに好意を抱くにやぶさかでない好人物の景侍郎。戸部のふたりの姿を見た瞬間に終わったのだ。名工の作を汚されては碧門家の誇りが泣くといきり立ってみたものの、吏部侍郎には犯人追求をかわされ、礼部侍郎には蝙蝠に飾りをつけようと提案をしただけで人でなし扱いを受けた。さらには珀明によって
「無念も不快も理解はできるが諸事情あってのこと。ここはどうかおさえて欲しい」
 などと釘を刺されてしまったのだ。
 碧家並びに碧門家は、その反骨精神でも知られるところではなかったか。もしや碧家の精神は摩滅してしまったのかと玉は嘆いた。嘆いたところで主家の命令は絶対である。
 そんなわけで、せっかく工部官吏を見栄え良くしたものの、侍郎の機嫌は悪かった。であるから、飛翔への言動も通常より棘の成分が多い。
「だがな陽玉。普通ならここは物取りを疑うのが筋だろう」
「今日という日に普通を期待する方が間違っているんですよ!」
 おそろしく普通とかけ離れたなりをさせられている飛翔は玉の言葉に思わず納得した。
「じゃあお前はどう思う? 銀といえば普通ならまあ値打ちがある。消えたのはうちの工房からだけだと思うか?」
 今度、うならされたのは玉の方だった。
「……戸部!」
「だろうな、一番問題なのは」
 どんなに洒落めかされようが、手放さない酒の器を傾けながら、さすがに飛翔は表情を硬くしたのだった。

 工部からの連絡を受けて、戸部でもすぐさま調査が行われた。宝物庫の管理も戸部の仕事のうちである。
「鳳珠、やはり銀細工のものなど一部が消えていますね」
 宝物庫を開くための特別な鍵を手に景柚梨は自身の上司に報告する。この鍵がなければ何人たりとも侵入の不可能な宝物庫である。人によるものとは思われなかった。
「ついに実害が出たというわけか」
 悪鬼の仮面を被った黄尚書はそのまま貨幣鋳造部署への通達をしたためる。と同時に立ち上がり通達を柚梨に手渡すとそのまま尚書室から出て行った。
「鳳珠、どちらに?」
「悠舜のところへ。これは単に戸部ひとつの問題ではない。下手をすれば国家的損害をもたらす」
 文官とは思えぬ優雅なかつ油断のない足取りで戸部尚書は宰相室へと急いだ。

「悠舜、入るぞ」
 案内もなく宰相室に入り込んだ同期を、それでも微笑を浮かべて悠舜は迎えた。
「銀ですか、鳳珠」
「そうだ」
 さすがに深刻な表情で悠舜は何かを取り上げる。
「いささか遅きに達しましたがすぐさまこれらを配布しますので」
 悠舜が手にしているのは紙束である。表面には何か文字が見える。
「何だそれは」
「仙洞省に急遽用意させた護符です。異世界からの異常にも対処可能であることが証明されましたので。もっとも、銀などというものが被害に合うとは夢にも思っておりませんでしたよ。南瓜で済めばまだ笑っていられたのですが」
 護符をあちこちから検分しながら鳳珠は面白くなさそうに口にした。
「仙洞省に頼る以外に方法はないのか」
「これが人的行動から来る事態であれば対処は可能ですが、あまりにも想像の埒外なものですから」
 つまりは方策はないに等しいということだ。宰相室に沈黙が落ちる。
「ある人物が本気で協力してくれるならあるいは……と思わないでもないのですが、期待するだけ無駄に近いとわかっていますからね」
「誰だ?」
「この今日の日の我々の衣装を勧めてくださった方ですよ」
 苦味をこめた悠舜の口調に、はき捨てるように鳳珠もまた同意した。
「あれは当てにするだけ無駄だ。我々はせめて出きることをしよう。悠舜、護符はどのくらいある?」
「仙洞省総動員で現在百枚といったところでしょうか。しかし、戸部への割り当ては増やします。これ以上財源に穴が開くのは放置できませんからね」
「どうせ仙洞省など普段ろくに仕事をしていないのだ。この時とばかりにこき使っておけ」
 これから先、まだどんな被害が出るかもわからないのだ。仙洞省には泣かれようが働いてもらうつもりだった悠舜はうなずいた。
「今日という日は仙洞省にとっても忘れられない日になるでしょう」
 傾きかけているとはいえまだ陽は高い。窓の外に視線を流して宰相は長い一日を思ってこめかみを押さえた。


   第四章:夜


 静かに夕暮れが宮城を染め上げようとする頃、秀麗は蘇芳と共に府庫へと急いでいた。
「この時間になってから資料が足りないことに気付くなんて! もっと早くから判っていれば良かったのに。ああ、今夜ちゃんと帰れるのかしら」
 急ぎ足の秀麗の後をたらたらとついて歩く蘇芳は幾分不満そうである。
「なあ、そんなに真面目に今日片付けなくてもいいんじゃないの? 今日は仕事にならないからって切り上げててる部署だって結構あったじゃん」
「よそはよそ! うちはうち! 第一、うちの長官にそんな理屈通用するわけないじゃない」
「そらそーかー。『とうめいにんげん』でいるけど見えない人だからなー」
 葵皇殻の御史台への指示は徹底している。見えていても見えてはいけない本日の長官は、それでも仕事の手を緩めることはない。
「それによ? こんなわけのわからない状態だからこそ――」
 秀麗は周囲を見渡して言葉を切った。目の前を『みいらおとこ』と『ふらんけんしゅたいん』が話し合いながら通過していった。黄昏を背景に悪夢のような光景が至るところで見られる。
「――こんな日だからこそ、御史としては陰謀の芽がないか目を光らせておかないといけないのよ」
 長官の意図もそのあたりにあるのだろうと思う。もっとも、こんな異常な日でなくとも御史台は常に緊迫してはいたが。
「今日みたいな日に下手なこと企んだって、変な方向にひっくり返りそうだと思うんだけどな」
「そこまで考えるようだったら下手な企みはしないだろうし、頭のいい人物だったらあえて今日にぶつけてくるかもしれないし。ほらタンタン、府庫に着いたわよ。さっさと探してしまいましょう」
 慣れた様子で府庫へと入っていく秀麗の後から、面倒そうな足取りで蘇芳はため息をつきながらついていった。

「おや秀麗、この時間に来るのは珍しいね」
 府庫の主は入り口から入ってきたばかりの娘を素早く見つけて声をかけた。いつもならば秀麗が府庫に現れるのは就業する前のことが多い。
「今になって足りない資料があることに気がついたのよ。あ、父様、急ぐからお茶はいらないわ」
「そうかい? ここにいる間だけでもゆっくりすればいいんだよ」
「だめ。そんなことしてたら今夜帰れなくなっちゃう」
 勝手知ったる府庫の中。秀麗はあちこち飛び回って必要な書籍を卓上に積み上げていく。
「ちょっとお嬢さん! こんなに使わないだろう?」
 運ばされるのが誰か知っている蘇芳は思わず悲鳴をあげた。
「だって、少しずつあちこちに書かれてるんだもの。仕方ないわ。タンタン、持てる分だけ先に持って帰ってちょうだい」
 書籍の山の前でがっくりと脱力しながらも、懐から出した風呂敷に蘇芳は書籍を包みはじめた。
「じゃあ先に戻ってるけど、後でまた来るからあんまり無理して持たないように」
「ん。ほどほどにしておくわ」
 風呂敷包みを背負った蘇芳を見送って、秀麗はなおも府庫の中での物色を続けた。横目で見守っていた邵可はざっと書名を確かめると助言をする。
「秀麗、この本があるならこちらとそれはいらないよ。内容が重複してるからね」
「本当? 助かるわ」
 少しは減った本の量にあきらかに安堵しながら秀麗は父を見上げた。
「さすが父様。こんな本も読んでいるのねえ。それはそうと、どうして府庫の父様が『あくま』なの?」
 いつかは聞かれるかと覚悟していた邵可は変わらない表情のまま答える。
「うん。府庫は独立してるから。特にどこかに所属してるわけでもないし、どうしたものかと思っていたら霄太師に無理矢理押し付けられてしまったんだよ」
「ああ、霄太師と宋太傳が『あくま』だそうだけれど」
「……よく似合っていたよ」
 しみじみと実感こめて邵可はつぶやいた。何しろ、あの年寄りこそ諸悪の根源とも言える。
「ふーん? まあ今の私が太師と顔を合わせることもないだろうけど。顔を合わせることがないって言うと……」
 何かを思い出したかのように口を閉ざした娘に邵可は助け舟を出す。
「劉輝様かい?」
 こっくりとうなずく娘に向かって邵可はおだやかに微笑んでみせた。
「なかなか立派な『かぼちゃだいおう』だよ。初めのうちは嫌がってみえたけれど羽林軍の兵士の一部が南瓜を被ってくれることになってからは随分前向きになられてねえ」
「……それについても頭の痛くなるような噂を聞いたような気がするわ」
「多少は見逃しておあげ」
 苦笑しつつも秀麗は父に向かって笑顔を向ける。
「そうしておくわ。今日くらいね。ありがとう父様」
 蘇芳と同じように取り出した風呂敷で書籍を包むと、気合と共に背中に背負う。
「大丈夫かい?」
「平気、平気。日々鍛えられてるもの」
 手を振って秀麗は府庫を後にした。もうすぐ日が暮れようとしていた。

