霜夜の鐘声・前編
(そうやのしょうせい)





 意地悪な木枯らしが吹きつけても、あなたといるなら暖かい。どんな季節でもふたりでなら乗り越えていける。今宵はそんなふたりの為だけに――。


   一

 影月が茶州で迎える冬も早いもので三度目となる。もう去年のように琥l特有の祭を知らず慌てることはない。
 そう、今年の準備は万端だった。早いうちから櫂瑜が今年も食事の予約を取ってくれていたし、春姫の協力で贈り物も用意できている。勿論、香鈴は栗主益をふたりで過ごすことを快諾してくれた。
「楽しみですわね」
 そう言って早めの栗主益の贈り物をくれた。細かな地紋を撒き散らす極上の生地を使用した鶯色の礼服一式。もちろん縫ったのは香鈴だという。官服ほど堅苦しくなく、むしろ華やかな印象の一枚だ。
「ありがとうございます。でも僕に似合うんでしょうか?」
 香鈴が縫ってくれるものならば襤褸だろうが喜んで着る。けれど似合う自信はまったくなかった。特にこのような洒落た印象のものならば。
「わたくし、お似合いにならないようなものを作ったりはいたしませんわ」
 言い切る香鈴に、内心は不安だったがなんとか微笑んでみせる。ある意味、影月よりも影月のことを熟知している彼女であれば間違いはないのかもしれない。
「がんばって着てみますー。その、栗主益の日に」
「ええ。栗主益の日に」

 期待は嫌がおうにでも高まる。特に、櫂瑜から先渡しで贈られた物の意味を考えると。
「去年お約束しましたからね。『想月楼』は今年続き部屋ですよ。翌日の昼まで利用できますからゆっくりしていらっしゃい」
 それをどういう意味だとか尋ねるのはあまりにも無意味だった。つまり。一夜をふたりで過ごしてこいという間違いのない意図。予約板を渡される際に囁いた櫂瑜はとても楽しそうだった。反対に影月は真っ赤になって狼狽するばかり。
「か、櫂瑜様っ! でもあの、これっって!」
「しっかりがんばって来るのですよ」
 去り際に追い討ちをかけることも忘れない。百戦錬磨の師匠の前に影月はあえなく敗北した。

 去年と違って香鈴とはつきあいが深まってはいる。けれどそれは一応人目を忍んでと言おうか、声高に主張できるようなことではない。だが櫂瑜の贈り物を受け取ってしまって帰らないとなると、薄々察しているであろう州牧邸の面々もに明白にしてしまうわけで。
(香鈴さんはどう思うだろう……)
 櫂瑜に想月楼を手配してもらったことは話したが、その室が続き部屋で続いているのは当然のように臥室だということも、翌日の昼まで使えることも話せないでいる影月だった。
 きっと栗主益の香鈴は、昨年のように美しく装ってくれるだろう。いや、贔屓目だけでなく日々益々美しくなっている彼女だ。きっと今年の彼女は更に美しいに違いない。そんな香鈴と食事を終えただけでさっさと帰れるかというとかなり難しいと思われた。正直に言うとありがたく櫂瑜の勧め通りに過ごしたい。
(と、当日の流れ次第ということで……)
 問題を先送りしながらも、実際は期待せずにいられない影月十五歳(もうすぐ十六)であった。


   二

「お、影月、似合うじゃねーか」
 栗主益当日の午後。家政頭の文花によって早々に着替えさせられた影月は時間をもてあまして居間に顔を出した。着ているものはもちろん香鈴から贈られた盛装だ。
「そうでしょうか。官服以外でこういうのって初めて着るんで、自分では似合うかどうかわからないんですけど」
 照れながら窓辺で点心をつまんでいた燕青が手招きしたので傍に寄って行く。
「もっと自信持っていいぞ。おまえ、年々男振りが上がってんだから」
 そんなことを影月に言ってくれる人物は少ない。ましてや発言者は年齢も経験も男振りも確実に自分よりも上な燕青である。自信を持てるかと言われるとやはり持ちにくい。なんとはなしに落ち着かず、うつむいて帯をいじくってしまう。徹底的に飾りを排除した意匠は、生地の美しさを目立たせ、着ている人間を引き立てるように工夫してあった。
「やっぱ嬢ちゃんは判ってんなー。それ、嬢ちゃんが縫ったんだろう?」
 問われて素直にうなずく影月の頭に手を伸ばしかけて慌てて燕青は手を引っ込めた。
「おっと、いつもの調子でぐりぐりできねーな。せっかく髪を結ったのにって嬢ちゃんと文花のおばちゃんに叱られるもんな。本気で似合ってっから。胸張って行って来い」
 燕青には泊まるかもしれないとは告げていない。知っているのは櫂瑜ひとりのはず。もしかしたら実際に手配をしたと思われる執事の尚大は承知しているかもしれないが、両名とも言いふらすような人物ではない。だが勘のいい燕青のこと。何か察しているのではと思わずにいられなかった。
「燕青さんは今日は?」
「夜からはいつもの飲み会なんだが、その前に師匠からの頼まれごとがあるんでもうじき出る」
 とんと甘い話は聞かない燕青である。影月の前では香鈴とのことを羨ましそうに茶化すこともあるが、実際は特別な相手を作らないように留意しているのかもしれないと思われた。
(どこかにもう好きな人がいたりして?)
 だがそんなことを直接訊ねられはしない。影月では役不足だ。きっと長年苦労を共にした悠舜であるとか、少年時代を知っているらしい静蘭くらいにまでならないと無理だろう。
(いつか、燕青さんの相談にも乗れるような、そんな大人になれるかな)
 そんな風にも思うのだが、それはまだまだ先のことのようだった。
「櫂のじーちゃんは?」
「もうとっくに支度して出かけられたそうですー。どこに行くかは教えてもらえませんでした」
「どこの誰とってのもだろ?」
 影月はただ頷いた。櫂瑜は女性に絶大な人気がある。もちろん男性であっても櫂瑜の人間的魅力に心酔する者は多いのだが、男性と女性では自然と意味合いが違う。特に女性への心遣いは逸品で、人気があるのも無理はない。共に暮らして慣れたはずの香鈴でさえ時折ふいをつかれて顔を赤くしているのを見ると、少し面白くないのも事実だった。
「あいかわらずやるなあ、じーちゃん。でもお前だってじーちゃんの弟子なんだから成果はどんどん見せていっていいんだぞ?」
 櫂瑜の弟子ということで、習っているのは仕事ばかりではないだろうと周囲はどうしても見ているようだ。そんなことは特別には習ってはいない。いないのだが、未熟な影月に何くれとなく助言をしてくれるのも確かだった。気遣いを忘れるなだとか、まめに思いを伝えろとか。
(あれ? やっぱり習ってることになるのかな?)
 国王さえ羨む個人指南を受けていることを影月はまったく自覚していなかった。
「んじゃ、お先に。楽しんで来いよ」
 定期的に時間を告げる鐘の音に顔を上げ、燕青は影月の背中を叩いてから片手を降って扉を開く。
「いってらっしゃい。燕青さんも楽しんで来てください」
「おまえ、それどんな皮肉?」
 影月が困った顔で固まっていると苦笑いし、
「馬鹿、わかってっから。んな顔すんな。嬢ちゃんによろしくな」
 それだけ言い残すと燕青は軽快な足取りで去って行った。

