は途方にくれていた。 (こんなこと、できるわけがないわ) 目の前には与えられた仕事の山。ひとつひとつは難しいことではない。だが、その量ときたら! あたりを見回したところで、の手伝いをしてくれるような暇のある人物はいない。 (こんな、小者がするような雑事を……) は自らを哀れんで嘆いたが、現状が変わるわけではない。時間が無駄に過ぎるだけ。 仕方なしにはのろのろと手を動かす。こんな境遇に陥ったことを天に恨みながら。 その日まで、は働くなどということと無縁であった。 家は中級とはいえ富裕な貴族階層であり、家のことは家人たちにまかせ、ただ穏やかに流されていればそれでよかった。 一人娘でもあり、いずれは婿を取ることになるだろうが、実家に暮らすのであればそう現状が変わるとも思えなかった。 貴族の娘として恥ずかしくないだけの教養と、美人と言ってくれる人もいないではない程度の容貌と。 性格はやや内向的で目上の者にはおとなしく従う、はそんな娘だった。 父が背負ったという借財の話を聞くまでは。 土地を整理していくばくかは埋められたものの、これからの生活をどうするか、親子にはわからなかった。 母が生きていれば父を諌めてくれたかもしれなかったが、は気付きもしなかった。 年老いた家人が二人残ってくれ、今までとは比べ物にならない小さな邸に移った。だがそれだけでは食べていくことができない。 父に、他人の元で働くことは難しいと思えた。なんと言ってもこれまで働かなくても代々残されたもので不自由なく生活できていたのだから。 父の知人もそう思ったのだろう。父親でなくに働きに出るようすすめたのは。 それしかないだろうと、はすすめられるまま、紹介された場所に向かった。 が思いも寄らなかったことに、用意された職場は宮中。 仕女かと思いきや、仕事は戸部での雑用だったのだ――。 が戸部に回されて数日が過ぎていた。 慣れない作業はいつだって遅々として進まず、終わるまで帰ることもできない。 この日は、前日よりも多くを回され、すでに夜になっていた。あたりには人の気配もない。 (お願いして、これだけで許してもらおう) 仕事をしていた室から立ち上がると、人の姿を求めては歩きだした。 だが、どの部署の部屋も灯りもなく閉ざされている。 ようやくは灯りのこぼれる室を見つけた。 (よかった、まだ残ってる人がいたんだわ) 声をかけて入室しようとしただったが、そこがなんの部屋だか気付いて思わず後ずさった。 (尚書の執務室――!) いくらなんでも、あまりにも上の人すぎる。下っ端でしかない自分が声をかけることすらできない。 だが、こんな時間。尚書はまだ仕事中なのだろうか。 そっとは扉の隙間から中を窺った。 見えるのは奥の机に向かう人の背中だけだった。 長い黒髪が椅子の背から流れ落ちている。 机上には溢れかえらんばかりの書類。 だが、一時も休むことなく、次々と書類が片付けられていく。 (なんて沢山のお仕事――) は自分の机を思い出す。とてもやり遂げられるとはおもえなかった仕事の山。 けれど、尚書の机の上に比べると、そんなものは比べることもできないほどの少量にすぎない。 しかも、尚書の仕事であれば、に与えられたような単純作業ではないはずだ。 (わたし、甘かったのね。弱音を吐けるほどのこともしていないのに――) 自分の甘さを恥じたは、そっと踵を返し仕事に戻った。 尚書室の仕事量を見た後では、何ほどのこともなく思えて、散漫だった時の何倍も早く、は仕事を終えることができた。 帰り支度をしてふと目をやると、まだ灯りの灯ったままの室がある。 (明日から、もっとがんばります――) は口をきいたこともない遠い上司にそう囁くと家路を急いだ。 翌朝、出勤したは、新たな仕事を与えられた。昨日の仕事については何も言われない。 (できて、あたりまえなのよね) つまらない仕事だと、こんなことは自分がやることじゃないと、僻んでばかりいただったが、今日からは違う。 (せっかく、与えられた仕事なんだから) 自分の机に向かうと、は熱心に作業を始めた。すると、これまでなら一日仕事であったのに、午前中に片付いてしまった。 直属の上司である高天凱のもとに報告すると、高齢の官吏は眉を上げて見せた。 「あの、まだ他にできることはありますか?」 自分でも小さな声しか出ていないとわかったが、なんとか口にすることができた。 