 邵可の前では強がってみせた秀麗だったが、さすがに背中の書籍は重すぎた。
(ううっ、無茶だったかしら。後でタンタンもまた来てくれるって言ってたけど。でも、これを一度に運んでしまえばまた往復したりしなくてすむし)
 そう思えば無理でも一挙に運んでしまいたい。けれど重みは容赦なく秀麗を押しつぶす。休みながら進むことも考えたが、下手に休んでしまうと進めなくなりそうで、秀麗は足を止めることもできずによろめいていた。――客観的に見たところ、少しも進んでいるようには見えなかったのだが。
 ふいに背中の風呂敷が重みを失った。
「貸しなさい。見ていられない」
 あっさり風呂敷を取り上げられた秀麗が見つけたのは。
「……おじさん」
 口にしてからしまったと思う。それは秀麗が男の子として戸部にいた頃に許されていた呼び方で――。
「本当は秀麗、だったね。わかっているから気にしないでいい。ぜひまたおじさんと呼んでおくれ」
「すみません……」
 だが気が楽になったことも事実だった。もう嘘はつかなくていい。――だいたいにおいては。
「おじさんは六部の方だったんですね」
 秀麗が苦労して持っていた荷物を苦もなく運ぶ男の姿は『きゅうけつき』であった。
「うんそうだ。君もかい?」
 そう言われるのも仕方がない。秀麗もまたこの時は『きゅうけつき』だったのだから。
「ええ、まあ……」
 あいまいに濁しながら二人並んで歩く。『きゅうけつき』の二人連れと思うとおかしみが増す。先ほどまで蘇芳と二人だった時にはまったく意識しなかったのだが。傍からは『大きいきゅうけつきと小さいきゅうけつき』に見えるのだろうか。
「どこまで運べばいいかな?」
 軽快に歩くその人は気さくに尋ねてくる。
「で、では戸部までお願いします」
 まさか御史台まで頼むわけにもいかず、秀麗は咄嗟にそう答えていた。
「君は戸部だったかな?」
「いえ、違うんですけど少し用事がありまして……」
 本当は今日でなくても良かったのだがこの際済ませておいてもかまわない。
「戸部への用事なら伝言でも受けてあげよう」
 そういえばこの“おじさん”は黄尚書の同期だと言っていたことを秀麗は思い出した。
「あ、いえ。個人的なお礼ですので」
「礼? 奇人に?」
 いぶかしげな“おじさん”に、秀麗は用事を成り行きで説明する。
「はい。先日、家族ぐるみでお夕食をご馳走になったお礼をしたいと思いまして」
 秀麗の目の前で“おじさん”は一瞬凍りついたように見えた。
「ゆ、夕食? 家族ぐるみ、で……?」
「ええ。父と家人と一緒に」
「つ、つまり、その、君の父君も一緒、に……?」
「はい」
 何かおかしなことを言っただろうかと首を傾げながら、秀麗は仮の目的地に到着したことに気付いた。
「ありがとうございました。戸部に着きましたので」
「ああ、うん……」
 秀麗に風呂敷包みを返しながら虚ろな眼差しの“おじさん”は、よろめきながら立ち去っていった。
(大丈夫かしら?)
 思いながらもとりあえず黄尚書を訊ねた秀麗は景柚梨より不在を告げられた。
「そうですか。それではまた改めて。あ、景侍郎、ひとつお願いが」
 秀麗はその場で風呂敷を開くと半分を取り出した。
「すぐに取りにきますから、少しだけ置かせてください」
 さすがに一度に運ぶのはかえって効率が悪いと秀麗は気が付かないわけにいかなかった。それに、戸部まで来てしまえばあとは随分楽でもある。
「本当にすぐですから!」
 気楽に承知してくれた戸部侍郎にそう叫ぶと、秀麗は軽くなった荷物同様、軽やかに走り出した。
 走り出してから、“おじさん”が途中の柱にすがり付いている姿を見たような気がしたが、もはや止まれなかった。
 こうして秀麗はまたもう一度戸部へと取って返すことになるのだが、そのことが彼女にとって幸運であったことはその後に証明されるのである。

 御史台で秀麗に与えられた室に重い荷物を置いてようやく蘇芳が安堵して僅か、軽やかに秀麗が戻ってきた。
「あと半分を戸部に置いてきたからすぐに取ってくるわ!」
 自分が行くと言う暇さえなく、蘇芳はとうに走り去った秀麗を見送る。
「……いってらっしゃい」
 小さくつぶやいた途端、扉から不機嫌な声がかかった。
「なんだ、あいつはまた飛び出して行ったのか。長官が朝言った書類はできてるのか?」
「セーガ君」
 蘇芳は別に清雅が苦手ではない。こういう人物なんだとそのまま受け止めている。清雅は秀麗にちょっかいはかけてもあまり蘇芳には構わない。目に入っていないのだろうと言われればそれまでだが、逆に自分を油断させた実績のある蘇芳に、清雅の方が何やら苦手意識のようなものがあるのかもしれなかった。
「その書類なら出来てる。しょーがない、俺が提出に行くか。セーガ君、一緒に行く?」
「誰が貴様と一緒に……と言いたいところだが、生憎、俺も長官には用があったか」
 こうして不服気な清雅のあとを、またしてもたらたらと蘇芳はついて行った。
 これこそが運命の別れ道。本日の不幸順位、蘇芳は五位以内入賞間違いなしとなったのだった。

「失礼します」
「失礼しまーす」
 御史台長官室に入る前、ごく当然のように二人は声をかけ、扉を開けた。いるけれども見えない長官であっても、声をかけないわけにはいかない。
「馬鹿者! 扉を閉めろ!」
 向こうから声をかけてくるはずのない人物の叫び声が響いた。本日はすべて書面での指示が行われることになっている。
 反射的に開けかけた扉を閉めた清雅は蘇芳を振り返った。
「……見たか?」
「えーと、今、長官室の中に小鬼が……いた? よね?」
 蘇芳の言葉に、清雅は薄く扉を開いて中を覗き見た。
「あ。セーガ君、ずるい、自分だけ」
 清雅の上から蘇芳も覗き見る。……見なければよかったかもしれないと、この時ふたりは思った。長官室の中には、いつも通りの官服の葵皇殻の姿があった。しかし今、その本人は複数の小鬼にとりつかれ、よじ登られ、噛み付かれていた。髪もひっぱられていたりする。
「うわあ……」
 さすがに絶句した蘇芳は、真下の清雅に尋ねる。
「セーガ君、これ、どうしたらいいと思う?」
「知るか! 馬鹿!」
 あまりのことに清雅も動転しているらしい。
「えーと、武官呼んでも意味ないだろーし。あ、そーだ!」
 ごそごそと懐を探っていた蘇芳は顔をほころばせて自信満々に扉を開けた。
「おい! こら待て!」
 清雅の声を背中に聞きながら蘇芳は長官室に入って右手を高々と上げた。
「ほーら、これが怖くないかあ?」
 狸である。蘇芳が取り出したのは指先ほどの小さな狸の置物だった。
「阿呆! そんなものが効果あるはず……」
 清雅がすべてを言い終わる前に、小鬼たちは皇殻から離れて飛び退った。
「馬鹿な……」
 調子にのった蘇芳は、小鬼たちに狸を近づけていった。壁際に追い詰められた小鬼たちはふいに姿を消した。後で室中を探したが、そのあたりには亀裂のひとつもなかったという。
「長官、大丈夫そうですね」
 普段の彼からは想像もつかないほどぼろぼろになりながら、皇殻の眼光は一層厳しかった。暗に、どうにかなってくれていても構わないという清雅の内心の透ける言葉に対するためだけではない。
「逃がしたか」
 だが開かれた口から洩れた言葉は短かった。
「あれは、無理。壁、ぬけられたらどうしようもないし」
「榛蘇芳、お前の持っているそれは――」
 一転して嬉しそうに蘇芳は狸に目をやる。
「いいでしょう。何しろ特別製だから」
 種を明かしてみればなんのことはない。背中に細い穴が開いており、そこに護符が丸めて差してあったのだ。
「本日、仙洞省が発行しているという護符か?」
「え? ちがいますってば」
 広げられた護符には、確かに今日のものとは違う文字が躍っていた。今日配られているのはその大半が“悪霊退散”の類であったが、狸に差し込まれていたのはどう読んでも“家内安全”。皇殻と清雅は完全に沈黙し、冷たい視線で蘇芳を見つめた。