 先ほどの鐘は午後も半ばであることを告げていた。まだ予約した時間までは間がある。しかし、冬の陽が暮れるのは早い。影月としてもそろそろ出かけた方がいいと思われた。自分の準備は万端だ。もっとも、早い時間から影月を急き立てた文花の功績であって、影月がひとりで支度をしようものならまだ出来ていない可能性が高かった。
 その文花は香鈴の手伝いにと消えてもう随分たっている。そろそろ香鈴の支度も整ってもよさそうな刻限であった。ただし、影月は女性の支度にかける時間というものを把握していない。
(着替えて、髪を結って、お化粧して。大変そうだなあ)
 身近に女性がいたことのない影月にとって、それは未知の領域だった。育った村の女性たちは揃って簡素ないでたちであり、新年の祝いですら飾り立てるということとは無縁であった。
 香鈴とて普段はそれほど支度に時間をかけている様子はない。影月が知らないだけで実際は手間のかかるものであるかもしれなかったが、そこまでのものは感じさせられなかった。だが今日は栗主益。女性たちが一番きれいな姿を見せようとする日。
(去年の香鈴さんはきれいだったなあ)
 居間の窓辺から見るともなしに立ち枯れた寒そうな木立を眺めながら影月の脳裏に去年の栗主益の香鈴の姿が蘇る。一足先に春を連れて来たような軽やかで華やかな装いの香鈴の姿は今も深く刻まれている。自然、今年の彼女の装いに期待も高まる。
「影月君、女性は愛の囁きと褒められることでより美しくなります。特に愛しい相手からの言葉の効果は絶大ですから決して言葉を惜しんではなりませんよ」
 櫂瑜の教えがふいに蘇って、影月はこの一年を振り返る。
(えーと、好きだって思う度にそれは言ってきた、と思う。堂主様もそうされてたし。褒めるのは――どうだろう? いつだって香鈴さんのこときれいだって思ってるけど、ちゃんと伝えられてたかなあ?)
 先の教えを櫂瑜が述べた際、影月は質問せずにはいられなかった。
「でも、僕が言わなくてももう十分きれいな人には必要ないんじゃないですか?」
 櫂瑜はその美髯を揺らしながら指を降って否定する。
「甘いですよ影月君。美しい女性はその美しさを讃えることで更に美しくなってくれるのです」
 初めて出会った時から香鈴はきれいな少女だった。その時から影月の視線を奪うほどに。お互いを知るようになって、彼女はどんどんとその美しさを増していっている。昨日より今日。今日よりきっと明日。
(きっと今日の香鈴さんはすごくすごくきれいなはずだから、忘れずに会ったらすぐに言おう)
 影月はそう心に誓った。