「そう、ではこちらをお願いします」 新たに指示がだされ、は嬉しくなって、いそいそと取り組んだ。 そうして、数日が過ぎて。 慣れてきたこともあるだろうが、失敗も少なく、以前よりは仕事も速くなった。 自分の仕事が終わると次を……と頼みにいくに、任される仕事も増えた。自然、仕事場にいる時間も長くなる。 毎日、退出する前には、そっと尚書室に目をやるくせがにはできた。 いつだってそこは忙しそうで。 (どうか、無理はなさらないでくださいね) の日々は、俄然忙しくなった。朝早くから夜遅くまで。雑用といわれる雑用を次々に与えられた。 途切れることはなかったが、心に余裕ができたのだろう。まわりに視線をやることもできるようになってきた。 いつだって、戸部は忙しい。そして、戸部に属する官吏たちは仕事に追われていた。 は雑用の合間に自分の部署、時には他の部署の簡単な掃除までした。 下働きたちが掃除をしてくれたところで、いつだってすぐに散らかってしまうのを見ていられなくなったのだ。 戸部は忙しいと言えど、自分の仕事が終われば、皆さっさと帰るのが普通だった。遅くまで残ることはあっても、泊りがけになることは少ない。 (きちんと、お家に帰ってらっしゃるのかしら?) は尚書室を見やる度に思わないではいられなかった。 できそうなことならなんでも引き受けるようになったため、雑用ばかりとは言え、の帰宅は日々遅くなる一方だった。 その日も、追加で受けた仕事がなかなか終わらず、ついに部署の皆が退出しても、は居残りになった。 ようよう仕事を終えると、さすがにぐったりと疲れ果てていた。 (少しだけ。少しだけ――) は頭を机につけて、目を閉じた。 まるで、ゆりかごにゆられているような、そんな感じがした。 ゆらゆら、ゆらゆら。でも、決して怖くはない。安心してただ揺られていられる。 頬に何かが触れた。すべらかな感触。 思わず、手を伸ばして、かるくつかんで、頬を寄せた。 「気持ち、いい……」 「この状態でその台詞はかなり危険だな」 くぐもった男の声がすぐ近くで聞こえて、は重いまぶたを上げる。 至近距離にあるのは、仮面――。 仮面といえば、まず間違いなく。 「こ、黄尚書!?」 そうしておのれの状態をかえりみると。仮面の人に抱き抱えられているというありえないような――! 「わ、わたし、一体?」 ふわりと、柔らかいものの上に降ろされた。 「仮眠室だ。寝てろ。仮にも若い娘がうたた寝などするものではない」 ああ、あのまま眠ってしまったのだ……と羞恥に陥りながらはふと気になってたずねた。 「黄尚書は、お休みにならないのですか?」 「まだ仕事が残ってる」 やっぱり、という思うと同時に口にしていた。 「なにか、お手伝いできることはありませんか!?」 「特にない。いいから寝てろ」 「目は覚めました。それでしたら、せめてお茶でも入れさせてください!お茶を入れるのは得意なんです!」 その人は少し考えた風であったが、やがてうなずいた。 「いいだろう。頼もうか」 「はい!」 黄尚書の後について、は歩き出した。仮眠室などあることも知らなかった。戸部でも知らないことはまだたくさんある。 尚書室で指された方向を見ると、意外に立派な茶器などが並んでいた。炉もある。茶葉もなかなかいいものが揃っていた。 は、もともと茶が好きで、昔からより美味しいお茶をいれようといろいろ工夫をしてきた。 (そういえば、最近、自分でもゆっくりお茶なんかしていない……) ていねいに、ていねいに。じっくり蒸らして茶器に注ぐ。 「黄尚書、どうぞ」 の言葉に机を離れた男が何やらすると、仮面の口元が開いた。 (そんな風になってたなんて) なんとはなしに感心して眺めていると、仮面の主は優雅な手つきで茶器を取り、香りを楽しんでから口にふくんだ。 「」 いきなり名前を呼ばれては飛び上がった。まさか自分のような者の名前を黄尚書が知っているとは思わなかったのだ。 「あと数刻で仕事が片付く。私の軒で送るから支度をして待っていろ」 言われて気付くと、本当に遅い時間で。この時間では往来に軒を捕まえることもできないだろう。 少し逡巡したが、はありがたく受けることにした。 「すみません。お願いします」 一礼したに軽くうなずくと、黄尚書は机に戻った。 「ありがとうございました」 宮中から自宅へ。 は緊張したままだった。軒の中でも一切の会話はなかった。 軒を降りる際、ようやくは口にする。 「いや。茶はうまかった」 「はい!」 