「馬鹿馬鹿しい。家内安全だって?」
 ようやく声を発した清雅は軽蔑を隠さない。そんな清雅に蘇芳は小さく抗議してみせた。
「でも効き目はあったんだし」
「……そうだな。効き目はあったな」
 皇殻は手櫛で髪を整えていたが、官服の乱れは手で伸ばした程度ではどうにもならないくらいであった。彼は改めてため息をつきながら蘇芳の狸を手にのせる。
「効き目があったということで、とりあえず榛蘇芳、この狸は本日没収」
「ええっ!? 俺のたぬたん!」
 取り替えそうとする蘇芳の手を邪険に長官は振り払った。
「今日限りだ。私とて不本意だがまた小鬼に襲撃されるのは避けたい。随分と仕事を邪魔されたからな」
「それですが、本日これまで小鬼を見かけたというのはあちこちで聞きましたが、襲撃されたというのは初めてです。原因は何でしょうか?」
 皇殻にとって先ほどの失態を清雅と蘇芳に目撃されたことは矜持に抵触するらしく、その視線はまさに氷のようだった。
「そりゃあ、長官が仮装してないからじゃないの?」
 狸を取り上げられて消沈する蘇芳が何の気もなしに発言する。意外に本質をつく男、榛蘇芳である。
「――判断材料が少なすぎるが可能性はある」
 いくら部下に「見えないものとして接しろ」と命令したところで、皇殻が仮装をしていないのは事実だった。
「提案者の霄太師はこのことを予想していたのだろうか」
 皇殻の発言に同室している二名は沈黙する。蘇芳にとって霄太師などは雲の上の人間だ。だからそんなお偉いさんなら判ってても不思議はないんじゃないかと呑気に考えもしたが、この時は懸命にも口に出さなかった。何故なら、見知らぬお偉いさんよりも、皇殻に取り上げられた狸のお守りの方がよほど気にかかっていたからだ。
「……返してくださいよ、絶対」
「当たり前だ。いつまでも手元に置いておくと趣味が疑われる」
 蘇芳の手にあるとしっくりして見える愛嬌のある狸も、皇殻に掴まれている様子は戸惑っているようにも見えた。なんにしろ、似合わないことこの上もなかったが。
「とりえず一応報告はした方がよろしいですね。僕が行きましょう」
「勝手にしろ。ところでお前たちの用事は何だ」
 二人はすぐさま長官への当初の用事――提出すべき書類を取り出したのだった。この時、『みいらおとこ』の扮装をした清雅を眺めながら、蘇芳は中書省にも行かねばならないことを思い出した。
(帰ったら今度は『ふらんけんしゅたいん』にならないといけないなー)
 面倒だが長官のようになっては仕方がないと、蘇芳は秀麗の室に用意された装束に思いを馳せた。
 御史台の担当は『とうめいにんげん』。すなわち、潜入先に合わせて装束を替える必要があった。そのため御史たちは宮城のあらゆる装束を同時に作らせていたのである。こと、秀麗の場合は後宮に用が出来た時のために『まじょ』の扮装すら用意されていた。何しろ前もって用意をするのだから必要ないものも出てくる場合があったが、いざという時を考えて行動せねばならない御史にとって、転ばぬ先の杖同然だった。
(でも今日、もうお嬢さんの『まじょ』を見ることはないかもしれないなー)
 後、蘇芳は奇妙な状態での『まじょ』扮装を目撃することになる。彼の不幸はまだ終わらないのだった。

 宮中の厨房でも、たまたま落ちそうになったうさぎの耳をはずしていた庖丁人がいた。この彼がやはり小鬼に襲撃される様を同僚が複数目撃している。門下省でも包帯を巻きなおそうと全部はずしていた官吏がやはり襲われてた。
 それらの報告に耳を傾けながら、仙洞省では年若い長官が敷布の下で唇を噛んでいた。
「霄太師の言っていたそれなりの効果とはこのことか……」
 異世界からの何らかの脅威が本日宮城を席巻することは読み取ってはいた。だが、異世界の悪鬼の装束をしていないと小鬼に襲われるなどと、そんなことは予想もできなかった。
 午前中から休む間もなく仙洞省では護符作りに追われている。こんな時、無能であることの不自由さをリオウは思わざるを得ない。異能を使って異世界からの穴さえ塞いでしまえば事態は簡単に収拾できるはずなのだ。――もっとも、宮中で異能を振るえば死が待っている。それがわかっていて力を使おうとする術者がいるかと問われればいないとしか答えられないのだが。
 改めて宮城内に通達が走る。
「日付けが変わるまで、宮城に残る者は異世界の装束をしたままでいること」
 夜は深まっていき、やがて終幕が近づいていた。悪夢の大盤振る舞いが開始されるのだ――。

   第五章 深夜


 それは天災だと誰もが言った。正確には人災だと判断されるべきだが限りなく天災に近かった。月も星も姿を隠した暗い夜の宮城は最悪の闖入者を迎えてしまったのだ。

 ぱぽぴーぷぷぷ…………ぷぺー!

 何故そこで詰まる? 何故そこで上がる? 常人には理解できない理屈がそこにはある、らしい。藍龍蓮、嵐のようにただいま参上。
 呪われた笛の音は、意外なほど宮城に響き渡る。国王の側近である青年は、羽林軍に戻って怪異の調査と指揮を取っていた。部下に指示を与えていた手が、ぱたりと落ちる。
「藍将軍?」
 生真面目な皐武官の声が遠くなり、脂汗が流れるのを藍楸瑛は感じていた。
「すまない。私は行かなければ……。あとの指揮は直接黒大将軍より受けるように」
 なんとかそれだけ言葉を搾り出すと、楸瑛は足取りも重く、音色の出所に向かって進んでいった。

 何やら消沈して帰って来た蘇芳を迎えて、秀麗は引き続き資料と格闘していた。その手からぽろりと書籍が取り落とされる。
「どーしたのさ? さっさと片付けるんだろ?」
 たまたま風向きで聞こえなかったのか、蘇芳は平然と指摘する。
「そうなんだけど、そうなんだけど! ああ、でもやっぱり放っておくことなんかできないし!」
 耳を澄まし、どちらから聞こえてくるかを確かめる。聞きたくはない。しかし、聞かねばわからない。
「内殿の方……。どっち? 後宮?」
 そのまま飛び出すには今日という日が仇になる。秀麗はこの日のために用意されていた衣装のひとつを掴み取った。
「今頃後宮なんかに行くの?」
 呑気な蘇芳の声に尖った声で秀麗は返答した。
「時と場合によっては後宮だろうと何だろうと行かないと!」
「別に後宮に用ができたってわけじゃないんだ?」
「どこにいるか判ったら、そこに行くまでよ!」
 黒一色の『まじょ』の衣装を脇に抱えて、そうして秀麗は夜の宮城の奥へと駆け出していった。
「あ、おじょーさん、忘れ物」
 壁にかかって残された『まじょ』のとんがり帽子を手に、蘇芳は面倒そうに立ち上がる。
「やっぱ、これないとまずいだろうし」
 こうして御史台からふたりの姿が消えた。

「いやあああああっ! どこから入って来たのよ、龍蓮兄様!」
 後宮に十三姫の悲鳴が虚しく響いた。
「どこからと? きちんと門から入って来たが」
「門番は何してるのよ! 首よ! 首!」
 門番を責めるのは酷と言うものだろう。龍蓮の笛の音の前に障害などありはしない。
「何かに導かれるように城に来たが、今日の王城はどこもかしこも詩情に満ち溢れているではないか」
 異母妹とは対照的に藍家嫡子五男はたいそう嬉しげである。
「どこが詩情よ! これが悪夢でなくてなんなのよ!」
「特に愚妹よ、そなたの様相はすばらしい。今度私も翼を背負ってみようと心に誓ったぞ」
 ただでさえ意味不明かつ派手な龍蓮の頭には柿と蝙蝠(本物)が乗せられていた。どこかで、
「わ、わたしの可愛いぴーちゃんが攫われたあっ!」
 と悲痛な叫びが聞かれたが、おそらく礼部からと思われた。
「しかも、小鬼も何してるのよ! 異世界の装束でないんだから、襲ってみせるのが筋ってものじゃないのっ!?」
「……小鬼たちも仲間と認識していたのでは」
 遠慮深く同席していた珠翠が意見を述べる。否定はできない。おそらく真実であろう。
「小鬼。あまり風流ではないな」
 龍蓮はしばし眉を顰める。彼の風流認定を受けずにいられた小鬼は幸せであったかもしれない。
「龍蓮!」
「おや、これは愚兄其の四ではないか。なんだ、耳と尻尾とは風情がない。少しは愚妹を見習ったらどうだ」
「藍将軍、弟君は責任取って引き取ってください」
 駆けつけた楸瑛に龍蓮その人も筆頭女官も冷たく言い放った。
「……龍蓮、邸に戻りなさい」
 ようよう楸瑛はそれだけを口にした。心の傷は浅くはない。
「あのように風情のない邸に戻るつもりはない」
 龍蓮はきっぱりと言い切って笛に口をつける。
「待て! 龍蓮!」
「珠翠、耳栓して!」
 兄と妹の叫びが残る後宮の一室にて、龍蓮の独奏会は再び始まった。