 しかし、影月の誓いは当の本人の登場によってあっさりと破られてしまうことになる。
「影月様? こちらにいらっしゃいますの?」
 しずしずと現れた香鈴の、その身を包むのは藤色の衣。一見無地のようでいて、同色の刺繍のほどこされている凝ったものだった。どこで聞いたのであったかは忘れたが、紫系統の色は似合う人を選ぶのだという。だが香鈴の場合は肌の白さによるものか文句のないほど着こなしてみせている。下衣はさらに淡い藤色と白で組み合わされていた。
 常とは違って髷は後頭部に一つ。髷の下から垂らされた毛束が前へと流され、髪全体に雪のように白い小花が散りばめられている。ぐっと大人びた様子でありながら清楚で可憐な印象だ。
 香鈴が身動きする度ちりんと音を立てるのは、去年影月が贈った耳飾だ。使ってもらえている姿を見るのは贈った時には思いもしなかった満足感を得ることだと、この時影月は初めて知った。
 思わずうっとりと見入ってしまった影月からはどんな言葉も出てこなかった。ただ頭の中でぐるぐると
(うわーっ! うわーっ! うわーっ!)
 何かの一つ覚えのように感嘆だけが渦を巻いた。
「やっぱりお似合いになられますわね、そのお色」
 影月がどんな言葉も見つけられないでいるうちに、満足そうな香鈴の声が届く。つられて視線を落とすと香鈴が整えてくれた光沢のある鶯色の衣が映る。
「そ、そうですか。香鈴さんの見立てのおかげだと思います」
 言わねばと思うほどに言葉は遠ざかる。きっと香鈴も影月からの感想を期待しているはずなのだ。けれどこの感動をどうして彼女に伝えたものだろうか?
 棒立ちのままだった足を叱咤して影月は戸口に立つ香鈴に向かって動き出す。再び香鈴へと戻した視線はもう動かすこともできない。
(言わなきゃ。すぐに。でも何て? そう、確か、思ったことをそのまま――)
 手を伸ばせば届く距離まで近づいて、何も考える余裕もないまま影月は素直な思いを口にした。
「好きです!」
(あれ? ちょっと違うかな? でも思ってることをまとめたらそうなるよなー)
 影月が発したたった一言は、目の前の少女を劇的に変化させた。大きく見開かれた瞳が揺れ、目元と磁器のごときすべらかな白い頬がたちまち朱に染まるり、さっと色香が立ち昇る。朱唇は言葉を紡ぐべくわずかばかり開かれて。きっと香鈴のことだ。いつものように影月を叱りつけようとしたはず。だがそれに失敗したのだろうか。一旦は伏せた視線を影月に向ける。自然と身長差のためか上目遣いで見上げられ、その視線の熱っぽさに影月は状況も忘れて闇雲に抱きしめたくなった。
(い、今は駄目だろ!? もしかしたら慶雲さんが様子を見に来るかもしれないし!)
 今年、軒の御者をしてくれるのは武人の慶雲である。律儀な彼は時間になっても玄関に影月たちが現れなかったら探しに来る可能性が高かった。それを理由になけなしの理性を総動員してみたのだが。繊手が影月の胸元へと伸ばされ
「……ずるいんですわ、いつもいつも」
 耳飾と簪を揺らしながら馥郁たる香りを撒き散らしてそっとしなだれかかられてしまえば抱きしめずにいるのは不可能だった。影月は腕の中にあつらえたように収まってしまう小柄な恋人を捕らえるためにその背中に手を回した。
「香鈴さん……」
 かすれた声で呼びかけてみても彼女は顔を上げもしない。
「こ、こんな時に言われたって困ってしまいますのよ」
「す、すみません。あんまり感動しちゃって。いつもきれいなのにもうどうしていいか判らなくなるくらい今日の香鈴さんはきれいすぎて。あ、ちゃんとまだ言ってませんでしたよね?」
 くぐもって響く香鈴の声に応えて、影月は櫂瑜の教えをようやく実行する。
「すごく、すごくすごくきれいです」
 香鈴は答えなかったが、耳に朱がのぼっていくのが見えた。
 国試のために詩歌も山ほど読んだ。美文も沢山あった。なのにその髪を、肌を、姿態を、顔(かんばせ)を、それぞれ取り上げて誉めそやすに十分なはずの言葉がこんな肝心のときに一言も思い出せない。ただ“きれい”を繰り返すだけが精一杯な自分が影月は情けなかった。それでも何らかの効果はあったらしい。ようやく顔を上げた香鈴は縋るような眼差しで影月を射抜く。
「き、今日は、いつもと雰囲気を変えてみたんですの。……お気に召しまして?」
「はい。もう今日はどこにも行かないで香鈴さんをこのまま見ていられるだけでも幸せです」
 それは紛れも無く影月の本音で。このままふたりきりでいられるならば、特別な晩餐など要りもしない。
(いっそ、出かけた振りをして空いている離れにでも籠もってしまおうか?)
 州牧邸には母屋の他に使われていない離れが複数ある。誰にも気付かれずにいられるだろう場所が。そんな発想をしてしまうくらい、影月はただもう香鈴とふたりきりになりたかった。ずっと。
 しかし、女性という生き物は現実的な認識を失わないという。影月の発言は却って香鈴に本日の予定を思い出させてしまったらしい。影月の胸を押して離れたいと示した上で香鈴は改めて念を押してきた。
「今年の予約は去年より少し早い夕刻からでしたわね?」
「ええ、そうみたいですー」
 香鈴の背中から手を離して、櫂瑜から渡された予約板を懐から取り出した影月は不安になって確認する。
「まだ時間はありますけど、もう行きますか?」
 香鈴に見とれたままで何刻でも過ごしてしまえる自信が影月にはあった。今動かなければ、本当にどこかに籠もってしまいかねない。
「遅れてしまうよりもずっとよろしいですわね」
 影月に抱きついてしまったことで生まれた僅かばかりの衣の乱れを直しながら香鈴はきっぱりと言い切り、少しだけ影月を落胆させた。だがこれから影月はこの美しい少女を独占するのだ。香鈴に手を差し伸べた影月は自然に微笑んでいた。
「行きましょう、香鈴さん」
「はい、影月様」
 小さな恋人同士はそうして門前で待つ軒に乗り込むために居間を後にした。
「ああ、影月様、香鈴さん。丁度呼びに行くところでした」
 廊下に出たところでがっしりした体格の武人に迎えられて、あのまま抱き合っていなくてよかったと、影月は密かに胸を撫で下ろしたのだった。