嬉しかった。なぜかとても嬉しかった。 「また、入れさせていただけますか?」 「そうだな。頼むかもしれん」 軒を見送りながら、の心はほんのりと温かかった。 (あの方、厳しいだけの方じゃないんだわ) 翌日から、はさらに仕事が楽しくなった。できることもずいぶん増えたし、任されるものもさらに増えた。 最初、冷たく感じられたまわりの視線も柔らかいものに変わっている。それは自身が変わっていったせいなのだ。 夜まで残った時には。 自分の仕事を片付けた後、尚書室に声をかけて、そっとお茶を入れて帰るようになった。 さすがに、送ってもらうのは気が引けるので、仕事もあまり遅くまで残らないように注意するようになった。 例えば、書類を他部署に届けるように言われた時。 もちろん、走っていくのだが、どこかで姿を見かけないだろうかと、気が付けば黄尚書の姿を探していた。 もう、仮面を変だなんて思わない。 むしろ、よく見ていると仮面が取り替えられていたりするのにも気付いた。 (何か、意味があるのかしら) 何故だか、それを微笑ましく思う自分こそが、には不思議だった。 そんな折、景侍郎と顔を合わす機会があった。 柔らかい雰囲気の人だが、能吏としても有名だった。 「あの、景侍郎、つかぬことをお尋ねしてもよろしいでしょうか」 「なんでしょう」 その人は、宝物庫に向かう途中だと言う。 「黄尚書の仮面なんですが、ご気分で変えられる……とかありますでしょうか」 景柚梨は、おや、といった風にを見た。 「つきあいの長い人でもなかなか気が付かないようなんですが。ええ、そうです。ちなみに今日の仮面はやや疲れている時のものですね」 意味までわかる景侍郎はすごい、とは内心感心する。 (でも、お疲れなんだわ、黄尚書。そうだわ、うちに疲労回復にいいお茶があったからあれを今度……) 「それにしても変わりましたね、さん」 「わたし、ですか?」 穏やかにその人は目を細めて続ける。 「最初、あなたを戸部でお預かりすることになった時は、正直どうしようかと思ったものです」 自分の振る舞いを思い出し、は冷や汗をかいた。 「も、申し訳ございませんっ」 「あなたの境遇を考えれば不思議ではないのですがね。うちの妻がいきなり働きに出なければならなくなったら、きっと同じようだったことでしょう。 ――ですが、あなたは変わってくれました」 柚梨はに温かい眼差しを向ける。 「高天凱より聞いております。最近では本当に助かっていると。おまけに、こちらから頼んだわけでもないのに、部屋の片付けなどもしてくれているでしょう?」 「余計なことだったでしょうか?」 「とんでもない!うちは、どうしてもすぐに散らかってしまいますからね。あなたが来てくれてから、戸部は快適になりましたよ」 自分が役に立てているようで、は嬉しくなった。 「わたし、こちらに来るまで、働くことなど思いもよらなくて。最初は途方にくれましたけど……。 戸部の皆様がどれほど熱心にたくさんのお仕事をこなしてらっしゃるのか気付いたら、自分が恥ずかしくなってしまったんです。 そうしたら、少しでも皆様のお役にたちたいと思うようになりました」 「ええ、わかります。近頃あなたがどれほど一生懸命か」 「今、毎日がとても充実していて、楽しくてなりません。できればずっとこちらで使っていただきたいです」 景侍郎の表情がわずかに曇ったのに、は気付かなかった。 「さあ、仕事がいくらでも待っていますよ」 「はい!がんばります」 翌日、は家から持参の茶を取り出した。その日も、黄尚書の仮面は前日と同じだったからだ。 (やっぱり、お疲れなのね) 「黄尚書、お茶が入りました」 「ああ」 奇人は短く答えて、夜間の仕事を中断して席につく。器を口に運びかけて、その手が止まった。 「この茶は?」 「お疲れのようでしたので、家から持参いたしました。飲むと疲れがとれるお茶です。あ、お嫌いでしたか?」 薬草茶は好き嫌いが分かれることを思い出し、は青ざめる。 「いや、悪くない味だ」 そう言って、そのまま飲み干してくれた。 茶器を片付けに戻った時、ふいに立ち上がった黄奇人に呼び止められる。 「」 「はい?」 「けっこうな効き目だ。身体が楽になった」 そう言っての頭に軽く手が乗せられた。 「はい、よかったです」 (心臓の音、なんだかうるさい) は赤くなった顔を隠すようにあわてて退出した。 