 ぺぺぽっぷぽっぱぱぴーーーーー。

 どこをどうしたらこんなに壊滅的な音色が出せるのか。涙の滲んだ目で楸瑛は立ち尽くす。なまじ教養があるだけに、一旦龍蓮の演奏が始まると力ずくで止める力も出ない。どこかから救いの手は来ないだろうか。他力本願な願いを楸瑛は抱かずにはいられなかった。
「いい加減にしなさーいっ!」
 天も楸瑛を哀れと思ったのであろうか。救いの手は現れた。『きゅうけつき』の扮装の上から『まじょ』の黒い衣装を被った姿で。外套の上から無理に着ているので、それはもうとんでもない状態だったが。
「おお! 心の友其の一! 我が笛を聴き、駆けつけてきてくれたのだな!」
 龍蓮の表情が明るくなる。彼が秀麗に好意的なのは間違いのないこと。もう少し龍蓮に常識というものがあれば、秀麗も素直に友人として接することができるのだが。
「とにかく、笛はやめなさい! どっから来たとか何でいるかとかはもういいわよ! でも今日みたいな日にこれ以上厄介ごとを増やさないで!」
 秀麗の叫びに内心誰よりも楸瑛は同調した。そもそも『藍龍蓮』を止める手立てなどないに等しいのだ。せめて笛さえ吹かないでいてくれたら……。ささやかな楸瑛の願いは、しかし弟には届かない。
「心の友其の一、何か厄介ごとに巻き込まれているのか? それはいけない。よし、我が笛の音色でその疲れ、癒してみせよう」
 意気揚々と再開されようとする演奏を咄嗟に止めようと、秀麗は首にひっかかっているだけの『まじょ』の貫頭衣を脱いで龍蓮に被せた。袖を通さずに被せたものだからほぼ拘束状態となった龍蓮は首を傾げて秀麗を見下ろした。
「秀麗、これをどうしろと?」
 ただ龍蓮の笛をやめさせるためだけにとった行動の理由を聞かれて、秀麗は思いついた言い訳を並べる。
「きょ、今日はね、異世界からの魔物が宮城に出るの。それを避けるために皆こうして仮装してるんだけど、龍蓮もそのままなら危ないから、とりあえずそれ着てなさい」
 秀麗が言葉を切って龍蓮を見上げると、それはそれは嬉しそうな満面の笑み。
「心の友其の一の私への優しさ、しかと受け取った!」
(別に龍蓮なら異世界がどうだって全然問題なさそうだし、笛さえやめてくれればこっちはとにかく助かるし。ああ、でもそんな風に好意的に解釈されると……)
 罪悪感に秀麗の胸は痛んだ。だが、楸瑛たちからも感謝の眼差しを送られている今、前言撤回するわけにもいかない。幸か不幸か、『まじょ』の衣装は規格を問題としない。だぶっとした貫頭衣を腰紐で結んで着るだけ。ゆったりした袖も、長身の龍蓮であっても問題はない。若干、裾丈が短いがそれくらい些細なことだった。

「やっと追いついた。お嬢さん、忘れ物だってずっと後ろから呼んでても気付いてくれないんだからなー」
 三角帽子を手に、蘇芳が一同の集まる後宮の一室に顔を覗かせた。
「はい、これ帽子……、って、『まじょ』衣装着てないんじゃいらないか」
「そんなことないわよ、ありがとう」
 蘇芳から帽子を受け取った秀麗はそのまま龍蓮に向き合った。
「ほら、帽子も来たからこれも被って……。ちょっと! 髪につけてるこの蝙蝠、生きてるんじゃないの!?」
 よく見れば、高く無造作に結い上げた髪に飾られた蝙蝠の足に紐が結び付けられていた。
「もしかして、それ、礼部が今日連れてる蝙蝠なんじゃない? なんか、尚書の命令で無理に押し付けられたけど、夢中になってる礼部官吏続出って噂の」
 蘇芳という人間は周囲に気を遣わさないというところがあり、こうして彼は秀麗の耳にしないような噂を拾って来ることが多い。
「……龍蓮。その蝙蝠、どこでつかまえてきたの」
 秀麗の声が低く地を這う。だが龍蓮はその雷注意報にも動ぜず笑顔を向ける。
「宮中に入って通りかかった室に落ちていたのだ。柿とあいまって秋を演出するにふさわしい」
「返してらっしゃいっ! 可哀想でしょう!」
 ちなみに蝙蝠は気を失ってか、だらりと髪紐からぶらさがっていた。きっと笛の怪音のせいだろう。
「私の髪を飾るほうが蝙蝠にも幸せだと思うのだが」
「人様のとこから無理矢理つれて来られて幸せなものですかっ! ほら、こっちの帽子被りなさいよ。今日の宮城に合わせるなら断然こっちなんだから!」
 その装束が後宮の女官に指定されたものだとは秀麗は言わなかった。周囲にいた誰も言わなかった。これで誤魔化されて笛を忘れてくれるといい。誰もがただそう思っていた。……ただひとり、その脅威を知らない蘇芳を除いては。
「え、その装束って……」
 秀麗がつま先でさりげなく蘇芳の足を蹴る。龍蓮はようやく奇抜衣装の上から『まじょ』の黒服を着なおした。そうして渋々髪を解き、柿と蝙蝠を卓上に置いた。長い髪をおろして三角帽子を被った龍蓮は、室の壁にある鏡と向き合う。
「これは……いささか質素にすぎるな。心の友其の一の気持ちゆえ無碍にもできぬが」
 そう言うと、裾をめくってこれまで自分がつけていた装飾をあれこれ引き出す。たちまち三角帽子にも貫頭衣にも多数の紐やら鎖やらがじゃらじゃらと飾られる。常ならば目を疑うところだが、本日の宮城は常にない混沌。おまけに本来ならば飾り気のない『まじょ』の衣装は、意外にも龍蓮の飾り物に違和感を感じさせなかった。極彩『まじょ』誕生である。
「蝙蝠つけてるより、そっちの方がずっといいわよ」
 秀麗は解放された蝙蝠に痛ましげな視線を流した。
「この蝙蝠は私から礼部に返しておこう」
「あ、お願いします、藍将軍」
 端正な国王側近の頭には通常の冠の両横に狼の耳が並ぶ。宮城を走り回って過ごす秀麗は、本日多くの部署で様々な扮装をした人物を目にしている。この程度であれば仮装のうちに入らないくらいだった。

「秀麗様、ならびにそちらの方。申し訳ございませんが、藍家のご兄弟をお連れ願えませんでしょうか。ここ、後宮は主上以外の男性がいらっしゃっていい場所ではございません」
 凛とした珠翠の声に、改めて秀麗は室内を見渡した。自分を入れて、女性三名男性三名。
「そうね。珠翠の言う通りだわ。龍蓮、タンタン、行くわよ。藍将軍もご一緒いたしましょう」
 男たちの背を押して、秀麗は戸口へと押しやる。だが、室を出る前にどうしても言わないではいられなかった。
「今日見た中でも十三姫の装束が一番印象的だったわ」
「やめて! 忘れて!」
 叫んで背を向けた十三姫だったが、ほとんど背中を覆う白い翼を見せ付ける結果となった。
「うむ。あの翼はよい」
「わかった、わかった。今日終わったらもらってあげる。……いいわよね?」
 翼に執着しているらしい龍蓮をあしらうために秀麗は子供をあやすように言い、十三姫に確認した。
「もちろんあげても構わないけど……」
 いつも元気な十三姫の力のない語尾に、今後この『てんし』の翼を背負った龍蓮の姿を見ることになるかもしれないと、その時秀麗ははじめて気が付いた。
(しまったわ。適当なこと言い過ぎたかしら)
「約束だぞ、我が愚妹よ」
 機嫌を直したらしい龍蓮の様子に、せめて邵可邸か藍家の邸内だけにとどめておいてもらうように説得しようと秀麗は誓った。犠牲者は少ない方がいい。自分と藍家は仕方がないと諦めるしかなかった。

「んで、この兄さん何者?」
 後宮の門を出たあたりで、思い出したように蘇芳が秀麗を見た。さすがの蘇芳も後宮は居心地が悪かったのかもしれない。それでも入っていったのは好奇心かはたまた何も考えていなかったのか。
「あー、タンタンははじめてだっけ。これが藍龍蓮。私の同期でこちらの将軍の弟さん」
「へー。あんたが。ふーん」
 何やらしきりと感心したような声を出しながら蘇芳はまじまじと龍蓮を眺めた。
「それで、こっちがタンタ……榛蘇芳、私の同僚」
 流れで二人を紹介することになった秀麗は改めて目の前の友人二人を見比べる。
(すっごい違和感)
 蘇芳はどちらかと言えば見た目は普通。中身も普通に近い。もっとも本日現在の彼は『きゅうけつき』。あまり似合っているとは言い難い。対して龍蓮。黙って普通の格好をしていれば美形のはず。しかし、美形であるなどということを周囲にきれいに忘れさせるだけの奇行を得意とする男。現在は極彩色『まじょ』。
「我が心の友其の一が世話になっているということか。では近づきの印に一曲」

 ぺぺろぴひゃらぱー。

 今度は秀麗も止めることができなかった。至近距離でこの怪音を浴びせられた蘇芳は目を丸くし、やがて床に崩れた。
「こ、これを止めるため、だったんだな……」
 御史台から秀麗が駆け出していった理由を蘇芳は悟った。そうして非凡とは無縁の彼は、素直に意識を失う道を選んだ。ある意味、懸命であった。
「……タンタン! 龍蓮、やめなさい」
「龍蓮、やめないか」
 さすがに幾分かは免疫のある秀麗と楸瑛はその場に踏みとどまることができた。しかし、それだけである。止めようとする言葉だけでこの藍家の異端児を止めることなどできない。床に倒れた蘇芳を横目に笛はますます龍蓮節の調子を上げた。
「やめ……」
 秀麗は柱にしがみつき、楸瑛は唇を噛んで立ち尽くしているばかり。

 ぺっぺろぷぴっぽぱっぱらぷぴゅー。

 このまま自分も意識を失うのかもしれない。しかし、このままでは被害は広がるばかり。何とか龍蓮を止めるために自分は後宮まで駆けつけたのではなかったか。秀麗はそう自問しながらも手足の先が冷たくなっていく感触に耐えていた。そう、地響きと叫び声がこの悪夢の独奏会を打ち破るまで。