   三

 滞りなく軒は軽快に走り、賑やかな琥lの街を通り過ぎて行く。精一杯飾られた家々や街路の木立も十分目を楽しませるものであったが、影月は後で振り返っても少しも見た気がしなかった。隣り合わせて座る少女にともすれば視線は固定されてしまい、動かすことができなかったのだ。影月の迷いのない瞳から逃れるように伏せられていた瞳も、州牧邸を離れて州城の塀横を進む頃には諦めたのか香鈴もまた見つめ返す。一切の会話が途絶え、恋人たちの世界がただふたりを取り巻いた。
 こうなると軒の中であるとか市中であるとか関係なく抱きしめたくなり、影月は意志の力を総動員して香鈴へと伸びようとする手を抑えなければならなかった。
(まだ着かないのか? まだ!?)
 実際は、州牧邸と想月楼はさして離れてはいない。影月には恋しい相手が目の前にいるのに衝動のまま行動することが許されない時間がとてつもなく長く思われた。

「ようこそお越しくださいました、杜影月様」
 老舗の高楼の玄関へと降り立ったふたりを出迎えたのは、琥l支店の支配人である。去年は初めてで判らなかったものの、その後数回顔を合わせる機会もあり、今では影月の中でもきちんと認識されている。壮年の支配人は貴族ではないらしいが商人と言いきれないだけの品のある物腰と貫禄が、この建物にしっくりとはまっていた。
「どうぞこちらへ」
 予約板を受け取った支配人自らふたりを階上へと導く。
「今年はずいぶんと上の階なんですのね」
 二階を、三階を過ぎても支配人の足は止まることがなかった。
「そうですね。えっと、香鈴さん辛くないですか?」
 日々州城の階段を駆け回っている影月と違い、香鈴はあまり階段に縁がないはずなのだ。
「……このくらい平気ですの」
 香鈴はそう答えたが、もちろん虚勢であろう。僅かに息が上がっているのが判る。だから強がってみせる香鈴が少しでも楽なようにと、影月は引いた手に力を込めてみた。背中を押すとか、腰に手を回した方が香鈴を楽に登らせられるのだが、想像してみると背中を押すというのはふざけて見えるかもしれないし、腰に手を回すのはいかにも恋人同士らしいが第三者の前では躊躇いが先立つ。一番早いのは抱え上げてしまうとか背負ってしまうことなのだが、いくらなんでもそれはできない。第一、せっかくここまで機嫌のいい彼女を怒らせてしまうと想像が簡単についた。
「え、影月様、もう少しゆっくり……」
 苦しげな息の下で洩らされた香鈴からの抗議に、影月は半分くらい彼女を引きずっている状態になっているのに気がついた。
「すみません」
 踊場で一旦手を離して、香鈴が息を整えている間に影月は結局左手で香鈴の左手を受け、右手を腰に回した。
「この方が早いですから」
 それは確かで、先を進む支配人との差はたちまち埋まっていく。香鈴からの抗議もなかった。それでもそんな表の理由に隠れて、できるだけ香鈴に触れたいという下心が無かったかと問われれば、影月に否定する言葉はなかった。

「こちらのお室になります」
 五階を過ぎて通された一室は去年過ごしたものよりも広かった。櫂瑜は趣味人ではあるが、華美に走りすぎるほどの装飾は州牧邸に加えてはいない。茶家本邸の客間も豪勢であったが、それともまた趣が違う。豪奢でありながら居心地を重視していると判る室内をふたりして見回す。
 程なくして影月の注意は隣室へと続くと思われる扉に奪われた。廊下に続いているはずがない場所にある扉。香鈴もその扉を見たようではあったが、何の反応もなかった。
(気がついてない……のかな?)
 それとも自分には無縁と関心がなかったのかもしれない。実は大有りなのだが。

「お食事の用意が整いますまでどうぞごゆるりとお過ごしください」
 支配人が一礼して退出した後、香鈴は傍らに茶の支度がしてあるのを指した。
「お茶でも飲まれます?」
 扉の先から連想される部分に気を取られていた影月は喉の渇きに気がついた。
「いただきます。なんか、喉渇いちゃって」
「わたくしもですわ。お室が暖かすぎるんですわね、きっと」
 香鈴の場合は階段が原因であったかもしれないが、たしかに室内は十分暖められてもいた。外の冷気とは無縁の、わずか数年前の影月からすればそれだけでもたいした贅沢な空間だった。改めてそれに感謝しつつ、どうしても思考が流れる。
(ええと、食事がはじまって。うん、ご飯を食べるのは問題ない。食後のお茶のときに贈り物を渡して。うん、大丈夫忘れてきてない。それから、それか……ら……)
 どうやって切り出すべきか、どうやってそう持っていくべきか。
「影月様」
 間近で声がして影月は飛び上がった。
「お茶が入りましたと声をかけましたのに気付いてくださらないんですもの。何か気にかかることでもおありですの?」
 湯気のたつ茶碗を差し出されて影月は慌てて受け取る。ふんわりと漂う甘い香りが香鈴から漂ってきて、闇雲にその香りに埋没したくなる。
「あ、あのですね!」
「はい?」
「こ、今夜の……お菜、楽しみですね!」
 言いたかったのはそんなことではないのだと自己嫌悪に陥る影月の横で無邪気に香鈴が目を輝かせた。
「ええ、本当に。去年いただいたもののいくつかは自分でも作ってみましたし。今年も菜譜を増やしたいですわ」
「香鈴さんの菜譜もすっかり豊富になりましたよねえ」
「そうですわね。ほんの数年前まで庖丁さえ持ったことがありませんでしたのに」
 香鈴が庖丁を手にするようになったのは、影月が秀麗と共に茶州州牧を拝命した頃のはずだった。あれから二年――。香鈴の上達は秀麗と州牧邸の庖丁人の昭環という菜の達人の手ほどきを受けたとは言え、驚くべき上達振りである。それは美食に慣れているはずの櫂瑜や龍蓮の反応からも間違いはなかった。だが、影月にとってはそれだけではない。
「香鈴さんのお菜、どれもすごく美味しいです。ここで出されるのも楽しみだけど、香鈴さんが作ってくれるものの方が僕にはきっと美味しいです」
「まあ……」
 嬉しそうに素直に微笑む香鈴という貴重なものを見て、影月の中で今夜中に州牧邸に帰るという選択肢はきれいに消え去った。
(よし! いい雰囲気だ! この感じで行けばきっと今夜は……)
 だが遠慮がちに扉が叩かれ、想月楼の使用人が現れて告げたことが影月の目論見を打ち砕いた。