戸部での仕事に走り回っていたは、ある日回廊での雑談に足を止めた。『黄尚書』という単語が耳に入ったからだ。 「なんでも、『その顔の隣で奥さんなんかやれません』てなこと言われてふられたって?」 「うわっ、きつい。そんなにひどい顔なのかなあ」 「んー、わからん。知ってる人は絶対教えてくれないしなあ」 はずきり、と胸が痛むのを感じた。 ふられたということは、つまり黄尚書はその相手のことが好きだったはずで。 (あの方の顔なんて知らない。でも、あれほどの方よ?顔なんてどうだっていいじゃない。わたしなら――!) そうして、は気付いてしまった。自分の気持ちに。 (わたし、黄尚書のこと……) でもきっとこんな自分の気持ちは黄尚書には迷惑に違いない。 そう思って抑えようとするのだが、一度自覚してしまえば、想いは大きくなるばかり。 「ですがね、鳳珠」 「その名で呼ぶのはやめろと何度言ったらわかる」 「いやです。奇人なんて趣味が悪いと、私も何度も言ってます」 尚書と侍郎の会話を洩れ聞いたの胸は騒いだ。 (奇人と名乗ってらっしゃるけど、本当のお名前が鳳珠さま?) 心の中だけで呼ぶことくらいは許して欲しいとは願った。 (鳳珠、さま……) ある夜、行き会った景柚梨は、先に帰るところだという。 「黄尚書は、まだ残ってらっしゃるんですか?お身体大丈夫なのかしら」 「あの人は意外に鍛えてますから、けっこう丈夫ですよ。さんこそ、無理は禁物ですからね」 そう言えば、いつか自分を運んでくれた腕がゆるぎもしなかったことを思い出す。 「年頃のお嬢さんなんですから、早く帰るんですよ」 柚梨の言葉にうなずきながら、従うつもりはまったくないだった。 できるだけ毎日たくさんの仕事を引き受けた。 だが、それでも、いつだって誰より最後まで残っている人がいる。 (今、戸部で残っているのはふたりっきり――) それだけのことでも、には嬉しく、またほろ苦かった。 今ならまだ大丈夫だろうと、はそっと尚書室の扉を叩く。 「です。黄尚書、お茶を入れさせてください――」 了承の言葉を聞いて、は尚書室に入った。 扉を閉めてが数歩進んだところで、ふいに室の灯火が掻き消えた。 「きゃあ!」 小さく叫んで立ちすくむ。 今宵は新月。窓からの月の光さえない。 「、大丈夫か」 「だい、じょうぶ、ですけど……」 自分のつま先も見えないほどの暗がりに、は震えた。 数歩後ろには扉があって、数歩先には長椅子があるはずなのだが、身動きすることさえ恐ろしい。 そんな時、ふいに肩をつかまれ、は声にならない悲鳴を上げた。 「私だ」 すぐ耳元で声がした。 (ああ、黄尚書――!) 我知らず、はその胸に飛び込んでいた。 さすがに戸惑った気配が感じられたが、そっと髪をなでてくれた。 「暗闇が怖いか」 強くしがみつきながら、はうなずいたが、この暗がりでは見えないことに気付き、かすれた声を出す。 「はい……」 「大丈夫だ、落ち着け」 見た目より余程逞しい腕が背中に回された。 そうして、は少しばかり落ち着きを取り戻す。だが、この手を離すことはまだ恐ろしくてできなかった。 「どうして、わたしのいる場所がおわかりになりましたの?」 「声でだいたいの位置はわかったからな。あと、この仮面のおかげで多少の暗がりでも問題なく歩ける」 やはり、どれだけ改良してあったところで、仮面をつけての生活は不自由に違いない。 「黄尚書、ご不自由でしょう?仮面なんてあってもなくても黄尚書にはかわりがないのに」 面白がるような声がすぐ耳元でする。 「たしかに、この暗がりでは、仮面がなくても変わらんな」 かたん、と音がして、仮面がはずされたのがわかる。その拍子に、の顔に絹のような髪が触れた。 「黄尚書の髪、とっても好き……」 その感触にうっとりして、はつぶやいていた。 「ほお。髪だけか?」 仮面越しでない声は妙に艶やかで、の鼓動は高まる。 「いいえ。本当は全部……」 言いかけて、は我に返った。 「あ、あの、そうじゃなくて!」 「私をからかっているのか?」 「違います!だって、ご迷惑じゃないですか!わたしなんて……!」 ふいに背中に回されていた腕に力がこもる。 「なにが迷惑だと言うのだ?」 もう逃げられない、は悟った。そうして、ようよう口を開く。 「お慕い申し上げております。でも、どうぞ嫌わないでいてください――」 言った途端に涙がこぼれおちた。 「自分に好意を向けてくれる者を嫌うのは難しい。