「どこだーっ! 化け物はこっちかーっ!」
 霞む視界で秀麗が認めたのは、剣を抜いて勇ましい黒白二大将軍の姿だった。
「人外の音を出しやがってるのはどんな化け物だ!」
 白雷炎が吼えると、不思議そうに龍蓮は笛を吹くのを止めた。
「はて。そんな物音は聞かなかったが」
 どうして、どうして横笛だけが人と解釈が違うのか。頭痛を堪えながらも楸瑛は自分の上司に向き合う。少なくとも笛が止んだのはありがたい。
「せっかくお越しいただいて申し訳ありませんが、こちらには異世界からの被害は現在ありません」
「馬鹿を言うな! ちゃんとこの耳で聞いたんだからな。な、燿世?」
 いがみ合っている割につるんでいることの多い左羽林軍の将へ雷炎は同意を求める。無言でうなずく燿世はしかし、楸瑛の隣に立つ龍蓮の姿を認めたらしかった。
「藍龍蓮か」
 部下である楸瑛でさえも滅多に聞けない黒大将軍の言葉に含まれていたのは、『藍龍蓮』の意味を知っていたためか、はたまた国試の際の龍蓮の奇行伝説を知っているためか。どちらにしろ燿世の声からは納得の色が見えた。
「ああん? 楸瑛の弟か? しょーがねーなあ」
 雷炎の答えもまた、ある意味で龍蓮を知っているならば当然のものだった。
「白大将軍!」
 そこに駆けつける『おおかみおとこ』一名。
「いきなり仕事放り出して消えないで下さい! ただでさえ今日は多忙なんですから!」
「あ、静蘭」
 この日、秀麗が静蘭を見たのは初めてだった。矜持の高い彼は『おおかみおとこ』な姿を秀麗には見せたくなかったらしいのだが、楸瑛の姿同様に秀麗の目には普通に映った。もちろん二人の大将軍もである。
「今日はくだらん報告ばっかりで身体がなまってんだ。丁度いい、楸瑛もいることだし一丁仕合してみるか?」
 確かに、本日の羽林軍は鍛錬どころでなく、異世界からの小鬼情報だとか警備を増やせだとか大将軍の好みそうなことからかなりはずれてはいた。そんなこんなでかなり鬱憤が貯まっていたのだろう。剣を振り回す姿は幼い子供が遊びに誘われたかのように無邪気でさえあった。
「馬鹿を言ってるんじゃありません。あと数刻待てばこんな厄介から解放されるんですから」
 静蘭の指摘は正しい。あと数刻。されどまだ数刻ある。雷炎はそこに爆弾を投下する。
「そのことだが。日付けが変わったらいつも通りって、そんな通達はなかったよな?」
「通達にはありませんが、仙洞省の見込みでは日付けが変わるまでと」
 国王側近も兼ねる楸瑛にはただの武人には入手し辛い情報が集まってくる。
「あと数刻? いけない! 仕事がまだ終わってないのに! タンタン、起きて! 戻らなきゃ!」
 ここで放心していたとしても仕事は残るばかり。秀麗は慌てて床に転がったままの蘇芳を揺さぶり始めた。
「居残りも泊り込みも持ち帰りもしたくないのよ!」
 本日の不幸番付堂々上位の蘇芳の不幸はまだ終わってはいなかった。何故なら、秀麗に揺さぶられて意識を取り戻したはずなのに、すぐさままた意識を失うことになったからだった。起き上がりかけた蘇芳の後頭部に固いものがぶちあたった。
 南瓜である。
 ちなみに南瓜が飛んで来た際、武官四名と龍蓮は当然のように避けた。蘇芳を揺さぶっている秀麗の頭の位置は起き上がりかけた蘇芳のものより低かった。これは秀麗の運の良さの一例かもしれず、本日の蘇芳の不幸の一例かもしれなかった。
「どっから飛んできやがった!?」
 いち早く身構えた二大将軍に楸瑛が指摘する。
「そもそも宮中のすべての南瓜は昼前に消えたはずですが」
 こんな場所に南瓜があること事態がおかしい。この南瓜は本物だった。以前、劉輝が転がした偽者でもない。
「皆様、あちらを!」
 激しく反応を繰り返す干將を片手に静蘭が指差す。その方向を見てみれば、昼でもないのに橙色の光が強く周囲を照らしているらしかった。
「まさか、火事!?」
「火事とは色が違うような気がします」
 楸瑛と静蘭が冷静に判断しようとしているうちに大将軍二人は既に駆け出している。
「宮中の奥……彩八仙の高楼あたりか?」
「おそらくは。藍将軍、我々も参りましょう。お嬢様は危険ですのでお戻りを」
 静蘭はそれだけ言うと楸瑛と共にたちまち大将軍を追って行った。
「戻るって、気になるじゃない。でもタンタンも放っておけないし……」
 逡巡していた秀麗だったが判断は早かった。
「私だって原因が知りたい。知っておいた方がいいと思うの」
 そっと意識のない蘇芳に自分の『きゅうけつき』の外套を着せ掛ける。
「ごめんねタンタン」
 そうしてしっかりと蘇芳にぶち当たった南瓜を手に秀麗も武人たちの後に続いた。可食物を無視することは彼女にとって不可能だったのだ。
「心の友其の一、私も加勢しようぞ」
 現状を理解しているのかしていないのか。龍蓮もまた秀麗と共に姿を消した。
 この翌日より蘇芳は風邪で寝込むことになる。


 さて、宮中の一角にとある集団がいた。『現王政権転覆計画』なる文字が躍る紙面を数名の男が取り囲んで。彼らの目的はその文字の通り。ただし、能力不足で閑職に回されている身分の低い貴族たちである。彼らが望むのは高待遇。あわよくば彩七家に成り代わるだけの力を持ちたいと思っていた。――何の努力も無しに。
 本当ならば今日という日の混乱を利用して政権転覆を計りたかった。しかし生憎、頭脳となるべき人材と行動力のある人材に欠けていた。すなわち、題目を唱えながら何もしていない宮中でのお荷物集団であった。よくぞこれまで罷免されなかったものだ。
 その彼らは、内殿のとある一室が空き部屋であることに目をつけ、たまたまその室への抜け道を発見したこともあり、秘密の陰謀を企むに相応しいと悦にいっていた。陰謀に参加するという言葉に酔っていたのかもしれない。
 蝋燭の灯りがゆらめく中、頭をつき合わせていた彼らの話の内容は、将来の自分たちの姿である。早い話、根拠のない妄想とも言う。いつの日か陰謀により政権を手中にし、贅沢三昧酒池肉林……。虫のいい夢である。そうして、そんな夢は打ち破られると相場が決まっていた。
 がこん!
 いきなり抜け道の扉が開いて大男が現れる。黒燿世であった。続いて白雷炎。
「おい、燿世、何突っ立ってやがる?」
 抜き身の剣を構えた武人二人の登場に、陰謀家(自称)の男たちは凍りついた。宮中にいてこの二人を知らないでは済まない。
「大将軍! 何もこんな抜け道を使わなくても」
 楸瑛と静蘭も室内に飛び込んで来た。若き二人の武人は、いるはずのない男たちの存在に眉を顰める。楸瑛は厳しい声で詰問する。
「おまえたち。ここは王族並びにその信頼された者しか踏み入ることを許されない場所。そうと知ってここにいるのか」
 王宮内には無数の抜け道がある。その一部ならば知る者もいくらかはいたが、すべてを知っているのは王のみと言われていた。実際に劉輝がこの抜け道を知っているかどうかは怪しかったが。何しろ前王が臥していた当時、王位を継ぐのを嫌がって王宮からの逃走を繰り返していたから、抜け道を教えるなどという危険を前王と霄太師が犯したとは思えないからだった。
「藍将軍!」
 静蘭が卓上の紙面を取り上げて見せる。その時の静蘭には見たものの背筋を凍らせるような迫力があった。
(そりゃ、しかたねーな)
 雷炎の内心のつぶやきはその場にいた武人たちに共通のものだった。干將をわざわざ鞘に収め、無言で静蘭は男たちをそれぞれ一撃で打ち倒していく。たちまち立っているものは武人たちのみになる。
「今は火急の用事のため去るが、後で必ず捕縛に戻ってくる。もしこの場を逃げたとしてもおまえたちの顔は覚えた。どこに逃げようと必ず引きずり出してやるから覚えておけ」
(本気だ……)
 今の静蘭に逆らってはいけない。誰もが本能でそう思った。
「さあ大将軍、先を急ぎましょう! この室の窓からなら高楼はすぐです」
 率先して窓から身を翻した静蘭を武人たちは慌てて追う。これでは立場が逆だ。それでも、そのようなことに頓着している場合では少しもなかったので誰もが無言で従った。