「失礼いたします。杜影月様にお急ぎのお客様なのですが、お通ししてもよろしいでしょうか?」
「僕に?」
「はい」
 影月は香鈴と顔を見合わせた。
「……じゃあ、お願いします」
 こんな日にこんな場所まで影月を尋ねてくるような野暮な人物に心当たりはない。果たして現れたのは――。
「杜州尹!」
 必死の形相で駆け込んできたのは官服姿の州官だった。直接一緒に仕事をしたことはないが、影月も顔を知っている四十超えの官吏で、混迷の茶州を支えたひとりである。
「すみません、すみません、すみません! こんな日に大変申し訳ないんですけど! 至急、州城までお越し願えないでしょうか!」
 確か、この男は本日の州城の留守居役であったと影月は思い出す。栗主益は祝日ということで、琥lのほとんどの職に就くものが仕事を休む。もちろん櫂瑜以下茶州州官たちもそのほとんどが休みを取る。しかしいざという時のために、通常の公休日同様、必ず留守居役が置かれていた。ちなみに栗主益の留守居役に限り、立候補者から選ばれる。若手は既婚も未婚も栗主益の休暇をそれなりに過ごす。妻や恋人の有無に関係なく。それでも栗主益などどうでもいいと思っているような人物だとて存在して立候補するのだ。栗主益を避けたいと願っているような人物が。たいていは中高年の家族持ちで、子供も大きく楽しめなくなっているらしい。影月にはその心理は謎である。今は恋人である香鈴と過ごす幸福に酔っているが、幼い影月が華眞とともに琥lに暮らしていたとすれば、家族で過ごす栗主益もさぞ楽しいだろうとしか思えなかったからだ。
「何か……あったんですか?」
「はい。先ほど、州城にこのような投げ文が」
 官吏が震える手で差し出した紙片を影月が、その傍らから香鈴が覗き込むと。
――今夜、栗主益で浮かれるどこかの家族を血祭りにあげてやる――
 署名はなかった。荒く書きなぐったと思われる字が石を包んだためかすっかり皺になった紙の中で踊っていた。
「予告状、ですか」
 影月の表情は自然と引き締まり、香鈴は驚愕に袖で口元を覆う。
「そのようです。本来ならばこういった事件には州武官が当たるものなのですが、実は州将軍以下、主だった武官が使えないのです」
「具合でも悪いんですか?」
 州官はいい難そうにとつとつと語った。
「――昨夜帰宅されてからずっと将軍宅で飲み続けということで、もう完全に参加者全員泥酔状態でできあがっているらしく」
「ですが、州軍はかなりの酒豪揃いでいらっしゃったと思うんですが」
 影月が引っ張り出されることになる酒宴のいくつかは、文官だけのものではなかった。ことにこのように地方ともなると同じ州に仕える者同士、交流は盛んだ。豪快さが売りの州将軍は酒宴の度、燕青に武官になれと誘い、影月に酒とつきあいの大切さを説くような人物だった。もちろん酒も強いが胃腸も強い。
 中年の官吏は悲しげに首を振った。
「それがその、家人の話では酒の中に学院で研究されていた医療用のものを将軍が混ぜられたらしく」
 影月は驚きに目を見開いた。
「あれは飲む用には作ってないはずです!」
「酒には違いないと強引に持っていかれたとか」
 茶州学院で医療用にと研究されている酒は無味無臭。無類の酒好きの葉医師ですら
「これは飲めたもんじゃない」
 と言い切り、ためしに飲んでみた研究員がその後激しい不快を訴えたという代物である。味どころかその後必ず悪酔いするという保障付き。ただし、酔いがまわるのは異様に早いらしく、手っ取り早く酔いたい輩からは密かに需要があるという。
「櫂州牧も燕せ……浪州尹も、どちらも行き先も判らずで。かろうじて判ったのが杜州尹だったんです! 杜州尹だけが頼りなんです! どうか州城にて指示を願います! 使えそうな官吏で行き先の予想のつく者は同じく召集をかけていますから、おいおい人数は確保できるかと思うのですが」
 年長の官吏は激動の茶州を支えた剛の者。若輩の影月の指示など必要なさそうにも思えたが、それはそれ、命令系統の問題だとかが発生する。責任の所在ははっきりさせておくべきでもある。影月は既に州城に行くことを決めていた。しかし、それならばもっと人出があった方がいい。
「今日は官吏の有志の飲み会がありますよね。場所はえーと、桃天閣じゃなかったですか? そちらには連絡は?」
 恋人のいない官吏たちによる恒例の宴会の話は、影月が参加する予定がなくとも耳に入ってきてはいた。
「生憎、“栗主益の馬鹿野郎!と叫ぶ会”は、よりによって今日は昼前から始まっていたらしく……」
 燕青の話によると、この会はできるだけ早く酔ってしまった者勝ちというものらしい。そのために消費される酒量もまた多い。――つまり、州軍同様もう既に出来上がってしまっているのだろう。簡単に想像がついて影月は思わずこめかみを押さえた。
 公休日といえど、非常時のために数名の文官・武官は州城に待機していた。今、走ってきた彼もそのひとり。だが留守居役は文武共に片手で足る人数しかいなかったはず。つまり結局、使える武官も使える文官もどちらも少数でしかないということだ。投げ文の内容が本物であれば、必要なのは武官だ。留守居役の他に市中の見回りをしている師団が複数あるはずだが、彼らと連絡を取るだけであれば文官でもかまわない。いや、ともかく使えるだけの人材はすべて掻き集めるべきだった。
「今すぐ、州城に行きます!」
 影月は言い切り、投げ文を懐に仕舞って立ち上がった。