ましてや――」 長い指が、の頤を持ち上げる。 「ましてや、自分も好ましく思っている相手ならなおのこと――」 髪が流れる音がした。 「」 小さくささやかれて。の唇は何かに覆われた。 思いもかけずに与えられた口づけに、は酔った。 それは巧みにを絡み取る。 どれほど時間が過ぎたのかはわからない。だが、唇が離れた時、の口からはせつないため息がこぼれた。 ふいに身体が浮き上がり、慌てては首筋にしがみつく。 ゆるぎない腕は、すぐにもを柔らかいものの上に降ろした。 (長椅子――?) 長椅子と言っても、小さいものではない。ゆうに臥台代わりになる。 「黄、尚書……?」 問いかけるに答える声は甘く響く。 「こういう時は名前で呼べ」 「鳳珠、さま?」 暗闇の中、苦笑したような気配があった。 「――奇人より、いいかもしれんな」 「鳳珠さま――」 そっと長椅子に倒されるの耳に、その人の声だけが響く。 「。今からおまえは私のものだ――」 の髪から簪が引き抜かれる。自分の髪がするりと解ける。きっと今なら波打っているだろうとはぼんやり思う。 顔に近い一房が持ち上げられ、口づけされる。 首にまわしていた手はほどかれ、その指先にも唇の感触がして、先ほどの口づけを思い出したは赤面する。 きっと彼には見えていないだろうと安心していると。 「顔が熱くなっているぞ」 からかわれるように告げられ、はちいさく抗議する。 「黄尚書!」 「鳳珠だ」 「鳳珠さま……」 そうして、その人はそっと名前を呼ぶ。 「――」 それだけで、の背中には何かが走った。 器用な手が自分の帯を解いて、夜気が開かれた衿元から入り込む。かすかに震えたに気付いたのか、そっと囁かれる。 「寒いか?それとも、私が怖いか?」 「いいえ――」 答えた途端、熱い息を耳元に感じた。 「ならば、いい。――」 「はい……。鳳珠さま……」 軽く耳朶を噛まれただけで、の意識は遠のきそうになった。 その手は、何でできているのか。 触れるか触れないかわからないくらい微妙に、露にされたの肌をすべりおりていくものは。 その唇は、何を探っているのか。 触れる場所、触れる場所が、も知らぬ感覚を伝えてくる唇は。 そしてその人は、何を知っているのか。 まるで自分のものでないような喘ぎをにあげさせ続けるその人は。 「んんっ……!」 暗がりにの声だけがかすかに響く。 いつしか、窓の外では激しい雨が降り始めていた。どこかで遠雷が轟く。 「いい声だ。――もっと声を出していい。この天気だ。私にしか聞こえない」 「ああっ――!」 責められた場所がただ暑くて、は声を抑えることができなかった。 鳳珠による胸元への攻撃は執拗に繰り返され、それだけでは意識を失いそうになる。 さらにその攻撃が茂みの下に向けられると、は溢れかえり、流れるものに気付かないわけにはいかない。 それが何なのか、何故そんなものが自分から溢れていくのか、どこかで知識として知ってはいたが、それはどこか遠い世界での話のような気がしていた。 「や、もうっ……!」 知らず膨らんだ小さな芽を探り当てられたは身体中に走る震えにおののいた。 「そうだな、もういいだろう」 何が、と問うまでもなく、軽々と開かれた脚の間に逞しい身体が割って入る。 「」 だが、声だけでその人はを蕩けさせる。 「。そうだ。力を抜け」 命じられるまま、はその人にすべてを預けた。 「――」 蕾にあてがわれた熱い塊が、強く、の中に押し入ってきた。 (い、いたいっ……!) 裂かれるような感触にはじき返そうとするのだが、楔の速度は緩まない。 そんなものを受け入れる余地が自分にあるとも思えないのに、いつしか、身体の中いっぱいにその存在を感じずにはいられなかった。 「。動くぞ」 囁きからすぐに、何かと拍子を合わせるように、規則的に灼熱の棒がを掻き回し、貫き、を翻弄した。 時間の感覚はとうに失せていたが、とても長く続いたように感じられた。 ようやくから引き抜かれたものが、下腹の上に何かを吐き出した。暖かく、ねっとりとした感触が広がった。 荒い息とともに、の上に心地よい重みが加わる。 「」 かすれたその声も、なんと甘いのだろう。 「は……い、鳳珠さま……」 「疲れただろう。少し安め」 「はい……」 ぬくもりが恋しくて、が擦り寄ると、しっかりと抱きしめられた。 その胸の中、何もかも忘れて、は眠りにおちた。 それは、春の嵐が吹き荒れた、そんな晩だった――。 (一部完) |