「ちょっと! 静蘭! いるの?」
 それから僅か後、秀麗が抜け道から這い出して来た。
「ちょっと龍蓮! 自信満々にこっちだって言うからこの変な道通ってきたけど、静蘭たちいないみたいよ?」
「既に先に進んでいるだけのこと。心の友其の一はいささか短気に過ぎるな」
「悪かったわね! ……きゃあ!」
 室内にあったのは元々蝋燭の光だけであったが、先ほど静蘭が鞘付きの干將を振るった剣圧で消えたあと。暗闇の中、秀麗は打ち倒された男の一人を踏みつけたのだ。
「うぎゃ!」
 意識を失っていた男は、踏まれた痛みに覚醒する。
「え!? 誰かいるの?」
 よろめいた秀麗は一歩後ずさり、別の男を踏みつけた。
「ぐえっ!」
「ちょっと! 一人じゃないの!? 何人いるのよ!」
 男を踏みつけたことで安定の悪い秀麗は、なんとかまっすぐ立とうと片足を――。
「ぎゃあ!」
 またしても別の男の腹に着地したらしかった。
「いや! もうなんなのよ!」
 秀麗は人を踏んだ感触にすっかり怯んでいた。どこに足を置いても誰かを踏みそうな気がする。気だけではなかった。四人目の男の膝が足の下にあった。
「うーむ。見事だ秀麗。わざととしか思えぬ」
 心底感心したらしい龍蓮の声に秀麗はいきり立つ。
「わざとなわけないでしょう! 何よ! なんでこんな暗闇で寝てる人が何人もいるのよ! 絶対変なんだから!」
「おそらく眠りの足りない者たちかと。せめて我が笛でやすらかに眠らせてやろう」
 秀麗に踏まれて目覚めた男たちは、とどめの笛に再び意識を失った。そうして静蘭が後にまたこの室を訪ねるまで、そのまま気絶していたという。
 龍蓮は笛を奏でながら窓から出て行く。
「龍蓮、やめなさい!」
 笛の音を追って、秀麗もまた窓から姿を消した。
 こうして、このささやかな陰謀未満は完膚なきまでに叩き潰されることとなったのだった。


 伝説の彩八仙。いつの日か彼らが集うまで閉ざされたままという高楼――の裏に神泉があった。常に透き通った水を湧き出させるその泉は決して大きくはない。しかし霊験ありの噂も高く、仙洞省では行事の際に使用する水は必ずここから汲み出すこととなっている。しかし今、ほとんど人の訪れることのないこの静かな泉に異変が起こっていた。

 昊さえ染める橙色の光はその水面から発されていた。光は明滅を繰り返している。それはまるで鼓動のような間隔で。
「どうなってんだ!?」
 泉に辿り着いた四名の武人はその光景に息をのんだ。
「只事ではありませんね」
 静蘭の干將はなおも騒ぎ続けている。金属音が周囲にも響くほどに。
「干將、少しもなりやまないな。むしろ益々強くなっているような」
 楸瑛がそういったのも無理はない。何故なら傍らの静蘭から、そしてもう一方からも同じような響きが届いていたからだ。
「ほら! 絳攸、やはりこちらで正しかったのだ」
「俺だってこっちに来るつもりだったんだ!」
 国王とその側近が騒ぎながら泉のほとりに近づいてきていた。そう、劉輝の莫邪と共に。
「主上! 絳攸!」
 楸瑛が二人の傍に駆け寄っていく。どんな危険が振りかかるかもわからぬ状態だ。そこが自分のいるべき場所。
「楸瑛! 兄……静蘭も」
 劉輝の表情がたちまち明るくなる。自分が好かれていることがわかるのは気恥ずかしくも嬉しいものだ。きっとだからこそ静蘭もずっと劉輝を可愛がってきたのだろうと楸瑛は同じように走り寄った静蘭を横目で見た。
「こらこら、俺らだっているんだぞ?」
「大将軍が二人ともいてくれるとは心強いのだ」
 結局、全員が劉輝の傍に揃った。まだまだ成長してもらわねばならないが、それでも彼こそがこの彩雲国の王なのだから。

「何!? 光ってんのって泉!? なんで?」
「少々毒々しく情緒に欠けるな」
「それは同感。……いやあっ! 龍蓮と意見が一致するなんて!」
 賑やかに秀麗と龍蓮が泉のほとりに到着した。
「お嬢様! お戻りくださいと申し上げたはずですが」
 美貌の家人に睨まれて、上目遣いで秀麗は反論する。
「だって、やっぱり気になるんだもの! 大丈夫よ、危なくなったら逃げるから」
「秀麗は余が守るから大丈夫なのだ!」
 それはそれは嬉しそうに劉輝が胸を張る。だが格好がいけなかった。
「そ、それが『かぼちゃだいおう』……」
 秀麗が噴出すのを懸命にこらえているのがわかる。美形の国王の被り物、それが南瓜ともなれば、これは不整合による笑いを誘うためにしか思えない。もちろん、別の意見の者だって存在した。
「ふむ。被り物か。一考の価値ありかもしれぬ」
 まじまじと南瓜の被り物を眺める龍蓮の姿に、楸瑛と秀麗は硬直する。
(もし、龍蓮が被り物つきで登場したりなんかしたら。絶対横を歩くのなんて嫌なんだからね!)
 例え龍蓮がどれほど大切に思ってくれているか知っていても、譲れない一線はあるのだと秀麗はその時強く思った。

「見ろ! あそこだ、着いたぞ」
 そこに幼さの残る声が響いた。いささか息切れしているようだ。全員が注目した先には悠舜の車椅子を押しながら羽羽を背負ったリオウ(と推測される敷布の固まり)の姿があった。
「ありがとうございました、リオウ殿。おかげでひとりで来るよりも早くに着けました」
 悠舜が丁寧に少年へと頭を下げる。
「別に。ついでだったから」
「長官はいつもお優しくていらっしゃる」
 そっけなく返事するリオウの背から、やや湿った声と共に羽羽が地面に降り立った。
「おや、皆様お揃いですね」
 温和な雰囲気を湛えて悠舜がそこに集まった面子を眺める。だが彼は最後ではなかった。
「おおっ! よく光って! こら霄! さっそく飲むぞ!」
「待たんかこの体力馬鹿め! こんな光景つまみにしたら腹を壊すぞ!」
 霄太師と宋太傳のふたりも酒を両手に抱えて参入してきた。宋は既に集まった一同を見やってため息をつく。
「見ろ霄。これだけいたら酒が足りないわ。だから樽ごと持ってこようと言ったんだ」
「阿呆。樽ごとでもこの面子では一瞬でなくなるのは同じじゃ」
(この変事をつまみに飲むつもりだったのか……)
 誰もがこの元気なふたりの老人の余裕ぶりにあきれ返っていた。

「でも、よくこれだけの人数が集まったものねえ」
 妙に感心した様子の秀麗に悠舜が答える。
「いえ、少ない方だと思いますよ。ここは宮中と言っても内殿のさらに奥、入れる者は限られていますから」
 実際、抜け道を使ったからこそ入り込めた秀麗と龍蓮と、大将軍の同行でお咎めなしの静蘭を除けば、いずれも高位のものばかり。言い換えれば確実に秀麗と龍蓮こそが闖入者である。
「だろうな。あの光は昊にも映ってるから宮中の外からでも見えるかもしれん。何が起こってるかやきもきしてる奴も多いだろうよ」
 雷炎はじめ、そこにいた者たちはあえて秀麗と龍蓮がこの場にいることに触れなかった。理由をこじつけることなら可能な二人であったせいもある。
「しかし、この場にいたところで原因は解明しておりません」
 鳴り止まない干將を見下ろして静蘭がつぶやくと、劉輝がその隣に移動する。そうして莫邪を近づけた。元々が夫婦剣といわれるだけあって、二本の剣は揃うとうなりを潜めた。
「あにう……静蘭、ここは専門家に聞くべきだ。というわけで霄太師、説明を頼む」
 劉輝に話を振られた霄は泉のほとりの石に座ってすでに宋と酒盛りを始めている。
「んなもん、できるわけがあるか。こいつは確かに色々知ってるが当てにしたい時に当てにならん男だぞ?」
 答えたのは本人ではなく、宋の方だった。その言われようにさすがに眉間に皺を寄せた霄が文句を言う。
「皆が被害に会わぬよう心を砕いた年寄りに、なんと冷たい」
 泣きまねをしようが、この場で霄を素直に信じられる者は少なかった。
「宋も好き勝手言いおって。……助言は有効じゃったろう? 儂が異世界の扮装をするように勧めたからこそ、小鬼に襲われんで済んだんじゃから」
 霄はそれでも恨みがましく一同を眺めた。
「それには感謝しておりますぞ。……して、この神泉の様子、霄殿はどのように?」
 羽羽がそのあたりは素直に反応し、更なる見解を求めた。しかし、霄の返事はそっけないものである。
「何か起きるじゃろうなあ」
(そんな事は分かっている)
 その場の誰もが思った。
「ま、大詰めというものが近付いておるんじゃ。ほれ、露払いが来とるぞ」
 武道の達人たちにも、仙洞省の二人にも気配を感じさせることなく、小鬼たちが泉を取り巻いていた。――多い。
「こ、これはどうしたらいのだ!?」
「放っとけばいいんじゃ。攻撃はしてこん」
 狼狽した劉輝を手を振って気軽に老人はあしらう。
「気持ち悪い……かも」
 秀麗はこの時、噂の小鬼を始めて目にした。小さくとも異形である。目ばかり大きくて頭髪はなく、頭上に二本の短い角。それが数えるのも嫌なくらい集まっているのだ。まともな人間なら嫌悪しても当然だった。
「しゅ、秀麗、余の後ろに!」
「……そうさせて」
 ささやかな幸せに劉輝は酔った。秀麗を守れるならばと王の顔はやに崩れる。ただし、背に庇われた秀麗には見えなかったが。もちろん周囲には丸判りである。おかげで小鬼がひしめいていようと、場の空気は若干なごやかなものになった。