   四

「行ってらっしゃいませ」
 他にどう言えたというのだろう。影月が出て行った後の扉をぼんやりと香鈴は見つめ続けていた。
 ふと視線を落とすと自分の纏う衣が目に入る。文花や友人たちと相談しながらようやく決めた衣装。これまで着る機会のなかった色だが、今年は大人っぽく見せたくて選んだ色。それに合わせて髪型だって研究した。装身具は去年影月からもらった指輪と耳飾は決定だ。
 そう。影月は知らないが、香鈴の栗主益準備は実に三ヶ月も前からはじまっていたのだ。
 栗主益。それは琥lの恋人たちにとって特別な日。甘い甘いひと時を過ごすことを許されている日。もちろん栗主益でなくても影月とは出かけもするし、それなりの雰囲気で過ごすこともできるけれど、ここまで気合を入れた自分を見せる機会には恵まれない。普段でも出来る限り綺麗な自分を見せようとはしていが、それには限りがある。
 支度を手伝ってくれた文花も、今日の香鈴の出来栄えを保障してくれたし、何より香鈴を見た影月の視線が、言葉が、自信を与えてくれた。間違いなく成功。そうして今日は、今夜は、徹底的に影月を虜にするとそう意気込んでいたというのに。

「何ですの! 信じられませんわ! どうしてよりによって今夜なんですの!?」
 叫んだことで少し頭が冷えた。あのような場面であれば影月でなくとも行かずにおくことはできないだろう。つまり、影月は悪くはないのだ。
「そもそも、櫂瑜様と燕青様はどちらにいらっしゃるんですの!?」
 櫂瑜や燕青を正直恨んだ。もし彼らのどちらかにでも先に連絡がついたとしたら、きっと影月には知らせないで今日を過ごさせてくれただろうと予想できるだけに。
 だが後になってそれを知った時。自分は素直に感謝もしようが、影月はきっと彼らに仕事を押し付けて自分だけが遊んでいたことに居心地の悪い思いをするに違いなかった。
「そうですわ! つまらない予告状なんて出した人物こそ諸悪の根源なんですわ!」
 香鈴は窓の外に視線を向ける。冬の夜は早い。黄昏は徐々に暗さを増していっている。
(これから州城に着いて。事情を聞いて。必要な官吏や武官の方を呼び集めて。市中警備強化の手配をして。それからそれから……)
 無理。影月が今晩中に想月楼に戻ってくるのは絶望的だ。
 影月が出て行った扉ではない、もうひとつの扉に視線を転じる。開く前からそこが何なのかは判っている。この室内に案内された時点で香鈴は悟った。
 つまり。今夜は帰らなくてもいいということで――。
 けれど、このままではせっかくのお膳立ても無駄になってしまう。自分の支度だって、影月の衣装を仕立てるのだってじっくり時間をかけて考え抜いた結果が出たばかりなのに。
 もし今後、仕切りなおしをしたとしても、街中が恋人たちのための夜を演出して受け入れてくれている今夜と同じ盛り上がりには絶対にならない。
(諦めるわけにはまいりませんのよ!)
 香鈴はしばし考え、そうして決断すると、店の者を呼ぶための鈴を手にした。
「お呼びですか。お連れ様はおでかけになられましたがお食事はどういたしましょう」
「食事は連れが戻りましたら。それより手紙を何通か書きたいのです。用意していただけますか。手紙が書けましたら急ぎ届けられるよう全商連までお願いいたします。あと、お聞きしたいのですが――」
 矢継ぎ早にいくつかの手筈を依頼して、栗主益を取り戻すための香鈴の戦いが始まったのだった。


「香鈴さん!」
 香鈴が忙しく数通の手紙を書き終わった頃、想月楼の香鈴の室にひとりの若い娘が案内されてきた。歳の頃は二十歳前といったところか。贅沢ではないが華やかに装っている。顔立ちも装いに負けないなかなかの美女ぶりだ。
「まあ、棗恵(そうけい)さん、お綺麗ですわ」
「あ、ありがとうございます。香鈴さんこそ」
 状況がどうあれ互いの様子を素早く見てとるのは女同士ではままあることである。髪型、化粧、衣装等を検分して内心で評価を入れる。それをざっと済ませると、改めて娘は声高に叫んだ。
「香鈴さん、私もう悔しくて!」
 棗恵と呼ばれた娘は涙を滲ませる。悲しみの為でなく悔し涙なのは明らかだった。
「棗恵さん、お茶でも召し上がって。せっかく綺麗にされてるのにそんなお顔似合いませんわ」
 いつのまにやら用意された茶器に気付いて、棗恵は感心したような態度を取った。
「落ち着いてらっしゃるのね」
 年上である棗恵を椅子に座らせ茶を振る舞う香鈴は、確かに落ち着いていた。すでに癇癪を爆発させた後だからというだけではなかった。
「今は落ち着かねばなりませんの。だってわたくしはまだ栗主益を諦める気はありませんもの。貴女だって同じではありません?」
 影月との栗主益を取り戻す――今はそれが何よりも優先される。
「香鈴さん、まだ諦めずにいられる方法があるんですか!?」
 棗恵が栗主益を諦められない理由を香鈴は知っていた。棗恵もまた想月楼の客だった。もちろん食事だけの利用ではあるがそれでも予約を入れた棗恵の恋人は随分と奮発したものだ。恋人から今年の栗主益を想月楼でと告げられた棗恵は確信を持っていた。きっと求婚されるだろうと。それからの彼女は己を磨くのに熱が上がった。棗恵の恋人は他ならぬ影月の部下。彼、羽巧(うこう)もまた州城に呼び出された口だ。官吏の恋人が一旦呼び出された場合、その日の逢瀬が叶わないことを棗恵もまたよく知っていたのである。
「いつもの公休日が返上されるのはまだ許せますけれど今日という日はどうあっても許せませんの」
「私もです!」
「ですから、諦めずに済むよう手を打つことにしましたの。もちろんお手伝いくださいますわね?」
「どんなことでもしてみせます!」
 装いとは不釣合いなまでの気合を入れて棗恵は力強く同意する。香鈴はその答えに満足の笑みを浮かべた。