 この夜の異変はもちろんまだ終わらない。一旦、泉の瞬きが止まったかとみると三拍ほど置いてぽーん! という音と共に無数の南瓜が泉から吐き出され、宮城のあちこちへと飛んで行った。蘇芳にぶち当たったのはこうして飛ばされた南瓜のひとつだったのだろう。未だしっかりとその時の南瓜を秀麗は抱えていた。
「南瓜にはどういった意味が……?」
 現宰相の悠舜が元宰相の霄へと訊ねる。だがその答えもそっけなかった。
「お約束、と言う奴らしいの。由来までは知らん」
 時々、泉は光をおさめ南瓜を噴出する。その時以外は静かに瞬いているだけ――いや、光は先程よりも強くなっている。そうして神泉から音が響き出してきた。どーん、どーん、とそれは徐々に近付いてきているようだった。
(まるで巨人の足音のような……)
 誰もがそう思い、同時に即刻否定する。それが事実ならばおそろしすぎるではないか。
 一際大きな地響きが辺りを揺るがした。
「――来たぞ、真打ちがな」
 霄の一言を合図にしたかのように泉から強烈な光が射した。目も開けていられぬ閃光に誰もが顔を背ける。それがどのくらい続いたであろう。唐突に光は消え、光のかわりに泉の上空に浮いた巨大な姿があった。
 ――南瓜大王の降臨である。


 ついに現れた南瓜大王には、背後の高楼に匹敵するほど巨大と言うだけでなく辺りを睥睨する威圧感があった。基本的には劉輝と変わらない様相であるにもかかわらず、一目で邪悪と知れる。頭部は南瓜なのだが、劉輝や羽林軍の兵士が漂わせる微笑ましさとは無縁の冷徹さが言葉もなくとも伝わってきた。かつて対面したこともないこの異世界の悪鬼の首領を前に誰の足も舌も凍り付いたのだ。
 いや、それでもただひとりが飄々と劉輝の背中をどやしつけた。
「ほれ! 主上の出番ですぞ」
「えっ! 余なのか!?」
 いきなり役割を押し付けられた劉輝は霄太師を見下ろしながら驚きを隠せない。
「主上が行かんでどうされますかの」
 どこ吹く風の霄は涼しい顔で決め付ける。
「し、しかし、どうすればいいのだ!?」
「偉そうに踏ん反り返って、去るよう言いなされ。はっきり言えば縄張り争いと同じですな」
「縄張り争い……。やってみよう」
 何か劉輝の思考に引っかかったのだろう。国王は一同よりも前へと進み出て、裏返った声を張り上げた。
「そ、そこな異世界からの来訪者よ!」
 南瓜大王は頭をぐるりと回すと、劉輝に視線を固定した。言葉が通じるかどうかも定かではないが言うだけは言わねばならない。
「ぜ、是非ともおとなしく帰って欲しいのだ。こ、この世界の、彩雲国は余のシマなのだ!」
(もっと言いようはないのか……)
 おそらく親分衆との出会いを思い出しての発言であろう。いささか、いやかなり頼りない。それでも劉輝は退かなかった。南瓜大王を見上げる視線は揺るがない。人間としては出来る事が少し多いくらい。兇悪な招かれざる来訪者の前では彼はあまりにも無力にすぎた。腰に履いた剣で打ちかかったとしても、蚊がさしたくらいの効果でさえ期待できるかどうかあやしい。
「こ、この国に余以外の支配者はいらぬのだ!」
 もしもこんなものが彩雲国に居座られたら、一体どういうことになるのか想像もつかない。だがきっと普通の人間に住みやすい国でなくなることだけは確実と思われた。
「ほれ、人事ではないのじゃ。若造ども、主上を応援でもしてやらんか」
 応援と言われても何をしてよいのかがわからない。戸惑う一行の中から一人が進み出る。
「ふっ。それでは私が」
 いきなり龍蓮が笛を構えた。

 ぷぴょーぴょろろんぱぱぺぽぺー。

 龍蓮なりに心をこめた応援だったのかもしれない。だが誰もこの状態で龍蓮の行動が読めなかった。しかも、確実に味方の士気は低下するばかり。その場にいたほとんどの人物の膝から力が抜けた。実際に膝をついた者がいなかったのは、それでも流石の精神力とと言わねばなるまい。

 ぴょろぺぺれってれぴーぱぴゅう。

 しかし止めるだけの力は誰にも残ってはいなかった。龍蓮は調子に乗って吹きまくる。
 劉輝はやはり龍蓮の笛に心への打撃を受けた。しかしこの未曾有の危機に自分が倒れることはできないと気力を振り絞る。音の衝撃に逸らしてしまった視線を南瓜大王に向けて、国王は味方以外の被害に気がついた。泉のほとりに群れていた小鬼たちはただ一匹の例外もなく地面に倒れてもがき苦しんでいる。それだけではない。当の親玉である南瓜大王さえも気のせいでなく小さくなっていた。龍蓮の笛が鳴る度に少しずつ。今や一階の屋根よりも低い。
「藍龍蓮! そのまま笛を続けるのだ!」
 部下たち全てが劉輝が壊れたとこの時に思ったことは後に確認されている。
 心得た、とばかりに笛の音は勢いを増した。これはもう耳と心への暴力でしかなかった。

 ぺぺろんぺぺろんぽっぽぺぴー。

「よ、よいかそなた! わが国にはこのような笛の名手が大勢いるのだ! それでも良いと言うのか!? それとももっと聞かせて欲しいと言うならば、そちらの世界に送りつけるよう手配してもいいのだぞ!」

 ぷらっぱーぴろろぺれれぱー。

 調子はずれというものをとうに超えた次元の音を背景に劉輝はなおも南瓜大王を睨みつけ、音色と共に更に南瓜大王は縮む。人と同じくらいとなり、ついにはこの場で一番小さい仙洞省の二人よりも小さくなった。
 すっかり見下ろす形になった劉輝ではあったが、決して気は抜かなかった。悪夢のような化け物の首領である。例え小さくともその力は変わらないかもしれない。
「どうだ? どうするか決めたら教えて欲しいのだ」

 ぷぴゃぷぱっぴぽーぽーててれー。

 劉輝を後押しするように龍蓮の笛が響く。背後の部下たちの顔からはとうに血の気が引いている。本当のところ、劉輝だってこれは辛い。どさくさに紛れて秀麗に膝枕してもらって気絶できたらどれほど幸せだろう。頭の片隅に浮かぶそんな誘惑と戦う。この国を、人々を守るのは国王である劉輝の役割なのだから。

 輝きを再び泉が取り戻した。南瓜大王の外套が翻り蜘蛛の糸のようなものが吐き出されて小鬼たちに触れていくと、龍蓮の笛に痛手を受けて転がっていた小鬼たちの姿が泉に吸い込まれていった。
 南瓜大王は最後に劉輝と龍蓮に目をやると、ついに一言も発することなく橙色の光に溶け込んでいった。泉の水が膨らむようなうねりを見せ、そうしてすべてが消えた。光も、小鬼も、南瓜大王その人も。
 鐘の音がどこからか聞こえた。あれは古い一日が終わり、新しい一日が始まったことを知らせる鐘。
「お、終わったのか?」
 安堵のあまりついに劉輝は膝をついた。
「――いい加減笛をやめなさい!」
 秀麗の龍蓮への怒声がこの上もなく心地よく感じられる。
「一応、危機は脱しましたのう」
「おい霄、酒がなくなった。お前、飲みすぎだろう」
(待て。あの状態でも飲んでいたのか!?)
 二人の老人がいたのは一同の後方であった上に、南瓜大王だの龍蓮の怪音だのの影響で誰もが注意をしていなかった。どう考えても飲めるような状態ではなかったはずなのに。
「わかったわかった。儂の室で飲みなおすとしよう。羽羽殿もいかがですかな?」
「いえ、私は仙洞省が大変なことになっておりますゆえ」
 もこもこと髪と髭を揺らしながら羽羽はすぐに霄太師の誘いを辞退した。
「ではまたの機会に。それでは皆様、大変楽しい一日でしたな」

 からからと笑いながら朝廷三師の二人はさっさと泉を離れていった。なんとはなしに見送ってしまった人々の胸にも、終わったという実感が沸いて来る。
「なんだか、長い長い一日だったような気がするよ」 
 楸瑛が傍らの絳攸に聞こえるくらいの大きさでつぶやく。
「まったくだ。ずいぶん早くから今日という日が始まっていたような気さえするな」
 異世界の扮装をすることが決まって、吏部ではどこよりも早くその装束着用が義務づけられた。絳攸の感想ももっともであろう。

「リオウ殿も羽羽殿も今日はお疲れ様でした」
 悠舜の労いにリオウは首を振った。
「いや、俺はたいして役に立たなかった。あの爺のように星を読み、あしらえたわけでもない」
「長官はよくやってくださいましたとも! 今日という日を乗り切れたのは長官あってこそです!」
 羽羽の主張に悠舜も乗ってみる。
「そうですとも。今日、リオウ殿が護符を短時間で作り出せるよう指示を出してくださいましたでしょう? おかげであの後、護符を貼った工部と戸部から失われた銀が戻ってきたと報告も受けましたし。感謝しておりますよ」
 護符がなければ宮中どころか彩雲国の経済基盤すら揺るがす事態になっていたかもしれないのだ。
「それに、霄殿は今も昔も特別な方でして。私とて年齢を重ねてまいりましたが少しも追いつくことができませんで」
 羽羽の言葉には憧憬のようなものが含まれていた。その歳になっても叶わない。無能の自分が比較するべき相手ではないのかもしれない。それにやはりあの爺は苦手だと、リオウはなるべく関わらないでいようと心に誓った。

「ともかく戻るか。おい静蘭、さっきの馬鹿どもをひっ捕らえにいかんと」
 雷炎が静蘭の肩に腕をかけて思い出させる。
「忘れるところでした。お嬢様、お早くお戻りくださいね。では私はこれで」
 邪険に雷炎の腕を払いのけて、静蘭は方向を変えた。
「待たんか! さっきもお前ひとりで暴れやがって!」
「あれが暴れるうちに入るものですか」
 静蘭にとっても、ましてや雷炎にとっても物の数に入らない相手ではあった。だがそんなものはただの口実にすぎなかった。
「こら! 若作り! 今夜は徹底的に話し合おうじゃねえか」
「……酒ですか」
「おうよ! 誰が一番の酒豪か今度こそ決めないといけないからな! おい、燿世てめえも参加させてやらんこともねえぞ?」
 無言のまま燿世は雷炎に並ぶ。そうして三名の武人も国王に軽く一礼すると無駄のない動きで立ち去っていった。

「うーん、静蘭も気の毒に。夜通し飲むことになるんじゃないかな」
 わずかばかり同情を湛えた瞳で去り行く武人たちを眺めるだけの楸瑛に絳攸が問う。
「おまえはいかなくてもいいのか?」
「指名されてないから許してもらおう。それに君を送り届けたり、主上をお守りするのも私の役割だからね」
「送られなくともかまわん!」
「でもねえ。ここは宮城の最奥だから、ここにいる人たちとはぐれたら、たぶん数日は誰も通りもしないよ? 下手したら一月くらい誰も来なかったりする可能性もあるし」
 想像をめぐらせたらしい絳攸は小さく、
「仕方ない。送られてやる」
 それだけを呟き、楸瑛の含み笑いを誘った。

「藍龍蓮、今宵の働きに感謝する。そなたの、その、応援……がなければ南瓜大王を追い払うことはできなかったであろう。何か望むことがあれば余にできる限りの礼をしたい」
 劉輝は丁寧に頭を下げる。国王に頭を下げられるなどと通常ではありえないこと。しかし龍蓮は平然としたままだ。
「礼はよい。何しろ嬉しい言葉をもらったからな」
「嬉しい言葉?」
 心当たりのない劉輝は少し考え込む。
「私を笛の名手と言ってくれた。なかなか理解を得ることは難しいが、実に耳に心地よい言葉であった。もしも私の笛が聞きたくなったらいつでも言ってくれてよいぞ」
 そう言えば勢いでそんな風に言ってしまったかもしれないと劉輝は青ざめる。しかし一度発した言葉は取り消すこともできない。
「そ、そうだな。聞きたくなったら、ぜひ頼もう」
 そんな日は来ないかもしれない。いやきっと来ないだろう。それでも今夜の功労者は間違いなく藍龍蓮である。劉輝はあえて否定の言葉を封じ込めた。
「ではなかなか楽しい日であった」
 龍蓮は愛用の笛を懐にしまうとふらふらと歩き始めた。
「龍蓮、寝るなら邸に戻るんだよ」
 楸瑛の言葉は聞こえているだろうが素直に従うかどうかまでは誰にも保障はできなかった。

「さてと、私もまだ仕事が残ってるのよね。帰らなきゃ。タンタンも連れて帰らないといけないし」
 ひとつ伸びをして南瓜を抱えた秀麗もまた立ち去ろうとしていた。
「その、秀麗。今夜の余は……やはり情けなかっただろうか」
 結局、南瓜大王が帰ったのは龍蓮のおかげで、自分はたいした役割も果たせなかったことが劉輝の気持ちを暗くしていた。だが秀麗なら。いつだって秀麗は劉輝が本当に欲しい言葉をくれるのだ。
「……ちゃんとね、国を、私たちを守ろうとしてくれたのは伝わったから。あの化け物相手に一歩も引かなかったし。偉かったわよ。ご褒美に、この南瓜で何か作ってまた府庫にでも持っていってあげる。劉輝、南瓜好きでしょう?」
「もちろんなのだ! 秀麗が作ってくれるならばもっと好きなのだ! 秀麗のことはもっと好きなのだ!」
 機会をのがさない劉輝に苦笑いしながら、それでも秀麗は邪険にはしなかった。劉輝ががんばったのは確かだ。自分は南瓜大王を前に声さえ出せなかったのだから。
「はいはい。じゃあ早く仕事終わらせてくるからね」
「秀麗、送って……」
「馬鹿。御史台に国王連れて行くなんてできるはずないでしょ? おやすみなさい」
 劉輝の提案を一蹴して、それでも笑って秀麗は手を振った。
「おやすみ秀麗」
 劉輝も一生懸命に手を振った。秀麗の姿が見えなくなるまで。

「さて、明日も忙しい一日になりますよ」
 悠舜が厳粛な表情で予言した。
「しかし、明日からは新しい月で、それも普通の日のはずなのだが」
 秀麗を見送った劉輝が悠舜に疑問を返す。
「今日という日にまともな仕事をしていた官吏は少ないはず。明日は今日の分も決済に追われることになるでしょう。吏部でも、おそらく黎深がまた仕事をしなくなると予想されていますし。そうそう! 朝一番に宮中に撒き散らされた南瓜を回収しないといけませんねえ。そんなわけで主上、今夜は早くおやすみくださいね」
「悠舜も、ちゃんと休んでくれるな?」
 気遣ってくれる気持ちが嬉しくて、悠舜は軽く一礼した。優しい心を殺伐とした宮城で育ちながら失わなかった仕えるべき相手に。
「……そういたしましょう」
 悠舜が車椅子の向きを変えるとリオウが慌てて飛んできた。
「待て。俺が押すから。ああ、羽羽は背中に」
 来た時と同じ形でリオウは奮闘する。ここで手伝うのは簡単だが、リオウの年頃の少年には逆効果かと誰もがあえて名乗り出ない。車椅子の軋む音が徐々に遠くなっていった。


「それでは主上、我々も退散いたしましょう」
「そうだな。こんなところ、いつまでも俺はいたくないぞ」
 楸瑛がそっと提案すると少し震えて絳攸も同意する。秋の日は深まり風が冷たく頬をなでる。『きゅうけつき』の衣装には外套もあるのだが飾り同然の防寒を意識しない作りのもの。文官の彼は今頃になって寒さを実感しはじめていた。
「うむ。楸瑛、絳攸。今夜これから少しでいいから余と酒につきあってくれ。なんだかこのままでは眠れそうな気がしないのだ」
「仕方ありませんね。それではご相伴にあずかりましょうか。絳攸、君もね」
「少しだけだぞ。悠舜殿の言う通り、明日はまた大変な一日になるんだからな」
 そうして国王と側近はゆっくりと劉輝の居室に向かって進み始めた。劉輝は最後にもう一度泉を見やる。今はもうその水面はただ暗く静かだ。まるで最初から何事もなかったかのように。


   終章

「それでだ。結局今日の出来事は何だったんだ。あの南瓜大王とかいう輩がなんでまた現れたりしたんだ?」
 霄の器に宋が酒を注ぐ。なみなみと注がれた液体はすぐに消えてしまう。
「知るか。推測するとすれば異世界とどうやら律でも同調して繋がりでもしたんだろうよ」
 霄にとってはもう終わったこと。自分の知覚の外にあるものなど知ったことではない。
「また同じことが起こる可能性はあるのか」
「ないとは言えん。だが安心しろ。後数十年はまずないだろうからな」
「……そうか」
 もし再び南瓜大王が現れるとしても、その時にはもう宋がそれを見ることはないだろう。どことなくしんみりした酒は明け方まで酌みかわされた。

 翌日に回収された南瓜の数は月末に消えた十倍の数があった。当然のように厨房で選ばれるのは前日出されるはずだった南瓜菜。材料があれば南瓜菜は更に続く。
「劉輝、何よ全然食べないじゃない! せっかく作ってきたのに!」
 早朝の府庫で秀麗持参の弁当を広げながら、劉輝は無言でその中身を凝視するばかりだった。
「いやその、秀麗の菜は食べたいのだが、余はここのところ毎日南瓜菜ばっかりで……」
「だってまだたくさん南瓜あるんでしょ? うちも分けてもらって家計が助かってるの。だからうちでも毎日南瓜菜だけど父様も静蘭も文句言わずに食べてくれてるわよ。ほら! 贅沢言ってないで食べなさい! 食べられるだけでもありがたいんだからね!」
 渋々と劉輝は箸を手にした。同じ苦行に耐えているであろう兄を思いながら。

 翌年から宮中ではこの時期、あちこちで南瓜が飾られるようになった。何故か怖ろしげな顔を描いた南瓜が。
 この南瓜には願いがこめられている。もう二度と南瓜大王なんてものが降臨したりしないように。もう変な格好をしなくて済むように。ここにはもうたくさんいるのだから――と。


 君知るや南瓜の国。
 誰も、異形の世界を知らない。もしかしたら星は知っているかもしれない。けれど知らなければそれはそれで幸せなことなのだ。この世には知らなくていいことも確かにある。時折、国王の居室のあたりから怪音が聞こえるようになったことであるとかと同じように。もしも知ることがあったなら、夜の夢ということにしてしまおう。人の身には重すぎる悪夢は目覚めてしまえばはかなく消えていくもの。
 君知るや南瓜の国。
 それは秋の盛り。彩雲国の王城を季節風のように通り過ぎた一夜の、極彩色の悪夢の故郷だから――。

 『君知るや南瓜の国』 (完)

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