「失礼いたします。お手紙が届きました」
 想月楼の使用人が香鈴あての書状を数通持って現れた。他に、先ほど香鈴が依頼した琥lの地図も抱えている。謝辞と共に受け取った香鈴は書状を小卓に、そして今夜の晩餐が並ぶ予定の広い卓上に地図を広げた。
 一刻と立たぬうちに、香鈴の室は更に数名の棗恵と同じように怒りに駆られる着飾った女性たちで溢れかえっていた。そう。彼女たちもまた急遽呼び出された官吏や武官を恋人に持つ身である。
 そのほとんどの女性を香鈴は棗恵同様見知っていた。
「香鈴老師(せんせい)」
 確実に一番年下でありながら師扱いを受けるのは彼女たちが香鈴の生徒だからに他ならない。“美女宮”(びじょぐう)の通称で知られることになる女性を内外から美しくすることを目的にした組織を香鈴が仔細あって立ち上げたのは半年ほど前になる。目に見える実績と相まって評判が評判を呼び、現在では生徒の希望者が後を絶たない。
 美容指導、食事法、教養などを香鈴と数名の女性が指導にあたるのだが、一日の指導が終わる頃にはお茶とお菓子で会話が咲くのは若い女性の常だ。その席で香鈴は自分の生徒の恋人が誰なのか、栗主益ではどこの飯店や酒家を利用するのかほぼ把握していた。同じ建物内にいた棗恵が一番早かったが、飯店が集中する地区もさほど遠くはなかったことから全員が集まるまでにさして時間はかからなかった。
「他に本日、恋人を州城に呼び出された女性に心あたりはありません? 美女宮関係者でなくとももちろんかまわないのですが」
 香鈴の質問に女たちは互いに確認しあったが、自分たちの知る限りでは呼び出しを受けるような恋人を持つ女性はこれで全員だという。
「わからない方は仕方ありませんわね。この人数で始めることにいたしましょう」
 香鈴を含め、室にいるのは総勢十二名。その一同を見回して香鈴は確認を取った。
「皆様、本日はどうあっても恋人に帰ってきて欲しいと思っていらっしゃるわね?」
 一斉に同意の声が上がるのを聞いて、香鈴は厳かに告げた。
「それではこれから忙しくなりますわよ。覚悟なさってね?」

「どなたか凛影会と繋がりの深い方はいらっしゃいます?」
 凛影会とは、今は宰相となった悠舜に嫁いだ柴凛――かつての全商連茶州支部長を慕う女たちによって作られた組織だ。柴凛が首都貴陽に越してからも解散したという話はなく、現在も活動を続けているらしい。
「ああはい。母が幹部なんです!」
 鮮やかな青い衣を着こなした娘が手を挙げる。
「それはありがたいですわね。至急連絡をよろしいかしら?」
 青い衣の娘がうなずくと、香鈴は連絡用にと紙を手渡す。それを聞いて周囲の娘たちは首をかしげた。
「老師、凛影会が何か?」
「凛影会は琥l在住の女性の大半が参加しておられるとか。先ほど茶家にも協力を仰ぎましたし、これに美女宮関係者と凛影会が併さればわたくしたちを悲しませた諸悪の根源を見つけ出すことはきっとできるはずですの」
 凛影会の会員は庶民が多い。しかもあらゆる場所にいる。美女宮関係者の中には花街に強い繋がりを持つ者もいる。そして茶家の春姫より琥lの貴族は把握できる。庶民から妓女、貴族まで。琥lのあらゆる立場の女性による情報の包囲網が完成するのだ。
 改めて香鈴は現状を娘たちに告げた。
「よろしいですか。このままでは州城に呼び出された方たちが今夜中、いえ、明日中でも戻ってこられるのは不可能ですの。使える人間を集めて、さらに連絡を取りあって、情報を集めて。それだけでも彼らに任せておけばどれほど時間がかかることでしょう。そうこうしているうちに凶行が終わってしまっている可能性すらあります。もちろん後始末もしないわけにはいきませんし、官吏を動かす際の手続きもまた煩雑なものですわ」
 おそらく香鈴ほど茶州州城の内情を知っている一般女性はいない。琥lに戻って以来、彼女は常に州牧とその周辺の人物と近しい場所におり、頻繁に州城にも訪れている。その香鈴が断言するからには、誰にもその発言を覆すだけのものは持たなかった。女たちの間に絶望したような沈黙が落ちる。
「つまり、香鈴さん? わたしたちだけで投げ文をした人物を探し出すというのですか?」
 青い衣の娘に概要を記した書式に協力依頼の一文を書かせて、香鈴は窓を開ける。そこには全商連から借り受けた連絡用の鳩が待っていた。鳩に文を結びつけて窓を閉じてから、香鈴は質問してきた棗恵にうなずいた。
「その通りですわ。そうして出来ますならば犯人を捕らえて州城に突き出したいと思っていますの」
「どんな兇悪な相手かもわからないのにですか!?」
 淡い朱色の衣を纏った娘が震えながらか細い悲鳴をあげる。
「あなたがたにそこまでは望んでおりませんの。わたくしが欲しいのはお手伝い。これから順次届く情報は少なくはありません。それを読んで内容を整理して欲しいんですの。ただし」
 香鈴は言葉を切った。
「わたくしは一人でも乗り込むつもりですわ。だって、どうにかしてやらないと気が済まないんですもの」
 効果は抜群だった。棗恵はじめ、娘たちはその犯人への恨みを自分たちが抱えていることをこの時自覚した。そうして我も我もと香鈴に従う旨を告げたのだった。

「香鈴さん、琥東区からの報告が届きました」
「こちらは琥南からの第二陣です!」
 香鈴の言葉通り、窓から鳩が、扉から想月楼の使用人が、何度となく文を運んできた。娘たちはそれを地区ごとに分けて読み、少しでも不審な部分があれば香鈴に報告する。報告を受けた香鈴は更なる情報を求めて文を出した。室内は地図と書簡ととりどりの色彩で装った娘たちでごった返している。
「貴族街は異常なさそうです」
「官吏街もです」
「あの……下町の上区なんですが少し気になる報告が」
 葡萄酒色の衣の娘がおずおずと報告すると周囲の視線はその娘に集中した。
「上区の晁(ちょう)家が少しおかしいみたいです」
「晁家?」
 初めて聞く名前に香鈴は首を傾げる。もっとも、下町近辺には知人もいないのだが。
「あのあたりではまずまず成功している家ですね」
 別の娘が訳知りに語り始める。
「ご主人はお祭好きで有名だったりするんですけど」
 葡萄酒色の衣の娘はうなずく。
「ええ、報告にもそうあります。なのに夕方前から明かりは見えているのに家の中が静まりかえってるって言うんです。外出した様子もないし、ありえないって」
「それは気になりますわね……」
 香鈴は急いで新しい紙を取り出すと詳しい情報を求める書簡を書き連ねた。
「晁家に重点を置いて調べていただきましょう。他に気になる情報は見つかりまして?」
 他にも何軒かが上げられ、香鈴はそのためにも筆を取り、鳩を飛ばした。

 報告が入るまで若干の間があり、一旦休憩を入れながら皆で検討する。時に脱線したり、投げ文が狂言でないかという意見も出たりする。
「何も起こらないに越したことはないのですわ。ですがその場合、何も無いことを証明せねばならないんですのよ」
 凶行は起こって欲しい類のことではない。できればただの愉快犯――それはそれで迷惑な話だが――であって欲しいとも思う。ただその場合の証明にはかえって梃子摺るであろうことを、あえて香鈴は口にしなかった。
 そうこうするうちに、また慌しく報告が入り始める。休憩は終わりと、娘たちは書簡に向かった。
「香鈴老師、やはり晁家があやしいです。夕刻前に若い男を連れて家の中に入った晁氏が目撃されているんです」
「一人だけですか? 複数名でなく?」
「この報告では一人となっています」
 琥lの他の場所からの詳細な報告からは杞憂であったり、思い込みであったりしたことも判明した。
「晁家で何かが起こっていることは確定と見て間違いはないかと思いますが皆様、いかがお思いですか」
 もちろん、若い男と投げ文は無関係であるかもしれない。それでも何らかの異常が起こっていることには違いない。ここまで集まった情報が、香鈴を動かさずにはいられなかった。変事を知った娘たちも同意見であった。
「それでは防寒をしっかりとして。皆様、出陣いたしますわよ!」


 この日、琥lの街は鮮やかに飾られていた。造花や提灯が揺れ、楽しげな顔をした人々が行きかう。
 だがこの集団には誰もが驚き、道を空けた。十名程の年頃の着飾った女性が真剣な表情で突き進んでいく。先導するのは一際小柄な美しい少女。他の女性と同じように手には大きめの袋を抱えていた。栗主益に恋人と逢瀬というには表情は険呑。むしろ雰囲気は出入りに近い。この日を共に過ごすことのできる相手を見つけられなかったらしい何人かの男たちがこの集団に声をかけたのだが、一斉に鋭い目つきで睨まれいずれも早々に退散した。
「あそこです! 晁家は!」
 このあたりの出身だという娘が指でしめした家はなるほど報告にあったようになかなか立派な家構えである。場所柄、門と建物の距離が近いが、門も建物の軒下なども賑やかに飾られている。いかにも栗主益を楽しんでいます、といった風情なのだが――。
「静かですわね」
 近隣の家も路上も賑やかな騒ぎに沸き立っているというのに、その家だけが静まり返っている。
「もし違っていたらどうするんですか?」
 今更ではあるが棗恵が問いかけると、香鈴は簡単なことと言い切った。
「その時は栗主益のお祝いを申し上げて無礼を詫びて引き上げるだけですわ。ただし、その場合は皆様とっておきの笑顔をお願いいたしますわね」
 しっかりと身体の前に袋を抱えて、香鈴は十一名の娘たちを見回した。
「それでは皆様、覚悟はよろしくて? 参りますわよ!」

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